2019年3月21日木曜日

2019年3月21日(民数記29〜30)

今日の通読箇所:マルコによる福音書4:1~20、民数記29~30、詩編94

民数記29~30;
第七の月に行う贖いのための聖なる集会を定めています。レビ記にも記述があります。例えば16:29以下です。30節では「この日には、あなたがたを清めるための贖いがなされる。主の前であなたがたの罪はすべて清められる」と書かれています。第七の月の聖なる集会は、人々の罪を清めるための礼拝を献げるのです。
今朝の御言葉では、とても丁寧にこの礼拝について定められています。実にたくさんの焼き尽くすいけにえが献げられます。若い雄牛、親木、一切の雄の小羊、油を混ぜた上質の小麦粉。しかも、一日だけそういう礼拝をするというのではなく、新月の日、十日目、一五日目からの一週間(この時期は仮庵祭とも呼ばれます。)と、長く祭りの期間が続きます。そのたびに、焼き尽くして神に献げる献げ物が、何度も何度も、繰り返し献げられるのです。しかも、「これらは、請願の献げ物、あるいは自発の献げ物として献げられる焼き尽くすいけにえ、穀物の供え物、注ぎの供え物、会食のいけにえとは別のものである(29:39)」と言われているとおり、罪の贖い、罪の清めのための特別な献げ物です。他の礼拝行為とは区別された、特別な目的を持つ礼拝です。その目的こそ、罪の清めなのです。
毎年毎年、半月以上を費やして献げる罪の清めのための礼拝を経験するたびに、神様の前での私たちの罪深い姿を再確認したのではないかと思います。私たちは、キリストがご自分を献げて完全に支払ってくださったから、もうこの聖なる集会を繰り返すことはありません。しかしそうだからこそ、主イエスがご自分を犠牲にしてくださったことの深い意味を、受け止めたいと心から思わされています

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...