2020年2月29日土曜日

2020年2月29日(ローマの信徒への手紙16)

ローマの信徒への手紙16;
この第16章を読むと、パウロがこの手紙をどんな思いでしたためてきたのか、その思いの一端が垣間見えます。パウロはここでたくさんの人の名前を挙げています。プリスカとアキラ、エパイネト、マリア、アンドロニコとユリア、アンプリアト、などなど・・・。パウロは彼ら一人一人の顔を思い浮かべながら、この手紙を書いたのではないでしょうか。そして、パウロの背後にもたくさんの人がいます。ローマのキリスト者立ちに福音が届けあれるように祈り、願ってくれている仲間たちが。「キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」この「よろしく」というわずか四文字に込められた思いは、どんなに深く、豊かなものであったことでしょうか。共にキリストの福音に仕える者たち同士の「よろしく」です。福音が彼らの絆だったのでした。
「神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めるおことがおできになります。この福音は、代々にわたって隠されていた秘儀を啓示するのです。その秘儀は、すべての異邦人を信仰による従順へと導くようにとの永遠の神の命令に従い、・・・。」秘儀と言っていますが、別の言葉に訳すなら「神秘」です。原語のギリシア語では「ミュステーリオン」という言葉が使われています。英語のミステリーの語源です。イエス・キリストについての宣教、それは神様の秘儀、神秘、ミステリーだ、と言います。キリストが神様の秘密を私たちに明かしてくださいました。
秘儀は普通は明かされないことに価値があります。秘めておくものです。しかし、イエス・キリストについて宣教、福音は、明かされ、宣べ伝えられることを求めているという点で、他の秘密とは違っています。キリストの福音は、明らかにされることを求める神秘です。
主イエスが明かしてくださったミステリーは、例えば旧約聖書というミステリーです。このローマ書では、旧約の律法にあらわされていたミステリーがつまびらかにされていました。神様は、律法に映し出される私たちの罪深さにもかかわらず、何の功績もなく私たちを救ってくださいます。このように、神様は惜しみなく秘儀を明らかにしてくださいます。私たちはキリストによって示された神の愛から、新約聖書も、旧約聖書も読むことができるのです。キリストが明かしてくださる愛の神秘が、私たちを生かしてくださいます。

2020年2月28日金曜日

2020年2月28日(ローマの信徒への手紙15:14〜33)

ローマの信徒への手紙15:14~33;
「こういうわけで、私はあなたがたのところに行くことを、何度も妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、あなた方のところへ行きたいと長年、切望してきたので、イスパニアへ行くとき、それをかなえたいと思います。」
パウロはローマを訪問したいとずっと願ってきましたが、なかなかそれは叶えられませんでした。パウロは更にその先、イスパニア、つまりスペインにまで行きたいと考えていました。地中海世界の果てということになります。ローマに行きたかったけどなかなかいけなかった。そこで、更にその先のイスパニアにまで行く。だから、その途上でローマを訪問しよう、と言うのです。実際にはパウロがイスパニアに行くことはできませんでした。しかしローマには訪れました。しかしそれはパウロが思っても見なかった形で、つまり囚人としてローマまで護送されるという形で行くことになります。思わぬ仕方で、パウロが異邦人に福音を宣べ伝える働きが進んでいったのでした。
彼がローマに行きたいと願ったのは、神様が自分をそこに異邦人へ遣わしたと確信していたからです。「それは、私が神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。」パウロは自分を異邦人のための祭司だ、と言います。
去年使っていた通読表を使って今年も旧新訳聖書を通読していると、今ちょうどレビ記を呼んでいることになります。レビ記は祭司の作法について丁寧に触れています。レビ記が記す祭司の振る舞いは、聖なるものと穢れたものとと分ける、ということが基本です。食べ物から始まって、それは日常のありとあらゆることに及びます。そして日常生活を区別し「穢れ」を可視化することで、「聖」とは何かを始めて知ることができます。白っぽいクリーム色と真っ白の違いは、並べて区別することでしか分からないのと同じです。ですから、祭司の基本的な作業は「区別」にあります。
しかし異邦人のための祭司となったパウロは、それまでは穢れた存在と考えられてきた異邦人と、聖なる民と考えられてきたユダヤ人との区別をなくしました。聖なる方はただお一人、キリストだけ。キリストによって示された聖なる愛だけが、聖い。その聖さは、穢れた罪人である私たち(異邦人もユダヤ人も)を愛してくださるところで発揮されました。誰もが、キリストのゆえに、神に近づくことができます。キリストは、人間的なすべての区別を乗り越えて、神の聖なる愛を私たちの穢れの中で輝かせるのです。パウロも彼に続く教会も、そのために仕えています。

2020年2月27日木曜日

2020年2月27日(ローマの信徒への手紙15:1〜13)

ローマの信徒への手紙15:1〜13
「私は言う。キリストは神の真実を現すために、割礼のある者に仕える者となられました。」
パウロはこの手紙で、一貫して、割礼によらない福音を伝えてきました。人は割礼を受け、律法を守ることによって義とされるのではない。神の恵みによって、キリストの真実によって救われるのだ、と。つまり、神様の救いの御業には、異邦人もユダヤ人も与ることができる、と訴えてきました。これまでは異邦人は割礼を受けなければならないとされていました。つまり、先ずユダヤ人になったら救いの条件が整えられる、ということになります。しかしキリストの十字架の御業は、どんな人にも条件なく神様の救いを届ける出来事です。だから、キリストがいてくださるから、異邦人ではない私たちも神様の御許に招かれたのです。
しかし、キリストは異邦人だけではなくユダヤ人にとっても主です。割礼あるものにとっても、キリストは救い主です。主イエスは本当に自由な方だと思います。もしも私が救い主の立場だったとしたら、割礼なしの救いというものを打ち立てたら割礼ありの者は排除してしまうような気がします。しかし、主イエスは割礼の有無にこだわらずに、神の愛を届けてくださいました。主イエスは言われます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:32)」。主イエスの自由は、愛の自由です。私たちをどんな者でも、条件なしに愛する自由です。
だから、この愛を頂いている者として、パウロは私たちに勧めました。「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。おのおの、互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自身を喜ばせようとはなさいませんでした。」私たちも愛する自由に招かれています。

2020年2月26日水曜日

2020年2月26日(ローマの信徒への手紙14)

ローマの信徒への手紙14;
「従って、もう互いに裁き合うのはやめましょう。」
パウロはそのように言います。人を簡単に裁いてしまうというのは、私たちの重い病気のようなものであるかもしれません。後になってよくなかったと思うことはあっても、裁くようなことを口にしているときには、こんなに強い快感を覚えることは他にはありません。誰かと会って噂話をしてその人を裁いてみせることも、テレビに座って、不倫や薬物で失敗した有名人を裁くことも、とどまることを知らない。そんな醜悪な言葉を吐いている自分をビデオにでも撮って後から見せられたりしたら、そんなに恥ずかしことはありません。頭ではそう分かっていますが、舌を制するのは本当に難しいことです。一体どうしたらいいのでしょうか。
やはり、キリストを見上げることなしには、それは不可能です。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。」きょうだいを裁いてはならないということの根拠は、キリストが死に、そして生きたことだと言います。やはり、この事実から始めないと、どうしようもないようだと思います。キリストの死と復活の事実こそが、揺れ動き不安定な私たちの、変わることのない不動点、常に確かめるべき基準点です。
ここでは具体的に、食べ物のことが問題になっています。コリント教会と似たような問題があったのでしょう。偶像に備えられた肉を食べても良いのか?偶像の神なんてそもそもいないので、ただの肉として感謝して食べればそれでよろしい。論理的な話の筋としてはそうなりますが、それによって躓く人もいました。肉を食べる人たちは、弱い人たちを裁きました。パウロの考える筋道は、偶像の肉を食べることが正しいか間違っているかということではありません。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人に信頼されます。だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」「きょうだいが心を痛めているなら、あなたがたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません。キリストはそのきょうだいのためにも死んでくださったのです。」キリストがこの人にしてくださったこと、そして、それゆえに私は何をすべきなのか。それがパウロの考える人間関係の基準です。

2020年2月25日火曜日

2020年2月25日(ローマの信徒への手紙13)

ローマの信徒への手紙13;
「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。」
使徒パウロが書いた手紙の一節であるこの言葉は、大変驚くべき言葉ではないでしょうか。パウロといえばローマ帝国の権力と対峙した人です。自分を捕縛したユダヤの最高法院に対し、自分はローマの市民権を持っているのだからローマへ護送して皇帝に直訴させて欲しいと言って、実際にローマまで連行されます。ローマでは囚われの身で生活をし、暴君ネロの時代にローマで殉教したと伝えられています。第一、主イエスを捕まえたのもユダヤの権力者たちでしたし、十字架刑の判決を下したポンテオ・ピラトはローマの役人です。権力の下での苦しみを実際に嘗めつくしたし、権力の下で殺された方を神のこと信じている者の言葉です。ですので、大変驚くべき言葉ではないでしょうか。
パウロはこの下りで税金のことにも触れています。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」主イエスご自身、皇帝に対する税金を納めるようにおっしゃったことがありました。キリスト者はこの世で生き、働き、自分の義務に従って決められた額を納税します。一人の善良な市民として生きます。
しかし、例えばナチスに支配されていた時代のドイツのように、国家権力が暴走してしまったとしたらどうなのでしょうか。それでも権力に従うべきなのでしょうか。パウロは権力について「権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです」と言います。従って、もしも権力が神に仕えるという究極的な目的から逸脱してしまうことがあれば、それに対しては「否」と言うことまた権力に仕えることの一つなのではないでしょうか。権力に仕えることと時流に乗ることとは違います。神に仕えることを蔑ろにするならば、「ならぬものはならぬ」と言わねばなりません。
神に仕えるということを、パウロは「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」と言って、愛の掟に見ています。互いを愛し、隣人を尊び、「馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て」る。つまり、「主イエス・キリストを着」ること。それが神に仕えることだと言います。それは、キリストを着ると言っているとおり、主イエス様が歩まれたように歩むということではないでしょうか。私たちは、この世界でキリストを着る者、神の国からこの世界に来た在留外国人なのです。

2020年2月24日月曜日

2020年2月24日(ローマの信徒への手紙12)

ローマの信徒への手紙12;
「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。」
「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」とあります。新共同訳では「あなたがたのなすべき礼拝です」となっているところですので、基本的には同じ理解と言ってよいと思います。この「理に適った」とか「なすべき」と訳されている言葉の語源は「言う」という動詞で、「言葉」や「言」と訳される「ロゴス」いう単語も同じルーツを持ちます。ですので、「理に適った」というのは、まさに筋の通った、そうすべき事柄だ、ということになるだろうと思います。
この言葉で興味深いのは、同じ単語に「霊的な」という意味もあるということです。日本聖書協会共同訳の訳注には、その意味もあると指摘されています。「理に適った」というのと「霊的な」というのでは随分と違う、場合によっては矛盾するのではないかと考えてしまいがちですが、それは全くの勘違いだと言わなければなりません。
ここで「霊的」というのは、この世に倣わないということです。世間のまねをするのではなく、神様の前にふさわしい生き方を選び取る。何が神の御心であり、神に喜ばれるのかを理性を持って識別し、選んで、生きていきます。神の御心を求め識別して生きることこそ、霊的な生き方です。それこそ、私たちの礼拝です。礼拝は、日曜日の午前中だけの話ではありません。私たちの生き方そのものが神を礼拝するものとなりうるのだ、と聖書は語りかけます。素敵な御言葉です。
神の御心に適った生き方ということについて、9節ではすぐに「愛には偽りがあってはなりません」と言います。また「兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望を持って喜び・・・」と続きます。私たちが兄弟愛に生きる、そのためにこの身を献げること、それが理に適った生き方であり、礼拝だと言います。なぜ理に適っているのか?それこそ現代的なこの世の知恵では、隣人愛なんてコスパが悪いと言われかねません。隣人愛が理に適っているのは、私自身がキリストの愛に生かされているからです。それ以外の理由はありません。情けは人のためならずではなく、私たちはまさに自分のためではない「人のため」の情けに招かれています。それは、キリストが私のために情け深い方でいてくださるからです。他の理由は、ありません。キリストの愛が私たちのすべてです。

2020年2月23日日曜日

2020年2月23日(ローマの信徒への手紙11:13~36)

ローマの信徒への手紙11:13~36;
「ユダヤ人は不信仰のために折り取られ、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。」
パウロは、今、ユダヤ人が不信仰と不従順に陥っている現実を見つめています。そして、この手紙を読んでいる異邦人キリスト者たちに、神の慈しみを思い起こさせます。もともと、神様はアブラハムを選び、その子孫であるユダヤ人をお選びになり、ご自分の民となさいました。ところがユダヤ人は不信仰と不従順に陥ってしまった。それがゆえに、異邦人に福音がもたらされた。だから、異邦人キリスト者のあなたがたは、ユダヤ人をさげすむのではなく、ただ神の慈しみと厳しさを思って恐れよ、とパウロは言います。
この手紙で繰り返し繰り返し、パウロが私たちに訴えることは、私たちは何の功績によって選ばれたわけではなく、ただ神の慈しみのゆえに信仰に入れられた、という事実です。だから、私たちには高ぶることはできません。神の慈しみの事実を思えば、それはまったく不可能なことです。
ときに、信仰生活に失敗してしまうことが私たちにはあります。教会を離れてしまった。何らかの罪を犯して敷居が高くなってしまった。牧師や長老を続けてはならないような過ちを犯した。あるいは、教会生活が重荷になったり、煩わしくなったりしてしまうこともあるかもしれません。私がその当事者になるかもしれないし、身近な人であるかもしれません。そんなとき、私たちは自分のことも隣人のことも裁くのではなく、ただ神の慈しみと厳しさに心を向けたいと願います。何の功もない私を選んでくださった神の慈しみです。そして何よりも、キリストを十字架にまでおつけになった神の厳しさです。神を畏れ、身をかがめて、一人の赦されなければ生きられない罪人として、神様の御前に出て行きます。神に赦された罪人として、神様の御前に頭を垂れて生きていきたい。罪人の群れの中に帰って行きたい。そう願います。

2020年2月22日土曜日

2020年2月22日(ローマの信徒への手紙11:1〜12)

ローマの信徒への手紙11:1~12;
預言者エリヤはイスラエルの人々が女王イゼベルの下にバアルに膝をかがめ、主なる神を忘れ、背いたとき、酷い迫害に遭いました。イスラエルの信仰の火はもう消えたと言わざるを得ない状況でした。それで、エリヤは神に祈ります。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。私だけが残りましたが、彼らは私の命を狙っています。」ところが、パウロは言います。神がエリヤに何と告げたのか。神は言われました。「私は、バアルに膝をかがめなかった七千人を自分のために残しておいた」と。エリヤの見えないところで、神ご自身がイスラエルの人々に働きかけてくださっていました。エリヤの目には、イスラエルの人々が自分の仲間の預言者たちを迫害し、殺し、主の祭壇も破壊し、イスラエルの信仰が崩されたことしか見えていませんでした。しかし、それでもなお神は働いてくださっていました。神が、周囲の流れに棹さすことなく、周りにあわせないで、バアルに膝をかがめなかった者、信仰に生きた者を7000人も残しておいてくださったのです。
パウロがしているのはユダヤ人の話です。ユダヤ人は神に退けられのかという問いへのパウロからの答です。そのことを十分踏まえた上で、私たちがパウロのこの言葉を私たちの周囲に生きる同胞のための言葉として聞くことも許されるのではないでしょうか。私たちの目に映るところがどんなに悲惨だったとしても、神様は、この世界の中で働き、ここにも「7000人」を残してくださるに違いないのです。
エリヤはユダヤの人々を憎んでいたわけではありません。迫害されながら一所懸命に伝道して生き続けました。そのエリヤをして「もうだめだ」という言葉が口をついて出てきてしまう過酷な現実がありました。しかし、神様の御業は、エリヤの諦めだけではなく熱心よりも広く、そしてすばらしいものなのです。

2020年2月21日金曜日

2020年2月21日(ローマの信徒への手紙10)

ローマの信徒への手紙10;
「『言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にある。』これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」
聖書は驚くべきことを言います。「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」常識的には、おかしな言葉です。普通はこう考えます。人間、口で何を言おうとも、本音のところでは信用ならない。結局、心の奥にしまってある本音が現れるのは、生き方だ。何をしているかだ。どう生きているかによって、その人の価値は決まる。
もちろん、どう生きたって、どういう行いに生きていたってどうでも良い、という話ではありません。そもそも5節以下では、「心の中で『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない」という話をしていました。つまり、他人の信仰についてあれこれ評価をしたり裁いたりしてはならない、という意味でしょう。ここでの何を話すのかということは、私たちの行いを意味します。ですから、信仰において行いはどうでもいいものだ、という話ではないことが分かります。
パウロが話しているのは、私たちの救いにかかわることです。私たちを救うのは、私たちの行いや生き方ではない、ということです。それは、ただ神様だけの問題です。だから、私たちは誰が天に上るのか、誰が地獄に落ちるのかと言って、神様の領域に口を挟んではならないのです。私たちは、ただ信じるだけです、キリスト・イエスに示された神の愛を。「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は皆、救われる』のです。」
私たちを救うのは、私たちの行いではありません。神様だけです。だから、私たちは神様を信じるだけです。キリストを信じ、キリストの愛を感謝するだけです。イエスは主であると告白すること、神がイエスを死者の中から復活させられらと心で信じること。私たちは、キリストの愛をただ受け入れるだけです。私たちの行いによらない救いだから私たちもこの救いに入れられたのです。

2020年2月20日木曜日

2020年2月20日(ローマの信徒への手紙9:19~33)

ローマの信徒への手紙9:19~33;
「ホセアの書でも、言われているとおりです。『私はわが民ではない者をわが民と呼び、愛されなかった女を愛された女と呼ぶ。「あなたがたはわが民ではない」と彼らに言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と呼ばれる。』」
話は、ユダヤ人のことです。神様が異邦人に福音を知らせ、信じて多くの人が救われた。パウロはそこで私たちの反論に答えています。「そこで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人のを責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか。』」神様が異邦人を選んでユダヤ人を捨てたのなら、もう今更ユダヤ人が悔い改めようが神を求めようが、そんなことは関係ないではないか。どうせ神様が全部を決めてしまうのなら、私たちの信仰に意味なんて無いだろう、という問です。
これは、私たちの間でも繰り返し問われていることではないかと思います。「運命」と呼ばれることもあります。私たちを支配する、私たちにはどうすることもできない力。それが、結局は私の人生を支配しており、努力にも限界があるという、諦めを前提にした信仰です。
パウロはこう言います。「ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるだろうか。」つまり、造られた者としての分をわきまえよ、ということでしょう。私は神に造られた者。その分際に立ち帰れば、運命論に逃げてしまうようなことはないはずだ、と言うのです。
私たちは神様に造られました。人間の陶工であっても、器をある目的に従って造ります。ご飯を食べるため、おかずをもるため、鑑賞のため、植物を植えるため、掃除のため、ゴミ箱にするため・・・。神様も、私たちを目的をもって造りました。私をつくった神さまに目的があるということは、私たちは、正体不明で恐ろしい「運命」なるものに支配されているのではない、ということです。
あるときには、私たちの目から見たら、自分をこのような目的のために造って欲しくはなかったということもあるかもしれません。もっと違う目的のために、雑巾を絞るためではなく美しい花を生けるための器にして欲しかった、と。しかし、そのような清いことか汚れたことかという区別は私たちの目から見た区別にすぎません。神様は、かえって、神の民ではない者、愛されなかった者を選んで愛し、ご自分のものと呼んでくださいました。この世の中では捨てられる者をあえて選んで、ご自分の愛するものとしてくださいました。だから、この愛を信頼しよう。パウロは私たちにそう呼びかけます。

2020年2月19日水曜日

2020年2月19日(ローマの信徒への手紙9:1〜18)

ローマの信徒への手紙9;
「私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。」
自分と同じユダヤ人のためのパウロの深い悲しみは、私たちの心にも迫るものがあります。私たちは、私たちの肉による同胞のために、この悲しみを抱いているでしょうか。パウロは、ユダヤ人たちがキリストに背き、神の真実を無下にし、キリストに示された神の愛を足蹴にしている現実に直面していました。キリストの愛から遠く離れているユダヤ人を、怒ったり裁いたりするのではなく、悲しみ、彼らのためであれば自分の身が神の呪いとなってもよいとさえ言います。これはキリストの思いそのものです。
日本は、日本人は、今、一体どのようなことになってしまっているのか。そのしるしは社会の至る所に現れています。国家権力は私物化され、役人は自己保身のために忖度レースにいそしみ、テレビをつければ現実離れした「日本スゴイ」の声に満ちています。これは政治のせいではありません。例え別の政府に変わったとしても、問題の根は変わりません。日本スゴイも政治の私物化も、巷のヘイトも、可視化した症状に過ぎないのであって根本問題ではないからです。この社会を構成する私たち自身が、ここ数十年無かったほどの重い病気になっているとしか言いようがないのではないでしょうか。
パウロは、この社会を見て悲しむと思います。裁くのではなく、悲しむと思います。そして、真実に、キリストの福音が必要であることに重い責任を感じたことでしょう。今、その責任を負っているのは私たちです。今の時代に本当に必要なものは、まやかしの「日本スゴイ神話」ではなく、主イエス・キリストの福音です。
神様は、生まれる前からすでにエサウではなくヤコブを選んでおられた、と言います。「これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。」エサウは長男なので、肉に従えば選ばれるべき正当性があるのはエサウです。ヤコブには何の正当性も理由も根拠もない。しかし、何の理由も根拠もなく、人間的に見ればふさわしくもなく、性格も悪いヤコブが選ばれました。ただ神の恵みのみによって。この値ない者への神の恵みこそ、今この社会に本当に必要なものです。あなたのことも、神は愛している。神の恵みによって、あなたも救われている。そのようにして伝道する教会を、神様は、今この世界に求めておられるのではないでしょうか。

2020年2月18日火曜日

2020年2月18日(ローマの信徒への手紙8:18〜39)

ローマの信徒への手紙8:18~39;
「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」
何と力強い御言葉でしょう!例えどのようなものであっても、私たちを神の愛から引き離すことはできない。「勝って余りある」と言います。私はだめだけど、キリストがすごい分少しだけ勝てる、というのではありません。私たちは勝って余りある、大勝利を収める。その勝利は、キリストの愛の勝利です。私たちが神の愛によって勝ち取られ、キリストのものとなるという勝利です。そのために、キリストは神の右にいて、私たちのために執り成してくださるというのです。
この聖書の御言葉は、「これらすべてのことにおいて」と始まっていました。苦難や迫害、飢え、裸、危険、剣などを数えています。パウロは、今この時の私たちの苦しみの現実を考えています。彼は「思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」と言います。苦しいと、目の前のことしか見えなくなります。今この時がすべてであるような気持ちになって、辛くなります。苦しみの現実を客観的に見る秘訣は、将来を望むことです。だから、パウロは「将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」と言いました。将来の約束に目を向けると、この時が相対化されます。すべてだと思い込んでいた今の苦しみの先に希望があることに気づきます。
ただし、その将来に希望があると信じられないと、今ですべてになってしまうのではないでしょうか。私たちの今は虚無に服したものであるかもしれません。私たちは呻き、苦しんでいる。しかしその苦しみが「産みの苦しみを味わっている(22節)」のだと気づくことができるのは、キリスト・イエスによって神の愛を示されているからに他ならないのではないでしょうか。
キリストこそ私たちの希望、慰め、救いです。キリストに示された神の愛はどのようなときにも変わることなく、私たちを掴んで放さない、確かな神様の思いなのです。

2020年2月17日月曜日

2020年2月17日(ローマの信徒への手紙8:1〜17)

ローマの信徒への手紙8:1~17;
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。」
主イエス・キリストは、私たちに祈りを教えてくださいました。「天にまします我らの父よ」と祈ることを。私たちは、神を「父よ」と呼びます。主イエス様の口まねをして!主イエスと同じように、神に向かって、大胆にも「父よ」とお呼びしているのです。
しかも、「アッバ」です。喃語から生まれた言葉です。赤ちゃんが言葉にもならないような言葉で父を呼んでいる、そこから生まれた父の呼び名が「アッバ」。主イエスは、かしこまって祈るのではなく、言葉もしゃべれない赤ちゃんが父親を呼ぶように「父」と呼んで祈ることを教えてくださいました。私たちは、神様を「父」と呼んでよいのです。
神様を「父」と呼ぶと言うことは、すなわち、私たちは子どもだということです。そのことについて、続けてこのように言います。「子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共に栄光を受けるからです。」私たちは、それぞれに与えられた人生の旅路を歩み、それぞれの苦しみをも負っています。しかも、自分のために苦しむということだけではなく、隣人のために共に苦しむという恵みにもあずかっています。隣人のための苦しみは、キリストと共なる苦しみです。キリストと共に苦しむ者を、神は、キリストと共なる相続人としてくださると言います。私たちは信仰によって福音を受け継ぎ、神の霊によって命を相続するのです。
私たちにとって、イエス・キリストがすべてです。昨日の礼拝で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という御言葉を聞きました。その独り子をお与えになったほどに、この「ほどに」という言葉が、鍵です。私たちは独り子を与えてくださったという事実だけに神の愛を見ます。他の場所ではありません。そして、神が私たちに独り子を与えてくださったという事実は、私たちが「父よ」と祈ることができたということからも、明らかなことなのです。

2020年2月16日日曜日

2020年2月16日(ローマの信徒への手紙7)

ローマの信徒への手紙7;
「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」
パウロは真剣な人です。何よりも、キリストを信じ、キリストの僕として生きることに一所懸命な人でした。その一事に生きていました。ところが、そうであるからこそ、彼は自分の罪に心を痛めました。神が与えてくださった律法を喜び、この身を献げて神に仕えて生きていきたい。そう願いながら、自分の実際の姿は罪の虜になっている。もしもパウロがいい加減な気持ちでいたり、適当なところでごまかすような人であったら、このすばらしい手紙が書かれることもなかったでしょう。パウロのこの真剣さも神が与えてくださった贈り物であるに違いない。しかし、この痛みはただパウロだけのこと、私たちにとって他人事では済みません。
私たちも、同じです。同じ惨めな人間です。「私は自分のしていることが分かりません。自分の望むことは行わず、かえって憎んでいることをしているからです。・・・それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」これは私たち自身の呻きではないでしょうか。私たちは、本当に自分がしたいと思っていることをしているのでしょうか?
今は、自己実現の時代です。自分のしたいことをすることが何よりも大事なこととされています。確かに、自己決定権も認められずに周りの者が役割として押しつけたことを忍耐してこなさなければならないということから自由になったのは、すばらしいことです。しかし、無制限な自己実現の恐ろしさも、私たちは実感として知っているのではないでしょうか。人間が願うことは、どれもこれもがすばらしいこととは限りません。したいことの彼方には、結局惨めさしか残らないということも本当のことなのではないでしょうか。
私たちを欲望や罪の虜にする衝動から、一体どうしたら自由になれるのでしょうか。
パウロは言います。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」罪の法則に仕えてしまっている私たちを救ってくださるのは、ただキリストだけです。キリストが私たちを罪から解放して、自由にしてくださるのです。だから、この方の招きに、今朝、応えましょう。

2020年2月15日土曜日

2020年2月15日(ローマの信徒への手紙6)

ローマの信徒への手紙6;
「時間」って、一体なんでしょうか。辞書を引くと、このようにに説明しています。「人間の行動を始めとするあらゆる現象がその流れの中で生起し、経験の世界から未経験の世界へと向かっていく中で絶えず過ぎ去っていくととらえられる、二度と元には戻すことができないもの。」なかなか難しい語釈です。簡単なこと、身近なことほど説明するのは難しい、ということであるのかもしれません。
今日の御言葉には、聖書の時間論が隠れているのではないかと思います。「しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。」「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。しかし、今や罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。」
主イエス・キリストにあって、私たちの罪はもはや過去のものとなりました。私たちは、かつては罪の奴隷でした。罪に仕えて生きてきました。ところがキリストが何の功もない私をご自分のものとし、私のために十字架にかかり、私たちを罪の奴隷ではなく神の奴隷にしてくださいました。私たちは、今や、罪ではなく神に仕えて生きています。そして、神はわたしたちにやがて永遠の命を与えてくださることでしょう。私たちは罪の過去を生きてきましたが、、神の恵みによって今があり、そして神の約束という将来を待ち望んでいます。それが、聖書が言う「時間」の意味です。
だから、私たちはこのような神の恵みの時間を生きているのですから、それにふさわしく生きていきます。罪の過去を、私たちはときに懐かしく思います。しかしそれは、エジプトから脱出し、荒れ野の旅をする神の民が昔に懐かしんでいた肉鍋にすぎません。確かにここは荒れ野であっても、しかし、確かに神の恵みによって私たちは生かされています。神が与えてくださる約束の地に向かって。
私たちはエジプトを出た民が海の中をくぐってその旅を始めたように、洗礼の水を浴びせられて旅を始めました。あのときにかけられた水は、私たちが水に沈められて死んだ、という意味です。かつての私は死にました。今、キリストが生かしてくださっている私は、神の愛の中に生きています。確かにここは荒れ野であるかもしれません。しかし、キリストの十字架によって示された神の愛はいつまでも変わりません。私たちへの命の約束を成就するその日まで。

2020年2月14日金曜日

2020年2月14日(ローマの信徒への手紙5)

ローマの信徒への手紙5;
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
私が正しいからとか善い人間だからというのではなく、悪い私のために、キリストは死んでくださいました。これでは、私の方には神に愛される理由がありません。私の悪いところも好いところも知っている神様が、悪い中にも光るいいところを見つけ出して愛してくださった、というのではないのです。私の存在はまるごと悪いものだけれども、その悪いものを神が愛してくださいました。パウロはその不思議に驚いています。そして、パウロは、悪い私、罪人の私を愛してくださった神を誇っています。
誇り、プライドは、私たちにとっては厄介な問題です。プライドばかり高くて鼻持ちならない人がいます。プライドの厄介さは、本人がそれに気づけない点にあります。私たちの目に他人のプライドはすぐに映って、とても気になります。しかし、自分の鼻持ちならない醜態は自分では気づきにくいです。
誇り、プライドのもう一つ難しい点は、誇りがないのもまた不健全だ、ということです。全然自信が無く、誇りもなく、卑屈でビクビクしているというのは、健康ではありません。もしかしたら、それもまた誇りの裏返しで、自分の誇りを傷つけられないようにという予防線のようなものなのかもしれません。
パウロは誇り高い人でした。昨日見たとおりに、その誇りの多くはユダヤ人であることにかかっていました。それだけではなく、彼はファリサイ派であり、立派な教育も受け、信仰にも熱心でした。そんな自分を誇って生きてきました。パウロは自分の誇りのためにキリストの弟子を迫害しましたし、それはキリストご自身を迫害することでもあったのでした。
そんなパウロがキリストと出会い、新しい誇りを得ます。「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。」キリストが、悪人である私を愛してくださったから。神がキリストによって、一方的に罪人の私に和解の手を伸ばしてくださったから。ただそれだけがパウロの誇りです。私の良さや素晴らしさを誇るのではなく、あるいは私の悪さを卑下するのでもなく、キリストが私を愛してくださったこと、それだけを誇りとします。この誇りは、私たちの誇りでもあります。どんなときにも根拠が崩れてしまうことは決してない誇りです。キリストの愛が、私たちを誇り高くしてくださいます。

2020年2月13日木曜日

2020年2月13日(ローマの信徒への手紙4)

ローマの信徒への手紙4;
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるものと見なされます。しかし、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(3から4節)
ユダヤ人はアブラハムの子孫であることを誇りとしていました。自分たちの体に流れている血が、自分たちの正当性を神様の前で保証すると考えていたからです。このメンタリティは日本人に似ているところがあるように思います。日本人は日本人であることにこだわります。そのこだわりは差別心になって表出することもあります。
もちろん、ユダヤ人であることを忘れて「何人でもない私」なんて存在しませんから、そういう抽象化をすることも反対側の極端になってしまいます。それでは、パウロは、自分のユダヤ人としての誇りや民族性をどう解決したのでしょうか。
「アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた」と聖書は言っています。そのことを手がかりにします。アブラハムは割礼というしるしを持っていたから義とされたわけではありません。ここで唐突に割礼の話が出てきているようですが、割礼はユダヤ人であるというしるしですから、話は地続きです。割礼こそが彼らの民族性のシンボル、あるいはアイコンでした。ところが、アブラハムはそのしるしを持っていたから神に認められたのではなく、割礼も行いもある以前、ただ信じたときに神から義と認められた、というのです。これは、驚くべきことです。
企業の一員として認められるためには、社員として貢献しなければなりません。国家の一員として認められるためには、国籍を有したり納税したり、何らかの形で社会的に貢献しなければならないでしょうし、あるいはその人の民族性によって認められたり認められなかったりします。それは言葉を換えれば血縁です。しかし、アブラハムはただ信じることによって神に義と認められました。血縁によらず、貢献の度合いによらず、システムによらず、ただ信じることで神に認められた。神が義と認めたというのは、言葉を換えれば、神が「わが子」と言ってくださったということです。神の子ではない者を、神が子として迎えてくださった。神の家族にして頂いた、ということです。だから、アブラハムはすべて信じる者たちの父と呼ばれます。
私たちは、ただ信じるだけで神の子にして頂けます。神の子、神の家族として迎えられるのは、働きに対する報酬ではなく、無償で与えられる恵みです。信仰が、私たちを強くします。

2020年2月12日水曜日

2020年2月12日(ローマの信徒への手紙3)

ローマの信徒への手紙3;

「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。」

ここのところで「これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした」と言っているのは、たいへん意外なことではないでしょうか。これまでに犯されてきた罪を断罪して、ご自身の義を示すというのであれば、厳しいけれども当然のことを言っているという気がします。しかし、ここでは罪を見逃すことによって神の義が示されると言っています。どういうことなのでしょう。

この節の前半には「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」とあります。贖いの座というのは、出エジプト記25:17から22に登場しています。ここには十戒を納める箱の造り方に続けて、その蓋の造り方が書かれています。蓋には二匹の金のケルビムが据えられていて、それぞれの両翼で蓋を覆っている。ケルビムらは向かい合って、蓋の中央部を見つめています。この蓋を「贖いの座」と呼んでいます。ですから神の幕屋の一番奥には十戒を納めた契約の箱があり、その上を贖いの座が蓋になっている。その贖いの座にはケルビムが翼を広げて覆っている、という構造です。

ローマの信徒への手紙では、主イエスご自身がその贖いの座だと言っています。この贖いの座について、出エジプト記30:6では「証しの箱の上にある贖いの座の前で私はあなたに出会う」と言われています。キリストという贖いの座の前で神は私たちと出会ってくださいます。しかも、そのキリストは「真実による」贖いの座。真実というのは、キリストの真実です。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現れました。」キリストご自身が真実な方でいてくださるから、このお方を信じる者に神の義が現れました。神の義は「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされる」という義です。私たちは義しい者ではありません。「正しい者はいない。一人もいない」と聖書が言うとおりです。しかし、キリストの真実が私たちを義としてくださいました。だから、キリストという贖いの座の前で私たちと出会ってくださる神は、私たちの犯してきた罪を忍耐し、見逃してくださったのです。神はキリストの真実のために私たちの罪を赦すことによって、ご自身の義を現されました。私たちは、誰一人例外なく、この神の義に与っています。

2020年2月11日火曜日

2020年2月11日(ローマの信徒への手紙2)

ローマの信徒への手紙2;
「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。」
神が正しいお方なら、神が悪を行う者を裁き罰するというのは、当然のことです。ここで具体的に指摘されていることは、裁くことに現れるの罪です。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はありません。あなたは他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたも同じことをしているからです。私たちは、神の裁きがこのようなことを行う者の上に正しく下ることを、知っています。」人を裁くことで私たちは自分自身罪人であることを証明してしまっているのだ、と聖書は言います。裁くことは私たちにとっては快感です。テレビを見ながら、人の噂話をしながら、私たちは簡単に人を裁きます。それだけに厳しい、そして鋭くて耳が痛い言葉です。裁くことほど私たちにとって身近な罪は他にないのかもしれません。裁くとき、私たちは知らず知らずのうちに、自分は正しいという前提に立ちます。自分は正しいと信じなければ人を裁くことはできません。自分は正しいということは、自分が裁かれるはずはない、ということでもあります。
しかし、聖書は言います。「神は人を分け隔てなさいません」と。私たちの罪に応じて、神は正しい裁きをなさる。一体誰が神の裁きに耐えられるのでしょうか。
17節以下では「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り・・・」と言い始めて、律法の問題を語り始めています。律法に頼るという言い方が意味しいているのは律法を守る自分に頼るということですから、更に言えば自分の正しさに頼るということです。私たちの生活習慣には「律法」は少し遠いものであるかもしれません。しかし自分の正しさに頼るという価値観は、私たちに身近な問題です。そもそも自分の正しさに頼るから、私たちは簡単に人を裁いてしまう。自分の正しさを信じることから、私たちの罪が始まっているのかもしれません。
こういう聖書の言葉を読むと、聖書が「罪」と呼ぶ私たちの問題が、いかに根深く食い込んでいるかを考えさせられます。しかし本当は、人を裁く自分の罪の深さを私はわきまえていなかったと言わねばならないのだと思います。私は、私に代わって神に裁かれたキリストと出会うまでは、自分の罪深さが一体何を意味していたのかを知りませんでした。私に代わって裁かれた私の救い主と出会うまでは。

2020年2月10日月曜日

2020年2月10日(ローマの信徒への手紙1)

ローマの信徒への手紙1;
「キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロからーーこの福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、御子に関するものです。」
この手紙は、使徒パウロが書きました。彼は自分を「使徒」と呼びます。遣わされた者という意味の言葉です。誰から遣わされたのか。もちろん、神から遣わされた。彼をキリストの福音のために召し、使徒としたのは、神です。神が彼を彼の人生へと呼び出しました。ここにいるのは天才ではなく、ただ神によって呼び出された神の僕、奴隷にすぎません。パウロは自分がそのような者であると喜んで告白します。
なぜなら、この福音、キリスト・イエスの福音があまりにすばらしいからです。このお方は神の御子であり、死者の中から復活された方です。キリストは、私たちへの神の愛のしるしです。その方が、私たちを、今ある私にしてくださったのです。キリストのゆえに、私は今あるを得ているのです。
「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるからです。」
正しい者は、信仰によって生きる。その正しさは、私たちのすばらしい生き方が保証するのではありません。これからこの手紙を読んでいけば明らかなとおり、私たちは誰一人例外なく、罪深い者です。そして、罪の支払う報酬は死です。私たちは罪の中に神に捨てられて死ぬべき存在です。しかし、「正しい者は信仰によって生きる」のは、神がキリストを信じる者を正しいとしてくださるからです。神ご自身の力をもって、私たちをキリスト・イエスによって示された神の愛の中においてくださったのは神ご自身なのです。
だから、私たちは神様を他のものに取り替えてはならないのです。「彼らは神を知りながら、神として崇めることもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」というのは、私たち自身のことでしょう。そのような私たちを救うために来てくださったキリストを、私たちは救い主と信じて、今日の日の歩みに出て行きましょう。

2020年2月9日日曜日

2020年2月9日(マタイによる福音書28)

マタイによる福音書28;
主イエス・キリストは死者の中から復活された!これが、あの朝、女たちに託された知らせです。それを聞いて、「女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のでした。そして、その行く手に主イエスご自身がおられて、彼女たちはイエスともう一度出会います。そして、イエスご自身に命じられました。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤに行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」ですから、女たちは急いで弟子たちの所へ行ったことでしょう。主ご自身が「きょうだい」と呼ぶ者たちの所へ。キリスト教会の最初の伝令は、マグダラのマリアともう一人のマリア、彼女たち二人の女性でした。
ここにはもう一つの伝令がいます。数人の番兵が都にいる祭司長たちの所へ行きます。墓守であった彼らは、自分たちが墓で見聞きしたことを祭司長立ちに伝えます。すると、祭司長は番兵らに金を渡して言いました。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」もう一組の伝令は、イエス復活の知らせは嘘だ、と告げます。イエスは復活などしていない、それはフェイクニュースだと触れ回る。そういう伝令の役目を負っていました。金と引き換えに、です。
「あの方は死者の中から復活された」という福音を告げる伝令と、イエスの遺体は弟子たちによって墓から盗まれただけだと語る偽りの伝令。しかし、この世界は偽りの伝令の言うことに従っているかのように見えます。
しかし、主イエスはそういう世界にご自分の復活の証人を送り込みます。「私は天と地の一切の献納を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」キリスト復活の事実とそこにある私たちのための希望を、恐れずに証言するようにと主イエス・キリストは私たちを選び出してくださったのです。

2020年2月8日土曜日

2020年2月8日(マタイによる福音書27:32~66)

マタイによる福音書27:32~66;
「さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。三時ごろ、イエスは大声で叫がれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。」
主イエス・キリストは十字架にかけられ、吊された木の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んで行かれました。私たちは毎週の主の日の礼拝のときに使徒信条を告白していますが、そこで告白している主イエスが陰府に降られたということの意味は、これです。主は神に見捨てられて死なれた。神に見捨てられて死んだイエスがおられるところ、それが「陰府」です。
私たち長老教会の始まりとなったジャン・カルヴァンは、キリストが「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだとき、ほんの一瞬だけれども、キリストはそこで神であることをやめてしまわれた、キリストの神性は隠されてしまった、と言います。つまり、そこまで深く、キリストは神に裁かれ、徹底的に神から捨てられたと言うのです。
キリストが神に捨てられたということこそ、キリストが私たちに変わって王手くださった神の裁きです。私たちは、キリストが変わって神から捨てられたので、もはや神に捨てられることはありません。私のことを神様はもう見捨てたのだ、神様に呪われているのだと思わざるを得ない現実が、ときに私たちに降りかかってくるでしょう。しかし、私たちはそれでも神に捨てられていない。神から呪われてはいない。キリストがそれを全部引き受けてくださいました。私たちが降るべき陰府に、キリストが降ってくださいました。その十字架はあまりに重く、主イエスはご自分一人で負いきることができないほどでした。キレネ人シモンという人が十字架を運ぶために徴用されて、無理に担がされます。このシモンという男は、私たちのことなのかもしれません。私たちも、キリストと共に十字架を負います。パウロは言います。「今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。(コロサイ1:24)」私たちも、キリストと共なる苦しみに招かれています。隣人のための苦しみであり、キリストの苦しみを負う苦しみです。それはこのお方が、私たちのために代わって裁きを引き受けてくださったから、起こりうることに他なりません。

2020年2月7日金曜日

2020年2月7日(マタイによる福音書27:1〜31)

マタイによる福音書27:1~31;
イエスを裏切ったユダは後悔し、自殺してしまいました。悲しい出来事です。彼は「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いました。ユダが受け取った銀貨30枚は、結局祭司長たちが「陶工の畑」を買い、見知らぬ人のための墓地にしました。祭司長たちはその金について「これは血の代価だ」と言い、畑は「血の畑」と呼ばれました。
ユダのこの出来事は、繰り返し「血」という言葉が出てきます。ユダの裏切りは、血の出来事でした。血についての後悔から絶望し、やがてユダは自ら命を絶ってしまいました。
その後主イエスが裁判にかけられたとき、人々はピラトにイエスを十字架につけろと狂ったように絶叫しました。ピラトはバラバ・イエスを十字架につけてメシア・イエスを釈放してはどうかと投げかけましたが、人々はイエスを十字架につけるべきだと拒みます。「ピラトは、『一体、どんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく『十字架につけろ』と叫び続けた。ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。』民はこぞって答えた。『その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。』」ここでも、やはり「血」が問題になっています。イエスの血の責任を、民は自分たちと自分たちの子孫に降りかかって構わないと叫びます。その血の責任は我々が取るから、早くその男を十字架につけろと叫びました。
ユダはイエスを裏切ったと男として、歴史上最もさげすまれた人であるのかもしれません。しかし、イエスの血を流してしまうことへの恐れを、他の誰よりも深く知っていたとも言えます。その血の責任に自分は絶えきれないと絶望したのです。イエスが十字架につけられるという事柄の重大さをほかの誰よりも知っていたのは、ユダなのかもしれません。
主イエスは、その裁判の間中、何も答えませんでした。「ピラトは、『聞こえないのか。あんなにお前に不利な証言をしているのに』と言った。しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。」一言の弁明もしない。ご自身は罪を犯していないのですから、潔白を主張しようと思えばいくらでもできたはずです。一言も、何もおっしゃらない主イエスは、まるで自ら進んで十字架に向かって行かれるようです。イエスの血の責任の重さに絶えきれずに自ら死を選んでしまったユダの後を追うようにして。イエス・キリストは、ユダの後を追って陰府に降って行かれる。ユダがたどる道をご自身の道として、同じ所へ降って行かれます。キリストは、私たちの絶望の奥底に降ってきてくださるのです。

2020年2月6日木曜日

2020年2月6日(マタイによる福音書26:47~75)

マタイによる福音書26:47~75;
「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」主イエス・キリストは、預言者たちを通して語られた聖書の言葉が実現するようにと、歩んでこられました。それは主イエスの誕生のときからでした。マリアが身ごもって男の子を産むということも、ユダのベツレヘムに生まれたことも、ヘロデの手を逃れてエジプトに降ったことも。そこから始まって、主の歩む道の随所に、預言者を通して言われたことが実現するためであったという福音書記者マタイの注釈が入ります。そして、ここでは、主ご自身が「預言者たちの書が実現するためである」と言われるのです。
この時、祭司長たちや民の長老たちが使わした者たちが、剣や棒を持ってイエスのところへやって来ました。逮捕するために、ユダに率いられてきたのです。弟子たちは応戦します。しかし、イエスは彼らに言われます。「剣を鞘に収めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」主イエスには、預言者たちを通して語られたことを無視することもできました。逆らうことは可能でした。しかし、御自らこれを選んで、その道へと進まれます。預言者たちを通して語られたことが実現するために。
預言者たちは、一体何を語ったのか。ここでイエスがどの聖書の言葉を思い起こしておられたのかは分かりません。しかしここで主がしていることは、逮捕されることを甘んじて受け入れ、十字架に向かっていくということです。思えばマリアから生まれてきたことも、ベツレヘムで生まれたことも、ヘロデが支配する世界におられたことも、それらはすべて十字架への道です。ご自分が十字架に掛けられて成就する救いのために、イエスはその道を受け入れておられるのです。
ペトロは、その番、大祭司の家の中庭でイエスを知らないと三度繰り返して口にしてしまいました。それからイエスの「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」という主イエスの言葉を思い出して、泣きました。聖書の言葉に従って十字架へと進んで行かれるイエス・キリスト。そして、イエスの言葉を軽んじ、結局はその通りの罪を犯し、泣き崩れるペトロ。イエスはそのようなペトロや私たちのために、聖書に記された神様の御心に従っておられるのです。このお方が私たちの救い主です。

2020年2月5日水曜日

2020年2月5日(マタイによる福音書26:31~46)

マタイによる福音書26:31~46;
マタイが私たちに伝えるゲツセマネで祈る主イエスのお姿は、行き来する主イエス、というものであると思います。
主イエスは弟子たちと共にゲツセマネまで来て、ペトロとゼベダイの二人の子(ヤコブとヨハネ)だけを伴って更に奥に行きます。そして三人に「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」と言って、一人で更に奥に行きました。そこでうつ伏せになり、祈ったのです。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」と。
そして、その後、弟子たちの所へ戻ってこられました。彼らは眠っていました。ペトロに「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい」と言って、二度目に向こうへ行って祈る。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っています。そこで、彼らを離れてまた向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈ります。そして、弟子たちの所へ戻って来て言われました。「まだ眠っているのか。休んでいるのか」と。
マタイが伝えている記事を読むと、マタイはイエスが祈り、弟子のところへ戻って来て、彼らを起こし、そしてまた祈りに行ったと、戻ってくることと行くこととの繰り返しを丁寧に一回一回描いています。イエスは祈り、帰って、また祈り、帰って、また祈り、帰ってこられた。行き来するイエスのお姿をマタイは私たちに伝えています。
そしてそれがこの時だけではなく、イエスという方がなさってきたことです。イエスは父なる神と私たちとの間を行き来して、私たちの祈りを神に届けてくださいます。私たちは愚かにも主と共に目を覚ましていることができず、眠ってしまいます。もちろんここで行っている「眠る」というのは、信仰が眠っているということです。祈ることをやめてしまうことです。私たちはその意味ですぐに寝てしまいます。主ご自身は苦しみ悩みながら祈っているのに!しかも、ご自分がかけられる十字架を前にして苦しんでおられるのに!私たちの信仰は眠ってしまっているけれど、キリストは神の御許から私たちのところにまで来て、私たちを起こしてくださいます。信仰を呼び覚ましてくださいます。私たちも、主と共に祈る者となるために。
ペトロは、主イエスに「あなたは三度、私を知らないというだろう」と言われ、その通りになってしまいました。このペトロの信仰を呼び覚ますために、主イエスは神と私たちとの間を行き来しておられます。そして、私たちのために。私たちのこの祈りの時間は、主イエス・キリストに支えられています。

2020年2月4日火曜日

2020年2月4日(マタイによる福音書26:1~30)

マタイによる福音書26:1~30;
主イエスは弟子たちと一緒に過越の食卓に着きました。主がパンとぶどう酒を弟子たちに与え、一同がそれを食べました。主はそのパンを「取って食べなさい。これは私の体である」と言って与えました。また杯についても「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」と言ってお与えになりました。彼らはその食事を頂き、そして「賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」と聖書は伝えています。
この最後の賛美の歌ですが、恐らく詩編第113編から第118編であろうと考えられています。過越祭のときに歌われた詩編であったからです。このように歌っています。「私たちの神、主のような方がほかにあろうか。天にあっても地にあっても、低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ、高貴な人々と共に、民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。」
神様は天の高い御座に座っておられる。いや、天でさえも神様を納めることなどできません。そのようなお方が、地のいちばん低いところに下ってきて、塵や芥の中にうずくまっている人を起こし、高く上げてくださる。このすばらしい詩編は、主イエス・キリストのなさったことそのものです。
あの過越の食卓にはイエスを裏切ろうとしていたユダもいました。当初イエスを十字架につけた祭司長や民の長老たちは、「祭りの間はやめておこう」と言っていました。しかしユダがイエスを引き渡したので、祭りの間にイエスは十字架につけられてしまいました。そんなユダを、イエスはこの食卓に加えてくださっています。それは、まるでユダその人のためにご自分の体を裂き、血を流すとおっしゃっているかのようです。主イエスは神の独り子でありながら、低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こしてくださる方なのです。
ですから、この方の死こそが私たちの救いです。最も低く下り、十字架の死にさえ下りきってくださいました。ユダと私たちの身代わりとして。それで、ベタニアの一人の女がしたこと、イエスに油を注いだあの出来事は、美しいのです。イエスの死の記念だから。イエスの十字架の記念だから。「この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と主が言われるとおり、私たちも彼女のした記念に従って、イエス・キリストの十字架の死を仰いでいます。

2020年2月3日月曜日

2020年2月3日(マタイによる福音書25:31~46)

マタイによる福音書25:31~46;
イエス・キリストによる裁きです。羊飼いが羊を右に、山羊を左に分けるように、すべての人をご自分の右と左とに分ける、と言われます。主は右側にいる者たちに言われます。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えているときに着せ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに尋ねてくれたからだ。」マザー・テレサがインドのカルカッタにある「死を待つ人の家」で人々の世話をしていたとき、主イエスのこの言葉を思い起こしていたという話を聞いたことがあります。あの愛の業は、主イエスに仕えるというところから始まっている。主に仕えるように、隣人に仕えている。主は、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」と言われるとおり、飢え、よそ者であり、裸をさらし、病気に苦しみ、牢にいる囚人への小さな愛の業を喜ばれる方です。
その愛の業が「小さな愛の業」だと言うのは、そのあいに生きた人自身が「主よ、いつ私たちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ・・・」と言っているとおり、本人にもその自覚がない、というところに現れています。しかし、主イエスはそれをお喜びになります。
先日、ラジオ番組にあるイラン人がインタビュー出演していました。その人は現在日本にオーバーステイしており、牛久の入管施設に収容されている。建前上その施設は強制送還までの間の一時的な収容施設ですが、実態は入管の思うがままに何十年だろうと収容することができます。過酷で劣悪な環境で、音を上げて自費で国へ帰るまで無期限に収容が続いている。この人はなぜ故国に帰ろうとしないのか。彼は日本に来て、キリスト者になったそうです。イスラム教の国であるイランに帰れば迫害される。だから、帰ることはできない。しかし日本にいるかぎり収容施設での生活が続きます。熱があったりお腹が痛かったりして医者に診てもらいたいと訴えても、申請してから早くても一週間くらい経たないと診てもらえない。どんなに高熱だとしても、です。私はラジオを聴きながらとても苦しくなりました。彼らは全く人間扱いされていません。オーバーステイは確かに法を犯しているのかもしれませんが、ここまで人間扱いされないということがあっていいのでしょうか?そして、私はこれを聞きながら、聖書が寡婦、孤児、そして寄留者を苦しめたり圧迫したりしてはならないと繰り返し言っていることを思い出しました。そして、今日の御言葉です。「あなたがたは、私がよそ者であったときに宿を貸し、牢にいたときに訪ねてくれた。」主イエスはそのことを喜んでおられます。
私たちは、今、どう生きるのでしょうか?主が「この最も小さな者の一人」と言われる人は、私たちの周囲にもいるのではないでしょうか。

2020年2月2日日曜日

2020年2月2日(マタイによる福音書25:1~30)

マタイによる福音書25:1~30;
14節以降のタラントンの譬えで、主人が旅に出るとき(つまり、主人は不在です)に、自分の財産を預けます。ある者には5タラントン、別の者には2タラントン、他のものには1タラントン。タラントンというのはお金の単位で、一人の労働者の6000日分の賃金に相当します。そうすると、5タラントンというのは、約100年分の給料ということになるのでしょうか。莫大な額です。1タラントンでもおおよそ20年分です。
タラントンという言葉が語源になって、英語のtalentという単語ができました。テレビや何かに出るタレントでもありますが、「才能」をも意味します。このタラントンをそのまま才能という狭い意味で考える必要は必ずしもないと思います。しかし、ここで託されたタラントンはそれも含めて私たちが生きるために必要なものであり、私たち自身や隣人を生かすために神に与えられたもののことでしょう。与えられたものには差があります。平等ではない。それは私たちの人生の現実そのものです。私たちは皆が同じではない。タラントンという宝を預けた主人である神様は、私たちが与えられたものを用い、それに応じて自分自身や隣人を生かし、更に新しい宝を得ることを願っておられるのです。
5タラントンの僕と2タラントンの僕は与えられたものを大いに活用し、もうけを得ることができました。主人はそれを喜んでいます。ところが1タラントンの僕は宝を地面に埋め、主人の怒りを買ってしまいました。問題の急所は、主人への信頼ではないでしょうか。1タラントンの僕は、主人が「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方」だと信じて疑わなかった。それで、本当に怒りを招いてしまいました。主人は彼に向かって「悪い臆病な僕だ」と言います。臆病ではいけないのです。なぜ臆病になるのか。主人を信頼していないからではないでしょうか。
確かに、自分が持っているものと他の人が持っているものとを見比べると、自分の分は随分少ないんじゃないか、宝でも何でもないんじゃないかと思ってしまいます。あの人は5タラントンだけど、自分は違う。でもあの人よりはマシのようだから、私は2タラントンくらいかな・・・と。あるいは、自分が何十年分として神様に与えられたものは、うれしくないもの、こんなもの欲しくも何ともない、ということもよくあります。神様はどうしてこんなゴミを自分に渡してよこしたのか、と。
主人が一タラントンの僕について怒ったのは、もうけが少ないからではありません。主人を信頼しなかったからです。そのために臆病だったからです。自分が持つものを与えてくださった神様を信頼していれば、自分のタラントンを他の人と比較する必要も無くなるのではないでしょうか。神が私たちに託したものは、私たちの目にどう映ろうとも、必ず私たち自身のことも、隣人のことも生かすに違いありません。神様は祝福を込めて私たちに命というタラントンを委ねたのだと私は信じます。

2020年2月1日土曜日

2020年2月1日(マタイによる福音書24:29~51)

マタイによる福音書24:29~51;
「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。・・・だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。・・・だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」
主イエス・キリストが再び来てくださるその日がいつなのか、私たちには分かりません。しかし、私たちはその時を待っています。待ち望んで、今という時を生きています。
100年くらい前に、ドイツにブルームハルトという牧師がいました。この人は、いつも、馬車をすぐ走らせることができるように準備していたそうです。主イエスが来られたとき、すぐにそこに行けるように。ブルームハルト牧師は、主イエスを待ち望む信仰に生きた人でした。私たちは、今、主イエス様が来られるのを待っているのでしょうか。待つことが、私たちの生活に影響を及ぼしているのでしょうか。主が来られるときのためといって、いつでも部屋の掃除をしている人もあるそうです。主を待つ、ということは具体的な生活の仕方にも影響を与えます。
45節以降では、働き方への問いかけになっています。家の僕が、自分よりも目下の使用人たちと共にどう働くのか。「それが悪い僕で、主人は遅れると思い、仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もうそうなら、その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰ってきて、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」ここで問われているのは、共に生きる仲間への愛です。自分のするべきことに忠実であり、隣人への愛に生きる姿を見られる者は幸いです。小さな事柄への忠実さを、主イエスは私たちに求めておられるのではないでしょうか。
家令が忠実に働くとしたら、それは、主人への愛に生きているときです。主人を愛する僕にとっては、誠実に仕えるということは苦痛ではなく、喜びです。主人がいつ帰ってこられるのか分からない。しかも、帰りが遅くなり、もう帰ってこないのではないかと思う人まで出て来る。それでも喜んで待ちうるのは、この主人の愛を知っており、このお方が来てくださることが喜びだからです。主イエス様は、必ず来てくださいます。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と言われる方は、私たちを救うために、必ず私たちのところへ再び来てくださいます。

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3 「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。 私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリ...