2019年10月28日月曜日

2019年10月28日(哀歌1〜2)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書7:1~31、哀歌1~2

哀歌1~2;
哀歌、哀しみの歌と呼ばれる五つの歌がここに残されています。どれも、エルサレムの陥落とイスラエルとユダの滅亡を嘆く言葉です。作者は分かりませんが、一説には預言者エレミヤとも言われます。聖書を読んでエレミヤの歩みを共にしてきた私たちには、分かるような気もするのではないでしょうか。この深い嘆きの言葉、哀しみの言葉は、エレミヤでないにしても、神の前に生きようと願う者の嘆きであろうと思います。それだけに、哀歌が伝える哀しみは、深く厳しいものです。しかし同時に、このように嘆きの言葉が与えられるということも、賜物であると思います。私たちの哀しみの日に、この哀歌に自分の思いを託して、この言葉を持って祈るということは、意味が深いと信じます。
「そのために、私は泣き、私の目から、この目から涙が溢れ出る。私を慰め、魂を生き返らせてくださる方が、私から遠ざかったからだ。敵はあまりに強く、私の子らは見捨てられている」(1:16)。廃墟になったエルサレムを見つめながら、あるいは捕囚の地に連行される旅路でか、それともエジプトへ下る人々の中でか、かつての礼拝の場所を思いつつ涙を流します。神が遠いからです。神の声が聞こえず、祈りが空しく響くからです。
「御覧ください、主よ。私は本当に苦しいのです。私のはらわたは痛み、心は私の内で動転しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中を死が支配しています」(20節)。哀歌は、嘆きを神に差し出します。どうにもならない嘆き、呻きを神に突きつけます。それでも、慰めが簡単に見えるわけではありません。しかし、他にこの哀しみを持っていくアテが他にないのです。
「わが目は涙が尽き、わがはらわたは痛み、娘であるわが民の破滅のゆえに、わが肝臓は地に注がれる。幼子や乳飲み子は町の広場で弱り果てている」(2:11)。もはや涙も出ない哀しみの中、自分も、周りの人々も、弱り果てています。この悲惨から、一体誰が救ってくれるのか。この信仰者は、哀しみのすべてを神にぶつけています。

2024年4月20日の聖句

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