2019年1月15日火曜日

2019年1月15日(創世記27)

今日の通読箇所:マタイによる福音書12:1-21、創世記27、詩編19

創世記27;
今日の創世記の話は、読む者を戸惑わせます。双子の兄弟エサウとヤコブ。双子とは言っても、エサウは長子でヤコブは次男です。古代の世界のことですから、長男と次男では天と地ほどの差があります。しかし、かつてその長子の権利をエサウは弟ヤコブにだまし取られてしまいました。今回は、そればかりか、父による息子のための祝福の祈りをも、ヤコブはだまし取ってしまいました。長子の権利の時は、エサウは空腹のあまりにそれを軽んじたという落ち度があったようにも思いますが、今回はエサウには何の落ち度もありません。ヤコブと母リベカが共謀してだまし取ってしまったのです。エサウはかわいそうですし、ヤコブはずる賢くていやなやつです。
しかし、このヤコブの姿は、私たちそのものではないかと思います。そもそも、生まれながらのふさわしさは、どちらにあったのでしょう。家督を受け継ぎ、家名への責任を果たし、一族を養い、その責任も名誉も、何よりも神との契約も、兄エサウが受け継ぐはずでした。ところが、生まれながらのふさわしさもなく、性格も悪く、道徳的にも問題がある人間が、非倫理的な手段でかすめ取った祝福によって、神様の歴史が動いていくのです。これこそ、私たちの姿ではないでしょうか。私たちは、神様の前で、祝福して頂くのにふさわしい人間ではありません。神の約束の中で生かして頂ける理由があるわけでもありません。道徳的にも倫理的にも、問題を抱えています。しかし、そんな人間を神は祝福し、ご自分の約束にあずからせてくださいました。そのために、本当にふさわしい方を、十字架にかけてくださったのです。
私たちは、ヤコブです。ふさわしくない者です。そのふさわしくない者を選び、ご自分の者とし、祝福をくださったのは、神様です。この方が、私たちの信じる主イエス・キリストの父であるお方です。

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