2020年2月16日日曜日

2020年2月16日(ローマの信徒への手紙7)

ローマの信徒への手紙7;
「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」
パウロは真剣な人です。何よりも、キリストを信じ、キリストの僕として生きることに一所懸命な人でした。その一事に生きていました。ところが、そうであるからこそ、彼は自分の罪に心を痛めました。神が与えてくださった律法を喜び、この身を献げて神に仕えて生きていきたい。そう願いながら、自分の実際の姿は罪の虜になっている。もしもパウロがいい加減な気持ちでいたり、適当なところでごまかすような人であったら、このすばらしい手紙が書かれることもなかったでしょう。パウロのこの真剣さも神が与えてくださった贈り物であるに違いない。しかし、この痛みはただパウロだけのこと、私たちにとって他人事では済みません。
私たちも、同じです。同じ惨めな人間です。「私は自分のしていることが分かりません。自分の望むことは行わず、かえって憎んでいることをしているからです。・・・それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」これは私たち自身の呻きではないでしょうか。私たちは、本当に自分がしたいと思っていることをしているのでしょうか?
今は、自己実現の時代です。自分のしたいことをすることが何よりも大事なこととされています。確かに、自己決定権も認められずに周りの者が役割として押しつけたことを忍耐してこなさなければならないということから自由になったのは、すばらしいことです。しかし、無制限な自己実現の恐ろしさも、私たちは実感として知っているのではないでしょうか。人間が願うことは、どれもこれもがすばらしいこととは限りません。したいことの彼方には、結局惨めさしか残らないということも本当のことなのではないでしょうか。
私たちを欲望や罪の虜にする衝動から、一体どうしたら自由になれるのでしょうか。
パウロは言います。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」罪の法則に仕えてしまっている私たちを救ってくださるのは、ただキリストだけです。キリストが私たちを罪から解放して、自由にしてくださるのです。だから、この方の招きに、今朝、応えましょう。

2020年2月15日土曜日

2020年2月15日(ローマの信徒への手紙6)

ローマの信徒への手紙6;
「時間」って、一体なんでしょうか。辞書を引くと、このようにに説明しています。「人間の行動を始めとするあらゆる現象がその流れの中で生起し、経験の世界から未経験の世界へと向かっていく中で絶えず過ぎ去っていくととらえられる、二度と元には戻すことができないもの。」なかなか難しい語釈です。簡単なこと、身近なことほど説明するのは難しい、ということであるのかもしれません。
今日の御言葉には、聖書の時間論が隠れているのではないかと思います。「しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。」「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。しかし、今や罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。」
主イエス・キリストにあって、私たちの罪はもはや過去のものとなりました。私たちは、かつては罪の奴隷でした。罪に仕えて生きてきました。ところがキリストが何の功もない私をご自分のものとし、私のために十字架にかかり、私たちを罪の奴隷ではなく神の奴隷にしてくださいました。私たちは、今や、罪ではなく神に仕えて生きています。そして、神はわたしたちにやがて永遠の命を与えてくださることでしょう。私たちは罪の過去を生きてきましたが、、神の恵みによって今があり、そして神の約束という将来を待ち望んでいます。それが、聖書が言う「時間」の意味です。
だから、私たちはこのような神の恵みの時間を生きているのですから、それにふさわしく生きていきます。罪の過去を、私たちはときに懐かしく思います。しかしそれは、エジプトから脱出し、荒れ野の旅をする神の民が昔に懐かしんでいた肉鍋にすぎません。確かにここは荒れ野であっても、しかし、確かに神の恵みによって私たちは生かされています。神が与えてくださる約束の地に向かって。
私たちはエジプトを出た民が海の中をくぐってその旅を始めたように、洗礼の水を浴びせられて旅を始めました。あのときにかけられた水は、私たちが水に沈められて死んだ、という意味です。かつての私は死にました。今、キリストが生かしてくださっている私は、神の愛の中に生きています。確かにここは荒れ野であるかもしれません。しかし、キリストの十字架によって示された神の愛はいつまでも変わりません。私たちへの命の約束を成就するその日まで。

2020年2月14日金曜日

2020年2月14日(ローマの信徒への手紙5)

ローマの信徒への手紙5;
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
私が正しいからとか善い人間だからというのではなく、悪い私のために、キリストは死んでくださいました。これでは、私の方には神に愛される理由がありません。私の悪いところも好いところも知っている神様が、悪い中にも光るいいところを見つけ出して愛してくださった、というのではないのです。私の存在はまるごと悪いものだけれども、その悪いものを神が愛してくださいました。パウロはその不思議に驚いています。そして、パウロは、悪い私、罪人の私を愛してくださった神を誇っています。
誇り、プライドは、私たちにとっては厄介な問題です。プライドばかり高くて鼻持ちならない人がいます。プライドの厄介さは、本人がそれに気づけない点にあります。私たちの目に他人のプライドはすぐに映って、とても気になります。しかし、自分の鼻持ちならない醜態は自分では気づきにくいです。
誇り、プライドのもう一つ難しい点は、誇りがないのもまた不健全だ、ということです。全然自信が無く、誇りもなく、卑屈でビクビクしているというのは、健康ではありません。もしかしたら、それもまた誇りの裏返しで、自分の誇りを傷つけられないようにという予防線のようなものなのかもしれません。
パウロは誇り高い人でした。昨日見たとおりに、その誇りの多くはユダヤ人であることにかかっていました。それだけではなく、彼はファリサイ派であり、立派な教育も受け、信仰にも熱心でした。そんな自分を誇って生きてきました。パウロは自分の誇りのためにキリストの弟子を迫害しましたし、それはキリストご自身を迫害することでもあったのでした。
そんなパウロがキリストと出会い、新しい誇りを得ます。「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。」キリストが、悪人である私を愛してくださったから。神がキリストによって、一方的に罪人の私に和解の手を伸ばしてくださったから。ただそれだけがパウロの誇りです。私の良さや素晴らしさを誇るのではなく、あるいは私の悪さを卑下するのでもなく、キリストが私を愛してくださったこと、それだけを誇りとします。この誇りは、私たちの誇りでもあります。どんなときにも根拠が崩れてしまうことは決してない誇りです。キリストの愛が、私たちを誇り高くしてくださいます。

2020年2月13日木曜日

2020年2月13日(ローマの信徒への手紙4)

ローマの信徒への手紙4;
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるものと見なされます。しかし、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(3から4節)
ユダヤ人はアブラハムの子孫であることを誇りとしていました。自分たちの体に流れている血が、自分たちの正当性を神様の前で保証すると考えていたからです。このメンタリティは日本人に似ているところがあるように思います。日本人は日本人であることにこだわります。そのこだわりは差別心になって表出することもあります。
もちろん、ユダヤ人であることを忘れて「何人でもない私」なんて存在しませんから、そういう抽象化をすることも反対側の極端になってしまいます。それでは、パウロは、自分のユダヤ人としての誇りや民族性をどう解決したのでしょうか。
「アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた」と聖書は言っています。そのことを手がかりにします。アブラハムは割礼というしるしを持っていたから義とされたわけではありません。ここで唐突に割礼の話が出てきているようですが、割礼はユダヤ人であるというしるしですから、話は地続きです。割礼こそが彼らの民族性のシンボル、あるいはアイコンでした。ところが、アブラハムはそのしるしを持っていたから神に認められたのではなく、割礼も行いもある以前、ただ信じたときに神から義と認められた、というのです。これは、驚くべきことです。
企業の一員として認められるためには、社員として貢献しなければなりません。国家の一員として認められるためには、国籍を有したり納税したり、何らかの形で社会的に貢献しなければならないでしょうし、あるいはその人の民族性によって認められたり認められなかったりします。それは言葉を換えれば血縁です。しかし、アブラハムはただ信じることによって神に義と認められました。血縁によらず、貢献の度合いによらず、システムによらず、ただ信じることで神に認められた。神が義と認めたというのは、言葉を換えれば、神が「わが子」と言ってくださったということです。神の子ではない者を、神が子として迎えてくださった。神の家族にして頂いた、ということです。だから、アブラハムはすべて信じる者たちの父と呼ばれます。
私たちは、ただ信じるだけで神の子にして頂けます。神の子、神の家族として迎えられるのは、働きに対する報酬ではなく、無償で与えられる恵みです。信仰が、私たちを強くします。

2020年2月12日水曜日

2020年2月12日(ローマの信徒への手紙3)

ローマの信徒への手紙3;

「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。」

ここのところで「これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした」と言っているのは、たいへん意外なことではないでしょうか。これまでに犯されてきた罪を断罪して、ご自身の義を示すというのであれば、厳しいけれども当然のことを言っているという気がします。しかし、ここでは罪を見逃すことによって神の義が示されると言っています。どういうことなのでしょう。

この節の前半には「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」とあります。贖いの座というのは、出エジプト記25:17から22に登場しています。ここには十戒を納める箱の造り方に続けて、その蓋の造り方が書かれています。蓋には二匹の金のケルビムが据えられていて、それぞれの両翼で蓋を覆っている。ケルビムらは向かい合って、蓋の中央部を見つめています。この蓋を「贖いの座」と呼んでいます。ですから神の幕屋の一番奥には十戒を納めた契約の箱があり、その上を贖いの座が蓋になっている。その贖いの座にはケルビムが翼を広げて覆っている、という構造です。

ローマの信徒への手紙では、主イエスご自身がその贖いの座だと言っています。この贖いの座について、出エジプト記30:6では「証しの箱の上にある贖いの座の前で私はあなたに出会う」と言われています。キリストという贖いの座の前で神は私たちと出会ってくださいます。しかも、そのキリストは「真実による」贖いの座。真実というのは、キリストの真実です。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現れました。」キリストご自身が真実な方でいてくださるから、このお方を信じる者に神の義が現れました。神の義は「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされる」という義です。私たちは義しい者ではありません。「正しい者はいない。一人もいない」と聖書が言うとおりです。しかし、キリストの真実が私たちを義としてくださいました。だから、キリストという贖いの座の前で私たちと出会ってくださる神は、私たちの犯してきた罪を忍耐し、見逃してくださったのです。神はキリストの真実のために私たちの罪を赦すことによって、ご自身の義を現されました。私たちは、誰一人例外なく、この神の義に与っています。

2020年2月11日火曜日

2020年2月11日(ローマの信徒への手紙2)

ローマの信徒への手紙2;
「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。」
神が正しいお方なら、神が悪を行う者を裁き罰するというのは、当然のことです。ここで具体的に指摘されていることは、裁くことに現れるの罪です。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はありません。あなたは他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたも同じことをしているからです。私たちは、神の裁きがこのようなことを行う者の上に正しく下ることを、知っています。」人を裁くことで私たちは自分自身罪人であることを証明してしまっているのだ、と聖書は言います。裁くことは私たちにとっては快感です。テレビを見ながら、人の噂話をしながら、私たちは簡単に人を裁きます。それだけに厳しい、そして鋭くて耳が痛い言葉です。裁くことほど私たちにとって身近な罪は他にないのかもしれません。裁くとき、私たちは知らず知らずのうちに、自分は正しいという前提に立ちます。自分は正しいと信じなければ人を裁くことはできません。自分は正しいということは、自分が裁かれるはずはない、ということでもあります。
しかし、聖書は言います。「神は人を分け隔てなさいません」と。私たちの罪に応じて、神は正しい裁きをなさる。一体誰が神の裁きに耐えられるのでしょうか。
17節以下では「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り・・・」と言い始めて、律法の問題を語り始めています。律法に頼るという言い方が意味しいているのは律法を守る自分に頼るということですから、更に言えば自分の正しさに頼るということです。私たちの生活習慣には「律法」は少し遠いものであるかもしれません。しかし自分の正しさに頼るという価値観は、私たちに身近な問題です。そもそも自分の正しさに頼るから、私たちは簡単に人を裁いてしまう。自分の正しさを信じることから、私たちの罪が始まっているのかもしれません。
こういう聖書の言葉を読むと、聖書が「罪」と呼ぶ私たちの問題が、いかに根深く食い込んでいるかを考えさせられます。しかし本当は、人を裁く自分の罪の深さを私はわきまえていなかったと言わねばならないのだと思います。私は、私に代わって神に裁かれたキリストと出会うまでは、自分の罪深さが一体何を意味していたのかを知りませんでした。私に代わって裁かれた私の救い主と出会うまでは。

2020年2月10日月曜日

2020年2月10日(ローマの信徒への手紙1)

ローマの信徒への手紙1;
「キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロからーーこの福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、御子に関するものです。」
この手紙は、使徒パウロが書きました。彼は自分を「使徒」と呼びます。遣わされた者という意味の言葉です。誰から遣わされたのか。もちろん、神から遣わされた。彼をキリストの福音のために召し、使徒としたのは、神です。神が彼を彼の人生へと呼び出しました。ここにいるのは天才ではなく、ただ神によって呼び出された神の僕、奴隷にすぎません。パウロは自分がそのような者であると喜んで告白します。
なぜなら、この福音、キリスト・イエスの福音があまりにすばらしいからです。このお方は神の御子であり、死者の中から復活された方です。キリストは、私たちへの神の愛のしるしです。その方が、私たちを、今ある私にしてくださったのです。キリストのゆえに、私は今あるを得ているのです。
「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるからです。」
正しい者は、信仰によって生きる。その正しさは、私たちのすばらしい生き方が保証するのではありません。これからこの手紙を読んでいけば明らかなとおり、私たちは誰一人例外なく、罪深い者です。そして、罪の支払う報酬は死です。私たちは罪の中に神に捨てられて死ぬべき存在です。しかし、「正しい者は信仰によって生きる」のは、神がキリストを信じる者を正しいとしてくださるからです。神ご自身の力をもって、私たちをキリスト・イエスによって示された神の愛の中においてくださったのは神ご自身なのです。
だから、私たちは神様を他のものに取り替えてはならないのです。「彼らは神を知りながら、神として崇めることもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」というのは、私たち自身のことでしょう。そのような私たちを救うために来てくださったキリストを、私たちは救い主と信じて、今日の日の歩みに出て行きましょう。

2020年2月9日日曜日

2020年2月9日(マタイによる福音書28)

マタイによる福音書28;
主イエス・キリストは死者の中から復活された!これが、あの朝、女たちに託された知らせです。それを聞いて、「女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のでした。そして、その行く手に主イエスご自身がおられて、彼女たちはイエスともう一度出会います。そして、イエスご自身に命じられました。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤに行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」ですから、女たちは急いで弟子たちの所へ行ったことでしょう。主ご自身が「きょうだい」と呼ぶ者たちの所へ。キリスト教会の最初の伝令は、マグダラのマリアともう一人のマリア、彼女たち二人の女性でした。
ここにはもう一つの伝令がいます。数人の番兵が都にいる祭司長たちの所へ行きます。墓守であった彼らは、自分たちが墓で見聞きしたことを祭司長立ちに伝えます。すると、祭司長は番兵らに金を渡して言いました。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」もう一組の伝令は、イエス復活の知らせは嘘だ、と告げます。イエスは復活などしていない、それはフェイクニュースだと触れ回る。そういう伝令の役目を負っていました。金と引き換えに、です。
「あの方は死者の中から復活された」という福音を告げる伝令と、イエスの遺体は弟子たちによって墓から盗まれただけだと語る偽りの伝令。しかし、この世界は偽りの伝令の言うことに従っているかのように見えます。
しかし、主イエスはそういう世界にご自分の復活の証人を送り込みます。「私は天と地の一切の献納を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」キリスト復活の事実とそこにある私たちのための希望を、恐れずに証言するようにと主イエス・キリストは私たちを選び出してくださったのです。

2020年2月8日土曜日

2020年2月8日(マタイによる福音書27:32~66)

マタイによる福音書27:32~66;
「さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。三時ごろ、イエスは大声で叫がれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。」
主イエス・キリストは十字架にかけられ、吊された木の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んで行かれました。私たちは毎週の主の日の礼拝のときに使徒信条を告白していますが、そこで告白している主イエスが陰府に降られたということの意味は、これです。主は神に見捨てられて死なれた。神に見捨てられて死んだイエスがおられるところ、それが「陰府」です。
私たち長老教会の始まりとなったジャン・カルヴァンは、キリストが「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだとき、ほんの一瞬だけれども、キリストはそこで神であることをやめてしまわれた、キリストの神性は隠されてしまった、と言います。つまり、そこまで深く、キリストは神に裁かれ、徹底的に神から捨てられたと言うのです。
キリストが神に捨てられたということこそ、キリストが私たちに変わって王手くださった神の裁きです。私たちは、キリストが変わって神から捨てられたので、もはや神に捨てられることはありません。私のことを神様はもう見捨てたのだ、神様に呪われているのだと思わざるを得ない現実が、ときに私たちに降りかかってくるでしょう。しかし、私たちはそれでも神に捨てられていない。神から呪われてはいない。キリストがそれを全部引き受けてくださいました。私たちが降るべき陰府に、キリストが降ってくださいました。その十字架はあまりに重く、主イエスはご自分一人で負いきることができないほどでした。キレネ人シモンという人が十字架を運ぶために徴用されて、無理に担がされます。このシモンという男は、私たちのことなのかもしれません。私たちも、キリストと共に十字架を負います。パウロは言います。「今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。(コロサイ1:24)」私たちも、キリストと共なる苦しみに招かれています。隣人のための苦しみであり、キリストの苦しみを負う苦しみです。それはこのお方が、私たちのために代わって裁きを引き受けてくださったから、起こりうることに他なりません。

2020年2月7日金曜日

2020年2月7日(マタイによる福音書27:1〜31)

マタイによる福音書27:1~31;
イエスを裏切ったユダは後悔し、自殺してしまいました。悲しい出来事です。彼は「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いました。ユダが受け取った銀貨30枚は、結局祭司長たちが「陶工の畑」を買い、見知らぬ人のための墓地にしました。祭司長たちはその金について「これは血の代価だ」と言い、畑は「血の畑」と呼ばれました。
ユダのこの出来事は、繰り返し「血」という言葉が出てきます。ユダの裏切りは、血の出来事でした。血についての後悔から絶望し、やがてユダは自ら命を絶ってしまいました。
その後主イエスが裁判にかけられたとき、人々はピラトにイエスを十字架につけろと狂ったように絶叫しました。ピラトはバラバ・イエスを十字架につけてメシア・イエスを釈放してはどうかと投げかけましたが、人々はイエスを十字架につけるべきだと拒みます。「ピラトは、『一体、どんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく『十字架につけろ』と叫び続けた。ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。』民はこぞって答えた。『その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。』」ここでも、やはり「血」が問題になっています。イエスの血の責任を、民は自分たちと自分たちの子孫に降りかかって構わないと叫びます。その血の責任は我々が取るから、早くその男を十字架につけろと叫びました。
ユダはイエスを裏切ったと男として、歴史上最もさげすまれた人であるのかもしれません。しかし、イエスの血を流してしまうことへの恐れを、他の誰よりも深く知っていたとも言えます。その血の責任に自分は絶えきれないと絶望したのです。イエスが十字架につけられるという事柄の重大さをほかの誰よりも知っていたのは、ユダなのかもしれません。
主イエスは、その裁判の間中、何も答えませんでした。「ピラトは、『聞こえないのか。あんなにお前に不利な証言をしているのに』と言った。しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。」一言の弁明もしない。ご自身は罪を犯していないのですから、潔白を主張しようと思えばいくらでもできたはずです。一言も、何もおっしゃらない主イエスは、まるで自ら進んで十字架に向かって行かれるようです。イエスの血の責任の重さに絶えきれずに自ら死を選んでしまったユダの後を追うようにして。イエス・キリストは、ユダの後を追って陰府に降って行かれる。ユダがたどる道をご自身の道として、同じ所へ降って行かれます。キリストは、私たちの絶望の奥底に降ってきてくださるのです。

2020年2月6日木曜日

2020年2月6日(マタイによる福音書26:47~75)

マタイによる福音書26:47~75;
「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」主イエス・キリストは、預言者たちを通して語られた聖書の言葉が実現するようにと、歩んでこられました。それは主イエスの誕生のときからでした。マリアが身ごもって男の子を産むということも、ユダのベツレヘムに生まれたことも、ヘロデの手を逃れてエジプトに降ったことも。そこから始まって、主の歩む道の随所に、預言者を通して言われたことが実現するためであったという福音書記者マタイの注釈が入ります。そして、ここでは、主ご自身が「預言者たちの書が実現するためである」と言われるのです。
この時、祭司長たちや民の長老たちが使わした者たちが、剣や棒を持ってイエスのところへやって来ました。逮捕するために、ユダに率いられてきたのです。弟子たちは応戦します。しかし、イエスは彼らに言われます。「剣を鞘に収めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」主イエスには、預言者たちを通して語られたことを無視することもできました。逆らうことは可能でした。しかし、御自らこれを選んで、その道へと進まれます。預言者たちを通して語られたことが実現するために。
預言者たちは、一体何を語ったのか。ここでイエスがどの聖書の言葉を思い起こしておられたのかは分かりません。しかしここで主がしていることは、逮捕されることを甘んじて受け入れ、十字架に向かっていくということです。思えばマリアから生まれてきたことも、ベツレヘムで生まれたことも、ヘロデが支配する世界におられたことも、それらはすべて十字架への道です。ご自分が十字架に掛けられて成就する救いのために、イエスはその道を受け入れておられるのです。
ペトロは、その番、大祭司の家の中庭でイエスを知らないと三度繰り返して口にしてしまいました。それからイエスの「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」という主イエスの言葉を思い出して、泣きました。聖書の言葉に従って十字架へと進んで行かれるイエス・キリスト。そして、イエスの言葉を軽んじ、結局はその通りの罪を犯し、泣き崩れるペトロ。イエスはそのようなペトロや私たちのために、聖書に記された神様の御心に従っておられるのです。このお方が私たちの救い主です。

2020年2月5日水曜日

2020年2月5日(マタイによる福音書26:31~46)

マタイによる福音書26:31~46;
マタイが私たちに伝えるゲツセマネで祈る主イエスのお姿は、行き来する主イエス、というものであると思います。
主イエスは弟子たちと共にゲツセマネまで来て、ペトロとゼベダイの二人の子(ヤコブとヨハネ)だけを伴って更に奥に行きます。そして三人に「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」と言って、一人で更に奥に行きました。そこでうつ伏せになり、祈ったのです。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」と。
そして、その後、弟子たちの所へ戻ってこられました。彼らは眠っていました。ペトロに「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい」と言って、二度目に向こうへ行って祈る。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っています。そこで、彼らを離れてまた向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈ります。そして、弟子たちの所へ戻って来て言われました。「まだ眠っているのか。休んでいるのか」と。
マタイが伝えている記事を読むと、マタイはイエスが祈り、弟子のところへ戻って来て、彼らを起こし、そしてまた祈りに行ったと、戻ってくることと行くこととの繰り返しを丁寧に一回一回描いています。イエスは祈り、帰って、また祈り、帰って、また祈り、帰ってこられた。行き来するイエスのお姿をマタイは私たちに伝えています。
そしてそれがこの時だけではなく、イエスという方がなさってきたことです。イエスは父なる神と私たちとの間を行き来して、私たちの祈りを神に届けてくださいます。私たちは愚かにも主と共に目を覚ましていることができず、眠ってしまいます。もちろんここで行っている「眠る」というのは、信仰が眠っているということです。祈ることをやめてしまうことです。私たちはその意味ですぐに寝てしまいます。主ご自身は苦しみ悩みながら祈っているのに!しかも、ご自分がかけられる十字架を前にして苦しんでおられるのに!私たちの信仰は眠ってしまっているけれど、キリストは神の御許から私たちのところにまで来て、私たちを起こしてくださいます。信仰を呼び覚ましてくださいます。私たちも、主と共に祈る者となるために。
ペトロは、主イエスに「あなたは三度、私を知らないというだろう」と言われ、その通りになってしまいました。このペトロの信仰を呼び覚ますために、主イエスは神と私たちとの間を行き来しておられます。そして、私たちのために。私たちのこの祈りの時間は、主イエス・キリストに支えられています。

2020年2月4日火曜日

2020年2月4日(マタイによる福音書26:1~30)

マタイによる福音書26:1~30;
主イエスは弟子たちと一緒に過越の食卓に着きました。主がパンとぶどう酒を弟子たちに与え、一同がそれを食べました。主はそのパンを「取って食べなさい。これは私の体である」と言って与えました。また杯についても「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」と言ってお与えになりました。彼らはその食事を頂き、そして「賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」と聖書は伝えています。
この最後の賛美の歌ですが、恐らく詩編第113編から第118編であろうと考えられています。過越祭のときに歌われた詩編であったからです。このように歌っています。「私たちの神、主のような方がほかにあろうか。天にあっても地にあっても、低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ、高貴な人々と共に、民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。」
神様は天の高い御座に座っておられる。いや、天でさえも神様を納めることなどできません。そのようなお方が、地のいちばん低いところに下ってきて、塵や芥の中にうずくまっている人を起こし、高く上げてくださる。このすばらしい詩編は、主イエス・キリストのなさったことそのものです。
あの過越の食卓にはイエスを裏切ろうとしていたユダもいました。当初イエスを十字架につけた祭司長や民の長老たちは、「祭りの間はやめておこう」と言っていました。しかしユダがイエスを引き渡したので、祭りの間にイエスは十字架につけられてしまいました。そんなユダを、イエスはこの食卓に加えてくださっています。それは、まるでユダその人のためにご自分の体を裂き、血を流すとおっしゃっているかのようです。主イエスは神の独り子でありながら、低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こしてくださる方なのです。
ですから、この方の死こそが私たちの救いです。最も低く下り、十字架の死にさえ下りきってくださいました。ユダと私たちの身代わりとして。それで、ベタニアの一人の女がしたこと、イエスに油を注いだあの出来事は、美しいのです。イエスの死の記念だから。イエスの十字架の記念だから。「この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と主が言われるとおり、私たちも彼女のした記念に従って、イエス・キリストの十字架の死を仰いでいます。

2020年2月3日月曜日

2020年2月3日(マタイによる福音書25:31~46)

マタイによる福音書25:31~46;
イエス・キリストによる裁きです。羊飼いが羊を右に、山羊を左に分けるように、すべての人をご自分の右と左とに分ける、と言われます。主は右側にいる者たちに言われます。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えているときに着せ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに尋ねてくれたからだ。」マザー・テレサがインドのカルカッタにある「死を待つ人の家」で人々の世話をしていたとき、主イエスのこの言葉を思い起こしていたという話を聞いたことがあります。あの愛の業は、主イエスに仕えるというところから始まっている。主に仕えるように、隣人に仕えている。主は、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」と言われるとおり、飢え、よそ者であり、裸をさらし、病気に苦しみ、牢にいる囚人への小さな愛の業を喜ばれる方です。
その愛の業が「小さな愛の業」だと言うのは、そのあいに生きた人自身が「主よ、いつ私たちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ・・・」と言っているとおり、本人にもその自覚がない、というところに現れています。しかし、主イエスはそれをお喜びになります。
先日、ラジオ番組にあるイラン人がインタビュー出演していました。その人は現在日本にオーバーステイしており、牛久の入管施設に収容されている。建前上その施設は強制送還までの間の一時的な収容施設ですが、実態は入管の思うがままに何十年だろうと収容することができます。過酷で劣悪な環境で、音を上げて自費で国へ帰るまで無期限に収容が続いている。この人はなぜ故国に帰ろうとしないのか。彼は日本に来て、キリスト者になったそうです。イスラム教の国であるイランに帰れば迫害される。だから、帰ることはできない。しかし日本にいるかぎり収容施設での生活が続きます。熱があったりお腹が痛かったりして医者に診てもらいたいと訴えても、申請してから早くても一週間くらい経たないと診てもらえない。どんなに高熱だとしても、です。私はラジオを聴きながらとても苦しくなりました。彼らは全く人間扱いされていません。オーバーステイは確かに法を犯しているのかもしれませんが、ここまで人間扱いされないということがあっていいのでしょうか?そして、私はこれを聞きながら、聖書が寡婦、孤児、そして寄留者を苦しめたり圧迫したりしてはならないと繰り返し言っていることを思い出しました。そして、今日の御言葉です。「あなたがたは、私がよそ者であったときに宿を貸し、牢にいたときに訪ねてくれた。」主イエスはそのことを喜んでおられます。
私たちは、今、どう生きるのでしょうか?主が「この最も小さな者の一人」と言われる人は、私たちの周囲にもいるのではないでしょうか。

2020年2月2日日曜日

2020年2月2日(マタイによる福音書25:1~30)

マタイによる福音書25:1~30;
14節以降のタラントンの譬えで、主人が旅に出るとき(つまり、主人は不在です)に、自分の財産を預けます。ある者には5タラントン、別の者には2タラントン、他のものには1タラントン。タラントンというのはお金の単位で、一人の労働者の6000日分の賃金に相当します。そうすると、5タラントンというのは、約100年分の給料ということになるのでしょうか。莫大な額です。1タラントンでもおおよそ20年分です。
タラントンという言葉が語源になって、英語のtalentという単語ができました。テレビや何かに出るタレントでもありますが、「才能」をも意味します。このタラントンをそのまま才能という狭い意味で考える必要は必ずしもないと思います。しかし、ここで託されたタラントンはそれも含めて私たちが生きるために必要なものであり、私たち自身や隣人を生かすために神に与えられたもののことでしょう。与えられたものには差があります。平等ではない。それは私たちの人生の現実そのものです。私たちは皆が同じではない。タラントンという宝を預けた主人である神様は、私たちが与えられたものを用い、それに応じて自分自身や隣人を生かし、更に新しい宝を得ることを願っておられるのです。
5タラントンの僕と2タラントンの僕は与えられたものを大いに活用し、もうけを得ることができました。主人はそれを喜んでいます。ところが1タラントンの僕は宝を地面に埋め、主人の怒りを買ってしまいました。問題の急所は、主人への信頼ではないでしょうか。1タラントンの僕は、主人が「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方」だと信じて疑わなかった。それで、本当に怒りを招いてしまいました。主人は彼に向かって「悪い臆病な僕だ」と言います。臆病ではいけないのです。なぜ臆病になるのか。主人を信頼していないからではないでしょうか。
確かに、自分が持っているものと他の人が持っているものとを見比べると、自分の分は随分少ないんじゃないか、宝でも何でもないんじゃないかと思ってしまいます。あの人は5タラントンだけど、自分は違う。でもあの人よりはマシのようだから、私は2タラントンくらいかな・・・と。あるいは、自分が何十年分として神様に与えられたものは、うれしくないもの、こんなもの欲しくも何ともない、ということもよくあります。神様はどうしてこんなゴミを自分に渡してよこしたのか、と。
主人が一タラントンの僕について怒ったのは、もうけが少ないからではありません。主人を信頼しなかったからです。そのために臆病だったからです。自分が持つものを与えてくださった神様を信頼していれば、自分のタラントンを他の人と比較する必要も無くなるのではないでしょうか。神が私たちに託したものは、私たちの目にどう映ろうとも、必ず私たち自身のことも、隣人のことも生かすに違いありません。神様は祝福を込めて私たちに命というタラントンを委ねたのだと私は信じます。

2020年2月1日土曜日

2020年2月1日(マタイによる福音書24:29~51)

マタイによる福音書24:29~51;
「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。・・・だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。・・・だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」
主イエス・キリストが再び来てくださるその日がいつなのか、私たちには分かりません。しかし、私たちはその時を待っています。待ち望んで、今という時を生きています。
100年くらい前に、ドイツにブルームハルトという牧師がいました。この人は、いつも、馬車をすぐ走らせることができるように準備していたそうです。主イエスが来られたとき、すぐにそこに行けるように。ブルームハルト牧師は、主イエスを待ち望む信仰に生きた人でした。私たちは、今、主イエス様が来られるのを待っているのでしょうか。待つことが、私たちの生活に影響を及ぼしているのでしょうか。主が来られるときのためといって、いつでも部屋の掃除をしている人もあるそうです。主を待つ、ということは具体的な生活の仕方にも影響を与えます。
45節以降では、働き方への問いかけになっています。家の僕が、自分よりも目下の使用人たちと共にどう働くのか。「それが悪い僕で、主人は遅れると思い、仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もうそうなら、その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰ってきて、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」ここで問われているのは、共に生きる仲間への愛です。自分のするべきことに忠実であり、隣人への愛に生きる姿を見られる者は幸いです。小さな事柄への忠実さを、主イエスは私たちに求めておられるのではないでしょうか。
家令が忠実に働くとしたら、それは、主人への愛に生きているときです。主人を愛する僕にとっては、誠実に仕えるということは苦痛ではなく、喜びです。主人がいつ帰ってこられるのか分からない。しかも、帰りが遅くなり、もう帰ってこないのではないかと思う人まで出て来る。それでも喜んで待ちうるのは、この主人の愛を知っており、このお方が来てくださることが喜びだからです。主イエス様は、必ず来てくださいます。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と言われる方は、私たちを救うために、必ず私たちのところへ再び来てくださいます。

2020年2月16日(ローマの信徒への手紙7)

ローマの信徒への手紙7; 「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」 パウロは真剣...