2018年3月30日金曜日

2018年受難週祈祷会・金曜日

モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された。(出エジプト記14:21)
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:38-39)

ローマの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、主イエス・キリストを愛しぬいた人です。そして、それ以上に、キリストに愛されていることを知っていた人です。この人の原点を思わせる言葉が、ガラテヤの信徒への手紙の中に出てきます。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された。文語訳聖書を見ると、ここは、「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたる」と言います。十字架につけられ給いしまま、といいます。私たちは十字架を拝むわけではありません。十字架につけられたキリストを拝んでいます。このキリストのお姿を見つめる。それがパウロの原点です。私たちの原点です。その原点から、決して離れてはならないのです。
私たちも、この受難の金曜日に、十字架につけられたままのお姿のキリストを見つめましょう。このキリストにじっと目を注ぐことでしか見えてこない大切なことがあるのです。それは、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛です。この神の愛は弱い愛ではありません。不確かな愛ではありません。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」どんなものも、私をこの神の愛から引き離すことはできない。そういう、強い愛です。確かな愛です。しぶとい愛です。
私が不退転の決意で信仰から離れない、というのではありません。私の決心が固く、意志が確かだから神様から離れない、というのではないのです。神の愛が、わたしを離さないのです。キリスト・イエスの十字架によって示された神の愛が、私への愛を貫いてくださるのです。誰も私たちを奪うことはできません。パウロはこのとき、迫害されていました。「死も、命も、…」というのは、とても具体的な苦しみのことです。しかし、例えどのようなものも、私を神の愛から引き離すことはできない。十字架につけられたままのキリストのお姿が、そのことを私たちに語りかけます。
それは、神が海を押し返されるような、力強い御腕の力です。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された。」神様は私たちのための縦になってくださって、私たちをすべての災いから守ってくださいます。十字架のもとに逃れましょう。十字架のキリストを仰ぎ、この方を礼拝しましょう。ここに顕された神の愛から、例えどんな被造物であっても、あなたを引き離すことはできないのです。

2018年3月29日木曜日

2018年受難週祈祷会・木曜日

すべての命はわたしのものである。(エゼキエル書18:4)
イエスの言葉:わたしの父の家には住むところがたくさんある。(ヨハネによる福音書14:2)

わたしたちは、やがて死を迎えたときにどこにいくのでしょうか。多くの人の問いではないかと思います。自分自身の死を見つめたり、大切な人の死に直面したり、さまざまな場面で私たちはそのようなことを問います。私たちは、やがてどこに行くのでしょう。私の大切なあの人は、今どこにいるのでしょう。そう問うたとき、主イエスは答えてくださいます。「わたしの父の家には、住むところがたくさんある」と。
「百万人の福音」という雑誌があります。今発売されている4月号に、小さな記事を書きました。編集者の方に「聖書にある死んだ後のこと」というタイトルを与えられました。聖書の言葉をいくつか取り上げて、それらについてのお話を書いています。編集者の方は、この雑誌を読む人(キリスト者も、そうでないかたも)の多くが問うているのではないかと考えたのではないかと思います。私たちは、死んだときに一体どうなるのか、と。ここでも、やはり、私たちはやがてどこに行くのかという問いがあります。
「わたしの父の家には住むところがたくさんある。」だから、私の父の家へ行こう。主イエスは私たちを誘ってくださっています。私たちには、死んだ後どうなるのか、詳しいことは分かりません。聖書はそれほど死後のことについて語っているわけではありません。私たちが知りうる範囲の外の話です。しかし、主は、私たちのための場所を用意してくださっています。主が「父」と呼ぶ方の家に、私たちのための場所がある。私たちは、今、主イエスの父の家へ向かって歩んでいます。
私は希望が丘教会附属の幼稚園に通っていました。私が年少組の頃のことです。小さな遠足というか、散歩のようなものがあって、園のみんなで少しはなれたところにある大きな公園(確か大池公園だったと思う。)に行きました。年少組の子どもは足も遅くてなかなか進めません。大きな子どもたちは自分たちのペースで先に行ってしまいました。先生が、ちょっと戯れに、みんなどうする、私たち迷子になっちゃったのかなと子どもたち(つまり、私たちのことです。)に言いました。私たちは、ちょっぴり不安になった。でも、先生はもちろんどこに行けば良いのか分かっています。だから、先生は不安ではないし、怖くもありません。私たちの生きる道も同じです。私たちは、時には他の人と歩くペースが違うこともあるかもしれないし、もしかしたらちょっと道に迷ってしまったり間違えてしまったりすることもあるかもしれません。しかし、どこに行くのか分かっていれば、心配する必要はありません。どこに向かっているのか分かっていれば、地図を見たり、他の人に聞いたり、いくらでも方法はあります。心配しなくていい。そして、私たちは、イエス・キリストの父の家へ向かっている。行き先ははっきりしています。主が、私たちが道を失ったと思い込んで心配になったときにも、共にいて、道を教えてくださいます。こっちへ行こう、一緒に父の家へ帰ろうと、手を取ってくださいます。主の手は、具体的には、教会の仲間の手の形をしているのです。
「すべての命はわたしのものである。」主なる神様はそうおっしゃいます。私の命も、キリストのもの。主のもの。それは、私たちをどんなときにも掴んで、話さないでいてくださる神様の愛の確かさです。今日は受難週の木曜日で、聖餐を祝います。この食卓は、父の家での食事の先取りです。父の家でのパーティーの前味です。私たちを迎える神の愛が込められた食卓なのです。

2018年3月28日水曜日

詩編第114編「すべての造られたものの主人」


「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に」。この「主」はご主人様といった意味の言葉である。地にとって、あるいは海や川、山々や丘にとっても、神はご主人様であり、その御前に身もだえすべき方。世界のすべての造られたもの、自然も動物も、主の所有物である。それはイスラエルが神の所有物であることがはっきりしたときに明確化する(2節)。ローマ8:18-25を思い起こす。被造物は呻きつつ待つ。人間が神の子として現れるのを。

2018年受難週祈祷会・水曜日

虐げる者から遠く離れよ、もはや恐れることはない。破壊する者から遠く離れよ、もはやそれがあなたに近づくことはない。(イザヤ書54:14)
イエスの言葉:わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネによる福音書14:27)

今朝の新約は、最後の晩餐での主イエスの長い説教の一節です。告別説教と言える言葉の中に出てきます。明日、イエス様は十字架にかけられ、弟子たちと共にいることができなくなってしまいます。続く28節では、「わたしは去っていく」と言っておられます。


それから約60年して、使徒ヨハネはこの夜のことを思い起こしながら福音書を書いたのでしょう。きっと、今の自分たちの教会とあの時の弟子たちとを重ねてみていたのではないかと思います。主イエスが十字架にかかり、弟子たちの側から去って行かれる。そのことと、今、自分たちの目の前に主がいてくださらないという現実が重なって見えていたのではないかと思うのです。しかも、あの後の弟子たちも、今の私たちも同じように厳しい現実の中で信仰生活を送っている。この告別説教を読んでいくと、例えば15:18からのところでは迫害の予告があります。主イエスを信じているがために苦しい目に遭わなくてはならない。それは、今、ヨハネ教会が、そして私たちが経験している現実そのものではないでしょうか。


どうして、主は今ここにいてくださらないのだろう。今、ここに、わたしのこの目に見えて、この手が触れるかたちで、どうしていてくださらないのだろう。この目で主のお顔を見て、この手で主の手に触れたらどんなに慰められることか…。十字架の後の弟子たちも、ヨハネの教会も、そして私たちも、何度願ったことでしょうか。主は、私たちがそういう悲しみを覚えることをよくご存知で、だから、特別な約束をしてくださいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな。」キリストの平和が、私たちの内に宿ると言ってくださったのです。


日曜日に新しい牧師と伝道師が誕生しました。任職式の礼拝で、潮田健治先生が説教をしてくださいました。潮田先生に洗礼を授けた竹入牧師という方のお父様の話をしてくださいました。竹入高。この方も牧師です。太平洋戦争の時に京都の教会の牧師でした。当時、キリスト教会への弾圧は厳しいものがあり、竹入高牧師は信仰を貫き、特高警察に捕らえられ、拷問され、衰弱し死にいたるところで釈放され、その数日後に亡くなったそうです。戦中の教会は何人かの殉教者を出している。竹入高牧師はその一人です。わたしは、竹入牧師においても、この主イエスの言葉はなしになってはいないと信じます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな。」この言葉が真実であり続けたからこそ、息子さんもまた牧師になられたのでしょう。私たちを信仰のゆえに虐げる者は確かにいます。しかし、もはや恐れることはない。破壊する者がいます。しかし、主が私たちを救ってくださいます。彼らは例えこの命を奪うことはできたとしても、神が平和を与えるこの魂を損なうことはできないからです。



主は、どうしてここにいてくださらないのか。最初にそう言いました。しかし、ヨハネによる福音書はイエスの十字架で終わっているわけではありません。十字架にかけられたキリストは三日目に復活し、再び弟子たちのところへ来て、言ってくださいました。「あなたがたに平和があるように。」そして、彼らに息を吹きかけます。キリストの息。それは、聖霊のことです。聖霊は、今私たちの目には見えないけれど、私たちと共にいてくださいます。キリストの平和の福音を私たちに届けてくださいます。どのようなときにも消えてしまわない、確かな約束です。

2018年3月27日火曜日

2018年受難週祈祷会・火曜日

主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。(詩編117:2)わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマの信徒への手紙8:32)

聖書を読んでいると、ときどき不思議な気持ちになります。どうしてわたしのことをこんなに知っているのだろう、と思います。ローマの信徒への手紙第8章では、私たちの肉体の弱さや苦しみのことが和田に上っています。例えば、26節です。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」私たちは弱い。どう祈れば良いのかも分からない。苦しみの中で、祈ることを止めてしまったり、祈りの言葉が出てこなくなってしまいます。呻きしか出てこない。聖書はそのことをよく知っています。ところが、それだけには留まりません。聖霊なる神様ご自身が、私たちのために、私たち以上に呻いて、私たちのために執り成して、どう祈ったら良いのか分からないわたしたちのために祈ってくださいます。私たちの内で祈っていてくださいます。私たちの口を通して、聖霊ご自身が祈ってくださるのです。わたしたちは弱いけど、神様ご自身が私たちに祈りの言葉を下さいます。「天の父よ」と祈るたった一言を、私たちの口に上らせてくださるのは、神様です。今朝の御言葉の直前の31節ではこのように言っています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」神様が、私たちの味方です。たとえ誰がわたしに敵対しても、神様は味方でいてくださいます。どんな苦しみも、病も、悲しみも、死も、例え誰が私たちの敵であっても、神様は私たちの味方です。祈る者はそのことを知っているのです。なぜなら、「天の父」と私たちが祈ることができるからです。この父の愛から私たちを引き離すものは何もありません。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」苦しみの時、呻くときに、私たちはこのことを思い出したいと願います。御子をくださった以上、御子と一緒にすべてのものをくださるのは当然。そう信頼しましょう。御子をくださる父なる神様の思いは、痛みは、どんなに深いものだったのでしょうか。どんなに想像しても、想像もつきません。ご自分の独り子、何よりも大切な、かけがえのない、他では代えが効かないもの。そのたった一つの宝を、神様は私たちのためにくださいました。苦しみの中で、私たちはそのことを知るのです。痛みの中で、神様の痛みがどんなに深く大きかったのか、その途方もなく計り知れない神の御心の、その苦しみを、私たちもわずかにでも知ります。その時、私たちも主を賛美せずにはいられません。「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」

2018年3月26日月曜日

2018年受難週祈祷会・月曜日

主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。(詩編96:2)
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコによる福音書14:26)

十字架にかかる前の夜、苦しみの夜の初めに主イエスがなさったことは、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をすることでした。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と言うとおりに、主イエス御自身がそのことを願っておられました。そして、その締めくくりとして、主イエスは弟子たちと共に「賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」のです。
食事の時にイエスさまがなさったことは、ユダの裏切りを指摘すること、そして聖餐を制定することです。食事が終わり、一同が賛美の歌をうたい、向かって行ったのはオリーブ山。その麓にはゲツセマネの園があります。オリーブ山までの道すがら、主イエスは、これから御自分が裁判と十字架に進んでいくときに、シモン・ペトロがご自分の子とを知らないと言うだろうという予告をなさいました。つまり、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」という言葉は、ユダの裏切りの予告とペトロの裏切りの予告の間に挟まれて、ゲツセマネの園での祈りに向かう主イエスが、苦しみを前にしてなさったことなのです。
私たちは、苦しみを前にして、何を口にしているでしょうか。自分を裏切る者を前にして、何を思うのでしょうか。主は、苦しみを前にしたときに賛美の歌をうたいました。私たちは、私よりもなお深く苦しんでおられる主イエスに向かって、「どうして私が苦しまなければならないのか」、「本当に神の子なら自分と私を救ってみろ」と罵ってしまっているのかもしれません。
「一同は賛美の歌をうたってから」とあります。この時の賛美の歌は、恐らく詩篇第115編から118編だったと考えられています。この中でも私は特に第116編が大好きです。ぜひ聖書を開いて読んでみてください。「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。」「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。」このような詩編の言葉を読んで気づくのは、賛美の歌の中に、すでにわたしの苦しみも、そこから助けてくださいという祈りも、全部が既に含まれているということです。ですから、私たちも苦しみの日に主と共に賛美の歌をうたいましょう。苦しみの中でこそキリストを見上げて、神を賛美しましょう。賛美の歌をうたいながら、主イエス・キリストは、十字架へ向かって行かれます。

2018年3月25日日曜日

ヨハネによる福音書第12章12から19節「すべての道は十字架に通ず」

昨日、かもい聖書教会で行われた結婚式に行きました。知らない町を歩くのは、少しドキドキします。知らない坂道を上りながら、この道で本当によかったのかなと思い始めた頃に教会堂の赤い屋根と高く空に向かう十字架が見えてきました。私の小さな旅です。日曜日に礼拝に来るのも、小さな旅、小さな巡礼です。12節を見ると、ここには「祭りに来ていた大勢の群衆」がいました。イスラエル人には年に3度のエルサレム巡礼が課せられています。それで宮詣でに来た人も多かったのでしょう。しかし、それはきっと単なる義務ではなく、救いを求める巡礼だったのだろうと思います。なぜなら、主イエスがエルサレムに入城するのを見て、人々は「ホサナ」と叫んでいます。この言葉は「救ってください」という意味です。皆、救いを求めていました。神に救いを求め、それを私にもたらしてくださるのはこの方ではないかと期待していたのです。昨年秋の中会女性会の研修会で「十字架の道行き」の体験というプログラムがあったようです。カトリック教会の礼拝堂に行くと見ることができます。15のチェックポイントのようなものがあり、それぞれに、十字架に向かう主の足取りにかんする言葉を朗読するようになっていて、祈りをしながら15の箇所を回るのです。カトリック教会に息づく一つの祈りの型です。これもまた小さな巡礼です。この巡礼で養うのは、十字架にかけられたキリストへの愛です。私たちの人生も、一つの巡礼の旅であると言えるのではないでしょうか。私たちはエルサレムに行くわけではないかもしれません。私も行ったことありません。カンバーランド長老教会の一員としては、いつか米国テネシー州ディクソンにある小さな丸太小屋、カンバーランド長老教会が生まれることになった小さな祈りの集会が行われたあの小屋に行ったみたいとは思いますが、例え行けなくても構わないのです。私たちがこの場所で営んでいる日常が、既に巡礼の旅だからです。私たちはこの場所で主イエスへの愛を育む旅をしています。「ホサナ、救ってください」と私たちも主に祈りながら生きています。あの時、群衆はどういう救いを求めていたのでしょうか。1718節を見ると分かります。人々は、主が死んでいたラザロを生き返らせたことを耳にして、主イエスのところへ来て救いを求めて叫びました。人々の願いは、あるいは私たちの究極の願いは、死からの救いなのではないでしょうか。しかし、私たちはこのみことばを読んで少し戸惑います。なぜなら、一週間も経たないうちに、この群衆はイエスを十字架につけろといって叫んだことを私たちが知っているからです。ここには私たちの救済願望の罪があるのだと思います。私たちには、こうやって救ってほしいという神様への期待が、それぞれの形であるのではないでしょうか。その通りになれば良いですが、その期待が外れたとき、神への期待は失望に変わります。人間関係でももちろん同じです。配偶者への願望が思い通りにならない怒りを多くの人が知っているでしょう。願望に潜む罪がある。王キリストは、私たちの願望を叶えようとしてエルサレムへ来られたのではありません。聖書に書いてある通りにろばに乗る王として来られました。キリストにおいては聖書が語る救いが先に立っているのです。この方は私たちの王です。しかも、十字架と復活によって栄光を受ける王です。だからこそ、私たちを死からも救いうるのです。   

2018年3月22日木曜日

詩編第113編「主は、あなたと共に」


主はすべての国を超えて高くいます方。恐らく、これは多くの人がキリスト教に対して持っているイメージだ。超越した神。しかし、この詩編は続けて言う。「主は御座を高く置き、なお低く下って天と地をご覧になる。弱いものを塵の中から起こし、乏しい物を芥の中から高く上げ」てくださる。神は高くおられるだけではない。むしろ髙い方だからこそ、誰よりも低くなられる。だからここにもおられる。私のところにさえもいてくださるのだ。

2018年3月18日日曜日

ヨハネによる福音書第11章45から53節 「好都合」への疑問符

キリストは私たちのために、私たちに代わって死んでくださいました。それは、私たちにとっては世界が変わってしまう福音です。この世界は「わたしのために」で回っている世界だからです。この世界には好きに、やりたいことをやって生きるという福音もあります。自己実現が幸福の証しだと見なされます。でも、実際に今私たちが経験しているのは、そういう社会の生きづらさです。なぜ、私たちはイライラしたり、異様に疲れていたりして、社会全体が生きにくくなっているのでしょうか。一昨日、息子の幼稚園の修了式に行きました。子どもたちが「忘れないで」という讃美歌を歌いました。「忘れないで、いつもイエス様は君のことを見つめている。だからいつも絶やさないで、胸の中のほほえみを。」聞いていて、感動してしまいました。本当に忘れないでいてほしいと願います。「自分のために」の世界の中で、本当に私たちのために生き、また死んでくださった方のことを。今日の聖書の御言葉は、なぜイエスが殺されることになったのかという理由が書いてあります。イエスが数々のしるしを行ったのを見て多くの人がイエスを信じました。最高法院は頭を悩ませます。このイエス人気がローマ帝国からユダヤに逆心ありと誤解されはしないか。すると大祭司カイアファが言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」この言葉が決定的だったようです。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらむようになりました。主イエスは「自分のために」とか「好きに生きる」の世界の中で、その秩序を維持するために一番好都合だという理屈で殺されることになったのです。こういう現象を何というのでしょうか。スケープゴートとか人身御供というのでしょうか。それらは、システムを維持するために個人を犠牲にすることです。システムは本来は人間を守るためのものです。家族、学校、会社などもそうでしょう。集団だけではありません。電車の時刻表や交通ルールもシステムです。しかし、システムは時に人を守らなくなります。路地に隠れて取り締まる無意味な交通ルールの監視などはその典型例です。家族は時に愛の共同体ではなくなり、ある家族を犠牲にすることでなり立つこともあります。システムそれ自体が自己目的化するのです。それは、他人事ではなく、私たちの話です。カイアファの名前が再び登場するのは、18:14のイエスの裁判が始まる場面です。主イエスはカイアファのしゅうとのところへ最初送られ、尋問を受けました。茶番の裁判です。次にローマの総督ピラトのところへ。当時のユダヤでは死刑にする顕現がなかったので、ローマの力を借りようとしたのです。しかしピラトがいくら取り調べてもイエスに死刑の理由は見つかりませんでした。もう釈放したらどうかとピラトは持ちかけます。しかし、人々は叫びました。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と。ハッとします。イエスをしいて十字架につけたのは、大祭司でも総督でもありません。ただの普通の人々です。私でもあるのです。殺せ、十字架につけろ。それは私の叫びです。しかし、不思議なことにあのカイアファの言葉は預言であったと聖書は言います(11:51-52)。神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとしてご自分の御子イエスを私たちに遣わしてくださったのです。ここに福音があります。   

コリントの信徒への手紙一7:1-7「賜物としての人生」

 わたしが学生の頃に出会った、少し年下のあるキリスト者がいました。彼は言いました。「自分は、独身に召されているのではないかと思う」と。若い私には本当に衝撃的な言葉でした。どうしてそう思うに至ったのか、もっと詳しく聞かせてもらえばよかったと思います。ただほとんど確実だとわたしが思...