2017年7月9日日曜日

マルコによる福音書第9章14から29節「信仰のないわたしを」

最近、キリスト者学生会総主事の大嶋重徳さんという方が『朝夕に祈る 主の祈り』という本を出版されました。「30日間のリトリート」という副題がついています。リトリートというのは静かなところに行き、静まって祈りのときを持つことです。主の祈りの小さなお話が、朝夕に一つずつで30日間分載せられています。一回に数分で読める量で、言葉遣いも優しく、内容もある良書です。先日この本を買って読み始めて、信仰のメンテナンスは祈ることだと、当然と言えば当然のことに気付きました。P.T.フォーサイスという人が『祈りのこころ』という名著を残しています。このようなことを書いています。私たちは自然から圧迫を受けます。自然というのは自然災害なども含まれるでしょうが、それだけではなく、例えば病気や老い、人間関係、思わぬハプニング、子育て、介護、その他何でも当てはまるでしょう。そういうものから私たちは圧迫を受ける。しかし、祈るときに知るのは、それらは単に自然が自分を苦しめているというのではなくて、祈りによる圧迫だということです。圧迫されて収縮してしまうときもあれば、伸びやかに拡張できるときもあります。しかし、収縮と拡張、そのどちらがよりよいときなのかは一概には言えません。圧迫がかえって必要なときもあるのです。祈る者は、圧迫による収縮と、そこからの拡張は、まるで心臓の鼓動のように私たちの人格を作り上げることを知ります。すべての生の圧迫は信仰の結晶をつくり出します。そこでは神は神の宝石を仕上げられます。ひとりの牧師の言葉に触れ、とても慰められました。祈ることで、初めて私たちは信仰者になり得るのです。今日の御言葉には、父親とその息子が登場します。息子は霊に取り憑かれて苦しんでいました。症状を見るとてんかん発作を思わされます。古代社会ではてんかんという病気がまだ解明されておらず、霊の仕業と表現していたのかもしれません。いずれにしても父は必死です。何とかして息子を助けたい。主イエスの弟子たちにはできなかった。父はイエスご自身に願います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」主はお答えになる。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」父親は叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」自分の不信仰を丸ごと明け渡すかのような叫びです。立派な信仰ではない。不信仰と言われてもしかたがない。いや、自分を見れば信仰があるなんて言えない。しかし、そんな自分を丸ごと明け渡したのです。主はその子をいやしてくださいました。それに対照をなすのが弟子たちです。後でひそかに主に尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」イエスは言われます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」弟子たちが祈っていないはずはない。しかし、その祈りは祈りになっていなかったと主は言われる。不信仰だったのです。祈りにおいてそれが分かった。しかし、そういう私であることを丸ごと主に明け渡し、お任せして良いのです。主がそんな私を負ってくださるからです。不信仰は私たちがそれにつきあうほどの価値がありません。主は祈りによらねばと言いましたが、ここで祈ったのは父親です。自分の有り様を見れば惨めですが、その惨めな私を主に委ねる者は、そんな私を神がすでに救ってくださっていることに気付きます。それこそ祈りです。   

コリントの信徒への手紙一2:6-9「世界が始まる前からの計画」

今日の聖書の御言葉を読んで、何人かの主イエスの弟子たちを思い出しました。まず、シモン・ペトロ。マタイによる福音書第 16 章に登場するエピソードです。主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた。ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」主...