2020年4月30日木曜日

2020年4月30日(ルカによる福音書7:24〜50)

ルカによる福音書7:24~50
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席についておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。」
主イエス・キリストの足元で涙を流し、その足を涙でぬらして髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った一人の女。名前も分かりません。ただ、罪深い女と呼ばれています。主が食事に来たファリサイ派のシモンという男は彼女のことを知っていたようです。町では知られた女だったのでしょう。他ならぬこの女がそのようなことをしているのを見て、彼は「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに」と心の中に思ったというのです。
この主イエスと罪の女の物語は、洗礼者ヨハネについての主イエスのお言葉の直後に書かれています。そのことはとても大切なのだと思います。ヨハネと彼の周りにいた人々について、主イエスは言います。「ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」イエスさまが拒んだ、と言われる神様の御心とは何か。ヨハネは洗礼を授ける時に言っていました。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。」ヨハネを通して現された神様の御心は、私たちに悔い改めを求める御心です。
ところが、シモンにとっては、悔い改めは他人事でした。あの罪の女は悔い改めるべきであり、イエスが預言者ならそれを見抜くべきでした。悔い改めは自分の問題ではありませんでした。ヨハネを退けた人々は、主イエスのことも退けます。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見よ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」主イエスの御前にあって、罪の悔い改めと赦された喜びとは、一つです。だから、主イエスは彼女についてシモンに言いました。「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。」そして、女に言います。「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
主イエスは、私たちにも同じ罪の赦しの宣言を聞かせようと、私たちを招いてくださっています。自分事として罪を悔い改め、主を愛する愛を、主は喜んでくださいます。それが他人から見たら滑稽だとしても、主は罪赦された者の一途な愛を、深く胸に留めてくださいます。

2020年4月29日水曜日

2020年4月29日(ルカによる福音書7:1〜23)

ルカによる福音書7:1~23
洗礼者ヨハネが二人の弟子を遣わして、主イエスに尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
これは、本当にたくさんの人々が繰り返してきた問いではないでしょうか。あなたが救い主なのですか、イエスさまあなたを信じていいのですか?本当にこの方に救いがあるのか?神様なんて本当にいるのか?問いの背後にある思いは様々です。信じたいと思って聞くこともあれば、疑ってやり込めてやろうといことも、そもそも無関心ということもあります。しかし、いろいろな口調で、いろいろな言い方で、いろいろな気持ちで、私たちは尋ねます。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
主イエスはそれに答えて言われます。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」
この時、イエスさまは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる大勢の人を癒やし、大勢の目の見えない人を見えるようにしていたところでした。第7章の最初の段落では、百人隊長の僕、という人を癒やしています。ローマに雇われた兵士、ユダヤ人から見たら異邦人です。百人隊長は、イエスさまの言葉の権威を信じていました。その信仰を見て、主イエスは彼の部下である兵士を癒やしました。11節以下では、ナインの町にいたやもめの一人息子が死んでしまった葬送の列に出くわし、その一人息子を生き返らせるという奇跡をなさいました。まさに、イエスさまがおっしゃるとおり、目の見えない人や足の不自由な人、病気の人や耳の聞こえない人が癒やされ、死者が生き返っていた。そして、何よりも貧しい人たちがキリストの語る福音を聞いていました。主イエスは言われるのです。今、起こっていることを見てごらんなさい、まさに神様の福音の出来事が始まっているではないか、と。
世間でのヨハネの評判は、あまり芳しくはなかったようです。明日読む33節では、彼が「あれは悪霊に取りつかれている」と言われていたと指摘されています。荒れ野で悔い改めをのべ伝え、バッタと野蜜を食べていた彼を見て、人々は正気じゃないと言いました。彼はヘロデ王に捕らえられていました。やがて死刑になります。つまり、ヨハネには、本当に主イエスに救いがあるのかと疑うだけの理由がいくらでもありました。しかし、主イエスは、現に主の周りで起きていることをよく見てみなさい、と言われます。
主イエス・キリストがしていることは、もしかしたら、私たちの目には見えなくなってしまうことがあるのかも知れません。私たちの身の回りの状況だけで私たちの気持ちは一杯になってしまいます。しかし、確かに主の御業は進んでいます。神の国は進展している。そのことをよく見てみなさい、ここに私の救いの業は進んでいる。私につまずかずに、信じなさい。主イエス・キリストは、そう言われるのです。

2020年4月28日火曜日

2020年4月28日(ルカによる福音書6:27〜49)

ルカによる福音書6:27~49
社会の中にイライラが満ちています。私自身、その時代の子だと痛感します。そんなとき、主イエスの言葉が胸に突き刺さります。
「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」
イライラするというのには、先が見えなくて不安だとか、家の中の人口密度が急に高くなって辛いだとか、健康の面での恐ろしさを覚えるとか、いろいろな面があります。そして、そんな鬱屈した感情を誰もが持っているので、他の人のマイナスの感情に気づくのも辛いことです。知らず知らずのうちに、心の許容量一杯になってしまっていることに気づくと、自分が怖くもなります。
主イエスは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われました。これは、主ご自身が私たちのためにしてくださったことそのものです。何よりも、そのことを心に留めたいと思います。ご自分を憎む私たちを、主イエスさまは愛してくださいました。その圧倒的な事実から、すべては始まります。
主イエスは、神様の愛についてこのように言われます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」恩知らずというと、とても具体的で私たちにもよく分かります。実際に恩知らずな振る舞いをされると、かなり厭な気持ちになります。神様は、主イエスさまを下さったといいうこれ以上ない恩を忘れる私たちのために、情け深く振る舞ってくださいました。
「弟子は師を超えるものではない。」主はそう言われます。私たちは、主イエスさまを超えるものではない。「しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる。」主イエスはそう言われます。主イエスさまは、私たちキリストの示してくださった愛を真似て生きることを望んでおられます。
そのためには、十分な訓練が必要だと言われました。どうやって訓練するのか。先ず何よりも、恩知らずで神様を蔑ろにするこの私を、主ご自身が赦し愛してくださったことを深く知ることでしょう。そして、主のまねをすることが大切です。ほんの僅かでも、主が示してくださった愛に生きることができますようにという祈りを、神様は必ず聞いてくださいます。そして、他人のイライラを受け止めたとき、主ご自身がそのことを覚え、喜んでくださるに違いありません。

2020年4月27日月曜日

2020年4月27日(ルカによる福音書6:1〜26)

ルカによる福音書6:1~26
「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平地にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい群衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの話を聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。」
ルカが伝えている、ここから始まる主イエスの説教は、平地の説教と呼ばれています。マタイが同じ説教を山の上でなさったと書いています。ルカは「平地にお立ちになった」と言っているところから、そのように呼ばれています。マタイとルカそれぞれの福音書を書く神学的な視点によって、少しずつ描写が異なっています。
しかし同じ点もあります。マタイもルカも、主イエスのところにおびただしい人が集まってきた、というところから話を始めています。しかも、マタイもルカも、集まってきた人たちは病人や悪霊に取りつかれた人々だった、と言います。主は人々を癒やし、その上で、語り始めておられる。その点が共通しています。キリストが語りかけるのは、痛み、苦しみ、病む者への福音です。
主イエスはおっしゃいました。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」マタイでは、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」となっていました。「心の」という言葉があるかないかという大きな違いがありますが、今回は後半の言葉に注目したいと思います。ルカが伝えるところによると、主イエスは「神の国はあなたがたのものである」と言われました。「あなたがた」への言葉です。キリストは、目の前にいる貧しい人や病んでいる人に向かって、あなたたちは幸いだ、神の国はあなたたちのものだと宣言なさったのです。
主イエスは、続けて、「今、飢えている人々」、「今、泣いている人々」、「人々があなた方を憎むとき」、あなたがたは幸いだとおっしゃいます。驚くべき言葉です。本当に、心から、「アーメン、その通りです」とは言えないような言葉です。やはり、貧しいよりは富んでいる方がいいです。飢えているのはつらいし、食べ飽きるほどであれば安心です。泣かなければならない現実は厳しく、笑って暮らしたいです。人から拒絶され、迫害されるよりも、受け入れてもらいたい。それが、自然な感情です。それを否定されたら、辛いです。
この言葉は、主イエスさまにしか言えない言葉です。そして、主が言われるからには、本当にそこに幸いがあるということを、私たちは信じたい。まさに、これは信仰に属する事柄です。信ずべきことです。今、私たちが苦しい思いをしているのなら、今、不安であるのなら、主イエスは言ってくださいます。あなたがたは幸いだ、と。その言葉を、私のために貧しくなってくださったキリストのゆえに、信じたいのです。

2020年4月26日日曜日

2020年4月26日(ルカによる福音書5:17〜39)

ルカによる福音書5:17~39
主イエス・キリストの宣教の急所は、一体どこにあるのでしょうか。主の弟子になった漁師は、主の言葉に従って降ろした網に魚が一杯にかかっていたことを畏れ、主の膝元にひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言いました。
主は、ご自分のところに連れてこられた体の麻痺した人に向かって、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われます。しかし律法学者やファリサイ派の人々はこの言葉が大変不満で、「神を冒瀆するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ」と論じ始めました。
主はレビという徴税人が収税所に座っているのを御覧になって、「私に従いなさい」と言います。レビは主に従いました。彼はイエスために盛大な宴会を催しましたが、そこには徴税人や他の人々が大勢いて、それを見たファリサイ派の人たちは「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか」と言います。すると主イエスは答えて、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言いました。
どの話でも、罪が問題になっています。私たちが神様の前に出たとき、必ず罪が問題になります。ここで問題になる罪というのは、倫理道徳の違反ということよりも、むしろ私たちが私たちを造り、命を与えてくださった神様に向かって生きているか、という問題です。シモンは目の前におられる方がただの人間ではないことに気づいたとき、この方の前にふさわしくない自分であることを深く知りました。主は体の麻痺した人の苦しみの本質が、肉体の麻痺以上に神様の前に平安がないことにあると見抜いておられました。主は私たちがどんなに罪深くとも、「私は罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と言ってくださいます。主は、私たち罪人を招いて、悔い改めの恵みに入れるために来てくださいました。主の宣教の急所は、罪の赦しの福音です。
主はその福音を「新しいぶどう酒」と呼びます。新しいぶどう酒を納めるためには、古い革袋ではなく新しい革袋が必要です。私たち自身が新しくなることを主は望んでおられます。新しくなるというのは、私たちが悔い改めの促しを、恵みとして喜ぶということではないでしょうか。主イエス・キリストは、私たちを新しくしてくださいます。私たちが喜んで主の前に生きることができるようにしてくださっているのです。

2020年4月25日土曜日

2020年4月25日(ルカによる福音書5:1〜16)

ルカによる福音書5:1~16
「沖へ漕ぎ出し、網を下ろして漁をしなさい。」
主イエス・キリストが、ゼベダイの子シモンにおっしゃいました。シモンは答えます。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。」今、私たちのこの時代の呻きではないでしょうか。コロナウイルスから始まった今日の状況を、あらかじめ想定し、予測できていた人は世界を見回してもそう多くはないと思います。いろいろなことが止まりました。今回の事態が落ち着いても、数年かけて何回も波がやってくるという推測をする専門家もいるようです。そうなったときに、私たちの生活が回っていく経済的な力は、この社会に残るのでしょうか。あるいは政治的な混乱もこれまで以上に深刻化するでしょうから、そういうことも不安になります。シモンのあの言葉、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」という言葉が、私には他人の言葉に聞こえないのです。
しかし、シモンの言葉はそこで終わりませんでした。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」きっと、これが信じるということなのだと思います。確かなしるしも証拠もありません。しかし、お言葉ですから。主イエスがおっしゃるお言葉ですから。ただそれだけの理由で、彼は沖へ漕ぎ出して、もう一度網を降ろしてみました。
私たちにとっては、やはりこのシモンの経験は、教会の経験として響きます。彼は最後に主イエスから「今から後、あなたは人間をとる猟師になる」と言われましたから、私たちにとってこの日にシモンが経験した出来事は教会の伝道の労苦に重なります。私たちも、ただ主イエスがそうおっしゃるから、沖へ漕ぎ出して網を降ろし続けます。
私たちの今の状況は、人間的に見ればあまり楽観視できるものではありません。しかし、それでも私たちは網を降ろします。主がそうおっしゃるからです。網を降ろすというのは、もちろん、福音を語り続けるということです。私たち教会は主の恵みの年が来たことを宣言します。ここに救いがあるからです。主イエスは、ガリラヤ湖で魚を捕るためにシモンの手を用いました。同じように、主は私たちの口を用います。私たちの手や目つきや足を用います。私たちの枕を用いてくださることもあるでしょう。私たちにはそれぞれの湖があります。その場所で、私たちはキリストを信じるから、主のお言葉だから、ただそれだけの理由で望みを持って、福音の網を降ろします。主イエス・キリストの福音を待っている人が、必ずそこにいるからです。

2020年4月24日金曜日

2020年4月24日(ルカによる福音書4:31〜44)

ルカによる福音書4:31~44
汚れた霊や悪霊もまた主イエスのことを知っていました。主イエスが会堂で権威をもって教えておられたとき、そこにいた男に取りついていた汚れた霊が、彼に叫ばせます。「ああ、ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。。神の聖者だ。」あるいは、会堂を去ってシモンの家に入り、しゅうとの熱を下がらせましたが、その後日が暮れると「いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れてきた。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。また悪霊も、『あなたは神の子だ』と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊を叱って、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスがメシアだと知っていたからである」ということもありました。
汚れた霊や悪霊どもも主イエスを知っていたのです。しかも、「神の聖者だ」とか「あなたは神の子だ」というのは、確かにその通りです。正確な知識を持っていたと言ってもよいのではないでしょうか。しかし、主イエスは汚れた霊や悪霊を叱りつけておられる。それは、私たちに、汚れた霊や悪霊のようにではなく、別の仕方でご自分を知ってほしい、と考えておられたからではないかと思います。
主イエスさまは言いました。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」と。主イエスさまは、神の国の福音をすべての人に告げ知らせるために、父なる神様に遣われて、私たちのところに来てくださいました。
汚れた霊や悪霊は、主イエスを「神の聖者だ」とか「神の子だ」とか、そこの部分だけを取り上げれば正確な知識を持っています。しかしそこに欠けていたのは、神の国の福音、ということです。この聖者、神の子は、私たちを救う神の国の福音を告げ知らせてくださっている、という事実です。
聖書は、私たちのダメなところをあげつらったり、私たちを詰問してダメ出しするために書かれたのではありません。聖書は、私たちに主イエスを紹介します。この方は私たちに神の国の福音を宣言し、私たちを救うために、私たちのところへ来てくださいました。この方は私たちを愛する神そのものです。だから、知識が正確かどうかということ以上に、この方は私を救うために来てくださった、神の国の民として私を生かしてくださるということを信じることが、本当に大切なこと、欠くことのできない福音です。主イエスは私たちへの神の国の福音そのものです。キリストは私たちを救うために、神に遣わされて来てくださいました。

2020年4月23日木曜日

2020年4月23日(ルカによる福音書4:1〜30)

ルカによる福音書4:1~30
「皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」
人々の驚きは、イエスへの信仰につながるものにはなりませんでした。彼らはこの後すぐに「憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうと」しました。この驚きは、怒りと殺意につながりました。彼らは「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。主イエスがヨセフの子であることにつまずきました。あまりに近い存在であることと、その近い存在であるこの一人の男が「主の恵みの年」を宣言したこととが結びつかず、神様からの福音を聞き取ることができなかったのです。
ところで、この章の冒頭で、主イエスは悪魔から誘惑をお受けになっています。空腹を覚えたイエスに近づいた悪魔は、三つの誘惑をイエスさまに向けました。石に向かってパンになるように命じたらいい、すべての国々の権力と栄華とを与えるから悪魔を拝め、高い所から飛び降りて神の子であることを証明してみせろ、と言うのです。もしかしたら、これは今私たちに向けられた誘惑なのかも知れません。神の子なら、今私たちが苦しんでいるこの状況を早く解決してみせろ、と。

私はこれらの誘惑は、主イエスが人の子であることを揺るがす誘惑であったのではないかと思います。神の子としての力を発揮して、人々を救ったらいいではないか、と。言葉を換えれば、十字架などによらない救いを見せてみろ、その方が万人受けするではないか、ということになると思います。
そう考えると、悪魔の誘惑は主イエスがヨセフの子だと言って躓き、イエスを殺そうとした人々の怒りと、本質的には同じなのだと思います。イエスがアダムの子である人の子になられたことにつまずく私たちの気持ちを代弁しているのです。

主イエス・キリストは、それに対し、神の言葉を食べ、ただ神だけを崇め、神を試みることのない救い主として、私たちの前に現れました。このお方は、私たちに福音を宣言します。「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」という福音の実現を宣言するのです。それは、支配することではなく自由にすることによる救い、見聞きすることを独占するのではなく福音を宣言することによる救い、虐げ屈服させることではなくもう一度自分の足で立つ力を回復することによる救いです。そのために、キリストはご自身が誘惑や肉体の弱さを知る人の子になられたのです。ここに私たちの救いがある。聖書はそう宣言します。

2020年4月22日水曜日

2020年4月22日(ルカによる福音書3)

ルカによる福音書3
ルカによる福音書は、とても文学的な構造になっていると思います。今回使っている通読表では、この福音書の第1章と第2章は12月に読むことになっています。クリスマスの出来事を伝える記事として、その時期に割り振られています。しかし、今日の第3章を読んで気づくのは、むしろルカとしては1から3章までを一つの大きな段落、あるいはプロローグと考えていたであろう、ということです。
今朝の23から38節に、主イエスの系図が書かれています。マタイによる福音書では、福音書の冒頭に置かれていました。しかも、マタイはアブラハムから始まって主イエスに至っていましたが、ルカではイエスから始まって「アダム、そして神に至る」となっています。明らかにマタイとルカとでは系図は系図でも、それを書く目的が違う、ということになるでしょう。
マタイがアブラハムから始めていることから分かるのは、彼がイエスの新しい神の民を形成しようという思いを強く意識していたということです。アブラハムは信仰者の父と呼ばれ、神の民の基となった人物ですから。それに対しルカは最初の人間アダムまで系図を遡っています。ユダヤ人だけではない、異邦人も含めた全人類の救い主イエスのお姿を描こうとしているに違いありません。
そしてもう一つは、ルカがこの第3章の最後に系図をおいたことの意味です。思えばここまで、クリスマスから洗礼者ヨハネまで、主イエスはご自身主体的に何かをしてこられたわけではありませんでした。主イエスが公にその活動を始められる前の段階です。その最後に主は洗礼を受け、その時、「天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」のでした。つまり、主イエスの洗礼やそれを頂点とするプロローグはは主がどなたなのかということを明らかにする記事です。神の御心に適う神の子でいらっしゃるイエス。そのお方はアダムの子孫として生まれた人の子であり、すべての人々を救ってくださる神の子だと言っているのではないでしょうか。
従って、ルカによる福音書が冒頭三章で私たちに訴えていることは、主イエス・キリストという方が、この私の救い主でいてくださるということです。ユダヤ人にも異邦人にも救い主でいてくださる方が語る宣教の言葉に聞いてほしい。ここには福音宣教者ルカの熱い思いが込められています。

2020年4月21日火曜日

2020年4月21日(ペトロの手紙一1)

ペトロの手紙一1
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」
この言葉が使徒ペトロの書いた手紙に残されていることに大きな魅力を感じます。誰よりも主イエスを見てきた人です。他の誰よりも一緒に過ごし、ぞの声を直に聞き、主と共に歩んだ人です。その人が、同じようにこの目で主イエスを見たことのない私たちに向かって言います。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しているね」と。私たちの主イエスへの愛、キリストへの愛は、主を見て生きてきたペトロと比べて遜色ないと、この一人の使徒は私たちに言ってくれているのではないかと思います。
信仰って、一体何でしょうか?難しく考えていろいろな議論をすることもできるかも知れませんが、ここではシンプルに、一言でそのことを伝えてくれているのだと思います。信仰、それは主イエス・キリストへの愛です。まだ見たことのないキリストを愛し、キリストを信じる喜びに満たされていること。それが信仰です。主は、私たちの小さな愛や喜びを忘れることなく、その御心に留めていてくださることでしょう。
今、いわゆる「宗教」への評判はよくありません。人格を無視したり、人間の自己決定権を蔑ろにしたり、自分たちの信仰のために他人を犠牲にしたり、というイメージがいよいよ強まっています。私は牧師ですが、自分を宗教家だとは思っていません。「キリスト教」という宗教の信者だとも思っていません。私は、キリストを愛する者です。キリストを信じ、そのことを喜びとして生きている者です。そのことと、いわゆる「宗教」という営みとは違うと思っています。
私たちのキリストへの愛は、「信仰の目標である魂の救いを得ているから」であり、その救いは「死者の中からのイエス・キリストの復活を通して」私たちに与えられました。それは私たち人間の営みやその力の外にあることです。そのことをもって宗教だと評価してみせることもできるかも知れません。それならそう言ってもらっても構わない。しかし、私はキリスト教という宗教の教えや戒律を信じているのではなく、イエス・キリストという一人の方を愛し、その人格と御業に救われたと信じています。だから、私の願いは、キリストへの愛を深くしてください、ということです。ご自身の命をも下さったキリストへの愛を増し、私もキリストがしてくださったように生きさせてください、と願います。

2020年4月20日月曜日

2020年4月20日(エフェソの信徒への手紙1)

エフェソの信徒への手紙1
「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものなのか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。」
このエフェソの信徒への手紙は獄中書簡と呼ばれるパウロの手紙の一つです。パウロが牢獄に捕らわれていたときに書かれました。レンブラントが「獄中のパウロ」というすばらしい絵を描いています。私の本当に大好きな絵です。年老いたパウロが小さな窓から差す光に照らされています。牢獄の中の粗末なベッドに腰掛けて、思案顔でペンを持ち、手紙を書いている。脇には剣が置いてあります。獄中に剣というと不思議ですが、この手紙に出て来る「霊の剣、すなわち神の言葉(6:17)」の象徴でしょう。従って、レンブラントはエフェソの信徒への手紙を書いているパウロを描いたのではないかと私は思います。
これは獄中にいた男の書いた手紙です。牢獄の中から、彼は言います。神があなたがたに啓示の霊を与え、心の目が照らされて、神の招きの希望を悟らせてくださるように、と。神が私たち信じる者に働いてくださる力の大きさを知ることができるように、と。言いようによってはパウロ自身がそれを見失っても少しもおかしくないような状況です。しかし、彼は獄中に差す光に照らされながら、自分は神の光に照らされていることを信じ、望みを抱き続けていました。
神様は、私たちを「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定め、私たちのためにイエスの血を流してくださいました。「聖なる者たちが受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」というのは、その事実のことを言っているのでしょう。神様は、私たちをご自分の子にしてくださいます。私たちにどんな災いが降りかかってきても、その事実は変わりません。
私たち教会にあるのは、イエス・キリストの言葉だけです。この危機の時を迎えて、いろいろなところで教会の本質は何かというようなことが問われているようです。私は、それは神の言葉という剣だと思っています。御言葉によって教会にはキリストが満ち満ちています。私たちはこの方を礼拝します。神の子として。私たちは弱くても強く、苦しんでいても喜び、貧しくても豊かです。キリストにあって、神の子にしていただいたからです。

2020年4月19日日曜日

2020年4月19日(コリントの信徒への手紙一15:29〜58)

コリントの信徒への手紙一15:29~58
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、癒やしもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」私たちの肉体は弱いものです。こういうときには特にそのことを痛感します。しかし、聖書はそんな私たちの弱い体を軽んじていません。聖書が私たちに示す救いは、体の復活です。体から離れた霊魂が救いを得るというのではありません。弱くてもろい、この肉体が救われるのです。
この体が一体どういうふうに救われるのか。種が蒔かれて朽ち、やがて実を結ぶように、私たちの肉の体が蒔かれ、やがて霊の体に復活すると言います。具体的にどういうことなのかはよく分かりません。しかし大切なことは、霊の体と言っていることです。体が救われる、と言っています。
私たちの体は弱い。しかし、この体が蒔かれるのだ、と聖書は言います。小石のような見た目のつまらない種粒だと思ったとしても、種を蒔かなければ花を見ることもできないし、実りを収穫することもできません。この体には意味があります。それどころか、「この体」は尊い。他ならぬ神様が尊く造ってくださったからです。
聖書には生まれ変わりの思想はありません。何年も前に、あなたの前世は中世のどこぞの騎士だとか言ってのける人がテレビで重宝がられてよく出ていたことがありました。私たちはそういう考え方は一切とりません。もしも、私の前世なるものが、別の誰かだとします。更にその前世は別の誰か、ことによっては人間ではない虫か何かかも知れません。そのまた前世は・・・といったときに、一体何をもって「私」と言いうるのでしょうか。魂でしょうか?しかしその魂は特に私である必要はなく、中世の厩の世話人であっても、蚤か駝鳥か何かであっても構いません。生まれ変わりの思想からは「私」が消えます。その代わり、不滅の魂がそこにあり、それがこの世界のあらゆるものとつながることになる。しかし聖書によればは、神様は「この私」の名前を呼んでくださり、私を私として御覧になります。たった一人の、換えの効かないわたしとして。この肉体を持つわたしを。しかしこの私は、肉体も霊魂ももろくて崩れやすく、永遠な存在ではありません。しかしそのような体を持つ私を覚え、陰府にまで降って私を探し、救ってくださる方がおられると聖書は言います。この方の前で、私は私になります。
今日、神様は、「あなた」を呼んでおられます。私たちの名前を呼び、滅びゆくこの体を尊い種とし、神様の前で霊の体に救ってくださる方がおられるのです。

2020年4月18日土曜日

2020年4月18日(コリントの信徒への手紙一15:1〜28)

コリントの信徒への手紙一15:1~28
「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりに私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。」
使徒パウロは、「最も大切なこと」と言います。これを欠いては福音は福音にならない、ということになります。そこでパウロが語り出すのは、一つの事実です。キリストが何をしたのか、という出来事を伝えます。
私たちは聖書の「最も大切なこと」を何だと捉えてきたでしょうか。ここには、私たちの心の平安だとか、劣等感からの解放だとか、自分らしく生きるだとか、そういうことは書かれていません。もちろんそういうメッセージも大切でしょう。しかし最も大切なことは別の所にあります。
最も大切なこと、それは、キリストの死と復活です。キリストの事実こそが最も大切なことです。なぜなら、それが聖書が旧約の時代から語り続けてきたことであり、この事実に基づいて、神はわたしたちを救ってくださったからです。
私たちのことについては、パウロはこのように言います。「この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人々の中で最も哀れな者になります。しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。」キリストの死と復活が私たちに与えた望みは、この世の中だけで終わってしまう望みではない、と言います。キリストが死者の中から復活したのだから、キリストを初穂として私たちすべてのものが死者の中から復活する、とパウロは訴えます。私たちもやがて復活する、それがキリストを信じるものに神が与えてくださっている望みです。
神様を信じて何かに成功したり、望みが叶うことも時にはあるかも知れません。しかし、願いが叶うことが私たちの信仰の望みではありません。この世の命を超えた望みが私たちの信仰の望みです。それがキリストの復活によって確かになる喜びです。だから、私たちは自分の命の尺度以上の基準で生きることができます。神様の前で価値ある人生を選びたいと願います。失敗することはあります。むしろ失敗だらけかも知れません。それでも神様に「よくやった、忠実な僕よ」と言っていただくことを望んで生きるのなら、そのことを神は喜び、私たちの命では測ることのできない価値を与えてくださるのではないでしょうか。

2020年4月17日金曜日

2020年4月17日(使徒言行録1)

使徒言行録1
イエスは弟子たちに命じます。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あながたは間もなく聖霊によって洗礼を受けるからである。」
主イエスは聖霊によっておとめの胎に宿り、生まれました。主イエスの公の御生涯の最初は、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けることから始まりました。その時、ヨハネは言いました。「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。」この時ヨハネが言った聖霊と火による洗礼が、いよいよ現実のものとなると主イエスはおっしゃいます。主の福音宣教の初めに洗礼があったように、キリストの弟子である私たちの福音宣教の初めにも、洗礼があります。キリストが下さる、聖霊による洗礼です。
この聖霊による洗礼を受けると、どうなるのか?主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」聖霊は私たちにキリストの証人として生きる力を与えると言います。
キリストの弟子の中でも特に12人が選ばれ、使徒と名付けられていました。主ご自身がお選びになった12人。しかしその中のイスカリオテのユダやイエスを裏切り、自殺してしまっていました。そこで、新しい一名が加えられることになりました。その新しい使徒の職務について、ペトロは「主の復活の証人になるべきです」と言っています。聖霊を受けて、キリストの復活の証人として生きる使徒が、新しく加えられました。
教会の語る福音は、キリストの復活です。12人の使徒は特別な職務ですが、その後の教会はこの務めを受け継ぎ、キリストの復活の福音を宣べ伝えてきました。私たちも、同じ福音を託されています。
新型コロナに伴う詐欺が出てきていると新聞に書かれていました。勝手にマスクを送りつけてきて、後から法外な代金を請求してくるというケースもあるそうです。お気をつけください。詐欺が許されないことは当然ですが、そうではなくとも、私たちは今分かれ目に立っているように思います。これまでと同じ、経済的な生産性と利潤追求の自己目的化を是とするのか、人間を尊重し、弱者の命を重んじる社会にするのか。むろん、お金など必要ないという話ではありません。大金は命を支えるものなのか、命がお金を支えるのか。ここは命の道か呪いの道かの分岐点です。私たちに託された福音は、キリストの復活の福音です。命の福音です。私たちは、どの道を選び取るのでしょうか?

2020年4月16日木曜日

2020年4月16日(ヨハネによる福音書21:15〜25)

ヨハネによる福音書21:15~25
「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子が付いてくるのを見た。・・・ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『私が来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたは、私に従いなさい。』それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。」
恐らく、このやりとりには、この福音書が書かれた時代の教会の事情が反映していると考えられます。ヨハネによる福音書が書かれた時代、すでに使徒ペトロは殉教していました。ペトロの殉教については、主イエスご自身が「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」と言っておられます。福音書はこの言葉について、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と解説しています。
しかし、この福音書を書いたと考えられている使徒ヨハネは、古い伝承では12人の使徒たちの中で唯一殉教しなかったと言われています。それが本当なのかはよく分かりませんが、しかし少なくともこの時点では殉教していなかった。もしかしたら当時の教会の中には、ペトロを英雄視し、ヨハネをそれよりも一段低く見るような状況があったのではないかと思います。
「主よ、この人はどうなのでしょうか。」ペトロはそう主イエスに問いました。しかし、主は言われます。「私が来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。」彼がどうなるかは私と彼との関係のことであって、あなたには一切関わりがないと主は言われます。厳しい言葉です。
私たちは、どうしても比較によって自分を測ります。私たちの小さな頃から社会がそれを強いてきたという面もあります。勉強がどれくらいできるか、運動がどれくらいできるか、絵や歌にまで点数をつけます。私たちは比較されることになれてしまっていて、いつの間にか信仰まで比較の世界でしか捉えられなくなっています。しかし、主は、彼と私との関わりは、あなたには関係がないと言われる。言葉を換えれば、それは他者が立ち入ることのできない聖なる領域だということではないでしょうか。
主はペトロに言われました。「あなたは、私に従いなさい」と。ヨハネと主イエスとの間に聖なる領域があるように、ペトロと主イエスとの間にも聖なる領域があります。主は、私たちにも言われます。「あなたは、私に従いなさい」と。今のような危機のときには同調圧力が高まります。人と違うことをしてはいけないというプレッシャーにさらされています。しかし、私たちの基準は、主に従うこと。主イエスとの聖なる関係が、私たちの主軸です。

2020年4月15日水曜日

2020年4月15日(ヨハネによる福音書21:1〜14)

ヨハネによる福音書21:1~14
イエスが「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」そこで網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
復活した主イエスさまは、舟に乗って魚を捕る弟子たちに「何かおかずになる物は捕れたか」とおっしゃいました。何とすばらしい翻訳でしょう!「おかずになる物は捕れたか」です。生き生きとした、臨場感のある日本語です。
弟子たちがイエスに言われたとおりに網を下ろし、その後そこにおられて声をかけたのが主だったと気づいて岸に戻ってくると、主が炭火を起こして待っていてくださいました。「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と主は言われます。そこにはパンもあります。おかずは今捕れた魚。主食は主が持って来てくださったパンです。弟子たちは、主イエスと一緒に朝ご飯を食べました。
ルカによる福音書とヨハネによる福音書は、復活したイエスさまが弟子たちと一緒に食事をしたことを伝えています。私たちの食卓に、主が共に着いてくださっています。しかも、ご飯ができるのを待って座っているのではなく、主が準備してくださっています。私たちが頂く食事は、主が備えてくださったものです。
今日の箇所の最後には、このように書いてあります。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」イエスさまは、繰り返し繰り返し、私たちのところを訪れてくださいます。私たちと一緒に食卓についてくださいます。私たちの毎日の食事の時、私たちが「湖」という働きの場にいるとき、いろいろなときに私たちを訪ねて、私たちの毎日の生活の中で共に歩んでくださっています。私たちの毎日の生活を尋ねてきている主イエスの呼び声、「子たちよ、何かおかずになる物はあるか」、「舟の右側に網を打ちなさい」という声を、あなたは聞き取っていますか?

2020年4月14日火曜日

2020年4月14日(ヨハネによる福音書11:45−57)

ヨハネによる福音書11:45~57
急激に、イエスを殺す計画が具体化し、進み始めます。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」彼らのそこまでのイエスへの憎しみを決定づけた出来事は、ラザロの復活でした。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを見たユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」そこで、ファリサイ派の人々は言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればいいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう。」ラザロの復活という、これまでイエスがしてきたどのようなしるしよりも決定的なしるしを見て多くの人が信じた。もっとイエスを信じる者が増えて行くに違いない。そのことへの危機感。そして、国内が不安定さをましていると見られ、ローマがつけいる隙を作ってしまうことへの恐怖心。そのような思いが、イエスへの殺意になりました。
主イエスは、ラザロに命を与えたことで殺意を向けられるようになりました。イエスが憎まれたのは、誰かの命を奪ったからではなく、命を与えたからです。
祭司長カイアファが言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」イエス一人を犠牲にすることでローマへの恭順を示すためになり、ユダヤの国全体には好都合だと言うのです。みんなのために一人を犠牲にする。イエス一人を殺すことがいちばん犠牲が少なく、自分たちのたちを守ることにもなる。
カイアファの言葉は図らずも主イエスの死の本質を言い与えることになりました。イエスはただひとり犠牲になり、私たちはそれで滅びることなく、命をいただきました。ラザロの命は、イエスの犠牲の上に成り立っています。私たちの命は、イエスの犠牲の上に成り立っています。主イエス・キリストは、ただひとりで私たちのための死を引き受けるために、十字架へと向かって行かれます。私たちのために、憎しみが待ち受けるエルサレムへと向かっていく。キリストの犠牲を思い、キリストの流してくださった血を思う祈りの道を、今日歩んでいきましょう。

2020年4月13日月曜日

2020年4月13日(ヨハネによる福音書11:17~44)

ヨハネによる福音書11:17~44
「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。』」
一週間、受難週で間があきましたが、4日にラザロの物語の最初を読みました。今日はその続きです。ラザロは病気にかかっていて、彼の姉妹(二人の姉たちとよく言われています。)が主イエスのもとに人をやって、主に助けを求めました。しかし、主イエスはなかなか来てくださらない。イエスが彼らの住むベタニアまで来たときには、ラザロはすでに墓に葬られて四日も経っていました。手遅れでした。
ですので、マルタは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」あるいはマリアも同じように言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」、と。二人の気持ちは私たちにもよく分かります。私たちも同じ祈りを何度も繰り返してきたからです。
主イエスはそれに対してどう反応したのでしょうか。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、言われた。『どこに葬ったのか。』」イエスさまは、マリアや村の人たちが泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせたと言います。意外な反応です。なぜ怒ったのか?そこに、マルタやマリア、村の人々の不信仰を御覧になったからであると思います。
イエスは言われました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」イエスは、私たちが信じることを求めておられます。この方は、私たちの死という現実よりも力ある方なのだ、と。
私たちの肉体は、やがて必ず滅びます。霊も魂も滅びます。必ず死にます。しかし、イエスを信じるならば、死を打ち破るキリストの力にあずかります。今、キリストを信じるなら、ここでキリストが与える永遠の命を生き始める。主イエスは墓にいるラザロに向かって、「ラザロ、出てきなさい」と言われました。私たちの愛する者のことも、同じように起こしてくださいます。私たちは肉体も魂も弱くて儚い存在です。しかし、キリストは私たちを起こしてくださる。キリストの呼び声が、私たちにも響いています。この声を信じてほしい、主は私たちにそう願っておられます。

2020年4月12日日曜日

2020年4月12日(マルコによる福音書16)

マルコによる福音書16
「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
マルコが伝えている復活の朝の墓での出来事は、他の福音書とはかなり違っているようです。マタイが伝えるところによると、マグダラのマリアともう一人のマリアは天使からキリスト復活の知らせを聞き、畏れながらも喜んで、すぐに弟子たちのところへ知らせに行きました。その行く手にイエスが立っておられました。ルカではマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして他の女たちが墓に行き、輝く衣を着た二人の人と出会い、復活の知らせを聞きます。彼女たちは使徒たちに知らせましたが、彼らはその話をまるで馬鹿げたことだと思って取り合いませんでした。ヨハネが伝えるところでは、墓に行ったマグダラのマリアは石が取りのけてあるのを見てすぐにペトロのところへ行き、ペトロともう一人が殻の墓を見ましたが、痛いがないのを不思議がって家に帰ります。その後もマリアは一人ではかに残り、そこでイエスと会う。
このように見ていくと、四人の福音書記者の復活の朝の出来事はそれぞれ個性的です。クリスマスの伝え方が個性的であるのと似ています。それぞれの伝えようとする要点に個性があったのでしょう。
マルコは、他の誰よりも「恐れ」に注目します。彼女たちは復活の知らせが恐ろしかった。イエスの遺体があるはずの墓場で、それとは逆の知らせ、イエスの遺体がなくなり、しかもイエスは復活したという常識外れのことが起こったことが怖かったのです。弟子たちにそのことを報告できないほどに。
改めて、この「恐ろしさ」という感覚を忘れてはならないと思わされます。私たちは神やキリストを恐ろしく思わず、この世の権力や常識や人の目を恐ろしく思います。自分の考えの範囲内で事を納め、予定調和を心地よく感じます。しかし、神様の御業は私たちにとっては想定外です。想定外の神の介入に直面すると、恐ろしくなるしかありません。恐ろしいというのは、予想も付かない神様に直面したということに他ならないのです。
この恐ろしい出来語こそ、私たちのための福音の出来事だと聖書は言います。「十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。」私たちに想定可能なのは、お納めした場所、墓の中にイエスを見出すということまでです。しかし、神様はその想定を超えています。そして、私たちからしたら恐ろしいほどに想定外だからこそ、私たちを死から救うことがおできになるのです。

2020年4月11日土曜日

2020年4月12日(ルカによる福音書23)

ルカによる福音書23
「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手に委ねます。』」
主イエス・キリストは、そのように言って息を引き取られました。ルカによる福音書を読み返してみると、主イエスの御生涯は神の霊によって形づくられていました。おとめマリアのところへ来た天使ガブリエルは言いました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
聖霊によって母の胎に宿ったイエスは、その後、ヨハネから洗礼を受けて宣教に出て行きます。その時のことをルカはこのように記しています。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。」聖霊が、イエスの歩みを導いています。その後、「イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られると、その噂が一体に一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から賞賛を受けられた。」イエスの宣教は聖霊の力に満ちていました。
そして、十字架の上でイエスは言われます。「父よ、私の霊を御手に委ねます」と。この霊は、おとめマリアに宿り、主イエスの生涯を導いた霊です。その霊を、主イエスは今神ご自身の手にお委ねになりました。そして、この霊はやがて再び地上に戻ってきます。
「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。(使徒2:1-3)」
主イエスの霊が弟子たちに降り、彼らは霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出します。彼らは「神の偉大な業(使徒2:11)」を語ります。私たちのために十字架の上で死に、その霊を神の手に委ねられた方の御業を語り出します。キリストの証人になりました。その力は、十字架の上でキリストがお返しになった、あの霊です。キリストの生涯を導いた霊が、弟子たちの上に降ったのです。私たちの上にも。
今日は受難週の土曜日です。沈黙の日です。来る復活の主日を目指して、私たちはなお祈りを重ね、今日の一日を歩んでいきます。主イエス・キリストの霊に生かされ、命をいただいて、今日の日を歩んでいきます。

2020年4月10日金曜日

2020年4月10日(マルコによる福音書15)

マルコによる福音書15
「そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』ピラトは、『一体、どんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
この当時のユダヤはローマに支配されていたので、罪人を死刑にする権限がありませんでした。そこで民の祭司長や長老、律法学者らはイエスをローマの総督ピラトの裁判にかけました。しかし、ピラトにはイエスを死刑にする理由を見つけることができませんでした。私は、そのことを知ったとき、どうして使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」と言っているのか、不思議になりました。ピラトよりもむしろ群衆の責任が重いのではないか、と思ったからです。
イエスを十字架につける理由を見つけられなかったピラトがその判決を下したのは、「群衆を満足させようと思って」のことだったと聖書は言います。ピラトが群衆に「一体、どんな悪事を働いたというのか」と問うても狂ったように「十字架につけろ」としか叫ばない群衆が恐ろしかったのでしょう。そして、一人の政治家として、この群衆の熱狂を満足させればこれからの統治が楽になると踏んだのでしょう。ピラトはイエスを十字架につけることにして、鞭打ってから引き渡しました。
ピラトの措置は、今の言葉で言えばポピュリズムと言えるのでしょうか。彼の判断の基準は正しいか否かではなく、大衆に受けるか否か、もっと言えば自分のポジションを守る上でプラスになるかマイナスになるかです。そのために「みんなが言って言えること」にお墨付きを与えました。キリスト者が物事を「みんなが言っていること」だから、という理由で判断しない理由はここにあります。私たちが言ったりしたりしていることが、自分がすっきりするためだったり、自分を守るためだけだったり、みんなの中に埋没することで安心したいからだったり・・・ということはないでしょうか?
主イエスは、ポンテオ・ピラトのもとで、みんなに十字架につけられました。ピラトが代表する私たち人間の無責任がイエスを十字架につけました。今日は、主の御受難を覚える聖なる金曜日です。十字架の上におられる方、私たちがよってたかって十字架につけた方を、見上げましょう。私たちの救いはここにあります。私たちの無責任な罪を負ってくださった方が、私たちを救ってくださいます。

2020年4月9日木曜日

2020年4月9日(マルコによる福音書14)

マルコによる福音書14
イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
主イエスさまは、弟子たちと囲んだ過越の食卓でそのようにおっしゃいました。パンを裂いてご自分の体だと言って渡し、ぶどうの杯を取ってご自分の血、契約の血だと言ってそれをお与えになった。それを飲んだ弟子たちに、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実で作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われた。日本語にするとうるさいのでいちいち訳していませんが、この言葉は当然のことながら、「私はもう飲まない」と、主イエスが主語になった言葉です。主はどんな気持ちでこの言葉をおっしゃったのでしょうか。
今、私たちは一つの場所に集まって礼拝を献げることを中断しています。現代の便利なウェブツールの力を活用して祈りを合わせ、一つの御言葉に耳を傾けていますが、集まることにはかえられません。まして、共に聖餐の食卓を囲むことができないのは大きな痛みです。聖餐についてはすでに3月から取りやめていました。日曜日に顔を合わせて再会し、声を合わせて賛美を献げられないことは、さみしく辛いことです。主が、愛する弟子たちと「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してもうあるまい」とおっしゃっらなければならなかった時のお気持ちは、どんなにさみしく辛いことでいらしたことでしょう。しかも、私たちが今これを中断しているのは、ウイルスの蔓延を防ぐためであって、誰が悪いわけでもありません。今はこれが必要です。しかし、主イエスが一緒にぶどう酒を飲むことはもう決してあるまいとおっしゃったのは、私たちの罪のためです。これから十字架にかかるから、もうこの食卓を共に囲むことはできない、ということです。主は、私たちのために共に囲む食卓を断念してくださいました。孤独を、ご自分一人で引き受けてくださいました。
しかし、もう永遠にあなたたちとワインを飲むことはない、とおっしゃったのではありません。「神の国で新たに飲むその日まで」です。神の国で、私たちは主と顔と顔とを合わせてぶどう酒を飲む日が来ます。その味はどんなにか格別なことでしょう。今から楽しみですね。聖餐は、その神の国の宴席の前味と言われます。私たちの今の措置も、永遠には続きません。神の国の食卓を待ち望みつつ、そして来る聖餐の日を待ち望みつつ、私たちはこの受難週を特別な思いで刻んでいきます。

2020年4月8日水曜日

2020年4月8日(マルコによる福音書12:41~13:37)

マルコによる福音書12:41~13:37
「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の諸力は揺り動かされる。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
私たちには、この世で苦難があります。苦難の当事者になると、それがすべてになってしまいます。私たちの今のことにしても、未曾有の危機と感じてしまう。しかし、これは未曾有のことではありません。少し前にご紹介しましたが、ルターはペストの時代に生きました。教会を含む社会がペストに脅かされた時代があります。悲しみの中で迎える受難週を、わたしたちも2011年に経験しました。津波で破壊された教会がたくさんありました。あるいは、新型インフルエンザでここ数年の間にも地域的な大流行が起き、多くの方が亡くなりました。エボラ出血熱の感染拡大もニュースになりました。これは、未曾有ではない。むしろ、隣人の痛みをどれだけ感じてきたのかと問われているのかも知れません。
苦難の日は、必ず私たちにやって来ます。それがいつなのか、どういう形でなのかを私たちは知りません。しかし主イエスは、本当に私たちが畏れるべきなのは、人の子が来られることだ、と言います。イエスご自身が再び私たちのところへやって来る。私たちは神の前に立たされます。むしろその日を真剣に畏れるようにと言われます。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」という方の前に立たされる日、私たちの心の中に潜んでいたものがあらわにされます。それは、本当に恐ろしいことです。
キリストは、私たちを救うために来てくださいました。このお方は、私たちの身勝手な罪を全部引き受けるために私たちのところへ来て、十字架にかけられました。私たちは、いずれ必ず滅びます。しかし、キリストの言葉は滅びません。キリストが語りかけてくださった神の国の福音は、なかったことにはならないのです。
「あなたがたは自分のことに気をつけなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、私のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。こうして、まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。」
私たちを罪から救ってくださるキリストの福音が、すべての人に宣べ伝えられなければならない。そのために、神様ご自身の霊が私たちを支え、私たちをキリストの福音の証人にしてくださいます。キリストの愛を私たちが宣べ伝えるために。

2020年4月7日火曜日

2020年4月7日(マルコによる福音書12:18〜40)

マルコによる福音書12:18~40
サドカイ派の人々は復活はないと言っていました。イエスをやり込めてやろうとしてやってきて、尋ねました。ある人に妻がいたが、死んでしまった。律法の規定に従って弟が彼女を迎え入れた。しかしその弟も死に、三男が彼女をめとったが彼も死に・・・と、七人の兄弟と彼女は結婚し、誰とも子どもを残さなかった。復活の日が訪れたとき、彼女は一体誰の妻になるのか。
机上の空論の典型例という感じがしますが、これならイエスにも答えようがないだろうと思っていたのです。ところが主イエスは、根本的に思い違いをしているのだと指摘しました。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている。」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。主イエスはそう言われます。それが根本だ、そのことが分かっていない、ということです。モーセが神様と出会ったとき、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、すでに死んでいました。しかし神様は彼らの名前を告げて、私は彼らの神だ、とおっしゃった。それは、彼らが神との関わりの中で生きた者となっているということなのでしょう。わたしたちの命は必ず終わりを迎えます。わたしたちを記憶してくれる人も、やがて誰もいなくなります。あるいはサドカイ派が指摘したように法や社会の枠組みなどは、死を前にしたら何の助けにもなりません。だからと言って復活がないわけではない。わたしたちの死を超えた望みは、ただ神様にだけあります。神様が「アブラハム、イサク、ヤコブ」と名前を呼んでくださるのと同じように、わたしたちの名前をも呼んでくださいます。そして、イエスを復活させられた神は、そのイエスの手によってやがてわたしたちを眠りから起こしてくださることでしょう。
受難週を歩むわたしたちは、やがてイースターの朝を迎えます。死を超えた望み、それが神がわたしたちにくださった信仰の望みです。望みは、拓かれます。

2020年4月6日月曜日

2020年4月6日(マルコによる福音書11:20〜12:17)

マルコによる福音書12:20~12:17
主イエスと祭司長や律法学者、長老たちとの対立が激化していきます。神殿にいた商人の台をひっくり返し、神殿が「強盗の巣」になっていると厳しく戒めた。それを聞いた祭司長らはイエスを憎み、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めました。ただ群衆の目が怖かったので、まだ実行に移すことはできないでいました。
しかし彼らは主イエスに詰問します。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と。さらに権威問答に続く譬え話は祭司長らへの言葉でした。ぶどう園の主人が農夫たちに貸して旅に出た。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」しかし、農夫たちは贈られてきた僕を次々に酷い目に遭わせて追い返し、ある者は殺してしまいました。主人は最後に「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って愛する息子を送りましたが、農夫たちは言います。「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ。」それを聞いていた祭司長らは、イエスがこの話を自分たちに当てつけてしたのだと気づいて、ますますイエスを憎み、捕らえようとしました。ただこの時も群衆を恐れて実行には移せませんでした。
さらに、ファリサイ派やヘロデ派の人々が登場します。彼らは皇帝に税金を納めることは許されているのかいないのかとイエスに詰め寄り、言葉尻を捉えて陥れようとしました。つまり、納めるべきだと言えば神に背く権力者になびいていると言えるし、納めるなと言えばローマに対する反逆と言えます。するとイエスは銀貨を持ってこさせて、言います。「これは、誰の肖像と銘か」。すると彼らは答える。「皇帝のものです。」イエスは言います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
これらの出来事はイエスと祭司長を初めとした人々との対立の激化をわたしたちに伝えます。対立の論点は、権威であったのだと思います。主イエスは、ご自身の権威を、神の愛する一人息子としての権威だと言われます。しかし人々はそれを受け入れることができませんでした。認められなかった。イエスの権威を拒みました。いちじくを枯らす権威はわたしたちの邪魔でしかないと言ってもいいかもしれません。しかし、キリストの権威は、わたしたちを神に造られたものとして取り戻す権威です。神に造られたとき、わたしたちは神のかたちに造られました。神の肖像と銘が刻まれていました。わたしたちの罪はそれを損ないます。人間らしさを失ってしまう。しかし、主はそれを取り戻してくださいます。神の肖像と銘が刻まれている私の本当の尊さを、主は回復してくださる。そのために、ご自身の権威を発揮してくださるのです。

2020年4月5日日曜日

2020年4月5日(マルコによる福音書11:1〜19)

マルコによる福音書11:1~19;
主イエス・キリストがエルサレムに入城なさいました。そのために、主は一頭の子ろばを準備しておかれました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐ
ここにお返しになります』と言いなさい。」弟子たちに、そのように命じました。
ここで、主イエスは弟子たちに「主がお入り用なのです」と言うようにと命じておられます。私は、この言葉が心に残りました。主がお入り用。何のために?エルサレムに入城するためです。エルサレムに入って何をするのか?十字架へと、イエスは向かって行かれました。十字架へと向かって行かれる主の歩みのために、この子ろばが必要なのです。
主は子ろばを必要とするほどに、はっきりと十字架へと向かって行かれました。私たちのために、私たちに代わって、神からも私たちから捨てられるために、子ろばに乗って主はエルサレムへと向かって行かれます。
馬に乗って都に入るのは、王の凱旋です。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」王としての救い主が、私たちのところに来てくださった!私たちはそのことを喜び、主イエスをお迎えするのです。ただこの方は、馬ではなくろばに乗る方。柔和な王。暴力によって戦って制圧する王ではなく、暴力を振るわれ命を奪われることによって私たちを救う王です。
今日から受難週が始まりました。今年は普段の年とは違う空気の中で受難週を迎えました。しかし本当は、本質的には何ら変わってはいないのだと思います。私たちはこの王を十字架で殺した。その事実は変わらない。それが急所です。わたしたちは今心を騒がせられるような出来事を目の当たりにしています。しかしわたしたちが主イエスの前に何者なのかは、一切変わっているわけではありません。その事実に恐れを覚えます。キリストをお迎えするこの棕櫚の主日を、わたしたちは神様の御前に歩み始めました。

2020年4月4日土曜日

2020年4月4日(ヨハネによる福音書11:1〜16)

ヨハネによる福音書11:1~16;
マリアとマルタの兄弟ラザロが病気になっていました。マリアとマルタは主イエスのもとへ人をやって、伝えてもらいました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」今、この叫びが、世界中の至る所で上がっています。その気持ちは、想像するに余りあります。しかしそれでも、実際にその立場になったならば、そうでないときに思い描いたものでははるかに及ばない痛みと切実さを込めて、私たちは祈ることでしょう。なぜなら、主イエス・キリストは、そういう私たちの痛みが分かる方だと信じているからです。例え誰に分かってもらえなくても、主は知っていてくださいます。
ところが、主はなかなか来てはくださいませんでした。「ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じ所に滞在された」のです。なぜなのかは、分かりません。ただ、主はこうおっしゃっていました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「この病気は死で終わるものではない。」この言葉をひっくり返して、セーレン・キェルケゴールは『死にいたる病』という本を著しました。死に至る病、それは絶望だ。絶望とは、人間が神に造られた者として本来あるべきものではなくなってしまうところで生まれる。神との関係が壊してしまったからです。そうすると人間は自分であることから逃避するか、本来あるべきではない自分であろうとする。どちらも、絶望でしかない。絶望から救われる道は、ただ、神との関係の中に自分を発見することにしかない。私なりに要約すると、そのような内容でしょうか。
ラザロは、やがて主イエスによって墓から出てきます。それによって、主は栄光をお受けになった。ただしその「栄光」というのは奇跡を起こした者としての栄冠というのとは違うと思います。なぜなら、このラザロの復活の出来事の後、急激に十字架への道に突き進んでいくことになります。ラザロの出来事を通して主がお受けになった栄光とは、十字架に他ならない。そうであろうと思います。
「この病気は死で終わるものではない。」その言葉を、ラザロにも私たちにも現実のものとしてくださるために、主イエスはラザロの所へ行き、十字架へと向かって行かれます。主は、私たちの叫びや祈りを、何よりも深いところで聞いてくださっていたのです。私たちを死に至らしめる絶望、罪の絶望から救い出して、主は私たちを眠りから起こしてくださいます。その「時」について、私たちは十字架のイエスにお任せしてよいのです。

2020年4月3日金曜日

2020年4月3日(マルコによる福音書10:32〜52)

マルコによる福音書10:32~52;
「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。』イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。』」
栄光をお受けになるとき、とヤコブとヨハネは言いました。王になる時を想像していたのでしょうか。人々に崇められる時に、それにあずかりたいと思っていたのでしょうか。主イエスは、あなたたちは自分が何を願っているのか、分かっていないと言われます。栄光をお受けになるときということで主がお考えだったのは、このマルコによる福音書が書いていくことを考えるならば、やはり十字架にかけられるときのことをお考えだったと言わねばならないでしょう。その時に実際に主の右と左にいたのは、一緒に十字架にかけられた二人の強盗でした。「イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(15:27)」ルカによる福音書を見ると、このうちの一人は「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言いますが、マルコは特にそういうことを報告していません。それどころか、「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った」と伝えています。
つまり、主の栄光の時に右と左にいた者たちは、徹底的に犯罪人であり、一緒に十字架にかけられながらイエスを罵る者たちだった、ということになります。ヤコブとヨハネは、自分たちの願ったことが分かっていませんでした。主の栄光の時にその右と左にいるというのは、罪人の中の罪人だということです。しかし、そう考えると、本当は私たちは皆、その座にいなければならない者です。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」主イエスさまは、私のような罪人の最たる者のために、ご自分を身代金として献げてくださった。その圧倒的な事実に気づかされます。主イエス・キリストに、栄光がありますように。

2020年4月2日木曜日

2020年4月2日(マルコによる福音書10:1〜31)

マルコによる福音書10:1~31;
「弟子たちはますます驚いて、『それでは、誰が救われることができるだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。』」
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと主イエスは言われました。金持ちの青年が主イエスの前に現れ、立ち去ってしまった後のことです。彼は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とイエスに尋ねました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」と、十戒で命じられていることを主イエスは改めて言われます。すると、彼は「そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」と答えました。それで、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」すると、彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去りました。冒頭のイエスと弟子たちとのやりとりは、その後のことです。
私は、このように言われてしまうと、金持ちでなくても、殆どの人があの青年と同じように顔を曇らせて立ち去らないといけなくなってしまうのではないか、と。私も、正直に言えば自分の僅かばかりの持ち物が大切ですし、握りしめて話せない物がいくつもあります。更に主イエスは「私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来たるべき世では永遠の命を受ける」とまで言われます。本当に正直に言うと、私はそう聞いて安心するよりも、恐ろしくなってしまいます。
あの青年は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。私は、永遠の命のために何をすればいいのですか、どうしたらその資格を得られますか。しかし、主がおっしゃったのは、「人にはできないが、神にはできる」ということです。私には永遠の命を受け継ぐための善い業は全うできません。しかし、神にはそのような私を憐れむことがおできになるでしょう。
この青年との出会いに先立って、主イエスは子どもたちに手を置いて祝福なさいました。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」イエスはそうおっしゃいます。神の国を受け入れる、それは、全く神の国にふさわしくもない私を神が憐れんでくださることを受け入れることです。神の憐れみは当然、などと決して言えません。私はただ、子どものように一方的に与えられるだけです。

2020年4月1日水曜日

2020年4月1日(マルコによる福音書9:30〜50)

マルコによる福音書9:30~50;
主が再びご自身の十字架と復活とを弟子たちに告げました。それを聞いて、「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」といいます。ところが、それからすぐに彼らが道々話していたのは、「誰がいちばん偉いか」ということだった。それで、主イエスは彼らにおっしゃいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
この言葉は、具体的な意味を持っています。先ず、主は「一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた。『私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである』」。子どもの「ような」者ではありません。具体的な、一人の子どもです。主はこの子を抱き寄せておっしゃいました。一人の子どもを主のために受け入れるならば、それは主を受け入れることであり、主を受け入れる者は主イエスを遣わされた神を受け入れる者である、と言います。だから、私たちの教会も子どもを真ん中において礼拝をし、あるいはファミリーサンデーの礼拝では子どもに合わせた礼拝を献げています。主が愛する子どもを、私たちも愛するために。すべての人の後になり、すべての人に仕えるということの具体的な一つの意味です。
更に、「私たちに従わない者」にも主の目は向きます。弟子たちは主の御名を使って悪霊を追い出しながら自分たちに従おうとしない者をやめさせようとしました。しかし、主はその必要はないと言います。彼らは主の御名を使っているのなら、主の悪口は言えないだろう、あなたがたにも、キリストの弟子だという理由で水のいっぱいもくれるかも知れない。キリストのゆえに水一杯くれる人は、必ずその報いを受ける。
これら二つの話の共通点は、主のゆえに、ということです。主の御名のゆえに子どもを受け入れる幸い。主に属する者だからと言うことでの一杯の水をくれる者への神からの報い。キリストのゆえに、私たちには互いを受け入れ、仕え合い、共に生きる道が開かれていると言います。弟子たちの最初の言い合いは、競争社会の典型です。誰がいちばん偉いのか?偉くない者は偉い者に仕え、先の者は後ろの者を思いやりません。しかし、主イエスはご自身の御名のゆえにそれとは違う生き方へと私たちを招いておられます。
最後の話は「私を信じるこれらの小さな者の一人でもつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」という言葉。小さな一人の存在への主の情熱がそこにあります。私たちは互いに平和に過ごすために召されました。激烈な競争社会にあって、キリストの造る神の国を生きるために。

2020年10月22日(ヨハネによる福音書4:1~30)

ヨハネによる福音書4:1~30 「主よ、あなたは汲む物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。」 サマリアの女と主イエスとの対話です。生ける水を与えようというイエスの言葉をいぶかしく思って、彼女は問いただしました。「主よ、あなたは汲む...