tag:blogger.com,1999:blog-38892743509913299902024-03-19T08:02:31.562+09:00聖書が伝える福音のメッセージさがみ野教会の礼拝説教や祈祷会の聖書の学びなどを掲載します。
さがみ野教会のホームページはhttp://sagamino.orgです。こちらもぜひご訪問ください。さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/14466803641182534118noreply@blogger.comBlogger2386125tag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-36947505737689942152024-03-19T08:01:00.001+09:002024-03-19T08:01:57.524+09:002024年3月19日の聖句<div dir="ltr">逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27)<br>心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2)<br><br>主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。」何という安心、何という確かさ。私たちは例えこの世に場所が見つからなかったとしても、神の家に確かなすまいが整えられているのです。<br>昔から、信仰者たちは神の御許にある住まいを目指して旅を続けてきました。アブラハムも、モーセも、ペトロもパウロも、皆旅をした。天にある父の家を目指して。そこに確かな住まいがあることを信じ、この世では仮住まいの人として、よそ者として生きたのです。<br>私たちも同じ旅に招かれています。この世に最終的な安住の地を持つものではなく、神のもとに安らぎの家を持つものとして生きることを。この世では旅人して生き、神の国を目指して生きるものである命へと、キリストが私たちを招いておられます。主と共に歩む旅です。キリストの後に付いていく旅です。喜びの旅路です。<br>改めて、今日の御言葉はこのように言っていました。「逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。」神はいにしえからおられる。私たちが生まれる前から、それどころかこの世界が造られる前から、神はおられた。そのお方が、私たちのための住まいを造り、私たちのための逃れ場になってくださっている。だから、この世界で私たちに何が起ころうとも、最終的には必ず大丈夫です。いにしえから、そしてとこしえまでおられる方が私たちを迎えてくださるのですから。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-72950006935870396802024-03-18T07:39:00.001+09:002024-03-18T07:39:45.304+09:002024年3月18日の聖句<div dir="ltr">貧しい者たちの実情を歪曲し、追いやられた者たちの権利に暴力をかざそうと不正な判決を書く者たち、彼らに災いあれ。(イザヤ10:1,2)<br>だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。(マタイ7:12)<br><br>貧しい者たちや追いやられた者たち、すなわち社会的に弱い人々への聖書のまなざしはすごいと思います。「貧しい者たちの実情を歪曲し、追いやられた者たちの権利に暴力をかざそうと不正な判決を書く者たち、彼らに災いあれ。」この最後に「不正な判決を書く者たち」とあります。判決を書くというのですから、裁判官のことでしょうか。現代のような司法制度があった時代ではないので状況は全然違うと思いますが、それでも間違いなく、判決をかける立場にいる人は町の有力者であり、多くの人に重んじられ、尊敬される人です。それなのに、そこで実際に書かれている判決は、貧しい人の実情を歪曲し、追いやられた者の権利に暴力をかざそうとするものだった。<br>聖書は、ごく普通に、常識的に私たちが受け入れる社会の現実や、世界を支配する力に対して疑問符をつけます。あなたたちの世界はそれでいいのか、と問いを投げかけます。<br>私たちもすぐに考えてしまいます。確かに社会の理想は「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というとおりなのだろうけど、現実は・・・。しかしそれを単なる理想といって片付けてはならない、と聖書は私たちに向かって主張しているのではないでしょうか。<br>「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」これはキリストの言葉です。私たちのためにすべてを献げてくださった方、私たちが願う以上のことをしてくださった方のお言葉です。私たちはこの方のお陰で生きていられる。その神の憐れみの事実が、私たちの「当たり前」に問いを投げかけるのです。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-44099431964167328032024-03-17T07:52:00.000+09:002024-03-17T07:53:33.553+09:002024年3月17日の聖句<div dir="ltr">今週の聖句:<br>身代金として自分の命を献げるために来た。<br><br>今日の聖句:<br>わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。(イザヤ10:1,2)<br>イエスは大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」(マタイ7:12)<br><br>渇いている私たちに、キリストが水を飲ませてくださいます。そのためにキリストが豊かな流れを準備してくださいました。キリストご自身がその流れです。<br>冬場は夏とは違って喉の渇きを自覚しにくいです。しかし乾燥していますし、知らないうちに渇いていく。脱水気味になっていることだってあるのではないでしょうか。もしかしたら、魂の渇きはなおのこと自覚しにくいところがあるのかも知れません。私たちには、魂を癒やす命の水が必要です。キリストがくださいます。<br>この方は、ご自分の命を私たちのために献げてくださったお方だからです。キリストの祝福の中、今日の一日を歩んで行かれますように、祈っています。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-82241705013667467912024-03-16T08:23:00.001+09:002024-03-16T08:23:59.393+09:002024年3月16日の聖句<div dir="ltr">主に感謝し、その名を呼べ。<br>もろもろの民に主の業を知らせよ。(詩編105:1)<br>つまり、信仰は御言葉の告知から生まれるのですが、その告知はキリストの言葉を通して生まれるのです。(ローマ10:17)<br><br>信仰は御言葉の告知から生まれる。その告知はキリストの言葉を通して生まれる。キリストの言葉が告げられなければ、信仰は生まれない。キリストの言葉が私たちの内に信仰を生み出す。<br>本当にその通りだと思います。信仰は私たちの心の力ではないし、私たちの内的な求めや精神の力ではない。キリストの言葉が私たちに働いて生み出される新しい出来事。それが信仰です。<br>ですから、自分の信仰を過小評価したり、ダメ出しをしたり、あまりに過ぎた「ご謙遜」をするのは、キリストに対してとても不遜なことです。信仰はキリストの御言葉によって生み出された賜物なのですから。キリストが私に働いてくださって、キリストが生み出し、与えてくださったこと、その事実を謙遜に受け止め、私の内にも働いてくださっているキリストをへりくだって受け止めたい。<br>「主に感謝し、その名を呼べ。もろもろの民に主の業を知らせよ。」この呼びかけに応えて、キリストが与えてくださった信仰をもって神に応えたい。主なる神さまへの感謝と賛美をもって、神に仕えたい。そう願います。キリストの祝福が、今日もあなたにありますように。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-68282243728826085272024-03-15T07:45:00.000+09:002024-03-15T07:46:33.619+09:002024年3月15日の聖句<div dir="ltr">あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。(申命記14:1)<br>あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。(ガラテヤ3:26)<br><br>新約聖書が書かれた時代、普通の社会の中で「神の子」と呼ばれていたのは、ローマの皇帝だったようです。ところが聖書はそれとは違うことを言います。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」あなたがたはみな、と言います。ある特別な人、普通とは異なる存在、この世の権力者。そういう人を指して「神の子」という称号を与えるのではありません。「あなたがたはみな」です。神を信じる者は誰もが神の子です。あなたも、私も。ここに聖書の特別さがあるのです。<br>いやしかし、この世界にはただ一人のまことの神の子がおられます。主イエス・キリストこそまことの神の子。神の独り子。ところが、そのお方が私たちに口伝えに教えてくださった祈りは「我らの父よ」という祈りです。主イエスは、私たちも主と同じように、口まねをして「我らの父よ」と祈るように教えてくださいました。何と言うことでしょう。主イエス・キリストは神の子でいらっしゃることをご自分で独占なさらずに、私たちのことをも神の子にしてくださったのです。<br>私は神の子。「あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。」これが私たちのアイデンティティです。神である主を「父」とお呼びし、主イエス・キリストを仰ぐ。そこに本当の私らしさがある。今日も神をお呼びして祈る一日でありますように。<br>あなたの今日の祈りの道造りにキリストの祝福がありますように。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-55261203945598335272024-03-14T07:48:00.001+09:002024-03-14T07:48:46.026+09:002024年3月14日の聖句<div dir="ltr">主はあなたの叫び声に応えて、必ずあなたに恵みを与えてくださる。主がそれを聞かれると、直ちにあなたに答えられる。(イザヤ30:19)<br>イエスはカナンの女に言われた。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15:28)<br><br>主は私たちの叫び声を聞いてくださいます。応えてくださいます。御自分の恵みをもって、私たちの叫び声に必ず応えてくださる。<br>私たちは、信仰のあるなしにかかわらず、誰もが根源的に「祈りたい」という欲求を心の内に秘めているのではないでしょうか。この呻きを、この叫びを誰かに聞いて欲しい。誰も知らない私の奥底を、自分でさえ知ることのできない私の深みを、受け止めて欲しい。誰もがそう願っていると思います。<br>神さまは、私たちの祈りを待っていてくださいます。神さまは私たちの叫びに耳を傾けてくださいます。恵みを与えてくださる。私たちの叫びを聞けば、直ちに答えてくださる。この約束は私たちの慰めです。<br>ご自分に執拗に訴えかけた一人の女をご覧になって、主イエスはおっしゃいました。「女よ、あなたの信仰は立派だ。」彼女は母親でした。自分の娘が悪霊にひどく苦しめられていて、イエスの憐れみを求めて叫んでいました。自分のためには祈ったことがない、自分のことなら我慢するしかないと考える自制的な人であっても、子どものためとなると話は変わってくるのではないでしょうか。彼女は必死に祈りました。子どものために自分の全部を献げて祈りました。<div>主イエスはその祈りを喜んで聞いてくださいました。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」<br>私たちも叫びます。呻きます。祈ります。ほかの誰でもなく、主イエス・キリストに。私たちの神であるこのお方は、必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。その約束を信じて、私たちの信仰も存在も、私たち自身のことをも、キリストにぶつけましょう。必ずこのお方はそれを受け止めてくださいますから。<br></div></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-46574455734177746392024-03-13T07:40:00.000+09:002024-03-13T07:41:00.819+09:002024年3月13日の聖句<div dir="ltr">(主の言葉)「私がアブラハムを選んだのは、彼がその子らとその後に続く家族の者たちに命じて、彼らが正義と公正を行い、主の道を守るようにするためである。」(創世記18:19)<br>私たちは、律法はふさわしく用いるならば良いものであると知っています。(1テモテ1:8)<br><br>聖書を長く読み、親しんでいると、律法に対する悪いイメージが付いてきます。律法主義とか、ファリサイ派という言葉とセットになって。新約聖書を知っている私たちには律法は必要ない。必要だとしても、自分の罪を明らかにするという意味であって、律法に従って生きるということは信仰と関わりのないことだ、という思いさえ生まれてきかねません。ところが、そうではないと聖書は言います。「私たちは、律法はふさわしく用いるならば良いものであると知っています。」<br>それでは、律法のふさわしい用い方というのは一体何のことでしょうか。今日の旧約聖書ではアブラハムが登場しています。アブラハムの物語は、まず初めに神がアブラハムに声をおかけになったというところから始まっています。アブラハムを新しい旅路に神が連れ出した。それに応えてアブラハムは生まれ故郷、父の家から離れて旅を始めました。まず最初に神さまの招きがあり、アブラハムはそれに応えた。その後も、聖書はずっとそうです。まず最初に神がヘブライ人たちをエジプトから救いだしてくださり、彼らはそれに応えて神を礼拝し、また、与えられた律法に従い始めました。神がアブラハムや彼の子孫に公正と正義を行うようにお命じになったのは、神がアブラハムと出会い、憐れみをかけ、神の国を目指す旅へと連れ出してくださった後のことです。<br>律法は、神の愛を頂いた者の生きるべき指針です。方位磁針のように、私たちの行くべき道を示すのが律法。私たちの神の国を目指す旅路のガイドです。神の愛への、私たちの愛の応答の道標。それが律法の正しい用い方です。<br>今日、私たちの行くべき道を指し示すのは、神が与えてくださった律法の言葉です。神を愛することを、隣人を愛することを私たちに告げる律法の言葉が、私たちの行くべき道を照らしています。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-80534026630253187562024-03-12T07:43:00.000+09:002024-03-12T07:44:32.575+09:002024年3月12日の聖句<div dir="ltr">隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に悪を企むな。(箴言3:29)<br>(パウロの手紙)そのように、わたしたちはあなたがたを心置きなく感じていますし、神の福音についてだけではなく、自分たちの命をも分かち与えるつもりでいるのです。なにしろ、私たちはあなたがたのことを愛してしまったのですから。(1テサロニケ2:8)<br><br>今日の旧約聖書の御言葉は、本当にそうだなと思わされます。「隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に悪を企むな。」安心して生きている人に悪を企むというのは、本当にしてはいけないこと。しかし、現に起こりうることでもあると思います。隣人への悪意や嫉妬に駆られて、静かな怒りを湛えながら厭な気持ちにさせてやりたいと思ってしまうことも起こってしまいます。恥ずかしいことです。そういう心に支配されてしまいそうなとき、その相手と距離をとって、これ以上自分の悪意がエスカレートしないようにする、というのも一つの知恵であるのかも知れません。顔を見ないように、相手のことを意識しないで済むように一定の距離を保つ。<br>しかし聖書にはやはり驚くべき言葉がたくさんあります。聖書は、本当に愛することに積極的だと思います。今朝私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、使徒パウロの書いた手紙の一節です。パウロは情熱を込めて言います。「なにしろ、私たちはあなたがたのことを愛してしまったのですから」と。愛してしまったあなたたちのために、、私は自分の命さえも分かち与えるつもりでいます、と言います。愛することに本当に積極的です。相手に身を乗り出すようにして自分を献げています。<br>この御言葉を読むと、自分はなんと限定的で、愛することにケチなのかと改めて思います。愛するべき相手を限定し、狭め、自分を守ろうとしている。罪というのは、こういうところに現れるのだと思います。抽象的な問題ではなくて、具体的な目に見える相手を愛し得ない自分の現実に罪が見えてくる。キリストがなおそのような私を愛してくださったことを改めて心に刻みます。主イエス・キリストを愛し、キリストに救いを求めて祈りつつ、今日の日を歩んでいきたいと願います。私にもまた、隣人を愛する愛をくださいと祈りつつ。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-44590232606534633212024-03-11T07:40:00.000+09:002024-03-11T07:41:17.372+09:002024年3月11日の聖句<div dir="ltr">ヤコブは眠りから覚め、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記28:16,17)<br>明らかにされるものはみな、光だからです。それゆえ、こう言われています。「眠っている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」(エフェソ5:14)<br><br>これはまさしく神の家。ヤコブは実は神が自分と共にいてくださり、自分とも出会ってくださるお方であることを知り、言いました。「これはまさしく神の家である。」私たちも神と出会い、神の御前に生かされている。天の門である教会で、私たちは神と出会います。神を礼拝し、共に祈り、賛美の声を合わせるとき、神は私たちと出会ってくださっています。<br>「眠っている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」今日の新約の御言葉にはこのように書かれていました。キリストの光の中に照らされるとき、死者でさえも眠ったままではいられない。立ち上がり、キリストをお迎えしないわけにはいかない。私たちが信じるイエス・キリストの福音は、私たちの死さえも超える力を持っている。<br>礼拝を献げて、新しい一週間が始まりました。主イエス・キリストとの出会いに満ちた一週間でありますように。神の家から新しい旅へ出かけ、また再び神の御前に戻る一週間の旅路に、キリストの祝福がありますように。天の国に国籍を持つ者として、この世で生きていきましょう。死の眠りさえ揺り起こすキリストの福音の力強さを信じ、より頼んで、新しい日々を生きていきましょう。天の門は、私たちの前に開かれています。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-33867214796382514962024-03-10T09:04:00.001+09:002024-03-10T09:04:49.030+09:002024年3月10日の聖句<div dir="ltr">今週の聖句:<br>その麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)<br><br>今日の聖句:<br>私は私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。(イザヤ65:19)<br>玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく、拭ってくださるからである。(黙示録7:17)<br><br>私たちの待ち望む救いが完成するとき、もはや私たちは泣くことも叫ぶこともなくなります。これまでながした数多の涙も、私たちの喉をからすような叫びも、もはや必要ない。神が私たちの目から涙を拭ってくださいます。私たちがこれまで上げてきた叫びも、神がすべてを聞いてくださっています。私たちは完全な慰めと平安の中に憩うことが許される。そういう将来が必ず来ると聖書は約束します。<br>私たちの命には必ず終わりが来ます。私たちも、私たちの愛する者も、人生の終わりの時が必ず来る。しかし、私たちがそれぞれに迎える死を超える救いを神が準備してくださっています。全き慰めを、全き平安を、神ご自身が準備してくださっています。<br>今日、私たちは礼拝を献げます。礼拝はこの完全な救いの先取りです。私たちは救いの完成の前ぶれを味わう。主イエス・キリストの御名を呼ぶとき、神が私たちを慰めてくださるのです。<br>キリストの祝福がありますように。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-75601257656520191972024-03-09T09:22:00.000+09:002024-03-09T09:23:22.267+09:002024年3月9日の聖句<div dir="ltr">なぜ、私の痛みはいつまでも続くのでしょうか。私の傷は治らないのでしょうか。傷口が癒えることを拒んでいます。実にあなたは、私にとって偽りの川のようで、頼りにならない流れのようです。(エレミヤ15:18)<br>(パウロの手紙)私たちは主に信頼を置いているので、信念と確信とをもって神の前に出ることができるのです。だから、あなたがたにお願いします。私が苦しみを負っていることで、惑わされてはいけません。(エフェソ3:12~13)<br><br>預言者エレミヤの言葉が今日与えられています。<br>神に預言者として立てられたエレミヤは、真摯に神に向かい、人々に神の言葉を伝えるために生きていました。しかし、罪の悔い改めを求め、生き方の方向転換を迫る彼の言葉に、誰も耳を貸そうとはしませんでした。人々は彼を嘲笑い、迫害し、いじめ抜きました。そのためにエレミヤは苦しみ、何度も何度も、神さまに助けを求めて祈りました。しかし、神は状況を改善してくださらない。今日の御言葉は、そんな一人の信仰者の言葉です。<br>「なぜ、私の痛みはいつまでも続くのでしょうか。私の傷は治らないのでしょうか。傷口が癒えることを拒んでいます。実にあなたは、私にとって偽りの川のようで、頼りにならない流れのようです。」<br>エレミヤは、もしかしたら最も主イエス・キリストの苦しみに近づいた人なのではないかとさえ思います。<div>しかしもう一人、同じ苦しみを味わった人がいます。パウロです。この人は言います。「私たちは主に信頼を置いているので、信念と確信とをもって神の前に出ることができるのです。だから、あなたがたにお願いします。私が苦しみを負っていることで、惑わされてはいけません。」それでもなお主を信頼し、キリストの助けを求めよう。苦しみに惑わされることなく、主を信頼しよう、と。<br>エレミヤもパウロも、キリストの御苦しみを映し出すような人物です。私たちは遠くそれに及ばないけれど、ほんの僅かでも、キリストに連なるものとして生きられれば、と願います。私たちの味わう苦しみには、永遠につながる意味があるのです。<br></div></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-58830260105406144982024-03-08T07:51:00.001+09:002024-03-08T07:51:42.648+09:002024年3月8日の聖句<div dir="ltr">主はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、イスラエルを恵み、憐れみ、顧みられた。主は彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはされなかった。(列王記下13:23)<br>神の賜物と招きは取り消されることがないからです。(ローマ11:29)<br><br>「神の賜物と招きは取り消されることがない」。<br>なんと力強く、断乎たる言葉でしょう。神がそれを取り消されることはない。私たちのあり方如何によるのではない。神ご自身が断乎たる思いをもって私たちを招き、私たちに良き贈り物、賜物をくださっている。この神のご決意が取り消されることはない。聖書はそう断言します。<br>私たちがもしも自分を見つめていれば、絶望しかありません。自分の信仰なり行いなり生き方なりを判定基準にしたとしたら、一体誰が、それでもなお私は救われる、神に愛されると言えるでしょうか。しかし、私たちのあり方が急所なのではなく、神さまの側のご決意が本質です。そして「神の賜物と招きは取り消されることがない」のです。<br>「主はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、イスラエルを恵み、憐れみ、顧みられた。主は彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはされなかった。」このように語られたイスラエルの人々は、繰り返し繰り返し、何度も、神に背き続けてきました。神さまを蔑ろにして生きてきました。それでも神がお見捨てにならなかったのは、神ご自身がかつて結んでくださった契約があるから。神が御自分の言葉に誠実であり続けてくださったからです。<br>私たちを救う神の真実はどのようなときにも変わりません。私たちはただキリストだけを信じます。自分や、自分のダメさを信じるのではなく、ただキリストだけにこの目を向けます。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-17376613417230995592024-03-07T07:51:00.000+09:002024-03-07T07:52:31.247+09:002024年3月7日の聖句<div dir="ltr">主は、シオンを公正と正義で満たされます。あなたは確かな時を備えられます。救いの富、それから知恵と思慮深さを。(イザヤ33:5~6)<br>こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。(使徒9:31)<br><br>キリストは御自分の教会を平和のうちに築き上げてくださいます。神との間をキリストが平和にしてくださり、そこから始まる平和は私たちの間にも宿る。私たちキリストの教会は和解の福音に生かされ、主イエス・キリストにあって共に生きる福音の家族です。主イエス・キリストがここにおられる。<br>「主は、シオンを公正と正義で満たされます。あなたは確かな時を備えられます。救いの富、それから知恵と思慮深さを。」<br>神が私たちの間においてくださる宝です。公正と正義に満たされ、神が私たちのために確かな時を備えてくださる。救いの富、知恵と思慮深さが私たちの間にある。この「救いの富」というのは、面白い言葉だなと思います。もちろん、この世に流通しているお金をたくさん手にすることができる、それが私たちの救いだ、などという意味ではないでしょう。キリストの救いこそ、他のどんな富や宝でも比べることのできない、尊い輝きを放っている。それを本当に喜ぶ代々無数の信仰者たちの賛美が聞こえてくるような言葉です。救いの富を、神が私たちに与えてくださいました。<br>主イエス・キリストにあって私たちは神の家族となり、生ける神の住まいにしていただきました。キリストの愛に満ちあふれる場所、それが私たちキリストの教会。神が私たちを御自分の御業の中に生かしくださっています。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-66700369125233613212024-03-06T07:53:00.000+09:002024-03-06T07:54:25.130+09:002024年3月6日の聖句<div dir="ltr">主はあらゆる災いからあなたを守り、<br>あなたの魂を守ってくださる。(詩編121:7)<br>(イエスの祈り)私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです。(ヨハネ17:15)<br><br>私たちが祈るよりも先に、主イエス・キリストが私たちのために祈っていてくださいます。神さまに私たちのことを告げて、私たちのために祈っていてくださる。キリストの祈りに支えられて、私たちの新しい一日が始まりました。<br>キリストは祈っていてくださいます。「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです。」<br>興味深い祈りです。キリストは私たちを世から取り去ることをお望みにはなりません。私たちが世捨て人になったり、浮世離れした人になったり、俗世と関わらない人になったりすることは望んではおられない。私たちが世から取り去られることではなく、この世にあって、神が私たちを世から守ってくださること。<br>今日も私たちを神が守ってくださっています。そのためにキリストが祈っていてくださるのです。キリストの大いなる祈りに支えられて、私たちの一日が始まっているのです。私たちがまだ眠っている時間にも、神は眠ることもまどろむこともなく私たちを守り、支え、悪いものに対しては盾となり、世を支配する悪に対しては砦となってくださっています。<br>「主はあらゆる災いからあなたを守り、あなたの魂を守ってくださる。」この言葉は真実です。今日もキリストが私たちと共にいてくださいます。私たちが自分で自分が厭になってしまうときにも、生きる意欲も湧かなくなってしまうときにも、私たちがそうとは気付かぬ時にも、キリストは私たちを守っていてくださる。だから、今日も生きられる。キリストの祝福に満ちた幸いがあなたにありますように。キリストの恵みに生かされる一日でありますように。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-25251811140699923042024-03-05T07:43:00.000+09:002024-03-05T07:44:32.435+09:002024年3月5日の聖句<div dir="ltr">人が破滅してしまうことのないようにするためなら、神には思い直したり、後悔したり、御自分の激しい怒りには止めたりすることがないなどと、誰が言えようか。(ヨナ3:9)<br>(イエスの言葉)祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:24)<br><br>今日の旧約聖書はヨナ書に書かれた御言葉です。ヨナは神さまからニネベという町へ行って、そこに生きる人々に罪を悔い改めて悪から離れるように告げよと命じられました。ところがヨナはそれを拒んで逃げ出しました。預言者が神さまから逃げ出すなどとはただ事ではありません。問題は行き先でした。ニネベというのはヘブライ人にとっては憎き仇です。外国、しかも大国、自分たちを滅ぼさんとしている宿敵アッシリア。その首都がニネベでした。ですから、ヨナは敵のところになんて行きたくありませんでした。<br>しかし、ヨナは神さまからいろいろなお取り扱いを受けて、結局ニネベの都に行くことになります。その時ヨナが語った言葉が今朝の御言葉です。<br>「人が破滅してしまうことのないようにするためなら、神には思い直したり、後悔したり、御自分の激しい怒りには止めたりすることがないなどと、誰が言えようか。」<br>神さまはあなたたちが悔い改めるのをご覧になったとき、きっと裁きを思い直し、滅ぼそうとなさったことを後悔してその激しい怒りを押しとどめてくださる。だから、悔い改めてその悪から離れよ、とヨナは訴えました。今朝の御言葉は、私たちに罪の悔い改めを迫る言葉です。<br>主イエスさまはおっしゃいます。「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」他の何よりも、悔い改めと罪の赦しを求める祈りにおいて、まさにこの約束は現実のものとなります。私たちが罪を悔い改める心を抱くということ自体が既に神ご自身のお働きに他ならない。神がこの私にも働いてくださって、神を求める願いを起こしてくださっている。だから、罪の赦しを求めるとき、既に私たちは赦しの恵みの中にいるのです。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-23175076121838237232024-03-04T07:42:00.001+09:002024-03-04T07:42:46.320+09:002024年3月4日の聖句<div dir="ltr">主はその民の逃れ場、イスラエルの子らの砦。(ヨエル4:16)<br>盲人はますます大きな声で「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫んだ。するとイエスは立ち止まり、「あの男を呼んできなさい」と言われた。(マルコ10:48~49)<br><br>ダビデの子、神が約束してくださった私たちの救い主。私たちはこのお方に祈ります。「私を憐れんでください」と。この祈りの言葉は聖書の中に度々登場します。神様に憐れんで頂くのでなければ生きられない私だから、代々の信仰者たちはそのことを痛感し、無数の人々が同じ言葉で祈りました。「私を憐れんでください」と。<br>ここでは「ダビデの子よ」と主をお呼びしています。「主よ、憐れんでください」と、神さまを「主」とお呼びして、同じように祈ることも多いのです。「主よ、憐れんでください。」ギリシア語では「キリエ・エレイソン」と言います。この音がそのまま代々の教会に大切に受け継がれてきました。アーメンとかハレルヤとか、ヘブライ語の音がそのまま残っている言葉がいくつもありますが、キリエもその仲間と言えると思います。キリエ・エレイソン。主よ、憐れんでください。私たちも祈ります。主よ、憐れんでください。<br>主イエス・キリストは御自分に憐れみを求めるものを決して放ってはおかれません。「あの男を呼んできなさい」と言って立ち止まり、祈る私たちを招いてくださいます。この方が耳を傾けてくださるから、私たちは安心して祈る。主よ、憐れんでください。ダビデの子よ、憐れんでください。<br>「主はその民の逃れ場、イスラエルの子らの砦。」主なる神さまの御許に私たちは逃れ、安息に入る。主イエス・キリストの御許に私たちの救いがある。だからこそ、私たちは主イエス・キリストに憐れみを求める。この祈りの歩みに、今日も神の祝福がありますように。</div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-76373188860464792082024-03-03T09:21:00.000+09:002024-03-03T09:22:07.760+09:002024年3月3日の聖句<div dir="ltr">今週の聖句:<br>鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)<br><br>今日の聖句:<br>背きを隠す者が栄えることはなく、告白してから罪を離れる者は憐れみを受ける。(箴言28:13)<br>ザアカイは主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれからから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。」(ルカ19:8~9)<br><br>ザアカイは主イエスと出会って生き方が変わりました。主イエスさまが変えてくださいました。もはや彼はお金に執着するのではなく、あるいは力にしがみつくこともない。財産を施し、これまで人を騙してため込んできたものを返す人生に変わった。ザアカイは、これまで彼が大切にしてきたもの、誇りとしてきたものを手放すことができた。この変化そのものがザアカイに訪れた救いの出来事だったのではないでしょうか。<br>今週の聖句にこのようにあります。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」ザアカイはまさに自分を耕す救いという鋤に手をかけ、それを取って、神様の御前に自分が新しくされることを受け入れました。主イエス・キリストのものとして、キリストが新しくしてくださることを喜んだのです。<br>罪から離れたい。それは誰もが願っていることではないでしょうか。それを実現することができるのは、主イエスさまだけです。私の心持ちが幾らかマシになったとか、自分の生き方をなんとか改善しようと務めるとか、それでは追いつきません。不可能です。私たちは、自分の努力でどうにかなるほど立派な人間ではない。しかし、キリストには私たちを新しくすることがおできになります。主キリストの祝福の中で、私たちの新しい歩みが始まっているのです。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-17958217273020972312024-03-02T08:52:00.001+09:002024-03-02T08:52:58.536+09:002024年3月2日の聖句<div dir="ltr">いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。<br>いつまで、御顔をわたしから隠しておられのか。(詩編13:2)<br>(イエスの叫び)わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)<br><br>主イエス・キリストの十字架の上での叫びです。<br>「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」<br>主イエス・キリストは、私たちの知らないことを知っておられる。それは、本当の絶望のどん底とは一体何か、ということです。神に見捨てられること。そこにこそ、絶望の絶望たる所以がある。<br>私たちにも、神に見捨てられたとしか考えようのない苦しみがあります。私たちにも、呻きつつ言わねばならないときがあります。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられのか。」しかし、キリストと同じほどに神に棄てられた人はいません。私たちがどんなにどん底にいるときにも、キリストはなおその下におられて私たちを支えていてくださいます。<br>この受難節のとき、主イエス・キリストの叫び声にじっと耳を傾けましょう。この私のために、この私に替わって叫んでくださったキリストの御声に、この耳を向けましょう。そこでしか見出すことのできない望みが私たちにはあるのです。<br class="gmail-Apple-interchange-newline"></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-17767620159781580892024-03-01T07:44:00.000+09:002024-03-01T07:45:23.669+09:002024年3月1日の聖句<div dir="ltr">今月の聖句:<br>驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(マルコ16:6)<br><br>今日の聖句:<br>あなたは必ずわが助けとなってくださる。<br>あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。(詩編63:8)<br>神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。(ローマ8:31)<br><br>神が、私たちの味方でいてくださいます。天の軍勢が私たちを取り囲み、私たちを守っています。譬え私たちの周りにどんなに敵が取り囲んでいようとも、誰が私たちに敵対しようとも、私たちの味方でいてくださる方はもっと強いし、このお方の軍勢は敵よりももっと数が多い。この神が生み出す現実が見えているでしょうか?神さまは必ず私たちの助けになってくださいます。<br>今月の聖句として与えられている言葉は、主イエス・キリストの復活の朝に天使が口にした言葉です。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」墓の中に主イエスのご遺体を捜していた人々に、天使は、主はここにはおられないと告げました。キリストはもはや死者の中にはおられない。死に勝利した。復活なさった。<br>私たちを取り囲む究極の敵は、死です。滅びです。しかしキリストは究極の敵に打ち勝たれた。キリストはもはや死者の中にはおられない。復活し、命への扉を開いてくださいました。私たちを命へと導き上る神の手は強いのです。<br>主イエス・キリストを仰ぎ、キリストと共に今日の日を歩んでいきましょう。キリストが味方でいてくださる。誰が私たちに敵対できるでしょうか。この究極の平安の中で、今日の日を生きていきましょう。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-50632643983142609472024-02-29T10:06:00.000+09:002024-02-29T10:07:11.141+09:002024年2月29日の聖句<div dir="ltr">私は主に信頼しているのだ。<br>なのにどうしてあなたがたは私に言うのか<br>「鳥のように山へ飛んで行け」などと。(詩編11:1)<br>自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。(ヘブライ10:35)<br><br>「鳥のように山へ飛んでいけ。」私たちになじみの深い日本語で表現すれば、尻尾を巻いてとっとと逃げろ、といったことでしょうか。早くどこにでも行け、ここから立ち去れ。そのようになじられ、追い出され、居場所を失った悲しみが込められた言葉です。誰もが、何らかの形で経験したことのあるさみしさ、心細さ、屈辱的な思いではないでしょうか。いるべき場所を失い、役割を失い、人との関係を断たれる悲しみ。「鳥のように山へ飛んでいけ。」<br>今日与えられているもう一つの御言葉、新約の御言葉はこのように言います。「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。」神が報いてくださる。だから、試練の中で踏みとどまれ、と訴えます。神を見上げているからです。<br>先ほどの詩編第11編でも、もう少し読み進めるとそういう言葉が出てきます。「主は聖なる宮におられる。主はその座を天に置かれた。その目は見つめる。そのまなざしは人の子らを調べる。」神が見つめていてくださることに信頼するから、人々のはやし立てるような声には惑わされない。<br>私たちが経験するいろいろな人間関係の中での悲しみや苦しみ、やるせない思い、そういう一つひとつの思いを、神が知っていてくださいます。神が報いてくださいます。私たちのために忍耐を貫いた主イエス・キリストを一心に見つめて、今日の一日も生きていきたいと願います。<br class="gmail-Apple-interchange-newline"></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-60528981395170068032024-02-28T07:50:00.000+09:002024-02-28T07:51:19.816+09:002024年2月28日の聖句<div dir="ltr">わが神、主よ、私は御もとに逃れました。<br>迫り来るすべての者から私を救い、助け出してください。(詩編7:2)<br>引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。(マタイ10:19)<br><br>「わが神、主よ、私は御もとに逃れました」と言っています。私たちは、逃げて良いのです。神さまの御許に逃げていい。神さまは、どんなときにも勇敢に、決して逃げることなく立ち向かえとはおっしゃいません。逃げていい。ただ、神さまの前から逃げるのではない。神さまとは関係のないところへ逃げていくのではない。私たちは神さまの御もとに逃れます。神さまこそ、私たちの逃れ場です。<br>だからこそ、私たちは毎日祈ります。祈ることで私たちは神のもとに逃れる。個人的には、逃げるというのはすごく後ろ向きな感じがして、あまり好きではありませんでした。讃美歌でも「この世のつとめいとせわしく、人の声のみしげきときに、祈りにしばしのがれゆきて、われはきくなり主のみこえを」というものがあります。主の御声を聞くというのは良いけれど、祈りに逃れるというところがどうも・・・。祈りをすごく後ろ向きに捉えているように思えていました。しかし、今日の御言葉を読むと、それでいいのだなと思いを改めました。私たちは、祈ることによって神さまに逃れて良い。いやむしろ、この神以外の一体どこに逃れるのでしょうか。私たちはそんなに強い存在ではありません。逃げなければどうしようもないことが多々ある。そういう自分の弱さを認め、そして、他ならぬ神さまがそんな弱い私のための逃れ場になってくださっている、ということを覚えたいと思います。<br>主イエス・キリスト。この方こそ、私の逃れ場でいてくださる神さまのお名前です。キリストの憐れみの中に、私の憩いの場所があるのです。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-84561004057523399992024-02-27T08:37:00.000+09:002024-02-27T08:38:26.992+09:002024年2月27日の聖句<div dir="ltr">わが過ちから私を洗い、わが罪から私をきよめてください。(詩編51:4)<br>(イエスの言葉)このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ15:7)<br><br>主イエス・キリストの福音の光の中で、私たちは神の子にしていただいた自分の姿を知ります。神に愛していただいている私、神の子にしていただいた私。これこそ、本当に私らしい私の姿なのだと、私たちは知らされる。そして同時に、そうであるからこそ、私らしくない私であったことを知ります。自分のあるがままの姿がどんなにキリストから遠く隔たっているかを。<br>今日の旧約の御言葉は、ダビデ王の悔い改めの言葉です。ダビデは自分の臣下ウリヤの妻であったバト・シェバを自分のものとし、ウリヤを戦地で殺した男です。しかも王として当然のことをしたとしか考えていなかった。そんなダビデのもとに預言者ナタンが現れて、彼は自分のしたことに気付かされる。ウリヤにも、バト・シェバにも、自分がどんなに罪深いことをしたのか。そして、神さまに対して、自分がどんなに罪深い存在なのか。そのことをダビデは骨身に染みて知らされました。「わが過ちから私を洗い、わが罪から私をきよめてください。」ダビデには、もう、そう祈るしかなかったのです。<div>罪人と聞くと、聖書を読み慣れている者には、却ってもとの意味とは違うように聞こえてしまうところがあるようにも思います。ちゃんと反省している人、不十分ではあっても神様のところに帰ろうとしている人、神さまの前にへりくだっている人・・・そのような印象さえあるのではないでしょうか。しかし、罪人は罪人です。ダビデがそうであったように、どんなにひどいことをしてもそれを自分の権利だと言ってはばからず、他人に痛みを与えても自分は被害者のような顔をしている。罪人というのはそういう存在です。この私こそが、そういう罪人なのです。私もダビデと一緒に祈ることしかできない。「わが過ちから私を洗い、わが罪から私をきよめてください。」<br>私たちはキリストの憐れみにすがり、約束の言葉を信じるだけです。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」<br></div></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-15743176724386774942024-02-26T07:47:00.001+09:002024-02-26T07:47:49.655+09:002024年2月26日の聖句<div dir="ltr">主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。(歴代誌下16:9)<br>この方はあなたがたの心の目に光を与えてくださいます。それは、あなたがたがどのような希望へとこの方によって招かれているのか、また私たち信仰者に大いに力強く示される神の御力がいかに圧倒的なものであるかを、あなたがたが悟ることができるようにしてくださるためなのです。(エフェソ1:18,19)<br><br>神が私たちの心の目に光を与えてくださる。私たちの心の目を開き、本当に大切なことが見えるようにしてくださる。聖書はそのように約束します。何が見えてくるのでしょうか?<br>「それは、あなたがたがどのような希望へとこの方によって招かれているのか、また私たち信仰者に大いに力強く示される神の御力がいかに圧倒的なものであるかを、あなたがたが悟ることができるようにしてくださるためなのです。」<br>神が私たちを招いてくださっている希望が見えてきます。そして、私たちのために神が示してくださった御力の圧倒的な力強さを悟らせてくださいます。神の力が私たちに与えてくださった望みを見るために、神が私たちの心の目に光を与えてくださった。聖書はそのように言います。<br>主イエス・キリスト。この方こそ、私たちのために神が下さった希望です。この方こそ、私たちのために神がふるってくださった御力です。神は私たちの目をキリストに向かって開かせてくださる。もしも、今あなたが望みを見失っているのなら、どうかキリストのお姿を見せてください、と祈ってください。キリストこそ、私たちの誰よりも深く希望の見えない陰府の淵に降って行かれたお方です。キリストの知らない悲しみはない。主イエスさまを与えてくださった神は、この世界のすべてに目を向け、見渡して、私たちを探してくださっているお方です。<br>主イエス・キリスト。このお方こそ私たちの望み。私たちの救い。神が私たちのために下さった心の目の光をもって、キリストを見つめる祈りの一日を過ごしていきましょう。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-80812424120241485092024-02-25T09:14:00.000+09:002024-02-25T09:15:38.573+09:002024年2月25日の聖句<div dir="ltr">今週の聖句:<br>まだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んだことにより、神は愛を示されました。(ローマ5:8)<br><br>今日の聖句:<br>今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。(申命記6:6~7)<br>(イエスの言葉)弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ14:26)<br><br>主イエスさまは、御自分が十字架にかけられ天に上げられて私たちの前から立ち去られるとき、聖霊を送ってくださると約束をなさいました。今、私たちはこの目で主イエスさまを見ることができないし、ペトロたちがそうであったのと同じ意味で主イエスにお目にかかることはできません。さみしいことです。今、目の前にいてくださればと何度願ったことでしょう。<br>しかし、もしも2000年前と同じ意味で主イエスが地上を歩んでおられたとしたら、どうでしょう。世界中から主イエスのもとに人が押し寄せて、面会予約は何年も先まで埋まっているに違いない。第一、主イエスにお目にかかるためには長い旅に出なければ適わなくなります。<br>しかし、そうではない。今、キリストは聖霊を送ってくださった。聖霊なる神様としてキリストは私たちと共にいてくださる。この方は、キリストの言葉を私たちに思い起こさせてくださいます。私たちが主の御言葉を思い起こすとき、あるいは主イエスを求める思いを抱くとき、それは聖霊のお働きです。キリストの言葉を思い起こすとき、キリストは共にいてくださるのです。<div>主は、今、私たち共にいてくださいます。御言葉と聖霊によって。主イエスさまの御言葉と共に歩む一週間を過ごしましょう。キリストの語りかけてくださった福音の言葉によって、新しい日々を進んでいきましょう。主は共にいてくださいます。<br></div></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3889274350991329990.post-39104884610662221142024-02-24T08:17:00.000+09:002024-02-24T08:18:05.767+09:002024年2月24日の聖句<div dir="ltr">私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11)<br>(パウロの手紙)あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。(ローマ15:29)<br><br>ありがたい言葉です。「私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。」神が私たちに幸いをもたらしてくださる。それによって、私たちはこの方こそまことの神だとよく分かるはずだ、と言ってくださいます。<br>普通、分からせてやろうとか知らせてやろうとか、そういう台詞が出て来るとしたら事態は逆だと思います。目に物を見せてやる、よく分からせてやる。そんな言葉が出て来るとしたら、相手がすごく嫌がることをして自分の優位を示してやろうという意味でしょう。別にそれは映画かお芝居だけの話ではない。親が子に、そのような思いを抱いてしまうこともあるかも知れません。上司が部下に、客が店に、発注元が受注側に・・・。どのような人間関係でも、起こりうることだと思います。<br>ところが神さまは違います。私たちが考えるようなセコいことはお考えにはならない。恵みの業を行い、私たちに幸いを与えることによって、御自分の神であることを知らせるとおっしゃいます。その幸いこそ、キリストを私たちのために下さったということに他ならないのです。神から私たちへの最大の贈り物、主イエス・キリスト、神の独り子でいらっしゃる方を下さったことによって、私たちはこの方こそ神でいらっしゃると知ったのです。<br>だから、パウロはその祝福を届けるために、たくさんの人と出会いました。神が下さった一方的な恵みの贈り物を一人でも多くの人に届けるために。私たちも、その恵みの贈り物をいただいて、今日を迎えたのです。<br></div> さがみ野教会http://www.blogger.com/profile/16593225945351278903noreply@blogger.com