2020年11月30日月曜日

2020年11月29日(ユダの手紙)

ユダの手紙
「愛する人たち、私たちが共にあずかっている救いについて書き送りたいと、心から願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちにひとたび伝えられた信仰のために闘うことを、勧めなければならないと思ったのです。」

ヤコブの兄弟ユダが書いた手紙です。この人がどういう人なのかはよく分かりません。ただ、主イエスご自身の弟たちの中に、ヤコブという人とユダという人がいました。それでユダも主イエスの弟であるユダなのかもしれないと考えられているようです。確証はありませんが。しかしそう読むことも許されると思います。
この手紙で、ユダはキリスト者立ちに向かって闘いを呼びかけています。「聖なる者たちにひとたび伝えられた信仰のために闘うことを、勧めなければならないと思った」と言います。闘うというと随分と物騒に思えます。どういうことなのか?
ユダはある人たちがキリストを否定し、不敬虔に生きていると指摘します。それは、旧約聖書の中に登場しているソドムとゴモラのような罪であり、あるいは天使と争った悪魔のようであり、あるいは他にもカイン、バラム、コラといった旧約聖書に登場してきて過ちを犯してしまった人たちの名前を挙げていきます。かなり強い言葉で断罪する。しかし、だからといって彼らを呪えとか、挨拶をするなとか、力尽くでやっつけろというようなことを言っているわけではありません。それでは、一体どうやって闘うのか?
「愛する人たち、あなたたは最も聖なる信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈りなさい。神の愛の内に自らを保ち、永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」
ユダは、他の人がどうであれ私たちが一心に神を信じること、そして信じ続けることによって闘うのだ、というのです。他の人を追い落としたり嫌がらせをしたり、そういうことで闘うのではない。キリストの愛を信じ、神の救いを待ち望むことそれ自体が私たちの闘いだと言うのです。
私はやられたらやり返したくなるし、相手を言い負かして字部が正しいと証明したくなってしまいます。しかし、聖書はそうは言わないのです。私たちはただ神を信じ続ける。それだけです。それだけでいいのです。一心に主を見上げる一途な心、一筋の心を与えてくださいと祈りつつ、今日の日を始めていきます。

2020年11月29日日曜日

2020年11月29日(ヨハネの手紙三)

ヨハネの手紙三
「愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。彼らは、教会の集まりであなたの愛について証ししました。どうか、神にふさわしいしかたで、彼らを送り出してください。」

この手紙は極めて個人的な手紙、私信と呼ぶべき手紙です。宛先はガイオ。どういう背景を持った人物なのか、この手紙の中で読み取れることはとても少ない。ただ、新約聖書のほかの場所に何度か同じ名前の人が登場しています。すべて同じ人物なのか、同名の別人なのかはよく分かりません。使徒言行録19:29によると、ガイオというマケドニア人がパウロと同行しており、エフェソでの迫害の時にパウロロト一緒に逮捕されています。ローマの信徒への手紙16:23では、「私と全教会との家主であるガイオ」とあります。社会的にある程度の立場があり、経済的に教会を支えていた、ということなのでしょうか。また、コリントの信徒への手紙一1:14によると、ガイオはパウロから洗礼を受けていたようです。このガイオとヨハネが手紙を送ったガイオは同じ人物なのか。それはよく分かりませんが、同一人物という前提でこの手紙を読んでも特に差し支えはないのではないかと思います。ガイオは教会のために尽力した宣教の協力者であって、特にマケドニア人と言うこともあってギリシア地方での伝道に貢献したと考えることができると思います。
ヨハネは、このガイオのよそから来た人への礼儀と愛のもてなしを喜び、またそれを励ましている。それがこの手紙の主たる内容ということになるのだと思います。よそから来たというのは、恐らく各地の教会を訪ね歩きながら伝道した人たちということでしょう。自分たちの生活について、この伝道者たちは別の基盤を持たない。だから、教会として彼らを支えてほしい、そうやってあなたたちも神への献身に参加することになるのだ、とヨハネは訴えるのです。
私たちの教会では、日本中会の求めに応じて「宣教支援献金」を募っています。この献金の用途の中には日本の伝道書・伝道教会への援助も含まれますが、それだけではなく、海外の宣教師のための献金も含まれています。私もそういう宣教師と何人も出会ってきました。彼らは、今もフィリピンやカンボジアなどいろいろなところで伝道しています。もちろん、ルイビルの伝道のためにも日本中会は献げています。私たちも宣教師の働きのために祈ったり献金したりすることで、彼らの宣教の働きに参画することになります、ガイオのように!教会は2000年間、献げる恵みを通して、キリストの福音を宣べ伝える働きに参画し続けてきたのです。今も、それは続いています。

2020年11月28日土曜日

2020年11月28日(ヨハネの手紙二)

ヨハネの手紙二
「よく気をつけて、私たちが働いて得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。先走って、キリストの教えにとどまらない者は皆、神を持っていません。その教えにとどまっている人は、御父と御子とを持っています。」

この手紙を書いたヨハネやこの手紙を最初に受け取ったキリスト者たちが生きていた環境と、私たちが今生きている環境とでは、違う所もたくさんありますが似ている所も多くあるのではないかと思います。何よりもよく似ているのは、ヨハネたちも私たちも、共に異教社会の中に生きているということです。むしろ、聖書の信仰こそ異教と言った方が状況にふさわしいかもしれません。私たちも彼らも圧倒的にマイノリティです。この社会は誰もキリストを信じてなどいないのです。
そういうときに、「先走って、キリストの教えにとどまらない」ということが起きてしまう。あまり「キリスト、キリスト」と狭く考えない方が良いのではないか、ほかにもいい話を聞ける場所はたくさんあるのではないか。社会そのものがキリストを知らない以上、私たちの信仰は常に良心的に排除されます。
しかし、ひとたびキリストと出会った私たちがキリストの教えにとどまらないのは先走った、誤った判断だと長老ヨハネは言います。もっともらしい言葉に惑わされずに、もっとよく腰を落ち着けて考えなければならない。本当に確かなのは、キリストなのではないか。本当に私たちを神と出会わせてくださるのは、キリストなのではないか。
ただそれは、独善的に自分たちこそ真理を知っていると心をかたくなにするということではないと思います。何しろ、キリストの戒めは「互いに愛し合うこと」です。偏狭で独善的な心では「互いに」愛し合うことはできません。キリストはただお一人真実な方であるのに、私たちのところに来て、私たちよりも先に愛してくださった。そこからすべてが始まるのではないでしょうか。
私たちに互いを愛する愛をくださるのは、キリストです。私たちはそのことを信じています。だからキリストに、愛するための愛を願い求める。そして私たちが愛に生きるならば、私たちはへりくだって隣人の愛を信頼し、キリストが私の内に生きて働いて愛をもってこの私を生かしてくださっていることを喜ぶのです。

2020年11月27日金曜日

2020年11月27日(ヨハネの手紙一5)

ヨハネの手紙一5
「神の子を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命をもっていることを知ってほしいからです。何事でも神の御心にかなうことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられていると知るのです。」

何事でも神の御心にかなうことを願うなら、神は聞いてくださる。私たちはそのことを確信している。使徒ヨハネは私たちの祈りの確信をそのように言い表します。私たちは神が祈りを必ず聞いてくださっていると信じ、神がこの祈りを聞き届け、かなえてくださると信じて祈ります。ただ、神の御心に適うことを願うなら、と言っています。何が神の御心に適うのでしょうか。
そのことを考えるために、この文脈が大切であると思います。この文章はすぐ次に「もし誰かが、死に至らない罪を犯しているきょうだいを見たら、神に願いなさい。そうすれば、神は死に至らない罪を犯した人に命をお与えになります」と続いています。死に至らない罪とは何か、逆に死に至る罪とは何か。ここでは明言されていません。あまり、これこれこういう罪は死に至るけれども、こちらは死に至らないといった具合に分類化するというのはふさわしいことではないと思います。そもそも、罪の中で死ぬべき私たちをキリストによって神が赦してくださった。それが出発点なのですから。キリストの血によって私たちは赦され、救って頂いた。私たちが知っているのはその事実です。死に至る罪とそうでない罪、それは神様の判断なさる範疇としか言いようがないと思います。
だから、私たちは罪を犯したきょうだいのために祈る。その祈りを神は必ず聞いてくださいます。聞いて、かなえてくださいます。私たちはきょうだいのために執りなしの祈りをするために、神に召されているのです。「それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります(ヤコブ5:16)」。
神様の御心は、私たちがキリストを信じることです。神様が私たちを愛し、キリストを与えてくださいました。私たちを神の子として愛してくださったからです。その私たちが神を愛し、きょうだいを愛することを、神は私たちに望んでいてくださる。私たちの祈りは、神の愛から始まります。

2020年11月26日木曜日

2020年11月26日(ヨハネの手紙一4)

ヨハネの手紙一4
「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがは、こうして神の霊を知るのです。」

私たち人間とは、いかなる存在なのか?人間存在を「心と体」という言葉で捉えることが多いと思います。しかしわたしは、聖書は心と体というだけでなく、心と体と霊という三つのあり方で捉えているように思っています。人間には肉体がある。それだけではなく、精神的な動き、心の活動があります。その豊かさは、人間としての豊かさに直結します。しかし、それだけでは人間という存在をトータルで捉えることはできません。人間は、心と体という自分の内側だけで完結するのではなく、自分を越えた大いなる存在、永遠なる存在を求めます。永遠を求める憧れが、人間にはある。ボーレンというスイスの牧師は、女性が化粧をするということにもその永遠への憧れは現れていると言っていました。人間は自分を超えた存在に憧れ、新しいものになろうとする。永遠を求める人間の憧れの座は、霊です。人間は霊的な存在だから、永遠を求めるのです。
人間の霊の起源は、神様です。神様ご自身こそが霊的な方です。神はご自身の霊を私たちに分け与え、私たちを神様ご自身を求める者にしてくださいました。「神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。」しかし、だからといってどんな霊でも信じるのではなく、何にでもやたらに憧れるのではなく、それが神から出た霊かどうかを確かめなさい、と言います。どうやって確かめるのか?「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。」キリストを告白する霊なのか?私たちの憧れはキリストへと向かっているのか?聖書はそのように問います。
キリストへの憧れは、私たちを愛することへと導きます。キリストが私たちを愛してくださったからです。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」「神は愛です。愛のうちにとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」そもそも、私たちの憧れをご自分への憧れとして方向付けてくださること自体が神の愛そのものです。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」私たちは神の愛そのものであるキリストを求め、このキリストのゆえに、今日一日愛に従って歩みたいと願っています。必ず、キリストが共にいてくださいます。愛の失敗を恐れず、キリストと共に今日の一日を歩んでいきましょう。

2020年11月25日水曜日

2020年11月25日(ヨハネの手紙一3)

ヨハネの手紙一3
「きょうだいを憎む者は皆、人殺しです。人殺しは皆、その内に永遠の命をとどめていないことを、あなたがたは知っています。御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

この章の冒頭では、次のように言っています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。」私たちは神の子ども。ヨハネはそう宣言します。子どもは、顔や仕草や言葉遣いがいつの間にか親に似てきます。
しかし、私はどうなのでしょう?神の子どもと言っていただいても、神様に似ている私なのか?主イエスさまに少しでも似ているのか?そう考えると、いてもたってもいられない気持ちになります。だからこそ、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどのことをしてくださったか、考えてみなさい」と言うのです。主イエスと似ても似つかない私を神の子とするために、御父はご自分の独り子を与えてくださいました。私が神の子どもになったというよりも、正しくは神が私をご自分の子どもとしてくださったのです。神が、私をご自分の子どもと呼んでくださったのです。
だから、互いに愛し合おうと聖書は呼びかけます。神の子としていただいたのだから、神の子らしく生きよう、と。私たちは、御子がこの私のために命を捨ててくださった愛を知っている。御子が私のために貧しくなり、弱い人間の肉体を持ち、私の友となってくださったことを知っている。キリストに現された神の愛を知っている。だから、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と訴えます。
愛するということが、神の子としていただいた私らしい生き方。聖書はそのように言います。愛を欠いて、いつまでも言葉や口先だけ。所詮私はその程度の者。そう思ってしまいがちです。しかし、それが「私らしい」ということではありません。神がご自分の子と呼んでくださったのですから。神が独り子を与えてくださったのですから。神の子として私たちが喜んで生きることができるように、キリストの愛が私たちを温めてくださるのです。

2020年11月24日火曜日

2020年11月24日(ヨハネの手紙一2)

ヨハネの手紙一2
「世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、父から出たものではなく、世から出たものだからです。世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。」

ヨハネによる福音書やこのヨハネの手紙では、「世」という言葉を独特のニュアンスを持って使っています。字としては普通の「世界」という意味の言葉ですが、ヨハネはある独特な意味を持ってこの言葉を使っています。ヨハネが「世」というとき、それは基本的には「神に逆らう世界」といったニュアンスがあります。そうであるからこそ、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉は重い言葉でもあると言えるのだと思います。
そして、ここでの「世も世にあるものも、愛してはなりません」という言葉は、とても大切なことを教えているのだと思います。これは、神に逆らうものは憎め、関係も持つな、と言っているのではありません。それは、神に逆らう世を神が愛されたという事実からも明らかです。そうではなく、私たちの肉の欲、目の欲、見栄を張った生活を愛するのか、神を愛するのか、二つに一つだと言っているのです。それらのものは神から出たものではなく世から出たもの。言葉を換えれば、私たちの罪が生み出す欲望。だから、神への愛とは両立し得ないとヨハネは私たちに言うのです。
それでは、世を愛するのではなく神を愛するというとき、私たちはいかに生きるのか?「きょうだいを愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません」と言います。きょうだいを愛するということに結実する神への愛に生きるように、と聖書は私たちを促すのです。
昨日、日本中会の会議が行われました。その中で、佐藤先生が日本中会が派遣した宣教師であるということを公認し、今後も支援を継続するということが話し合われ、無事に承認されました。その時にルイビル日本語教会の長老がコメントをしてくださいました。ルイビルの教会は駐在の人を初めとして大変流動性が高く、洗礼を受けて教会の中心的メンバーになっても数年で日本に戻ってしまう人が多い。その意味でも経済的に強くはない。しかし、日本中会がこれまでも経済的に支えてくださったことが本当に大きな励みとなり、力となって、そのささげ物の成果が、ここで伝道の実りとして結ばれている。ルイビルの教会としても佐藤先生を縛り付けておくのではなく、送り出して、各地での宣教のために献げている、というお話でした。さがみ野教会は、最初に佐藤先生を献げた教会です。その献身にルイビルの教会も加わり、日本中会の教会も加わり、伝道の実りを結んでいる。ここにも、すでにこの世ではなく神への愛に生きる教会の姿が見えています。

2020年11月23日月曜日

2020年11月23日(ヨハネの手紙一1)

ヨハネの手紙一1
「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」

使徒ヨハネが書いたと伝えられる手紙を今日から読み始めます。この手紙自体には差出人の名前がありませんが、読んでみると明らかにヨハネによる福音書と同じ神学をもって書かれています。中でも「神が光の中におられる」というのは、まさにヨハネらしい言葉です。
福音書でも、冒頭から光としての主イエスを紹介しています。「この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」神は光の中におられる!そして、私たちのことも、その光の中へ招いておられます。
日が暮れるのが随分早くなりました。夜闇が濃くなっています。昨日の夕方、息子とキャッチボールをしました。すぐに暗くなってしまうので、ボールがよく見えません。キャッチボールには「見えない」ということは致命的ですが、それとは逆に「見えない」ことで安心を覚えるという場面もあります。恥ずかしくて人目にさらせない行いが、私たちにはある。しかしヨハネは私たちを光の中へ招きます。「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」恥ずかしくて人目にさらせない行いや思い、それは、聖書が罪と呼ぶ思いや行いです。夜の闇に紛れないとできない。その闇の中にごまかしてしまいたい罪から私たちを清めうるのは、神の光に他ならない。
だから、具体的に、自分の罪を告白しようとヨハネは私たちを促すのです。ごまかして、なかったことにしてしまいたい私の数々の罪。光の中では「交わりを持ち」ということが可能でも、闇夜の行いは結局分断しか生みません。それは罪の結果です。交わりの回復は、神に罪を清めていただかないことには始まらない。罪を告白し、神の光の中に進み出よう。神は罪を赦してくださっているのだから、と言うのです。
光からの光、主イエス・キリストを仰ぐ新しい一日が、ここに始まっています。

2020年11月22日日曜日

2020年11月22日(ヨハネによる福音書21:15~25)

ヨハネによる福音書21:15~25
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」

本当に印象深い、主イエスとシモン・ペトロとの対話です。ペトロ自身間違いなくそうでしょうし読む誰もが思い起こすのは、主イエスが十字架にかけられる直前の主イエスとペトロとの対話です。あの世、イエスは言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたがた立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは答えます。「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております。」イエスはさらに言われる。「ペトロ、言っておくが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」そして、ほんの数時間後にイエスは捕らえられ、ピラトの屋敷で裁判にかけられる。そこに潜入したペトロは、イエスが言ったとおりに、三度も重ねてイエスを知らないとその庭にいた者たちに言ったのでした。主イエスはそのときのことをなぞるようにして、三度も重ねて、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と尋ねられた。
なぜ、イエスはそのようにしてペトロの傷口に塩を塗り込むようなことをなさったのか。それは、ペトロが、イエスに傷つけられることなしには癒やされることもまたないと、イエスが知っておられたからではないでしょうか。
三度目にイエスが「私を愛しているか」と言ったとき、ペトロは悲しくなりました。そして「主よ、あなたは何もかもご存じです」と言いました。そう、主イエスは、何もかもご存じなのです。ペトロのすべてを、ペトロ以上に。そういうお方が自分になお愛を問うてくれて、しかも「私の羊を飼いなさい」と言ってくださる。ペトロはそのことを知ったときに、初めて救われたのではないでしょうか。
あの夜、イエスはペトロに「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言ってくださいました。ペトロの信仰がなくならないように主イエスご自身がしてくださったことが、この時の対話です。イエスともう一度お目にかかり、イエスの愛に立ち帰り、ペトロは立ち直った。私たちも同じです。だから、私たちも兄弟のため、姉妹のために、力づけることができるのです。「私の羊を飼いなさい」と主は言われます。

2020年11月21日土曜日

2020年11月21日(ヨハネによる福音書21:1~14)

ヨハネによる福音書21:1~14
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

ティベリアス湖畔で、主イエスが再び弟子たちにご自身を現してくださいました。その時、そこにいたのは「シモン・ペトロ、ディディもと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子」だったと言います。私は、シモン・ペトロもトマスもいるときに来てくださったイエスさまは、優しい方だと思います。シモン・ペトロは次の段落での主イエスとのやりとりを見ても明らかなとおり、自分が裏切ってしまったことで深く痛んでいました。トマスも、イエスが復活したと言うことを最後まで信じることができませんでした。二人とも、不信仰でした。不信仰について、聖書は仕方がないことだとか、その気持ちは分かるだとか、そういうことは言いません。不信仰は罪です。ペトロやトマスは、不信仰の罪を犯す私たちの代表です。そのようなペトロやトマスがいるティベリアス湖の畔に、イエスが立っておられるのです。
その日、彼らは夜通し漁をしましたが、何も捕れませんでした。夜が明けるとイエスが畔に立っていて、「何かおかずになる物は獲れたか」と言われる。「捕れません」。すると、主は船の右側に網を打てと言われる。果たして、その通りになった。それはペトロがかつて体験したのとそっくりな出来事です。主イエスと出会い、主の弟子になったあの日、あの朝、ペトロは同じ網の重みをその手に知ったのです。
イエスの愛しておられた弟子、恐らくこの福音書を書いたヨハネ自身と言われていますが、彼が「主だ」と言うと、シモン・ペトロは裸だったので上着を守って湖に飛び込み、岸まで泳ぎました。私はこの場面が大好きです。わざわざ上着を着て湖に飛びこぶだなんて!服を着て泳ぐのは、とても重いのです。ずっと漁師として水辺で生きてきたペトロであれば難なく泳げるのかもしれませんが・・・。しかし、ペトロはどうしても裸で主の前には行けなかったのでしょう。それだけ主イエスを愛し、尊敬し、大切に思っていたのでしょう。ペトロのそんなまっすぐな愛が、私は好きです。
ペトロもトマスも、不信仰の罪に沈みました。しかし主イエスは彼らのところへ行ってくださいます。ペトロの、あるいはトマスの小さな愛を見出してくださいます。そして、彼らのための食卓を主ご自身が準備してくださる。主イエスご自身の愛が、ペトロやトマスや私たちの毎日の営みを支えてくださるのです。

2020年11月20日金曜日

2020年11月20日(ヨハネによる福音書20:19〜31)

ヨハネによる福音書20:19~31
八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。

イエスが復活した日の朝、イエスはマグダラのマリアと出会われました。そして、その日の夕方にペトロやヨハネたちと出会われました。「あなたがたに平和があるように」と言って、彼らが戸に鍵をかけて閉じこもっていた家の中に入ってこられたのです。
イエスが復活した日は安息日の翌日。安息日は土曜日なので、復活は日曜日の出来事でした。十戒は「安息日を覚え、これを聖とせよ」と命じています。この日は労働はしない。聖書の信仰に生きる者にとって、それがユダヤ人だろうとキリスト者だろうと、安息日はとても大切な戒めです。ただし、キリスト者は日曜日に安息日を覚えます。イエスが復活した日だからです。そして、弟子たちがイエスと出会った日だからです。しかも、イエスはご自分の弟子と個人的に、秘密裏に会ったのではありません。弟子たちが一緒にいる場所に、イエスはやって来ました。
ところが、トマスはその日、そこにはいませんでした。だから当然のこととして、イエスが復活したなどとほかの仲間たちが言っているのはどうかしているのであって、自分はそんなことは決して信じない、と断言します。そこまで言うなら、この指をイエスの釘打たれた手の傷に入れ、この手を槍で刺されたイエスの脇腹に入れなければ決して信じない、と言いました。
イエスがトマスと出会われたのは、それから一週間後のことでした。翌週の日曜日だった。それだけ日曜日が大事だとも言えますが、それだけではないと思います。イエスさまはトマスに、一週間の時間の猶予をプレゼントしたのだと思います。その間、トマスは悩み、迷い、そして孤独だったに違いない。さっさとトマスのところに来てくれればよかったようにも見えますが、トマスにとっては一週間しっかり迷うことが大事だったのではないでしょうか。一人孤独に悩み、そして主の日に仲間と共に祈る。そんなトマスが主イエスと再会したときに「私の主、私の神よ」というすばらしい告白を口に上らせたのです。私たちの迷いの日、悩みの時は、神様の御前に独り出て、かけがえのない主との対話を得る尊い時間。そして、主の日に仲間と共に私たちはキリストと出会うのです。

2020年11月19日木曜日

2020年11月19日(ヨハネによる福音書20:1~18)

ヨハネによる福音書20:1~18
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

十字架にかけられ、墓に葬られたイエス。その墓はアリマタヤのヨセフという男の所有していたものでした。このヨセフと以前イエスのところへ来たことがあるファリサイ派の男ニコデモが、金曜日の内にイエスを埋葬しました。金曜日の夜から土曜日の日没までは安息日です。埋葬はできません。安息日が開けるのを待って、日曜日の朝早く、まだくらい内に、マグダラのマリアが墓に行きました。彼女はそこで復活したイエス・キリストと出会ったのです。
最初、空になった墓を目の当たりにしてマリアは泣きました。イエスの遺体を誰かが盗んだ。状況からしてそうとしか考えられないからです。そこに、復活したイエスご自身が来て、マリアに声をかけます。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアはイエスを園の番人だと思い込んで言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります。」するとイエスが呼んだのです、彼女の名前を。「マリア」と。
この呼び声が世界を変えました。マリアは悲しみに暮れていました。イエスを失い、自分の手の届かないところに行ってしまったから。しかし、イエスはどこかに行ってしまったのではなくここにおられて、私の名前を呼んでくださるのです。「マリア」と。
私は主イエスがこうしてほかの何でもなく彼女の名前を呼んでくださったということに大きな魅力を感じます。主イエスが復活されて、私たちと出会うのは、私たちの名前を呼ぶためです。学問の真理を伝えるためとか、悟りの境地に導くためとか、そういうことではなく、私の名前を呼んでくださる神、それがイエス・キリストです。
主イエスの呼び声は、この世の命を越えて響きます。私たちも、私たちの愛する者も、やがてこの世の命を終えて眠りに就きます。しかしやがて、来る主の日の朝にキリストがその名前を呼んでくださいます。「マリア」と呼んだのと同じように、私たちの名前をも。私たちの命の終わりを越えるキリストの命の祝福が私たちのために準備されているのです。

2020年11月18日水曜日

2020年11月17日(ヨハネによる福音書19:23~42)

ヨハネによる福音書19:23~42
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

十字架にかけられた主イエスが「渇く」と言われたのは、聖書の言葉が実現するためであった、とヨハネによる福音書は告げています。聖書の言葉が実現するためということで主イエスの出来事の理由を説明するのは、むしろマタイによる福音書に多い書き方です。ヨハネによる福音書では、これまでそれほどそのように言われてきたわけではありませんでした。ところが、殊十字架にいたって、ヨハネは出来事の理由を聖書の言葉に求めているように思います。今日のところでも、「聖書の言葉が実現した」ということが何度か言及されていました。
主イエスの服が籤によって分けられたこと、主イエスが「渇く」と言われたこと、酢を飲まされたこと、骨を折られなかったことなど、旧約聖書との関わりを深く持つ描写が多いのです。
昨日のところでは、イエスの無罪を確信しながらも十字架につけたピラトや、彼にそう決断せしめた民衆の熱狂などをとてもリアリティのある筆運びで伝えていました。むしろ、今日の十字架そのものの箇所は、起きたことを淡々と報告している印象を受けます。その中で何度も繰り返して注意喚起しているのが、この「聖書の言葉が実現した」ということであろうと思います。ヨハネは言うのです。表面上は民衆の熱狂やピラトの衆愚政治、そういったものがイエスを十字架につけたように見えるけれど、本質はもっと別のところにある。すべては、聖書の言葉が実現するための出来事だったのだ、と。
イエスは人々が差し出した酢を受け、「成し遂げられた」と言って息を引き取られた、と書かれています。主イエスは聖書の言葉が実現したことをご覧になって、成し遂げられたと言われた。聖書の言葉が実現するというのは、言葉を換えれば、神様のご意志が貫かれるということです。イエスは神の御心をすべて受け入れ、その完成を見て、息を引き取ったのです。私たちを救うキリストの十字架の御業は、御父のご意志とそれを引き受けた御子によって成し遂げられました。私たちのための、私たちを愛する神のご意志です。神ご自身がイエスを十字架におかけになったのです。
今日一日の私たちの祈りの歩みが、この神のご意志に思いをいたし、静かにこれを思い巡らして御前に伏すものでありますように。主イエスさまの御前に頭を垂れつつ、祈りの道を上っていきましょう。

2020年11月17日火曜日

2020年11月17日(ヨハネによる福音書19:1~22)

ヨハネによる福音書19:1~22
イエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て、出て来られた。ピラトは、「見よ、この人だ」と言った。

ピラトは取り調べでイエスの罪を一つも見出すことができず、人々にイエスの無罪放免を告げようと、イエスを人々の前に立たせました。ピラトはイエスを指して言います。「見よ、この人だ。」
このピラトの言葉は、「見よ、この人だ」という言葉のラテン語訳である「エッケ・ホモ」という言葉でよく知られるようになりました。この場面を題材にした絵画もたくさんあります。「見よ、この人だ」、あるいは「この人を見よ」とも訳せるようです。私たちも、この人を見なければなりません。この方は、侮辱を込めて王と呼ばれ。、紫の王の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられました。ユダヤ人はイエスが神の子と自称している、だから死罪だと訴え、叫びました。しかし、しっかりとこの方を見たとき、そこには死刑になる理由も、それどころか何の罪も見出すことはできないのです。私たちは、見なければなりません。私たちが狂ったように「十字架にかけろ」と叫び倒すこの方こそが、本当に神の子なのだという事実を。
「見よ、この人だ」民衆の前にイエスを立たせたピラトは、恐らく当初はイエスを無罪放免にできると思っていたのでしょう。民衆を説得できる目論見だったに違いない。しかし、人々はピラトの立場を逆手に取ります。この男は王であると自称したのであって、赦すことは皇帝に対する反逆に他ならないと訴えます。「私たちには、皇帝のほかに王はありません」とまで、祭司長たちは言ってしまいました。ついに、ピラトはその声に屈しました。
ピラトがしたことは、歴史上最も愚かな衆愚政治です。究極のポピュリズムです。祭司長立ちも、言うに事欠いて「私たちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言ってしまった。信仰の筋を曲げてでもイエスを十字架につけた。ピラトも、祭司長らも、ほかのユダヤ人も、誰もこの人を見なかったのです。私たちには見えているでしょうか、この人のことが。
今日一日の私たちの歩みが祈りの道づくりであり、この方を見つめる祈りの歩みをするものでありますように。主の憐れみ深い導きを、心から祈り求めます。

2020年11月16日月曜日

2020年11月16日(ヨハネによる福音書18:28~40)

ヨハネによる福音書18:28~40
ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」

人々はイエスを捕らえて、死刑にするためにローマから派遣された総督ピラトのもとへイエスを送りました。ユダヤは当時属国で、死刑判決を下す権限がなかったからです。ピラトから自分たちで勝手に裁けと言われたとき、「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と言いました。はっきりと、イエスを死刑にしてくれと言ったのです。イエスを殺すために、彼らはピラトののところへ行ったのです。
しかし、どんなに取り調べても、ピラトにはイエスを死刑にする理由を見つけることができませんでした。ユダヤ人たちの言い分は、ピラトにとっては邪魔だったと思います。ローマ人ピラトにとっては、ユダヤなんて辺境の属国にすぎませんから、自分の出世ためにもこんな所で躓くわけにはいかない。うるさいユダヤ人を黙らせたかったのだと思います。それにしても、明らかに罪がないイエスを死刑にする理由もない・・・。それで、ユダヤ人たちが、イエスが王だと自称していると訴えている点について取り調べました。
来週の日曜日は、教会の暦ではアドベントの一週間前の日曜日で、一年の終わりの主日です。その日は「王であるキリスト」と呼ばれています。キリストの王としての御支配の前に私たちはひれ伏す。キリストの王としての御支配は、ピラトやユダヤ人、そして私たちが考える支配者像とはかなり違います。「私の国は、この世のものではない」とイエスは言われます。この世の王は軍事力や警察力、経済力などによって支配します。しかし、イエスはそうなさらない。イエスは、真理によって統治する王です。
それでは、真理とは何か。ピラトと同じ問いを私たちもしないわけにはいかない。この福音書はずっと真理とは何かと言うことを問い続け、語り続けてきました。この福音書が私たちに証しする真理とは、キリストご自身です。キリストを与えることによって示される神の愛です。生まれつきの盲人に光を与え、殺されそうな姦淫の女を解放し、38年間も病気で孤独だった人を起き上がらせ、喜びのぶどう酒を与える真理です。キリストは、神の愛という真理によって私たちの王でいらっしゃいます。
その王としてのお姿は、十字架の上げられることによってはっきりと示されました。キリストの御許に、私たちのための救いが備えられています。

2020年11月15日日曜日

2020年11月15日(ヨハネによる福音書18:1~27)

ヨハネによる福音書18:1~27
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないだろうな」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「お前が園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

今朝の箇所は、主イエスがキドロンの谷の向こうにある園でユダが連れてきた祭司長やファリサイ派の下役に捕らえられ、その時にシモン・ペトロが剣でマルコスという人の耳を切り落とし、そして大祭司のところでイエスがその舅から尋問されたことを伝えています。そして、イエスが取り調べを受けていたのとまったく同じ時に、ペトロが同じ大祭司の中庭で、ある出来事に遭遇していたということを伝えています。
周囲の喧噪や混乱と、ただ一人静かにしておられるキリストとの鮮やかな対比が描かれている箇所であると思います。その中でも特に、やはりペトロとの対比が鋭く伝えられています。
最初、ペトロはイエスを逮捕しようとユダが率いてきた下役たちに力づくで対抗しようと剣を手に取り、切りつけました。わざわざ耳を切られた者の名前まで書かれています。イエスが逮捕されて大祭司の所に連行されていくとき、ペトロは当初そこに居合わせることができませんでした。もう一人の弟子のお陰で敷地内に入ることができた。ところがイエスが裁判にかけられているその脇で、シモン・ペトロは自分がイエスの弟子であるということを否定したのです。
そこには、ペトロが園で片耳を切り落としたマルコスの身内の者がいました。ペトロは怖かったと思います。その怖さを埋め合わせるために、ペトロはイエスの弟子であるという事実を否定したのです。ただイエスお一人だけが、この時を堂々と、そして淡々と過ごしておられたように思います。
それは「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」というご自身の祈りが実現するためであった。すなわち、このイエスの静けさは、私たちのための静けさです。私たちのために、すべてを甘んじて受けいれてくださったのです。

2020年11月14日土曜日

2020年11月14日(ヨハネによる福音書17)

ヨハネによる福音書17
「また、彼らについてだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。」

昨日、11月13日はアウグスティヌス、教父と呼ばれる古代教会の指導者の一人の人の誕生日でした。膨大な著作を残していますが、有名なのはこの人の回心の証しである『告白』という一冊で、これは文字通りの名著です。アウグスティヌスの功績として大切なのは、三位一体論と呼ばれるキリスト教会の教理を体系化ことです。三位一体というのは、神が父、子、聖霊という三つのあり方をお持ちで、なおかつただお一人の神でいらっしゃる、という教理です。アウグスティヌスの三位一体論の一つの特徴は、聖霊です。聖霊を、父なる神様と子なる神様の愛の絆と呼びました。美しい言葉であると思います。
今日の箇所は主イエスの長い祈りですが、ここを読んで、アウグスティヌスが父と子の愛の絆に注目したということを思い出しました。「あなたが私の内におられ、私があなたの内にいる」と主イエスは祈りました。イエスが父の中におられ、イエスの中に父がおられるということは、父とイエスが一体であるということになります。その一体である神の愛の絆が聖霊です。そして、キリストはそれと同じように、私たちのことをも愛の絆で結んでくださいと父に祈ったのです。「彼らも私たちの内にいるようにしてください」と。
この長い祈りの中でも特に今日の部分は「また、彼らについてだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします」と始まっていました。「彼ら」というのは、イエスの目の前にいる使徒たちのこと。そして、その「彼ら」だけではなく、彼らの言葉を聞いてイエスを信じる人々のために祈った。つまり、私たちのことです。キリストは私たちのためにも祈ってくださった。私たちが聖霊という愛の絆によって神と一つに結ばれ、お互いに一つに結ばれるように、と。
私たちキリストの教会は、父なる神様と子なるキリストとの愛の絆に結ばれて、一つにしていただいています。私たちはキリストにある仲間の中に包摂されています。ですから、キリストの招きに応えて、共に、神の御前に進み出ていきましょう。

2020年11月13日金曜日

2020年11月13日(ヨハネによる福音書16)

ヨハネによる福音書16
「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

主イエス・キリストのこのお言葉は、本当に心強く、聞く者に平安を与える言葉です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」主イエス・キリストは世に勝っている!しかも「すでに世に勝っている」のです。これから勝てるように頑張るとか、絶対勝ってみせるとか、そのようにはおっしゃいませんでした。「私はすでに世に勝っている」と主は言われます。私たちにどんな苦難があろうとも、神様なんて実はいないのではないかと疑いたくなるときにも、それは思い込みに過ぎない。キリストはもうすでに世に勝っておられます。
この第16章はとても印象深い章です。2節には「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と言われています。このヨハネによる福音書が書かれた時代、実際にキリスト者たちはユダヤ教の会堂から追放されていました。会堂から追放されるというのは単に宗教施設から閉め出されるということではなくて、村八分になるということです。市民生活を送れなくなってしまうということです。同じユダヤ人の仲間から呪われて迫害され、しかも皆自分たちを迫害することこそが神に従うことだと信じている。まさにこの福音書を最初に読んだキリスト者たちはそういう苦しみの時代に生きていました。
その上、主イエスは続けて言われます。「今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている」。主イエスが私たちのところにもはやいてくださらない。福音書に書かれている時代のように、私たちは実際にイエスにお目にかかることができない。どんな苦難があろうとも、目の前に主イエスがいてくださったら耐えられるのに・・・。私だって、そう思います。
しかし、主イエスは「私が去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われる。なぜなら、父のもとへ帰ったイエスが私たちに聖霊を送ってくださるから。この聖霊が真理を悟らせてくださる。真理の言葉によって、私たちは平和を得ることができる。心理を語るキリストが言われる。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
今、私たちにとっても苦しみの日々であるかもしれない。そんな私たちに平和を得させ、私たちを守り、支えてくださるのは、聖霊が思い起こさせるキリストの言葉です。神の平和と愛を語りかけるキリストの言葉が、私たちを支えてくださいます。この言葉の祝福の中に、私たちは今招かれています。私たちの一日を、キリストという平和の光が照らしています。

2020年11月12日木曜日

2020年11月12日(ヨハネによる福音書15)

ヨハネによる福音書15
「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

私たちは、主イエスの友です。主が私たちを友と呼んでくださいました。私たちはこの福音書によって、主イエス、そして師イエスとお呼びすることを学びました。今、もう一つの呼び方を知りました。友イエス。私たちの友だちでるイエス。何と嬉しい呼び名でしょうか!
友である私たちに主イエスが命じるのは、「私があなたがを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということです。互いに愛し合うなら「あなたがたは私の友である」と主は言われます。
息子や娘を見ていると、次々に友達を作っていくことが少しうらやましくなります。大人よりも子どもの方が世界が広いのではないかとさえ思う。損得を考えないで人と付き合うことができる分、子どもの方が上等なのではないかと思います。
主イエスが私たちを友と呼んでくださるとき、主は私たちを友とすることがご自分にとって得なのか損なのかということは計算なさいません。計算していたら、私なんかとは付き合わないでしょう。だから、主は言われるのです。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と。この方は私との付き合いで得があるどころか、友と呼ぶ私のためにご自分の命まで捨ててくださった。そうやって、私の友になってくださいました。
私たちは主イエスの友であるからには、主がしておられることを知っているはずだとイエスは言われます。主イエスが父から聞いて私たちに伝えてくださったこと、それは、神が私たちのためにご自分の独り子をも与えるほどに愛してくださったことです。父の愛の御心、イエスの私を友と呼んでくださる愛、キリストは私たちに神の愛という真理を伝えてくださいました。
「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。私たちがイエスを友と呼んだのではなく、主が私たちを友と呼んでくださいました。友よ、というイエスの呼び声が、私たちを神の愛の中に、キリストの喜びの中に招き入れてくださいます。

2020年11月11日水曜日

2020年11月11日(ヨハネによる福音書14)

ヨハネによる福音書14
「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」

聖霊なる神様。このお方は、私たちにキリストの言葉を思い起こさせてくださいます。私たちがキリストの福音を聞き、それを信じ、そして福音の言葉に生きることができるのは、聖霊が私のうちに働いてくださっているから。主イエスはそのように言われます。
自分という人間を正直に内省してみると、神様を信じてるはずの信仰や主イエスへの愛、そういうものへの自信がなくなってしまいます。自分の不確かさや弱さばかりが目に付きます。聖書に書いてあること、教会で聞かされる言葉と自分の現実とのギャップに苦しくなることもあるかもしれません。しかし、私たちは、その点で心配してはならないのです。信仰は私の決心や心の強さや高潔な生き方の問題ではなく、聖霊が私のうちに働いてくださっているという事実に基づくからです。そして、聖霊が私のうちに働いてくださっているというのはキリストが約束してくださった現実であって、私たちはそれを信じるだけです。信仰は、神を信じて神を仰ぐことです。
キリストが私たちに語りかけ、聖霊が私たちのうちに根付かせてくださる福音は、平和の福音です。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」この世が与える平和は、実は平和と言うよりも安心だったり、安全だったりするのだと思います。力によって保証したり、甘言で現実をみせなかったりします。主イエスは、ご自分の平和をそのようには与えない。キリストの平和は、聖霊が思い起こさせるキリストの言葉のうちにあります。キリストの言葉、それは私たちのためにご自分の独り子をも与えてくださった神の愛を証言する福音の言葉です。私たちは不確かですが、神の愛は確かです。

2020年11月10日火曜日

2020年11月10日(ヨハネによる福音書13)

ヨハネによる福音書13
「それで、主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。」

少し前にもご紹介しましたが、マルチン・ルターは95箇条の提題の冒頭で、主イエスを「私たちの主であり師であるイエス・キリスト」とお呼びしています。今日の主イエスさまご自身のお言葉が典拠になっています。私たちはイエスを主とお呼びすることは普段からしていますが、この方は私たちの主であるだけではなく、師です。お師匠さまです。いかなる意味において師匠でいらっしゃるのか。イエスご自身が明確に言っておられます。「それで、主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。」このお方は、私たちが互いに足を洗い合うことにおける師匠です。
主イエスは、弟子たちの足を洗ってくださいました。足を洗うのは奴隷の仕事でした。家に主人が帰ってくると奴隷が桶に水を汲んで出迎え、主人の足を洗い、手ぬぐいで拭き取ります。主イエスは弟子たちの奴隷になって、身をかがめて足を洗い、ご自分の腰に巻いた手ぬぐいでその足を拭いてくださったのです。
その時の主イエスのお心をヨハネは「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」と伝えています。この人も主イエスに足を洗っていただいた。イエスを裏切ったイスカリオテのユダもいました。この席上で、主イエスはユダの裏切りを予告し、ペトロの裏切りを予告しました。しかし、主イエスの最後まで貫かれた愛は弟子たちの裏切りによってなくなってしまうことがなかった。主イエスは、彼らの前に身をかがめて足を洗ったのです。
主イエス・キリストは、私たちの師匠。愛の師匠です。へりくだりの師匠です。奴隷としての模範を示してくださった師匠です。私たちはキリストに倣って、互いに愛し合い、互いに仕え合う奴隷になります。キリストがしてくださったように。
私たちはしょっちゅう愛において失敗します。時に、取り返しのつかない失敗もしてしまいます。しかし、そんな私の足を洗うことを、主イエスは拒否なさらないのです。私のことをも、愛して、最後まで愛し抜いてくださるからです。このキリストの愛が、私たちの今日一日に先立っていてくださいます。

2020年11月9日月曜日

2020年11月9日(ヨハネによる福音書12:20〜50)

ヨハネによる福音書12:20~50
「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らわれることがないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

光について、この福音書では第一章で「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」と言っていました。この光は、主イエス・キリストのことです。キリストは、世を照らす世の光。すべての人を照らしてくださいます。だから、闇に捕らわれることがないように、光のあるうちに歩きなさいと言われます。
「光のあるうちに」と言っています。言葉を換えれば、やがて光が見えなくなってしまうときが来るということでしょう。一つには、主イエスが十字架にかけられるときということであろうと思います。そして、私たちが今は暗い夜だと言わざるを得ないときが必ず来る、ということでもあるのだと思います。今もそういう時代なのかもしれません。再び急速に闇が深まっている気さえします。以前はいろいろなことがありながらも世界はやがて良い方向に向かっていくのだろうというようなある種の楽観的な世界観が広く共有されていたように思います。しかし、今の時代にそういう意味での楽観的な世界観を持つ人はあまり多くないのではないのではないでしょうか。そういう意味では、闇の時代に入りつつあるという感覚が現代を覆っているように思います。
もしもこの世界を闇が覆っているのだとしたら、それは私たちの罪の闇ではないでしょうか。「闇に捕らわれることがないように」と主イエスは言われます。闇は私たちを捕らえる。罪の闇は私たちの感情に魅力的に訴えかけてきます。利己心や差別心は、恥ずかしくて表立って人に見せることはできないけれど、自分を守るためには心地よいものです。闇に捕らわれないために、私たちはキリストの光の中を歩みます。
佐藤鶴子さんが日本に帰ってきたとき、子どもたちに賛美歌を教えてくださいました。「歩こうみんな共に、神の光の中」と歌います。私たちは孤独に耐えながらキリストの光を探すのではなく、仲間たちと共に、キリストの光の中を歩んでいきます。神の光の中に照らされて、私たちは共に歩んでいく。光の子として、光の中を歩きます。光の中を歩いていれば、自分がどこを歩いているか分かります。罪の闇を恐れる必要はない。私たちの今日という一日は、神の光の中で照らされています。

2020年11月8日日曜日

2020年11月8日(ヨハネによる福音書12:1~19)

ヨハネによる福音書12:1~19
「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。」

ベタニア村での出来事です。ここにはマルタとマリア、そしてラザロの一家の住まいがありました。「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」。一家にとって今回の主イエスの出来事は、本当に忘れることのできないものになったはずです。病のために死んだラザロを主イエスが甦らせてくださった。マルタは本当に心を込めて主をお迎えし、ごちそうを準備したことでしょう。主イエスへの愛のもてなしをしたに違いありません。
ラザロは主イエスと一緒に食事の席に着いていました。どんな感謝の言葉を伝えていたのでしょうか。そして、ここにはもう一人、主イエスのために愛を込めてもてなした人がいる。マルタの妹のマリアです。「その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りで一杯になった」。巻末の度量衡を見ると、一リトラは約326グラム。香油としてはかなりな量なのではないかと思います。しかも、ただの香油ではなく「純粋で非常に高価なナルドの香油」と書いてあります。ユダは300デナリオンで売れると言います。労働者の年収に相当するような額です。マリアにとっては、あるいは家族にとって、文字通りの宝物だったに違いない。その香油をマリアは惜しげもなく主イエスの足に注ぎかけました。そして、自分の足でそれを拭った。マリアの主イエスへの愛、そして弟を救ってくださったことへの言葉にならないほどの感謝が伝わってきます。
ところが、何でそんなことをしたのかユダには理解できませんでした。ラザロの復活の場面に一緒にいたはずなのに。金に換えて貧しい人に施せば良いと言いますが、結局は一同の旅の資金をごまかしていたという自分の不正が背景にあっての言葉に過ぎなかったようです。ユダにとって、愛は金に勘定できるものでした。愛は自分の不正を隠蔽するという動機の前に意味を持ちませんでした。しかしマリアは、あるいはマルタも同じですが、イエスへの愛はお金には換算できず、自分の真心をもってお返しすべきもの、そのために自分の宝を差し出すほどのものだったのです。
主イエスはマリアの愛を受け止め、マリアのしたことにご自分の埋葬のための準備だという新しい意味を付してくださいました。私たちの小さな愛をもキリストは受け止め、主イエスさまのための業として、新しい意味を与えてくださいます。主がお喜びくださるのは、純粋な主イエス・キリストへの愛に他ならないのです。

2020年11月7日土曜日

2020年11月7日(ヨハネによる福音書11:45~57)

ヨハネによる福音書11:45~57
「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」

ヨハネによる福音書を読んでいると、季節の変化が分かります。例えば、7:2に出てくる「仮庵祭」は秋の祭りです。10:22には「その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」と書いてあります。さらに今日の第11章の55節には「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」とありますが、これは春分に祝われる祭りです。
今挙げた季節の移り変わりは、恐らく同じ一年の中の出来事です。秋から冬になり、やがて春を迎える。この春の過越祭のとき、イエスは十字架にかけられることになります。そうやって「時」が迫ってきている中で、主イエスを取り巻く状況について告げているのが今日の聖書の御言葉です。
「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を招集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになるそして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう。』」彼らがそう言うと、大祭司カイアファは「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言います。こうして、イエスを殺すということが最高法院の共通見解になったのです。「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」
秋から冬、そして春を迎えるにあたって高まったのは、イエスへの殺意です。イエスへの憎しみです。なぜ、そこまで憎まれたのか。最終的なきっかけになったのは、ラザロの復活の出来事です。主イエスはラザロに命を与えた。ラザロだけではなく信じる者には誰にでも命を与えると宣言した。そのために、イエスは憎まれ、殺されようとしている。命の言葉をはっきりと継げたとき、イエスご自身が殺されることになった。聖書はそう証言しています。
従って、カイアファの言葉は本人の意図とはまったく違うところで真実になりました。「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む」。まさに、私たちはたった一人のイエス・キリストが私たちに代わって死んで、私たちは滅びないで済んだのです。神様の不思議な御業が、ここに起こりました。

2020年11月6日金曜日

2020年11月6日(ヨハネによる福音書111:17~44)

ヨハネによる福音書11:17~44
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

ラザロの復活の出来事は、四つの福音書の中でもヨハネによる福音書にしか書かれていない出来事です。この福音書を書いたヨハネは、この出来事をどうしても知ってほしいと願ったのでしょう。ヨハネによる福音書は四つの福音書の中でも一番最後に書かれたものであると考えられています。およそ西暦90年頃のこと。エルサレムの神殿は20年ほど前に戦争で焼失し、キリスト教会はユダヤ社会から追放され、迫害の嵐の中に苦しんでいた時代。そういう時代を背景として、この福音書は書かれました。その時代に生きるキリスト者に、ヨハネはこのラザロの復活の出来事を報告したのです。この奇跡がしるしとして証言する福音をどうしても信じてほしい、と願ってのことです。
主イエスは言われます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」何もかもが崩れた時代、社会からも追い出され、信仰のために迫害に遭っていました。殉教する仲間が大勢出ていました。「私は復活であり、命である。」そのように宣言する主イエスの御声は、特別な響きを持っていたに違いありません。私たちも、同じ主イエスの言葉に聞いています。
ラザロは死にました。もう四日も経った。マルタもマリアも悲しみ、泣いていました。もし、もっと早く主イエスが来てくださっていたら・・・。そう思うと、その悲しみはなおのこと大きかった。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」この言葉は、私たちにもよく分かります。
主イエスは言います。「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか。」あくまでも私たちが信じることを主イエスは望んでおられます。例えどんなに悲しんでいても、絶望せずに信じることを。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエスは、私たちにも尋ねておられます。このことを信じるか、と。私たちの命も死も越えた、キリストのもたらす命の福音。これを信じるか?信じるなら、神の栄光を見る。「ラザロ、出て来なさい」という主イエスの呼び声を私たちも聞き、出てくることになる。主イエスは私たちにそう言われます。

2020年11月5日木曜日

2020年11月5日(ヨハネによる福音書11:1~16)

ヨハネによる福音書11:1~16
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

エルサレムからそれほど離れていない場所にベタニアという村がありました。そこにマルタとマリアという姉妹がいた。彼女たちのことは他の福音書にも書いてあります。主イエスを家に招き、お迎えして食事をしていただいただけに、とても親しい弟子たちであったのでしょう。彼女たちにはラザロという兄弟がいました。ラザロがは気でした。死に至る病を煩っていた。そこで、愛する弟のためにマルタとマリアは主イエスに助けを求めました。「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」それを聞いたらすぐに主イエスが駆けつけてくださるものと期待していたに違いない。ところが、主はなかなか来てくださいませんでした。「ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じところに滞在された。」どうして主イエスは早くラザロのところに行こうとなさらなかったのか。しかも不可解なのは、主ご自身が「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」と言い、弟子たちがただ単に眠っているだけだと勘違いしたときに「ラザロは死んだのだ」とはっきりと言っておられるのです。弟子たちよりも深くラザロの身に起きていることを知りながら、それでもすぐにベタニア村へ行こうとはなさらなかった。不可解なことです。
主イエスがその理由を言っています。「私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」あなたがたが信じるため。それが理由だと言われる。
思えばこの福音書ではいくつかの主のなさった奇跡が記録され、そのたびに、何人かの人がイエスを信じたという描写がありました。しかし、そこで信じた人たちの多くがその直後につまずき、却ってイエスへの憎しみをあらわにしてきました。信じると言っても本当に信じたのではなく、凄い奇跡を見て好感を持ったということだと思います。結局その奇跡のしるしとしての意味を理解しようとしないので、主イエスが神の子であるということを言うと、最後はイエスを拒んだ。そういうヨハネによる福音書の中で、このラザロの出来事は奇跡の中の奇跡、しるしの中のしるしです。このしるしによって、私たちはイエスが神の子として死を打ち破る力を持っておられることを知るのです。この病は死に至る。しかし、主イエスには「この病気は死で終わるものではない」と言うことができ、死を乗り越えることができる。弟子たちはこのしるしを目撃し、主イエスを神の子として信じることになる。だから、この出来事はあなたたちにとってよかったのだ、とイエスは言われます。
私たちの人生の目標は、主イエスと出会うことです。私たちに怒るさまざまな出来事を通して、主イエスは私たちと出会い、ご自分を神の子と示しておられる。その語りかけを聞き信じる人は、幸いです。

2020年11月4日水曜日

2020年11月4日(ヨハネによる福音書10:22〜42)

ヨハネによる福音書10:22~42
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。イエスは言われた。「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」

ヨハネは高まりゆく人々の殺意を隠すことなく私たちに伝えています。人々は石を握りしめ、主イエスを殺そうとした。これが初めてのことではありません。以前にも、同じように人々は怒りに燃えて石を手にしました。なぜ、イエスはそこまで憎まれたのか。主イエスご自身が問うておられます。「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
この福音書では、カナの婚礼のときの出来事から始まって、38年間病気だった人を癒やしたり、5つの大麦パンと2匹の魚で5000人の大群衆を養ったり、生まれつき目の見えない人を癒やしたり、主イエスはいろいろな善い業を行ってきました。それらはしるしです。単に凄い奇跡を起こして人々を驚かせるということではなく、その善い業に込められたメッセージがあったのでした。それはこの方、イエスこそ神のもとから来た子なる神、私たちのための神の愛そのものだ、というメッセージです。奇跡はメッセージのしるしです。
ところが、ユダヤ人たちはイエスに言いました。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」イエスを石で打ち殺そうとしたのは、イエスが自分を神として神を冒瀆しているからだ、と言うのです。まさにイエスがしるしによって伝えようとしたそのメッセージを理由として、彼らはイエスを殺そうとした。
これは、私たち人間にとって神様がいかに邪魔な存在だと思われているか、ということの証拠だと思います。イエスはまさに神の子でいらっしゃるから、それが理由で殺されようとしている。何か凄い奇跡をするだけの人だったら、殺されることはなかったでしょう。しかしその奇跡に込められた神の子としてのしるしを感じ取った瞬間に、私たちはこの方を殺すのです。神様が邪魔だから。
しかし、私たちに命を得させてくださるのは、この神様です。私たちが生きること、互いに愛し合うこと、キリストの愛によって平和を得ること。この神様は私たちにそういうことを望んでいてくださる。本当に暖かい方です。私たちが生きることのできる場所はここにある。だから、悔い改めつつキリストの御許に帰りましょう。

2020年11月3日火曜日

2020年11月3日(ヨハネによる福音書10:1〜21)

ヨハネによる福音書10:1~21
「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。ーー狼は羊を奪い、また追い散らす。ーー彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」

主イエスは言われます。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」しかし、そんな羊飼いなんているのでしょうか。狼が襲ってきたときに羊のために自分を身代わりにして羊を救う羊飼い。そんな羊飼いは実際にはありえません。主イエスは羊を見捨てる羊飼いは雇い人であって、羊が自分の羊ではないから見捨てるのだ、と言われます。しかし、例え自分の大切な羊であっても、羊のために自分の命を捨てる羊飼いなど、ありえないことです。主イエスが言われる羊飼いは、私たちの常識からしたらまったく規格外の存在です。
主イエスは言われます。「私は良い羊飼いである。」「私は羊のために命を捨てる。」羊のために命を捨てる良い羊飼い、それはイエス・キリストです。このお方こそ、私たちをご自分の羊として飼い、養い、私たちが狼に襲われたならばご自分の命を捨てて私たちを守り、救ってくださる良い羊飼い、私たちの常識に当てはまらないほど慈悲深い羊飼いです。
羊飼いである主イエス・キリストのみ声は、聖書に記されています。私たちはキリストのみ声に聞きます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いていく。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」私たちは、主イエスではない悪い羊飼いの声を慕って、それに付いて行ってしまうようなことがないでしょうか。悪い羊飼いは、私たちのために決して命を捨てません。一時的には魅力的に映っても、本当に私たちの魂を養い、生かすお方は、私たちのために命を捨ててくださる良い羊飼い、イエス・キリストをおいて他にはいないのです。
キリストが、私たちを養ってくださいます。今日も、そのみ声によって。神の愛を私たちに現してくださったこの方こそ、私たちを平和の内に生かしてくださる、まことの羊飼いです。

2020年11月2日月曜日

2020年11月2日(ヨハネによる福音書9:24~41)

ヨハネによる福音書9:24~41
「イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった。彼と出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。『主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』」

生まれつき目の見えない人を見えるようにした。主イエスのなさったしるしです。この奇跡がきっかけになって、この人は元いた世界から追い出されることになりました。他の人と同じようにイエスを呪わなかったからです。この世界は神を憎み、イエスを憎むことによって連帯している。そして、その憎しみを共有しないものを排除し、追い出す。そういう世界です。
ルカによる福音書に伝えられている失われた息子も、そこに急所があります。彼の問題の急所は放蕩の限りを尽くしたとか破産したとか、そういうような倫理的な問題、あるいは成功者になれなかったという失敗ではありません。この譬えの父の姿に託されている神を捨てたことが問題の本質です。その意味で、やはり父への憎しみに生きていた兄息子もまったく同じように失われた存在ました。
ヨハネが伝える生まれつきの盲人が生きてきた世界も、神を憎む世界です。イエスが神の真理を現すと排除し、それを信じる者を追い出す世界です。しかしこの盲人だった人は、この世界から追い出されたところでイエスと出会い、信じました。ただ自分の目を治してくれた奇跡を行う人としてではなく、人の子であるイエスを、神の子であるイエスを信じたのです。この世界の外で。そしてイエスと出会ったとき、彼は本当の意味で「見える」人になりました。神の子イエスを見るためにこの目が開かれたのだと知ったからです。
私たちは、見えているでしょうか。「その方を信じたいのです」と願う私たちの祈りを、主イエスは必ず聞き入れてくださいます。キリストを信じる信仰を私たちに必ずくださいます。私たちの目を開いてくださいます。私たちが、主イエス・キリストを見つめるために。

2020年11月1日日曜日

2020年11月1日(ヨハネによる福音書9:1〜23)

ヨハネによる福音書9:1~23
「私は、世にいる間、世の光である。」

主イエス・キリストは世の光。この世を照らす。第1章では主イエスについてこのように言っていました。「言葉の内に成ったものは、、命であった。この命は人を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」イエス・キリストという光は、暗闇の中で輝いています。この世が闇だから、それを照らすために。
この第9章には生まれつき目の見えない人が登場しています。弟子たちはイエスに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」残酷な問いです。しかし、私たちの間ではありふれた問いでもあると思います。そこにいる一人の人の苦しみや悲しみを無視して、自分の世界を平穏に保ちすべてをうまいこと説明してみせるための材料にしてしまう。こういうところにも端的なかたちでこの世の闇の有り様が表出しているのではないでしょうか。
イエス・キリストは、私たちの思いやりのなさが生み出す世の闇の中で輝く光です。私たちを照らし、光の中におくために、キリストという光が輝いています。
主イエスは言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」この言葉こそ、私たちを照らす光ではないでしょうか。罪の報いのために自分に不幸が見舞っているのではないか。私たちはそう思ってしまう。それくらいしか、この苦しみに説明をつけようがない。あるいはあの人が不幸なのは自業自得だと言ってのける。自分は違うと思い込むために。しかし、キリストはまったく新しい光を当ててくださいます。「神の業がこの人に現れるため」と。
この人は見えませんでした。しかしキリストと出会って、見えるようになりました。この人は生まれつき闇の中で生きてきました。しかしキリストという光の中で見ることができるようになりました。これは、私たちの物語です。私たちのためにも、神の業は現れる。しかしそれは不治の病が治るということだとは限りません。しかし肝心なことは、その出来事を通して私たちがキリストという光の中で生かされていることに気付き、神の業の中に自分を発見することです。私たちの今日一日も、キリストという光の中に置かれています。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...