2019年4月21日日曜日

コリントの信徒への手紙一12:1-3、マタイによる福音書27:62-28:15「イエスは主!」


 先日、ある牧師の説教集を出版することになり、説教の録音から文字起こしをするお手伝いをしました。その説教は、説教した牧師の奥様が亡くなって二ヶ月の時にしたものですが、説教題が「死に勝利して、我らは生きる!」というものでした。キリスト教会の葬儀では、死の姿を正しく見ることができる、それは神の力に負けてトボトボと立ち去っていく姿だ。ある米国の神学者が、教会は今や死に負けたかのように黒く塗ったかのような暗い場所で葬式をしているがそれは間違いだと指摘していた。古代社会でも葬式は夜の営みだった。死への敗北を確かめるような時だった。しかし、初代の教会は昼日中に白い衣を着て葬式をした。「ハレルヤ、ホサナ」と賛歌を歌いながら。私も妻の葬式に白いネクタイを着けようかとも思ったが、あまり躓きを与えるのもよくないので遠慮した。しかし、その方がよかったのではないかと今も考えている。そのような趣旨の話をしておられました。
 ヘンデルのメサイアの中の「ハレルヤ」という歌は、主イエスの十字架の場面を歌う最後の曲、そして復活の直前に歌われます。イエス・キリストのゆえに、「ハレルヤ」はキリスト者の死と葬式にふさわしい歌になっているのです。ですから、私の葬式の時にはぜひ讃美歌327「すべての民よ、よろこべ」や328「ハレルヤ、ハレルヤ」を歌ってください。
 カルヴァンが書いたカテキズムに、イエスの十字架という死に方は、神の呪いだとはっきり書かれています。私たち罪人が受けるべき神の呪いです。しかし主はその力によって呪いを絶滅し、祝福に代えてくださった。私たちを祝福するために。私たちの死は、罪のゆえに呪いです。しかし、イエスは呪いに打ち勝たれた。私たちはそれでもなお死ぬのですから、聖書が言う救いなど絵空事のように見えてしまうかもしれない。しかし、神を信じる者の死は、よりよき命へ導くための通路なのです。私たちはやがて死に、眠りにつきます。しかし、やがて必ずキリストが私たちの手を取って起こしてくださいます。その時私たちはキリストのみ姿を拝し、目覚める朝を迎えるのです。
 マタイによる福音書を見ると、イエスの復活のしらせはもう一つ別の知らせにかき消されそうになっています。復活などと言う者は単なる噂にすぎない、嘘っぱちだ、という知らせです。この話の出所は祭司長であり、番兵です。多額の金も動いています。対するイエス復活のしらせは、数名の名もなき婦人だけです。当時の社会では女性には証言能力が認められていませんでした。いかにも心許ない。しかし、イエス復活のしらせを、この世は押しとどめることができませんでした。「石は墓の入り口から転ばし除けられた。言葉は流れ出る。イエスは生きていたもう(カール・バルト)。」そして、私たちのところにまで、この知らせは届けられたのです。
 コリントの信徒への手紙を見ると、「イエスは神から見捨てられよ」という言葉があります。パウロはかつての自分の言葉と思いながらこう記したのでしょう。彼はイエスを呪い、イエスもイエスを信じる者も神から捨てられるようにと全力で迫害しました。それが今や「イエスは主である」と信じ告白しているのはなぜか?復活したイエスが彼のところにも来てくださったからです。そして、彼は生きた。命を得させるために、キリストはあなたにも出会おうとしておられます。死に勝利して、我らは生きるのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...