2022年6月30日木曜日

2022年6月30日の聖句

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。(出エジプト15:2)
マリアは言った:力ある方が、私に大きな事をしてくださったからです。その御名は聖なるかな。(ルカ1:49)

とつぜん真夏に放り込まれてしまったかのようで、なかなか、心も体も付いて行かれません。朝から夜までずっと暑いです。何もせずとも、ただ生きているだけで毎日ヘトヘトになってしまいます。そのような時にこそ、今日の御言葉を私たち自身の言葉としたいと願います。「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。」
これはモーセとヘブライ人たちがエジプトを脱出し、葦の海にまでいたった時、後ろから迫り来るエジプトの軍勢から逃れるために神さまが海の中に道を通してくださった時の歌です。神さまが何もないところに道を造って、私たちを救ってくださった。そういう救いの出来事を経験し、神さまをほめたたえる歌です。
「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。」主なる神さまが私の力でいてくださる。私に力が湧かずあるいは行き詰まっていたとしても、主が私の救いとなってくださっている。そのように言います。
神さまが海の中に道を通し、私たちをエジプトでの奴隷生活から救いだしてくださった。その救いの経験が、この賛美を生んでいます。洗礼を受けた者も、水の中をくぐり抜けて救われました。洗礼で頭に注ぎかけられる水は、私たちを悪から救い出す水です。私たちはもはや奴隷ではなく、神様にあって自由になっている。
毎日、本当に暑いです。肉体に食い込むような厳しい暑さです。神さま、助けてくださいと私たちも祈りながら毎日を過ごしている。しかしそれでも、私たちは根本的には神さまの救いにあずかっています。神さまが私たちの力であり、救いです。
「力ある方が、私に大きな事をしてくださったからです。その御名は聖なるかな。」これはマリアの賛歌。これもやはりマリアが主イエスを胎に宿した時の賛歌であり、救いを喜ぶ歌です。神さまの起こしてくださる救いの出来事が私たちの喜びの源泉であり、私たちの喜びです。夏の暑さも冬の寒さも奪うことのできない根源的な救いが、ここにあります。

2022年6月29日水曜日

2022年6月29日の聖句

私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたがたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30:19)
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)

「永遠の命とは・・・あなたと・・・イエス・キリストを知ることです」と言われています。主イエスさまの祈りの言葉の一節です。「永遠の命=知ることと」というのは、少し不思議なことのような気がします。知るというのは読んで字のごとく知的活動のはずなのであって、それは命と同じ事になりようがないのではないか、と思うからです。どういうことなのでしょうか。
まず、聖書の「知る」は、単なる知識や知的活動の範囲では収まらない、もっと豊かで広い意味を持っています。例えば、夫婦の関係を「知る」という言葉で表現することがあります。「人は妻エバを知った(創4:1)」などです。この「知る」は、明らかに知的活動以上の事柄、肉体も心も含む深い関係を表しています。
そして「知る」対象が神さまになった時、また独特の重みを持っていると思います。「主を畏れることは知恵の初め(箴1:7)」の「知」は敬虔さや礼拝につながります。日曜日に耳を傾けたエレミヤの言葉では「誇る者はただこのことを誇れ。悟りを得て、私を知ることを」と言っていました。主を知ることは、主の公正と正義と慈しみにあずかり、またこれに従うことを意味します。
「永遠の命とは・・・あなたと・・・イエス・キリストを知ることです。」それは明らかに知的な領域の話ではない。神を愛し、主イエスを愛し、信じ、従う事です。永遠の命とは、主イエス・キリストと、この方をお遣わしになった神を愛することです。神を愛する者を、神は愛してくださいます。永遠なるお方の前で、私たちは自分の命を超えた神の愛がこの私にさえも注がれていることを知る。私も永遠の命に生かされていることを知るのです。「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたがたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」だからこそ、神さまは私たちを招いておられます。命を、祝福を選び取りなさい、と。死や呪いの中に自分を沈めていくのではなくて、私たちを永遠に愛してくださる神の愛の中に帰ってこい、と主イエス・キリストは私たちを招いてくださっています。主イエスさまの祝福を、命を、今日選び取りましょう。

2022年6月28日火曜日

2022年6月28日の聖句

主が右におられ、私は揺らぐことがない。(詩編16:8)
パウロは言う:私は今日まで神の助けを体験してきました。そして、今やここにしっかりと立ち、神の証人となっています。(使徒26:22)

「今日まで、そして今や」と言います。今日まで、私は神の助けを経験してきた。今日までの神の助けの日々が現在に迫ってきているイメージだと思います。これまで、どのような時にも神の助けが共にあって、その日々が今の私を形づくっている。
そして、今や、私はここにしっかりと立っている。これまで私を助けてきてくださった神さまは今も私と共におられ、私を支えてくださっている。神の恵みの過去が今このときも私を支えてくださっているのです。「今日まで、そして今や。」これが神を信じる者の時間の見方です。今日までそうであったように、今も神が私を助けてくださっている。
「主が右におられ、私は揺らぐことがない。」主は私の右にいてくださる。この「右」という単語は、辞書を調べてみると「右」という意味の他に「南」という意味もあるそうです。右が南を意味するということは、体は東に向かっているということになります。東に向かっている人間の右手は南に向いています。主なる神さまは、私たちの右、つまり南側にいて、私と共に歩いてくださっている。南は太陽が昇ると一日の中で一番強い日差しが照りつけてくる方角です。今年は早くも梅雨が明けて日差しが強く照りつけていますが、旧約聖書が生まれたパレスチナ地域はなおのこと日差しは強かったのではないかと思います。そのような夏の熱い日差しからも、神さまは私たちを守ってくださいます。私たちの南側に立って。
神さまは、私たちをあらゆる災いから守ってくださる方です。南にも、あるいは北でも東でも西でも、私たちを守るために必要なところに立ってくださることでしょう。私たちを守る砦となり、雛を翼で覆う親鳥となり、私たちを必ず守ってくださいます。今日までそうであったように、今も、神さまが共にいてくださるから私たちは揺らぐことがない。
私たちは、神さまが私を守り、支えてくださっていることの証人です。神の恵みの承認として、私たちは今日もこの一日を右にいてくださる神と共に歩んでいきます。

2022年6月27日月曜日

2022年6月27日の聖句

あなたの民は言う。「主は正しく行ってくれない。一方で自分たちが正しい行いをしていない」。(エゼキエル33:17)
主に喜ばれるものが何かを吟味しなさい。(エフェソ5:10)

自分の生き方を吟味しなさい、と聖書は私たちに言います。
車の免許を取りに教習所に行くと、運転前に車の点検をするようにと教わります。エンジンオイルはきれいで、必要な量が入っているのか。冷却水は、ウィンドウォッシャー液はあるのか、タイヤはすり減っていないか。そのようなことを毎回毎回点検してから運転するように、といわれる。しかし、免許を取った後、運転の度にそれを実行する人はどれくらいいるのでしょうか。あまり多くないのではないかと思います。
聖書は、私たちに自分の生き方を吟味するようにと言う。自分の生き方をもう一度点検してみよ、と。自動車であれば、点検項目は自動車が法令の定める安全基準を満たしているか、安全に走行できるか、といったことになります。私たちの生き方の吟味は「主に喜ばれるものが何か」という基準に従ってなされます。私の生き方は、主に喜んで頂けるものであるのか?その一事を基準にして、私たちは自分の生き方を問い直します。
今日の旧約聖書の御言葉は、ローズンゲンの原書であるドイツ語のこの箇所を日本語に翻訳したものです。聖書協会共同訳の同じ箇所はこのように翻訳されています。「あなたの同胞は、『主の道は公正ではない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。」正義に背いて不正に溺れるイスラエルの人々に、預言者エゼキエルは、悪から離れて主に従おうと呼びかけます。神さまのもとに立ち返り、罪から立ち帰って正義と公正を行おう、と。不正なのは神さまではなく、私たち自身。その事実に気づいた時、私たちは生き方を変えざるを得ません。
基準は、私たち自身の価値観や好みではなくて、神さまです。神さまは何を喜んでくださるのか。私たちが何を喜びとするのかということではなくて、神さまが何を喜んでくださるのか。今日、私たちの一日も、主が何をお喜びになるのかということを問いつつ歩んでいきたいと願います。

2022年6月26日日曜日

2022年6月26日の聖句

神よ、あなたは私たちに多くの不安と苦難を経験させられましたが、再び私たちを生き返らせてくださいます。(詩編71:20)
私は、平和をあながたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)

ふるい一週間が過ぎ去って、新しい週が始まりました。日曜日です。どのようにこの一週間を過ごしてこられたでしょうか。心が散り散りになるような思いで一週間を過ごしてきた方もおられることでしょう。心が騒ぐこと、怯えてしまうようなこともあったかも知れません。不安と苦難を経験する一週間だったという方も、もう大丈夫。私たちの信じるイエス・キリストは、「私の平和を与える」と言ってくださるお方です。しかも、「私はこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われます。他の誰でもない、主イエスさまの平和を、主イエスさまにしか与えることのできない仕方で、私たちに与えてくださる。私たちの信仰は「だからもう大丈夫」という信仰です。
「神よ、あなたは私たちに多くの不安と苦難を経験させられましたが、再び私たちを生き返らせてくださいます。」この詩編の伝える祈りの言葉は、私たちにすばらしい気付きを与えます。「あなたは私たちに多くの不安と苦難を経験させられましたが」と言っています。私たちが味わってきた多くの不安や苦難は、神さまの手の中にあったのだと言います。神さまがあずかり知らないところで、事故のように起きてしまった不安や苦難ではないのです。どのようなことであっても、それは神さまの御手の内にある。私たちの天の父として、慈しみに満ちたお方のお与えになったものと、私たちは信じることができるのです。
しかし私たちに主イエスさまがお与えになる平和は「世が与えるように与えるのではない」と言っておられますから、私たちの期待したとおりの形ではないかもしれません。私たちには平和に見えないこともあるかも知れない。しかし、このお方が下さるのは、「私の平和」、つまり主イエス・キリストの平和です。私たちのために十字架にかかってくださった方の平和です。何よりも確かで、強く、したたかな平和です。
この新しい一週間も、いろいろなことがあるでしょう。一筋縄ではいかない日々が始まることでしょう。しかし、もう大丈夫。主イエス・キリスト、平和の主であるお方がどのような時にも私たちと共にいてくださるから。

2022年6月25日土曜日

2022年6月25日の聖句

人が自分の子を育てるように、あなたの神、主があなたを育ててくださったことを、あなたは心に留めているはずです。(申命記8:5)
イエスは言う:私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。(ヨハネ13:15)

主イエスは私たちがまねるための模範を示した、と言われます。ここでは、とても具体的な出来事についての話をしている。すなわち、このヨハネによる福音書第13章を初めから読んでみると、主イエスさまが十字架にかけられる前の晩、弟子たちと一緒に囲んだ食卓で、弟子たちの足を洗った、という出来事が記録されています。これは主イエスの愛の極みであった、と聖書は記している。弟子たちの足を洗い、彼らに向かって主イエスはおっしゃいます。「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」
主イエスが私たちに示してくださった模範、それは、愛の模範です。どうやって私たちが愛し合ったら良いのか、ということを主イエスが身をもって示してくださった。互いにひざまずいて、相手の僕になり、婢になって、足を洗い合う。私たちの生活習慣では足を洗うことはありません。しかしお互いの僕・婢として仕え合うということはいくらでもすることができるし、それが主イエスが私たちに示してくださった模範です。
主イエスの愛、神さまの愛。そのことを、旧約聖書ではこのように言っています。「人が自分の子を育てるように、あなたの神、主があなたを育ててくださったことを、あなたは心に留めているはずです。」神さまは、私たちをご自分の子を育てるように愛し、慈しみ、育んでくださった。その神の愛をあなたたちは心に留めているでしょう、と言っています。これまでのあなたたちの歩みの中で、神の愛を心底味わってきたはずです。聖書はそのように言います。
礼拝のことを、英語でサービスと言うことがあります。礼拝は私たちからの神さまへのサービスでもありますが、それ以上に、神さまの私たちへのサービスです。私たちが神さまを愛し、隣人を愛するよりも先に、神さまが私を愛してくださった。神さまが私に隣人を与えてくださった。そして私のことも隣人のことも、このお方が足を洗ってくださった。すべては神の愛から始まりました。わたしが今生きているただ一つの理由、それが神の愛に他ならないのです。

2022年6月24日金曜日

2022年6月24日の聖句

主の律法は完全で、魂を生き返らせる。(詩編19:8)
群衆はヨハネに尋ねた:それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。
ヨハネは彼らに応えて言った:下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。(ルカ3:10~11)

今日の御言葉は、かなりギクリとさせられると思います。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。」下着です。生きていくために絶対になくてはならない物です。当然、現代のようにユニクロにでも行けば2枚1000円で買えるというわけではありません。趣味で集めたコレクションの話でもない。わたしにとっても、あの人にとっても、なくてはならない、人としての尊厳にさえ関わるものです。
しかも、「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい」と言っていて、10枚も持っているなら一枚くらいは、というのではないのです。三枚の内の一枚でもない。二枚の内の一枚です。それをあげてしまったら、わたしは一体どうやって下着の洗濯をしたら良いのでしょう!ここでしているのはそういう話です。わたしのなけなしの、しかし僅かに余裕があるものを隣人に与えよ、と言うのです。
そうとすると、「食べ物を持っている人も同じようにしなさい」も同じ響きを持っているに違いありません。有り余る余剰や、食べても食べなくても良いデザートの話ではなく、今日生きるために必要な食べ物。それを食べるものがない人と分かち合え、と言うのです。
私たちの生き方を根本から問うような、すごくチャレンジングな言葉です。しかし正直に言って、聞くと少し苦しくなって、聞かなかったことにしてしまいたくなる言葉でもあります。本気で従おうとしたら・・・一体できるのだろうかと思わざるを得ません。
今日の旧約聖書の御言葉はこのように言います。「主の律法は完全で、魂を生き返らせる。」魂を生き返らせるというのは、本来のわたしに戻るということなのかも知れません。主の律法、つまり神の言葉に従うとき、私は本当に私らしく生きることができる。魂が生き返る。先ほどの新約聖書の言葉も、私たちに対する高すぎる目標や過大な要求ではなく、私の魂を生き返らせる言葉。なぜなら、キリストこそが私のためにあのようにしてくださったから。聖書は、私たちにそのように語りかけているのではないでしょうか。

2022年6月23日木曜日

2022年6月23日の聖句

声を響かせ、賛美して言え:主よ、あなたの民をお救いください。(エレミヤ31:7)
主よ、大胆に語ることができるように、あなたの僕たちに御言葉を与えてください。(使徒4:29)

「主よ、あなたの民をお救いください。」そのように声を響かせ、賛美して言えと聖書は言います。「主よ、あなたの民をお救いください」、これは賛美の言葉なのです。
主イエスさまも、私たちに教えてくださいました。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」主イエスも、やはり私たちに「救ってください」と祈るようにと教えてくださった。神さまは、私たちが「救ってください」と祈ることを待っておられるし、その祈りをご自分への賛美として聞いてくださる、というのです。
私たちは「救ってください」と祈っているでしょうか。神さま、救ってください。神さま、助けてください。神さまは私たちのそういう祈りを待っておられる。私たちがが助けてほしくても我慢するのではなく、私たちが神さまに迷惑をかけないように気を遣うのではなく、「主よ、あなたの民をお救いください」と祈ることを、待っていてくださるのです。
そして、今日の新約聖書の御言葉は、旧約と併せて読むととても興味深い御言葉です。「主よ、大胆に語ることができるように、あなたの僕たちに御言葉を与えてください。」大胆に語ることができるようにといったとき、普通その相手は人間です。ところが今日の二つの御言葉のつながりからすると、神さまに向かって大胆に語れるようにということになります。私たちが大胆に祈ることができるように。そのために、主よ、わたしに御言葉をあたえてください、と願っている。
私たちの祈りは御言葉から始まります。神さまが私たちに福音の言葉を語り聞かせ、私たちはそれに応えて神さまに祈る。主の祈りの「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りも、主イエスさまが教えてくださった祈りとして、私たちは主イエスの愛に信頼して祈ります。私たちの祈りは、キリストの真実から始まる。だからこそ、私たちは安心して、大胆に祈ることができる。神さまがこの祈りの時を祝福してくださり、祈りの楽しみの中で今日の日を歩み出すことができますように。

2022年6月22日水曜日

2022年6月22日の聖句

戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。(箴言7:2)
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。(ヤコブ3:13)

良い生き方、と言っています。この「良い」という言葉は、美しいという意味もある言葉です。美しい生き方。あなたの生き方の美しさを人々に見せなさい(示しなさい)、と言っています。
そう言われると少し意外な感じがするのではないかと思います。信仰というのは神さまと私との関係の話であって、自分の生き方を人にもてもらうということではなくて、あくまでも人目を気にせずに神さまだけに向かって生きていくという印象の方が強いのではないでしょうか。確かにそういう面はあります。人目や人の評判に心を奪われて神さまを忘れてしまっては本末転倒です。しかし、神さまを信じる者としての「知恵に適う柔和な行い」と、自分の生き方の美しさをもって人に示すということもまた大切なのだ、とこの手紙を書いたヤコブは言います。
私たちの生き方は美しいでしょうか。美しさの鍵は、柔和さにあると言っています。柔和。言葉を換えると「優しい」ということです。主イエスさまを信じる者の優しさ、それは美しい。それは、他の誰よりも主イエスさま御自身が優しい方だからです。優しい人は主イエスさまのお姿を映している。
今日、私たちがこうして朝を迎え、一日の歩みを始めたことも、主イエスさまの優しさの中にあります。私たちが今日生きるために必要なものを備えてくださったのも、主イエスさまの優しさです。主イエスは善人も雨を降らせ、悪人にも太陽を昇らせてくださいます。私たちは主イエス・キリストの優しさと愛の中で新しい一日を生き始めています。
「戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。」主イエス・キリストは私たちを今日招いておられます。ご自分の柔和に、私たちも生きるように。主イエスの柔和こそが私たちの命だから。主イエスが、今日、この道に招いておられます。

2022年6月21日火曜日

2022年6月21日の聖句

幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました。(詩編8:3)
祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」(マタイ21:15~16)

もう何年も前のことです。二番目の子どもがまだ赤ちゃんだったころのこと。もう既に私たち家族は教会堂の一階に住まわせて頂いていました。ある日曜日の午後、どうしても娘が泣き止まず、その声が二階の礼拝堂で礼拝をしていた国際礼拝にも響いてしまった。そのとき、前に立って礼拝を導いていた道子さんが、「あかりちゃんも元気に神さまを賛美してますよ」と言ってくださったのです。親としても救われる思いですが、それだけではなく、今日の御言葉を強く思わされます。「幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました。」
幼子も、乳飲み子も、大人も老人も、誰の口を通しても神さまは賛美されます。それは泣き声かも知れないし、はっきりした言葉かも知れないし、うめき声かも知れません。しかしそういう一つひとつの声を神さまは聞き漏らすことなく、ご自分への賛美の声として受け入れてくださいます。「幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました。」
主イエス・キリストの御業を見た子どもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫んだ、と聖書に書いてあります。しかもその声を聞いた祭司長たちや律法学者たちは怒った。とんでもないことを言う。イエスに向かって「ホサナ」と、神を賛美するようなことをいうなんて、とんでもない子どもたちだ。そう言って、イエスに、子どもたちがそう言うのを止めさせるようにと要求しました。
子どもたちはよく分かっていました。私たちが賛美するべきお方がどなたなのか。子どもたちはイエスさまが大好きでした。子どもたちも主イエス・キリストを賛美する。私たちも神さまの子どもたちです。私たちも幼子の心になって神さまを賛美します。この声を主イエスさまが喜んでくださることを信じて。

2022年6月20日月曜日

2022年6月20日の聖句

あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。(出エジプト記20:3)
シモン・ペトロは言った:主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。(ヨハネ6:68~69)

旧約の預言者にホセアという人がいました。ホセアの時代、イスラエルの人々は徹底して神さまを無視し、他の神々を礼拝していました。それで、主なる神さまはホセアに命じます。
「行って、淫行の女をめとり
淫行の子を引き取れ。
この地は甚だしく淫行にまみれ
主に背いているからである。」
ホセアはそのことばのとおりにし、ゴメルという娘をめとりました。ゴメルはホセアとの結婚後も淫行をかさね、ホセアは苦しみます。偶像礼拝を重ねるイスラエルの人々をご覧になって神さまが味わっておられる苦しみは、ゴメルのために苦しむホセアの苦しみと重なる。姦淫を重ねる妻を受け入れ、愛し、しかしそのたびに裏切られる苦しみ。それが主なる神さまの私たちのための苦しみです。
「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」これはよくある宗教的戒律のようなものではありません。私たちを一人の妻のように愛し、人格的な関係を結んで愛し続けようという神さまの苦しみです。もしも私たちをどうでもいい相手だと思っていたら、ホセアとゴメルという実際の夫婦の関係によってご自分の思いを表そうとはなさらなかったはずです。神さまは私たちを一人の妻として愛してくださっている。主なる神さまは私たちの夫になってくださるのです。
「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」一体他の誰のところへ行きましょう、とシモン・ペトロは主イエスさまに告白しました。このお方こそが永遠の命の言葉を持っておられる。この方こそが、私たちの愛する神さまでいらっしゃる。このお方こそが、私たちの救い主でいてくださる。
私たちは今日も、私たちを愛してくださる主イエス・キリストと共に、生きるのです。

2022年6月19日日曜日

2022年6月19日の聖句

惜しまず与える人はますます豊かになり、物惜しみをする人は自分自身を乏しくする。(箴言11:24)
パウロは言った:あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。(使徒20:35)

「受けるよりは与える方が幸いである」とおっしゃったとおり、主イエスさまは与えて、与え尽くされました。
「惜しまず与える人はますます豊かになり、物惜しみをする人は自分自身を乏しくする。」この御言葉は、まさに主イエスさまの歩みを言い表している御言葉であると思います。主イエスは惜しまずにお与えになった。主イエスの「ますます豊かになり」とは、この世で誰もが欲しがるような富において豊かになるということではありませんでした。主イエスはご自分のすべてを与え尽くしました。そもそも、神御自身であるというお立場さえもお与えになった。貧しくなられ、弱くなられました。すべてのものを与え尽くされた。主イエスさまは、そうやって神さまの御前に豊かになられました。この世で受けた報いは、十字架だけでした。そのキリストを、神は死者の中から引き上げてご自分の右の座に着かせられた。主イエスは神がくださる豊かさだけに生きられたのです。
「受けるよりは与える方が幸いである。」この言葉は、主イエスさまにしか言うことのできない言葉です。道徳訓としては、似たようなことを言っている人もいるかも知れません。しかし究極にすべてを与え尽くした神御自身にしか、本当に言うことのできない言葉なのではないでしょうか。そして、主イエスさまが言ってくださったからこそ、私たちにとっても本当に真実な言葉なのではないでしょうか。
「受けるよりは与える方が幸いである。」主イエスさまは、私たちを今日もこの幸いに招いておられます。神さまは私たちにすべてのものをプレゼントしてくださいました。私たちが持つ物で、頂かなかった物は一つもない。すべてを与えて私を生かしてくださった方が、私たちを「与える幸い」に招いておられるのです。

2022年6月18日土曜日

2022年6月18日の聖句

まことに主は、渇いたたましいを満ち足らせ、飢えている者をよいもので満たされる。(詩編107:9)
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたの欠けをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)

「あなたがたの欠け」と御言葉は言います。私たちは欠けている。私たちは自分自身ではそのことに気づいていないかも知れません。しかし神さまがご覧になれば、私たちは欠けている。神さまは、そもそも、私たちを十全なものとして造ってくださいました。私たち人間も、この世界も、神さまはお造りになって「極めて良かった」とご覧になったのです。極めてよく、満ちたものだった。しかしそれを損なったのは、私たちの罪です。
あるいは、こう言っても良いかもしれません。神さまは私たちを十全な存在として造ってくださった。しかしそれは、神さまなしで生きていかれる、神さまを必要としないという意味での十全さではありません。私たちが神さまを求めることを止め、神さまの御許に安らぐことを放棄したから、欠けているのです。渇いているのです。飢えているのです。
私たちは、神さまの御許に安らうまでは、本当の安らぎを得ることができないから。
神さまは、私たちを満ち足らせてくださいます。「ご自分の栄光の富に応じて」と書いてあります。神さまの栄光の富に応じて、私たちを満たしてくださる。すごい言葉です。私たちのニーズを埋めるためとか、私たちの欲望を満たすためとかではなく、神さまの栄光の富に応じて。それは私たちの願望や必要と思い込んでいる物よりもはるかに豊かで、またすばらしいものであるに違いません。神さまの栄光の富なのです!神さまの栄光、それは主イエス・キリストに現れた栄光でしょう。十字架におかかりになったかたの栄光でしょう。墓から甦らされた方の栄光でしょう。これを私たちに満たしてくださる。だから、私たちは大丈夫です。この欠けも、渇きも、主イエス・キリストが満たし、私たちに安らぎを与えてくださるのですから。

2022年6月17日金曜日

2022年6月17日の聖句

主よ、わが神よあなたはまことに大いなる方。あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。光はあなたが身に着ける衣です。(詩編104:1~2)
あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の恵みを、あなたがたは告げ知らせるべきです。(1ペトロ2:9)

私たちはかつては闇の中にいました。しかし今や、主イエス・キリストの光の中に照らされています。私たちはかつては闇の中に生き、闇の行いをしてきました。しかし今や、キリストの光が私たちを明るくしてくださっています。
昨日は夕焼けがとても美しかったです。あかね色の空でした。キリストにあって、私たちには夕暮れ時にも光があります。これから夜のとばりが降りてくる時にも、例え夕日は山の向こうに隠れてしまったとしても、キリストの光は私たちを照らし続けています。
夜の闇の中にあっても、私たちはキリストという太陽が昇る朝が来ていることを知っています。もう来ています。暗闇に属する行いを捨て、私たちは昼間歩くようにしてこの時代を生きていきます。主イエス・キリストは私たちと共におられます。
私たちを照らすキリストの光、それは「あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。光はあなたが身に着ける衣です」と詩編が言うとおり、神の威厳と威光の光です。神さまのお名前を賛美し、私たちは日の光の中を歩みます。主イエス・キリストこそが私たちを照らす太陽だからです。
今日、生島陸伸牧師の葬儀が行われます。カンバーランド長老教会にとって、大きな働きを献げてくださった大切な存在です。この先生は、主イエス・キリストの光をひたすら語り続けてこられました。キリストの恵みの光の優しさを証しし続けてこられました。私たちを包むキリストの光は、今も、輝き続けています。
今日一日のあなたの歩みが、主イエスさまの優しい光の中にありますように。キリストの光の祝福が、あなたにありますように。

2022年6月16日木曜日

2022年6月16日の聖句

あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。(出エジプト記23:25)
だから、あなたがたは、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い煩ってはならない。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じであるからである。(マタイ6:31,32)

今日の新約聖書の御言葉は32節までですが、33節はこのように続きます。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」
神さまと私たちとの関係は、ギブアンドテイクの関係ではありません。私たちが神さまを信じ、仕えるから、そのご褒美として、あるいは御利益として食べる物や飲む物、着るものが与えられるという関係ではないのです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じであるからである。」主イエスは神さまを「あなたがたの天の父」と呼びます。神さまは私たちの父として、私たちに食べ物や飲み物、着る物が必要なことをよくご存じ。だから、私たちは神の国と神の義をまず第一に求めます。神さまは私たちの父として慈しみに富んでおられる方です。だから、神さまは神の国と神の義に添えて、私たちが生きるのに必要な物も必ず与えてくださる。
この「添えて」というのは、楽しい言葉です。「添えて」と言うからには、いちばん大切な方ではありません。しかし、私たちには食べる物や着る物も必ず必要です。だから、ちゃんと神さまはそれも添えて与えてくださる、と主イエスは言われます。主イエスのユーモアさえ感じさせる言葉です。
「あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。」安心して、私たちは主なる神さまに仕えましょう。このお方の慈しみを信じて。父として、私たちに必要な物を知っておられる方。御子として、私たちの肉体の弱さを誰よりも知っておられる方。聖霊として、私たちのために呻きながらとりなしてくださっているお方。このお方の慈しみを信じ、私たちは安心して神の国と神の義を求めます。神さまは私たちが生きるために必要な物を必ず準備してくださっています。今日も私たちは天の父の慈しみの中を生きているのです。

2022年6月15日水曜日

2022年6月15日の聖句

主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。今より、とこしえに。(詩編121:8)
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)

主日礼拝のプログラムの最後は「祝福」です。コリントの信徒への手紙二13:13の御言葉をもって、祝福が宣言されます。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」
さがみ野教会の礼拝でこれを「祝福」と呼ぶようになったのがいつであるのか、私はまだ存じ上げていないのですが、私が学生時代まで通っていた母教会である高座教会では、以前は「祝祷」と呼んでいました。2000年前後にそれを「祝福」と呼び改めるようになったことを覚えています。祝福と祝祷は違います。祝祷の「祷」は祈祷の「祷」で、この字には「祈る」という意味があります。祝祷は「祝福を求める祈り」という意味です。しかし礼拝の最後で告げられる言葉は「祝福」で、祈りではなく宣言です。三位一体なる神様のお名前によって祝福が宣言されている。
礼拝が終わって家路について、家に帰るまでの間に転んで怪我をするかも知れません。その一週間に大きな不幸があるかも知れません。そうなったら、牧師の祝福を求める祈りの効果が足りなかったのか?そうではないのです。神の祝福は、もうすでに宣言されている。宣言されたからには、私たちに何が起ころうとも神は私たちを祝福してくださっています。私たちの目にはそのように見えなくとも、神の祝福の事実は変わることがありません。
「主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。」主イエス・キリストはご自身の真実にかけて、私たちを強め、悪しき者から守ってくださいます。十字架にかけられた方が守ってくださるのです。どのような悪霊であっても、私たちを神の愛から引き離すことなど絶対にできません。私たちを支えるキリストの祝福の事実が絶対に揺るがないからです。
「主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。今より、とこしえに。」今日、私たちはキリストの祝福によって、行くのも帰るのも守られています。私たちを支えるこの事実の中、平安のうちに歩んでいきましょう。

2022年6月14日火曜日

2022年6月14日の聖句

もし、主が町を守るのでなければ、守る人は空しく見張ることになる。(詩編127:1)
あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。(フィリピ1:6)

「あなた方の中で善い業を始められた方が」と、使徒パウロは言っています。主イエス・キリストのことを指しているのでしょう。キリストは私たちの間で善い業を始めてくださった。私たちはキリストが始めてくださった善い業をして、今生きているのだ、と言うのです。
キリストがお始めになった業です。どんなに小さな私たちの愛の業も、少しばかりの他人への思いやりも、それはキリストが始めてくださったことです。どうか、私はそんな良いことなんてしていない(あるいは、できない)とはおっしゃらないでください。キリストは、私たちの間でも善い業をお始めになっている。私たちを通してキリストの業はもう始まっているのです。私たちはそのことを信じたい。
私たちから始めた善い業だとしたら、すぐに限界が来てしまうと思います。どんなにすばらしい責任感も、志も、私たちは弱いですし儚いですから、人から見られていなかったり気がゆるんだりした時に揺らいでしまうこともある。しかし揺らぐ私たちの間で、キリストが善い業をお始めになっています。自分を信じる必要はない。私たちはキリストを信じます。
「もし、主が町を守るのでなければ、守る人は空しく見張ることになる。」キリスト抜きでは、私たちのどんなに善い業も空しくなってしまうでしょう。しかしキリストが始めた業ならば、私たちは弱くても、キリストにある喜びがあるはずです。
この業は、キリストの日にキリストご自身が完成してくださる。キリストの日、それはキリストが再び来られる日です。世界の完成の日です。神さまの御前に私たちが立たされる日、キリストご自身が私たちの間で始めた善い業が完成される。キリストご自身が完成してくださいます。
今日、私たちのすることも、キリストにあって尊い意味がある。決して空しくない。主イエス・キリストが私たちの手を通して、足を通して、働いてくださいます。

2022年6月13日月曜日

2022年6月13日の聖句

驚くべき正義によって、私たちの声に耳を傾けてください。私たちの救いである神よ。(詩編65:6)
イエスは言う:あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(ヨハネ14:14)

「私の名によって何かを求めるなら」と主イエスは言われます。主イエスがこのように言ってくださったから、私たちは主イエス・キリストのお名前によって祈ります。主イエスさまのお名前による祈りを主イエスご自身が聞き、それをしてあげようと言ってくださっています。
スイスの牧師、ルードルフ・ボーレンという先生が最晩年に『祈る』という本を著しました。この先生の遺言のような本です。祈ることを修練するための助けとなるようにという願いを込めて書かれた本です。この本の最初に、ボーレン先生がこのような祈りをのせています。

主よ、私の愚かな祈りを赦してください。
愚かでした、私の祈りは、いつも自分のことばかりーー
あなたの祈りから遠く離れて。
違う祈り方を教えてください。
かの使徒と改革者は、祈ることで彼らの世界を変えた。
彼らのように祈ることを教えてください。
(注 ここに出て来る使徒と改革者というのは、パウロとカルヴァンのことです。しかしそのことには今日は立ち入りません。)

私の祈りは自分のことばかりで愚かでした、と告白しています。今日の主イエスの御言葉は、主のお名前で祈るなら私がそれをしてあげようと言ってくださっています。しかしだからといって自分のことばかりの祈りをするとしたら、それは愚かな祈りと言わなければならないのではないでしょうか。
「驚くべき正義によって、私たちの声に耳を傾けてください」と旧約聖書は言っています。神さまは驚くべき正義によって私たちの祈りを聞いてくださる。それならば、私たちは神の正義に叶う祈りをすることが求められます。それは、執りなしの祈りです。私たちは自分ためにばかり祈るのではなく、他者のため、しかもキリストがしてくださったように私たちを敵と思っている人のために祈る。それこそが神さまの目に適う祈りです。

2022年6月12日日曜日

2022年6月12日の聖句

多数に追従して、悪を行ってはならない。(出エジプト23:2)
愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していきましょう。(エフェソ4:15)

ハンム・ミュンマーといいう人がこのように言ったそうです。
「三つにして一つの愛の広さの中へと歩み入りなさい。
その中で呼吸しなさい!その中に生きなさい!その中で行動しなさい。」
三つにして一つのというのは、父・子・聖霊なる神さまのことでしょう。神様ご自身の愛の広さの中へと、歩み入りなさいと言います。愛の広さ。今日の新約聖書の御言葉はエフェソの信徒への手紙ですが、この手紙の3:18にこのように書かれています。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。」キリストの愛という言葉がここに出てきます。さらに広さに加えて、長さ、高さ、深さと四つの尺度で表現しています。通常、物の大きさを測るための尺度は縦、横、高さの三つです。しかもこの「広さ、長さ、高さ、深さ」という表現の仕方は、外から眺めていて生まれる言葉ではないと思います。中に入ってみているから、こういう表現になるのではないでしょうか。まさに、ミュンマーさんが「三つにして一つの愛の広さの中へと歩み入りなさい」と言っているとおりに。神の愛の中へ入っていらっしゃい、と聖書は私たちを招きます。私たちがその中で呼吸し、その中で生き、その中で行動するように、と。
「多数に追従して、悪を行ってはならない。」このように語る旧約聖書の御言葉は、とても耳が痛い言葉です。もしかしたら、キリストの愛のすばらしさをどこかで意識しながらも、多数に追従してしまうというところに私たちの現実があるのかも知れません。しかし、それではキリストの愛を外から眺めているだけということになってしまいます。むしろ、キリストの愛の中に飛び込んで、そこで呼吸をし、生きることが本当に大切です。眺めるのではなく、私を現に今生かしているのはキリストの愛なのだと気付き、そういう私の生に真摯であるところで、私たちを通して神の愛の奇跡が輝くのです。

2022年6月11日土曜日

2022年6月11日の聖句

終わりの日には、どの国の民も他の民に向かって剣を上げることはなく、もはや戦いを学ぶこともない。(イザヤ2:2,4)
兵士たちはヨハネに尋ねて、「では、私たちはどうすべきなのですか」と言った。するとヨハネは彼らに、「誰に対しても暴力や不正を働くな。自分の給料で満足せよ」と言った。(ルカ3:14)

聖書は私たちに希望を語りかけます。「終わりの日には、どの国の民も他の民に向かって剣を上げることはなく、もはや戦いを学ぶこともない。」今も私たちの世界には戦争が続き、戦火で理不尽な苦しみを強いられている人がたくさんいます。ウクライナでの戦争も、アフガニスタンやミャンマーに代表される圧政にも私たちは心を痛めますし、私たちが迂闊にも知らないたくさんの理不尽な苦しみがある。一体どうやったら解決するのか、私たちには本当に分かりません。テレビやインターネットでは好き勝手なことを言っていますが、私たちには知らされていないいろいろな事情や思惑もあるのでしょう。そんなことを考えたら、ますます途方に暮れます。私たちの国だって、同じだと思います。私たちが知らないだけで、理不尽な苦しみを強いられている人や、社会構造的に踏みつけにされている人もたくさんいるに違いない。私たちが気づかないのは、踏んでいる側だからなのかも知れません。
聖書の語りかける希望の声に、今、耳を傾けましょう。「終わりの日には、どの国の民も他の民に向かって剣を上げることはなく、もはや戦いを学ぶこともない。」だからこそ、私たちは主イエスが教えてくださったとおりに「御国を来たらせたまえ」と祈ります。私たちがもはや戦うことを学ばない終わりの日は、神さまが実現してくださるのでなければ到底実現しようがないからです。それほどまでに争いを好む私たちの罪は深い。
しかし、それでもなお、聖書は私たちに生き方の方向転換を求めます。「兵士たちはヨハネに尋ねて、『では、私たちはどうすべきなのですか』と言った。するとヨハネは彼らに、『誰に対しても暴力や不正を働くな。自分の給料で満足せよ』と言った。」兵士たちは、力をもっている者の代表です。彼らに対して洗礼者ヨハネは暴力や不正を働くな、と言います。かえって自分の給料(与えられた分)で満足せよ、と。もしも私たちが平和に生きたいと願い、その方向に行きたいと試みるならば、それはすでに神の国の先取りです。平和は、神さまが起こしてくださった願いです。キリストの平和が、私たちを今日も生かしてくださいますように。「御国を来たらせたまえ!」

2022年6月10日金曜日

2022年6月10日の聖句

柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。(箴言15:1)
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。(エフェソ4:26~27)

今日の御言葉を読むと、愛するというのは、「先に愛する」ということなのだなと思います。怒っている時には、つい、相手が謝ってきたら赦してやろうと考えてしまいます。しかし、それは本当に「赦し」と言えるのか。神さまは私たちをどのように扱ったのでしょうか。神さまは、悔い改める者を赦してくださると私たちは考えますが、少し違うと思います。主イエスさまは、ご自分を十字架にかけた者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈ってくださいました。私たちは悔い改めたから赦されるのではありません。赦されたから、あるいはそのことを知ったから、初めて悔い改めるのです。キリストは私たちのことを先に赦してくださいました。キリストは私たちよりも先に愛してくださいました。このお方が「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったとき、それは、相手が愛してくれたら愛しかえそうということではなく、あなたが先に愛しなさい、ということではないでしょうか。
「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。」とっても厳しい言葉です。怒ったままで夜を迎えるなら、悪魔に隙を与えていると言います。自分はどれほど隙だらけだろうかと思わざるを得ない。しかし、キリストはまさに怒る私につけいる悪魔を滅ぼすために十字架にかかったのです。キリストの深い愛によって、私たちは悪魔からも守られている。キリストは、私たちをご自分の深い愛によって、愛する者にしてくださいます。私たちを新しくしてくださいます。キリストの御業として、私たちはそのことを信じ、期待して良い。
隣人への愛の具体的な現れの一つは、言葉です。どういう言葉を相手に投げかけるのか。「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。」もちろん「柔らかそうな言葉と冷たい態度」ではありません。柔らかい心から生まれる柔らかい言葉。主イエスさまが私たちを温め、固まった心を柔らかくしてくださいます。キリストの十字架は、私たちの言葉を生み出す心にも働いています。

2022年6月9日木曜日

2022年6月9日の聖句

もしあなたが正しいことをしているなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。(創世記4:7)
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。(ガラテヤ5:1)

今日の旧約聖書の御言葉は、アダムとエバの息子カインに告げられた神さまの言葉です。カインは土を耕す者、弟のアベルは羊を飼う者でした。カインとアベルはそれぞれに土の実りと肥えた羊を神さまに献げた。ところが神さまはアベルのささげ物には目を留めましたが、カインのそれには目を留めませんでした。カインは怒りました。それを見た神さまが言われるのです。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」そして、今日与えられている言葉へ続きます。
「もしあなたが正しいことをしているなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」そして、結局カインは弟アベルを殺しました。
創世記のこの箇所を読んでも、神さまがなぜアベルのささげ物を目に留め、カインのものには目を留めなかったのか、その理由は書かれていません。よくアベルのささげ物が「肥えた羊」と書かれていることから、アベルは一番良いものだったがカインはそういうわけではなかったと説明されます。しかし少なくとも創世記はそうは言っていない。理由がよく分からない。しかし、カインとアベル、それぞれが経験した現実は異なるものでした。それは私たちにも良くあることです。あの人ばかり神さまから優遇されているのではないか、私ばかり損をしているのではないか。私たちは始終そういうことばかりを考えている。だから、神さまはおっしゃるのです。「もしあなたが正しいことをしているなら、顔を上げられるはずではないか。」私たちは自分のしていることに顔を上げられるでしょうか。
カインは罪を治めるどころか罪に治められてしまいました。弟を殺してしまった。カインはまったく不自由でした。アベルと自分との比較から不自由であり、アベルへの憎しみや自分を評価してほしいという思いにがんじがらめだった。
「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。」キリストは私たちを自由にしてくださいます。救われるとは自由になることです。キリストの大きな愛、私たちへの限りない慈しみが、私たちを本当に自由にし、人を愛する自由さえも私たちに得させるのです。

2022年6月8日水曜日

2022年6月8日の聖句

主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めます。(サムエル上2:7)
私たちの栄光の主、イエス・キリストへの信仰にとどまり、人のどんな見かけにもふりまわされてはなりません。(ヤコブ2:1)

人の見かけにふりまわされる弱さを、聖書は本当によく知っているなと思います。サムエル記はイスラエルに王が生まれる次第を丁寧に報告しています。最初の王はサウル。この人は誰よりも背が高い美男子でした。当初サウル王は人気があった。人気の理由はいろいろあったでしょうが、見た目の良さもその一つだったのではないかと思います。
今日の新約聖書はヤコブの手紙ですが、この言葉の後はこのように続きます。「あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、『どうぞ、あなたはこちらへお座りください』と言い、貧しい人には『あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。」本当に鋭く人間の有り様を言い当てる言葉です。他人事として済ませることができません。
差別感情は、本当に「感情」です。頭で考えるよりも先に、感情の動きとしてパッと人に優劣を付けてしまいます。それは多くの場合、人の見た目で判断したり、世間で重んじられている価値観をそのまま受け入れて人を評価したりしています。頭では分かっていても、感情のレベルでしてしまう差別的な判断からなかなか自由になれません。そして、そういうところに、私たちの罪の姿の一端が現れているのかも知れません。
しかし神さまは私たちを貧しくしたり富ませたり、低くしたり高くしたりなさいます。それどころか主イエスさま御自身は貧しくなり、低くなられました。私たちを富ませることも貧しくさせることもできる神様ご自身が、貧しく、弱く、私たちに差別される存在になられました。本当に驚くべきことです。
主イエス・キリストの尊いお名前だけが私たちの救いだと改めて思わされます。キリストに救って頂かなくては、罪深い私が救われることはない。主イエスさまにすがりつつ、今日の日を始めていきます。

2022年6月7日火曜日

2022年6月7日の聖句

主に全き心で仕えよ。そして、逸れてはならない。すなわち、役にも立たず救うこともできない空しいものを求めて離れてはならないのだ。それは空しいものだから。(サムエル上12:20~21)
私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。(ヨハネ12:26)

主イエス・キリストのいるところに、主に仕えようとする者もいることになる。私に仕え、私に従って来るならば、と主は言われます。神さまが共にいてくださる、主イエスが共にいてくださるというのは、私たちの大好きな慰めの言葉です。しかしそれは安っぽくてありふれて恵みではありません。「私に仕えようとするの者は、私に従ってきなさい」と主イエスが言われるとおり、主に従い、主に仕える中で経験をすることです。インマヌエル、神は我々と共におられるというのは大安売りの恵みではなく、高価で貴い恵みです。実際に神に従うときに私たちはそれを経験するのです。
「主に全き心で仕えよ。そして、逸れてはならない。すなわち、役にも立たず救うこともできない空しいものを求めて離れてはならないのだ。それは空しいものだから。」主に仕えるというのは、逸れることなく主に仕えることだと言います。他の価値を神としない。この世には神のような顔をした神もどきがたくさんあります。みんなが礼賛していて、価値があるかのように思われているもの。しかしそれは空しいものだ、と神さまはおっしゃいます。空しいものを求めて生きても、私たちは幸せになることができない。それは空しいものに過ぎないからです。
私たちは主イエス・キリストに従う時、このお方が本当に私たちを救い、私たちのためにご自分の命までも与えてくださったことを知ります。私を生かす恵みを私たちは実感する。私たちは主に仕える時、私が仕えるのよりも先に、そしてもっと深く、キリストが私に仕えてくださったことを知ります。主イエス・キリストの恵みと祝福を、私たちは主に仕える時により深く知るのです。
キリストに仕え、キリストの恵みの中で生かされている幸いを、より深く味わいましょう。キリストは共にいてくださいます。私たちの仕えるキリストは空しい方ではなく、祝福に満ちた確かなお方です。

2022年6月6日月曜日

2022年6月6日の聖句

主はすべての心を探り、すべての考えの深さと向かうところを見抜かれる。(歴代誌上28:9)
神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。(1ヨハネ4:13)

ある人が、聖霊、神の霊とは、父なる神と子なる神イエス・キリストとの愛の絆だと言ったそうです。新約聖書を読むと、特にヨハネによる福音書がそのことをとても大切に伝えていますが、父なる神様と主イエスさまとの間の愛がどんなに深く、確かなものであったのかがよく分かります。その愛の絆こそが聖霊。そして、神さまはご自分の愛そのものである聖霊を私たちにも与えてくださいました。
「神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。」
私たちの内に聖霊がおられる。それは、御父と御子との愛の絆が私たちの内でも結ばれているということです。私たちは御父と御子の愛の中に生きています。
今日、私たちがどこに行くにしても、何をするにしても、私たちは神の愛の絆の中を生きていきます。どのような時にも神が共にいてくださる。それは、私たちが神の愛の中にいるということです。私たちは神の怒りや監視のもとにいるのではなく、神の愛そのものである聖霊を受けて生きている。だから、今日も私たちは平安に生きられます。
「主はすべての心を探り、すべての考えの深さと向かうところを見抜かれる」と書かれています。神さまが霊でいらっしゃるので、私たちも霊的な存在にされている。私たちは霊的な存在だから、私たちは永遠を思い、憧れ、神さまを求めて生きています。私たちが物質的な豊かさや欲望の充足だけでは幸せになれないのは、霊という神のかたちが私たちの存在に刻まれているからです。そして、そんな私たちを神さまはご自分の愛の絆である聖霊によって生かしてくださっています。
どうぞ今日一日、あなたの上に神の祝福と恵みが豊かにあり、どこにいるにしても、何をするにしても、聖霊が共にいてくださいますように。造り主なる聖霊が来てくださって、あなたに今日生きるための命を与えてくださいますように。

2022年6月5日日曜日

2022年6月5日の聖句

私の身と心が朽ちても、神よ、あなたは私の心の慰め、私の受ける分。(詩編73:26)
霊の初穂を持っている私たち自身も、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているからです。(ローマ8:23~24)

私たちは人間なので、いずれ必ず死にます。この肉体も、心も。聖書は、肉体が滅んでも霊や魂や心は永遠だ、とは言っていません。私たちは造られた者として、身も心もやがて必ず終わりの時を迎える。永遠なのは神さまだけです。
しかし、それでも神が私たちの心の慰めでいてくださる、神様ご自身が私の受ける分ですと信じ告白できるのは、なぜなのでしょうか。
「霊の初穂を持っている私たち自身も、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」と、使徒パウロは手紙に書きました。私たちは神の子として頂き、この体が贖われ、神のものとされるのだ、と言うのです。そしてそのために、私たちは「霊の初穂」を頂いている、と言っています。どういうことなのでしょうか。
霊の初穂、それは2000年前のペンテコステの日に始まった出来事を指しています。神の霊、聖霊がキリストの弟子たちに降った。この霊は彼らに福音の言葉をあらゆる国の言葉で語らせました。そしてそれだけではなく、彼らに祈りの言葉を与え、キリストの言葉を思い起こさせ、真理を悟らせ、自由を与えました。私たちにも、あの日、弟子たちに降ったのと同じ聖霊が降っています。そのことをパウロは先ほどの箇所の少し前のところでこのように言っています。
「神の霊に導かれている者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼のです。」
私たちが神さまを「父よ」とお呼びして祈っているという事実が、もう既に、私たちが神の子とされており、私たちを神の子とする聖霊にあずかっている証拠だ、とパウロは言います。私たちが祈りの言葉を口にしているという事実が、私たちが頂いている聖霊の働きなのです。そして、これこそが霊の初穂です。
ですから、私たちは肉体も心も霊も魂も何もかもやがて滅び行くものですが、しかしそんな私たちが神を「父よ」とお呼びする神の子にして頂いて、このお方の救いを待ち望んで生きている。その事実に、私たちを死から救う神の御業は既に始まっているのです。
ペンテコステ、おめでとうございます。

2022年6月4日土曜日

2022年6月4日の聖句

主は、昼は、正しい道に彼らを導くために雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすために火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。(出13:21)
かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。(ローマ15:4)

荒れ野を旅する神の民のために、主なる神さまは昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって照らしてくださいました。神の民の進むべき道を神が示し、導き、明るくしてくださった。そう聞くと、私などはうらやましいなと思ってしまいます。そうやって神さまが導いてくださるなら、何と幸いなことでしょう。何よりも分かりやすいです。
しかし実際に聖書を開いて荒れ野の旅路を見てみると、そんなに簡単なものではありませんでした。神を信じ、神の導きに従って生きるべき場所は、他のどこでもなく<荒れ野>です。目に見える場所に飲み水があるわけでもなく、食べ物は神が与えてくださるマナを信頼する。敵の前を通ることもあるし、神の言葉に従って生きる決断の連続です。信仰によって荒れ野を生きた。何も考えずに、依存的に、雲の柱や火の柱についていくというのではなくて、そこではいつも信仰者としての決断があった。私の「うらやましい」という感想はどうも呑気すぎたようです。
そして、このような旅をしているということは私たちも同じです。神さまは、今私たちを導くために雲の柱や火の柱を使うことはなさっていません。神さまは、私たちに聖書を与えてくださいました。私たちは聖書に記された神さまの御言葉によって、この世界という荒れ野を旅しているのです。私たちは聖書の御言葉に従って荒れ野を旅する神の民です。「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。」神さまが私たちに与えてくださる聖書の御言葉は、私たちに希望を得させます。聖書が語りかけるのが主イエス・キリストだからです。キリストにあって、私たちは希望を抱き、この地上を歩まれたキリストともに、私たちの今の旅路もあるのだということを知らせれます。聖書は羅針盤となり、聖書を通して神さまは私たちの道を導き、照らしてくださいます。
今日も主イエス・キリストの恵みと祝福がありますように、心から祈っています。

2022年6月3日金曜日

2022年6月3日の聖句

感謝をいけにえとする者は私を崇める。そこに私がその者に神の救いを見せる道がある。(詩編50:23)
キリスト・イエスのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰に堅く立ち、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:7)

かつて、旧約聖書の民は動物をいけにえとして献げて礼拝をしていました。あるときには子牛、あるいは小羊などです。貧しい人は鳩でもよかった。あるいは穀物を献げるということもあります。富んでいても貧しくても、それぞれに心を込めて精一杯のささげ物を神さまに献げる、ということが大事でした。
今の私たちの献金を考えた時にも、やはり心を込めるということがとても大事だと思います。収入を得た時に、先に献金を取り分けておく。生活の残りを献金するのではなく、献金の残りで生活する。それは、すべてが神さまのものという信仰の現れです。
「感謝をいけにえとする者は私を崇める」と書かれています。感謝をいけにえとする。感謝は、動物や穀物のように目に見えません。しかし、ごまかしが効きません。神さまは心をご覧になるので、形だけをよく見せるということができないからです。しかし、心からの感謝を神さまがご自分への礼拝として受け止めてくださるというのは、本当に嬉しいことです。神さまは私たちの心を求めておられる。それは、神さまが私たちを愛してくださっているということに他ならないのではないでしょうか。
私たちの感謝は、何よりも主イエス・キリストの御業によって始まります。「キリスト・イエスのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰に堅く立ち、あふれるばかりに感謝しなさい。」キリストがしてくださったこと、そしてキリストを与えてくださった神さま。このお方を、私たちは心を込めて礼拝し、主イエス・キリストにあって喜んで今日という一日を歩んでいきます。
「そこに私がその者に神の救いを見せる道がある。」神に感謝を献げ、礼拝を献げ私たちに、神さまは救いの道を見せてくださいます。主イエス・キリストの恵みと祝福によって、今日の私たちの一日を神さまが導いてくださいます。

2022年6月2日木曜日

2022年6月2日の聖句

主は私たちをみこころに留め祝福してくださる。(詩編115:12)
あなたの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか。(1コリント4:7)

主イエスさまはご自分の弟子たち、つまり私たちに教えてくださいました。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを。ですから、私たちは毎日この祈りを繰り返します。主イエスは「当面一週間分の糧を」とか「一生食うに困らない分を」という祈りは教えませんでした。ですから、私たちは毎日、その日の糧のために神さまに祈り、神さまに頂いたものを食べて生きています。ちょうど、荒れ野を旅する神の民が毎日天から降ってきたマナを食べて生き延びたのと同じように。
「あなたの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか。」そうなんです。私たちが持っているものは、すべて神さまが与えてくださったものです。私たちは何も持たないで生まれて、ただただ与えられることに頼って成長しました。大人になって自分で稼いでも、やはり根本的には与えられて生きています。それは他人の善意だったり、懸命に働く体力や気力だったり、他の人が自分のためにしてくれている仕事だったり。私たちが生きるために必要なものは、自分の力で獲得したように見えるものであっても神が与えてくださっている。私たちの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか。ないのです。だから、あたかも受けたのではなく自分の所有物であるかのような顔をするのは、間違っています。
間違っているとは言っても、そこで間違いを犯すのが私たちの性なのかも知れません。一度自分のものだと思えば自負が生まれるし、人に渡そうと思うと惜しくなります。それでも裸で生まれた私を生かし、生きるために必要なものを全部準備して与え、私を生かしてくださった神さまの祝福と愛に、私たちはどう応えるのでしょうか。
「主は私たちをみこころに留め祝福してくださる。」今日も、主なる神さまは私たちを祝福してくださっています。主イエス・キリストの恵みと祝福は、いつも私を追う。私たちは主の家に帰り、生涯そこに留まるのです。

2022年6月1日水曜日

2022年6月1日の聖句

主はもろもろの民の裁きに当たられる。(詩編7:9)
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。(2コリント5:10)

主の裁きと言われると、誰もが恐ろしく感じるのではないでしょうか。主なる神さまの前ですべてが明らかにされ、善であれ悪であれすべてが裁かれると言われて平然としていられる人など、いないのではないかと思います。ところが今日読んでいるコリントの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、今日の箇所の前のところから読んでみると、意外な書き方をしています。
「それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」そして、今日の箇所に続きます。
ここでパウロは「安心しています」と繰り返しています。キリストの裁きの座のことを考えながら、この人は安心している。これはとても意外なことではないでしょうか。それどころか、主のもとに住みたいと言っている。早くキリストのもとに行きたい。言いようによっては、キリストの裁きの座に早く行きたい、そして主のもとにいさせて頂きたい、ということになる。この人には、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。
それは「だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」という一句に端的に表れている、信仰者パウロの主イエスさまへの愛のなせることです。パウロは主イエスを愛しているから、主のもとに早く行きたいし、主に早くお目にかかりたい。パウロの心を占めていたのは、主イエスへの愛です。だから、パウロにとってはキリストの裁きの座に出ることは恐ろしいことではなく愛するキリストにお目にかかる喜びの時です。私たちの行いは、真剣に考えれば考えるほど、駄目なことばかりです。しかしそれ以上に私たちを救うキリストの真実は確かです。主イエスさまを愛し、主のために生きたいと願う者を主が捨ててしまうことなどあり得ないことです。だから、キリストの真実で生かされたこの命を、愛する主に喜んで頂くために献げたい。それがパウロの願いであり、私たちの願いです。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...