2018年5月27日日曜日

ヨハネによる福音書第2章1から11節「栄光の杯」

今日は「信徒クロス礼拝」という新しい企画をしています。日本中会の中でも特に近隣の教会との新しい出来事が始まっています。私たちはそれぞれ、日曜日は各自の教会で礼拝を献げていますが、カンバーランド長老教会は、全体が一つの教会です。ですので、姉妹教会は、別の場所で礼拝していても一つの教会です。それがこうして具体的にお互いの顔を見ることのできる交わりにあずかることが許されているというのは、素晴らしい出来事です。教会の交わりは、場所を越えるだけではありません。私たちがこうして神さまを礼拝するとき、神さまの御もとへ既に帰って行かれた仲間たちと共に礼拝を献げています。先週は教会員の葬儀がありました。葬儀のときに家族によって彼女の人生が紹介されました。5歳の時に関東大震災に被災し、香港で終戦を迎え、数か月間収容所にいました。引き上げてきてから、故郷の東京に戻り、生きてこられました。たいへんな時代です。夫の方が長い信仰生活を送ってこられた。彼女もやがて洗礼を受け、キリスト者として生きた方です。私たちは、愛する者と、キリストにあって一つになることが許されています。主の食卓を囲むことで、パンと杯にあずかることで、私たちは一つです。主イエスはガリラヤのカナで最初のしるしを行って、その栄光を現された、それはぶどう酒を巡る出来事でした。ここで既に、聖餐の準備が始まっているということもできると思います。旧約聖書にこのような言葉があります。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。主はこの山で、死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ書25:6-8)」主イエスがガリラヤのカナで水をぶどう酒に変える奇跡をなさった、それは「しるし」だと言います。何のしるしか?神さまが、私たちを神の国での祝宴にあずからせる、というしるしです。聖餐卓を囲んで私たちがいま献げている礼拝は、この宴に連なっているから、私たちは時も場所も越えて神さまの前で一つです。でも、正直に言って私はこの話を読んで戸惑いを覚えます。主イエスの言葉に、です。もともと、イエスさまも列席していた結婚式での出来事でした。徒事の婚宴は一週間近くも続いたそうです。途中で、ぶどう酒がなくなってしまった。それで、イエスの母マリアがイエスさまに言います。「ぶどう酒がなくなりました。」それに対して、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えました。ちょっとビックリするような言葉です。あまりにも冷たいんじゃないだろうか…。考えてみると、これは私たちの祈りの経験そのものではないでしょうか。神さまを信じて祈っているのに、神さまは冷酷ではないか。どうして、今、祈りを聞いてくださらないのか。あるいは、その後イエスさまがなさったことも不可解です。大量の水を甕に満たすようにお命じになります。言われた方にしてみれば、意味不明だったにちがいない。時にしても方法にしても、主イエスは、私たちの想定とはぜんぜん違うことをなさることがある。戸惑うし、信じることに疲れてしまうことだってある。マリアは、自分のタイミングとも方法とも違うことを言う主イエスに従いました。イエスさまのなさることに開かれたこの在り方が、祈る者の姿なのだと気づきました。本当に大切なことは、神が今何をしておられるのか、そして私たちはそれに従うのか、と問われています。

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...