2019年7月30日火曜日

2019年7月30日(歴代誌下7〜8)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙5、歴代誌下7~8、箴言25

歴代誌下7~8;
「ソロモンが祈り終えたとき、火が天から降って、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちた。祭司たちは神殿に入ることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである(7:1~2)」。
神殿に仕えて働くべき存在である祭司たちでさえ、主の神殿に入ることができませんでした。主の栄光が神殿に満ちたからです。それは、祭司でさえもそこに入ることを躊躇するような、人間としての畏れを呼び起こす出来事であったのだと思います。
礼拝は、聖なる空間を作ります。荘厳な礼拝堂は聖なる空間だ、ということではありません。例えどのような場所であっても、そこで献げられている礼拝という行為が聖なる空間を作るのです。もちろん、礼拝のプログラムに沿った何事をすれば聖なる空間を自分たちで作り出してやれる、ということではもちろんありません。礼拝において神がご自身を顕してくださるならば、神の栄光が礼拝で示されるならば、神が共にいてくださるという事実のゆえに、そこは聖なる空間になるのです。
神様がご自身を顕してくださるとは何を意味しているのか?新約の時代を生きる私たちの信仰からすれば、それは、私たちが主イエス・キリストのことを知り、このお方を愛する、ということであろうと思います。私たちが礼拝で十字架のキリストと出会い、このお方の愛の言葉を聞き、キリストの復活の喜びに触れるならば、それはなんと神の栄光に満ちた出来事なのでしょうか。キリストが私たちと出会っていてくださる礼拝において、神は私たちにご自身を示しておられ、その栄光によって私たちを包み込んでいてくださいます。

2024年4月19日の聖句

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