2019年12月28日土曜日

2019年12月28日(ゼカリヤ書9〜11)

今日の通読箇所:マタイによる福音書、ゼカリヤ書9~11

ゼカリヤ書9~11;
今日与えられているゼカリヤ書の御言葉には、主イエスのお姿を彷彿とさせる言葉がたくさんあります。
まず何よりも、これです。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗ってくる、雌ろばの子、子ろばに乗って」(9:9)。主イエスがエルサレムに入城したときのご様子を、福音書はこの御言葉をもって鮮やかに描いています。この人は、一体どうやってこのような救い主のお姿を預言することができたのでしょう。主は、へりくだって、子ろばに乗って、私たちのところへ来てくださいます。飼い葉桶にお生まれになったのと同じように。
さらに、この言葉には10節が続いています。「私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る」。主イエス様の御支配、神の国は、戦車によらず、軍馬によらず、子ろばに乗った方が告げる平和によって成り立ちます。

「私は彼らに言った。『もし、あなたがよいと思うなら、私に賃金を支払え。そううでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは私の賃金として銀三十シェケルを支払った。主は私に言われた。『私が彼らによって値踏みされた尊い値を、陶工に投げ与えよ。』そこで私は、銀三十シェケルを取り、それを主の神殿の陶工に投げ与えた」(11:12~13)。
イスカリオテのユダは、銀30枚で主イエスを売りました。彼は主イエスが死刑の判決を受けたことを知ると後悔し、その金を替えそうとしましたが断られ、神殿に投げ込みました。祭司長たちはその金で陶工の畑を買いました。ユダも、祭司長たちも、主イエスの命を銀30枚と値踏みしたのです。
たったの30枚というふうにも思いますが、しかし、意味のある金額なのだと思います。出エジプト記21:32に、牛が奴隷を突いて殺した場合の牛の持ち主の賠償額として、銀30シェケルと定められています。主イエスは、全く自分に過失のないことで殺され、その値は奴隷としての値でした。もちろん祭司長もユダもそんなことを考えていたわけではないでしょうが、しかし、神のなさることの不思議であると思います。私たちのために飼い葉桶に生まれてこられた方は、私たちのために、銀30枚の値段をつけられることを甘んじて受け、僕(しもべ)として殺されました。

最後に愚かな牧者の話が出てきます。「彼は失われた者を訪ねず、迷ってものを捜し求めず、傷ついているものを癒やさず、飢えているものを養わず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを裂く」(11:16)。まるっきり、主イエスのお姿と正反対です。しかし、これが私たち人間の姿です。主イエス様に救って頂かなくては、私たちは救われようがないのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...