2020年4月19日日曜日

2020年4月19日(コリントの信徒への手紙一15:29〜58)

コリントの信徒への手紙一15:29~58
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、癒やしもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」私たちの肉体は弱いものです。こういうときには特にそのことを痛感します。しかし、聖書はそんな私たちの弱い体を軽んじていません。聖書が私たちに示す救いは、体の復活です。体から離れた霊魂が救いを得るというのではありません。弱くてもろい、この肉体が救われるのです。
この体が一体どういうふうに救われるのか。種が蒔かれて朽ち、やがて実を結ぶように、私たちの肉の体が蒔かれ、やがて霊の体に復活すると言います。具体的にどういうことなのかはよく分かりません。しかし大切なことは、霊の体と言っていることです。体が救われる、と言っています。
私たちの体は弱い。しかし、この体が蒔かれるのだ、と聖書は言います。小石のような見た目のつまらない種粒だと思ったとしても、種を蒔かなければ花を見ることもできないし、実りを収穫することもできません。この体には意味があります。それどころか、「この体」は尊い。他ならぬ神様が尊く造ってくださったからです。
聖書には生まれ変わりの思想はありません。何年も前に、あなたの前世は中世のどこぞの騎士だとか言ってのける人がテレビで重宝がられてよく出ていたことがありました。私たちはそういう考え方は一切とりません。もしも、私の前世なるものが、別の誰かだとします。更にその前世は別の誰か、ことによっては人間ではない虫か何かかも知れません。そのまた前世は・・・といったときに、一体何をもって「私」と言いうるのでしょうか。魂でしょうか?しかしその魂は特に私である必要はなく、中世の厩の世話人であっても、蚤か駝鳥か何かであっても構いません。生まれ変わりの思想からは「私」が消えます。その代わり、不滅の魂がそこにあり、それがこの世界のあらゆるものとつながることになる。しかし聖書によればは、神様は「この私」の名前を呼んでくださり、私を私として御覧になります。たった一人の、換えの効かないわたしとして。この肉体を持つわたしを。しかしこの私は、肉体も霊魂ももろくて崩れやすく、永遠な存在ではありません。しかしそのような体を持つ私を覚え、陰府にまで降って私を探し、救ってくださる方がおられると聖書は言います。この方の前で、私は私になります。
今日、神様は、「あなた」を呼んでおられます。私たちの名前を呼び、滅びゆくこの体を尊い種とし、神様の前で霊の体に救ってくださる方がおられるのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...