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2019年5月12日日曜日

マタイによる福音書9:9〜13「あなたも招かれている!」


 マタイという人が、収税所に座っていました。彼は徴税人でした。この物語は、他の福音書にも登場します。しかし、その並行記事を読んでみると、それはレビという徴税人だったと言われています。ここではこの男の名が敢えてマタイと記されています。マタイによる福音書と呼ばれるこの書物を書いた人にとって、それは、絵画の端に自分自身を登場させる画家の自画像のようなものだったのでしょう。徴税人という、この町の中で見下げた罪人と見なされていた者として、自分自身を登場させるのです。この町のつまはじき者の徴税人こそ、このわたしです、と。
 徴税人は税金を集める仕事をしていました。但し、自国ユダヤのための徴税ではなく、自分たちを支配していたローマ帝国のために。多くの徴税人は帝国の威信をバックに、不正な徴税をして、上前をはねていました。それで、彼らは町の鼻つまみ者だったのです。
 マタイは収税所に座っていました。すると、そこに一人の人が通りがかった。その人はマタイを見ると、言いました。「わたしに従いなさい。」彼は立ち上がって、その人に、イエスに従いました。
 わたしも、同じです。わたしもわたしの前に来たイエスに声をかけられて、「わたしに従いなさい」と言われて、この方についていきました。それが、神さまを信じるということです。教会にいる人たちは、皆、イエスに声をかけられて、イエスについていった人たちです。私たちがイエスを見つけ出して、修行の末にイエスを信じる道を見出したのではありません。私たちを見て、声をかけて、私たちと共に歩き始めてくださったのは、主イエスがしてくださったことなのです。
 マタイは主イエスを家に招き、食事を一緒にしました。その席には徴税人や罪人と言われる人たちが大勢いました。ところがそれを見たファリサイ派の人々は、弟子たちを呼びつけて、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言います。いやしくも教師という立場にありながらあのような者たちと食事をするのはふさわしい振る舞いではない、ということでしょう。これを聞いた主イエスは答えます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この主イエスの言葉は、私たちの思い込みや価値観を、全部ひっくり返してしまうような言葉だと思います。丈夫な人と病人が出てきました。病人とは、どういう人のことなのでしょう?イエスが医者として治す病人です。魂が病んでいる、ということでしょう。心だけではありません。その人間存在そのものが病んでいる。なぜか。神を捨てているからです。
 今日の物語を読んだとき、私たちは一体どこに登場しているのでしょう。私たちは自分が徴税人や罪人だと思いたいものです。そこに主がおられると知っているから。でも、本当は私たちは主と共にいたいとは思っていない。それが私たちの魂の病気です。キリストは神を求めもせず、共にいてほしいとも思っていない罪の病をいやすために、私たちのところへ来た医者なのです。

2018年11月11日日曜日

マタイによる福音書20:1〜16「さあ、パーティがはじまるよ!」


 主イエスが話してくださった譬え話です。まことに主イエスらしい話だと思います。皆さんは、この話、お好きでしょうか?それとも嫌いでしょうか?とても理不尽で不公平な話だという感想も多いのではないかと思います。
 あるぶどう園で働いた労働者たち。夜明けから働いた人、その後も何もせずに広場に立っていて9時から雇われた人、12時からの人、3時からの人、そして5時まで何もせずに広場にいて雇われ、一時間しか働かなかった人。主人は5時からの人から初めて、全員に同じ給料を支払いました。ところが夜明けから働いた人がこれに怒ります。自分たちは夜明けから、熱い中一日中苦労して働いたのに、同じ給料だなんて…と。主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。」主人はもともと一デナリオンの約束をしていた。それを彼らにも支払ってやりたいのだ、と言います。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」そう問うてこの譬えは終わります。
 不公平な話のようにも感じさせます。自分が一日苦労して働いて、ヘロヘロになっているところに、自分よりも全然働いていない者が疲れたような顔をし、そればかりかその人にも神さまからの報いは変わらないなんて聖書は言う。自分の苦労なんて、神さまは見ておられないのかと思ってしまいます。ここに書いてあることは、明らかに私たちの社会の常識とは違います。奇妙な話ではないでしょうか。
 これは天の国の譬えです。神の国はこのようなもの、私たちの尺度でははかれないと主イエスはおっしゃるのです。この主人は、気前のよい人物です。もちろん、神さまのことです。神さまは気前がよい。夜明けから働ける能力のある人も、夕方まで誰にも雇ってもらえなかった人にも、同じように今日生きる命を下さいます。私たちの妬みを引き起こすほど気前がよい。
 この譬え話の前に出てくるのは、子どもたちです。イエスのところに子どもを連れて来た人たちを弟子たちは叱りましたが、主イエスは喜んで祝福なさいました。それに続けて、金持ちの青年が登場します。彼は旧約聖書の律法を子どもの頃から守ってきました。しかし、結局、主イエスのもとを悲しみながら立ち去ることになりました。彼が持っていたお金や彼のこれまでの立派な生き方は、彼を救いませんでした。それでは、一体誰が救われるのか?「それは人間にはできることではないが、神にはできる」と主イエスは言われます。その主イエスは、子どもたちを祝福しながら、「天の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。天の国は、私たちの立派な生き方や努力で獲得するのではなく、何もできない者に、誰にも見向きもされずに5時になってやっと憐れみで雇われたにすぎない者にも、神が恵みとして下さる一方的なプレゼントなのです。
 神さまは、気前のよい方です。周囲に妬みを引き起こすほどに。だから、私でも救われたのです。神さまは、何時から働いたにせよ、今日を生きるための賃金(恵み)を下さいます。労働者はそれをもって家に帰り、晩餐をたのしむのでしょう。私たちも、天の国の宴に招かれています。子どもたちは、そんな神さまの恵み深さを証しする生きた証人なのです。

2026年9月12日の聖句

あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9) マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18) 今日の御言葉を聞いて、自分は一体何を見てい...