2024年4月29日月曜日

2024年4月29日の聖句

主は正しい。私は主の口に逆らった。(哀歌1:18)
ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。(マタイ21:28~29)

今日の新約の御言葉は、主イエスの譬え話です。二人の兄弟がいました。兄は冒頭の通りです。父にぶどう園で働くように言われて「いやです」と言ったものの、後で考えを改めて働きに行きました。ところが弟は同じように父から言われて「はい、お父さん」と言っておきながら、出かけませんでした。そして、主イエスは問いかけておられます。「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」と。
弟の姿に重ねられているのは、祭司長たちや民の長老たちです。口先では立派なことを言いながら、実際にはちっとも神に従おうとしない。それに対して兄の姿に託されているのは徴税人や娼婦たち。父である神の命令に「いやです」と反抗的ですが、後で考えを改めて父の言葉に従う。主イエスは祭司長たちに問われます。この兄のような人たちとあなたたち、どちらが神に従っているのか?主イエスは私たちに問うておられるのです。
「主は正しい。私は主の口に逆らった。」私たちに残るのは、ただただこの事実だけです。口先ではなんと言えても、実際の生き方が神に従うものとなっていない。神の喜んでくださる生き方をしようとしていない。そんな私たちの姿は、神様の御前に本当に恥ずべきものです。キリストは私たちに、神の御心に立ち返って欲しいと言って招いてくださっています。今はまだ、考え直すのに遅すぎると言うことはありません。キリストが招いてくださっている今こそ、その時です。キリストの声に導かれて、神の御許に帰りましょう。

2024年4月28日日曜日

2024年4月28日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編96:1)

今日の聖句:
私の思いを一つにし、あなたの名を畏れる者にしてください。(詩編86:11)
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を、お与えになりました。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地下のものすべてが、膝をかがめ、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。(フィリピ2:9~11)

今日与えられている旧約聖書の詩編に「私の思いを一つにし」と書いてあります。興味深い言葉です。「私たちの思い」ではなく、「私の思い」です。今、自分の思いが一つでなくなってしまっている。私の中で思いがバラバラになってしまっている。なぜか。この詩編を最初から読むと、これは苦しんでいる者の祈りの言葉です。苦しみの中で思いがバラバラになり、自分で自分をどうすることもできなくなってしまっている。そういうことではないかと思います。
私たちにもよく分かるのではないでしょうか。私たちも身に覚えがあるのではないでしょうか。苦しみのために自分の思いを自分でもどうすることも出来なくなってしまう。一つの心ではなくなってしまう。
そういう思いの中で、この信仰者は祈ります。「私の思いを一つにし、あなたの名を畏れる者にしてください。」一体どうやったら思いが一つになるのか。自己がばらけてしまう危機からどうしたら救われるのか。神を畏れ、神を礼拝することによってだ、と言うのです。本当にそうです。私たちは神を畏れ、神を崇めるとき、初めて自己が自己になるのです。
主イエス・キリストの御名を私たちは崇め、この方がしてくださった救いの御業をほめたたえるために、今日、神の御前に招かれています。キリストはあなたをご自身の祝福で覆い包んでくださっています。キリストのご慈愛の中で、新しい一週間が始まります。

2024年4月27日土曜日

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35)
イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42)

十字架にかけられた一人の罪人が主イエスに言った言葉が、今日私たちに与えられています。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」この人は主イエスの隣で十字架にかけられていました。そして、自分は罪を犯し、そうされるのが当然の人間だと知っていました。隣の十字架の上にいたイエスの、神の子としての憐れみにすがっていったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」これが、今日の私たちの祈りです。
しかし、このとき反対側の隣りにいて十字架にかけられていた別の罪人は、同じようには祈りませんでした。それどころか自分も十字架にかけられているのに、十字架にかけられている主イエスをなじり、軽んじました。自分の罪深さを認めることのなんと難しいことでしょう。私たちが自分の罪を知り、それを悔い改めるのは!
だからこそ、預言者エレミヤを通して神さまはおっしゃいます。「『私には罪がない』とか、『主の怒りは私から去った』とあなたは言う。『私は罪を犯していない』と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。」神さまは、私たちがどんなに強情で、どんなに頑固に、自分の罪を認めようとしないかをよくご存じです。神さまは私たちのことを私たち以上によく知っておられる。
私たちは、十字架にかけられたキリストを仰ぐときにだけ、自分の罪を知ることができるのです。十字架にかけられたお姿のキリストと出会い、キリストの御前にひれ伏すときにだけ、私たちは自分の罪を知ることができる。私たちはキリストの御許に帰ります。キリストの伸ばしてくださった腕の中に立ち返ります。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」そう祈りつつ、キリストの御前に進み出ていきます。

2024年4月26日金曜日

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13)
(イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」(マルコ12:29~31)

「神を畏れ、その戒めを守れ」と言います。その戒めは、神を愛すること、そして隣人を愛すること。この二つだ、と主イエスがおっしゃいました。愛の戒めこそ人間のすべてです。
唯一の主であるお方への愛。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神さまを愛する。主なる神さまの愛を、キリストに示された神の愛を思い起こすとき、一体私たちにどうやって神への愛を現しうるのだろうか、と思います。どんなに愛しても愛し足りないお方です。しかし、自分の愛のなんと乏しいことでしょう。しかしそれでもなお神は私たちの愛を求めてくださいます。私たちが力の限りに神を愛する愛を、それがどんなにちっぽけで、偽りにまみれていたとしても、私たちの献げる心を喜んでくださる、慈しみに満ちたお方です。
隣人への愛。自分を愛するように隣人を愛しなさい、と主はおっしゃいます。自己愛にも、他者への愛にも病んでいる私たちです。愛することはなんと難しいことでしょう。具体的に考えれば考えるほど悲しくなります。しかし、キリストは私たちに先立って愛の道を拓いてくださいました。キリストが私たちのために愛を示してくださいました。私たちも、どんなに愛に乏しくても愛に生きる道が開かれている。そのことを大胆に信じて良いのです。この私のうちにも始まっている神の御業を。
今日一日の、キリストの祝福を祈っています。

2024年4月25日木曜日

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。
あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9)
イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50)

主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて行かれた、と聖書は伝えています。主イエスは祝福の手を上げたままで天におられるのです。
「救いは主のもの。あなたの民の上に祝福を。」今日も、キリストは私たちのための祝福を告げてくださっています。今日も私たちはキリストの祝福の中を生きています。私たちがどこにいようとも、キリストが祝福してくださっています。私たちが何をしているときにも、キリストの祝福がなくなってしまうことはありません。そうであるからこそ、キリストの祝福を無駄にしない一日でありたいと願います。
聖書は「救いは主のもの」と言います。私たちを救ってくださる主の御業は、主ご自身のものです。だからこそ確かであり、力がある。キリストの救いの御業は、いつも、いつまでもその力を振るいます。私たちが眠っているときにも、起きているときにも。休んでいるときにも、働いているときにも。悲しみのときにも、喜びのときにも。いつもキリストの十字架と復活の福音は私たちを救い続ける。キリストに示された神の祝福は永遠に私たちから離れることがない。どのようなときにもキリストの祝福の声が響いています。イエス・キリストの手の下で、私たちの今日一日の歩みが進められていくのです。

2024年4月24日水曜日

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4)
天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6)

「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝、天使は女たちにそのように告げました。「あの方は、ここにはおられない。」そうです。この世界に、主イエスがおられない場所があるのです。「あの方は、ここにはおられない。」主イエスがおられない場所、それは、十字架にかけられて葬られた墓の中です。キリストはもはや墓の中にはおられない。復活なさったからです。
キリストは復活なさった。もはや、主イエス・キリストは死人の中にはおられない。キリストは今生きておられる。死者の中にキリストを捜しても、そこにはおられません。
しかし、私たちはそれと同時に、キリストはどこにでもいてくださると信じています。十字架の上で、キリストは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。キリストは神に棄てられた。陰府に降って行かれた。この世界にキリストのおられない場所、キリストの手の届かない場所はどこにもない。
しかしそのお方はいつまでも陰府の底に沈んでおられるのではない。今や復活し、生きておられる。陰府に降った方は死者の中から神によって引き上げられて、生きておられる。だから、私たちがやがて陰府の底で死者のひとりとして身を横たえるとき、その陰府は復活の命への通路に他ならない。キリストが通してくださった道です。私たちはもはや死に支配されていない。だから、聖書は「恐れるな」と言います。キリストの命の道が、今日私たちの進む道だからです。

2024年4月23日火曜日

2024年4月23日の聖句

神の道は完全。(詩編18:31)
(イエスの言葉)「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」(マルコ4:26~28)

福音書記者マルコは主イエス・キリストの福音の宣教を、このような言葉で端的に伝えています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」キリストは神の国の到来を宣言なさいました。キリストの告げた福音は、神の国の福音です。
これはキリストが宣言してくださった福音。ですから、私たちからしたら神秘です。私たちには神の国を建国することも、造り出してみせることもできません。神にしかそれを建てることはおできにならないし、キリストにしかその到来は宣言することができない。しかし、キリストが宣言してくださったからには、神の国の到来は確実なことです。
「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」
私たちの知らないうちに、神の国は自ずから実を結ばせ、現実のものとなる。いや、既にそれは芽生えている。キリストが「近づいた」とおっしゃっているから。もうそこまで神の国は来ている。私たちがそれを実感することができず、私たちは相変わらず非力だとしても、キリストのもたらす救いはもう実りの季節を迎えています。
「神の道は完全」です。神が告げてくださる救いですから、何よりも確かで、何よりも素晴らしい、喜びに溢れた神の国が、私たちのところまでもう来ています。

2024年4月22日月曜日

2024年4月22日の聖句

神がほめたたえられますように。神は御使いを遣わし、神に信頼する僕たちを救い出された。(ダニエル3:28)
イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。(マルコ1:13)

神は御使いを、天使を遣わしてくださる。神に信頼する者たちを救いだしてくださる。「天使」という言葉は、もともとの意味は「メッセージを伝える者」だそうです。神さまからのメッセージを携えてきて人々を力づけ、それによって神に信頼する者を救い出す。それが天使です。
おとめマリアに現れた天使は、主イエスが彼女のみに宿ったことを知らせました。クリスマスの夜に羊飼いたちに現れた天使は、今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになったと、救いの到来を告げました。天使は神さまからの救いの知らせ、良い知らせを届ける。ご自分を信頼する者を救う神の恵みの言葉を届けます。
天使にとって大切なことは、羽が生えているかどうかとか、頭の上にわっかがあるかどうかとか、そのようなことではありません。(聖書はそういうふうには描写しません。)そうではなくて、神からのメッセージを告げる者を天使と呼ぶ。神に遣わされて、神からの伝令として仕える者。ですから、神の良い知らせ、神の愛を告げる救いのメッセージを携えるとき、皆さんも天使です。皆さんを天使として神はお用いになります。私たちの隣人を助ける言葉、神の愛を告げる福音の言葉を伝える者として、神が私たち一人ひとりを用いてくださるのです。

2024年4月21日日曜日

2024年4月21日の聖句

今週の聖句:
私は良い羊飼いです。羊は私の声を聞き分け、従う。^私は永遠の命を与える。(ヨハネ10:11a,27~28a)

今日の聖句:
神は、私に力を帯びさせる方。(詩編18:33)
神の弱さは人の弱さよりは強い。(1コリント1:25)

神が私たちに力を帯びさせてくださいます。神がご自身の力を私たちに注いでくださっている。「主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」と私たちが賛美するとおりに。神はご自分の力によって私たちを支えてくださいます。
神はご自分の強さではなく、弱さによって私たちを救ってくださいました。主の愛は、キリストが十字架にかかることによって示されました。人間の愚かな口を通して宣べ伝えることによって、キリストの愛は伝えられていきます。神がご自分の弱さによって私たちを救ってくださったのは、私たちが決して傲慢にならず、神の御前にへりくだるためです。
今日も、キリストの恵みがありますように。今日もあなたに神の祝福がありますように。神の御前に祈り、賛美を献げましょう。福音に耳を傾けましょう。共にいてくださる神の守りを、支えを、心から祈っています。

2024年4月20日土曜日

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18)
イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43)

主イエスが十字架の上で語りかけた犯罪人は、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と願いました。主イエスを信頼して、自分自身を主イエスにお委ねしました。自分は十字架にかけられて当然の犯罪人。自分のしたことの報いを受けている。そんな私を、あなたが御国で思い起こしてください。そう願ったのです。
主イエスは答えてくださいます。「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。今日、キリストが思い出してくださる今日、救いが実現します。この言葉が宣言されたとき、私たちが耳にしたとき、すなわち今日、キリストの救いが現実のものとなったのです。
「私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。」
主なる神さまはご自分を信頼する者を必ず助け出すと言ってくださいます。必ずという力強い宣言の中に私たちは招かれています。必ず、神が私たちを助けてくださる。私たちの命を戦利品としてくださる。命を与え、私たちを生かしてくださる。主の約束の中で私たちは命を与えられている。この大いなる平安、この確かな救いの宣言が、今日、私たちの間に響いているのです。

2024年4月19日金曜日

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22)
(イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24)

風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の上に自分の家を建てた賢い人」。岩の上に家を建てるのは大変です。柱をどうやって固定するのでしょうか。岩をうがって基礎を固めるのは大変な苦労がある。しかし岩の上に家を建てれば頑丈です。風でも雨でもびくともしない。これだけは絶対に大丈夫だと無意識に信じ込んでいるようなすべての基(大地のような基)がどんなに揺れても、岩の上に立っていれば大丈夫です。基礎工事の大切さを私たちもよく知っている。主イエスはおっしゃいます。「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」
しかし分かってはいても、岩の上に家を建てるのが大変なのと同じように、主イエスの言葉を聞いてこれを行うことは簡単なことではありません。私たちの生き方や価値観を変更しなければならないから。私たちが自分が帰られることを受け入れないとならないから。岩の上に家を建てるように。それは大変なことです。
ノアは、神がお命じになったとおりに果たしました。箱舟を造った。神の言葉を聞いてそれに従う。それが私たちにとっていちばん大切なことです。私たちにとって最も肝心なことです。御言葉に従う。必ず御言葉に従う者は堅い基礎工事をしたのと同じように揺るぎないとキリストが約束してくださっている。これに応え、私たちはキリストの御前に大胆に御言葉に信頼して、生きていきたい。そう願います。

2024年4月18日木曜日

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6)
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14)

「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちのただ中に聖なる方、神がいてくださる。どこか遠い山の中とか、人界とは異なる隔絶した場所ではない。聖なるお方は私たちの間にいてくださいます。
私たちはその事実をよく知っています。経験的に知っています。それは、私たちが神を礼拝する度に経験している事実です。神は、まことにもったいないことに、私たちが神を礼拝するとき、ご自身を私たちにお示しくださいます。主イエス・キリストの父なる神として。私たちの祈りを聞き、私たちが賛美することを許してくださり、私たちに福音の言葉を与えてくださいます。神は私たちのただ中にいてくださる。
「言は肉となって、私たちの間に宿った」と、今日の新約では言っています。言、神の知恵でいらっしゃる方は、私たちの間に宿るために肉となってくださいました。マリアの胎から産まれ、ヨセフの子と呼ばれる方になってくださいました。私たちの間におられる方は、私たちと同じ肉体をもってくださった方です。私たちと同じ者になってくださった。私たちを誰よりも知っていてくださるお方です。
今日、私たちの間にいてくださるキリストを見つめましょう。私たちと同じ者になって私たちのところに来てくださった方を覚えて、賛美を献げつつ、今日の日の歩みを進めていきましょう。

2024年4月17日水曜日

2024年4月17日の聖句

私の魂よ、主をたたえよ。
私の内なるすべてのものよ、その聖なる名をたたえよ。(詩編103:1)
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

死者の中からのイエス・キリストの復活。これこそ、私たちの希望の源です。キリストは十字架にかけられて葬られました。キリストは死なれた。しかし、神がイエス・キリストを死者の中から引き上げてくださった。キリストが復活したことを通して、私たちをも新たに生まれさせてくださったのです。
これは、神秘的な事実です。キリストが復活した。それは、証明してみせることができない出来事です。私たちの人間としての営みとは異なる、神さまの出来事だからです。誰にでも納得できるように、客観的に、証拠があると言ってみせることはできない。信じることによってでしか分からないことも、この世界にはあるのではないでしょうか。
さらに神秘としか言いようがないのは、このキリストの復活を通して私たちも新たに生まれたという知らせです。キリストが神の子でいらっしゃるなら、死者の中から復活するということもあるかもしれない。しかしそのキリストの復活という出来事はキリストご自身だけで完結するのではなくて、この私にも及ぶ出来事になった。聖書はそのように言います。驚くべき言葉です。キリストの復活のいのちが溢れ出てきて私のところにも及んでいる!これもまた、信じることによってでしか分からない事実です。
キリストの復活のいのちにこの私も生かされている。どうか、その事実を信じてください。ここに希望があります。この生ける希望を抱いて、私たちは今日一日の歩みを進めます。主イエス・キリストの恵みが、今日もあなたにありますように。

2024年4月16日火曜日

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29)
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79)

主なる神さまの憐れみの心によって。これが私たちのすべてです。すべては神の憐れみから始まりました。私たちが暗闇と死の陰に座し、あるいは私が闇そのものであっても、神の憐れみによって私たちには光が射しています。今や光です。
しかもこの光を「曙の光」と言っているところが本当にすてきです。夜の闇が明け初めて、暗闇に包まれていたところに曙光が射してくる。朝の光、闇に包まれた大地を明るく、あたたかく照らす曙の光。主イエス・キリストは私たちを照らす曙の光、朝の訪れ、あるいは輝く明けの明星として来てくださいました。
古来、キリスト教会が礼拝堂を建築するようになってから、礼拝堂は東向きに建てる習慣があったそうです。日本の土地事情ではなかなか難しいですが、すてきな習慣です。なぜ東向きなのか。朝日が昇るようにキリストが復活した。その事実を祝い、死者の中から復活したキリストを崇めて、東を向いて礼拝を献げたのです。私たちのために昇る曙の光、それは死者の中から復活させられたイエス・キリストです。
この光によって私たちの歩みは平和の道へと導かれる。かつては平和とは関わりがない私たちでした。しかし今や光の中で平和の道を歩み始めている。この福音の宣言の中、今日も私たちは一日の歩みへと送り出されているのです。祝福がありますように。

2024年4月15日月曜日

2024年4月15日の聖句

(アモスの言葉)「主なる神よ、どうぞお赦しください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼はとても小さいのです。」主はこれを思い直され、「このことは起こらない」と言われた。(アモス7:2~3)
イエスは言われた。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」(ルカ22:31~32)

今日の旧約聖書は、読むとずいぶん唐突な感じを受けます。何を言っているのか。この直前にはこのように書かれています。「主なる神はこのように私に示された。見よ、二番草の生え始める頃、主はばったの群れを造られた。それは、王が刈り取った後に生える二番草であった。ばったが大地の仰ぐ差を食べ尽くそうとしたとき、私は言った。」そして、今日の箇所に続きます。
つまり、ばったの大量発生という出来事が主の裁きとして起こる。それをどうぞお赦しください、とアモスは祈り願っている。そういう箇所です。
裁きを前にしたとき、私たちにはただただ赦しを請うことしかできない。その祈りを神は憐れみをもって耳を傾けて聞いてくださる。それがアモスの経験したことでした。「主はこれを思い直され、『このことは起こらない』と言われた。」
主イエス・キリストは、ペトロがこれから十字架にかけられようとするご自分を「知らない」と言ってしまうことをよく知り、そのことを予告しながら、同時に私はお前のために祈ると言ってくださいます。私たちは神の憐れみやキリストの祈りによらなければ生きられないのです。私たちの信仰がなくならないように、神が私たちを憐れみ、赦し、助けてくださる。その事実の中でしか、私たちは生きられないのです。

2024年4月14日日曜日

2024年4月14日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者。古きは過ぎ去り、新しきものが生じた。(2コリント5:17)

今日の聖句:
中傷して歩く者は秘密を漏らす。真実な思いを持つ人は事を覆い隠す。(箴言11:13)
私たちは愛にあって誠実であり続けよう。そしてあらゆる点において、頭であるキリストに向かい成長していこう。(エフェソ4:15)

「私たちは愛にあって誠実であり続けよう。」聖書はそのように言います。愛ある人として生きていきたい。本当にそう願います。誠実に生きていきたいです。特に今日の旧約の御言葉は、言葉に関わることについて触れています。中傷する言葉と秘密を漏らすことは一つのことだと言います。真実な思いは、むしろ人の秘密を大切にし、やたらにそれを暴いたり漏らしたりしない。愛や誠実が、言葉を巡るとても具体的な局面で問われているのだと思います。
そのような具体的な言葉の場面での自分の口から出てくるものを考えると、とても厳しい思いになります。自分の言葉のために傷つけてしまったことや、意図せずして、或いは分かっていて秘密を暴露してしまったりしたことをも考えないわけにはいかないからです。
だからこそ、この手紙は言います。「頭であるキリストに向かい成長していこう」と。主イエス・キリスト。このお方とその憐れみだけが私たちを救ってくださいます。私の口から出てくるもの、この心から溢れてしまうものをきよめてくださるのは、ただキリストの憐れみだけです。私のことばを清める神の奇跡を、主にあって願い求めます。神が、キリストにあって、私たちを新しくしてくださる恵みの奇蹟を待ち望みます。

2024年4月13日土曜日

2024年4月13日の聖句

生ける神が救い主、困難よりの助け主。(ダニエル6:28)
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ2:20)

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」何度でも繰り返し読み、深く味わいたい御言葉です。キリストがこの私のうちに生きていてくださる。その事実が私を生かしている。私が生きているということよりももっと確かで、もっと深く私を助ける事実。それは、キリストがこの私のうちに生きていてくださっているという事実です。
「生ける神が救い主、困難よりの助け主。」困難な目に遭うとき、生きる指針を見失ってしまうとき、それでもなおキリストがこの私のうちに生きていてくださいます。私を信仰によって生かしてくださっている。キリストにある慰め、キリストを信じる喜びをもって、どんなときにも私たちを助けてくださる。私たちは行き詰まっても途方に暮れません。困難なときにも絶望しません。キリストが私たちと共にいてくださって、私たちを生かしてくださっているからです。
「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」私たちの今日一日の営みは、主イエス・キリスト、神の子でいらっしゃる方への信仰によります。キリストが私にしてくださったように、キリストが私を愛してくださったように、私も隣人と共に生きる者となることを、祈り願います。キリストの祝福が今日もあなたにありますように。

2024年4月12日金曜日

2024年4月12日の聖句

私はあなたと契約を立てる。その時、あなたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル16:62)
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。(ローマ9:16)

「私はあなたと契約を立てる」と神さまはおっしゃいます。原文を見てみると、「私」という言葉を非常に強く押し出すような表現が使われています。私が、他でもないこの私が、あなたと契約を立てると神さまはおっしゃるのです。あなたではなくこの私が、ということでしょう。
更に、この「契約」という言葉も、文字通りにキチンと訳すと「私の契約」という字が使われています。私たちではなく神が、しかも私たちの契約ではなく神ご自身の契約をお立てになる。神御自らが神ご自身の契約を立ててくださる。一から十まで、全部神さまがしてくださることです。
そうやって神がご自身の契約を立ててくださるとき、私たちはこの方こそ主でいらっしゃることを知るのです。この「主」というのは、神ご自身のお名前を表す言葉です。ほかの誰でもなく主でいらっしゃること、私たちと契約を結び、私たちをご自分の民と呼び、私たちを救ってくださった神、主。他の誰を神とするのでもなく、私たちはただただこのお方を崇め、このお方を賛美し、このお方を崇めます。
神の憐れみによって、私たちはキリストと出会いました。私たちは、私たちと出会うことを望んでくださる神の憐れみの中で、今日も祈りを捧げています。

2024年4月11日木曜日

2024年4月11日の聖句

私、この私が、あなたがたを慰める者。あなたは何者か。死ぬべき人を恐れるとは。(イザヤ51:12)
あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(1ペトロ3:15)

「私、この私が」と主なる神さまはおっしゃいます。人間は死ぬべき者に過ぎない。すべての人間は、「私」とおっしゃる神さまがお造りになったもの。この私があなたがたを慰める者なのだ、と神さまは言ってくださいます。力強い言葉です。
福音は、それを語る人を必要としています。神さまが宣教という愚かな手段によって人々を救おうとなさるからです。私は言葉に乏しいし、勇気がないし、自分という人間を考えると恥ずかしくなってしまいます。しかし、誰のことをも恐れるな、と神さまはおっしゃいます。造り主、神が共にいてくださるから。
「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」正直に言って、私はこの言葉を読むとちょっと怯んでしまいます。いつでも弁明できるどころかすぐにたじろいでしまうし、そういう準備をいつでもできているとは思えない。しかしここには「あなたがたの抱いている希望について」と書いてあります。希望です。私たちが信じている福音は、希望を与える知らせです。私たちはキリストにあって望みを抱いている。そのことを証言します。
私が自分のことを見ているとどこまでもウジウジとはまり込んでしまいます。しかし、御言葉は希望の御言葉で、キリストの福音は救いの知らせです。御言葉に心を向けるとき、自分の勇気や大胆さ以上の、御言葉のもつ力が私をも生かしてくださるという恵みの事実に気付かせて頂くのです。

2024年4月10日水曜日

2024年4月10日の聖句

私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主。(イザヤ43:3)
すると、雲の中から、「これは私の子、私が選んだ者。これに聞け」と言う声がした。この声がしたとき、イエスだけがそこにおられた。(ルカ9:35~36)

神さまがご自分を啓き示してくださることを、神学の言葉では「啓示」と言います。神さまの自己紹介です。「私は主、あなたの神」と神さまはご自分を示してくださいました。更におっしゃいます。「イスラエルの聖なる者、あなたの救い主。」神さまは私たちの救い主でいてくださるお方。私たちは、ご自分のお名前を名乗り、私がお前たちの救い主だと自己紹介してくださるお方を神と崇め、信じているのです。
それは、本当にありがたいことです。私たちは一体何者なのかも分からない、恐ろしい力を神とするのではなく、あるいは世間の目やパワーバランスのような実態のない不気味な力に支配されているのでもありません。私たちの神は、私たちの救いでいてくださる方です。
このお方は、主イエス・キリストというかたちで、究極的にご自分を示してくださいました。キリストこそ、神さまの最高の自己紹介です。私たちはキリストを仰ぐとき、神さまについて知るべき事を全部知ることができます。「これは私の子、私が選んだ者。これに聞け。」この方、主イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかり、私たちのために復活し、私たちと共にいてくださるお方です。このお方に示された神の愛から私たちを引き離す者は存在しない。そういう愛の神を私たちは信じ、この方を仰いで、今日も生きているのです。

2024年4月9日火曜日

2024年4月9日の聖句

私は悪しき者の死を喜ぶだろうかーー主なる神の仰せ。
私は、彼がその道から立ち帰り、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。(ローマ6:23)

主なる神様。私たちにキリストをお与えくださった神様は、悪人の死をお喜びにならないお方です。悪人が悪の中で死んでいくことをお喜びになるのではなく、悪人がその悪の道から立ち返って生きる者となることを喜んでくださるお方。なんと憐れみに満ち、なんと慈愛に満ちたお方でしょう!そういうお方であるからこそ、私たちのためにご自分の独り子をも与えてくださったのです。私たちが生きる者となるために。
「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」
罪というのは、神様から離れることです。私たちの命の造り主、源でいらっしゃる神様から離れてしまうこと。水源を失った植物のように、私たちはそれでは枯れてしまう。罪の支払う報酬は死です。私たちは神を離れては生きられない。主イエス・キリストに示された神の愛を離れて、どうして生きられるでしょう?悪人である私の死を喜ばず、神のもとに帰ることを待ち望んでくださるお方の憐れみを離れて、どうして生きることができるでしょうか。
「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」神の賜物。それは、神が無償で下さるプレゼントです。神がキリストにあって永遠の命をプレゼントしてくださった。神の御許にとこしえに生きることを神が望んでいてくださる。大いなる命の祝福の中に、今日も私たちは生きていきます。

2024年4月8日月曜日

2024年4月8日の聖句

幸いな者、主を畏れ、その戒めを大いに喜ぶ人。(詩編112:1)
キリストも、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。(1ペトロ2:21)

私たちは今、どこに向かって歩いているのだろう。このまま先に進んでも大丈夫なのだろうか。そうやって不安になること、恐ろしくなること、恐れること、私たちにはあります。今まさにそういう気持ちでいるかもしれません。しかし、大丈夫です。私たちにとって大切なことはただ一つだけです。キリストの足跡に続く。私たちには、それだけです。どこに行くのか、どこへ向かっているのかは大きな問題ではない。キリストに付いていけば、必ず道はつながっています。
私たちには先を見通すことはできません。これから何があるのか、この道が行き止まりではないのか、進むことができるのか、何一つ私たちには分からない。しかしキリストがこの道を進んでおられるなら、その道は必ず永遠の祝福に至ります。
「幸いな者、主を畏れ、その戒めを大いに喜ぶ人。」この道の先に待ち受けているのは、もしかしたら人並みの幸せとは違うかたちの何かかもしれません。未来から私たちに襲いかかってくるものは、人間としてどう受け止めたらよいのか分からなくなってしまうような出来事かもしれない。しかし、聖書の信仰者たちは、人並みの幸せを「幸い」というのではなく、主を畏れ、主の戒めを喜び、キリストの後に従うことを「幸い」と呼びます。キリストは、ご自分に従う者と必ず共にいてくださいます。

2024年4月7日日曜日

2024年4月7日の聖句

今週の聖句:
神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

今日の聖句:
イスラエルの人々は主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたの目に適う良いことを、すべて私たちに行ってください。今日、どうか私たちを救いだしてください。」(士師記10:15)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)

今日の旧約に出ている言葉は、何ともいじらしい言葉だと思います。「私たちは罪を犯しました。あなたの目に適う良いことを、すべて私たちに行ってください。今日、どうか私たちを救いだしてください。」罪を犯し、神様に本当に申し訳ない思いを持って祈る。「あなたの目に適う良いことを、すべて私たちに行ってください。」図々しい祈りをすることなどもはやできない。神様が良しとなさることをしてください。そう祈るしかない。しかし、同時に祈るのです。「今日、どうか私たちを救いだしてください。」そう祈らないでいられるでしょうか。神様、私たちをどうか救ってください!そう祈ること以外のどこに私たちの慰めがあるでしょう!
新約に登場する徴税人も同じです。「神様、罪人の私を憐れんでください。」私たちも、ただただひたすらに、同じように祈ります。神様、罪人の私を憐れんでください。神の救いを求め、今日も私たちは祈りに打ち込みます。

2024年4月6日土曜日

2024年4月6日の聖句

私の舌はあなたの義を、あなたへの賛美を日夜、唱えます。(詩編35:28)
キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。(コロサイ3:16)

私たちの舌に上る言葉は、どのようなものでしょうか。神の義を、神への賛美をこの唇に上らせたい、と心から願います。神さまは、慈しみに満ちたお方です。主イエス・キリストへのこよなき愛を抱いて日々生きていきたいです。キリストを愛することこそ、神を信じるということに他ならないのです。
「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」私たちの教会がこのような群れでありたいと心から願います。主イエス・キリストの御言葉を互いに語り合い、豊かにそれが私たちの内に宿りますように。神を恐れる知恵を持って互いに教え合い、諭し合う私たちでありますように。詩と賛歌と霊的な歌をもって、神への感謝を表す礼拝を献げられますように。これらはどれも、私たちの心がけや努力によって達成されるものではなくて、聖霊なる神様が私たちの間で働いてくださっているからこそ起こる、神の奇跡、キリストの出来事です。神の愛が私たちの唇を覆い尽くしてくださっているから、私たちはキリストの愛の中で憩います。
私たちは、主イエス・キリストの御名を崇め、キリストを礼拝します。私たちの歩みはそこに集中する。神を礼拝する喜びが私たちを一つにするのです。

2024年4月5日の聖句

私は、あなたの若い日にあなたと結んだ契約を思い起こし、あなたと永遠の契約を立てる。(エゼキエル16:60)
神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。(2コリント3:6)

「永遠の契約」という言葉があります。よく考えると、矛盾した言葉です。契約というのは、ある一定の期間、双方が約束を守ることによって成り立ちます。雇用契約であれば就業している間だけですし、賃貸契約であれば借りている間だけのことです。あるいは、契約期間中であっても、どちらかの当事者がその約束事を守らなければ、契約を破棄されてしまいます。あるいは生涯それを守り通したとしても、契約の当事者の甲か乙かいずれかが死ねば契約は終わります。
ところが、神さまが私たちと結んだ契約は「永遠の契約」だと言うのです。考えてみると、常識外れの契約です。契約期間の終わりがないばかりか、契約の片方の当事者である私たちがどんなに不誠実で、契約不履行で、裏切り続けても破棄されてこなかった契約なのです。
「私は、あなたの若い日にあなたと結んだ契約を思い起こし、あなたと永遠の契約を立てる。」この契約は、すべて神さまに負っています。神がかつての契約を思い起こしてくださる。神がこれを永遠のものとしてくださる。私たちがどんなに不誠実で、神を裏切り、契約を忘れたとしても、神がこれを覚え、守り、その約束に誠実でいてくださいます。その契約は、私たちをご自分の民としてくださるという契約です。私たちを神の民とし、神が私たちの神になってくださるという契約です。私たちを神の国の市民にしてくださる。
「神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。」神ご自身が、私たちをこの契約に仕える者にしてくださいました。私たちが契約に忠実だからとか、永遠の信仰を得たからとか、そのようなことは一切ありません。神ご自身が私たちをご自分の永遠の契約によって、神の民としてくださったからです。

2024年4月4日木曜日

2024年4月4日の聖句

私は主、ほかにはいない。
光を造り、闇を創造し、
平和を造り、災いを創造する者。
私は主、これらすべてを造る者である。(イザヤ45:6~7)
(キリストの言葉)「わたしは死だが、見よ、世々限りなく生きている。また、死と甦りの鍵を持っている。」(黙示録1:18)

私は主。神はそう宣言なさいます。この「主」というのは、神さまのお名前を現す言葉が使われています。神さまはご自身のお名前をここで現してくださっている。主と名乗られるこのお方は、光を造り、闇を創造し、平和を造り、災いを創造するお方。この世界の支配者でいらっしゃるお方です。
光だけではなく闇も。平和だけではなく災いも。神さまの御業は私たちが思っているよりもずっと広くて力強い。キリストご自身、生も死も支配し、その鍵を持っておられると明言しておられる。
もしも、神さまが光だけをお造りになり、平和にだけ関わり、生にだけ関心をお持ちだとしたら、私たちにとっては救いがありません。闇や災いや死は神ではない何者かの領域ということになってしまいます。しかし、事実はそうではない。主なる神さまは光も闇も、平和も災いも、生も死も造り、支配しておられる。神の手が伸びない場所はないのです。どこにもないのです。
このお方を信じましょう。このお方の御手の力強さを信頼しましょう。主イエス・キリストの恵みの深さを、闇の中にも届くキリストの救いを、どのようなときにも信じていきましょう。

2024年4月3日水曜日

2024年4月3日の聖句

私が軛の横木を折り、救いだすとき、彼らは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル34:27)
神は目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)

軛。家畜を労役に就かせるときに取り付ける横木、車や農耕具をつけて曳かせるためのものです。軛、それは奴隷としての労役の象徴的な言葉です。神が私たちの軛の横木を折ってくださる。そう宣言してくださっています。奴隷である私たちを神が自由にしてくださる。
一体何の奴隷なのか。今日の新約の御言葉と併せて読むと、それがよく分かります。「神は目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」私たちは死の奴隷です。悲しみや嘆きや痛みによって私たちを虐げる死の奴隷として、死の労役に私たちはつながれている。ところがその軛をキリストが折ってくださいました。
十字架にかけられたキリストが復活させられたというのは、そういうことです。私たちをつなぐ死の軛から私たちを自由にしてくださった。私たちを死につなぐ横木を折ってくださった。キリストの死への勝利によって、私たちはもはや自由になっている。
私たちには、しかしなお悲しみがあり、嘆きがあり、痛みがあります。死の悲しみが襲いかかってきます。キリストは、なおそのどん底でも共にいてくださいます。他人には理解できない悲しみも、キリストは分かってくださいます。主イエス・キリストの下さる慰めが私たちを生かしてくださるのです。

2024年4月2日火曜日

2024年4月2日の聖句

わたしは、高く聖なる所に住み、
砕かれた人、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人たちの霊を生かし、
砕かれた人たちの心を生かすためである。(イザヤ57:15)
弟子たちがイエスに、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。(ルカ24:29)

2000年前の最初のイースターの昼過ぎのこと。エマオ村にある自分たちの家まで歩いていた二人の弟子たち。二人は主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を受け止めることができず、いやそもそも理解することもできず、暗い顔をして歩いていました。しかし主ご自身が二人と共に歩んでくださり、聖書の御言葉を説き明かしてくださった。もはや、彼らは自分でも気付かぬうちに心が燃やされ、新しい歩みを始めたのです。
「一緒にお泊まりください。」二人は、共に歩んでくださったのが主イエスだと知らずに、ここまで共に歩んできた同伴者に願いました。「一緒にお泊まりください。」私たちも、そう願う。御言葉を自分に説き明かしてくれる人、福音の言葉を自分に告げてくれる人を私たちも求めています。
「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。」神は、私たちと共にいてくださいます。主イエス・キリストは、今ここで起こっている出来事を理解することができず、戸惑い、暗い顔になるばかりの私たちと共に住んでくださって、私たちが福音に生きることができるように、いつも親しく語りかけてくださっています。実は、私たちの周りにはキリストの福音を証しするさまざまな人や出来事があるのです。この恵みの事実に私たちの心は燃やされている。主イエスさまは私たちを生かすために、私たちと共に歩んでくださいます。

2024年4月1日月曜日

2024年4月1日の聖句

4月の聖句:
あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい。(1ペトロ3:15)

今日の聖句:
善を行うことを学べ。公正を追い求め、虐げられた者を救え。(イザヤ1:17)
(アカボは)「全地に大飢饉が起こる」(と言った。)果たしてクラウディウス帝の治世にそれは現実となった。そこでアンティオキアにいた弟子たちは、ユダヤ地方に住む兄弟姉妹たちを支援することに決めた。(使徒11:28~29)

クラウディウス帝の治世に起こった大飢饉というのは、かなり大規模なものだったようです。聖書ではない文献にも記録が残っているほどのものだったと聞きます。このためにたくさんの人が食べるにも困るようになってしまった。特にエルサレム教会は貧しく、その影響が大きかったようです。それで、アンティオキア教会の弟子たちがエルサレムの仲間たちを支えるための援助の品を贈ることを決めたのです。
「善を行うことを学べ。公正を追い求め、虐げられた者を救え。」善や公正といった時、それは虐げられている人を救い、弱っている人を顧みること、困っている人に手を伸ばすことです。そういう手の業が、同時に「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい」という弁明としてもまた用いられる。即ち、私たちの信仰の告白になるのです。
復活の主日から始まる一週間がスタートしています。キリストにある福音の喜びを証しし、主と共に歩む一週間を過ごしていきましょう。善を行い、公正に、新しい日々をキリストにあって歩みたいと願います。

2024年4月29日の聖句

主は正しい。私は主の口に逆らった。(哀歌1:18) ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。(マタイ21:28~29) 今日の新約の御言葉は、主イエスの譬え話です。二人...