2021年4月5日月曜日

2021年4月5日(詩編99)

詩編99
主は王となられた。
もろもろの民は震えよ。
主はケルビムの上に座しておられる。
地は揺れよ。
主はシオンにおられる偉大な方。
主はすべての民の上に高くおられる。
彼らが偉大な畏るべきあなたの名を
  ほめたたえるように。
主は聖なる方。(1~3節)

主は王となられた!そのように宣言し、そして訴えます。「もろもろの民は震えよ」と。主は偉大な方、王、聖なる方。このお方を前に、民は震えよと言います。神さまの「聖」についてのこの感覚を、私たちは失ってはならないのだと思います。
主イエスが甦られたとき、墓でそれを知らされた女の弟子たちについて、マルコはこのように伝えています。「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これが、キリストの復活という神の御業に直面した人間の反応です。これ以外に一体何と応えられるのでしょうか?
神さまの御業に直面したとき、神さまの臨在を知ったとき、私たちは人間として震え上がるしかない。この方が聖なる方だからです。私たちだけではない。大地さえも揺れます。天も地も、私たちの力の範囲の外にある大きなものですが、自然世界がどんなに大きくても、それをお造りになった神さまの御手はなおのこと大きく、偉大です。地も神の前には揺れる。
「主はケルビムの上に座しておられる」と言っています。このケルビムの上というのは、十戒が納められた契約の箱の蓋の上のことです。贖いの座と言われることもある。神殿の一番奥の至聖所、年にたった一回だけ大祭司が入って礼拝をする場所。そこに神の座があると信じられてきました。もちろん、きらびやかな祭壇であれば神を納めることができるということではなく、神がその聖なるお名前をここに留めてくださるということを畏れをもって信じていた。つまり、この「主はケルビムの上に座しておられる」という言葉は、神さまの御前での礼拝を思わせる言葉です。
私たちは神さまの御前に震えます。神を畏れる。そして、私たちは神を礼拝します。神を礼拝するとき、私たちは神の御前にいる。そのことを畏れをもって信じ、御前にひれ伏して神を賛美し、礼拝の民として生きるのです。

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