2019年2月28日木曜日

2019年2月28日その2(レビ記16〜17)

2月29日の通読箇所:レビ記16~17、詩編70

レビ記16~17;
「贖いの日」に関する規定です。一年にたった一度のこの日にだけ、大祭司だけが証しの幕屋の中に入って証しの箱の蓋である贖いの座の前に立つ日です。その日に、罪を清めるための特別ないけにえを献げる礼拝をするのです。
そこでは、二頭の山羊を準備しておきます。一頭は屠って主に献げる。そして、「アロンは生かしておいた雄山羊の頭に両手を置き、イスラエルの人々のすべての過ちと、罪となるあらゆる背きをすべて告白し、それらを雄山羊の頭へ移してから、担当の者の手によって荒れ野へ放つ。民のあらゆる過ちを負って、雄山羊は不毛の地、荒れ野へ放たれる(16:20-22)」。
これは、実際に目にしたら忘れられないような出来事であったのではないかと思います。一匹の山羊は殺し、もう一匹には私たちの罪を負わせて荒れ野へ放つ。私たちの罪が赦されるために、血が流され、動物が犠牲になります。まして私たちは、主イエスという犠牲の羊によってすべての罪を負って頂き、完全に清められたと信じています。しかし、それが言葉だけのこと、お話の出来事ではなく、実際にこの私のためにキリストの血が流され、犠牲になったことをわきまえているのか、と自らに問わないわけにはいきません。そうです。私たちのために、キリストの血が流され、キリストは荒れ野へ放たれるようにして陰府に降っていかれたのです。このお方によって、私たちが生きる者となるために。

2019年2月28日その1(レビ記14〜15)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙16、レビ記14~15、詩編69

レビ記14~15;
今日の箇所は、読んでいてあまりいい気持ちがない箇所であるかもしれません。何らかの皮膚の病や家屋に生じたカビについても、男性の精液の漏出、女性の月経、すべて、不可抗力です。生きている以上、無縁で過ごすことはほとんど不可能です。しかし、そのようなことのためにも、清めのための礼拝が定められていました。「これは規定の病を患っていた人が清められるときの指示である(14:1)」と言って、どういうささげ物をして神を礼拝するのか、細かく定められています。
こういうところを読んで驚くのは、神様は、私たちの最もプライベートな領域にも関心を持っておられるということです。皮膚は、普段はあまり人目につきません。家屋でカビが生じる場所も、お客さんは直接目にしないような物陰です。性にまつわる第15章は、言うに及ばずでしょう。そういう話は普通人前ではしないものですし、むしろ秘匿すべきであるのかもしれません。
しかし、神様はそういう私たちの一番プライベートな領域に関心をお持ちです。そして、そういう場所で神様が聖なるお方であることを私たちが学ぶようにと願っておられるのです。私たちには生きている限り汚れは不可避です。しかし神は聖なる方。ですからキリストは、私たちのプライベートな部分も贖って神様のものとしてくださったのです。つまり、神に与えられた清い宝だということです。私たちの心も体も、あるいは部屋の人目につかない片隅にも目を向けていてくださる方は、私たちの髪の毛一筋をも覚え、私たちが生きるために必要なものをすべて備えていてくださいます。

*聖書通読日課表は366日での通読日課ですので、2月29日の分も指定されています。今年は平年ですので、29日の分は後刻配信いたします。

詩編第141編「この口を見張ってください」


「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。わたしの心が空くに傾くのを許さないでください。」まっすぐな祈り。一日を始めるにあたって、私自身の祈りとしたい。自分がどれだけ唇で罪を犯し、人を建て上げることのないむなしい言葉に捕らわれているか、深く思わないわけにはいかないのだ。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。(ヤコブ3:8)」だからこそ、主御自身に門番になって守って頂かなくては。

2019年2月27日水曜日

2019年2月27日(レビ記13)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙15、レビ記13、詩編68

レビ記13;
新しく刊行された聖書協会共同訳で大きく訳文が変わった所です。「重い皮膚病」と翻訳されていた言葉が「規定の病」になりました。規定の病について、巻末の解説でこのように言っています。この言葉が「人について用いられている場合には、何らかの皮膚の疾患をさすが、病理学的にはいかなる病気であったか明瞭ではない。」昔の翻訳では「らい病」と訳しており、これは明確に誤訳でした。さらに日本社会のライ差別に加担してしまったという経緯もあります。今回の翻訳では、丁寧な議論をした末に「規定の病」という訳語を採用したということでしょう。私たちもこの言葉に慣れたいと願います。
それにしても、ここでの規定の病に関する記述はとても厳しい。この病にかかった者に「汚れている」と言い渡し、その人は「衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない(45節)」と定めています。あまりのことに驚いてしまいます。
昨日も書きましたが、レビ記は創世記第1章と深い関わりがあります。創世記第1章の創造は、混沌の秩序化でした。人間の規定の病は人間の内面と外界との境である皮膚が弱る病です。おそらく、規定の病は秩序づけられた人間存在が混沌に帰ってしまう、と見なされていたのだろうと思います。それで、恐れられていました。
しかし、主イエス様にとっては、それは恐ろしい病ではなかったのです。「さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、『お望みならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『私は望む、清くなれ』と言われると、たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。(マルコ1:40-42)」。主イエスは、まさに神がこの天と地とを造り、私たちを造られた祝福の手を私たちに向けて伸ばしてくださいます。病への無知のために人々に恐れられ、誰も手で触れてくれなかったとしても、キリストの手はまっすぐに伸ばされているのです。

2019年2月26日火曜日

2019年2月26日(レビ記11〜12)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙14、レビ記11~12、詩編66~67

レビ記11~12;
清い動物と汚れた動物、水の中に住むもの、鳥、虫などについて、何を食べてもよいのか、何は食べてはならないのかを細かく定めています。正直に言って、私たちにはついて行かれないところがあると思います。汚れた動物が触れた土器や、動物が死んだ場合の処置についても書かれています。とても細かいです。
ここを読むと、創世記第一章の動物の分類とよく似ていることに気づきます。創世記第一章でも、造られたものを細かく分類していました。それは、混沌の秩序化であったのだと思います。そして、創世記第一章とレビ記とは、関わりが深い。つまり、清いものと汚れたものとをこれだけ細かく分類しているのは、混沌の秩序化ということなのだろうと思います。
私たちには、自分の生活が神様の御前で何を意味しているのか、丁寧に考えることが少ないのではないかと思います。しかし、神様は言われます。「私は主、あなたがたの神である私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい(11:44)」。聖なる者とは、神のものだということです。私たちは、自ら神のものとして生きるために、自分自身を献げます。
しかし、私たちが毎日ごく普通に生活するだけでも、ここに書かれている汚れと無縁で生きるのは全く不可能です。特に第12章に書かれている出産などに関わることも、その代表的なことであろうと思います。
つまり、私たち自身には、神様のものとして、聖なる者として生ききることは不可能と言わざるを得ない。日常生活の感覚として、私たちは「汚れ」と言うことを知らされます。それは、神の聖ということが私たちからあまりにも遠く、私たちが汚れを通してしか聖なる神を知ることができないからです。
しかし、その方が、この世界を造ってくださいました。清いものも、汚れたものも。汚れを不可避的に負う私たちのことをも。私たちがたとえ汚れと混沌の中でうめいているのだとしても、神は私たちをご自分のものとしてくださいます。私たちの日常生活を救うために、キリストは私たちの所へ来てくださったのです。

2019年2月25日月曜日

2019年2月25日(レビ記9〜10)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙13、レビ記9~10、詩編65

レビ記9~10;
アロンの息子であるナダブとアビフが死にました。礼拝に使う香炉を、命じられていない規定外のもので献げたため、火になめ尽くされてしまったのです。あまりにも恐ろしい事件です。さらに、モーセはアロンの他の二人の息子たちに言いました。「髪を乱すな。衣服を裂くな。そうすれば死ぬことも、怒りが全会衆に及ぶこともない。あなたがたの同胞であるイスラエルの家は皆、主が火で焼いたことを嘆き悲しんでもよい。しかし、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入り口から外に出てはならない。あなたがたには主が注がれた油があるからである(10:6-7)」。あまりにも厳しい言葉です。自分の兄弟が死んだというのに、喪に服すことも許されず、なお神殿のための働きを続けるようにと言われました。どうして、こんなにも厳しいのか。
神様はアロンにこのように言われます。「聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものを区別し(10:10)」するように、と。アロンとその子らは神のために働くように、神のものとされた。だから、悲しみ方においても区別されるべきではないか、というのです。しかし、これまで悲しいことを素直に悲しいと言うことのできなかった経験がある人にとって、あまりにつらい言葉ではないでほうか。
しかし、感情の表出が許されていないわけではありません。16節以下で、アロンの死ななかった息子たちが礼拝に際して規定に従って食べるべきであった食事をしなかったことが問題になっています。しかしこのときは、アロンたちの言い分の方が通りました。
神に仕えるものは悲しんではいけないというのではなく、それにふさわしい悲しみ方があるということなのだろうと思います。悲しみは私たちの心を堅くします。心の柔らかい悲しみ、それは、キリストの元に帰る仕方で悲しむことであるのかもしれません。主は、「悲しむ人々は、幸いである」と言ってくださいました。「その人たちは慰められる」と。主イエスの御前で重荷を下ろし、この悲しみをもお任せするものを、主は、必ず覚えていてくださる。。私はそう信じています。

2019年2月24日日曜日

コリントの信徒への手紙一9:1-18「非難中傷との戦い」


 パウロは、とても大胆に自分のことを語る人だと思います。説教をする時に自分のことを語ってはならないと言う人もあります。しかし、パウロは明らかにそうではありません。自分の、経済的な生活の話までしています。その大胆さは、手紙を読む者を驚かせるほどです。私が学生の頃、牧師・伝道者として生きるか否かと悩んでいた頃のことです。旧約聖書を読むと、奴隷として使われていたエジプトから脱出したイスラエルの人々が、神様によってカナンの地へ40年もの旅をする場面が描かれます。カナンに入る前に、部族ごとに土地が分けられました。ユダ族はここ、エフライム族はここ、と12に分けられます。ところが、イスラエルの部族の中でレビ族にだけは所有地が与えられませんでした。レビ族は祭司であり、土地の割り当てがありませんでした。それでどうやって生きたのかといえば、神殿での礼拝で献げられたものの余り物を食べて生活したのです。レビ族は神を信じて生きるとはどういうことかを表すしるしです。私はとても厳粛な思いになりました。
 パウロはコリント教会にいる反パウロ派から厳しい批判を浴びていたようです。彼の食事、結婚生活、仕事やお金のことについて批判していた。それに対して特にお金のことについての長い弁明を書いています。パウロのような伝道者は、特にギリシア世界ではよく知られていた哲学者や弁論かと比べられたようです。彼らはどうやって生活の資を得たのか?ある人はなにがしかの話をして、聞いた人からお金をもらいました。あるいは裕福なパトロンがいて、その子息の家庭教師もしながら暮らしている者もいました。中には物乞いをした人もいたそうです。パウロは自分で仕事をする道を選びました。そのことをコリント教会のある者たちは批判したのです。パウロは自分の話に自信がなくて聞いた人にお金を求める勇気がないのだとか、訥弁にすぎないからパトロンが見つからないのだとか。ましてパウロはそもそもエルサレム教会からの推薦状を持ってきたわけでもなし。一体どこの馬の骨だ…と。パウロには分かりやすくて皆が納得できる保証が一つもなかったのです。この人ならば信頼に足ると誰もが思えるようなものが、なにも。
 これに対し、パウロは言います。「わたしとバルナバには、生活の資を得るために仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。」自費で戦争に行く人も、ブドウ畑を作ったのに実りを食べない人もいない。聖書にも「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてある。自分には教会に生活を支えてもらう権利があると言います。しかし、パウロはこの権利を用いなかった。キリストの福音の妨げにならないように。パウロの基準は、ここにあるのです。キリストの福音を一人でも多くの人に伝えるための最善を求めます。それは、彼が使徒であることに徹したということだと思います。使徒として、自分は強いられてゆだねられた務めを負っていると言います。自発的に、好きだからやっているのではない。「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている(二コリ5:14)」からそうせずにはいられないのです。奴隷は他人の評価を気にしません。主人のことだけを考えています。パウロは使徒、キリストの奴隷でした。彼の姿は、神を信じて生きるということの生きたしるしです。だから神の恵みにだけ生かされている者として大胆に自分を語れたのです。

2019年2月24日(レビ記7〜8)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙12、レビ記7~8、詩編64

レビ記7~8;
アロンと他のレビの子孫である妻子たちとの任職式が行われました。「主はモーセに告げられた。『アロンと彼と共にいるその子らを伴い、祭服と注ぎの油、清めのいけにえにする雄牛一頭と雄羊二匹、それに種なしパンを入れた籠を取りそろえて、会見の幕屋の入り口に全会衆を集めよ』(8:1-3)」。この章を読むと、祭司に任じるにあたり、とても長い礼拝が献げられた、ということです。つまり、第7章までのささげ物に関する長い規定が最初に適用されたのが、他ならぬアロンたち祭司の任職式のときだった、ということになります。
この礼拝には、二つの意味があったのではないかと思います。一つには、モーセは「注ぎの油をアロンの頭に注いで聖別(12節)」しました。祭司たちを神様のものとした、ということです。そのしるしとして、彼らの頭に油を注ぎます。もう一つの意味は、「彼は清めのいけにえにする雄牛を引いて来た。アロンとその子らは清めのいけにえにするその雄牛の頭に両手を置いた(14節)」。これは、1:4によると、そのいけにえの雄牛を彼の身代わりとし、贖いとするための所作です。つまり、この任職式の第二の意味は、祭司自身の罪の贖いのための礼拝であった、ということです。
ここで思い起こすのは、主イエス・キリストのことです。この方について、ヘブライ人への手紙でこのように言われています。「この方は、大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。ご自身を献げることによって、ただ一度でこれを成し遂げられたからです(ヘブライ7:27)」。キリストが私たちのためのまことの祭司でいてくださいます。完全に神のものであり、ご自分のための罪の贖いをする必要のないお方が。キリストは、ご自身を犠牲にすることによって、私たちをも神のものとし、私たちの罪を完全に赦してくださいました。このキリストという唯一無二の祭司にあって、私たちはキリスト者とされたのです。この永遠の祝福が、今日も、あなたに向けられています。

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を...