2014年6月8日日曜日

使徒言行録2:1-13「この言葉を届けたい」

さがみ野教会は1976年から38年間、この座間の地で伝道して来ました。多くの人がここで神を信じ、洗礼を受けました。なぜ、人は神を信じるのでしょうか。自身の決断や決意がそこにはあったでしょう。しかし、それだけではなく、いやそれ以上に神がご自分の霊である聖霊によって人の心に信仰をくださるのです。
では、「聖霊」とは何でしょう。聖書の言語で「霊」という言葉は空気の流れ、風、息といった意味を持ちます。日本語の「霊」という語感が持つ人間の魂や幽霊、亡霊のようなイメージはそこにはありません。風が吹いて木の枝が揺れるように、何らかの作用をもたらす力を意味します。「聖霊」即ち神の霊は、私たちに働きかける神の力です。教会を生み出したのは神さまの働きかけです。私の心に信仰を生み出すのも神さまの働きかけです。
しかし、その神さまの働きかけは、神秘的に私と神とが交信するということではありません。私もわたし自身の入信への道を思い起こすと、懇ろに私の心に語りかけ、福音を届けてくれた多くの人を思い起こします。使徒言行録第2章を読むと、聖霊を頂いた使徒たちはその時エルサレムに来ていたいろいろな国の人々の言葉で語り合います。この「いろいろな国から来た人々」というのは外国人ではありません。外国に住むユダヤ人です。かつて彼らの先祖はイスラエルに住んでいましたが、彼ら自身は生まれも育ちも外国です。その人たちが耳にしたのです、使徒たちが自分たちの故郷の言葉で神の偉大な業を語っているのを。ユダヤ人の彼らが外国を故郷とするには様々な理由があったことでしょう。いわば、彼らはふるさとを喪失した人々です。現代社会を生きる私たちと似た悩みを持っているに違いないのです。だからこそ、遠い外国の自分の生まれ故郷から先祖の故郷であるエルサレムへ巡礼に来ていた。これは自分のアイデンティティを取り戻す旅です。その旅路を行く者たちが自分の故郷の言葉で福音が語れているのを耳にしました。心に通じる言葉で福音が届けられた。私も私のこれまでをふり返って思います。私に、同じようにして福音の言葉を届けてくれた人々を。そこには神の霊の働きがあったのです。そうとしか考えられません。
人と会話をし、一緒に時間を過ごしたときに言葉が通じ合わない悲しみを覚えることがあります。懸命に話しても意図したことと正反対のことが伝わってしまうこともあります。しかし、福音の言葉は言葉の壁を越える言葉です。ふるさとを失った私たちを一つにする言葉なのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...