2019年1月31日木曜日

2019年1月31日(創世記50)

今日の津毒箇所マタイによる福音書24、創世記50、詩編36

創世記50;
父ヤコブが息を引き取り、葬られました。ヨセフの兄弟たちは、父が亡くなった今、かつての悪にヨセフが復讐するのではないかと心配になります。それを知って、ヨセフは彼らに優しく語りかけました。「心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。ですからどうか心配しないでください。(29-21節)」
「私が神に代わることができましょうか。」ヨセフはそう言いました。私たちは、簡単に神に成り代わってしまいます。自分が正義だと信じているときには、特にそうです。そういうつもりがなくても、神に代わって人を裁き、懲らしめたくて仕方なくなります。
新約聖書にこのような言葉があります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となれるためです。それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。(ローマ14:9-10)
私たちが自ら裁判官になれないのは、キリストが死に、死んでくださったからです。ヨセフも言います。「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」神が働き、キリストをくださったから、私たちはも和解の福音に生きる奇跡が与えられています。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...