2019年3月29日金曜日

2019年3月29日(申命記7〜8)

今日の通読箇所:マルコによる福音書8:1~21、申命記7~8、詩編105

申命記7~8;
「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった(8:2~3)」。
イスラエルの民が過ごした荒れ野での四十年。それは苦しみに満ちた旅でした。食べ物のこと、飲み水のことから始まって、神様をどうやって信じるのか、人間関係をどうしていけばいいのかといったことも。つまり、私たちの生きる旅路と同じ苦難があったのです。しかもその苦しみは、主なる神様から来たものだと言います。それならば「神様どうして」といいたくなります。しかしそこで気づくのは、神様はこの荒れ野の旅で私たちを生かすために、絶えずマナをくださっていた、ということです。私たちの苦しみが神様の御手の中にあるなら、私たちを生かす神の憐れみもまた神の手の中にあるのです
このマナというパンは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるため」のものだと言います。私たちが頂く毎日のパンは、神が下さったものです。私たちにパンを与えて生かして下さる方は、私たちがパンを食べるように神様の御言葉を食べるように、と御言葉を聞かせてくださいます。私たちにとってパンが毎日かけがえのないものであるのと同じように、私たちの命をつなぎ止めるために、御言葉のパンが欠かせないのです。
私たちを生かしてくださる神様のみ恵みは、そのようにして、私たちの衣食住に代表される毎日の生活の中に見えてきます。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...