2018年7月29日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章26から31節「キリストを誇りとして」

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」わたしには、この「兄弟たち」という小さな呼びかけに、パウロの息づかいが聞こえてくるような気がします。これは前の節を受けての言葉です。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」神の愚かさだとか神の弱さだとか、一体何のことを言っているのか?それを知るために、「あなたがたが召されたときのことを思い起こしなさい」と呼びかけます。兄弟たちへの呼びかけ、愛を込めた呼びかけです。コリントという町は、当時、奴隷がとても多い町でした。奴隷を使って生活していた者よりも、奴隷の方が張るかに多かった。そして、教会のキリスト者にも、奴隷が多かったのです。あなたたちが神に召されてキリストと出会い、信じたのはなぜなのか。人に世これる知恵があったからか、家柄が良かったからか。そうではなかったでしょう、と言います。この時、パウロは自分のことをもふり返っていたのかも知れません。パウロ自身は、ユダヤ人の中では家柄もしっかりとし、高等教育を受けた知識人でした。それだけではなく勤勉で、信仰者としても誇れる人生を生きてきました。しかし、キリストを知ることがあまりにもすばらしく、そういうこれまでは自分にとってプラスだと思っていた一切のことを今や糞尿のように思っていると言い切ります。かつてパウロは自分の信仰の熱心のあまりに、キリスト者を迫害していました。イエスを信じる者を縛り上げていました。ところが、ダマスコという町へ向かう途上で復活のイエスと出会います。神さまにとって、自分が以下に無価値な人間なのかを思い知らされることになりました。いや、ただ「価値がない」というのなら±0ということかも知れませんが、パウロはむしろマイナスの存在でした。無価値と言うよりも反価値とでも言うべき存在です。ところが、そんな私にキリストは出会い、召し出してくださった。パウロはその原点を思い出していたのかも知れません。あなたたちも同じ、神さまの前で何ものでもない自分を神が選んでくださって、呼び出して、御自分のものにしてくださったではありませんか、と呼びかけています。実際、コリント教会には奴隷がたくさんいました。貧しい者が多かった。世の中にある社会集団で、世の信用が高く、一目置かれるとしたら、名士が集まっているとか、社会の中で一定の評価を受けた人が多いとか、そういうことによるところがあるのかもしれません。ところが、教会はそうではなかった。無に等しく、卑しめられている人が集まってきた。それは、神さまご自身が、イエスを十字架につけて私たちを救うという愚かな方法をとられたからです。神さまの御前で、だれ一人として自分を誇ることがないように。誇りは多くの場合人間関係を損ないます。コリント教会で起こっていた分派争いはその典型であるのかもしれません。でも、本当は、神さまの前で誇ることはできない。反価値でしかない私を選んで、招いてくださったのは神さまだからです。神さまにも隣人にも、誇ってみせられる自分の良さなど本当はないからです。しかし、そんな私をキリストが救ってくださった。ですので、私に誇れるものがあるとすれば、私のために十字架にかかってくださったキリストだけなのです。

2018年7月26日木曜日

詩編第119編97から104節「御言葉をどこまでも愛して」

「わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」この一途な愛。これを私の愛としてくださいと祈る。「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」この当時蜜はどんなに貴重だったのかと思う。それよりも甘い。そして、それは「英知」を得させる。まさに、神の愚かさたる十字架の言葉こそが私たちの知恵なのだ。十字架の言葉に私たちの救いがある。

2018年7月22日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章18から25節「愚かな言葉が世界を救う」

「十字架の言葉」という言葉から、今朝の御言葉は始まっています。更に、21節を見ると、「神は、宣教という愚かな手段で信じる者を救おうと、お考えになったのです」といわれています。この「宣教」という言葉は、説教と訳すこともできる言葉です。十字架を語る説教によって、神さまは信じる者を救おうとなさいました。本当に、愚かな手段だと思います。一人の人間の口に、神さまがご自分の独り子の命を懸けてくださった救いの御業を預けてしまわれるのですから。神さまは、愚かな手段をお選びになったと思います。しかし、神さまはその愚かさをお喜びになりました。不思議なことです。しかし、確かに、私も、十字架の言葉によって救っていただきました。この救いを世界が待ち望んでいると信じて、今日も、聖書の御言葉、福音の言葉に傾けて生きたいと願います。
今朝の御言葉を繰り返し読んで、私が強く思い出した主イエスの譬えがあります。先週の水曜日の教会祈祷会で読んだところです。ルカによる福音書12:13-21の愚かな金持ちの譬え話です。ある人が主に願いました。私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください、と。主は、「貪欲に注意しろ」といいながら、譬えを話し始めます。ある金持ちの畑が豊作で、倉に入りきりません。彼は、倉を壊して新しいのを建てようとし、こう言います。これから先何年も生きていくだけの蓄えができた。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ、と。しかし、その夜の内に彼のいのちは取られます。神は言われます。「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と。そういう譬え話です。これは、私たちの感情を逆なでする物語です。どう読んだら良いのか、当惑する話です。しかし、今朝のコリント一の御言葉が、そのヒントになるように思います。あの金持ちは、豊かになったとき、これまでのキャパシティではそれを収められないと分かり、もっと豊かになるための倉を建てました。これは私たちの常識とも合致する振る舞いだと思います。右肩上がりに成長することが進歩だ、という価値観です。そんな彼は、自分の命がどこから来てどこに行くのかを顧みず、神さま抜きでやっていけると思っていました。でも、それは愚かな考えだと主イエスは言われます。神さまは、ご自分が小さく、貧しくなることで私たちを救おうとされます。神さまは小さくなられ、ご自分が屈辱を受けることで私たちを救おうとなさいます。それは、私たちから見たら心がざわつく、常識外れで奇妙な救いなのかも知れません。19節に旧約の引用があります。イザヤ書29:13-14。この背景になっているのは紀元前八世紀のイスラエル。周辺諸国の安全保障環境が悪化し、軍事同盟の締結によって生き延びようとします。ところが預言者イザヤは、静まって神さまにもう一度立ち帰ろうと呼びかけますが、王は口先だけ神を求めても実際には軍事同盟に頼る政策を打ちました。これも愚かな金持ちと同じく、常識的な振る舞いだと思います。しかし、結局神を信じるというのは建前だけのことで、本音では別のものを頼って生きていました。この世の知恵では、大きくなることや右肩上がりや強くなることにしか価値が見いだされないのです。しかし、神さまはご自分が弱くなり、侮辱され、十字架にかけられることで私たちを救おうと決断されたのです。神さまは十字架に隠されています。しかしこの十字架の言葉が世界を救う。神の愚かさが私たちを救うのです。

2018年7月19日木曜日

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心と生き方を、神とその御言葉に向けたい。神を信頼し続けたい。この苦しみは一時のものだが、神の御言葉はとこしえなのだから。

2018年7月15日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章10から17節「心を一つに、思いを一つに」

コリントの信徒への手紙は、使徒パウロがコリントにある教会へ宛てて書いた手紙です。とても長い手紙です。読んでみてすぐに分かることは、パウロは、喜んでこの手紙を書いているわけではないということです。むしろ、パウロの悲しみが伝わってきます。コリントの教会には、パウロが手紙を書かないといけない事情がありました。この教会は、今、分裂していた。それが致命的な傷になりかねない。その危機感がひしひしと伝わってきます。一体、何が起きていたのでしょうか。コリント教会は、分裂していました。パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派ができていたようです。そもそもこの教会は、パウロが1年半にわたってこの町に滞在して、伝道して、生まれた教会でした。パウロの信仰、その使命感に触発されて信仰を抱いた人は多かったのでしょう。パウロがコリントを離れた後、すぐにアポロという人がやってきました。教養の高い雄弁家であったようです。名説教者でした。パウロは手紙のイメージとは違い、直に合うとそれほど口上手ではなかったようです。アポロ人気が高まりました。ケファというのは、ペトロのことです。コリント教会とペトロとの関係はよく分かりませんが、主イエスの一番弟子と目され、しかもエルサレム教会のリーダーです。自分たちこそ本家本元という思いを込めて、ケファにつくという人もいたようです。すると、本当の信仰とはこれだと言わんばかりに、キリスト派を名乗る者たちが現れた。教会は、混乱していました。更に問題を複雑にしていたのが、洗礼です。私は○○先生から洗礼を受けた、◇◇先生の時代からのメンバーだ…ということを誇りとし、教会の一致が損なわれ、何よりも大切なことが見失われていった。何よりも大切なこと、それは、言うまでもなく十字架にかけられたキリストです。どうして、キリストを見失ってしまったのでしょう?そのヒントが、10節にあると思います。後半を直訳すると、このようになります。「あなたたちは皆一つの事を話すように。そしてあなたたちは分裂しないように。一つの心、一つの思いによって、修復するように。」この修復というのは、網を「繕う」という字です。破れたものを縫い合わせる。一つの言葉、一つの心、一つの思いによって。このひとつの言葉というのは、同じ源泉を共有していることだと言っている人がいました。教会を開拓したパウロとの思い出や彼個人の信仰の姿、アポロの雄弁や賢さ、ケファのリーダーとしての地位や人間的魅力、それらがどんなに素晴らしいものであったとしても、教会の一致の源泉にはなりません。私たちにはとても魅力的に映りますが、教会の一致はそのようなところに基を置くことができない。私たちが互いに語り合うひとつの言葉、一つの思いや一つの心、それは十字架のキリストです。一体誰が、私たちのために十字架にかけられたのでしょう。私たちは、誰の名によって洗礼を授けられたのでしょう。私たち教会には、キリストしかないのです。自分たちの由緒正しさを証明するためのキリストではありません。私たちが、キリストが十字架にかかってくださらなければ救われようのない、どうしようもない罪人だからです。ただその事実の前に頭を垂れることでしか、教会が一致することはできないのです。私たちも、十字架の下に帰りましょう。罪を告白し、主よ救ってくださいともう一度祈りましょう。そこで、私たちは一つになります。

2018年7月11日水曜日

詩編第119編81から88節「絶え入る私を、救ってください」

「傲慢な者はわたしに対して落とし穴を掘りました。」「この地で人々はわたしを絶え果てさせようとしています。」そのようなとき、私たちは実際のところどこに救いを求めるのだろうか。好いアドバイスをしてくれる人にか、一時の憂さ晴らしにか。「わたしの魂はあなたの救いを求めて絶え入りそうです。」他の何よりも確かに、弱った私を救うのは神の救い。その御言葉。私たちも、そのことを確信しよう。この方には私たちを救う力があるのだ。

2018年7月8日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章4から9節「神は真実な方です」

ルカによる福音書10:17-20に、主イエスに派遣された72人の弟子たちが帰ってきたときのイエスさまとのやりとりが記録されています。彼らは華々しい成果を上げてきたようです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」悪霊は人間の力を越えた存在ですが、主のお名前は更に力強かった。特別な経験です。喜んで主に報告した。しかし、イエスさまは言われます。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」弟子たちは自分たちのしたことや成果を喜びましたが、主イエスはむしろあなたたちが何ものなのかを思い出して、そのことを喜べと言われます。すなわち、神に覚えていただいていることを。今朝のパウロの手紙は、感謝から始まっています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」神の恵みがコリント教会の人々に向けられたことを感謝している。神さまが恵み深く教会を覚えていてくださっているという現実からスタートします。あの時の弟子たちは、いわば自分たちのDoingを誇っていましたが、主イエスは神にある新しいBeingを喜べと言われます。パウロの感謝も同じです。教会とは何ものなのか?キリストにある神の恵みを頂いている者たち。そのことを、パウロは神さまの前で感謝しています。私たちは、どうでしょうか?神さまの前で、感謝から始めているのでしょうか?コリント教会の現状は、パウロの目から見て、決して簡単なものではありませんでした。5節には言葉と知恵とあります。この教会は言葉においても知恵においても混乱していました。礼拝の時に、他の人には理解できない神秘的な祈りをしている者がいました。哲学が盛んな町です。知恵に富む者がいて、そうではない者との間に軋轢がありました。しかし、その困った現実を見つめながら、パウロはまず感謝することから始めています。あなたがたの言葉や知恵を豊かにしてくださったのは神だ、と。私たちは不平不満の天才です。自分の理想通りではない現実を見て、いつもどこかで不平不満を抱えている。それは、自分の成果や理想、あるいは上手くいかなかった挫折感や理想と矛盾する現実への失望から始めているからです。しかし、私たち教会は、本当は何ものなのか?私たちに言葉を与え、知恵を与えたのは、しかも豊かに与えてくださったのは神だと言うのです。神がそのように働いてくださった。そういう神のアクションから始めたときに、そこに感謝が生まれるのです。私たちのありようが修正されるのは、恐らく、自分がどこを目当てに生きているのかという生きる目的が明らかになるときだと思います。7節を見ると、「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」とある。キリストを待ち望む。それが、私たちの生きる目当てです。幼心に、明日、我が家で教会の集会があると家が片付いていた記憶があります。誰を迎えようとしているのか、ということが家での過ごし方も修正します。私たちはキリストを迎えるために生きている。そのことに気づくと、私たちの生き方も、変わり始めます。私は一人の信仰者としても一人の人間としても全く不真実です。しかし、神はそうではない。「神は真実な方です。」だから、この方に依り頼みましょう。それが、私たちキリストの教会の姿です。

2018年7月5日木曜日

詩編第119編73から80節「主の御もとに立ち帰ろう」


「わたしを偽りによって迷わせた傲慢な者」がいた。そして、この信仰者は迷ったのだろう。主を畏れる人は自分の側から離れ去ってしまった。しかし、今や立ち帰ったのである。「あなたを畏れる人はわたしを見て喜びます。わたしが御言葉を待ち望んでいるからです。」これは失われた一匹の羊自身の祈りなのだ。「わたしの心があなたの掟に照らして無垢でありますように。」主のものとして生きていきたい。それが我らの祈りなのだ。

2018年7月1日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章1から3節「聖なる人への手紙」

わたしは姉妹教会の希望が丘教会附属の幼児園に三歳の時から通っていました。それが切っ掛けで教会に行くようになりました。ですので、初めて教会に行った日のことは覚えていません。それから引っ越ししたこともあり、小学生のころは家の近所にあった相模原南教会という教会へ行きました。5年生の時から、やはり姉妹教会の高座教会に行くようになりました。そして、そこで、15歳の時に洗礼を授けられました。キリスト者になりました。たくさんの人と出会い、信仰に導いていただきました。全然礼拝に顔を出さなくなったわたしを誘い続けてくださった谷中先生、信仰者として生きる喜びを見せてくださった、今は牧師の仲間であります平先生。その後も、たくさんの教会の仲間と出会いました。神さまは、そうやってわたしのことを呼んでくださったのです。「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と、パウロはこの手紙の宛先のコリント教会の人たちを呼んでいます。この「召された」という言葉は、呼ばれた、という言葉です。誰に呼ばれたのか?神さまに、です。神さまが呼び出してくださって、聖なる者としてくださったのです。今日から、このコリントの信徒への手紙一を少しずつ読んでいきます。読むとすぐに分かることは、コリント教会の現状は、とても「聖なる者たち」とは言えないような有り様だった、ということです。教会の中には分裂と党派争いがありました。この手紙を書いているパウロを軽んじたり、軽蔑したりする者もいたようです。ところが、パウロは、迷うことなく彼らのことを「聖なる者」を呼びます。神さまが、そう呼んでおられるからです。この手紙を受け取っているのは、「コリントにある神の教会」です。「教会」という言葉は、ギリシア語ではエクレーシアと言います。元々は集会とか議会とかいう意味の普通の言葉で、特に宗教的な意味はありません。でも、彼らは神のエクレーシア、神の集会、神に呼ばれて集まってきた人々。もちろん、このエクレーシア(教会)は、建物という意味ではありません。呼び集められた人々、その集団のことです。コリントの町にはいろいろな集会(エクレーシア)があったはずです。議会もあり、さまざまな集団もあったことでしょう。どうして、彼らは神のエクレーシアと呼ばれたのか。神が呼び集めてくださったからです。だから、「至るところでわたしたちの主イエス・キリストを呼び求めて」いました。それは、私たちの信仰生活そのものです。神が呼んでくださったから、今朝も私たちは礼拝を献げている。神が呼び集めてくださったから、私たちは今神さまのお名前を呼んで祈っています。それは、「イエス・キリストはこの人たちとわたしたちの主」だからです。コリント教会のキリスト者達は、皆が求めている繁栄を主とするのでも、この町を植民地支配しているローマ皇帝を主とするのでもなく、イエス・キリストを主と信じていました。だから、パウロは言うのです。私たちの絆はその一点だけではないか、キリストを主と告白し、礼拝するために私たちは召されたのではないか。その原点に立ち帰って、キリストの内に一つの教会に戻ろう、と。パウロ自身、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒」になりました。神に呼ばれたこと以外に立つべき場所はないし、そこに立つ使徒だからこそ、どんな時にも諦めずに福音の側に立ち続けたのです。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...