2018年2月28日水曜日

詩編第110編「まことの王、まことの祭司」


この詩編は新約聖書ヘブライ人への手紙に大きな影響を与えている。1節や4節が引用されている。主イエス・キリストを語る言葉としてこの詩編が聞き取られた。まさしくイエス・キリストこそまことの王、まことの祭司である。キリストは王としてすべてのものを支配される。そして、イエスは祭司として神の前に立ち、私たちのために執り成してくださる。「あなたの民は進んであなたを迎える」。アーメン。我らは進んでキリストをお迎えしよう。

2018年2月25日日曜日

マルコによる福音書第14章26から36節「傲慢と謙遜」

自分は一体何者なのか。そのことを魂の深いところで知ることが、私たちの信仰生活にとってとても大事なことであるのだと思います。特に信仰の危機や苦しみの時、悲しみの時に、私は一体何者なのかということが決定的な意味を持ちます。27節に「羊」という言葉が登場します。私たちは主イエス・キリストという羊飼いに養われる羊の群れです。私たちはそのことを誇りに思っていたいのです。今日の朗読箇所には、ペトロと主イエスご自身という二つの在り方が描かれています。その姿が私たちに問いかけるものがあるのです。

主は弟子たちに「あなた方は皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。そうしたらペトロは答えます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」主はさらに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」するとペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」ペトロは言い張っています。この会話は対話になり損なっています。ペトロには自分を変えるつもりがさらさらないからです。主イエスの言葉が右の耳から左の耳へ通過しています。しかし、自分についてペトロが言い張る言葉は、的外れでした。これは私たちの姿ではないでしょうか。主イエスはペトロが何ものなのかをよくご存知です。しかし、ペトロ自身はそのことをよく知らないのです。だから、「たとえ、みんながつまずいても…」と傲慢にも言い張ることになる。それでは、私たちは本当は一体何者なのでしょう。

かつて、現代のカトリック教会の宗教改革と言っても良い、第二バチカン公会議を招集したヨハネス23世という教皇がいました。このような言葉を残しています。「みずから身を屈して、迫害・遺棄・裏切り・死に、羔として身をささげる、いとやさしきわれらのイエズスを見ると、心は戸惑い、はじ、ひれ伏す。もう語ることもできず、うぬぼれさえ、その鼻っぱしを引き込める。」主イエスをじっと見つめていれば、私たちが一体何者なのかが分かると言います。主のいとやさしいことに気づいたとき、私たちは自惚れや傲慢から解放されます。主は「あなた方は皆、わたしにつまずく」と言われます。なぜ躓くのか?主はそれを聖書の言葉で説明なさいます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」つまり、私たちが主という羊飼いが養う羊の群れだからです。もしも無関係な羊飼いが打たれたとしても、野良羊はびくともしないでしょう。自分には関係ありませんから。しかし、羊飼いの群れの羊であれば、羊飼いが打たれたらそれこそ一大事です。羊たちは散ってしまいます。私たちが主の十字架につまずくのは、実は私たちが主の羊にして頂いているからなのです。

主は祈っておられます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」主がここで注目しておられるのは、神が何をしておられ、何を望んでおられるかということです。ペトロが注目していたのは自分のことでした。私たちの目を主に向け直すとき、私たちは自分が何ものなのかを知ることができます。私は罪人の分際だけれど、その私を主は御自分の羊としてくださいました。主は先だって導いてくださいます。   

2018年2月22日木曜日

詩編第109編「神に訴えることしかできない恵み」


一読してたじろぐほど激しい言葉、呪いの言葉と言うべき詩編である。このようなことを祈っても良いものかといぶかしくさえ思う。しかし、少し注意したい。この詩編は「貧しく乏しい」者の言葉だ。つまり、自分ではどうすることもできない。しかしできないのだ。神にしか頼ることができない。だから、こうして祈っているのだ。「私は人間の恥」とまで言う。主の慈しみにすがるしかない。だれが見捨てても、神は私を捨てないと信じている。

2018年2月18日日曜日

マルコによる福音書第1章9から15節「時は満ちた」

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これが、マルコの伝える主イエスの第一声です。選挙でも、党首がどういう第一声を上げるか、だれもが注目します。マルコも主のどのお言葉を伝えるべきか、丁寧に考えたことでしょう。主イエスの宣教の言葉の象徴的な表現をここに伝えています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」時は満ちました。これは、10時になったからクリエイトが開店します、というのとは少し違います。時が充満した。神の国が来るべき時がもう満ちあふれて、私たちのところにまで及んできている。だから、神の国は近づいたというのは、もうここまで来ている、ということです。少し近くなったけどまだ遠いというのではありません。神の国はもうここに来ている。主イエスはそう宣言なさいました。これが、私たちが聞いて信じ、それによって救われた福音です▼今日、教会員総会を予定しています。去年一年間の歩みをふり返ります。2017年という年は私たちにとって何を意味していたのでしょうか。そこに見える神の恵みを信仰の目を開いて数え、また、私たちの使命を確認したい。私たちは主イエスと共に福音の言葉を宣教するためにこの世界に遣わされているのです。主イエスは、今、私たちの間で宣教しておられます。私たちも共にそれに仕えます。コリントの信徒への手紙一を読むと、福音、つまり十字架の福音の言葉は世の人々には愚かに聞こえると言います。しかし、教会はその愚かさに徹することで生きます。主の手となり足となって、私たちは福音の言葉を宣教するのです▼主がその到来を宣言された神の国とは一体何か。主はおっしゃいました。「悔い改めて福音を信じなさい」と。悔い改めるというのは、方向転換することです。これまでの生き方と向きを変えるということです。悔い改めて、神の国の方を向いて生きろと主はおっしゃいます。これまで、私が、神の国が来たことを無視して生きてきたからです。世界中にたくさんの国があります。牧師館のお風呂に子どものための世界地図が貼ってあります。国と国との境界線を巡る争いは、殆ど人類の時間と同じ長さ続いたのではないかとさえ思います。私たちの国だって現在も領土問題を抱えています。国だけじゃない。私たち個人も自分の領域を増やしたい。CMを見れば、私たちが持っているものではいかに足りないのかを丁寧に教えてくれます。物欲を刺激し、自分には健康も若さも足りないと教わります。私たちの「増やしたい、拡張したい」欲求を駆り立てます。しかし、主イエスは生きる向きを変えて神の国の方に行き直せとおっしゃいます。忘れられないのは、これが洗礼者ヨハネが授けた悔い改めの洗礼をお受けになった方の言葉であることです。イエス様ご自身は神さまの子ですから、洗礼を受ける必要はありません。私たち罪人の一人になるために洗礼をお受けになった。洗礼を受けたとき、主は天から響く神の御声を聞かれます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。そして、神ご自身の霊に強いられて荒れ野へ行かれる。主イエスの歩みは、領域を増やし拡張するのではなく、むしろどんどん小さくなっていかれます。主イエスは神の御支配(神の国)を受け入れることを、身をもって私たちに教えてくださいました。私たちはこの神の国の福音に愚かなまでに固執して、ここに救いがあると信じて、宣教に仕えていきます。   

2018年2月15日木曜日

詩編第108編「神さま、救ってください」


「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いは空しいものです。」神こそ私を救ってくださるお方。それが私たちの信仰だ。人間の与える救いに私たちは生きない。しかし、世の誘惑は多い。何に心を傾けて生きるのか、識別を必要とする。「神よ、私の心は確かです」と告白する詩編作者は神賛美に心を向ける。天に心を向ける。敵がいる。脅威である。それでも誘惑を却け、主の救いの宣言に耳を傾ける。主の救いを待ち望む。

2018年2月11日日曜日

詩編第139編「夜も昼も共に光を放ち」

主なる神さまが私を極め、私を知っていてくださる。私のまことの父として、私を神の子として、知っていてくださる。それが神を信じる者の喜び、慰めです。神さまは私のすることなすこと、心の思いまでも、すべてを知っておられます。一粒のちりのような私のことを、その髪の毛の一本も、神さまは知っておられます。見張られているみたいでイヤだ、と思うでしょうか?お風呂に入っているときもトイレにいるときのことも知っているのだとしたら、さすがにちょっと…と思う人もいるかもしれません。でも、ある意味そうなのです。親は小さな子ども下の世話だってします。全部見るし、子どももそのことを恥ずかしいとは言いません。そこに、信頼と愛情があるからです。しかし、そうは言っても人間の親は不完全です。子どものことだって分からない事がたくさんあるし、子どものためにしていると言ったって実は身勝手な動機でしていることもいくらでもあります。「私の道(3節)」は迷いの道だし、「私の舌(4節)」が語ることは本来言うべきではないようなことばかりです。でも、そんな私であることをすべて知って、私を極めて、その上で神は私たちをご自分の子どもとしてくださいました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」と言っています。この「霊」という言葉は「息」という意味もあります。神さまのみ顔は近い。息がかかるくらいに。例え天に上っても、あるいは陰府に身を横たえても、そこでも間近に神さまの御顔があって、その息吹は私に届きます。闇の中でさえも、神は私を見ておられます。陰府というのは、死の世界です。詩編第88編などにも出てきますが、陰府というのは、神がおられない全くの絶望の世界です。死の世界です。闇もまた恐怖を生み出す。神の手が届かない場所という思いがします。私たちには、神がおられるのは光の世界、昼間の世界のことであって、それは理想の世界、綺麗事の世界というような思い込みがどこかにあるのではないでしょうか。人間のドロドロした世界のことは、聖書とは違う現実の世界だと考えてしまってはいないでしょうか。この詩編ではどこに行っても神がおられると言うけれど、実際にはどこを探しても神はおられないということのほうがむしろ現実だと…。イスカリオテのユダは闇夜の中に隠れて、イエスを裏切りました。闇の中にある世界で、今のイエスのやり方では通じないと思ったのです。それで裏切った。しかし、ユダの裏切りでイエスが捕らえられ、裁判にかけられると死刑判決が下りました。絶望を深めたユダは自殺しました。暗闇の中に沈み込んでしまいました。主イエスはそんなユダをどうなさるのでしょうか。イエスは、ユダが死んだ数時間後に十字架にかかり、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。死んで、墓に葬られ、陰府に降りました。ユダを追いかけるようにして。陰府にも主はおられる。闇にも主はおられる。闇よりももっと深い闇を主は知っておられる。闇も神に比べれば闇とは言えない。昼も夜も共に光を放ちます。主がそこにおられるからです。神はこの私に命を与え、私を形づくってくださいました。親には子どものいのちを造ることなんてできやしない。しかし、神にはできます。その驚くべき御業によって私を究めておられる方こそ、私の真実な救い主イエス・キリストその方なのです。

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...