2021年7月31日土曜日

2021年7月31日(コヘレトの言葉5:7〜19)

コヘレトの言葉5:7~19
銀を愛する者は銀に満足することがなく
財産を愛する者は利益に満足しない。
これもまた空である。(9節)
たらふく食べても、少ししか食べなくても
  働く者の眠りは快い。
富める者は食べ飽きていようとも
  安らかに眠れない。(11節)
見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。(17節)

コヘレトは太陽の下にあるこの世界にはびこる数々の不幸を見つめてきました。権力者と金持ちが横暴に振る舞ったり、本人は優秀でも後継者に恵まれなかったり、虐げられる者がいわれのない苦しみを受けていたりする。世界の現実を見つめ、コヘレトは嘆きます。「銀を愛する者は銀に満足することが泣く」というのも、そういうこの世界の不幸の一つです。お金自体が目的になってしまうと、どんなに金持ちになっても絶対に満足できない。それは真理です。しかし、その真理に気付いている人はあまりいません。
却って、しっかりと働いて毎日の労苦を担い、夜には疲れた体を休め、心地よく食べたり飲んだりして心や体をリラックスさせる。そういう毎日の繰り返しを神さまは私たちのために備えてくださったのではないか、とコヘレトは言います。そして、それを一人で味わうのではなく、仲間と共に分け合うということではないでしょうか。「一人よりも二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある(4:9)」。
教会は、家族です。肉の家族を越えた、それ以上の家族です。ここには共に生きる兄弟がおり、姉妹がいます。私たちは主イエス・キリストにあって一つの家族です。銀を求めるよりも、働く必要もないほどの金持ちになるよりももっと大切でもっと幸せなことは、共に生きる仲間を持つことです。キリストが私たちを呼び集めてくださったのです。そして、この方が私たちに言われます。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである(ルカ6:20)」。キリストの言葉を聞き、キリストが招く幸いを分かち合う私たちは、一つです。

2021年7月30日金曜日

2021年7月30日(コヘレトの言葉4:13~5:6)

コヘレトの言葉4:13~5:6
神の前に言葉を注ぎ出そうと
焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。
神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。
言葉を控えよ。
仕事が増えれば夢を見
言葉が増せば愚かな者の声になる。(5:1~2)

今日の箇所は内容が前半と後半に分けています。前半は4:13~16で、ここでは統治者に対する言葉。後半は4:17~5:6で、こちらは神殿礼拝に対する言葉です。
前半の言葉はかなりラディカルな社会批判です。「貧しくても知恵ある少年のほうが、もはや忠告を聞き入れない老いた愚かな王よりまさる。」かなり痛烈な王に対する批判です。例としては少し卑近すぎるかも知れませんが、私たちの国で言えば二世・三世の代議士が当然のように偉くなって権力の座に居座ることよりも、どこの馬の骨かも分からない貧しい人の方が良い、ということでしょうか。貧しい馬の骨はいくら知恵があっても、結局大衆は変化を好まないので、ほとんど門戸が開くことはありません。私たちには「老いた愚かな王」を好むところがあります。その結果が昨日も読んだ4:1の「太陽の下で行われるあらゆる虐げ」なのかもしれません。権力は必ず腐敗するからです。
後半は神殿での祈りに注目します。神の前で焦って口を開き心をせかして軽率な言葉を重ねるな、と忠告します。「神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。言葉を控えよ。」この警告は、祈りのこころの大切な事柄を私たちに教えます。神の御前で畏れ、取り繕ったり言葉数を多くしたりするのではなく、へりくだって真実な心をお献げすることを私たちに教えます。さらに6節には
「夢が多ければ、ますます空しくなり
言葉も多くなる」
と書かれています。これも印象的です。自分の願望や要求を神さまに押しつける祈りに終始してはいないかと問われているのではないでしょうか。「神を畏れよ」とここでも繰り返していることを心に留めたいと思います。
この世の統治権力のことを考えるときにも、祈りを考えるときにも、主を畏れ、神さまの前に真実に生き、また祈るための道を求めていきたいと願います。

2021年7月29日木曜日

2021年7月29日(コヘレトの言葉4:1~12)

コヘレトの言葉4:1~12
私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。
見よ、虐げられる者の涙を。
  彼らには慰める者がいなかった。
また、彼らを虐げる者の手には力があった。
  彼らには慰める者がいなかった。(1節)

コヘレトはこの社会の中で、力が無く、弱く、虐げられている人々の現実に目を向けます。虐げられる者たちは涙を流し、彼らを虐げる者たちの手には力がある。虐げられる者たちを慰める人は誰もいない。コヘレトの時代であっても我々の時代であっても、同じことが起こっていると言わねばならないのではないでしょうか。そして、コヘレトはこのような悪が横行していることを見つめ、この悪を見ないで済むもう死んだ人々、そしてまだ生まれていない人たちは幸いだ、とまで言います。本当に激しく、厳しい絶望です。
とは言っても、その虐げは特別に悪い意図の下に行われているわけではないと思います。4節ではこのように言います。「また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。」あらゆる労苦とあらゆる秀でた業は、普通であれば手放しにたたえられるべきです。労苦して働き、磨き上げて熟練した秀でた業はすばらしい「職人芸」です。ところが、そのような労苦や秀でた業の背後には「仲間に対する妬み」があるとコヘレトは指摘します。なんと悲観的な見方なのかとさえ思います。しかしコヘレトの言うとおり、一見良いことも実は良くない意図の下に行われているというのが、私たち人間の現実なのかも知れません。
8節では孤独な男の話をします。彼の労苦に果ては無く、富にも満足できない。そこで、コヘレトは仲間と共に生きることの幸いに目を向けさせます。「一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。たとえ一人が倒れても、もう一人がその友を起こしてくれる。」私たちの世界には不正がはびこり、弱い者が虐げられ、仕事の労苦もその動機付けまで遡れば妬みに満ちている。そういう社会のつらい現実を一人で孤独に生きることには私たちは耐えられない。コヘレトはそう言います。一人ではなく二人で生きよう。仲間と共に生きよう。倒れたときに起こしてくれる友と共に生きよう。コヘレトはそう呼びかけます。これは真理です。キリストは私たちにとってのまことに憐れみ深いサマリア人になってくださったのです。この虐げに満ちた世界だからこそ、共に生きる祝福に、私たちは招かれています。

2021年7月28日水曜日

2021年7月28日(コヘレトの言葉3:18~22)

コヘレトの言葉3:18~22
人の子らの運命と動物の運命は同じであり、これが死ねば、あれも死ぬ。両者にあるのは同じ息である。人が動物にまさるところはない。すべては空である。すべては同じ場所に行く。
すべては塵からなり
すべては塵に帰る。(19~20節)

動物も人間も、死ぬことにおいては何ら変わるところがない、同じ運命をたどるのだ、と言います。死を前にして人間が動物に誇ってみせることなどできやしない、同じように死ぬではないかと言います。「人が動物にまさるところはない。すべては空である。」空、すなわちつかの間ということです。人間の命も動物と同じようにつかの間のものでしかない。やがて同じように土の塵として土に帰っていくのです。その点において動物も人間も変わるところはない。
そういうつかの間の存在でしかない私たちは一体どうやって生きていくのか?コヘレトはこのように言います。
「私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。
彼の後に起こることを
  一体誰が彼に見せることができようか」(22節)。
自分の業を楽しむことがつかの間の存在である私たち人間の幸せだ、と言います。神に与えられた分を楽しめ、と言うのです。これから何が起こるか分からない、自分の命が明日どうなるかも分からない。だから、今日という日を神に与えられた日として楽しみ、喜ぶがよいとコヘレトは私たちに訴えかけてくるのです。
新約聖書を読むと、私たちの死を越える望みは復活だと言います。十字架にかけられたキリストが復活したように私たちもやがて復活する。新約聖書はそのことを私たちの希望として示します。ところがコヘレトはまだそのことを知らないので、復活の信仰に従って語ることをしないのです。私はこのコヘレトの視点も大事だと思います。復活信仰を変に誤解してしまうと今の人生の価値を軽く考えてしまうことにもなりかねません。復活は究極的な救いの信仰ですが、究極の一歩手前にも大事なことがあります。私たちが今ここで神さまに与えられている今日という一日の課題に取り組むことも、復活の信仰に生きることと同じように大切です。コヘレトはその大切さと、またその幸いを知っているのです。

2021年7月27日火曜日

2021年7月27日(コヘレトの言葉3:12~17)

コヘレトの言葉3:12~17
太陽の下、さらに私は見た。
裁きの場には不正があり、義の場には悪がある。
私は心の中で言った。
「神は正しき者も悪しき者も裁かれる。
天の下では、すべての出来事に
  すべての業に時がある。」

コヘレトが見つめていた世界の現実は「裁きの場には不正があり、義の場には悪がある」という言葉で端的に言い表されています。公正であるはずの裁きの場に不正が入り込んでいる。正義が行われるはずの場所で悪が幅をきかせている。私たちも知っている現実、とても厳しい現実です。
私たちには、多かれ少なかれ、この世界は公正であり、最後には真実が果たされるはずだという信念があります。そういう信念を共有していなければ、社会は無秩序になってしまいます。努力が報われると信じられなければ、努力することもできなくなってしまいます。もちろん不条理なことや無秩序なことが起きることもあるけれど、それでも根本的には公正が是とされる世界であるはずだという理想を、多くの人間が共有しているのではないでしょうか。
コヘレトは公正が曲げられている社会の現実を見据えています。そのことは昨日読んだ1から8節の言葉の背後に戦争を思わせる言葉が多かったことからも窺わされます。社会の秩序が崩壊する時代を知っていたのかも知れません。そういう現実を前にして、コヘレトはどう考えたのか?コヘレトは言います。「神は正しき者も悪しき者も裁かれる。」ただし、その裁きは分かりにくい。私たちの目に映る現実は、不正や悪がまかり通る現実ばかりで神の裁きは隠されている。それは神が定める「時」が私たちに隠されているのと同じです。神は確かに正しき者も悪しき者も裁かれる。しかしその裁きは私たちの目には隠されていて見えない。
それでは私たちが絶望せずに生きるにはどうしたら良いのか?コヘレトは言います。
「一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に
  人の子らに幸せはない。
また、すべての人は食べ、飲み
あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
これこそが神の賜物である。」
神に与えられた日として今日を楽しみ、喜んで食べたり飲んだりする日常の営みをする。これは人生を諦めて一瞬の楽しみに生きるということではありません。毎日の小さな営みや生きることそのものを肯定する言葉です。この世界がどんなに不条理でも、今日一日の幸せを楽しむことには意味がある。なぜなら神が今日という日を与えてくださったのだから。それは「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」という祈りとともに「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださった主イエスの確信でもあるのです。

2021年7月26日月曜日

2021年7月26日(コヘレトの言葉3:1~11)

コヘレトの言葉3:1~11
私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は始めから終わりまで見極めることはできない。(10~11節)

コヘレトの言葉の中でもいちばん有名な箇所かも知れません。天の下で起こるすべてのことに時期があり、すべての出来事には時があると言います。最初に言及されるのは最も根本的な時、すなわち生まれる時と死ぬ時です。さらに、植える時と抜く時と続きます。植えるというのは畑に植える農作業でしょうが、そうだとしたら対になるのは収穫の時であるはずですが、ここでは「抜くに時がある」と言われています。恐らくこの「抜く」というのは収穫のことではなく、戦争によって畑が踏みにじられ、荒廃してしまう時のことであろうと思います。次の殺す時と癒やす時や壊す時と建てる時も恐らく戦争のことを言っているのでしょう。
泣く時と笑う時、嘆く時と踊る時は日常生活の中での喜びや悲しみを感じさせます。
次の石を投げる時と石を集める時というのは不思議な表現ですが、当時は投石で戦っていたことを考えると、やはりこれも戦争が前提になっていると思われます。抱く時は、父が子どもを抱くときでしょうか。そうするとほどく時は父とこの別れを思わせ、戦争に行った父が生きて変えることができないということを考えていると見ることができます。
求める時、失う時、保つ時、失う時は、これまでの1~2章を彷彿とさせます。何を求めても空であり、つかの間に過ぎず満たされないというコヘレトの基本的なスタンスです。
愛する時と憎む時は、私たちの人間関係の基本的な関わり方です。しかしここまでもずっと戦争を前提にしたような言葉が多かったことを考えると、次の戦いの時、平和の時と合わせて考えるべきかも知れません。私たちは不条理な出来事によって翻弄されます。
ここまでさまざまな私たちの生きる時について語られてきました。これらの時はすべて神さまの手の中にあるというのが、コヘレトの人生観です。なぜなら、私たちの苦労はすべて神から与えられたものだからです。私たちは時に対して無知であり、いつ何が起こるか分からないし、それを支配することもできません。しかし「神はすべてを時に適って麗しく造り」ました。人はそれを思うことはできても、極めることはできません。神は「永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから見極めることはできない」。そこで、私たちは神の御業の時に適った麗しさに信頼し、時については神さまの手に委ねます。神の御業の麗しさが私をも麗しい者にしてくださると信じるからです。

2021年7月25日日曜日

2021年7月25日(コヘレトの言葉2:22〜26)

コヘレトの言葉2:22~26
食べて飲み、労苦の内に幸せを見いだす。
これ以外に人の幸せはない。
それもまた、神の手から与えられるものと分かった。(24節)

ここまでコヘレトは、最高の知恵を持ち、誰よりも豊かさを享受した人間として、しかしその楽しみや喜びも空、つかの間のことに過ぎないと言っていました。さらに、将来の世代への不信を語りながら、結局知者も愚者も同じように死に、忘れ去られる、これもまた空、つかの間のことに過ぎないと言っていました。
今日のところではこのように言います。「太陽の下でなされるすべての労苦と心労が、その人にとって何になるというのか。彼の一生は痛み、その務めは悩みである。夜も心は安まることがない。これもまた空である。」
このような言葉を読むと、結局は厭世的で生きる気力が失われた言葉にしか聞こえなくなってしまいます。ところが今日のところではここまで読んできたコヘレトの言葉からしたら少し意外な言葉が登場します。

「食べて飲み、労苦の内に幸せを見いだす。
これ以外に人の幸せはない。
それもまた、神の手から与えられるものと分かった。」

コヘレトは私たちの人生がつかの間のことに過ぎず、豊かさも名誉もやがて無くなってしまものに過ぎないとよく知っていました。そういうつかの間の命を生きる私たちの幸せは、食べて飲むことだと言うのです。それは単に刹那的に楽しむというのではなく「神の手から与えられるもの」として、今日この日を感謝して頂くというあり方だと言うのです。
主イエスは私たちに烏を見せておっしゃいます。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。まして、あなたがたは、烏よりもどれほど優れた者であることか。」「だから、何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな。」「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。」(ルカ12:22~34)
自分の知恵の限界、富の儚さ、命の限りを知り、神がこのように小さな私を気に掛けていてくださることを知る人は、幸いです。キリストにあって、私たちはこの小さな命を肯定し、心から喜ぶことができるのです。

2021年7月24日土曜日

2021年7月24日(コヘレトの言葉2:12~21)

コヘレトの言葉2:12~21
知恵ある者も愚かな者と同様に
とこしえに思い起こさせることはない。
やがて来る日にはすべてのことが忘れ去られる。
知恵ある者も愚かな者も等しく死ぬとは
  何ということか。
私は人生をいとう。太陽の下で行われる業は私にとって実につらい。すべては空であり、風を追うようなことだ。(16~17節)

ソロモンの息子はレハブアムといいますが、これが大変愚かな王でした。レハブアムの愚かな振る舞いによってすぐに人々の心は離れ、王国は南北に分裂してしまいます。もう二度と、一つにまとまることはありませんでした。ダビデ・ソロモンというイスラエル史上の最高の時代のすぐ後、急転直下のようなかたちで悲惨な時代が続くことになります。
コヘレトは言います。
「王を継ぐ人が
すでになされたことを繰り返すだけなら
  何になろうか」(12節)。
「私は、太陽の下でなされるあらゆる労苦をいとう。それは私の後を継ぐ者に引き渡されるだけだ。そのものが知恵ある者か愚かな者か、誰が知ろう。太陽の下で私が知恵を尽くして労したすべての労苦をその者が支配する。これもまた空である」(18~19節)。
例えソロモンがどんなに優れた知恵を持っていたとしても、彼の後継者が愚かでは結局その労苦は無駄になってしまう。空しいこと、つかの間のことに過ぎない。しかも、結局は知恵ある者も愚かな者も同じように死ぬのであり、後生思い起こされることもない。「知恵ある者も愚かな者も等しく死ぬとは何ということか」(16節)。
コヘレトは人間の限界に対してとても正直です。私たちは死ぬ存在であり、自分ですべてを完成させることはできない。死んだ後のことは何一つ手出しできません。そういう生きることの現実に疲れたとき、それでもなお生きることをどうやって肯定するのか?コヘレトの言葉になお耳を傾け続けたいと思います。

2021年7月23日金曜日

2021年7月23日(コヘレトの言葉2:1〜11)

コヘレトの言葉2:1~11
目が求めるあらゆるものを
  私は手中に収めた。
私はすべての喜びを享受し
心はすべての労苦を喜んだ。
これがすべての労苦から得た私の受ける分であった。
だが、私は顧みた
  すべての手の業と労苦を。
見よ、すべては空であり
風を追うようなことであった。
太陽の下に益となるものはない。(10~11節)

ソロモンは最高の知者であるだけではなくイスラエル史上最高の富者です。ソロモンの時代にイスラエルの領土は最大になり、当時ソロモンのところへ年間約23,000㎏の金が入ってきたそうです。想像もつかないような富者です。そのソロモンの、富者としての言葉です。
「私は心の中で言った。
『さあ、喜びでお前を試そう。
幸せを味わうがよい。』
しかし、これもまた空であった」(1節)。
富の喜びで心を満たそうとしても、結局は空のことであり、つかの間のことに過ぎないと言います。ぶどう酒や美食、贅沢な庭園や果樹園、たくさんの奴隷や家畜、富、文化的な楽しみや性の悦楽、どれをとっても他の誰よりも偉大であり、それでいて贅沢に溺れて知恵を捨てるというのではなく「知恵もまた私に留まった」と言っています。さらに10節ではこのような贅沢は「私の受ける分」と言いますが、これは神さまに与えられたものという意味の言葉ですから、この富を神さまから与えられたものとして受け取っていたということが分かります。しかし「すべては空であり、風を追うようなことであった」のです。
私たちは庶民ですし、ソロモンが知っていたような究極的な贅沢は知りません。しかし少し視野を広くすれば、だんだんと相対的に貧富の差が拡大しているとはいえ日本はなお豊かな国ですし、私たちはかなりの贅沢を享受し、さらに豊かになることを求める社会に生きています。私たちにはこの贅沢を極めた知者が「これもまた空」と言っている言葉に、謙遜に聞くべき時が来ているのです。

2021年7月22日木曜日

2021年7月22日(コヘレトの言葉1:12~18)

コヘレトの言葉1:12~18
知恵が深まれば、悩みも深まり
知識が増せば、痛みも増す。(18節)

1節でコヘレトは「ダビデの子」と言っていますし、12節では「私コヘレトは、エルサレムでイスラエルの王であった」とされています。どちらもダビデ王の息子であるソロモン王をほのめかす言い方になっています。確かにソロモンは知恵ある王として名を残しています。ソロモンが王として即位した夜、彼は神に神の民を治め、善と悪をわきまえることができるように「聞き分ける心」を与えてください、と祈ります(列下3:8)。また異邦の国シェバの女王はソロモンの名声を聞き、知恵比べを挑みます(列下10:1)。ソロモンの知恵は名高く、知恵は伝統的にソロモンに帰せられています。
ただ、コヘレトの言葉の作者がソロモンなのかどうかははっきりしません。「子」という言葉には子孫という意味もありますし、コヘレトの言葉の持つ言語的・思想的特徴がソロモンの時代とはかなり異なっているからです。しかしそれでもやはりこの書はソロモンに知恵を帰しているし、ソロモンのすばらしい知恵や王としての繁栄を考えながらコヘレトの言葉を読むことはとても重要であると思います。
「天の下で起こるあらゆることを、知恵によって探求しようと心を尽くした」と言います。ところがそれは「神が、人の子らに与えて労苦させるつらい務めであった」と言うのです。さらに、太陽の下、つまりこの現世で行われるあらゆる業を見たが「すべては空であり、風を追うようなことであった」とも言います。そして「私は、かつてエルサレムにいた誰よりも偉大になり、多くの知恵を得た」が、「知恵を一心に知ろうとし、また無知と愚かさを知ろうとしたが、これもまた風を追うようなことだと悟った」と言います。結論としては「知恵が深まれば、悩みも深まり、知識が増せば、痛みも増す」です。
「風を追う」という言葉が二度繰り返されています。この「追う」という言葉は「羊を飼う」という意味でも使います。羊を飼い、世話をし、養う。羊飼いは王の務めを象徴的に表す言葉でもあります。しかし知恵や愚かさを追求しても、羊ではなく風を追うようなものであって、完成することも満たされることもなかった。それは神さまに属することであった。それがコヘレトの言葉の基本的なスタンスです。コヘレトは人間の知恵の限界を知っています。それは私たちが今日忘れてしまっていることなのかも知れません。

2021年7月21日水曜日

2021年7月21日(コヘレトの言葉1:1~11)

コヘレトの言葉1:1~11
コヘレトは言う。
空の空
空の空、一切は空である。(2節)

コヘレトの言葉は旧約聖書の中でもある独特の響きを持っているように感じさせます。特に冒頭の「空の空、一切は空である」という言葉が、その印象を強くしているのではないでしょうか。
「空」と翻訳されているこの言葉はヘベルという単語です。霞とか空しさを表し、偶像の神々を空しいものと表現するときにも使われることがあります。他にも学者たちは無益、空虚、儚さ、無意味、無、不条理、皮肉、神秘、謎など、いろいろな訳語を当てているようです。東洋的な哲学、謂わば色即是空とか無常とか、そういう印象を与えます。あるいはこの「ヘベル」には、他にも、時間的な短さを表す場合もあります。「すべてはつかの間のこと、僅かの間のことに過ぎない。人間の営みは短い間のことに過ぎない。」そういったことを訴えているということでもあろうと思います。
そのように考えて3節以下を読んでみると、話がつながると思います。太陽の下、つまり現世、私たちが生きているこの世界での営みは、永遠の意味を持つ益を生み出すことはできない。一代、また一代と続く営みはその世代のことであって、大地の営みと比べたときに小さなものに過ぎない。5から7節も自然世界の動きについて語っていますが、世界の営みは私たちのスケールを越えて流転し、巡り巡る大きな営みです。それに対して、8節では、人は小さく、疲れ、語り尽くすことも目ですべてを見ることも、耳で聞き尽くして満足することもできない、と言います。私たちにも、自然世界そのものにも、この世界の営みを完成させることはできません。完成どころか「すでにあったことはこれからもあり、すでに行われたことはこれからも行われる」のであって「新しいことは何一つない」。人間の営みに新しさなどはないのです。
コヘレトの言葉は、私たちの営みの小ささを思わせます。私たちがしていることなど、小さく、けし粒のような、あるいはほとんど無きに等しいものです。それとは関係なく世界は進んで行く。今日の3から7節の言葉は創世記8:22とよく似ています。「地の続くかぎり、種まきと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜、これらがやむことはない。」洪水の後、神がもはやこのように地を滅ぼすことをしないとご自分に誓われた言葉、地の営みへの祝福の言葉です。私たちはこの世界の大きな営みに何一つ益し得ないような小さな存在であり、私とは関係なく世界は続きます。それは神の手の中にこの世界が存在しているからです。私は無きに等しい小さな存在ですが、神さまの手はこの世界を包む大きな手です。私という存在の短さ、私の営みは空にすぎない。その空であることを「空しさ」とするのか、神さまの祝福を頂く「開き」とするのか。それが神さまの御前にある私の信仰者としてのあり方への問いなのではないでしょうか。

2021年7月20日火曜日

2021年7月20日(箴言31)

箴言31
有能な妻を見出すのは誰か
彼女は真珠よりもはるかに価値がある。
夫は心から彼女を信頼し
儲けに不足することはない。(10~11節)
あでやかさは偽り、美しさは空しい。
主を畏れる彼女こそ、誇ることができる。
彼女の手の実りを彼女に与え
その働きを城門でたたえよ。(30~31節)

長い箴言の最後に書かれているのは「有能な妻」についての言葉です。有能と言われているとおり、確かにものすごい女性像を描いています。
「彼女は生涯にわたって
夫に幸いをもたらし、災いをもたらすことはない。」
「彼女は夜明け前に起き出して一家の食事を整え
働く若い女たちに指図を与える。
よく思い巡らした上で畑を購入し
手ずから得たもうけの果実でぶどう畑をもうける。」
女性にとっても、しかしそれだけではなく男性にとっても、少し怯んでしまうような言葉です。自分の姿を考えると恥ずかしい気持ちにだってなりかねないからです。
どうして箴言はわざわざ最後にこのような言葉を伝えているのでしょうか。そのヒントは最後の30節のところだと思います。「主を畏れる彼女こそ、誇ることができる。」主を畏れる、それは箴言が伝えてきた知恵そのものです。家庭生活の中でも、あるいはそこでこそ、主を畏れ、主に仕え、家族に仕えるという道を箴言は私たちに見せているのではないでしょうか。それは妻でも夫でも同じだと思います。家庭は、主が真ん中にいてくださるときにこそ生き生きとします。
それは、夫や妻がキリスト者ではないという家庭であっても同じです。信者ではない夫や妻は、信者である妻や夫によって聖なる者とされています。私たちの家庭生活も主なる神様の祝福の内にあるし、そのことを日々求めて生きることもまた主にある知恵の行いなのです。

2021年7月19日月曜日

2021年7月19日(箴言30)

箴言30
私は二つのことをあなたに願います。
私が死ぬまで、それらを拒まないでください。
空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ
貧しくもせず、富ませもせず
私にふさわしい食物で私を養ってください。
私が満ち足り、あなたを否んで
「主とは何者か」と言わないために。
貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために。(7から9節)

本当にすてきな祈りだと思います。二つのことを願っています。私から空しいものや偽りの言葉を遠ざけてください。そして、私を貧しくもせず、富ませもしないでください。私が死ぬまで、この祈りをどうか拒まないでください。
少し前に『スマホ脳』という本を読みました。私はスマホを初めとした電子デバイスのヘビーユーザーですから、耳の痛い本でした。スマホは簡単に私たちの脳をハッキングしてしまう。何しろスマホを使って商売する人の狙いは私たちの注意を惹くことであり、その注意が彼らの儲けになっているのだから、あらゆる工夫を凝らして私たちの目をスマホに向けさせるのだ、というようなことが書かれていました。スマホで得た情報は簡単に忘れてしまいますし、目に入ってくるのは愚にもつかないようなことばかりで、結局は空しい時間になってしまいます。しかし現代社会はスマホがあるから空しくなったというのではなくて、箴言の知恵の言葉が最初に書かれた時代から今に至るまで、人間は空しいものの誘惑にさらされ続けてきたのだろうと思います。主よ、この誘いから私を自由にしてください、とこの知恵の言葉は祈るのです。
もう一つは、私を貧しくもせず富ませもしないでください、と祈ります。これも真実な祈りです。本当にその通りだと思います。お金があって満ち足りていれば神さまなんて必要ないと思い込んでしまい、貧しければ人の物をとっても構わないと考えてしまう。お金の誘惑は、富んでいるときにも貧しいときにも激しく、厳しいものです。
今日の御言葉は本当に具体的で実際的な祈りを私たちに教えます。私たちの目が、耳が、一心にキリストに向きますように。我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。主イエス様はこの祈りを教えてくださいました。私たちは神さまに救いを求めつつ、今日の一日を歩んでいきます。

2021年7月18日日曜日

2021年7月18日(箴言29)

箴言29
人間を恐れると、それは罠となる。
主を信頼する人は高い所で安らかである。
支配者の顔色をうかがう者は多いが
人の裁きは主から来る。(25~26節)

イスラエルの最初の王はサウル、第二代目の王はダビデといいます。この二人は対照的な人物です。サウルは身長も高く見目麗しい人でしたが、とにかく人目を気にする人物でした。民衆が自分を支持しているか否かを常に気にして、人気を得るために何をしたら良いのかをいつも考えていました。典型的なのはペリシテという隣国との戦争中の出来事です。戦況は不利で兵士たちの士気が落ちていました。祭司サムエルが来て祈ってくれると約束してくれていたので、サウルはサムエルが味方を勇気づけてくれるのを待っていました。ところがサムエルはなかなかやってこない。兵士たちの心が離れていくことに我慢できなくなったサウルは、サムエルを待たずに勝手に自分で礼拝を初め、祭司しか献げることが許されていなかった焼き尽くすささげ物を献げました。その後すぐにサムエルが到着し、事の次第を知ったサムエルに「あなたは愚かなことをした」と言われてしまいます。結局サウルにとっての礼拝は、味方の士気を鼓舞してくれるための儀式、あるいは必勝祈願のまじないに過ぎなかったのです。それはサウルが徹底して人目を基準にしていたからです。
次の王になったダビデはそれとは対照的に、神さまを畏れる人物でした。ダビデが王になった後、彼は誘惑に負けて罪を犯してしまいます。ウリヤという自分の部下の妻バト・シェバと関係を持ってしまった。さらにそれだけではなく、ウリヤを戦場でわざと死なせた。ダビデは姦淫に、さらに殺人を犯しました。ダビデのところに預言者ナタンが来て、ダビデの罪を厳しく指摘します。その時の彼の悔い改めの言葉が、詩編第51編に収められています。ダビデは犯した罪を神さまの前で悔い、嘆いて、お詫びしました。取り返しのつかない失敗も犯しましたが、それと同時に神さまにお詫びする人でもありました。
私たちは誰を畏れるのでしょうか。そして、誰の顔を見て、誰の目を意識して生きるのでしょうか。人間を恐れると、それは罠になると箴言は言います。主を信頼して生きよう、と私たちに呼びかけています。主を信頼し、主の御前に、今日生きていきましょう。

2021年7月17日土曜日

2021年7月17日(箴言28)

箴言28
耳を背けて教えを聞こうとしない者は
その祈りさえもいとわれる。(9節)

私はこの言葉を読んで、ヨハネが伝える主イエスのお姿を思い出しました。第8章にある姦淫の女の話です。主イエスのところに律法学者やファリサイ派の人たちが一人の女を連れて来ました。彼女を姦淫の現場で捕まえた、と言っています。そして主イエスに詰め寄るのです。「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスはそれに答えず、かがみ込んで指で地面に何かを書いておられた、と福音書は伝えています。どうして、イエスさまは彼らに答えようとしなかったのでしょうか。
この話だけに限らず、私たちが何かを祈ったり訴えたえたりしたらすぐに答えてくれて当然だと思ってしまいます。しかし、それはとんでもない甘えなのかも知れません。ここでの主イエスは、明らかに、ファリサイ派の人たちの問いに答えることを拒んでいます。彼らの顔を見ることを拒絶しているのだと思います。それは、彼らがよこしまな思いでこの女を連れて来たと主イエスが見抜いておられたからです。

耳を傾けて教えを聞こうとしないものは
その祈りさえもいとわれる。

私たちは、耳を傾けてキリストの教えを聞こうとしているのでしょうか。一見すると、彼らは「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」と言っているので、聖書の教えに聞こうとしているようにも思えます。一見するとただしそう、もっともらしそうなことを言っている。しかしその心は神さまの御心から遠く離れていました。そういうところで唱える口先の祈りを、神さまはいとわれると聖書は言うのです。
あの姦淫の女を巡って、主イエスはただ一言、「あなたがたの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」とだけ言われました。私たちは今、この言葉の前にもう一度真剣に身を置かなければならないのではないでしょうか。

2021年7月16日金曜日

2021年7月16日(箴言27)

箴言27
明日のことを誇ってはならない。
一日のうちに何が起こるか知らないのだから。(1節)

明日がどうなるのかは、私たちのあずかり知るところではありません。日本語とヘブライ語とはずいぶんと違うところも多いですが、意外なところで似ている部分もあります。日本語で、過去のことを「以前」と言います。前という字がついている。逆に先のことは「以後」と言って、後という字があります。ヘブライ語でも前という意味合いのある単語で過去を表し、後ろという意味合いのある言葉で将来を表します。とてもおもしろい表現だと思います。私たちの前にあるのは将来ではなく、過去です。逆に将来は私たちの後ろにある。私たちは後ろ向きに歩いているようなもので、よく見えるのは前のこと、つまり過去のことです。将来は背中の後ろにあるので、私たちには直接見ることができません。明日がどうなるのかは、私たちのあずかり知るところではないのです。
ところが、私たちは明日のことを漠然と予測できる気になってしまいます。そうでないと生活が安定しないという部分もありますが、本当は、自分の命さえ明日はどうなるか分からないのです。「明日のことを誇ってはならない。一日の内に何が起こるか知らないのだから。」
主イエスは言われます。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな」(ルカ12:28~29)。私たちには明日のことは分かりません。しかし、私たちのために明日を気にかけてくださる方がおられます。明日のことは私たちの後ろにあるので、私たちには見えません。しかし、明日を創造なさる方が私たちを憶えていてくださいます。一本の草でさえ美しく装ってくださる方。「まして、あながたにはなおさらのことである。」
私たちは一日の内に何が起こるかを知りませんが、明日のことは神さまにお任せしましょう。今日、私たちは今日一日の分に応じて生き、そして私たちを生かしてくださる神さまを賛美する一日でありたい。そう願います。

2021年7月15日木曜日

2021年7月15日(詩編26)

箴言26
偽りの舌は自分が傷つけた人を憎み
滑らかな口は破滅をもたらす。(28節)

この章はこのように始まります。
「夏の雪のように、また刈り入れ時の雨のように
愚かな者に誉れはふさわしくない。」
ユーモアさえ感じる言葉です。この節に続いて、この章はまず愚かな者について、そして13節からは怠け者、17節以下は攻撃的だったり人を悪く言ったりする人のことについて書かれています。そして「愚かな者に誉れはふさわしくない」と言いますが、愚かな者たちの姿についての知恵の言葉がこの章に綴られています。
例えば4,5節のところもとてもおもしろいです。
「愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな
あなたがその人に似た者とならないために。
愚かな者にはその無知に合わせて受け答えせよ。
その人が自分を知恵ある者と思い込まないために。」
自分の言葉や振る舞いをもう一度点検させるような言葉ではないでしょうか。
怠け者については、14節がおもしろい。
「扉はちょうつがいで回転
怠け者は寝床で回転。」
これも、知恵の中に光るユーモアです。そんな怠け者も「自分を知恵ある者だと思い込む」と言い当てる。鋭い人間洞察です。
そして、17節以下の悪意の人について、最後に言われていることが冒頭の言葉です。
「偽りの舌は自分が傷つけた人を憎み
滑らかな口は破滅をもたらす。」
これも人間の性質を深い洞察を持って言い当てる言葉です。自分を傷つける者を憎むということもあるでしょうが、自分が傷つけた相手を、傷つけておいてさらに憎むということが実際起こっているのではないでしょうか。
この章に記されているのは私たちの罪人としての姿です。罪人としての人間の醜さを、あるユーモアを含んだ言葉で言い当てている。しかし鋭い言葉です。このような私を、主よ憐れんでくださいと祈る一日でありたいと思います。

2021年7月14日水曜日

2021年7月14日(箴言25)

箴言25
棍棒、剣、鋭い矢
それは友人について偽りの証言を立てること。
悪い歯、揺らぐ足
それは苦難の日に裏切り者を頼りにすること。
寒い日に衣を脱がせ、傷の上に酢を注ぐ。
それは苦しむ心に向かって歌を歌うこと。
あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ
渇いているなら水を飲ませよ。
こうしてあなたは彼の頭に炭火を積み
主はあなたに報いてくださる。(18~22節)

「あなたを憎む者」というのは、私たちが苦しみ、悲しんでいる日に喜んで歌を歌い、寒い日に脱がせ、傷にしみる酢を注ぎかけてくる者のことでしょう。私について偽りごとを噂し、私を裏切る者のことでしょう。その人が飢えているときにパンを食べさせよ。その人が渇いているなら水を飲ませよ。聖書は私たちにそのように語りかけます。
マタイによる福音書第18章の一万タラントンの借金がある僕の話を思い起こすことができると思います。一万タラントンという天文学的な借金をしている僕、彼は当然自分の借金を返すことができませんでした。本当であれば、自分も奴隷として身売りし、家族も同じようにして、死ぬまで働いて返さねばなりません。それでも返すことは不可能です。なんとか赦してくださいと懇願する彼を見て、彼に金を貸していた主君は憐れに思い、彼を赦してやりました。彼は喜んで帰りましたが、その道で自分が100デナリオン貸している友人に会い、早く返せと首を絞め、この友達を牢にぶち込んでしまいました。そのことを知って主人は怒りました。
「あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませよ」と言った後、箴言は続けて「主はあなたに報いてくださる」と言います。主なる神様が私に何をしてくださっているのかということ抜きには、飢えている敵にパンを食べさせたり、渇いている敵に水を飲ませたりすることは、できないことです。しかし逆に神さまが私に何をしてくださったのかを知ったとき、私たちの憎む者、あるいは私を憎んでいる人との関わり方が変わるはずだ、変わらないわけにはいかないはずだ、と聖書は私たちに語りかけてきます。

2021年7月13日火曜日

2021年7月13日(箴言24)

箴言24
子よ、蜜を食べよ。実に良いものだ。
滴る蜜は口に甘い。
魂にとって知恵も同じと知れ。
それを見出せば、未来があり
  希望が絶たれることもない。(13~14節)

蜜、しかも滴る蜜と言っているのですから、恐らく直接花から蜜を吸っているというのではなくて蜂蜜のことなのでしょう。蜂蜜は、現代とは比べものにならない貴重なものだったはずです。先日、教会の二階の戸袋に蜂のたまり場ができていました。このままではきっと巣を作ったに違いない。こちらが何もしなければ蜂も襲ってはこないのでしょうが、小心者の私には恐怖でした。今のような養蜂技術がない時代に蜂蜜を得るというのは大変なことだったろうと思います。そして、その甘みのなんと魅力的なことでしょう!「子よ、蜜を食べよ。実に良いものだ。滴る蜜は口に甘い。」
口にとっての蜜の甘さは、魂にとっての知恵の甘さだ、と言います。知恵、それは主を畏れることに始まる知恵の言葉。この箴言の言葉であり、私たちにとっては聖書の言葉そのものと言うことができます。御言葉のなんと甘美で、魅力的なことか!
私たちの信仰生活は、旅です。旅の途中には喜びの日もありますが、厭な日もあります。神さまを信じることを本当に幸せと思える日もあれば、砂をかむような思いで過ごす日もあります。私たちの旅のために、神さまは私たちに御言葉をくださいました。神さまの御言葉、聖書の御言葉が、私たちの信仰生活の旅路を導く杖であり、私たちの歩みを照らす灯であり、甘美な食物です。食べても食べてもおいしく感じられないこともあるかも知れません。しかし、それは、離乳食が終わったしるしです。乳飲み子は甘い母乳しか与えられませんが、一生そのままというわけにはいかない。やがて乳離れして固かったり苦かったり、食べにくい物を食べるようになります。その栄養が必要だから、神さまは私たちにそういう食べ物をお与えになったのです。しかし、根本的には神さまの御言葉という食べ物は甘いのです。蜜のように楽しい食事です。そこには神の愛と恵みの贈り物が込められているからです。
だから、箴言は言います。「それを見いだせば、未来があり、希望が絶たれることもない。」望みがないように見えるところで私たちに望みを与えるのは、神さまの御言葉です。この甘美な食物は必ず私たちを生かし、キリストという永遠の喜びに私たちを導くのです。

2021年7月12日月曜日

2021年7月12日(詩編23)

箴言23
昔からの地境を移すな。
みなしごの畑を侵すな。
彼らを贖う方は強い。
その方が彼らに代わってあなたと争うだろう。(10~11節)

現代のイスラエル国にはハアレツ紙という新聞があります。イスラエルの国内事情を報じているものとしては、日本のニュースでも引用される有力紙です。このハアレツという新聞の名前ですが、ヘブライ語で「アレツ」というのは「地」という意味の単語です。「ハ」は冠詞です。英語に直訳するなら、the land紙といったところでしょうか。このアレツという単語は聖書の中でもとても重要です。例えば創世記の「初めに、神は天地を創造された」の「地」にも使われている。旧約聖書の民にとって「地=ハアレツ」はとても大切でした。神が与えてくださったハアレツに生きる者として、神の民として生きるということが、彼らの信仰生活に直結していたのです。
「昔からの地境を移すな」と言われています。この大事な地、ハアレツを自分の欲のために好き勝手に収奪してはならない、と戒めます。貧しい人から土地を奪ってはならない。昔からの地境と言っていますが、もともとは土地を持たない旅人だった彼らがエジプトを脱出して、約束の地に入っていったとき神さまが与えてくださった地です。神さまが地境を定め、それに従って、地を分け合って始まった生活です。その地境を移して「みなしごの畑を侵す」というのは、隣人に対しても不遜であり、神さまに対しても甚だ涜神的な振る舞いだ、というのです。
私たちの持っているものは、すべて神さまに与えられたものです。神さまが私を生かし、必要なものを備えてくださっている。そのことに立ち戻るならば、隣人のものを尊重するはずだ、と聖書は訴えます。

心で罪人を妬むことなどせず
日夜、主を畏れよ。(17節)

そのように言います。さらに続けて、
「そうすれば、未来もあり
希望が絶たれることもない。」
と言うのです。私たちの希望は、主のもとにあります。この方が私たちに必要なものをすべて備えてくださっています。そのことに信頼しましょう。隣人と共に生きるためにも。

2021年7月11日日曜日

2021年7月11日(箴言22)

箴言22
善意に溢れるまなざしの人は祝福される。
自分のパンを弱い人に与えるから。(9節)

とても印象的な言葉です。善意に溢れるまなざし、というのはとても良い言葉だと思います。善意が心から溢れて来る。そのような人は祝福される、と言います。その善意は自分のパンを弱い人に与えるというかたちで発露します。
22節からのところにはこのようにあります。

弱い人からかすめ取るな、その人は弱いのだから。
苦しむ人を町の門で踏みにじってはならない。
主が苦しむ人のために争い
その命を奪う者の命を奪うからだ。(22~23節)

自分のパンを弱い人に与える善意は、弱い人や貧しい人を重んじる主なる神様を重んじて生きている、という人のことです。もしも同じように弱い人に自分のパンをあげたとしても、それが賞めてもらうためだとか自分の評価を上げるためといったご褒美目当てだとしたら、空しことです。しかしここではそういうことではなく、まなざしから溢れるような善意によって、自分のものを人に与え、また弱い人を重んじ、苦しむ人のために公正な振る舞いをするのです。それは、とても美しいことです。
利己的な利他性は、醜いです。しかし、その人の内からわき出る善意によって利他的に振る舞うのなら、美しい行いです。そのような利他性や善意の起源を、箴言は主ご自身が弱い人をどのようにご覧になっているか、というところに見ています。主がその人のためになしてくださる御業をあがめ、主に従って、自分のパンを貧しい人に与える。思えば、私もそういう数え切れないほどの他者の善意に支えて頂いて、今生きているのです。神さまとの出会いは、そういう私たちの原点を気付かせます。

2021年7月10日土曜日

2021年7月10日(箴言21)

箴言21
人の道は自分の目にはすべてまっすぐに映る。
しかし主は心の中を調べる。
正義と公正を行うことを
主はいけにえよりも喜ぶ。(2~3節)

本当にそうだな、と思います。「人の道は自分の目にはすべてまっすぐに映る。」そうであるからこそどこででもいさかいが起こりうるし、私たちは自分の正義感を根拠にブツブツつぶやいてしまう。主が調べる心の中とは、一体何でしょうか?
私はこの箴言の言葉を読んで、イザヤ書の言葉を思い出しました。「主は言われる。あなたがたのいけにえが多くても、それが私にとって何なのか。私は、雄羊の焼き尽くすいけにえと、肥えた家畜の脂肪に飽きた。私は、雄牛や小羊や雄山羊の血を喜ばない。」「もう二度と空しい供え物を携えてくるな。香の煙はまさに私の忌み嫌うもの」(イザヤ書1:11,13)。もともと、焼き尽くすささげ物も香の香りも、律法で定められた礼拝の作法です。神さまに最上のものを献げ、祈りを献げるための定めです。しかしいつしかそこから信仰が失われ、かたちだけ、格好を付けることでごまかすようになった。あるいはこれに続く17節では「善を行うことを学べ。公正を追い求め、虐げられた者を救い、孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ」とありますから、かたちだけの礼拝をしながら弱者を踏みにじる欺瞞に耐えられない、ということなのだと思います。
箴言では「正義と公正を行うことを、主はいけにえよりも喜ぶ」とあります。神さまは私たちに何を求めておられるのでしょうか。私たちが本当に献げる真心からなる礼拝、神さまを愛する生き方とは、一体どういうものなのでしょうか。箴言は、それは正義と公正を行うことだと言います。孤児や寡婦のような社会的弱者を決して食い物にせず、その声に耳を傾けよと聖書は私たちに一貫して教えています。神を礼拝する者としての生き方を、聖書は私たちに問います。

2021年7月9日金曜日

2021年7月9日(箴言20)

箴言20
眠りを愛するな、貧しくならないために。
目を開き、パンに満ち足りよ。
「高い、高い」と言って買いながら
そこを去ると、自慢する。
金も、多くの真珠もある
だが、より高価な器は知識ある唇。(13から15節)

聖書は、現代の資本主義経済の社会を知っていたのだろうかと不思議な気持ちになります。休んではいられない。貧しくなったらくっていけない。その次の言葉も、おもしろい言葉です。「高い、高い」と言って買いながら、そこを去ると、自慢する。まさに!聖書にこんなことが書いてあるなんて、と思わずいってしまうような言葉です。
社会学者マックス・ウェーバーの分析によれば、資本主義経済のゆりかごは近代のプロテスタント主義でした。勤勉に働き、無駄づかいをしない。「眠りを愛するな、貧しくならないために」という言葉の通りに働いたのです。単に産業革命、工業化、貿易、などなど、それだけでは新しい経済システムは生まれなかった。「目を開き、パンに満ち足りる」ような精神性がなければ。そのような精神性、ウェーバーはエートスと呼びますが、それがプロテスタント主義であった、というのです。プロテスタント的エートスによって生まれた倫理的な勤勉さが資本主義経済を生み出したと言うのです。
ところが資本主義経済がシステムとして完成するにつれて、それを生み出した精神性は必要なくなってしまいました。精神を失っても一度動き出したシステムは自動的に回ります。プロテスタント的エートスが失われ、それによって培われた倫理が失われたとき、資本主義というシステムだけが残り、システムが鉄の檻となって現代人を苦しめる。現代社会はウェーバーが予言したとおりになってしまいました。
15節にはこのようにあります。「金も、多くの真珠もある。だが、より高価な器は知識ある唇。」あるいは22節には「主に望みを置け、主があなたを救ってくださる」ともあります。15節で言う知識とは、やはり、主を畏れる知恵に基づく知識に他ならないのでしょう。ウェーバーがプロテスタントのエートスと呼ぶものが、これです。主を畏れ、主の前に誠実に今日するべきことをする。信仰に基づく真摯な生き方こそが、現代社会に本当に必要なあり方なのではないでしょうか。

2021年7月8日木曜日

2021年7月8日(箴言19)

箴言19
貧しくても誠実に歩むことは
曲がったことを語る愚か者にまさる。
知識のない魂は困ったもの
足を急がせると罪を犯す。
無知であると、人間は自分の道を誤り
しかも主に対して心をいらだたせる。
財産は友の数を増し
貧しい人は友から引き離される。(1~4節)

上に掲げられた1から4節の御言葉は、単なる単発の格言ではなくこの箴言の文脈に置かれたことによって新しい命を吹き込まれた言葉であると思います。特に最後の二行、4節のところです。「財産は友の数を増し、貧しい人は友から引き離される。」これだけが単独で登場したのとこの文脈に置かれているのとでは、まったく意味が異なってくると思います。
というのは1節があるからです。「貧しくても誠実に歩むことは、曲がったことを語る愚か者にまさる」と言っています。例え貧しくとも誠実であるならば、と言って貧しさを直接的に本人の悪さに結びつけることを拒否しています。因果を短絡的に結びつける発想法では、豊かであることや人からうらやまれる成功を手にした人を、神さまの祝福を頂いた人と言います。神さまが守ってくださって、祝福してくださって、このような幸せを頂いた。確かに頂いたものを神さまに感謝するのはすばらしいことですが、この世的な価値のあるものにだけ神さまの祝福を感じるのだとしたら、何かが歪んでいるようにも思います。

1節と4節の間にある2,3節では、知識を持つことの大切さについて説いています。無知では道を誤り、神さまの前に罪を犯してしまう、と言っています。ここでの「知識」は、箴言の文脈から考えれば主を畏れる知恵から始まる知識に他ならないと思います。そうだとすると、2,3節で大切にされている知識と1節の「誠実」とは相通ずるものであるはずです。貧しくても誠実であるならば、それは幸いなこと。貧しいがゆえに友から引き離されることもあるでしょうが、しかし神を畏れる知恵に基づいて誠実に生きる者を、神は覚え、その人の友になってくださいます。私たちはこの世が常識とする知識や価値観に従って生きるのか、それとも神さまの前にある知識や知恵に従って生きるのか、問われているのです。

2021年7月7日水曜日

2021年7月7日(箴言18)

箴言18
主の名は堅固なやぐら。
正しき者はそこに走り寄り、高く上げられる。
富める者は財産を
砦の町、高くそびえる城壁と考える。(10~11節)
友の振りをする者もあり
兄弟よりも親愛の情を抱く人もいる。(24節)

これらの言葉は私たちが何に頼って生きていくのかということについての知恵を語っているように思います。
「富める者は財産を
砦の町、高くそびえる城壁と考える。」
特に大金持ちでなくても、この世の認める価値では当然のこととして財産こそが砦の町、高くそびえる城壁のように自分を守ってくれると考えられています。もちろん、財産がまったくなくてはほとんどの人は生きていかれません。ただ、私たちと同じ信仰に生きるキリスト者の中でも、例えばローマ・カトリック教会の修道士や修道女たちは私有財産を一切持っていません。例えば下着一枚をとってみても、それは自分の物ではなく修道会共有の持ち物なので、みんなで使い、洗濯し、皆の棚に入っているものを順番に使うのだそうです。彼らの存在は、私にとっては大きな問いかけになっています。話は私たちを守る堅固なやぐらは一体何か、という問いです。それは主の名だと箴言は私たちに教えているのです。
そして24節を見ると、人間関係の話をしています。友の振りをする者がいる。しかし、兄弟よりももっと多くの親愛を示してくれる人もいる。そういう人の存在の尊さやありがたさを語る言葉なのであろうと思います。
私たちにとって本当に頼りになるのは、財産ではなく神さまです。財産はいつか消えてしまうし、死んだら持っていくこともできません。しかし神さまはどのようなときにも変わらない。だからこそ、共に生きる者たちと神さまの前に出ること、神さまに頼って生きることを大切にしたいと願います。共に生きる人々も、神さまが与えてくださった賜物です。神さまが与えてくださった仲間の大切さ、ありがたさを私たちに気付かせる御言葉であると思います。

2021年7月6日火曜日

2021年7月6日(箴言17)

箴言17
一切れの乾いたパンしかなくとも平穏であるのは
いけにえの肉で家を満たして争うことにまさる。(1節)

この言葉がとても心に残りました。乾いたパンといけにえの肉とが比較されています。いけにえの肉は、牛にしても羊にしても、まず欠陥のないもの、場合によっては初子であることが求められます。しかもその中でも脂肪の部分を献げます。今のように栄養豊富な飼料を与えているわけではありませんから、脂肪は貴重だったに違いないと思います。いちばん良いものを神さまに献げた。本来神さまに献げるべきもの、豪華なもので家を満たしても、それで本当に幸せになれるのか?
サムエル記上2:12~17に、祭司エリの息子たちが燃やして主に献げるべき肉を自分たちの楽しみのために食べてしまっていた、という事件が記録されています。このとき彼らは贅沢を享受していましたが、結局自分たちの欲望に押し潰されるようにして破滅していきました。本来神さまに献げるべき贅沢を自分のために楽しむよりも、一切れの乾いたパンを平穏に、感謝を持って頂くことは遙かに優る幸せです。


愛を追い求める人は背きを赦すが
もめ事を繰り返す者は友情を裂く。(9節)

この言葉もとても心に残ります。愛することは赦すことです。もめ事を繰り返してしまうのは、自分が正しいと信じて疑わないからです。その確信はいつしか友情を裂いてしまう。他人を傷つけることを軽く考えてしまうからです。翻って「赦し」は、自分が傷つくことを引き受けます。痛みを自分の方で担う。そこに愛を見ている箴言の知恵は深いと思います。聖書の真理はここにあるのではないでしょうか。私たちも、キリストにあってこのような愛に召されているのです。

2021年7月5日月曜日

2021年7月5日(箴言16)

箴言16
主の言葉を悟った人は恵みを見出す。
幸いな者とは、主に信頼する人。(20節)

本当にありがたい言葉だと思います。「主の言葉を悟った人は恵みを見出す。」誰もが恵みを見たいと思っているのではないでしょうか。それなら一体どこに行けば恵みを見出すことができるのかと多くの人が問うているのではないかと思います。恵みは、主の言葉に秘められている。主の言葉を悟る人は恵みを見出す。
私たちは、この箴言の知恵がまだ知らなかった、より深い恵み、もっと大きな恵みを知っています。主イエスはあるとき弟子たちに言われました。「あなたがたの見ているものを見る者は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(ルカ10:23~24)。主イエスが弟子たちに言う「あなたがたの見ているもの」とは、主イエスご自身ことです。主イエスこそ、預言者も王も、すべての旧約の民が待ち望んでいた福音そのもです。主の言葉を悟った人は恵みを見出す。その主の言葉そのものであるかたこそ、イエス・キリストに他ならないのです。
だから、主の言葉、イエス・キリストにこそ神の恵みが顕わになっています。この方を見るものは恵みを見出す。幸いな者とは、キリストに信頼する人です。
私たちは聖書の言葉を聞き、キリストを知り、キリストが私たちに証ししてくださった神の愛を知るとき、主の言葉を悟ります。キリストのお姿によって、私たちは神の憐れみをはっきりと知ることができるのです。
今日一日も、キリストの恵みがあなたと共にありますように。

2021年7月4日日曜日

2021年7月4日(箴言15)

箴言15
柔らかな受け答えは憤りを鎮め
傷つける言葉は怒りをあおる。
知恵ある人の舌は知識に磨きをかけ
愚か者の口は無知を吐き出す。
主の目はすべての場に注がれ
善良な人も邪悪な者も見張っている。(1から3節)

人間関係の中で、良さや悪さは相対的です。こちらが良いとか正義だとか思っていても、あちらはあちらで自分が正しいと思っています。自分が悪いと思いながら意地を張ることも時にはありますが、それでも自分にもいくらか正しいところがあると思わなければ意地も張れません。やはり、泥棒にも三分の理とでも言うべきか、何らかの正しさをそれぞれが持っていて、それがぶつかり合うと、なかなか解決できなくなります。特に現代はインターネットの発展も後押しして、誰でも自分の意見を匿名で表明できるようになったので、正しさ同士のぶつかり合いが激化しました。私たちの社会の価値観は非常に混乱していると思います。
箴言第15章にはいくつかの「言葉を巡る知恵」が登場しています。言葉を巡る正しさは、とても難しい問題です。そんな時に私たちを相対的ならぬ絶対的な基準の下に引き戻すのが、この言葉です。
「主の目はすべての場に注がれ」。
主の目がこの私のこともご覧になっている。主の目を向けられた者として、私は何を口にし、また何をするのでしょうか。これは他人に向けるべき基準ではありません。自分自身への問いとして、神さまの前に真摯に顧みるべき基準です。主の御前で、私は一体何者か、と。
私たちの今日一日も、主の前にあります。「善良な人も邪悪な者も見張っている」という言葉から受けがちなネガティブなイメージがありますが、むしろ、主の前に生かされていることへの聖なる畏れとして受け止めたいと思います。主の御前に、私は一体何者なのか?私が口にする言葉は、主の前に生きる者としてふさわしいのか?主が、私たち一人ひとりに問いかけておられます。

2021年7月3日土曜日

2021年7月3日(箴言14)

箴言14
心の堕落した者は自らの歩みに満足する。
善良な人は自分自身に満足する。
思慮なき者は何事も信じ込む。
賢い人は自らの歩みを見極める。(13から15節)

「心の堕落した者は自らの歩みに満足する」という言葉に、ギクリとしてしまいました。ここは注意深く読む必要があると思います。というのも、この節にはとてもよく似た言葉が二つ続いているのです。
「心の堕落した者は自らの歩みに満足する。
善良な人は自分自身に満足する。」
自らの歩みに満足する心の堕落した者と、自分自身に満足する善良な人。よく似ています。ほとんど同じような感じがします。違うのは、自らの歩みに満足するのか、自分自身に満足するのか、その点だけです。
自らの歩みに満足するというのは、恐らく、これまで自分がどう生きてきたか、満足するに足る成果を残してきたのか、他と比べてどれだけ優れているのか、そういったことが基準になっている、ということであろうと思います。自分の歩みの成果を眺めて満足するならば、神さまが入る余地は残されていません。
しかし他方は、自分自身に満足すると言っています。恐らく次の節にある「賢い人は自らの歩みを見極める」というのと無関係ではないと思います。自分の歩みを真摯に見極めるならば、多くの場合もはや誇ることはできなくなってしまうのではないでしょうか。しかし、誇り得るところの一つもない自分だけれども、そんな自分自身を誇ることができる。
使徒パウロは言います。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」このキリストは、私たちが罪人であったときに、私たちの罪のために死んでくださいました。このキリストに示された神の愛を、私たちは誇りにしています。だから、自分自身に満足します。神が愛してくださっている私に、満足するのです。

2021年7月2日金曜日

2021年7月2日(箴言13)

詩編13
富んでいると見せて、無一物の者がおり
貧しいと見せて、大きな財産を持つ者がいる。(7節)

私はこの言葉を読んで、使徒パウロの書いたコリントの信徒への手紙二の1節を思い出しました。パウロが自分の使徒としてのあり方について語っているところです。パウロは、基本的に、この手紙の受け手であるコリント教会とあまりうまくいっていませんでした。パウロがキリストの福音を宣べ伝えたことで始まった教会ですが、その後別の指導者がやって来て、キリストの福音とは似て非なるものを宣伝して回ったのです。もっと強く、もっと豊かに、もっとこの世で礼賛される成功を得る。煎じ詰めて言えばそういう内容だっと推測されます。それでパウロはコリント教会に度々手紙を送っていましたが、その中でこのように言っています。
「私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。」
私はこの言葉が大好きです。成功を約束する福音に比べれば、パウロや彼の伝える福音は貧しくて弱々しく、あまり魅力的ではありませんでした。十字架にかかった方が神の子、救い主だなんて、弱虫の信仰です。パウロ自身も迫害され、ユダヤ人からは非難され、つまはじきにされていました。ところが、パウロは言います。悲しんでいるようでいて常に喜んでいる私は、貧しいようであって、実は多くの人を富ませている。すべてのものを所有している!実にキリストの福音を宣べ伝えることで彼は無一物になりましたが、何よりもすばらしい宝をたくさんの人に届けたのです。
このパウロの姿は、箴言が言っていることのある究極的な姿を現しているのではないでしょうか。
「富んでいると見せて、無一物の者がおり
貧しいと見せて、大きな財産を持つ者がいる。」
富んでいるように見えて実は貧しい人とは、誰なのでしょうか。貧しく無一物のように見えて本当は富んでいる者とは誰なのでしょうか。私たちを救ってくださる神の子は、私たちのために弱く、貧しくなってくださった方なのです。

2021年7月1日木曜日

2021年7月1日(箴言12)

箴言12
正しき者は動物の思いが分かる。
だが悪しき者の憐れみは、残忍の域を出ない。(10節)

この章はとっても興味深く、おもしろい言葉がたくさんあります。
「正しき者は動物の思いが分かる。」すごく良い言葉です。動物の思いが分かるというのは、共感力と想像力が物を言います。動物はしゃべることができませんから、想像力なくしてその気持ちが分かるということはありえません。そして、動物の気持ちが想像できなければ、人間の気持ちを想像することだってできないと思います。
愛するとは、想像することです。相手が何を喜び、何を悲しみ、何に痛み、何を必要としているのか。想像し、その相手の痛みに寄り添い、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く。それが愛するということです。
この箴言のユニークさは、動物の思いが分かるところに「正しさ」を見ているというところです。一見すると関係のない話のような気もしてしまいますが、正しさと愛するということとは別々のことではないということなのでしょう。愛することのない正しさは独善です。それでは正しさのない愛は何か?「悪しき者の憐れみは、残忍の域を出ない」と言っています。これが愛だと思っていたとしても、悪しき心から生まれるならば残忍でしかない。鋭い言葉だと思います。


正しき者は友に尋ねて道を探す。
悪しき者の道は人を惑わす。(26節)

もう一つ、今回心にとまったのはこの言葉でした。「正しき者は友に尋ねて道を探す。」尋ねて良い、頼って良いのだというのは、率直に、とても気が楽になります。仲間を信頼し、助けを借りて道を探して良いのです。自分一人で頑張らなくてよい。教会は、そういう友と出会う場所です。主イエス・キリストに向かって共に祈り、私たちは道を歩んでいきます。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...