2019年11月30日土曜日

2019年11月30日(ダニエル書11〜12)

今日の通読箇所:ユダの手紙、ダニエル書11~12

ダニエル書11~12;
ダニエル書の舞台は捕囚の地、バビロンです。その社会の中の超マイノリティであったユダヤ人たちの物語です。ダニエルと三人の友人らは、異教社会の中で、神を神として生きるという一点においては決して譲らずに、しかしその社会の中で責任を果たして信頼を勝ち得ました。それでも、彼らにとってその生活は、日々が戦いでした。私たちと同じ戦いを、ダニエルたちは知っていたのです。そんなダニエルらを支えたのが、第7章以降の幻のであったのだと思います。神を信じる者は、この世に生きながら、この世を超えた価値を知り、それを信じているのです。
「国が始まって以来、その時までなかった苦難の時が来る。しかし、その時にはあなたの民、かの書物に記録が見出されたすべての者は救われる。地の塵となって眠る人々の中から多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと、またある者はそしりと永遠のとがめへと」(12:1~2)。
今この時のことだけしか私たちには見えません。私たちの視野は狭く、知恵も限られたものです。特に苦難の時はいかばかりか。しかしそれでも神に従い通すことができるとしたら、それは私たちの決心や辛抱強さのためではなく、神が選んでくださったからとしかいいようがないのではないでしょうか。神が私の名をも覚え、ご自分の手元の書に書いてくださっていると私たちは信じてよいのです。
この世には、いろいろな幻があります。そのすべてが命をもたらすわけではありません。「あなたの民の無法者たちも幻を実現しようとして蜂起するが、北の王は進軍し、塁を築き、城壁に囲まれた町を攻略する」(11:14~15)。
片や神が見せた幻があり、他方には無法者の幻があります。どう違うのでしょう。私たちが見ているのは、どちらの幻なのでしょう。ダニエルの幻と無法者の幻には違いがあります。無法者の幻について、聖書は「無法者たちも幻を実現しようとして蜂起する」と言います。無法者たちは、自分でその幻を実現させようとする。しかしダニエルが見た幻は、神が一方的に与えたものでした。ダニエルはただ受けただけ、頂いただけです。
神を神とするということは、自分の力で掴むことではなく、空の手で受け取るということです。それが、「恵み」という言葉の意味です。私たちはこの世界にあって、神の恵みにだけ生かして頂いて、自分で勝ち得たものではなく神に与えられたものの素晴らしさを喜んで、生きていきます。「悟りある者たちは大空の光のように輝き、多くの人々が義に導いた者たちは星のようにとこしえに光り輝く」(12:3)。

2019年11月29日金曜日

2019年11月29日(ダニエル書9〜10)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙三、ダニエル書9~10

ダニエル書9~10;
見よ、手が私に触れ、私の膝と手の先を揺さぶった。彼は私に言った。「愛される者ダニエルよ、私があなたに語る言葉を聞いて悟れ。あなたがたいる場所に立て。私は今、あなたのところに遣わされて来たのだ。」この言葉が私に語られたとき、私は震えながら立ち上がった。彼は私に言った。「ダニエルよ、恐れるな。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだった最初の日から、あなたの言葉は聞かれているからだ。私はあなたの言葉のゆえにやって来た」(10:10~12)。
ダニエルは大いなる幻を見、そのために大変恐れ、茫然自失としてしまいました。再び自分で立つことができなかった。それで、神の天使がダニエルにその手を触れたのです。天使は「愛される者ダニエルよ」と呼びかけます。誰に愛されているのでしょうか。もちろん、神様からという意味でしょう。神がダニエルを愛してくださっている。それは、ダニエルが神の前にへりくだって、神を礼拝する者であったからです。ダニエルの言葉を、神は耳を傾けて聞いてくださっていました。
第9章に戻ると、興味深いことに、ダニエルはエレミヤ書を読んでいたようです。「王の治世第一年、私ダニエルが文書を読んで理解したのは、預言者エレミヤに臨んだ主の言葉によれば、エルサレムの荒廃が終わる年数は七十年だということである」(2節)。もちろん、今私たちが手にしているのと同じかたちの、まとまったエレミヤ書であるかどうかは分かりません。しかし、少なくともその核になるメッセージはダニエルも読んでいたに違いない。それを読んだときにダニエルがしたことは、4節以下にあるとおり、悔い改めの祈りをすることでした。ここまでのダニエル書を読んできて、彼の戦いが、神を神とすることであったことを私たちは見てきました。神を神としてあがめること、それは、神の前に悔い改めの祈りをすることです。ダニエルは神の前にへりくだったのです。だからこそ、神はダニエルを愛しておられたのでしょう。
ダニエルがこの幻を見たのは、時代としても場所においても、神を信じて生きることが容易ではないときでした。そのときの彼の戦いは、ただお一人の神の前にへりくだり、このお方だけに仕えること。これに尽きました。それは、私たちも同じです。「御名が崇められますように」と私たちも祈ります。

2019年11月28日木曜日

箴言11:1~11「富と慈善」


「怒りの日には、富は頼りにならない。慈善は死から救う。」この「怒りの日」というのは神の怒りの日、裁きの日という意味であろう。神の裁きを受ける日に、富みは何の役にも立たない。当然である。しかし、私たちの間でとれだけ「当然」となっていようか。ルカ16:1931の金持ちとラザロの譬え話を思い起こす。金持ちはラザロへの慈善を一切無視してきた。私たちに鋭く警告する聖書の御言葉を私たちはどう聞いているのだろうか。

2019年11月28日(ダニエル書7〜8)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙二、ダニエル書7~8

ダニエル書7~8;
ダニエル書第7章以降は、第6章までとは打って変わった内容です。ダニエルが見た幻、夢の話です。夢というと私たちからすると随分と頼りない感じがしてしまいますが、人間の知恵を越えたところで神が見せてくださったヴィジョンです。そもそも、ダニエルは王たちの夢を解き明かしてきました。もしかしたら、私たちは人間の知恵の外にあるものについて、不当な評価を下しているのかも知れません。
ここでダニエルが見た幻は、四頭の生き物の幻でした。第一の獣は獅子のようで、鷲の翼が会った。第二の生き物は熊に似ていた。第三の生き物は豹のようで、背中には四つの鳥の翼があった。第四の生き物は、恐ろしく、不気味で、異常に強く、大きな鉄の歯があり、食らい、かみ砕き、残りを両足で踏みにじった。さらに十本の角があり、また別の小さな角が生えてきて、そのために三本が抜け落ちた。この角には人間の目のような目があり、尊大なことを語っていた。この幻、四頭の生き物は、地に起こる四人の王であると言います。
さらに第8章でも、やはり恐ろしい雄山羊の幻を見ます。これにも二本の角がありました。この獣もわが物顔に振る舞い、高ぶっている。さらにもう一匹、別の雄山羊が出てくる。この山羊はあの二本の角を持つ雄山羊に突進し、その角をへし折りました。これらの雄山羊は、メディアとペルシア、そしてギリシアの王たちのことだと言います。
ダニエルがここで見た幻は、どちらも、人間の支配者の栄枯盛衰を描いたものと言えます。どれもこれも共通しているのは、神を畏れることなく、獣のように振る舞うということです。人間の支配とは、そういうものであるのかも知れません。獣じみているのです。獣のように、弱者を踏みにじり、わが物顔で振る舞い、おそれることを知らないのです。支配者がそのような栄枯盛衰を繰り返し、多くの民はそのために命を落とし、苦しめられ、名前も覚えられることなく消えていきます。
その中で、ダニエルが見た救いを告げる幻が、これです。「私は夜の幻を見ていた。見よ、人の子のような者が、天の雲に乗って来て、日の老いたる者のところに着き、その前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては、この方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく、その統治は滅びることがない」(7:13~14)。
先日ローマ・カトリック教会の強行フランシスコが来日して、長崎と広島でスピーチをしました。私は、歴史の支配者たちの支配を越えた神の支配を信じている人の言葉だと思いました。世界の現状を「現実」というもっともらしい言葉で追認してみせるのではなく、神の永遠の支配の幻を見る信仰の眼が、私たちに必要なのではないでしょうか。

2019年11月27日水曜日

2019年11月27日(ダニエル書5〜6)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙一5、ダニエル書5~6

ダニエル書5~6;
この世の栄誉を極めたペルシャツァル王は、千人の貴族のための盛大な宴会を催しました。「ベルシャツァルはぶどう酒を飲みながら、父ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から持ち出した金と銀の祭具を持ってくるように命じた。王と貴族たち、王の妻と側女たちがその祭具で飲むためであった。エルサレムの神の家、すなわち神殿から持ち出された金の祭具が運ばれて来ると、王と貴族たち、王の妻と側女たちはその際具で飲んだ」(5:2~4)。何と忌まわしいことに、ペルシャツァル王は、主の神殿の祭具、金の器や銀の器、それらを使って沿海の酒の肴として楽しんだというのです。これ以上ないような、神様に対する侮辱です。
その宴席に現れた人間の手の指が壁に書いた言葉は、誰にも読めませんでした。ただ一人、ダニエルを除いては。ダニエルは王に乞われてそれを読み、王の傲慢と主なる神の裁きを告げます。果たして、ベルシャツァル王はダニエルにその言葉を聞いた日に死にました。
次の王はメディア人ダレイオス王。この王は最初からダニエルを喜んで取り立てていたようです。しかしそれを妬む大臣らの策謀に陥り、ダニエルをライオンの穴の中に落とさねばならなくなりました。ダニエルが一心に主なる神を信じ、この神だけにひれ伏していることを知っていた大臣らが、王以外の神も人も拝んではならないという布告を王に出させたのです。ダニエルはその布告を知っていましたが、いつもどおりに神を礼拝し、ライオンの穴に放り込まれることになったのです。しかし、神がダニエルを守ってくださり、ダニエルは無事でした。「私の神が御使いを遣わしてライオンの口を塞いでくださったので、ライオンは私に危害を加えませんでした。神の前に私が無実であることが認められたのです」(6:23)。
ここでのベルシャツァル王とダニエルとは、対照的です。ダニエルは、神を神とすること、神だけを拝み、畏れること。このことだけを大切にしていました。ダニエルが生きていたのは捕囚地で、主なる神様を信じている人は極めてマイノリティです。私たちの状況と似ています。その中で、ダニエルは周囲の人々の信頼を勝ち得ながら、ただ神だけに仕えるという一線を貫きました。これに対してベルシャツァルは神を侮り、自分の権勢を誇り、我が世の春を謳歌して傲慢に振る舞いました。神を神とすることを拒みました。ダニエルというこの一人の信仰者の存在が、私たちに問いかけている事柄は、私たちにとってもかけがえのない問いです。

2019年11月26日火曜日

2019年11月26日(ダニエル書3〜4)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙一4、ダニエル書3~4

ダニエル書3~4;
「もしそうなれば、私たちが仕える神は、私たちを救い出すことができます。火の燃える炉の中から、また、王様、あなたの手から、救いだしてくださいます。たとえそうでなくとも、王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません」(3:17~18)。
ダニエルたち四人が生きていたバビロンで、ネブカドネツァル王は巨大な金の像を造りました。27メートルくらいの高さのようです。そして、役人たちが楽器を鳴らしたら、それを合図に皆ひれ伏してこの像を拝むように命じました。そうでなければ、火の燃える炉の中に直ちに投げ込む、と言うのです。王の命令は、非常に厳しいものでした。皆、それに従って、この金の像を拝んでいた。
こういう話を読むと、今も昔も、起きていることはあまり変わっていないのだと思います。現代社会では、何かの像を拝めという命令が出ることはあまりないかも知れません。しかし、何かが社会の中で神であるかのような振る舞いをし、それを受け入れるように強いる社会の同調圧力は、私たちの社会にもあるのではないでしょうか。
ダニエルの三人の仲間たちはこのとき行政官に取り立てられていました。王の命令も知っていました。ところが、これを無視した。ダニエルたちの出世を妬む者たちが王に密告し、彼らは金の像を拝むことを強いる王の前で申し開きをした。その時の言葉が、冒頭の17~18節です。彼らは、文字通りに命をかけて、王の命令を拒みました。ここに、決して譲ってはならない一線があるのです。ただ神だけを拝み、ひれ伏すこと。その一時については、どんなに同調圧力があり、あるいは権力者の命令が絶対であり、命をかけねばならなくても決して譲れない、と彼らは信じ、そのように生きぬきました。
果たして、神は彼らを守ってくださり、それを見たネブカドネツァル王も神を信じるに至ります。神だけを礼拝して生きるということを貫く彼らの生き方が、異教の王に対しても証しとなったのです。

2019年11月25日月曜日

2019年11月25日(ダニエル書2)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙一3、ダニエル書2

ダニエル書2;
ネブカドネツァル王は自分が見た夢のことで不安に駆られ、これを国の魔術師、祈禱師、呪術師らに解き明かすように命じます。ところが、自分の夢の見た内容を話さずに、夢とその解釈の両方を言え、そうでなければ信じないと言い出しました。それができなければ、バビロンの賢者たちを皆殺しにする、と。
他人が見た夢を言い当てるだなんて、どう考えても不可能です。しかしネブカドネツァル王の魔術師らへの不信感は強く、そうでなければ適当な言葉で自分を丸め込んでしまうに違いないと確信していました。
そこで、ダニエルが王の前に立ったのです。「ダニエルは王のもとに行き、その解釈を示すため、しばらく時間を与えてくれるよう王に願った」(16節)。ダニエルは三人の仲間と一緒に祈ります。「天の神に憐れみを願い、ダニエルとその仲間たちがバビロンにいる他の賢者たちと共に殺されることがないように祈った」(18節)。そして、ついにダニエルは官僚の前に立って言いました。「バビロンの賢者たちを殺さないでください。私を王様の前に連れて行ってくだされば、私が王様に解釈を示しましょう」(24節)。心に残るのは、ダニエルが、自分や仲間たちのことだけを言っているのではないことです。「バビロンの賢者たちを殺さないでください」と訴えます。その賢者たちというのは、魔術師、祈禱師、呪術師たちです。むしろ、律法からしたら、根絶やしにしろというような人々です。しかし、ダニエルは彼らのために命乞いをしました。ここですでに、ある意味では旧約を越えるような、新しい歩みが始まっているのではないかと思います。異なる他者と共に生きる道です。
しかし、ダニエルはこの夢の解き明かしにおいて、主なる神の権威をはっきりと大事にします。「王様、あなたは王の王です。天の神はあなたに王国と権威と力と栄誉をお与えになりました」(37節)。王に力を与えたのは、あくまでも主なる神です。そして、この夢が語ることは「大いなる神は、この後に何が起こるかを王様に示されたのです」(45節)と言うとおり、神の計画です。
ダニエルはこの後の章を見て明らかなとおり、本当にまっすぐな主なる神への信仰を抱いていました。神様に対して、彼自身は一途です。しかし同時に、異なる隣人に対して拓かれたあり方も持っていました。神に集中し、隣人には開かれる。それが、このダニエルという一人の信仰者のあり方です。

2019年11月24日日曜日

ヨハネによる福音書第1章14から18節「見よ、独り子の栄光を」


 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。私は、今、特別な思いを持ってこの言葉を読んでいます。これは、初めにあった言です。神と共にあり、神ご自身であった言です。万物を造った言、光であり命である言。その言が、肉となった。人となったのです。教会生活が長くなると、神の子が人となられたと知識としては知るようになります。今年ももうすぐやって来るクリスマスに、毎年のようにそう聞きます。しかし、そういう知識は、私たちにどのような実感をもたらしているのでしょうか。
 先週、OYさんが逝去されました。OYさんは隣の教会のメンバーですが、今から42年間に近所に新しい教会ができると聞いて、この教会の開拓が始まって最初のクリスマスから、毎年、私たちの教会に献金を続けてくださいました。16節には「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。OYさんは、キリストの溢れんばかりの恵みを豊かに受けて、それをわたしたちにも分かち合ってくださったのだと改めて思わされています。
 私は、葬儀のときに何度も繰り返して「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という言葉を思い出しました。言は肉となったと言うときに、どの程度「肉」になったということなのでしょうか。肉体は、弱いものです。わたしたちの肉体が覚える弱さ、痛み、病。もっとはっきり言えば、わたしたちは必ず死にます。肉となった言は、そこまでわたしたちと同じものになってくださいました。わたしたちの間に肉として宿った言、イエス・キリストは、わたしたちと同じ死ぬ者になってくださり、十字架にかけられて死にました。「言は肉となって」というのは、ですから、驚くべき言葉です。わたしたちが死ぬ時にも、キリストはそこにおられるのです。
 この福音書は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言って、すぐに続けます。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と。言が肉となり、わたしたちと同じ死すべきものとなった。そして、それを、父の独り子としての栄光と呼んでいます。独り子である神の栄光、それは、わたしたち人間と同じ死ぬ肉体になり、そして事実、十字架の上で死なれたことなのです。
 それはわたしたちが想像する栄光とはずいぶんと違っています。先日、天皇の即位の儀式がありました。即位礼正殿の儀の日、天皇が最初にしたことは、天照大神のところへ言って礼拝をすることでした。大嘗祭が行われました。これもやはり天照大神を初めとして、神々と新穀を食すものです。天皇の栄光は天照大神に保証されたものです。ところで、今日は教会暦では「王であるキリスト」と呼ばれる日です。これは1925年に、当時のローマ・カトリック教会の教皇ピオ10世が定めたものです。当時はヒットラー、ムッソリーニ、スターリンなどが台頭していた頃です。その時代に、あなたの王は誰かと問うたのです。わたしたちが見るべき栄光はここにあると聖書は語ります。
 神の独り子の栄光は、弱い肉となるところに見えてくる栄光です。十字架にかけられ殺されるところで見える栄光です。そしてこの栄光は恵みと真理に満ち、わたしたちを神の恵みに与らせるのです。

2019年11月24日(ダニエル書1)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙一1、ダニエル書1

ダニエル書1:
バビロンの王ネブカドネツァルによる第一回バビロン捕囚のときの捕囚民の中に、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤという若者たちがいました。王は彼らを含む見所のある若者らににカルデヤ人(バビロニアの人々)の文字と言語を学ばせて、王宮に仕えさせるべく、英才教育を始めます。
王が若者たちにしたことは、イスラエルの若者たちのカルデヤ人化です。まず、名前を奪い、カルデヤ風のものに変えさせます。「ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ」(7節)。どうやらこの新しい名前は、カルデヤ人の神々が関係のある名前のようです。名前はアイデンティティそのものです。名前を奪い、占領国の名前を与える。非人間的なふるまいです。しかし、彼らは敗戦国民ですから、甘んじて受けるよりほかありません。自己主張など、不可能な場面です。
「しかし、ダニエルは王の食事と王が飲むぶどう酒によって自らを汚すまいと心に決め、自分を汚さないでほしいと、宦官の長に頼んだ」(8節)。イスラエル人がどんなに食べて良いものと食べてはならないものとを丁寧に区別していたのかは、レビ記などの律法の書を読んできた私たちはよく知っています。宦官らはダニエルたちを立派なカルデヤ人にして、王に仕えさせようとしていましたが、ダニエルたち四人にとっては、譲ることのできない一線でした。自分たちの命をかけてでも。
私たちには、この社会の中に生きるキリスト者として、譲ることのできる事柄とそうではない事柄とがあります。それらをよく識別し、譲りうるところでは柔軟に譲歩し、譲ってはならないところでは断固として戦う、というあり方が求められるのではないでしょうか。ダニエルたちにとって名前の問題は、自分たちのアイデンティティを奪われるような暴挙でしたが、そこは受け入れました。自分たち自身の問題にとどまるからなのかもしれません。しかし、食べ物のことでは譲らなかった。好き嫌いの問題ではなく、神に与えられた律法に背くからです。言葉を換えれば、まことの神だけを神としてあがめることに矛盾するからです。神だけの前にひれ伏すことに矛盾するからです。私たちにとって、譲りうる事柄は何でしょうか?決して譲ってはならない事柄は一体なんでしょうか?

2019年11月23日土曜日

2019年11月23日(エゼキエル書47〜48)

今日の通読箇所:ヨハネの手紙一1、エゼキエル書47~48

エゼキエル書47~48;
土地が12部族に割り当てられます。かつて出エジプトの時にも土地が分配されましたが、今回の割り当てとは、土地の区切り方が随分と違っています。これは実際の割り当てではなく、これまでの新しい神殿の描写と同様に、象徴的なメッセージが込められた土地分配ということになります。
ここでの分配は、イスラエルを東西に帯状に分割していくものでした。来たからダン族、アシェル族、ナフタリ族、マナセ族、エフライム族、ルベン族、ユダ族、聖なる献納地(その中にレビ族)、ベニヤミン族、シメオン族、イッサカル族、ゼブルン族、ガド族。以上の通り、イスラエルの12部族と聖なる献納地とに分割されています。
こうしてみると、中央に聖なる献納地があることが分かります。この聖なる献納地は昨日見たとおりに2万5千アンマの正方形をしていました。そしてそれを中心として、東西に指導者の土地が割り当てられています(48:21~22参照)。そして、聖なる献納地の中央に神殿があります。そして、「あなたは、この測量地から長さ2万5千アンマ、幅1万アンマを測り、そこに最も聖なる聖所をもうけなさい」(45:3)。ここが祭司とレビ人の土地ということになります。
今回の土地分割は、実際に考えてみると不思議な仕方になっています。中央にある神殿と献納地から、南北それぞれに帯状に並んだ各部族を下って行く。そしてもう一つ重要なことは、この中央になる神殿から、水が流れ出ていることです。この水はただの水ではなく、「この水が入ると、そこの水が癒やされ、この川の流れる所では、すべてのものが生きるからである」(47:9)。この水はイスラエル全体を潤し、癒やし、救います。主の神殿から神の命に満ちた祝福が流れ出していきます。私たちも与っている命の水です。そして、この水は神殿にとどまらずにイスラエル中を潤していくのです。

2019年11月22日金曜日

2019年11月22日(エゼキエル書45〜46)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:15~25、エゼキエル書45~46

エゼキエル書45~46;
「あなたがたがその地を相続地として分配するとき、その地の聖なる部分を献納地として主に献げなさい。その長さは2万5千アンマで、幅は2万アンマである。この周囲の領域もすべて聖なる地である」(45:1)。
これは恐らく第二回バビロン捕囚の前後に語られた言葉です。イスラエルの滅亡が目前に迫っているか、あるいはすでに壊滅し、王家も含めて捕囚されているか。そのような苦しみの中で、イスラエルの民にとっての励ましは、かつて自分たちの祖先がエジプトの国、奴隷の家から解放されたこと、神に救って頂いたことだった。今朝の御言葉を読むと、そのことがよく分かります。「あなたがたがその地を相続地として分配するとき」というのは、エジプトを脱出して約束の地に入っていこうというまさにその時を彷彿とさせる言い方です。やがて、再び、神はご自分の民をこの地に帰らせてくださる。人々はその約束に慰めを受けながら、この言葉を聞いたのではないでしょうか。
その相続地では、民に分配するよりも前に神のための聖なる土地を献げよ、と言います。その地は長さ2万5千アンマ、幅2万アンマ。さらに6節を見ると「あなたがたは、聖なる献納地に沿って、幅5千アンマ、長さ2万5千アンマの土地を町の所有地としなければならない」とあります。合わせて2万5千アンマの正方形になります。一アンマは約45センチメートルですから、2万5千アンマは11,250メートル。面積は約126平方キロメートルということになります。かなり広大な土地です。この分をまず主のものとして取り分けよ、というのです。
そのほかにも、13節以下では献納物の話が出てきます。46:6以下は安息日の話です。このようにして、土地にしても作物や時間にしても、まず神に献げるということが大切にされています。それは、この地が相続地として与えられるということ自体が神の救いの御業に他ならず、私たちが持つものはすべて神が与えてくださった恵みの贈り物だということを意味しているのではないでしょうか。私たちは、神に与えられた宝をお返しする。それが、神様のみまえでの私たちの献身なのではないでしょうか。

2019年11月21日木曜日

2019年11月21日(エゼキエル書43〜44)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:1~14、エゼキエル書43~44

エゼキエル書43~44;
かつてエルサレムの神殿から去った主の栄光が、再び神殿を満たします。エゼキエルが幻の内に見た神殿です。「主の栄光は東に向いている門を通って神殿に入った。霊が私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。すると、主の栄光が神殿を満たしていた」(43:4~5)。
神に裁かれ、神がすでに不在になった場所に、再び主が帰って来てくださる。これこそ救いです。しかも、その場所が新しい神殿であることには深い意味があると思います。
神の民の救いは、礼拝が再び礼拝として献げられることです。生ける神様の御前で、神の栄光の前にひれ伏し、まことの神をまさしく神としてあがめ、ひれ伏して礼拝する。これこそが私たちの救いです。改革者カルヴァンは、人生の目的は神を知ること、神を崇めるために神を知ることだと言いました。エゼキエルが見た幻は、まさにそのような意味で私たち人間が救われる日が来る、というヴィジョンだったのです。
第44章に入ると、この神殿で仕える人々について語られていきます。主に仕えるべきレビ人たちのかつての不実。「彼らは自分の恥辱と自分が行った忌むべきことの責任を負わなければならない」(13節)。神様は、罪を罪として処断なさいます。どうでも良いとはおっしゃらない。責任を負わせ、しかしそれで排除するのでもなく、「私は彼らを神殿のつとめを果たす者とし、神殿のあらゆる労働とそこで行われるすべての任務に当たらせる」(14節)。汚れた者を、神は再び聖なる者としてくださいます。「祭司は私の民に、聖と俗の区別を教え、汚れたものと清いものとの区別を知らせなければならない」(23節)。神の民の再出発は、聖なる神の御前にあって、私たちが聖と俗とを区別し、自らを清いものとして神に献げること、つまり礼拝から始まります。「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」(ローマ12:1)。主なる神様は、私たちを神様の御前で聖徒の一人としてくださっているのです。

2019年11月20日水曜日

2019年11月20日(エゼキエル書41〜42)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書20:1~18、エゼキエル書41~42

エゼキエル書41~42;
エゼキエルは幻の内に新しい神殿を見ます。神殿、それは、イスラエルの民の信仰の中心でした。かつてダビデが建築したいと願ったが許されず、その息子ソロモンが7年の歳月をかけて完成させました。それ以来人々の祈りの家として、その信仰の中心にありました。ところが、第二回バビロン捕囚で王国が滅亡したとき、この神殿もまた失われてしまいました。そのことについて、エゼキエルは、第10章で主の栄光が神殿を去ったという仕方で描いていました。
この神殿が以下に大切なものだったのかは、捕囚後のことを考えてもよく分かります。ネヘミヤが捕囚解放後に従事したのは、神殿の再建でした。これから読むことになる預言者の中にも、主の神殿の再建にかかわる言葉を語った者がいます。あるいは、主イエスの時代にも、人々の祈りの家として、神殿は重要な位置を占めていました。しかし紀元70年頃に神殿は再び、今度はローマ帝国の手で崩壊します。新約聖書の諸文書には、この歴史の出来事が前提になって書かれているものが少なくありません。このようなことを考えてみても、イスラエルの侵攻にとって、神殿がいかに大切な存在であったのかがよく分かります。
エゼキエルは、神殿の幻を見ました。この神殿はソロモンが造った神殿とも、捕囚帰還民たちが造った神殿とも違います。どうやら、サイズも大きいようです。「彼が神殿を測ると、長さは百アンマであり、神域と別殿とその壁とで、長さが百アンマであった。神殿の東の正面と神域とで、その幅も百アンマであった。彼が神殿の背後にある神域に面した別殿と両側の回廊の長さを測ると、百アンマであった」(41:13~15)。百アンマというと、おおよそ45メートルほど。列王記上6:2によれば、ソロモンの神殿は長さ60アンマ、幅20アンマというので、大きさは随分と違います。それに、このところに書かれているところでは、この神殿の建築様式は、シンメトリーで、極めて幾何学的なようです。ある理想化された建物の姿であるのではないかと思います。
つまり、エゼキエルが見た新しい神殿の幻は、人間が自分たちの地からで造ることのできないものであった、ということであろうと思います。理想的な神殿像。美しい建造物。神様にしか造れない。そういう新しい神殿によって示されるのは、神様の聖なることです。そこで働くレビ人も祭司も、聖なる主に仕えます。礼拝する者は、聖なる方の御前に進み出ます。私たちが礼拝しているお方は、この同じ聖なる方です。私たちの造った建物では納めてしまうことができない、聖く、美しく、広いお方。そのお方の御前に出て礼拝する私たちを、神はご自身の神殿としてくださいます。驚くべきことに、神は、私たち信じる者の間に宿ってくださるのです。

2019年11月19日火曜日

2019年11月19日(エゼキエル書39〜40)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書20:1~18、エゼキエル書39~40

エゼキエル書39~40;
私はわが聖なる名を、わが民イスラエルの中に知らせ、二度とわが聖なる名を汚させない。こうして、諸国民は私が主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。それは到来し、実現するーー主なる神の仰せ。これは、私が語った日である。(39:7~8)

マゴグのゴグに対する言葉が第38章から語られています。ゴグというのは実在する国の名前ではありません。しかしイスラエルを滅ぼす力を持つ存在として語られています。このゴグを通して、イスラエルに対する神の裁きが下される。冒頭のエゼキエルを通して語られた神の言葉の中に「これは、私が語った日である」とありました。ここに出てくる「日」というのは、第7章7節に出てきた「日」のことです。「この地に住む者よ、あなたに運命の時が来た。その時が来た。その日が近づいた。それは混乱であって、山々の喜びの声ではない。」神の裁きの日のことです。第39章では、ついにその日が来たと言われています。具体的には、第二回バビロン捕囚のことであろうと思います。イスラエルの破滅と滅亡の日。その裁きの日を通して、神の聖なるお名前の、その聖さが示されると言われているわけです。
ここでの急所は、神様のお名前の聖さが、徹底的な裁きを通して示されるという点です。「私はわが栄光を諸国民の中に現す。諸国民は皆、私が行った裁きと、彼らの中に置いたわが手を見る。その日から後、イスラエルの家は私が主、彼らの神であることを知るようになる」(21節)。これは、裁きを通して明らかになることです。第7章で言われていたとおり、その日は裁きの日であって、山々が喜ぶ日ではない。まことに厳しいことですが、歴史の現実はまさしくイスラエルの滅亡へと進んでいきました。
しかし、大逆転が起こります。「それゆえ、主なる神はこう言われる。今や私はヤコブの繁栄を回復させ、イスラエルの家すべてを憐れみ、わが聖なる名のために妬みを起こす。彼らが自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、自分の恥辱と私に対して犯したすべての背信の罪を負う。私が彼らをもろもろの民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は多くの国民の前で、彼らを通して、自らが聖なる者であることを示す」(25~27節)。かつては、イスラエルの家への裁きによって、神の御名の聖なることが示されました。神を蔑ろにし、その名を汚し、侮ってきたからです。しかし、今や同じその御名が、イスラエルへの救いによって示されます。罪と死の中に裁かれた者を救うことによって、神の御名の聖なることが現される。驚くべきことです。しかしこの驚くべきことが現実に起きました。何よりもそれが明らかになった出来事こそ、キリストの出来事に他なりません。私たちのための救いが、今や来ているのです。

2019年11月18日月曜日

2019年11月18日(エゼキエル書37〜38)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書19:23~42、エゼキエル書37~38

エゼキエル書37~38;
平野のおびただしい骨、しかも枯れ果てた骨。そこには、命のかけらも見当たりません。「人の子よ、この骨は生き返ることができるか」(37:3)と神に聞かれても、「はい」と言いうる要素が一つもない。人間にはあらがいようのない力、死の力に覆い尽くされているからです。
しかし、預言者は「生き返る事なんてできません」とも言いませんでした。例え死に覆われていても、生き返りうるたった一つの可能性を知っていたからです。「主なる神よ、あなはたはご存じです」(3節)。もしも枯れ果てた骨が生き返ることができるとしたら、それは、主がそのようにしてくださるということが唯一の可能性なのです。
「主は私に言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる』」(4~6節)。
神が御言葉をもって命じ、その霊を吹き付けるとき、枯れ果てた骨は生き返るのです。「霊」という言葉には「息」という意味もあります。私たちの呼吸の起源は神が吹かせた霊の風だと言うのです。これは、私たちの命の物語です。
37:15以下にユダとイスラエルが再び一つになるという預言が語られています。「私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と二つの王国に分かれることはない」(22節)。ユダとイスラエルは、ソロモンの次の時代から分裂し、互いに反目し合っていました。その和解の時が来るという約束です。神が一つにすると言ってくださっています。この章前半の枯れた骨は、もしかしたら、互いに憎しみ合い、反目し、共に生きることのできないというところに具体的に見えている姿であるのかも知れません。私たちが隣人と共に生きることのできない姿は、神から御覧になったら、与えられた命をからしてしまった骨のようなものなのかも知れない。この枯れ果てた骨が生き返ることができるとしたら、その可能性は、神様の命を与える語りかけにこそある。私たちは、和解の福音に生かされています。

2019年11月17日日曜日

ルカによる福音書第13章6から9節「良い木なんです、本当は」

 今朝の御言葉は主イエスがなさった一つの譬え話です。「そして、イエスは次のたとえ話を話された」とありますが、聖書を続けて読むと、明らかに1から5節の対話の続きです。ローマから派遣された総督ピラトがガリラヤ人の何人かを惨殺した、という出来事があったようです。あるいはここで言及されているもう一つの出来事は、シロアムの塔が崩れて18人が死んだ。そのような災害や人災に遭ったとき、私たちにも素朴に湧いてくる問いがあります。これは、何かの罰なのだろうかということです。どうなのでしょうか。主イエスは何とおっしゃるのでしょうか。

 「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」シロアムの一件についても、ほとんど同じようにおっしゃいます。そして、それに続けて次のたとえ話に移っていくのです。
 ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた。桃栗三年柿八年、ではいちじくは何年なのか?よく分かりませんが、いずれにしても植えてから何年か待って、ついに実りを付けるであろう大きな木に成熟し、楽しみに待っていたのだと思います。しかし、実を付けませんでした。今年も、来年も、そしてその次の年も。遂にしびれを切らせて園丁に言います。「もう三年の間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」ぶどう園の主人の怒りはもっともです。むしろ、三年も待ったことが驚きです。植えたときから数えたら、足かけ何年なのでしょう。じっと忍耐して待って、しかし一向に実を付けないことに、遂に「切り倒せ」という言葉が出てきました。

 ところが、園丁は訴えます。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」もう一年待ってください。園丁はそうお願いしました。私がこれまで以上に世話をしますから、もう一年だけ待ってください。実際に世話をしてきたのは園丁です。実際に骨折り損を担ってきたのは園丁です。しかし、この園丁はまだ忍耐し続けて、まだ待ちましょうと訴えます。この優しい園丁は、主イエスご自身に他ならない。

 これは、悔い改めの物語です。いや、悔い改めを待ち続けるキリストの忍耐の物語です。私たちの悔い改めを待つために、もう三年どころか、どれだけ長い年月を費やしたことでしょう。それなのに、まだ切り倒さないでいてくださいます。思えば、私たちはぶどう園の中に植えられたいちじくのような存在なのかもしれません。どうして一本だけいちじくなんて生えているのでしょう。ぶどうではない自分は邪魔なんじゃないか、不要なんじゃないか。実を付けない自分なんて無駄じゃないか。私たちは自分で自分のことをそのように低く見積もっているかもしれない。ところが、この園丁は、まだ一年待ちましょう、そのための世話は私がしますと言ってくださいます。このキリストの優しさに触れたとき、私たちにも真実な悔い改めが生まれるのだろうと私は思います。

2019年11月17日(エゼキエル書35〜36)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書19:1~22、エゼキエル書35~36

エゼキエル書35~36;
彼らは諸国民のところに行き、そこでわが聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『これは主の民だ。しかし彼らは主の地から去らなければならなかった』と言った。そこで私は、イスラエルの家が行った先の諸国民の間で汚したわが聖なる名を惜しんだ。(36:20~21)

主のお名前が、神の民のていたらくのために汚された。主に愛され、主のものであったはずの民が裁かれ、約束の地から離れ、惨めに生きている。それを見た異邦人たちは主を侮る。そのようにして、神を信じているはずの者たちのために主のお名前が汚された、それを私は惜しむと神様は言われます。
思えば、十戒にもすでに「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20:7)と記されていました。この『主の名』は、十戒の前文にも「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、。奴隷の家から導き出した者である」という神様の自己紹介で紹介されています。
改めて考えてみると、神様に名前は必要なのでしょうか?神様は神様であって、それ以上の名前を必要とはしないのではないでしょうか。名前というのは、他と区別をするためのものです。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」というのであれば、名前は最初から必要ないのではないでしょうか。
しかし、神はそのようにはお考えになりませんでした。神は、私たち人間が「主」とお呼びするようにと決め、ご自分を名前を持って呼ばれる存在として私たちに紹介してくださったのです。ですから、「主」という神様のお名前は、それ自体が私たちへの愛のしるしなのです。
その主なる神様のお名前が汚されたというのは、神の聖なる愛が汚されたということに他なりません。私たちのために、神のお名前が損なわれたのです。「私はあなたがたを、そのすべての汚れから救う」(36:29)と神は宣言してくださっています。神は、私たちの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。この方が私たちを救ってくださる。主の皆を呼び求める歩みを、今日重ねていきたいと願います。

2019年11月16日土曜日

2019年11月16日(エゼキエル書33〜34)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書18:28~40,エゼキエル書33~34

エゼキエル書33~34;
主なる神様の、悲痛な叫びのような言葉です。「人の子よ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。あなたがたはこう言った。『我々の背きと罪は我々の上にあり、そのために我々は痩せ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。私は生きているーー主なる神の仰せ。私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよいだろうか」(33:10~11)。
イスラエルの人たちは、もう諦めていました。自分たちのことを。自分たちの破滅と滅亡を前に、もはや疲れ果て、気力を失っていました。「虚脱」と言っても良いかもしれません。どうしてそれほどまでに力を失っていたのか。21節を見ると、「エルサレムから逃れた者が私のところに来て、『都は破壊された』と言った」とあります。ここで報告されているのは、いわゆる第二回バビロン捕囚です。これは、イスラエルの完全な滅亡の知らせです。神殿も破壊され、都も王家も破滅し、国王自身も捕囚の憂き目に遭いました。人々は、これは神の裁きだと受け止めた。だから、もう自分たちは何をしても無駄だ、どうせ救われることなどない。そうやって諦めたのです。
しかし、神様は、エゼキエルになお見張りの役目を果たせと命じます。イスラエルの人々に、今こそ主に立ち帰り、主に従うように言えと命じます。諦めずに、主の御許でもう一度やり直せと主ご自身が招いておられます。
ところが、エゼキエルの言葉は聞かれませんでした。「私の民はあなた(エゼキエルのこと)の前に座り、その言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。口ではお世辞を言うが、心は自分の利益を追い求めるからだ」(31節)。まるで歌謡曲でも聞いているように聞き流す、ありがたいお言葉だなどと言いながら、ちっともそれに従うために自分を変えようとはしない。この招きは、主なる神様の悲痛な叫びなのではないでしょうか。
第34章には、イスラエルの牧者の話が登場します。ここで言う「牧者」とは、王などのっくにの指導者のことです。彼らは自分の私腹ばかりを肥やして、民を食い物にした。しかし神の前に不義なのは牧者だけではなく、羊も、神が与えてくださった澄んだ水を踏みにじっていると指摘されています。
そこで、神が一人の牧者を立ててくださいます。「私は彼らの上に一人の牧者を立て、彼らを養わせる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。主である私が彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの中で指導者となる。主である私がこれを語った。私は彼らと平和の契約を結ぶ」(34:23~25)。主ご自身が立ててくださる牧者によってしか、私たちは救われません。牧者も羊も不義なる私たちの救いは、神が平和の契約をもって立ててくださる牧者にかかっています。この方は、どんなときにも諦めずに私たちに語り続けてくださいます。「私は悪しき者の死を喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。」主は、今朝も私たちに呼びかけておられます。

2019年11月15日金曜日

箴言10:1~32「愛はすべての罪を覆う」


「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。」自分の小さな正義やこだわりのために、どれ程多くのいさかいを引き起こしてきたことだろうか。愛はすべての罪を覆う。私も、そうやってすべての罪を覆って頂いたのだ。「神に従う人の口は命の源」。この口からでてくる言葉は、はたして命をもたらすものであるのだろうか。愛の言葉を口にしているのか。ひたすらに、祈るより他ない。「主よ、罪人の私を憐れんでください」、と。

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を献げます...