2022年2月28日月曜日

2022年2月28日の聖句

主よ、誰が神々の中であなたと同じでしょうか。誰があなたと同じように神々しく聖でしょうか、畏れられているでしょうか、讃美されているでしょうか、不思議を行うでしょうか。(出15:11)
御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。(1ヨハネ1:2)

この世に神々と呼ばれるものはたくさんあります。石や木も神々と呼ばれるし、山や海もそのように見なされることがあります。それどころか、すごい人を「神だ」と形容したり、人ではなく何かの優れた様を「神」という言葉で形容したりもします。経営の神やらサッカーの神やら、いろいろな神がいると言われています。
しかし当然のことですが、「神」と呼ばれたところで本当に神であるわけではありません。人間は人間に過ぎず、物は物に過ぎません。人間のすばらしい技術や業も、それがどんなにすばらしくても神であるわけではない。
「主よ、誰が神々の中であなたと同じでしょうか。誰があなたと同じように神々しく聖でしょうか、畏れられているでしょうか、讃美されているでしょうか、不思議を行うでしょうか。」
例えどんなに神々と呼ばれるものがたくさんあろうとも、聖書が証しする神さまは、ただおひとりです。聖なる、畏れるべき方。讃美されるべき方。ただおひとりの神さま。そのような方は、この方をおいて他にはいない。
使徒ヨハネは、手紙に書きました。「御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。」永遠の命そのものである方、主イエス・キリスト、神のもとにおられる方、この方を見て、私はあなたたちに証しします、と言います。ヨハネが私たちに告げ知らせたキリストの福音は、ヨハネ自身が見た神の御許にある命の証しだ、と言います。つまり、何かの思弁とか抽象的な議論の末に「神はひとりだ」と言って見せているのではなく、私を生かす唯一無二の命そのものであるイエス・キリストと出会い、この方に生かされたところから生まれる証言なのです。
私たちも、今、この命の言葉そのものである方に招かれています。私たちに命を得させるキリストの御言葉が、私たちを神の愛の中へと招いている。神の愛の中で、私たちは、この方の他に神はいないと知ることができるのです。

2022年2月27日日曜日

2022年2月27日の聖句

待ち望め、主を。安心して、悠然と待ち望め、主を。(詩編27:14)
パウロは書いている:私たちの希望は、あなたがたについては揺るぎません。なぜなら、あなた方が苦難も共にし、また慰めを共に得たことを知っているからです。(2コリント1:7)

パウロはコリント教会の仲間たちに書いた手紙に、「私たちの希望は、あなたがたについては揺るぎません」と記しました。教会は、希望を共有する共同体です。同じ望みに生きる者たちの共同体、それが教会です。
同じ望みとはいかなる望みなのか。「なぜなら、あなた方が苦難も共にし、また慰めを共に得たことを知っているからです」とパウロは書きます。あなた達コリント教会の人々は、私と苦難を共にしてくれた。私と一緒にあなた達も苦しんでくれた。しかしそれだけではない。ただ一緒に苦しんだというだけでは、連帯感は生まれても希望は生まれません。私たちは苦難を共にし、それだけではなく、慰めをも共に得た。同じ慰めに生かされたではないか、とパウロは言います。私たちは共に苦しみ、そして共に慰めを頂いた。
その慰めの源泉についても、パウロはこの手紙にはっきりと書いています。「神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが私たちに満ち溢れているように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。」この慰めは、キリストから溢れ出てくる慰めです。私たちがこの苦しみの中にあってもキリストのものであり、この苦しみはキリストの苦しみが満ち溢れて及んできたのだ、と知ることが許されているところに生まれる慰めです。私たちがキリストを宣べ伝えるために負った苦しみ、隣人を愛するために引き受けた苦しみ。そのような苦しみを通して、私のために苦しんでくださったキリストを、私たちはより深く知ります。
「待ち望め、主を。安心して、悠然と待ち望め、主を。」安心して、悠然と、主イエス・キリストを待ち望むことができるのは、この方が私を慰めてくださるからです。そのことを深く知っているからです。ここに慰めがある。ここに希望がある。だから、私は今安心して、悠然とキリストを待ち望む。これが、私たちの信仰です。

2022年2月26日土曜日

2022年2月26日の聖句

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。(詩編27:1)
イエスは言う:私に従うものは誰でも、闇の中を歩きまわることなく、命の光をもつでしょう。(ヨハネ8:12)

主は私の光。命の光です。この御言葉を読んで、私は、今戦争が始まってしまっていることを考えないわけにはいきませんでした。暴力で自分の思いを実現しようとするところで、戦争が始まっている。彼の地に生きている人々はどんな思いで今このときを生きているのでしょうか。闇の中を、まさに歩かされているのではないでしょうか。戦火にさらされている弱い人々に、命の光が照らされることを心から願います。
ただ、悲しいことに今回のことは人間の歴史の中では珍しい出来事ではなく、人間の歴史が始まって以来繰り返されてきたことです。私たち人間が造る世界は、例え光を放って輝いているように見えているときであっても、輝いている人の足元で呻いている人がたくさんいました。私たちの知らないところ、あるいは見ないで済ませているところで苦しんでいる人がたくさんいました。世界は、いつも、闇に包まれています。
「主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。」
「私に従うものは誰でも、闇の中を歩きまわることなく、命の光をもつでしょう。」
今日与えられている二つの御言葉は、どちらも、主なる神様こそが私たちの光だと言っています。「主は私の光、私の救い。」新約の御言葉でも、「私に従う者・・・」が命の光を持つと言っていますが、主ご自身が命の光として照らしてくださるということに他なりません。この世界を見回しても光はないけれど、主イエスさま御自身が光となって私たちを照らし、救いとなって私たちを守ってくださいます。
主イエス・キリストを、私たちの神として信じ、膝をかがめて礼拝すること。そこでこそ、私たちが人間らしく生きる道が拓かれます。これは、キリスト教国かどうかなどという話ではなくて、実際にキリストの前にへりくだっているか、という生き方を問われているのではないでしょうか。キリストを愛し、隣人を愛し、キリストを礼拝する。ここに、私たちの人間らしさ回復の時と場があるのです。

2022年2月25日金曜日

2022年2月25日の聖句

主はご自分の民に法を適用されるが、ご自分の僕たちに寛大であられる。(詩編135:14)
義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:6)

義に飢え渇くもの、と言われています。義。正義の「義」です。義に飢え渇く。義を求めているのに不法がはびこり、不正が幅をきかせている。
私たちの生きているこの世界の現実はいかなるなる姿をしているのか。戦争が始まりました。私には今回始まった戦争について、どちらの陣営が正義なのかは分かりません。政治学的にはいろいろな議論ができるのでしょうし、立場によって見え方も全然違うはずです。ただ一つ確かなのは、戦争によって酷い目にあわせられるのは、弱い人々です。政治的な力など特に持っているわけではなく、今持っている生活の資も戦争が始まれば消し飛ぶでしょう。世界で起きている不法に呑み込まれてしまう。思えば、聖書はずっとそういう歴史の中で書かれてきました。この世界は不法に満ち、弱いものに優しくなく、不条理に満ちている。正しい生き方をしても幸せになるとは限らないし、反対に不法に満ちた人が繁栄を謳歌したりしています。聖書は、この世界がデタラメであることを深く知っています。
「義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」この言葉は、この世界の不法の一番の犠牲者である方がおっしゃったことです。誰よりも深く義に飢え、渇いておられた方が、しかし議を求め、飢え渇く者の幸いを教えてくださったのです。義に飢え渇くものは、幸い。なぜなら、「その人たちは満ち足りるから」と主イエスは言われます。これは、主ご自身が義への飢え渇きを満たしてくださるという約束に他なりません。
この世界は不法に満ちていて、デタラメになってしまっている。しかし、神さまの御前に立たされたとき、一体誰が自分だけは別だと言えるのでしょうか。「主はご自分の民に法を適用される」。神さまの法を適用されたとき、一体どうしてそれでも自分が正義だと言えるでしょうか。どうして平気な顔をして他人を裁けるでしょうか。それなのに、神さまは私たちに対して当然受けさせるべき報いをお与えにならなかったのです。主は「ご自分の僕たちに寛大であられる」のです。それは、当然の報いを、誰よりも義に飢え渇いたお方、主イエス・キリストにお与えになったからです。
私たちは、神さまの御前に、愛と憐れみによって生かされています。神さまの義は、私を愛し、憐れむことによって貫徹された、と聖書は言うのです。

2022年2月24日木曜日

2022年2月24日の聖句

主はご自分の民の辱めをすべての国々で、取り除かれる。(イザヤ25:8)
すでに、わたしたちの祖先アブラハムに対して誓いをもって私たちを敵の勢力から解放すると約束され、わたしたちは、もはや恐れをもつ必要がなく一生涯この方に仕えることができる。(ルカ1:73~74)

「私たちを敵の勢力から解放すると約束され」と言っていますが、そうであるとすると、私たちは敵の勢力に支配されていた、ということに他なりません。敵とは一体何者のことなのか。私たちを支配する敵、それは罪の力であり、悪の力です。私たちを支配してきた悪の諸力から、主イエス・キリストが私たちを解放してくださった。
かつて、私たちは罪の力に支配されていた。それは「かつて」のことでもありますが、今でもその戦いは続きます。私たちはキリストの助けを頂いて、日ごとに悔い改めをしながら生きていきます。私とあの人とは違うという裁きの心や、人を愛すことを面倒くさがってしまう怠惰、自分を守るためにごまかしてしまう偽り・・・。そういう私たちを支配する勢力に気づく度に、私たちは主イエスさまの御前に悔い改めをします。いや、気づく前から、知らずに犯した罪を、どうぞ赦してくださいと祈ります。
「主はご自分の民の辱めをすべての国々で、取り除かれる」と言っています。罪の支配は、私たちにとっては辱めを受けるに等しいことです。しかし、キリストが私たちを罪の辱めから自由にしてくださった。罪の勢力との戦いは今も続きますが、キリストが十字架の上でもうすでに全部終わらせてくださっていることでもあります。だからこそ、私たちには希望があります。キリストが私たちを罪から救ってくださったから。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ、私たちは今日一日の歩みを生きていきます。

2022年2月23日水曜日

2022年2月23日の聖句

あなたの戒めだけに目を向けるならば、私はだめにならない。(詩編119:6)
イエスは言われる:わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。(ヨハネ4:31~34)

もう20年くらい前のことですが、悪くなったものを食べてひどくお腹を壊したことがあります。それ以来、私は古いものが悪くなっているのかまだ食べられるのか、見極める自信があまりありません。ここで主イエスさまは「私の食べ物とは」とおっしゃって、食べ物の比喩で話をしておられます。食べ物には健康に資する食べ物もあれば、強烈に美味しく感じさせるだけで体に悪いものもあります。そして、腐っていて食べたら体を壊してしまうものもあります。豪華な見た目のものが体に良いとは限りません。地味であっても滋味に溢れた食べ物が、体を作り上げる。
主イエスの食べ物とは一体何か。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」主イエスさまをお遣わしになった父なる神様のみこころを行い、その業を成し遂げること。主イエスはそのように言われるのです。
天の父の御心とは一体何か。このイエスさまのお言葉はヨハネによる福音書に記録されています。同じこの福音書には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という御言葉が記されています。世への愛。そこに神の御心がある、と言っている。その愛は「独り子をお与えになったほど」の愛だ、と言っています。父の御業、それは世を愛する神の御業です。その御業は、イエスが十字架にあげられることで完成しました。キリストは、父の御心に従って私たちを愛し、父の御業を成し遂げるために十字架に進んで行かれます。神の愛の御心と御業に生きることをこそ、主イエスはご自分の食べ物となさっている。
私たちの魂を造り上げる食べ物、それは、父の御心に従って愛することです。愛の心に生き、父の愛の業のための手として頂くこと、足として頂くことを喜んで受け入れることです。「あなたの戒めだけに目を向けるならば、私はだめにならない。」ここで「戒め」と言っているのも、同じことです。神の愛の御心、私たちを愛する者として生かす戒め、それが私たちを建て上げるかけがえのない栄養です。それは祈りなくしては不可能です。必ず、神さまは私の内からも愛の御業を始めてくださると信じて、祈りつつ、今日一日の歩みを始めていきます。

2022年2月22日火曜日

2022年2月22日の聖句

聞け、王たちよ、耳を傾けよ、君主たちよ。
私は歌う、主に向かって、
歌い、奏でる、主、イスラエルの神に向かって。(士師記5:3)
あなた方の和解をすべての人に知ってもらいなさい。主はもう近くにおられます。(フィリピ4:5)

「あなたがたの和解を」と言っています。「和解」と翻訳されている言葉は、辞書を引いてみると「かたくなに拒まず、ゆるし、おだやか、ていねい、寛容」という意味があると説明していました。そのようなあなた達の心を、すべての人に知ってもらいなさい、と言っています。「主はもう近くにおられる」から。主イエス・キリストをお迎えする者の柔らかな心、赦し、穏やかさ、ていねい、寛容の心を、キリストを証しする心としてすべての人に知ってもらいなさい、と言うのです。
この和解の心は、主イエス・キリストのお心です。キリストが私たちの間で示してくださったお心。キリストと出会った人は、キリストの心を模倣して、キリストと似た者になりたいと願います。キリストのお心に影響されて、キリストのように生きたいと願う。そこで生きるキリストの心、それがこの「和解の心」だ、と聖書は言うのです。「あなた方の和解をすべての人に知ってもらいなさい。主はもう近くにおられます。」
この世界には、かたくなで、相手を拒み、裁き、怒りに震え、粗雑で、狭い心がわが物顔で幅をきかせています。私も、すぐにそういう心の虜になってしまう。だからこそ、日ごとにキリストのようにならせてくださいと祈り、和解の心に生きることができるように、私たちは願います。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るとき、この私の内でも、あなたの御心を行ってくださいと私たちは祈っているのです。
「聞け、王たちよ、耳を傾けよ、君主たちよ。
私は歌う、主に向かって、
歌い、奏でる、主、イスラエルの神に向かって。」
和解の心は、主なる神様に向かって歌う賛美の心と一つです。天で、そして地で、私の内でも御心を行ってくださる神さまの御業を賛美し、あがめ、神さまの御前に生かされる幸いを賛美するとき、私たちは神さまの永遠の祝福の中に憩っているのです。

2022年2月21日月曜日

2022年2月21日の聖句

彼の魂はとても骨折ったので、光を見ることとなり、満ち足りるようになる。(イザヤ53:11)
あなたがたはキリストに満たされています。この方はすべての支配と権威の頭です。(コロサイ2:10)

コロサイの信徒への手紙は、とてもスケールの大きな手紙です。世界とか、万物とか、過去や現在、将来にもわたる、宇宙的な広がりをもつ手紙です。そのとてもスケールの大きな手紙の中で、言われるのです。「あなたがたはキリストに満たされています。この方はすべての支配と権威の頭です。」宇宙を満たすキリストが、この私をも満たしている。キリストが、私の中にも満ちておられる。
食卓のグラスにぶどう酒が満たされて遂に溢れてくるように、キリストが私の内の満ち満ちて、遂に溢れるほどになっている。私はキリストで満たされている。何と深く、確かで、豊かなキリストとの交わりでしょう。この世界を造る前からのご計画によって私を覚え、私を造り、御子によってご自分と和解させてくださった神さまは、その御子キリストによって私を満たしてくださっている。私は小さく儚く、誰にも知られていないような空しい存在に過ぎないけれど、キリストはその私の内に満ちていてくださる。
少しおかしな譬えかも知れませんが、恋をしている若い人のことを考えても良いかもしれません。もう四六時中、その人のことで心も頭もいっぱいでしょう。他のことが全然手に付かない。瑞々しくて麗しい心です。キリストが私の内に満ちておられるなら、私にもそういうキリストへの瑞々しい心が生まれるに違いありません。なぜなら、この方は、他の誰よりも私を愛してくださっているからです。
「彼の魂はとても骨折ったので、光を見ることとなり、満ち足りるようになる。」キリストの心も満たされている、と言います。何で満たされているかと言えば、喜びで満たされている。なぜか。私たちがキリストの苦しみの実りとして、キリストのものとなったからです。私たちが正しい者とされるために、キリストが私たちの罪を負ってくださったからです。キリストが骨折って私たちをご自分のものとして、光に照らし、私たちをご自分の取り分としてくださった。だから今キリストの心は満ち足りている、と聖書は言います。私を満たすキリストのお心もまた喜びで満たされている。私がキリストのものとなったからです。キリストの喜びが私の中で満ちて、私の喜びになってこだましている。このキリストに私のこころも満たされて、今日の一日を喜んで生きることができるのであります。

2022年2月20日日曜日

2022年2月20日の聖句

主はイサクに言われた:あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(詩編26:4)
兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子です。(ガラテヤ4:28)

イサクはアブラハムの子、そしてヤコブの父です。神さまはアブラハムを選び、ご自分の祝福の基となさいました。アブラハムは神さまに呼ばれて旅を始めたときに既に75歳でしたが、子どもはいませんでした。ところがそのアブラハムに、神さまは何度も繰り返し「あなたの子孫に」と語りかけ続けます。やがて、神さまの約束の通りにアブラハムは息子を授かりました。それがイサクです。
神さまはイサクをも選び、ご自分の祝福の基となさいました。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」イサク自身、神さまを信じ、神さまの約束によって生きていきました。アブラハムが出会った神とイサク自身も出会い、イサクも神さまを信じたのです。
しかし、イサクも父アブラハムとよく似て、決して完璧な人間ではありませんでした。失敗をたくさんしました。特に「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」という今日の御言葉を聞いたすぐ後にも失敗を重ねたのです。イサクと家族がゲラルという地方に住んだときのこと。イサクは妻リベカが美しく、土地の男たちが自分を殺して妻を我が物にすることを恐れて、彼女を自分の妹と偽りました。父アブラハムがしたのと同じ過ちを彼も繰り返した。リベカのことは神さまが守ってくださいましたが、それにしても、よりにもよって「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」という神さまの約束を聞いた直後に妻に犠牲を強いたのです。
アブラハムにしても、イサクにしても、あるいはその息子ヤコブにしても、それでも神さまが約束をなかったことにしてしまわなかったのは、憐れみ以外の何ものでもありませんでした。「これは駄目だ」と、彼らの振る舞いを見て諦めても仕方がないと思います。しかし、それでも神さまは忍耐し、赦し、隣人との関係に及ぼしてしまった傷を癒やし、彼らを育ててくださいました。それは、私たちも同じです。私たちも、ただただ神さまの憐れみによって赦され、隣人との間に神の憐れみを頂きました。ただ神様の憐れみによってだけ、私は生かされています。「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子です。」それは、ただただ神の愛と憐れみによってだけ生かされている、ということに他なりません。憐れみに満ちたキリストの御名が、ほめたたえられますように。

2022年2月19日土曜日

2022年2月19日の聖句

強情にならず、主に服従し、主の聖所に来なさい。(歴代誌下30:8)
一緒に食卓に座っていた一人がイエスに言った:とても幸せですね、神の国で食事をする人は。(ルカ14:15)

神の国で食事をする幸いに、あなたも招かれています!神の国、それは、キリストがおられるところです。キリストは私たちを神の国へ招いてくださっています。私たちの間に、神の国がある。神の国の食卓、その幸せに、キリストはあなたを招いています。
「強情にならず、主に服従し、主の聖所に来なさい」と言っています。キリストは私たちを神の国に招き、ご自分の御許へ呼び集めておられます。それは確かなことです。そのためにキリストが私たちのところへ来てくださったからです。ところが私たちの強情な思い込みが、キリストの招きをはねつけている。聖書はそう指摘します。キリストの招きなんて聞こえやしない、と思ってはいないでしょうか。あるいは、自分には関係のない話だと無視してはいないでしょうか。他に優先すべきことがあると、心が二つに分かれてしまってはいないでしょうか。私たちを神の国の食卓に招くキリストの招きは、どこまでも慈しみ深く、優しく、私たちをしあわせにする恵みの招きです。強情にならず、今こそキリストの招きの言葉に応えましょう。キリストの御許に帰りましょう。
それは、一つには、キリストの御言葉に聞くということです。マリアが主の足元にいて、その御言葉に一心に耳を傾けたように。私たちもキリストの御言葉にこの耳を傾けましょう。あるいは、それは、キリストの御名で祈るということです。キリストに私の心を向け、祈るとき、私たちは知ります。私よりも先にキリストが私のために心を傾けてくださっていたことを。主イエス・キリストの御前で過ごすときは、キリストの愛に触れる最高の幸いなのです。

2022年2月18日金曜日

2022年2月18日の聖句

主はモーセに言われた:私の顔をあなたは見ることはできない。なぜならば私を見るどの人間も生きることはないからだ。(出33:20)
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。(1ヨハネ4:9)

人間には、神さまの御顔を見ることが許されていません。それは私たちの人間としての度を超したことです。私たちの汚れた目が、聖なる神さまの御顔を直接見ることはできない。見たならば死んでしまう。預言者イザヤはあるとき高く天に座しておられる神さまの御前に立たされて、言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」この預言者が言うとおり、私たちには聖なるお方を仰ぎ見ることは許されていないのです。
そこで、神さまはモーセにおっしゃいました。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」そうでないと、私たちは死ぬしかない。この、聖なるお方への恐れの感覚は極めて大事です。
ところが、事態がまったく変わってしまいました。私たちのところに、神様ご自身の御子が来てくださったのです。この方は言われます。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)。キリストが父であり、聖なる神様を見せてくださった。キリストと出会い、キリストを見た者は、父御自身を見た。しかも、私たちはキリストを見ることによって死ぬのではなく、生きる、と主は言われます。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」キリストは神の愛のかたちであって、私たちのための神様ご自身の御顔です。神さまは私たちに怒り、滅ぼす顔をしておられるのではなく、私たちを愛し、私たちを慈しむ顔を、キリストにあって見せてくださいました。御言葉に耳を傾けるとき、私たちはキリストの観顔を仰いでいます。私たちはキリストが明らかにしてくださった神の慈しみの御顔の光に照らされて、今日の一日に出て行くのです。

2022年2月17日木曜日

2022年2月17日の聖句

あなたの真実の中で私を導き、教えてください。(詩編25:5)
「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当に私の弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31~32)

「真理はあなたがたを自由にします。」私はこの言葉が大好きです。主イエスさまの尊い御言葉です。「真理はあなたがたを自由にします。」論理的に言い換えれば、私たちを自由にしないのであれば、それは真理ではないということになる。
世の中には、真理のような顔をしているけれど私たちをちっとも自由にしないものがたくさんあります。例えば、とても卑近な例ですが、私は美味しいものを食べるのがとても好きですが、必要以上、過度に食欲を満たしても自由にはなれません。欲望の達成という意味では自由に振る舞っているかのようですが、贅沢をすれば際限がないし、第一食べ過ぎれば健康によくありません。自分のしたいことをする、欲しいものを手に入れる、自分の欲望を満たすことが一番よいことだという「真理」が世の中に跋扈しています。しかし、その「真理」は私たちを自由にせず、欲の奴隷にしてしまいます。それでは真理の名に値しない。
「真理はあなたがたを自由にします。」主イエス・キリストは言われます。キリストがおっしゃる真理とは、如何なる真理なのか。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当に私の弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ここで主イエスは「私の言葉にとどまるなら」と言っている。ということは、真理とはキリストの言葉のことでしょう。キリストの告げる福音の言葉、その真理が私たちを自由にするのです。
キリストがひたすら私たちに告知したのは神の愛であり、私たちが互いに愛し合うことです。弟子たちの足元にかがんで足を洗うキリストの愛、私たちがキリストにまねることを求めるキリストのご命令、そこにキリストの宣言する真理があるのです。神の愛の中に生きること、私たちが互いに愛し合うこと、そのことが私たちを自由にします。私たちは愛するときにこそ、自由に生きるのです。
「あなたの真実の中で私を導き、教えてください。」神さまはこの祈りを必ず聞き届け、かなえてくださいます。今日一日も、新しい祝福がありますように。

2022年2月16日水曜日

2022年2月16日の聖句

いかに幸いないことでしょう。あなたを自分の力とし、こころからあなたの後を追う人は。(詩編84:6)
目を覚まして、信仰に立ち、勇気に溢れ、強くありなさい。(1コリント16:13)

あなた、つまり神さまを自分の力とし、こころから主なる神様の後を追う人。その人は幸いです、とこの詩編は祈っています。新約聖書でも「勇気に溢れ、強くありなさい」と言っています。信仰に立つとは、勇気に溢れ、強くあることだと言うのです。このようにして聖書が勇気や力を大切にしているというのは、とても心に残ることです。そうとすると、臆病とか怖がりというのはあまりほめられたことではないということになるのだと思います。私はとても臆病なので、とても刺さるところのある御言葉です。
新約聖書のテモテへの手紙二にこのような御言葉があります。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしたちが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」この手紙を書いた使徒パウロは、臆病にならずに主イエス・キリストの証人として、喜んで共に苦しもうと言います。臆病と主イエスさまの証人になることとは両立しないというのです。
二年前に新型コロナウイルスが欧州で急激に蔓延しだして、まだ病気の正体も詳しくは分かっていなかった時期に、たくさんの牧師や神父たちが亡くなりました。病む人のところに行って、この人たちのための魂の配慮をして、病気に感染してしまったのです。これらの人たちは、主の証人としていき、臆病にならずにキリストの愛に生きぬきました。
臆病にならずに神さまの力に頼り、強くあることを、「目を覚まして、信仰に立ち」と言っています。臆病風に吹かれてしまっては、居眠りしているのと同じです。信仰の眼を開いて、目を覚ましている。この目をただキリストにだけ向ける。私たちが乗る小舟を揺らす波の高さや、風の強さを推し量るのではなく、私たちの前におられるキリストにだけ目を注げば良い。キリストに対して目を覚ましていなさい。そうすれば、強く、雄々しく、キリストをただ信じて、このときを生きることができるから。聖書は私たちにそのように訴えかけています。

2022年2月15日火曜日

2022年2月15日の聖句

愚か者は心の中で言う「神などいない」と。(詩編14:1)
また、神の子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも知っています。(1ヨハネ5:20)

「神などいない」というのは愚か者が口にする言葉だ、と言います。私たちは、他の誰でもなく自分自身への言葉として、この言葉を肝に銘じるように、と聖書は私たちに言っているのではないでしょうか。
現代の社会は「神などいない」という原理で動いているように思います。以前、「声なき者の友の輪」という、日本を含む全世界で傷つき、いやしを必要としている人々の友になり、愛し、援助をしていこうと志す活動の代表を務めておられる神田英輔さんのお話を聞いたことがあります。現代日本社会が深く病んでいるということを指摘しておられました。日本社会の特徴は、例えば「たこつぼ社会」とか、「寄らば大樹の陰」、「出る杭は打たれる」と言った言葉で言い表される、と指摘しておられました。私の言い方で表現すれば、空気が支配する社会ということだと思います。そこで支配するのは同調圧力であり、恥の感覚です。世間の目を気にしてきましたが、現代ではその「世間」も崩壊し、誰の目も気にせずに済む空間、例えばインターネット上の言論は、文字通りに悲惨です。私たち人間を超えた存在がいる、その方の前に私たちは生かされている、そういう感覚がまったくない社会は、こういう姿になるのだと思います。しかしそれは恐らく日本特有の現象ではなく、欧米も含めた世界的なことで、日本は課題先進国であるのだと思います。キリスト教国を自認している国々も含めて、私たちの社会は「神などいない」という愚かな思い込みによって形成されてしまっているのではないでしょうか。
キリスト者である神田さんは、神の国つまり神の愛による支配の価値観をこの世に広めたいと願って活動しておられます。「イエスの教えによる人と社会のトータルな変革」を志す、と。今朝の御言葉は、私たちに言います。「また、神の子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも知っています。」神の子、主イエスさま御自身が私たちに真実を教えてくださいますように。私たちは「神などいない」という社会で生き、私たち自身の生き方があたかも神などいないかのようになりかねない危険の中で、しかしキリストの真理に生きることを願い、キリストに自分を変えて頂くことを願い、隣人のために神の愛を届けたいと願っています。どうか、神さまの御国を来たらせてください。私たちはそう祈りつつ、今日という一日に出発していきます。

2022年2月14日月曜日

2022年2月14日の聖句

神よ、私のこころの準備万端。私は歌い、奏します。目覚めよ、私の魂よ。(詩編108:2)
光の中にある聖なる者たちからの相続をあなたたちに可能にしてくださった父に、喜んで感謝を述べよ。(コロサイ1:11~12)

今日の新約聖書のコロサイの信徒への手紙の御言葉は、ここに書いてある日々の聖句の翻訳があまり分かりやすくないので、新共同訳を見てみたいと思います。
「喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたたちがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」
光の中にある聖なる者たちというのは、神を信じて生き、そして死んでいった無数の信仰者達のことでしょう。彼らを光の中に招き、ご自分のものと呼んでくださり、その生涯を守り、支え、神さまの御許に引き寄せてくださった。彼らの相続分に、私たちもあずかることができる。神さまがそうしてくださった。御言葉は、そのように言います。
相続は、先代から受け継ぐものです。それは単なる物やお金ではなく、そこに込められた思いや歴史も一緒に受け継ぐということだと思います。私たちは私たちの先を歩んだ聖なる者たちの神を愛する信仰や、キリストを仰ぎ見て頂いた希望や、神さまに献げる喜び、感謝、讃美、そういったすべてのものを相続し、今、キリスト者として生きているのです。私たちは今、孤独を味わっています。なかなか外には出られないし、教会の仲間とも思うように会えなかったり、会えても以前のように一緒に時間をかけて祈り合ったり、食事をしたり、互いのことを語り合ったりすることもできません。いやしかし、それと同時に、本質的に、祈りは一人で神さまの御前に出る孤独な時間でもあります。誰も私の代わりに神さまを信じてはくれません。他の誰でもなく私が、神さまの御前に一人立ち、そこではこの私の神への愛、隣人への愛が問われます。しかし、私たちは独りぼっちではありません。私の周りには、目には見えないけれどたくさんの聖なる者たちが立っています。共に神を信じ、神を讃美し、神に祈っています。多くの先輩達の信仰の遺産を引き継いで、私たちは今、キリストのものとして生きているのです。
「神よ、私のこころの準備万端。私は歌い、奏します。目覚めよ、私の魂よ。」準備万端。すばらしい言葉です。神さまを讃美するために、神さまに喜びと感謝を献げるために、私は今や準備万端。神さま、私は今日も天の聖徒たちと共にあなたをほめたたえ、感謝と讃美に生きていきます。

2022年2月13日日曜日

2022年2月13日の聖句

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるときに立っていられよう。(マラキ3:2)
注意していなさい、私は戸の前に立って戸を叩いているから。誰かが私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその人のところを立ち寄る。私はその人と一緒に食事をするし、その人も私と一緒に食事をする。(黙示録3:20)

使徒信条で、天に上られた主イエスはやがてそこから来られて、生きている者と死んだ者とを裁かれますという告白をします。キリストは私たちのところへ来られて、私たちを裁かれる。預言者マラキは言います。「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるときに立っていられよう。」私たちのところへ来られる神さまの裁きに一体誰が耐えられよう、そんな人は一人もいない、と言うのです。
マラキの言葉には「その通りです」と言わねばならないと思います。神さまの前に自分の人生をただされて、一体どうして平然としていられるでしょうか。一体誰が、神の裁きの日に耐えることができるか。一体誰が、神さまの前に立っていられるでしょうか。
車を運転していて向こうにパトカーが停まっているのが見えると、突然自分が何かの違反をしてはいないかとドギマギしたような気持ちになって安全運転を一層意識してしまいます。パトカーの前でさえ自分の運転の仕方をただそうとするのであれば、神さまの前で自分の生き方をただそうとするのは当然のことであると思います。しかしただそうとしたところで、神さまの御目からご覧になって「よし」となんて、一体誰が言われうるのか。
そんな私たちにとって、今日の新約聖書の御言葉は衝撃的です。「注意していなさい、私は戸の前に立って戸を叩いているから。誰かが私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその人のところを立ち寄る。私はその人と一緒に食事をするし、その人も私と一緒に食事をする。」主イエスさまが私たちのところに来られるとき、この方は、私たちの駄目さを指摘して追い出すためではなく、私たちと一緒に食事を囲み、共に生きるために来てくださる、というのです。キリストは私たちを救うために来てくださる。それは自分の姿を省みるに付け、本当ならまったくあり得ない話です。神さまの目に触れるだけでもいけない存在なのに、そんな私のところに入って、共に生きてくださると言うのです。今日、私たちはこのキリストを礼拝し、この方に祈り、この方の御言葉によって新しい一週間を始めようとしているのです。

2022年2月12日土曜日

2022年2月12日の聖句

私の口を毎日あなたへの賞賛と讃美で満たしてください。(詩編71:8)
心に満ちていることを口が話すのです。(マタイ12:34)

ついポロッと口走ってしまった言葉で人を傷つけたり、人間関係をおかしくしてしまったり。心にもないことを言ってしまったと後悔します。言葉で失敗してしまったと思って悔やみます。ところが、聖書は言うのです。「心に満ちていることを口が話すのです。」そうだとすると、舌禍はついポロッと出てしまった失言とか、ちょっと間違ってしまったけれども本当は違うとか、そういう言い訳はできないことになります。その失言、私の口から飛び出す腐った言葉、それがまさしく私の心に満ちていることなのです。恐ろしいことです。怖いことです。何が怖いかと言えば、そういうところで明らかになる自分の心根が怖い。舌禍で見えてしまう自分の腐った心が恐ろしい。
だからこそ、私たちは祈らないわけには行きません。「私の口を毎日あなたへの賞賛と讃美で満たしてください」と。神さまへの賞賛と讃美が毎日口に満たされ、それが溢れ出てくるのだとしたら、それは私たちの心が神さまへの賞賛と讃美で満たされているということに他なりません。神さまへの賞賛と讃美に心が満たされ、神さまをほめたたえる言葉が溢れ出て来る人は、魅力的です。一緒にいると嬉しくなります。キリストの慰めがにじみ出てきて周りの人も癒やすし、神さまへの讃美が溢れて周りの人の心も高く上げます。心から内発してくる讃美の泉は、その人ばかりか周りの人をも潤します。
それは、神さまが私たちに起こしてくださる神様ご自身の御業です。だから、私たちは祈ります。「私の口を毎日あなたへの賞賛と讃美で満たしてください」と。神さま、私を憐れんで、なたへの讃美を心に満たしてください。私の心を空しい言葉が占領することを許さずに、私の心に讃美の歌を授けてください。「御名をあがめさせたまえ」と私たちは祈ります。
神さまを讃美するために、私たちは造られました。神さまを礼拝し、神さまを讃美することこそが私たちの最高の幸いです。ヨハネの黙示録を読むと、神さまの御国というのは、神を讃美し、礼拝を献げる場所なのではないかと思わされます。私たちはこの幸いに今日既に招かれているし、生き始めています。私たちの口は汚れているけれど、神さまがこれを清めて、讃美の歌を授けてくださいます。私たちの心にはよこしまなものが満ちているけれど、神さまがこれを赦し、神さまを讃美する幸いを私たちに授けてくださるのです。この神さまの御業は、もうすでに私たちの間で始まっています。

2022年2月11日金曜日

2022年2月11日の聖句

あなたがたの命のために、本気であなたがたの神、主を愛しなさい。(ヨシュア21:11)
イエスは言う:わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23)

本気で愛しなさい。この「本気」という言葉がとても心に残りました。例えば、小さな子どもは本気で親を愛します。親が子どもを愛することに失敗してひどいことを口走ってしまったとしても、子どもは親を愛することを止めようとしません。そうでないと生きていかれないからです。「あなたがたの命のために、本気であなたがたの神、主を愛しなさい。」私たちは、子どものように必死に神さまを愛しているでしょうか。別に神さまのことを愛さなくたって自分はやっていける。神さまなんていなくたって生きていける。そんな変な余裕をどこかで持ってはいないだろうか。必死に愛するというのは、とても大切なことではないでしょうか。
私たちは人間の愛しか知りません。親の愛も、子どもの愛だって、中途半端で不完全です。親は子どもを愛することに失敗するし、利己的な楽しみを優先してしまったり、自分の正義を押しつけたり。子どもだって利己的で、損得でものを考えるし、父母を敬うことを知りません。人間の愛は不完全です。だから私たちが人間の愛から類推して神さまの愛を推し量ることには限界があります。ところが聖書は、神さまの愛を私たちに高らかに伝えます。独り子を私たちに下さるほどの愛、御子を信じる者を一人も滅ぼそうとなさらない愛、ご自分に反逆する者への愛。「わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。」父なる神様は、キリストは、私たちのところへ来てくださり、私たちと一緒に住んでくださる。神さまは、私たちをとことん最後まで愛し抜いてくださいます。
私たちも、本気で神さまを愛しましょう。そこに私たちの命がかかっています。神さまが御子の命をかけて私たちを愛し抜いてくださいました。他のどこに、私のために独り子の命まで与えてくださる方がおられるでしょうか。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とキリストは言われます。キリストの言葉。キリストは私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われます。愛の実りをこそキリストは私たちに求めておられるし、そのために、キリストがまず私たちを愛してくださったのです。

2022年2月10日木曜日

2022年2月10日の聖句

天は、主の天。地は、主が人の子らに与えられた。(詩編115:16)
多く与えられた者はみな、多くを求められ、
多く任された者は、更に多くを要求されます。(ルカ12:48)

聖書の考える平等は、「皆が同じ」ではありません。それぞれ与えられた分に応じて、それにふさわしく、自分のするべきことを誠実にする。それが聖書の平等観です。
モーセに導かれて荒れ野に出た民のために、神さまはマナという食べ物を与えてくださいました。人々は毎朝、荒れ野に出て食べる分だけのマナを集めました。一日に一オメル升一杯という量です。明日の分が不安だと言って二日分集めてはいけません。毎日、その日の分だけ。安息日の前の日だけは二日分です。安息日は休むことができるように。主なる神様は人々に命じました。「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人あたり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる自分の家族に応じて取るがよい。」それで、「イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」(出16:17)。とても不思議な話ですが、わたしはこの話が好きです。それぞれ、自分に必要な分を神さまが与えてくださいます。必要な分量は人によって違います。性別によっても、年齢によっても、全然違うのは当然です。しかし神さまはその人に必要な日ごとの糧を与えてくださるのです。皆が同じになる平等なのではなくて、必要なものを、分に応じて与えられる平等です。
ですので、多くを与えられた者は分に応じて多くを献げ、少なく与えられた者は分に応じて少なく献げる。それぞれが誠実に、自分に与えられた分に応じてふさわしく献げることが大事です。他の人と比べる問題ではないのではないでしょうか。
神さまは、私たちに地をあたえてくださった、と今日の詩編の御言葉は言います。地は、神さまが私たちに与えてくださった賜物です。そうであるなら、これは私たちの欲望を満たすためのものではなく、与えられた分に応じて神に献げ、また、他者のために活かすことがふさわしいのではないでしょうか。他の人や、この地に生きる多くの生き物たちが喜んで生きることができるように、私たちは与えられた者を賢く、謙虚に使うという宿題を、神さまから与えられています。今日も天には神に栄光があり、地には平和が、御心に適う人にありますように。

2022年2月9日水曜日

2022年2月9日の聖句

彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリヤ9:10)
神はイエスにすべての名に勝る名を与えたので、イエスの名により天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめる。(フィリピ2:9~10)

今日、私たちが祈ることはこのことです。「御名をあがめさせたまえ。」私たちの今日一日の歩みが、この祈りを絶やすことなく、そして私たちの行いがこの祈りとなりますように。神さま、あなたのお名前があがめられますように!
聖書はこのようにして神を礼拝する者たちの歩みの記録です。主イエスの母となったマリアは胎に子を宿したときに言いました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」これから生まれてくる幼子イエスこそ主、また救い主。マリアのことも、私たちのことも目に留め、救ってくださるお方です。
預言者ゼカリヤも、神さまをあがめ、そのお名前の偉大さの前に膝をかがめています。「彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」ここで、ゼカリヤは「彼の支配は」と言っています。神さまの御支配、主イエス・キリストの御支配。このゼカリヤの言葉からしても、「御名をあがめさせたまえ」という祈りは、「御国を来たらせたまえ」という祈りと分かちがたく、深く結びついていることがよく分かります。神さまのお名前が礼拝されることと、神さまの御国が来ることとは、別々のことではありません。神さまの国、それは「神さまの支配」と言うこともできます。ゼカリヤ書9:10では、今日指定されている言葉の前にこのようにも言っています。「戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。」神さまの御支配は、軍馬や戦車による平和、弓や剣による平和ではなく、それらがもはや必要のない、神の愛による平和に他ならない。私たちは神さまの御前に膝をかがめ、自分の小ささを知り、神さまのお名前をあがめるときに初めて平和の道を上ることができるのではないでしょうか。
先ほどのマリアの賛歌の「わたしの魂は主をあがめ」の「あがめる」という言葉は、ギリシア語では「大きくする」という字を書きます。神さまのお名前を大きくする。実際、神はイエスにすべてに勝る名を与えた、と聖書は言っていました。だから、天にあるものも地にあるものも、地の下にあるものも、すべてがキリストの前に膝をかがめる。キリストのお名前こそ大きく、わたしは小さく卑しいもの。しかしその卑しいものの献げる礼拝を喜んで受け入れてくださる方。この方の前に膝をかがめるとき、私たちは本当に「わたし」になることができるのです。

2022年2月8日火曜日

2022年2月8日の聖句

恐れるな、人が中傷しても。またぎょっとするな、人が嘲っても。(イザヤ51:7)
信仰の戦いを立派に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。(1テモテ6:12)

人の中傷や嘲りは、正直言って怖いし、ぎょっとしてしまいます。人目を気にするようになると、人に悪く言われないことを基準にしだして、正しいか正しくないかということとは別の尺度で自分の行動を決めるようになってしまいます。しかし、それでは信仰の戦いを闘い抜くことはできません。信仰は人目ではなく、キリストの目が基準だからです。
「信仰の戦いを立派に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。」ここに「あなたはこのために召され」という言葉があります。私たちは信仰の戦いを闘い抜くために神さまから呼び出されたのです。
昨年の夏に「アウシュヴィッツ・レポート」という映画を観ました。アウシュビッツでたくさんのユダヤ人が殺されたことを今私たちは知っていますが、当時はあの場所で何が行われているのか、外に知らされることはありませんでした。実はそこに収監されていたある二人の人が脱獄してその情報を知らせたことによって、初めてその実態が明らかになった。そのときのことを描いた映画です。思えば、毎年のようにナチの蛮行は映画になっています。ドイツではそれを反ドイツ的だと言って退けるのではなく、ナチの行いに目を向け続けています。恐れず、ぎょっとせず、自分たちの国の歴史を直視している。この事実の前に呼びだれたとき、それにしっかりとレスポンスしている。そうやってレスポンスすることを、レスポンシビリティ、責任と言います。
私たちは、私たちの行いについても、あるいはこれからの人生についても、信仰の戦いに呼び出されています。その呼び出しにいかに応答するのでしょう。どうやって責任を果たすのでしょうか。私たちのレスポンシビリティはどのように発揮されるのでしょう。私たちは、人から呼ばれるだけではなく、神さまから呼ばれています。その呼び出された場へ信仰をもって応え、永遠の命に至る道を歩むように、神さまは私たちを招いておられるのです。

2022年2月7日月曜日

2022年2月7日の聖句

この方はあなたを翼で覆い、あなたは逃れ場をその方の翼のもとに得る。(詩編91:4)
あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:7)

本当にすごい御言葉だと思います。「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあった守る」と書いてあります。心と考え。まさにそこで失敗することが多いからです。心や考えは、普段は人から見えません。覆い隠せてしまいます。心の中では毒づきながら取り繕うこともできるし、本当は不満があってもそうではない振りをすることもできます。ところがついフトしたときに心の中にあるものが顕わになって、人を傷つけてしまったり、人間関係をおかしくしてしまったり・・・。ところが、聖書は言うのです。「あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」
ここで、私たちの心と考えとを守るのは、「あらゆる人知を超えた神の平和」だと言います。私の平和や、私の願う平和では、どうしようもありません。私の思う平和や私の願いは、どこまでも「私の」に過ぎず、私がどんなに良いと思っても、所詮は浅はかな思いつきや自己本位な思い込みに過ぎません。しかし、あらゆる人知を超えた神の平和が、私の心も考えをも、守ってくださるというのです。しかも、キリスト・イエスにあって。キリストによって私たちにもたらされた神の平和。これこそが私たちの救いであり、私たちの心や考えを清める、神さまの知恵です。
「この方はあなたを翼で覆い、あなたは逃れ場をその方の翼のもとに得る。」私たちは祈ります。主イエス・キリストにあって、神さまに祈ります。あなたの翼で私を覆い、私を守ってください、と。私の心の考えることにおいても、どうか私を守ってください。私を罪に渡すことなく、神さまのものとして守り、神さまの御許においてください、と。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」これが、今日の私たちの祈りです。

2022年2月6日日曜日

2022年2月6日の聖句

彼は現れ、彼らは主の力の下に牧草をはむ。(ミカ5:3)
イエスが民をご覧になり、憐れまれた。彼らは飼うもののいない羊のように不安にかられちりぢりであったからである。(マタイ9:36)

今日の旧約聖書ミカ書の御言葉は、いわゆるメシア預言の一節です。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」と始まって、今日の箇所に至っていきます。つまり冒頭に掲げられた御言葉の「彼は現れ」というのは、メシア、救い主なる方が現れる、ということを意味している。そして、私たちは主イエス・キリストという神からのメシアが来てくださったことを知っています。
「彼は現れ、彼らは主の力の下に牧草をはむ。」主イエス・キリストは私たちの羊飼いとなってくださって、私たちを牧草をもって養ってくださる。その様子を、新約聖書ではこのように伝えています。「イエスが民をご覧になり、憐れまれた。彼らは飼うもののいない羊のように不安にかられちりぢりであったからである。」
主イエスさまが私たちをご覧になったとき、そのお心は、憐れみでした。キリストは私たちが飼うもののいない羊のようになっているので、憐れみに心かきむしられました。私はときどき牧場に行って羊の群れを見るのですが、羊は本当に弱い動物だと思います。世話してくれる人が牧草を準備して、夜になったら安全なところで守ってやならないと生きていけません。近くで大きな音を立てれば不安になる。現代の日本の牧場ではまずあり得ないでしょうが、もしも狼にでも襲われたら本当にちりぢりになってしまいます。羊には羊飼いが必要です。
今、毎日の生活を不安な気持ちで過ごしていないでしょうか。テレビを付けても携帯を開いてみても、不安になるようなニュースばかりが目に飛び込んできます。しかし、私たちには、私たちの羊飼いでいてくださる方がおられます。私たちを守り、世話をし、私たちのために心を揺さぶりながら憐れみ、愛し抜いてくださる羊飼いが。この方は私たちに平安を得させるために来てくださいました。羊の群れである私たちを、神さまの御許に連れ戻すために来てくださいました。主イエス・キリストの祝福と恵みが、今日もあなたにありますように。アーメン!

2022年2月5日土曜日

2022年2月5日の聖句

いかにさいわいなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。(詩編33:12)
あなた達は今や子であるから、実に「アッバ、父さん」と呼びかけるみ子の霊を、神は私たちの心に送られた。だからあなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば神による相続人です。(ガラテヤ4:6~7)

「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です」と、聖書は私たちに宣言します。あなたは子、神の子。これが、聖書が私たちに告げる福音の事実です。あなたは神の子です。
アメリカ合衆国長老教会が20年くらい前に「はじめてのカテキズム」という本を出しました。最初に、このように問います。「あなたは誰ですか。」こう問われたら、あなたはどう応えますか?私は宮井岳彦ですといった具合に名前を答えるか、どこそこに住んでいますとか、何の仕事をしていますとか、誰々が家族ですとか、そういう答えもできるかも知れません。このカテキズム(信仰問答)では、このように答えます。「わたしは神さまの子どもです。」あなたは誰ですかと尋ねられたら、私たちは、私は神さまの子どもですと答えることができる。私たちは、自分が神の子だと、自分という人間を知ることができるのです。
私は神さまの子ども。それは、私たちが神さまを「父」とお呼びして祈っている事実によって確かめられます。「あなた達は今や子であるから、実に『アッバ、父さん』と呼びかけるみ子の霊を、神は私たちの心に送られた。」神さまは、私たちが神さまを「父」とお呼びして祈ることを、主イエス・キリストにあって喜んで受け入れてくださいます。神さまを呼び求める私たちが「父」とお呼びしたとき、お前は私の子ではないとはおっしゃらないのです。「アッバ」は、幼児が父を呼ぶときの、ほとんど喃語に近い言葉です。主イエスさまは「アッバ」と言って祈りをなさいました。私たちが神さまを父とお呼びするのは、主イエスさまのまねです。主イエスさまの口まねをして、私たちも祈る。そう祈っているとき、すでに神様ご自身の霊が私たちの心の中に働いてくださっているのです。
私たちが神さまの子というのは、本当に壮大な福音です。私たちは神さまの御子イエスさまの口まねをして、この天地のすべてをお造りになった方を「アッバ」とお呼びします。そのとき既にその神様ご自身の霊が私の中で働いてくださっている。そうやってわたしたちに祈りの言葉を与え、私たちを喜んでご自分の子としてくださるお方への祈りのときを今日も尊く過ごしていきましょう。

2022年2月4日金曜日

2022年2月4日の聖句

白髪の人の前では起立し、年配者を重んじなさい。(レビ19:32)
相手に対して尊敬をもって、まず接しなさい。(ローマ12:10)

相手に対する敬意。これがあらゆる人間関係の基礎なのだと改めて思います。
先日、ラジオに目の不自由な人が出演して、こういうことで苦労しているというような話をしておられました。その中で、子どもに話しかけるような口調で話しかけてくる人がいるというようなことをおっしゃっていました。腫れ物に触るような気持ちで気を遣って、そのようなことになってしまったのでしょうか。
あさひ教会の鈴木淳牧師は、通所介護施設フレンドシップあさひを造るときに、利用してくださるお年寄りへの礼儀を大事に考えたいと言うことをしきりにおっしゃっていました。これまで他の介護施設や病院で、お年寄りになれなれしかったり、無礼だったりする態度を散々見てきた。フレンドシップあさひではお年寄りに敬意をもって接することを大切にしたいということでした。
相手への敬意が、やはり大事なのだと思わされます。白髪の人にも、あるいは若い人にも。障害がある人にも、そうではない人にも。男性にも女性にも。相手に敬意をもって接し、丁寧に人間関係を気づくことは、尊いことです。
こうして聖書を読んでみると、聖書にはこのようなことも書いてあるのだなと少し驚いてしまいます。私たちの人間関係の機微というか、秘訣というか、そういうことだと思います。しかしその本当に基本的なことは難しいし、そこで失敗してしまうということも少なくありません。
マザー・テレサは「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」という主イエスの言葉を思いながら人に接していたそうです。私たちの小さな愛を、主イエスさまが受けてくださり、憶えていてくださいます。私たちの今日一日の業が、主へのささげ物でありますように。

2022年2月3日木曜日

2022年2月3日の聖句

私たちを助けてください、神、私たちの救い主よ、
そして私たちを集めてください、あなたの聖なる名を讃えるために。(代上16:35)
イエスは祈る:聖なる父よ、わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。私たちと同じように、彼らが一つになるためです。(ヨハネ17:11)

「私たちと同じように、彼らが一つになるためです」というのは、主イエスさまの祈りの言葉です。最後の晩餐の席で、最後に主イエスが長い祈りをなさった。その時の祈りの言葉です。「私たちと同じように、彼らが一つになるためです。」私たちというのは、父なる神様と主イエスさまとのことでしょう。すでに主イエスさまは「私と父とは一つである(ヨハネ10:30)」とも言っておられて、ご自分が父なる神様と一体の神ご自身であることを宣言しておられました。ここでは、父なる神様とキリストご自身がおひとつでいらっしゃるのと同じように、彼らが一つになりますように、と祈っておられます。
この「彼ら」は、主イエスの目の前にいる弟子たちのことであり、また同じように主イエスさまを信じる私たちのことでもあります。私たち教会が一つになるように、主イエスがこのとき既に祈ってくださっている。しかも、その「一つ」のあり方が、父なる神様と御子キリストがおひとつでいらっしゃるのと同じように私たちも一つでありますようにと祈っておられます。神秘的な「一つ」が、私たちの間に実現する。
今は世界がバラバラになっているような時代です。教会も、そういう時代の空気の中でいつの間にかバラバラになりかねません。コロナのことをどう考えるのか、どういう対策を良しとするのか。そのようなこと一つを取ってみても、考え方や受け止め方は人それぞれです。それぞれの意見に従ってバラバラになりかねない。私たちは弱い存在です。しかも、罪深い存在です。私たちに、一体どうしたら御父と御子のような神秘的な「一つ」が実現するのでしょうか?
「私たちを集めてください、あなたの聖なる名を讃えるために」「聖なる父よ、わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください」。御言葉はそのように言います。神さまのお名前を讃えるために。神さまのお名前のゆえに。神さまが私たちを助けてくださって、私たちは神さまをあがめることで一つになることができます。私たちは神さまを見上げ、讃えるとき、心を本当にひとつにすることができるのです。その絆は、キリストにある愛です。神さまとキリストの愛にあずかって、私たちも愛の共同体の一員へ招かれている。人間の力ならぬ、神ご自身の力、すなわち聖霊が私たちの間に働いてくださいます。

2022年2月2日水曜日

2022年2月2日の聖句

私は主を称えます、いつの時も。主への讃美は永遠に私の口にあるでしょう。(詩編34:2)
いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。(1テサロニケ5:15~16)

今日の新約聖書の御言葉はとても印象的です。「いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。」この御言葉そのものの讃美歌があります。私の子どもが以前教会でそれを覚えて、私の父の前で歌いました。私の父はキリスト者ではないのですが、子どもたちの歌を聴いて、良い歌詞だなと言っていたことがありました。多くの人の心を捉える御言葉ではないでしょうか。「いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。」
しかし、実践するとなると少し難しいような気もしてしまいます。喜べないとき、感謝できないときもあるからです。そういうときには、このように考えてはどうでしょうか。神さまは、神さまの目からご覧になっていちばんよいことをご存じです。だから、必ず、最もよい答を私たちの祈りのために準備してくださっているはずです。だから、私たちは祈りはじめたとき、もう既に神さまへの感謝を先取りすることができます。神さまはこの祈りを必ず聞いて、いちばんよい答を与えてくださるから。そのことを信頼して、私たちはまだ自分の目に見えて現実になっていないことにつても神さまに感謝することができる。
「いつの時も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。」この御言葉は、神さまの慈しみへの信頼を呼び起こします。喜びも、祈りも、感謝も、神さまとの深い関わりの中から生まれます。私たちは神さまの御前に生き、神さまに顔を向け、神さまの慈しみを呼吸して生きていきます。だから、こうして聖書を読み、祈りをする時間は尊く、私たちの命をつなぐ時間です。今日も私たちがキリストを思い起こし、キリストと共に歩み、どんなことでも祈り、感謝と讃美に満ちた一日でありますように。主イエス・キリストの祝福を祈っています。

2022年2月1日火曜日

2022年2月1日の聖句

ユダの家の救われて残った者は、改めて下方に根を下ろし、上方に実を結ぶ。(王下19:30)
根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。(ローマ11:16)

根をしっかり張らなければ、よい実を結ぶことはできません。そしてその根はその植物に適した土に張っていないと、結局全体が涸れてしまいます。水の量や肥料の種類や量など、とにかくたっぷりやれば良いというわけではなく、適した量を適したタイミングで与え、植物の生育をよく見守ることが大切なのだと思います。
「根が聖なるものであれば、枝もそうなのです」と言っています。根が聖なるものになるというのは、聖なるものに根ざしているからではないでしょうか。旧約聖書の方の御言葉では「ユダの家の救われて残った者は」と言っています。救われて残った者。神さまに救って頂いた者です。この救いの出来事こそ、私たちの根ざす聖なるものに他ならないのではないでしょうか。私たちは、私たちを救ってくださるキリストの愛と憐れみに根ざして、聖なる根を張るから、聖なる枝を張り、聖なる実を結ぶことができるのです。
例えば、パンデミックに襲われたこの二年間のことを考えてみると、今この世界は深刻に愛を必要としていることは間違いないのではないかと思います。世界は無関心や不寛容に覆い尽くされた様相を呈しています。パンデミックが始まる前からそうでした。この二年、社会のいろいろなところに無理が出ているので、覆い隠せなくなってより鮮明になっています。ドラックストアにマスクや消毒液を求めて人が殺到し、店員が罵声を浴びせられていたのは、それほど昔の話ではありません。似たような不寛容はいろいろなところで顔をのぞかせるし、自分のことで精一杯で他人に関心を払う余裕が私たちになくなってしまっているように思います。今、世界は深刻に愛を必要としている。
しかしだからといって、自分の頑張りで愛を搾りだそうとすると、すぐに無理になってしまいます。枯れてしまう。頑張りや努力ではどうしようもない。愛の実を結ぶには、聖なる根が必要です。聖なるキリストの救いに根ざす根を下ろさなければ、私たちには愛の実を結ぶことができません。キリストが私を無限に愛して飼い葉桶に生まれてこられたこと。キリストが私のために十字架にかけられたこと。キリストが私の罪を赦すために甦ったこと。そういう一つひとつのキリストの出来事に根を張るなら、その時初めて、私たちにも愛の実りが結ばれます。キリストの愛に根をおろして、私も、愛の実りを結ぶのです。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...