2021年12月31日金曜日

2021年12月31日の聖句

民はモーセのもとに来て言った「私たちは主とあなたに抗して語り、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。(民数記21:7)
疑いを抱く人たちを憐れみなさい。(ユダ22)

モーセに導かれてエジプトを出て、荒れ野の旅を始めたイスラエルの人々。彼らはたびたび不平不満のとりこになりました。彼らの様子を聖書はこのように記録しています。「民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。』」それで、主なる神様は民の中に炎の蛇を送り込み、蛇は民を咬み、多くの人が死んでしまいました。神に裁かれた。それで、民はモーセに願いでました。「私たちは主とあなたに抗して語り、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」。それで、モーセは民のために祈り、神はその祈りを聞きかなえて、この災いは止みました。
もしもモーセが民の叫びを聞いて、私とあなたたちとどちらが正しいのかはっきりさせようと言い出したら、民には救いがありません。モーセが正しいし、まして神が正しいのは明らかです。そもそも民はエジプトで奴隷であり、助けてくださいと祈ってきたのです。それに応えて神がモーセを遣わし、ファラオは絶対解放しないと言っていたのに数々の奇跡でエジプトを出て晴れて自由になったばかり。それなのに、民は「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか」と言ってのける。あまりに自己中心的ですし、依存的で、自立的に生きていこうという精神のかけらもないことが窺われます。「正しさ」をモーセが一番大切に考えていたとしたら、民はもうどうしようもありません。
ところがモーセは正しさよりも憐れみを大事にしました。「疑いを抱く人たちを憐れみなさい」と新約聖書が教えるとおり、正しさを軽んじ、疑いに心が支配され、理不尽なことを口にしたり不平不満の虜になっている人々を前にして、聖書は、正しさよりも憐れみを求めるのです。神は正しくない者を、正しくないという理由で捨てないのです。正しくない者を憐れんでくださるのです。
だから、私も憐れんで頂きました。だから、私も憐れみの人になるようにと聖書は招きます。私たちはキリストのものです。私たちはキリストの憐れみの中に生かされています。私たちはキリストの憐れみによって、新しくして頂いたのです。

2021年12月30日木曜日

2021年12月30日の聖句

昼はあなたのもの、夜もあなたのもの、あなたは月と太陽に軌道を与えられました。(詩編74:16)
だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けよう。日中を歩むように、品位を持って歩みましょう。馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みをすてて。(ローマ13:12~13)

「品位」という言葉があります。もともとのギリシア語の単語を調べてみると「良い形」という字を書きます。日中を歩むように、良い形で歩みましょう、と言っています。あるいはもっと砕けて言うと「格好良く歩みましょう」と言ってもよいと思います。そう言われると、少し意外な感じがするのではないでしょうか。主イエスさまを信じる信仰とかっこいい歩み方なんてあまり関係ないというか、むしろ「かっこいい」なんて考えるのは信仰の道に反しているのではないか、と思う人もいるのではないでしょうか。
ここでの形の良さは、文脈を見ると「昼間を生きる姿」です。夜陰に乗じてするようなこと、馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬み。これらはすべて夜の闇に紛れなければ恥ずかしくて出来ないようなことです。昼の光に耐えられない。そうではなく昼の光に照らされても恥ずかしくない格好をして生きていこう、と言っているのです。
もしかしたら、私たちは、きれいな服を着たり身なりを整えたりすることにはよく気を遣うかも知れません。そういうことも大事なことでしょう。身なりを無視するのはほめられたことではないと思います。しかしそれ以上に大事なのは自分の生き方の品位を整えることです。昼の光に耐えられる生き方を、私たちはしているでしょうか?
神さまは月にも太陽にも軌道を与えた方です。夜も昼も、神さまのものです。だから、昼だけではなく夜も、私たちは神さまの前にいます。どんな闇も神さまの前では昼と同じように明るい。いつも私たちは神の前に生きている。それはある意味では恐ろしいことですが、恵み深い事実でもあります。神さまは、どんなときにも一緒におられるのです。私たちが目覚めているときにも、眠っているときにも。私たちの強いときにも、弱いときにも。どんなときにも、私たちは神さまの御前に生かされています。それは神さまの深い憐れみに土台を置く事実です。

2021年12月29日水曜日

2021年12月29日の聖句

あなたを称えます、主よ、あなたは私を深みから引き上げてくださいました。(詩編30:2)
高いところから、曙の光が暗闇と死の陰に座していた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79)

主なる神様は、私たちを深みから引き上げてくださいました。「深み」と言っています。子どものころ、家族でキャンプに行ったときに川遊びをしました。思わぬところで深みにはまって、溺れてしまいました。川はプールと違ってそこがどうなっているのか分かりません。そういう「深み」は、私たちの周りにもしばしばあるのではないでしょうか。ずっと忘れていた昔の経験だったり、人の言葉だったり、何かの出来事だったり、いろいろなことをきっかけに、突然深みにはまって溺れてしまうことがあります。傷ついて力が出なくなったり、神さまを信じる情熱が失われてしまったり、人と会うのが苦痛になったり。深みにはまり込んでしまう瞬間が襲ってくる。あると思っていた川底が突然なくなる。泳ぐ体制も整っていない。はまり込んでしまうと、溺れて息が出来なくなってしまう。
少年だった私を、見知らぬ大人の人が助けてくれました。泳ぎが上手な人であれば自分でどうにか出来たかもしれません。しかし人生の深みにおいては、得意と思っていた水泳も役に立たないことがあります。そんなときは、助けてもらうしかありません。
「主よ、あなたは私を深みから引き上げてくださいました。」神さまは、私たちのところへすぐに飛んできて手を掴んでくださっています。今、もう既に、あなたの手を神が掴んでいるのです。神さまが語りかけている声を聞き逃さないように、耳を澄ましてください。
「高いところから、曙の光が暗闇と死の陰に座していた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」高いところからと言っているので、神さまの方からということです。私たちが頑張って光を造り出さないといけない、と聖書は言いません。光はあくまでも神さまの方からやってくる。私たちはその光に照らされ、深みから救い出されていただくだけです。神さまは、今、私たちのところに来ておられます。キリストがその手を掴んでいることに、どうか心を開いてください。

2021年12月28日火曜日

2021年12月28日の聖句

私たちが主を離れるなどあり得ないことです。(ヨシュア24:16)
愛する人たち、最も聖なる信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈りなさい。神の愛の内に自らを保ち、永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。(ユダ20~21)

私が親になってみてひしひしと実感していることは、自分が親としていかに不完全なものか、ということです。子どもがやさしい言葉やあたたかい手を必要としているときに、いつもそれを向けてあげられるわけではありません。子どもが失敗をして傷ついているときに、追い打ちをかけるような言動をしてしまうこともあります。ところが、子どもはそれでも親にしがみつきます。親の愛を信じて向かってきます。彼らには、他に生きる術がないのです。
私たちの神さまへの向かい方には、同じような必死さがあるのでしょうか。他にも生きる術が自分にはあるという高慢な勘違いをしてはいないでしょうか。神さまは、人間の親とは違って、その愛に欠けるところがありません。完全な愛を向けてくださっている。それなのに、神さまに背を向けたり、少し距離を置こうなどと考えたり・・・不忠義で浮気者になってはいないでしょうか。
「神の愛の内に自らを保ち」と言っています。他のどこでもなく、神の愛の内に自分を保つ。神の愛の中に留まり続ける。主イエス・キリストの憐れみによって生きる。私たちに、他の一体どこに生きるべき場所があるのでしょう?「私たちが主を離れるなどあり得ないことです。」アーメン、と私たちも主の御許に生きていきましょう。人間の親とは違う無限の愛を信じて、キリストを信じる聖なる信仰によって生きていきましょう。もうすぐ、この年も暮れゆこうとしています。キリストと共に、この年の最後の歩みを重ねましょう。そしてキリストと共に、新しい時を歩んでいきましょう。神の愛の中に、自らを留めて。

2021年12月27日月曜日

2021年12月27日の聖句

あなたは言う「私には罪がない、主の怒りは私から去った」。見よ、あなたが「私は罪を犯さなかった」と言っているので私はあなたを裁く。(エレミヤ2:35)
あなたがたは、醒めていなさい、そしてイエス・キリストが現れるときに与えられる恵みに希望を置きなさい。(1ペトロ1:13)

神を信じるというのは、目を覚ましているということです。信仰の目を覚まして生きる。キリスト教系の新興宗教の人が、街頭に立ったり戸別訪問をしたりして、「目覚めよ」と書いてある怖いパンフレットを持っていることがあります。神はあなたの罪を裁いてしまう、だから早く悔い改めなさいというようなことが書いてあります。「あなたがたは、醒めていなさい」と使徒ペトロが言うとき、あのパンフレットの「目覚めよ」と同じ意味なのでしょうか。
確かに今日の旧約聖書のエレミヤ書を読むと、同じことなのかなという気もしてしまうかも知れません。「あなたは言う『私には罪がない、主の怒りは私から去った』。見よ、あなたが『私は罪を犯さなかった』と言っているので私はあなたを裁く。」しかし、私は、エレミヤ書のこの言葉も含めて、あの「目覚めよ」は聖書の読み方が間違っていると思います。神さまはちゃんと悔い改める私たちの心がけに応じて私たちを救う、とはおっしゃっていないと思います。
「あなたがたは、醒めていなさい、そしてイエス・キリストが現れるときに与えられる恵みに希望を置きなさい。」ここで、醒めているというのは、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みに希望を置くここと一つです。目を覚ますとは、キリストの恵みを自分の希望とすることです。一体、神さまに救って頂くのにふさわしい悔い改めを私たちがちゃんとすることは可能なのでしょうか?私たちは神さまに認めて頂くに値する心根に生きることが出来るのでしょうか。神さまは、それが可能か不可能かということを問う前に、もう既にキリストを与え、私たちへの愛と恵みを示してくださいました。私たちは神さまからの一方的な憐れみによってだけ救われます。恵みによってのみ私たちは救われる。神の前に目を覚ますとは、神の恵みに頭を垂れることに他なりません。
私たちは信じたから救われたのではなく、神が救ってくださったから信じたのです。神が救ってくださったこと、愛してくださったこと、恵みを与えてくださったことに気づいたから、自分の罪を悔い改めることが可能になるのです。エレミヤが指摘する悔い改めをねじ曲げてしまう私たちの問題は、神さまの途方もない愛を自分の計算の中に収める不遜が招きます。神の愛は、私たちの想像をはるかに超えて大きく、甘美で、すばらしいものです。私たちはただこれを感謝して頂くだけです。

2021年12月26日日曜日

2021年12月26日の聖句

主よ、御名のために私と共にいてください。あなたの恵みのすばらしさの故に私をお救いください。(詩編109:21)
ステファノは主を呼び、言った「主イエスよ、私の霊をお受けください」。ひざまずいて大声で叫んだ「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。(使徒7:59〜60)

今日は2021年最後の日曜日です。今日、私たちはクリスマスの礼拝を献げます。主イエスさまのご降誕。主の恵みが私たちに余すところなく示された日。それがクリスマスです。主イエスさまのお名前の故に、私たちは神の愛を確信し、神の恵みを信頼します。この一年を振り返れば、いろいろなことがあったに違いありません。素直に喜べるときも、そうでないときもあったはずです。しかしそのすべてにおいて、キリストによって示された神の愛が私たちから離れてしまったことはほんの僅か一瞬たりともなかった。私たちは今そのことを信頼し、神を信じましょう。私も、神の恵みのすばらしさの故に、救われているのだ、と。
この救いは私一人にはとどまらない。「ステファノは主を呼び、言った『主イエスよ、私の霊をお受けください』。ひざまずいて大声で叫んだ『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』。」これはキリスト教会最初の殉教者となったステファノの言葉です。怒り狂う民衆に石打にされました。キリストの福音を宣べ伝えたからです。しかし彼はその死に際に、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。神の恵みは私を憎む者にも向くと信じ、そのことを願っていました。
主イエスさまはこう祈ることを教えてくださいました。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。私たちは、神さまに赦して頂いたことでだけ生きています。まったく、完全に、私たちは神の恵みの中に生かされています。神が赦してくださった。だから私たちも隣人を赦します。いや、主の祈りはもっと積極的に、私たちも隣人を赦しましたから、私たちの罪を赦してください、とまで言うのです。神の恵みが私から溢れ出ている。奇跡のような現実を私たちは生きることが出来る。それがキリストの私たちに向けておられる確信です。
神の恵みが、今日現れました。クリスマスを祝うこの日、私たちに必ず起こるとキリストがおっしゃる奇跡に、わが身を委ねましょう。

2021年12月25日土曜日

2021年12月25日の聖句

モーセは語った:私があなたがたに命じたことをすべて守り行いなさい。何事も付け加えたり、減らしたりしてはならない。(申命記13:1)
これは神の戒めです。神のみ子のイエス・キリストの名を信じ、互いに愛し合うこと。(1ヨハネ3:23)

私には三人の子どもがいますが、大きくなるにつれて少しずつ知恵がついてきました。最近は言い訳やごまかしをすることもあります。ちゃんと耳を傾けると子どもの言い分の方が正しいこともありますが、そうではないこともあります。してはならない約束を守れなかったときに、「確かにお父さんはこう言っていたけど、それは本当は○○という意味だから、心の中でそれを大事にしていれば、実際には何をしたって良いんだ」などと言い出したら、きっと大きな雷が落ちることでしょう。火を見るよりも明らかです。ところが、私たちはこと神さまとの関係においては、いろいろともっともらしい言い訳をして、神さまの戒めを守らない自分を正当化することに長けています。
しかし、聖書は言います。「私があなたがたに命じたことをすべて守り行いなさい。何事も付け加えたり、減らしたりしてはならない。」ここには一切の譲歩もありません。すべての戒め。何事も付け加えず、減らさず、すべて神が命じたとおりに行いなさい、と言います。そしてその神の戒めの内容を、今日の新約聖書はこのように言うのです。「神のみ子のイエス・キリストの名を信じ、互いに愛し合うこと。」私たちが神の御子イエス・キリストの名を信じること、そして互いに愛し合うこと、そのことにおいて神さまは妥協をなさらない。
キリストのお名前を信じることも、互いに愛し合うことも、両方とも愛に関わることです。キリスト御自身が、最も大切な第一の戒めとして、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛すること、そしてそれと同じように大事な第二の戒めとして、隣人を自分のように愛することと命じておられます。神さまは、私たちに愛を求め、愛することをお命じになるのです。
それは、何よりも神様ご自身が満ちあふれる愛のお方でいらっしゃるからに他ならない。何よりも先に、神が私たちを愛してくださった。主イエス・キリストがお生まれになったこと、十字架にかかったこと、それが神の愛のしるしです。この神の愛を私たちがより深く知るために、私たちは愛の使命を帯びてこの世界に生きていきます。

2021年12月24日金曜日

2021年12月24日の聖句

私を見捨てないでください、主よ、私の神よ、私から遠ざからないでください。(詩編38:22)
イスラエルの神である主は、褒め称えられますように。主は御自分の民を訪れて贖われたからです。(ルカ1:68)

「私を見捨てないでください、主よ、私の神よ、私から遠ざからないでください。」この祈りは、神を信じる誰もが、自分なりのいろいろな言葉で祈ってきた祈りではないでしょうか。神さま、見捨てないでください。救ってください。私を捨てないでください。助けてください。神さま・・・。
クリスマスは、神さまがこの祈りに究極的な答を下さった日です。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と、天使が空で告げました。あなたがたのための救い主が、今日、お生まれになった。神さまは私たちを見捨ててはおられないのです。私たちを放ってはいない。私たちから遠く離れてはいません。近づいてきてくださいました。私たちのところに来てくださいました。それが、イエス・キリストがお生まれになったことの意味です。
「イスラエルの神である主は、褒め称えられますように。主は御自分の民を訪れて贖われたからです。」主なる神様は、ご自分の民である私たちを訪れてくださいました。神さまの方から来てくださいました。キリストがお生まれになった。だから、私たちは神から見捨てられてはいない。神が私たちをお見捨てになるということは、まったくありえないことです。
今夜、ついに今年のクリスマスを迎えます。キリストがお生まれになったことを覚える聖なる夜。神が私たちを見捨てずに、ご自分の独り子を私たちに与えてくださった。私たちは天使が告げた私たちの救い主を、今日、新しい信仰をもって迎えましょう。神は、私たちを決して見捨てることも見放すこともない!

2021年12月23日木曜日

2021年12月23日の聖句

天の神に向かって両手とともに私たちの心を挙げよう。(哀歌3:41)
祈りと願いを止めてはならない。いつも霊によって祈り、そのために目を覚ましていなさい。(エフェソ6:18)

国や文化によって、祈りのスタイルはずいぶんと違うようです。フィリピンの教会では、大きな声で祈っている人が多かったように感じました。アメリカでもブラジルでも、それぞれのスタイルで祈りをささげているのでしょう。私たちは手を組んで、どちらかというとうつむいて祈る人が多いように思います。ところがイスラエルでは、むしろ手を上げて、天を仰いで祈っていたようです。
「天の神に向かって両手とともに私たちの心を挙げよう」。これは、旧約聖書の哀歌の一節です。戦争で祖国が敗れて国が破滅したことを悲しむ祈りの言葉であり、また、そこに至るまで重ね続けた罪を悔い改める祈りの言葉です。そういう祈りの時にも、やはり手を上げて、天を仰いで祈っている。更に、具体的に何を祈っているかが続く次の節に書かれています。「わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした。」これも、悔い改めの言葉です。自分たちが重ねた罪の数々がこの破滅を呼び込んでしまった。私たちの罪が神に裁かれた。そのことに深く思いを向け、罪を認め、悔い改めています。更に続く節では、「わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう」と祈ります。主なる神様の御許へ帰ろう、と言うのです。
この祈りを手を上げて祈っていたということは、私たちの感覚とは違うのではないかと思います。むしろ私たちであれば顔を上げられないような祈りです。しかし、はるかに天を仰ぎ、他ならぬ神の憐れみをこいねがって、手を上げて祈る。これもまた真実な祈りではないでしょうか。
「祈りと願いを止めてはならない。いつも霊によって祈り、そのために目を覚ましていなさい。」祈る者として、目を覚ましていなさい聖書は告げます。神の前で祈ること、神に願うことを止めてはならない。それぞれのあり方で、真摯に神の前で注ぎ出す心を、神は必ず憶えてくださっています。

2021年12月22日水曜日

2021年12月22日の聖句

主は言われた「私は赦した、あなたが願ったように」。(民数記14:20)
イエス・キリストにあって、私たちはその血による贖い、罪の赦しを受けています。それは神の豊かな恵みによります。(エフェソ1:7)

今日の旧約聖書の御言葉は、モーセと共に荒れ野を旅するヘブライ人たちに起こった出来事です。彼らは神さまが与えると約束してくださった地を目指して、荒れ野を旅していました。その途上で、約束の地を偵察するための12名の斥候が派遣されることになりました。派遣されて現地を見て、帰って来て、その中の10人が言います。「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。」要するに、人も町も大きくて強く、自分たちがそこに攻め上っても勝てる見込みは無い、と言ったのです。
人々はその言葉を聞いて震え上がり、不平を言い出します。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。・・・それくらないなら、エジプトに引き渡されるほうがましだ。」
12人の斥候の内の10人は否定的なことを言いましたが、二人だけ、違うことを言った者もいます。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」必ず神は約束を実現して、その土地を私たちに与えてくださるから、神を信じて進もうと訴えた。しかしその言葉は人々の耳に届きませんでした。
不安と不満に引きずられたヘブライ人たちの罪。それが、今日の旧約聖書の御言葉の中で問題になっている罪です。神さまは、モーセの必死の執りなしを聞き入れて、彼らを赦すと言ってくださった。それが今日の御言葉です。
このカナン偵察隊の話は、私たち神を信じる者の弱さをえぐり出すような話です。誰にでも身に覚えがある出来事ではないでしょうか。神さまを信頼しきることが出来ない、不安や不満に負けてしまう。神さまを信じる旅を途中で放棄してしまう。神さまに対して不誠実な振る舞いです。しかし、それでもなお神さまは私たちを赦し、この赦しのお陰で私たちは今も旅を続けている。それが、今このときの私たちの姿です。
私の今は、神さまの赦しの中を生きている「今」。それが、真実なことです。このかけがえのない神の愛に支えられている一日を、今日も私たちは生きていくのです。

2021年12月21日火曜日

2021年12月21日の聖句

栄光の王とは誰か。強く力ある主。戦いに力ある主。(詩編24:8)
民は、イエスの前を行く者も、後に従う者も叫んで言った「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の名によって来られる方に。ホサナ、いと高きところに」。(マタイ21:9)

「ホサナ」とは、「救ってください」という意味の言葉です。人々はエルサレムに入城するイエスをたたえて叫びました。「ホサナ!」主イエス・キリストを迎えるのに、こんなにふさわしい言葉があるでしょうか!主イエスよ、救ってください。私たちを救ってください。私たちを神の国に迎えてください!
「栄光の王とは誰か。強く力ある主。戦いに力ある主」と言っています。主イエス・キリストは、強く、力ある方。私たちを救う力を持っておられる方です。私たちを罪の泥沼から救い出すために来てくださった私たちの王。この方は私たちを救う権威も、力も持っておられます。
今日の旧約聖書の御言葉として与えられているこの詩編のでは、主なる神様を「王」と呼んでいます。私たちの王、私たちを救う力を持っておられる私たちの主は、まさに王としてエルサレムに入城しました。王として、イエスは子ろばにのってエルサレムに凱旋しました。その出来事を、マタイは旧約聖書を引用しながらこのように紹介しています。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。私たちの王は、子ろばに乗って、私たちを救うために来られた。私たちの王は、ろばの子に乗る柔和な王様。キリストの力や栄光が、柔和さの中に輝いているというのは、本当にうれしいことです。私たちはイエスさまの優しさによって救われるのです。
昨日、YMCAの保育園の礼拝のお手伝いに伺いました。最近、0から3歳の乳児さんの礼拝もするようになりました。本当に小さな子どもたちと一緒にクリスマスの礼拝を献げました。イエスさまは優しい方です。こういう子どもたちを心から愛しておられます。王イエスは一人ひとりを抱っこして、頭に手を置いて祝福してくださる方です。主イエスさまはそういう愛で、私たちのことも愛してくださっています。それが私たちの王様。この愛が私たちの王様の栄光です。この優しさが、私たちの王様の力なのです。キリストの優しさによって、今日もあなたの一日に祝福がありますように。

2021年12月20日月曜日

2021年12月20日の聖句

私が地を造り、そこに人間を創造した。(イザヤ45:12)
この方はご自分のものたちのところに来られた。(ヨハネ1:11)

キリストが人の子としてお生まれになったことを祝うクリスマスが、一日、また一日と近づいてきています。神の子、キリスト。天と地とをお造りになった方の独り子です。人間を造り、命を与えた方の子です。この方が、一人の人間としてお生まれになった。それがクリスマスの奇跡です。
「この方はご自分のものたちのところに来られた。」キリストは、私たちのところへ来てくださる方です。私たちのことを知らんぷりしたり、放っておかれたりせずに、キリストは私たちのところへ来てくださる。一人の人間として。
パウル・ゲルハルトという人の作詞した「まぶねのかたえに」という讃美歌があります。「まぶねのかたえに われは立ちて、受けたるたまもの ささげまつる。いのちの主イエスよ、わが身も心も、とりて祝したまえ」と歌いだします。本当に美しいクリスマスの讃美歌です。日本語の歌詞の第4節でこのように歌います。「きらめく明か星 うまやに照り、わびしき乾し草 まぶねに散る。こがねのゆりかご 錦のうぶぎぞ きみにふさわしきを。」主イエスさまは、神の子です。黄金の揺り籠がふさわしく、錦の産着を着ても足りない方です。しかし、キリストは、ご自分の神の子らしさを、わびしき乾し草をベッドとし、うまやに生まれることによってお示しになりました。それが、神の子が人の子として私たちと共にいるということです。キリストは貧しくなって、惨めになって、低く低くへりくだって、私たちと共にいてくださるのです。この侘しさの中に神の子キリストの栄光が輝いています。
私たちのところへ来てくださったキリストは、私たちと共にいてくださいます。この方が負った苦しみは私たちの苦しみであり、この方が受けた傷は私たちの受けるべきだった傷です。飼い葉桶の中には、すでに十字架があります。クリスマスツリーの根元には、十字架があります。私たちは、私たちのところへ来てくださった神の子のへりくだりによって、救われたのです。

2021年12月19日日曜日

2021年12月19日の聖句

主を求める者たちの心は喜べ。(詩編105:3)
喜びなさい、自らを整えなさい、忠告し合いなさい、思いを一つにし平和を保ちなさい。そうすれば愛と平和の神はあなたがたと共におられます。(2コリント13:11)

喜びなさい!聖書から、この言葉が響いています。聖書のそこかしこから、こだまして高らかに宣べます。「喜びなさい!」私たちは喜ぶことで、思いを一つにし、平和に生きることが出来るのです。
昨日、教会で子どものクリスマスの祝いをしました。近所に住む友人が子どもたちを集めてコーラスを教えています。その子たちに教会のクリスマスを経験させてあげたいので協力してもらえないかと言われ、喜んで一緒にクリスマスの礼拝を準備しました。クリスマスの讃美歌を何曲か一緒に歌って礼拝しました。合唱を習っている子どもたちが練習してきただけあって、美しい歌声でした。クリスマスのお話をしました。よく聞いてくれました。私が伝えたかったのはただ一つ、クリスマスは、イエスさまがみんなのことを大好きだと言ってくださっている日だ、ということです。これは大人も同じです。大人も子どもも、神さまの大好きを頂いて生きています。
どんな人でも、本人が知らなくても、必ず神さまを求めています。主イエスのお名前はまだ知らないかも知れない。クリスマスの意味も考えたこともないかもしれない。それでも、どんな人も神のかたちに造られているのですから。心の深いところで必ず神を求めていると私は信じています。だから、クリスマスはすべての人の喜びの日です。神の子が私たちと同じ肉をとって、私たちの間に生まれたのです。神さまが私たちのための平和になってくださったのです。クリスマスは喜びの祝いの日です。
喜びなさい。聖書は私たちに訴えます。聖書は私たちに告げます。喜びなさい。主イエス・キリストがお生まれになったのだから!キリストがあなたと共におられるのだから!喜びなさい。大いに喜びなさい。私たちは、この神の呼び声の中で今日という一日を歩んでいきます。

2021年12月18日土曜日

2021年12月18日の聖句

神は彼らを男と女に創造され、祝福し、彼らに「人」という名前を与えられた。(創世記5:2)
神があなたがたに、憐れみと平和と愛とを豊かに与えられますように。(ユダ2)

神さまが私たちに人間を造ってくださったとき、神さまは私たちを祝福なさいました。これは、私たち一人ひとりの命を与えたときのことでもあります。私たちは、その生の初めの時から神の祝福の中に存在している。これが私たちの存在の根源的な事実です。
私も、神の祝福の中に生かされている。この事実を今日、新しい思いをもって受け入れてください。私も祝福されている!
「神があなたがたに、憐れみと平和と愛とを豊かに与えられますように。」私たちを今日一日の新しい命に送り出す祝福の言葉です。私たちは、神の憐れみと平和と豊かな愛の中に生かされています。そうは見えない現実が自分を取り囲んでいると思われるかも知れません。しかし、どうぞ信じてください。私も根源的な神の祝福の中に生かされているのだ、と。神の憐れみによって、今日私は生きている。神との平和な関わりの中に、私は今日生きている。クリスマスにキリストがお生まれになったということがその証拠です。神の愛の中に、私は今日生きている。キリストがあなたのために十字架にかけられたことがその確かなしるしです。神さまの憐れみは、平和は、愛は、どのようなときにも決して変わることがありません。無くなってしまうことが決してないのです。
神さまは、ご自分がお造りになった者たちを祝福して、「人」と名付けた、と聖書は言います。古代のユダヤ社会では、名付けは、父親が子をわが子として認めるというしるしだったと聞いたことがあります。産まれた子をわが子として受け入れる。神さまは、私たちに「人」という名を付けた。私たちを受け入れてくださった。ご自分の子として。
人間の親はあまりにも不完全ですから、育児を放り投げてしまったり、子どもにとってよくない振る舞いをしてしまったり、親であることを自ら否定してしまうようなことも珍しくありません。どの親も多かれ少なかれ身に覚えがあるのではないか。しかし神という親はそうではない。私たちに向ける根源的な祝福を放棄するようなことは、決してなさらないのです。神の祝福が変更されることはない。神の憐れみも、平和も、愛も、今日もあなたを豊かに覆っています。

2021年12月17日金曜日

2021年12月17日の聖句

主こそ私の受ける分、と私の魂は言う。だから私は主を待ち望む。(哀歌3:24)
あなたがたは、キリストを見ずに愛しており、今は見ずに信じています。あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れるでしょう。信仰の目的、すなわち魂の救いに達した時には。(1ペトロ1:8~9)

「主こそ私の受ける分」と言っています。主ご自身が私のための報酬です、という告白です。この言葉は旧約聖書の哀歌に収められています。哀歌。哀しみの歌という言葉の通り、ここには五編の哀しみの歌が残されています。ユダヤの国がバビロンに滅ぼされ、国は完全に崩壊し、主だった人々は遠いバビロン、今のイラクの辺りまで強制連行されてしまいました。哀歌はそうやって自分たちの国が崩壊した哀しみを歌う言葉です。生活の基盤や、自分たちの国の誇りや、信仰までも完全否定されてしまうような出来事です。家族も引き裂かれたに違いないし、地域コミュニティも無くなりました。土地に結びついたそれまでの生活も継続できません。何も無い。人とのつながりも無い。このような悲惨を嘗めるものたちの哀しみの歌の中で、言うのです。「主こそ私の受ける分」と。「だから私は主を待ち望む」と言うのです。
こんなに深い神さまとの交わりはありません。何に頼れなくても、どこにも確かさが無くても、どん底の現実にたたき落とされても、主ご自身が私の受けるべき報酬でいてくださる、だから私には望みがあると言い切るのです。上っ面ではない、骨身にしみた神への信仰、神への愛に生きている。
「あなたがたは、キリストを見ずに愛しており、今は見ずに信じています。あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れるでしょう。信仰の目的、すなわち魂の救いに達した時には。」この手紙を書いたのは、使徒ペトロです。三年近くにわたって主イエスと寝食を共にした人。イスラエルの中を一緒に旅してまわった人。主のお顔を見、主のお声を直接聞いた人。その人が言います。「あなたがたは、キリストを見ずに愛しているね」と。言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れているね、と。ペトロが言うのは、私たちのことです。私たちが主ご自身を報酬として喜んでいることを見て、ペトロも喜んでいる。主への愛の素晴らしさ、そしてそれ以上に主ご自身の愛のすばらしさを誰よりも知る人が、私たちの信仰のすばらしさを私たちと一緒に喜んでいます。

2021年12月16日木曜日

2021年12月16日の聖句

主、あなたがたの神は、上は天、下は地で神であられる。(ヨシュア2:11)
イエスは言われる「私はあなた方のところにいつもいます、世の終わりの時まで」。(マタイ28:20)

今日の新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書の最後の部分に書かれている主イエスのお言葉です。この言葉の初めのところで、主イエスはこのようにおっしゃっいます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。私たちといつも共にいてくださる方、これまでも共にいてくださったし、今も共におられ、これからも世の終わりまで共にいてくださる方。この方は、天と地の一切の権能を神から授かっておられるのです。
「権能」ということばを辞書で引いてみると、このように書いてあります。「権利を主張・行使出来るように、法的に認められた力。」主イエスは、天でも地でも、ご自分の権利を主張することが出来るし、その力を持っておられる。しかも「一切の権能」です。すべてのことにおいてご自分の権利を主張できるし、それを行使する力も持っておられる。神さまがそれを認められている。つまり、キリストは天においても地においても、私たちの神に他ならない。「主、あなたがたの神は、上は天、下は地で神であられる」。
昨日、娘たちが通っている幼稚園でクリスマスページェントがありました。それぞれ天使ガブリエルと羊の役をやっていました。子どもたちが喜んで演じていたのでとても楽しかったのですが、ページェントを見ながら、クリスマスの出来事をもう一度考え直す機会にもなりました。クリスマスは、天と地の一切の権能を持っておられる方が、人間の赤ちゃんになって生まれたことを覚える日です。主イエスは生まれたときに飼い葉桶に寝かされました。このことを羊飼いに告げた天使は言いました。「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。飼い葉桶に、天と地の一切の権能を神から与えられた方、神の子が寝ているのです。
私たちと世の終わりまで共にいてくださる方は、この世界の王です。すべてのことを自由にする権利も、その力も持っている神さまです。その方が飼い葉桶に寝ている。いちばん低いところに下ってこられた。言葉を失います。あまりのことが起きたということに気づくと、その途方もなさに、恐ろしくなります。キリストは、低く低くへりくだることによって、ご自分の神としての偉大さをお示しになったのです。どこまでもへりくだった天と地の神さま御自身が、私たちと共におられます。

2021年12月15日水曜日

2021年12月15日の聖句

主はこう言われる。「あなたの被害は絶望的にひどく、傷は治らない。さあ、私があなたを再び健康にして、あなたの傷を癒やす。」(エレミヤ書30:12,17)
この方の打ち傷により、あなたがたは癒やされたのです。(1ペトロ2:24)

今朝の御言葉も、この旧約聖書とこの新約聖書の御言葉を一緒に読むことによって、まったく新しい福音の響きを立てています。もとのエレミヤ書の御言葉は、イスラエルの民に語られた言葉です。イスラエルのひどい現実を見つめながら、しかしその傷を神が癒やしてくださる、という約束の言葉として語られているのだと思います。
ところが、今朝私たちは新約聖書のペトロの手紙の一緒にこの言葉を聞いています。「この方の打ち傷により、あなたがたは癒やされたのです。」ここで言われている「この方」とは、主イエス・キリストのことです。この方は十字架にかけられた。私たちの罪をその身に負い、死なれた。この方の打ち傷によって、私たちは癒やされたのです。私たちの罪が負わせた傷です。私たちの過ちの痛みです。それをキリストが全部引き受けてくださって、私たちは癒やされました。私たちはキリストの傷によってしか、キリストの流した血によってしか癒やされないのです。
「あなたの被害は絶望的にひどく、傷は治らない」。この言葉は、十字架にかけられたキリストにおいては真実です。キリストは十字架の傷のために陰府にまで降りました。ところが私たちの傷については、もはや事情が違う。私たちの傷はキリストの傷によってもういやして頂いたのだから、私たちには治らない罪の傷がありません。罪の傷はもう完全に癒やされています。
そして更に御言葉は続きます。「さあ、私があなたを再び健康にして、あなたの傷を癒やす。」癒やされようのない傷、治りようのない痛みを、神がいやし、治してくださる。そう。キリストは十字架にかけられ、そして三日目に復活したのです。神がキリストを陰府から引き上げ、墓から復活させられた。私たちはキリストの傷によって癒やされ、キリストの復活によって生きる者となりました。私たちのためにキリストは十字架にかけられ、私たちのためにキリストは甦られた。私たちは今日の二つの御言葉から、この福音の根源的な事実を聞き取ることができます。
私たちは、今もなお悩みもあるでしょう。傷もあるし、痛みもあります。しかしそれは根本のところでは癒やされています。私たちのために痛みを負った方が、私たちのために死に打ち勝った方が、私たちを癒やし、再び立たせてくださるからです。

2021年12月14日火曜日

2021年12月14日の聖句

私は地では旅人です。(詩編119:19)
ですから、自分がどう歩いているか、こまかく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵ある者として、機会を十分に生かしなさい。(エフェソ5:15~16)

今日の旧約聖書と新約聖書は、とても面白い組み合わせだと思います。私は地では旅人。旅人には旅人としての歩き方がある、と言うのです。それは「知恵のない者としてではなく、知恵ある者として、機会を十分に生かす」という歩き方です。
旅の一つの醍醐味は、予期せぬ出来事だと思います。私はあまり予定を立てないで知らない町を歩くのが好きです。何年か前にブラジルに行ったときのこと。日本への帰り道だったと思いますが、飛行機の乗り継ぎのために米国の空港で長い時間待たされたことがありました。せっかくなので町に出てみました。公園に行ったり、町の様子を眺めたりして過ごし、インターネットでどういう町なのかを調べてみると、キング牧師にゆかりのある教会があることが分かり、そこまで行ってみることにしました。キング牧師の父親がかつて牧師として仕えていた教会で、若き日のキング牧師もその教会の副牧師を務めたのだそうです。簡単なミュージアムがあって、思わぬかたちで尊敬するキング牧師の足跡をたどることができました。旅の途上での一つの出会いだと思います。
旅人としての歩き方。知恵を使って、機会を十分に生かす。それは一つの言い方をすれば、出会いの機会を逃さないということではないでしょうか。旅では思わぬ出来事に遭遇するし、思ってもみなかった人と出会います。出会いは神さまからかけがえのないプレゼントです。人との出会いを通じて、思ってもみなかった出来事との遭遇を通じて、私たちは新し思いをもって神様と出会い、より深く神さまと交わることができます。
この出会いに気づくためには知恵が必要です。神さまが起こす新しい出来事に開かれた柔らかい心が必要です。私たちを新しい世界へ導く神さまの「時」が、私たちの前にも開かれている。それは時には嬉しい出会いばかりではなくて、歓迎したくないような出会いもあります。しかしそういう厭なことからでも神さまはすばらしい世界を開くことがおできになります。神さまを信頼する知恵が必要です。新しい出会いを主にあって期待する知恵が出会いの喜びを広げます。今日もお一人おひとりの旅路に、神さまの祝福がありますように。

2021年12月13日月曜日

2021年12月13日の聖句

主よ、小さい者たちが辱められることのないようにしてください。(詩編74:21)
エリサベトの隣人や親類は、どんなに大きな慈しみを主が彼女に示されたかを聞き、共に喜んだ。(ルカ1:58)

エリサベトは二つの意味で「小さい者」の一人だったのではないかと思います。一つは、女性であるということ。2000年前のユダヤの社会では、男と女はまったく違う扱いを受けていました。人数を数えるのは男だけ、遺産を受け継ぐ権利も基本的に男だけ。そういうことから始まって、生活のありとあらゆるところに及びます。
もう一つには、彼女には子どもがいませんでした。イザヤ書54:1にはこのような言葉があります。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。」これは主なる神様の呼びかけ、祝福の言葉です。逆説的に、子を産んだことのない人がどれだけ差別され、生きにくかったのかということがよく分かります。世から受けることのなかったすべての報いを、主なる神様御自らが与えようと約束しておられるのです。
エリサベトはザカリアという祭司の妻でした。この夫婦について聖書はこのように言います。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年を取っていた。」今日の旧約聖書では「主よ、小さい者たちが辱められることのないようにしてください」と祈っています。小さい者というのは、社会によって「小さくされている者」です。そして、何らかの烙印を押されて恥を負わされている。「私は恥ずかしい存在だ」と思わされるような呪いを社会にかけられている人々です。
神さまは、エリサベトとザカリアの夫婦に赤ちゃんを与えてくださいました。しかしそれは小さくされていた人が単に大きな人になった、という話ではありません。子供の出産にあたって、ザカリアは口が利けなくなりました。彼自身と神さまとの関わりを問われてのことです。夫妻にとって赤ちゃんが生まれるまでの時間は、静かに神さまの前に祈るときになったはずです。「エリサベトの隣人や親類は、どんなに大きな慈しみを主が彼女に示されたかを聞き、共に喜んだ。」ここに現れたのは、主がいつも関わり、例え他人や自分が恥の烙印を押しても決して慈しむことをやめない神さまの愛です。神さまは、どのようなときにも、あなたに向ける慈しみを変えることも、なくしてしまうこともなさいません。今日もキリストの祝福があなたにありますように。

2021年12月12日日曜日

2021年12月12日の聖句

私は私の聖なる名を知らせる、私の民イスラエルの中に。(エゼキエル39:7)
イエスは祈られる:私は彼らにあなたの御名を知らせ、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。(ヨハネ17:26)

名前というのは、他と区別をするために必要なものです。同じように赤い太陽でも、朝に昇ってくるから朝日と呼ばれ、夕方に沈んでいくから夕日と呼ばれます。私の名前も、宮井という家族の一員であり、その中でも他の人間と違う岳彦という人間を表すものとして使われます。
そう考えると、本来神さまには名前は必要ないはずです。八百万の神か何かであれば名前がないと区別がつかないので必要かもしれません。しかし真の神さまは唯おひとり、唯一無二の方ですから、神であるということ以外の名前は必要ないはずです。あるいは名前をお持ちでも、それを私たちに知らせる必要はありません。ところが神さまは「主」というご自分の聖なるお名前を私たちに知らせてくださいました。これは主なる神様のへりくだりです。私たちが主とお呼びすることを喜んでくださる。神さまの私たちへの愛です。
「私は彼らにあなたの御名を知らせ、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」主イエスさま御自身が、神さまのお名前を私たちに伝え、神さまの愛を私たちに知らせるとおっしゃいます。主イエスさま御自身が神さまから受けた愛によって、私たちを包んでくださる。私たちが神さまを知り、そのお名前を知って祈るとき、私たちは神さまの愛の中に生きているのです。
主イエスは、私たちに「父よ」と祈ることを教えてくださいました。神さまは主イエスさまにあって、ご自分の「父」というお名前を教えてくださった。この方は、すべての父と呼ばれる者の父です。この方は、全き、絶対的な愛のお方です。私たちのために謙って名前を教え、私たちが「父よ」とお呼びして祈ることを喜んでくださり、私たちをご自分の愛の中に生かすことを御自身の喜びとしてくださったのです。ですから、私たちは祈りましょう。「主よ」と。「父よ」と。そしてこのお方の愛の中に憩いを頂きましょう。

2021年12月11日土曜日

2021年12月11日の聖句

神はもろもろの民の計画をくじかれる。(詩編33:10)
知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神はこの世の知恵を愚かなものになさったのではありませんか。(1コリント1:20)

私たちのどんなに良いと思った計画も、これで行こうと考えていた期待も、神さまは時に打ち砕いてしまわれます。私たちは計画を変更せざるを得ず、理不尽な思いが残ることもしばしばです。
3月11日の震災で福島第一原子力発電所の事故による被害を受けた原町教会という教会があります。震災後に私も一度伺ったことがあります。幼稚園が併設されていますが、園庭に大きなモニタリングポストがありました。あの震災の翌月の4月に朴牧師という若い先生がこの教会の牧師として就任することになっていました。震災後の3月中に彼女は一度故郷の韓国に戻り、ご両親に会ってから原町教会に向かいました。あの時の恐怖感を思い出すに、相当の覚悟をもって向かったに違いありません。
実はこの朴牧師は、国立のぞみ教会の唐澤牧師の神学校での同級生なのだそうです。それで、私もそのような話を唐澤牧師を通して伺いました。しばらくして少しずつ落ち着いてきたころに、国立のぞみ教会で朴牧師を招いて礼拝の説教をして頂いた。その時の説教題は「遠足に雨を降らせる神さま」というものだったそうです。残念ながら私はその説教は聞けませんでしたが、どういう話をなさったのか、想像をかき立てる題名です。神さまは時に私たちの計画や期待を裏切るし、祈っても無駄だと思われることも起こる。しかし、神さまは私たちには思ってもみなかった救いの御業をなさる。そんな話をなさったのかな、と想像しています。きっと万感の思いで説教なさったのでしょう。
私たちがどんなに知恵を尽くし、あるいはこの世の最高の知者が計画しても、私たち人間がすることは挫折をするし、その計画が中断させられることはしばしばです。しかし神さまはむやみやたらに私たちに挫折感を味わわせるためにそのようになさるのではなくて、私たちの知恵にはとても生み出せないもっとすばらしい出来事のために、私たちの計画を時には挫くのです。それは私たちの目には大きすぎて、見えません。「よかった」なんて軽々とは言えない事柄の中に突き落とされてしまう。しかし、それでも、神さまのなさることは私たちの思いを超える救いの御業につながる。私たちはそう信じています。この神の恵みと慈しみが、今日もあなたにありますように。

2021年12月10日金曜日

2021年12月10日の聖句

私は怒りであなたを打ったが、恵みであなたを憐れんだ。(イザヤ60:10)
神は私たちに不利な規定に基づく債務証書を贖い、それを破棄して十字架に釘付けられた。(コロサイ2:14)

債務証書という言葉があります。会計の言葉です。神さまの手もとに、私たちの人生の勘定帳がある。一つひとつ、私たちの人生の良いことと悪いこととが書いてある。差し引きすると、その勘定帳は黒くなっているのか、赤くなっているのか。神さまのおつけになっている私たちの勘定帳には何と書いてあるのでしょうか。
そこには「一万タラントンの借金あり」と書いてあります。1タラントンは6000デナリオン。1デナリオンは労働者一日分の賃金に相当します。一万タラントンは6000万日(約16万年!)飲まず食わずで働かないと返せない額です。返済は絶対に不可能です。神さまの前には私たちの債務証書が積み上がっています。債務不履行です。
神さまが公正で厳格に私たちの債務の返済をお求めになったとしたら、私たちは皆首をくくるしかありません。しかし神さまはそうはなさいませんでした。あの一万タラントンの借金をしていた僕に対して、神さまは彼の借金を帳消しにしてやりました。聖書は言います。「私は怒りであなたを打ったが、恵みであなたを憐れんだ。」神さまは怒りをもって私たちに臨むのではなく、恵みによって私たちを憐れみ、私たちの借りを全部帳消しにしてくださったのです。
私たちがもしも愛の行いに生きることができたとしたら、それは、愛の借りをお返ししているだけのことです。いつまで経っても返し終わることはありません。しかし、それは私たちにとっては喜びです。なぜなら、神さまは私たちの借りを、神の恵みによって憐れみ、赦してくださったからです。私たちは神が赦してくださった借りを、せめて少しでもお返ししているに過ぎない。それが神の愛に応えるということです。
私たちの借りは主イエス様が全部引き受けてくださいました。キリストを信じて洗礼を受けるというのは、結婚のように私たちの借金が全部キリストの借金になった、ということです。キリストが私たちの花婿として全部引き受けてくださった。そしてキリストが持っておられた神の恵みと慈しみがすべてわたしたちのものとなった。これがキリストの十字架の意味です。私たちは「愛する」という神さまにお借りしている負債を、既に帳消しにして頂いた借りをお返しするために、今日、小さな愛の業に生きていくのです。

2021年12月9日木曜日

2021年12月9日の聖句

主の日は大いなる日で恐怖に満ちている、誰がこの日を耐えることができようか。しかし、今からでも、と主は言われる、心を尽くして私に立ち帰れ。(ヨエル2:11~12)
主を待ち望んでいる人のようでありなさい。(ルカ12:36)

今、教会はアドベントの季節を過ごしています。「アドベント」という言葉はラテン語で「到来」という意味です。アドベントは到来を待ち望む季節。もちろん、主イエス・キリストの到来です。2000年前にベツレヘムでお生まれになった主イエス様。私たちのために救い主がお生まれになった。この方は、十字架にかけられて復活し、天に昇り、神の右におられますが、やがて再び私たちのところに来ると約束してくださいました。アドベントは、私たちがキリストが再び到来なさるのを待ち望んでいることを新しい思いをもって確認する季節です。
「主を待ち望んでいる人のようでありなさい」。私たちは、主を待ち望む人として、この世で生きていきます。主を待ち望む備えをすることが、私たちの今生きる意味なのです。主が到来するその日を目指して、私たちは生きています。しかしこの主が再び来られる日は恐怖の日だ、と御言葉は告げています。「主の日は大いなる日で恐怖に満ちている」。なぜなら、その日は裁きの日だからです。私の生き方が問われ、私のしてきたことが神さまの前に問われる日、裁かれる日。そう言われて、堂々としていられる人などいないのではないでしょうか。恐ろしいことです。事実、聖書自身が「誰がこの日を耐えることができようか」と言うのです。
「しかし、今からでも、と主は言われる、心を尽くして私に立ち帰れ。」この御言葉を読んで私の心に残ったのは、「心を尽くして私に立ち帰れ」の「私に」という言葉です。神さまが御自ら私たちに呼びかけておられます。この私に立ち帰れ、と。一般的に言って悔い改めた方が良い、恐ろしい裁きがある、と言っているのではありません。神さまが御自ら私たちを呼んでくださっています。「私に立ち帰れ」と。私のところへ帰ってこい、私の愛の中へ戻ってこい。主の日は、誰にも耐えられない恐ろしい日です。自分の一生を率直に問われたら、しかも神さまの目からご覧になって私の知らない私の姿を問われたら、一体誰が顔を上げられるでしょう。判決は死刑、地獄に永久追放されるしかない。しかし神さまは言われます。「私に立ち帰れ。」悔い改めは、神さまに立ち帰ることです。神さまの愛の中に戻ることです。私たちの不利になる罪状書きはキリストと一緒に十字架に打ち付けられてしまいました。死ぬべき者を生かし、赦しようのない者と和解し、神さまは私たちを迎えてくださいます。主の日は裁きの日。しかし大いなる赦しの日。キリストにあって私たちが神さまの元に完全に迎え入れられる日です。私たちはこの日を待ち望んでいます。

2021年12月8日水曜日

2021年12月8日の聖句

この人たちは金で神々を造りました。どうか彼らの罪をお赦しください。(出32:31~32)
兄弟姉妹たち、あなたがたの誰にも、悪く不信仰な心がないように、誰一人、生ける神から離れないように気をつけなさい。日々お互いに語り合いなさい。(ヘブライ3:12~13)

「誰一人、生ける神から離れないように気をつけなさい」と言います。不信仰とは、生ける神から離れることです。生ける神です。神さまは、今も生きて働いておられる。神さまがあたかも死んでいるかのように、あるいは生きることのないただの物や、私たちがどうとでもできる都合の好いカミに仕立て上げることは、してはならないことです。
今日の旧約聖書の御言葉はモーセの祈りの言葉です。エジプトから脱出したヘブライ人たちは、神さまを礼拝するために荒れ野に出て行きました。彼らは遂にかつてモーセが神と出会った山までやって来ます。人々は麓で待ち、モーセが一人で山に登って、そこで神さまから十戒を授かりました。神の民がこれから生きるための道標として、神様ご自身がお与えになった指針です。しかし麓で待っていたヘブライ人たちは次第に待ちくたびれ、民から不満が噴出してきました。モーセはいつまで経っても帰ってこない、もう待てない、だから我々のための新しい神を造ってそれを拝もう、と言い出します。モーセの兄アロンは人々に手持ちの装飾具の金をもってこさせ、それを鋳造して子牛の像を造って言いました。「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」。こうして人々は金の子牛の前で踊り狂い、ささげ物を供え、飲み食いして戯れだした。それを知ったモーセは怒り、神さまから頂いたばかりの十戒の板をたたき割って民を激しく叱責しました。その後、神さまの前に出て彼は祈った。「この人たちは金で神々を造りました。どうか彼らの罪をお赦しください。」
この人たちが造った金の子牛は、これまで信じてきたのとはまったく別の神ではありませんでした。「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言って、その子牛の前で踊り狂ったのです。つまり、真の神さまを金の子牛に仕立て上げて、自分たちに都合の好いカミに堕としたのです。それは許されない罪です。不信仰とは、生けるまことの神を自分に都合の好いカミに堕とすことです。それは自分の不安の穴埋めをし、自分の願望を叶え、私たちに敬虔な振りをさせてくれます。しかしそれは生きていないので、私たちを本当に救うことができません。人間が造った神がどうして人間を救うことができるでしょうか。人間を救うことができるのは、人間を造った神だけです。
私たちの祈りは、私たちの礼拝は、どうでしょう。生けるまことの神をあがめ、この方を畏れ、神の前に誠実に膝をかがめているでしょうか。生けるまことの神だけが、私たちの罪を赦し、私たちを救う力をお持ちなのです。

2021年12月7日火曜日

2021年12月7日の聖句

主は、地を力により造り、天を英知により拡げられた。(エレミヤ10:12)
信仰により、この世界が神の言葉によって造られたことを悟ります。(ヘブライ11:3)

「主は、地を力により造り、天を英知により拡げられた。」神さまがこの世界をお造りになったという事実を、私たちは信仰によって悟ります。神がこの世界をお造りになったこと、神がお造りになったこの世界をご覧になって、「極めて良い」と言ってくださったこと。お造りになった世界を、私たちをご覧になって祝福の言葉をかけてくださったこと。その事実を、私たちはただ信仰によって悟るのです。神さまを信じる人は、この世界が神の祝福に包まれているという根源的な事実を悟っている、本当に幸いな人だと言うことができます。
この世界の始まりを解明する試みは、人類の英知を結集して様々なアプローチで進められています。どのようにして世界が生まれたのか。科学の力は、驚くべき知恵でもってそれを明らかにしていく。しかし、どんな科学者も、この世界がなぜ生まれたのかという問いには答えられない。どうしてこの世界は生まれたのか、どうしてこういう宇宙が生まれたのか。「なぜ」への答えは人間の知恵の外にある。なぜなら、私たちのこの世界そのものへの「なぜ」は、この世界の外を知らなくては、この世界よりも大きな存在によってでしか、答えようがないからです。
しかし神を信じる者は知っています。「主は、地を力により造り、天を英知により拡げられた。」聖書は、この世界は神の力と英知によって造られ、拡げられたのだ、と言います。神さまがこの世界をお造りになった。それは、この世界を愛するためです。神さまはご自分のめぐみの契約の相手として私たちを造り、私たちに命を与え、私たちを愛してくださいました。この世界を神がお造りになったという事実は、この私が、なぜこのような私として生まれ、生き、ここにいるのか、という答でもあります。神は、この私を愛し、祝福を与えるために、私を私として造ってくださった。それが聖書の伝える根源的な事実なのです。
「信仰により、この世界が神の言葉によって造られたことを悟ります。」神を信じる者は、自分の命の秘密を知っています。この世界の根源の秘密を知っています。神の愛によって、神の愛のために、私たちは造られた。神の祝福の相手として、神は私たちを造ってくださった。今日という私たちの新しい一日も、神の愛のゆえに、私たちに与えられた尊い一日に他ならないのです。

2021年12月6日月曜日

2021年12月6日の聖句

神はモーセに言われた。「こちらに近づいてはならない。履物をぬぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからです。」(出3:5)
揺るぎない御国を受けている私たちは、感謝しましょう。神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう。(ヘブライ12:28)

モーセは柴の間で燃え上がる炎の中に、神様と出会いました。近づいてくるモーセをご覧になって、神さまは言われます。「こちらに近づいてはならない。履物をぬぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからです。」モーセは聖なる地、つまり神さまの御前にいたのです。
ここは、荒れ野の中にある山の片隅です。モーセはここで羊飼いをしていました。かつてはエジプトで王子として育てられていましたが、人を殺し、荒れ野に逃れ、この地で結婚してひっそりと暮らしていました。モーセのここまでの歩みを考えてみると、彼自身は、聖くも何ともないし、彼の人生が聖に向かって上昇していたわけでもないし、あるいはこの土地が何かいわれのある霊験高らかな場所というわけでもないただの荒れ野に過ぎなかった。しかし、そういうモーセを選んで、何の変哲もない荒れ野の一隅を選んで、神さまがモーセと出会ってくださった。だからこそここは聖なる場所、神の山と呼ばれたのです。
私たちが神様と出会う場所、そこが聖なる場所です。神さまはどこで私たちに出会われるのか。私たちが生きる、ここです。モーセは、社会的に見れば犯罪者ですし、落伍者です。しかしそんなモーセを選んで、モーセが社会の真ん中にいたときではなく周辺にさまよい出たときに、神がモーセと出会い、その場所が聖なる土地になった。神さまは、今日、私たちと出会ってくださいます。だから、私たちが今いる場所も、聖なる土地です。神はここを神の山にしてくださる。「神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう」と今日の新約聖書の御言葉は言います。私たちは畏れます。神の前、聖なる場所に今いることを。この畏れは、神と出会う畏れです。神が私と共にいてくださる意実への畏れです。今日、ここで、私は神の前に進み出ている。それが、今私たちが祈りを献げているということの意味する事実です。

2021年12月5日日曜日

2021年12月5日の聖句

私にお示しください、主よ。私があなたの真(まこと)のうちに歩むあなたの道を。(詩編86:11)
イエスは言われた:私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)

私たちさがみ野教会の姉妹教会に、希望が丘教会という教会があります。この教会に附属するめぐみ幼児園という小さな幼稚園に、私は通っていました。ここで私はキリストと出会いました。たくさんの讃美歌を教えてもらいました。その中でも特に好きで、幼稚園で歌ったことを今でもよく覚えている曲がいくつかあります。その中の一つに「主に従い行くは」という子ども讃美歌があります。
「主に従い行くは、いかに喜ばしき。心の空晴れて、光は澄むよ。御跡を踏みつつ、共に進まん。御跡を踏みつつ、歌いて進まん。」
御跡を踏みつつ、というところが好きです。主イエスの足跡ということでしょう。一歩前を歩いておられるイエスさまの足跡に、自分の足を重ねるようにして歩いて行く。主と共に歩いて行く。主と共に歩く道の何と嬉しく幸いなこと、と歌います。
主イエス・キリストの道は、喜びの道です。キリストと共に歩む喜びの道です。私たちは一歩前に進んでおられるキリストの足跡にこの足を重ねて、喜びの道を歩きます。キリストが進んでおられるから、この道は真理の道です。もっとはっきり言えば主イエスご自身が道だから、真理の道なのです。「私にお示しください、主よ。私があなたの真のうちに歩むあなたの道を。」主なる神様は、キリストの跡を進むこの道を照らしてくださいます。私たちには、私たちが行く道がこの先どうなるのか分かりません。しかしキリストの福音の中に歩くのですから、絶対に大丈夫です。
キリストと共に歩む道は命の道です。私たちに命を得させる神の愛の福音を聞きながら、私たちは歩いて行きます。神を賛美する賛美の歌を歌いながら、私たちは毎日の歩みを進んで行きます。今日も、私たちは喜んで賛美を献げましょう。道を行きながら賛美を口ずさみ、止まったときには祈りを献げ、いつも喜び、この道を歩いて行きましょう。主イエス・キリストが、今日もあなたと共にいてくださいます。

2021年12月4日土曜日

2021年12月4日の聖句

イスラエルは永遠の救いによって主に救われ、あなたがたは、永遠に恥じ入ることも辱められることもない。(イザヤ45:17)
義しい人々は、彼らの父の家の太陽のように輝く。(マタイ13:43)

今日の御言葉を読んで、私は、私たちの教会の信仰の大先輩、 YTさんのことを思い出しました。かつて、YTさんがまだ地上の生涯を生きておられたとき、お目にかかると、いつも熱い祈りを一緒に献げておられました。キリストの勝利を信じ、神の栄光を仰ぐ内容の祈りをいつも献げていました。本当に熱い信仰者です。
神さまは、私たちを永遠の救いによって救ってくださいます。私たちを太陽のように輝かせてくださるのです。YTさんはキリストの勝利をいつも信じて祈り、神さまの栄光を仰いでおられました。このキリストの勝利に私たちもあずかり、神さまの栄光に照らされて、私たち自身も光のように輝く救いの時が必ず来る、と聖書は言います。
今、私たちが味わっている現実は、それとは全然違うかも知れません。「永遠に恥じ入ることも辱められることもない」と聖書は言います。しかし私たちの現在は、恥や辱めの中にあるかも知れません。神さまを信じているがために、いやな思いをさせられたり、恥をかかされたり、つらい目に遭うことが、私たちには必ず起きます。キリスト御自身が迫害されたのですから。弟子は師に優りはしない。しかしそうであるからこそ、私たちはやがてキリストの栄光にあずかり、キリストの勝利にあずかる。私たちの目の涙がことごとく拭われるときが来る。それが、神さまの約束です。
明日の日曜日は第二アドベントです。私たちは、明日もキリストを待ち望んで、祈りの道を上っていきます。キリストを待ち望む。それは、キリストの勝利を仰ぐということです。神さまの栄光の前にひれ伏すということです。神を礼拝するとき、私たちはキリストの光の中にすでに置かれているのです。

2021年12月3日金曜日

2021年12月3日の聖句

ファラオは雨、雷、雹が止んだのを見て、またもや罪を犯し、心を頑なにした。(出9:34)
神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことを知らないのですか。(ローマ2:4)

神さまはエジプトの国で奴隷として追い使われていたヘブライ人を救うために、モーセを遣わされました。モーセはファラオに会ってヘブライ人たちを解放するように願いましたが、ファラオは徹底的に拒みました。そこで、神さまはモーセを通してしるしを行われました。ナイル川が血に変わってしまったり、蛙が大量発生したり、ブヨが大量発生したりしました。そのたびにファラオは考えを改めて、ヘブライ人たちが国から出て行くことを認めた。しかしすぐにまた心変わりし、やっぱり行くことはまかり成らんと言う・・・その繰り返しです。
今朝の御言葉は、七つ目の災いです。大きな雹が降ってきた。しかもエジプト人のところにだけ降り、ヘブライ人はその害を免れた。今度もやはりファラオは言ったのです。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのは私と私の民である」と。しかし、その後災いが去り、ファラオは再び心を変えました。「ファラオは雨、雷、雹が止んだのを見て、またもや罪を犯し、心を頑なにした。」
このファラオとモーセのやりとりは、昔話のように読んでいると、ファラオは愚かだなと言ってしまいがちですが、我が事として読むと、とても身につまされる出来事です。何度も何度も同じようなことを繰り返し、痛み目を見て反省するのに、すぐにまた元どおり。それは多くの人が身に覚えのあることではないでしょうか。私たちが自分の生き方や習性を変えるのはなんと難しことでしょう。
御言葉は私たちに言います。「神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことを知らないのですか。」私たちの注目を引くのは、「神の慈しみが」と言っていることです。「神の怒りが」とか、「神からの罰が」とか、そういうふうには言っていません。ファラオやエジプトに起こったことを考えると神の怒りや罰と言った方が良さそうな感じさえしますが、神さまはもはやファラオにしたのと同じようには私たちに振る舞わないということではないでしょうか。キリストにあって、私たちのために、神さまは忍耐し、慈しみをもって接してくださる。もしも神さまが、神さまとして当然の怒りや裁き、罰をもって臨んだら、私たちはあっという間に滅びるべきです。しかし神さまは慈しみを選んでくださいました。愛を選んでくださいました。この神の慈しみは、私たちを悔い改めに導く慈しみです。今日、生かされているこの命をもって、神さまの御前に悔い改めの祈りを献げましょう。

2021年12月2日木曜日

2021年12月2日の聖句

私に注目しなさい、私の民よ
私に聞きなさい、私の民よ。
教えは私から出ており、私の公正をすぐにも諸国民の光とするからだ。(イザヤ51:4)
闇が過ぎ去り、既にまことの光が輝いているからです。(1ヨハネ2:8)

日曜日からアドベントを迎えました。アドベントの楽しみの一つは、アドベントクランツです。毎週一本ずつロウソクの火を灯していくと、クリスマスを待ち望む喜びがあふれてきます。特に私は、前の日曜日に灯したロウソクが短くなっていく様子が好きです。先週も礼拝をささげ、その時に火を灯して、その分だけロウソクが燃えて短くなった。今日も新しい一本を燃やして・・・そうやって、毎週少しずつロウソクが短くなっていきます。その分だけ、クリスマスが近づいてきます。クリスマスは光の祭りです。光の降誕祭を、私たちは待ち望んでいます。アドベントは光を待望する季節です。
「闇が過ぎ去り、既にまことの光が輝いているからです」と聖書は言います。私はこの「既に」という言葉が好きです。私たちの目に映るところでは、周りは真っ暗です。光の兆しは私たちには見えません。この世界を覆っているのは神さまの光であるよりも、人間の罪の闇であるとしか私たちには確かめられない。しかし、既に光が輝いています。しかも「まことの光」です。偽りの光、ごまかしの光ではありません。私たちの望みとしても決して裏切られることのない光です。私たちの目をくらますだけの光ではない。まことの光が、もう既に輝いている。闇の中に。私たちを包むや身がどんなに暗くても、神のまことの光がもう既に輝いています。
アドベントは、主イエス・キリストという光を待ち望む時です。私たちは待ち望む。しかし、それはまだない光を遠くに待つということではない。既に来た光を、しかしなお今も待ち続ける。主イエス・キリストという光は来る朝ごとに新しく光り輝くから。今日の私を新しい輝きを持って照らすから。私たちに神の光の祝福を与えてくださる方を、私たちは今日も新しい思いを持って待ち望みます。この方に注目しましょう。この方の御言葉に聞きましょう。私たちを決して闇の中に捨て置くことのない光の福音が、今日新しく私たちに届けられています。

2021年12月1日水曜日

2021年12月1日の聖句

モーセは主に言った「あなたの御顔が前を行ってくださらないなら、私たちをここから、引き上がらせないでください」。(出33:15)
良い羊飼いは羊の先頭に立って行き、羊は従う。羊は羊飼いの声を知っているからだ。(ヨハネ10:4)

私たちの先頭に立って私たちを導いてくださるのは、私たちの羊飼い、主イエス・キリストです。私たちは行く当てのない旅路を進んでいるのではありません。私たちの旅路は、先頭に主イエス様が立ち、私たちを導いてくださっています。しかも、主イエスは私たちの先頭に立ってご自分の御顔を私たちに向けています。私たちは、私たちの優しい羊飼い、主イエス様の御顔を仰ぎながら、今日という一日の旅路を続けていくのです。
私たちには分からないことがたくさんあります。特に現代は、分からなさを加速させる時代だと思います。一昔前からすると考えられないほどたくさんの情報があふれています。テレビで得る情報量は、もう社会の中では少ない部類です。ネットからあふれ出してくる情報のなんと多いこと。そして、なんと不確かなこと。子どもが最近YouTubeを好きになってしまって、野球の情報を仕入れています。面白い番組もありますが、真偽不確かな噂をまことしやかに流布しているものもあります。大人もほとんど無批判に不確かな情報にさらされています。野球だけで話が済めば良いのですが、ネット空間には訳の分からない情報があふれかえっています。ほとんどが匿名で、無責任な言葉です。しかし、なぜか見る者の心を揺さぶり、訴えかけてくる強さを持っている。説得されてしまう人も少なからずいる。そういう巷の声は魂を損ないます。
主イエスは「羊は羊飼いの声を知っている」と言います。そうです。私たちは主イエス様の声を知っているのです。本当に大切な声、私たちに命を与え、神の愛を実現するみ声を、私たちはもうすでに知っています。世の巷にどんな流言があふれても、私たちは私たちの羊飼いの声を知り、そのみ顔を仰いでいるのです。
主イエス・キリストの御声を、耳を澄まして聞きましょう。この声こそが、私たちの命です。聖書の御言葉に耳を傾けましょう。私たちに命を与え、私たちが白髪になるまで背負ってくださる神の語りかけが、ここにあります。神さまを愛し、神さまを礼拝し、祈り、そのみ声に聞くことにこそ、私たちの最高の幸せがあるのですから。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...