2019年1月13日日曜日

コリントの信徒への手紙一7:17-24「分に応じて生きる」

 昨日、結婚式に行きました。この教会の教会学校に通っていたSさんが、花嫁として、新しい歩みを始めました。Sさんのはじけるような、幸せそうな美しい笑顔が印象的な結婚式でした。私は、思います。あの笑顔は私たちの笑顔でもある、と。私たちはキリストの花嫁なのです。今、私たちが献げているこの礼拝は、主イエスさまとの結婚式です。
 「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。」私たちはキリストに買い取られて、キリストのものとなりました。その身代金は、もちろん、キリスト御自身です。キリストが私たちのために御自分を献げて、十字架にかけられて、私たちのために支払ってくださって、私たちを御自分のものにしてくださいました。だから、私たちはキリストの花嫁です。今朝の聖書の御言葉にもっと即して言うならば、キリストの奴隷です。キリストに仕える僕です。マリアは天使が来て、あなたは身ごもって男の子を産むと言われたとき、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。はしためは、女奴隷のことです。私たちは、マリアにもなれる。私たちとマリアは主の僕仲間、奴隷仲間です。
 この奴隷や自由な身分の者というのは、当時のコリント教会の状況を反映しています。ここには、奴隷もいましたし、自由な身分である彼らの主人もいました。その関係は教会の中にも持ち込まれていました。そのために、教会が不自由になっていたようです。パウロは、驚くようなことを言います。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。」そういうことは私たちにはとても気になります。自分の身分や職業、能力のこと。配偶者がどういう人か。自分を取り巻く環境。いろいろなことで自分を取り巻くものが気になり、そのせいで自分は…と不満が湧いてきます。でも、そのことを気にしてはいけない、と言うのです。
 大切なことは、他にある。今朝の箇所を読んでいくと、同じ言葉が何回も繰り返されていることに気づきます。「召す」です。主によって召された(呼ばれた)、と何度も言っています。私たちは主なる神様に呼ばれて今ここにいるのだ、と言うのです。それが一番大切なこと。私は昨日、呼んで頂いたので結婚式に伺えました。私たちは今朝、神様に呼んで頂いて、礼拝に来ています。それだけではありません。天地を造るその最初に「光あれ」と言って光を呼ばれた神が、この私のことも「あれ」と言って呼んでくださって、私は私の人生に招かれて、今生きています。だから、パウロは言います。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由な身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。」私たちには奴隷か自由人か、ユダヤ人かギリシア人か、男か女かなどと言ったことが絶対的な人生の境界線のように思い込んでしまいますが、大切なことは神に呼ばれていることです。神に招かれてこの人生を生きている。それが最も大切なことです。ですから、自分は何者なのかを知るために、私は私ではない者にならなくていい。自分を探す必要すらない。むしろ、私と出会ってくださる神に、この顔を向ければよい。そこに、私たちが真に自由なキリストの僕として生きる道があります。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...