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2018年12月23日日曜日

詩編第113編「クリスマスの歌が、あなたの口にも」

 今日の説教後の讃美歌は262番「聞け、天使の歌」というものです。「聞け、天使の歌『御子には栄光、地には平和あれ、世の人々に。』」最初のクリスマスに羊飼いらが聞いた天使の歌です。私たちは、ただ聞くだけではありません。天使の歌を聴いて、一緒に歌います。あの夜、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を見つけに行った羊飼いたちも、やはり天使の歌をうたいながらベツレヘムに向かったのでしょうか。神学生の時、合唱部でクリスマスにメサイアを歌いました。救い主の預言から始まり、主イエスの誕生、生涯、十字架、そして復活を歌い上げます。メサイアのクライマックスは、やはりハレルヤ・コーラス。「ハレルヤ」とはヘブライ語で「主を賛美せよ」という意味です。今朝の詩編第113篇の冒頭にも登場しています。「ハレルヤ、主の僕らよ、主を賛美せよ、主の御名を賛美せよ。」ハレル(賛美せよ)が三度も繰り返されています。これは、私たちを賛美に巻き込む詩編です。「今よりとこしえに、主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されるように。」賛美は、時間も、場所も乗り越えます。私たちが信じ、賛美している神さまは、マリアが賛美し、ダビデが賛美した神さまと同じ方です。日の昇るところから、日の沈むところまで、世界中のあらゆるところで神を賛美しています。アメリカのルイビルでも、ブラジルのジョタカ村でも。それだけではない。私たちの目の前にいて礼拝をしている子どもたちも、その孫だって、同じ神を賛美し、「ハレルヤ」と天使と一緒に歌うのです。
 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」しかし、いと高きところにおられるはずの神の子イエスは、もう、高い所におられません。「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く起き、なお、低く下って天と地を御覧になる。」天よりも高い神の子イエスは、しかし、低く下ってこられました。この「下る」という字は、詩編147:6でも遣われています。そこでは「逆らう者を地に倒される」の「打ち倒す」と翻訳されています。投げ捨てると言っても良い言葉です。神さまは、ご自身を投げ捨てて、引く地に下ってこられた。その低く投げ捨てられたお姿が神の栄光だ、と言います。
 私たちの社会は、高く上に登ることにばかり価値を置いているように感じます。今年は自然の脅威にさらされた年でした。夏のすさまじい暑さ。西日本豪雨。北海道の地震。しかし、私たちの社会はどうだったのでしょう。災害と呼べる暑さの中で社会的関心が集まっていたのは、その時期に開催されるオリンピックへの心配でした。サマータイムを導入しなければマラソンができないと真剣に議論していました。西日本豪雨の後、今も屋根にブルーシートをかける家があるといいます。それをよそに万博開催に浮かれています。私たちの社会は、あまりにも上を見ることだけを大切にしてしまい、神さまを忘れてしまったようです。神は、御自分を投げ捨てて、私たちのところへ低く下ってきてくださいました。この世の弱い人、乏しい人、生産性がないと切り捨てられる人のところへ来て、共に苦しみながら肩を抱き上げてくださいます。それが、キリストが飼い葉桶に生まれたということです。だから「地には平和」と歌える。ここに神の栄光が現れているのです。

2017年12月24日日曜日

ルカによる福音書2:1〜7「冒険する神さま」

女性会のクリスマス会のときに、出席者からアドベントというのはどういう意味なのかという質問がありました。主イエス様をお迎えする教会の時期という趣旨の説明をしましたが、他の出席者が、アドベントは英語のアドベンチャーの語源で、クリスマスというのは神さまの冒険だと聞いたことがあるという話をしてくださいました。確かにその通りです。一人の女性の胎に宿ったことも、その人が妊娠中に人口調査のための旅を余儀なくされたことも、彼らのための宿屋の場所がなかったことも、生まれてすぐに寝かされたのが飼い葉桶であったことも、どれも危険なこと。まさに冒険、アドベンチャーです。ヨッヘン・クレッパーがクリスマスの素晴らしい詩を残しています。(こちらに全文を掲載しています)。詩の紹介にはふさわしくありませんが、要約するとこのようなことになります。「この夜に先だって、あなたは神の子であられた。この夜に先だって、わたしは闇であり、死であり、夜であった。この夜、あなたはわが夜をともに歩む方となられた。この夜、御子によってわたしは神の子とされた。」神の子でいらした方が私たちの夜の闇の中に来てくださった。これこそ神が冒した危険です。クリスマスの夜は飼い葉桶が舞台になっています。宿屋の家畜小屋の飼い葉桶だと言われます。彼らを迎えた主人は、この日、どういう一日を送っていたのでしょうか。人口調査で旅人が多く、ごった返していたことでしょう。主人からしたら、身重の若い夫婦のことなど大して関心がなく、記憶にも残っていなかったかも知れません。何しろ、忙しい一日です。夜半に子どもを産んだ彼らは、主人の目には厄介者に映ったかも知れません。何しろ、忙しい一日でしたから。「忙しい」。私たちの言い訳の常套句です。忙しいというのは、目の前のことで精一杯ということです。生きていくだけ、責任を果たすだけで精一杯。もしかしたら、忙しくしている内に、目の前の雑事をこなすよりも大切なことを見失っているかも知れません。でも、しかたがないのです。もしかしたら、そんな私たちの目の前にも、今日マリアとヨセフが戸を叩きに来ているかも知れません。助けを求めて、場所を必要としているかも知れません。でも、私たちには関心がなくて、そのことに気づいていないのかも知れない。それも仕方ありません。忙しいのですから。例えば、そういうところにも既に私たちの闇が見えてきています。そして、反対に、相手に関心を持つというのはとても危険なことです。余計なお世話かも知れませんし、自分の心は通じないかも知れません。場合によっては逆恨みされるかも知れない。信じた相手に裏切られるかも知れないですし、自分とは関係なかったトラブルに巻き込まれるかも知れません。・・・そう、主イエスはもうそういう危険を全部冒して私たちのところへ来てくださったのです。クレッパーは言っていました。「あの夜、あなたはわが夜を共に歩む者になってくださった」と。わたしがいる暗闇の中、いやむしろわたしが生み出す暗闇の中にキリストが来てくださったのです。今日は洗礼式です。一年間、ご一緒に聖書の学びをしてきました。熱心に、神さまの愛を求めてこられました。Mさんが神さまを求めるに増して、神さまがMさんを求めていてくださいます。クリスマスにキリストにあってMさんを神の子と呼ぶために。飼い葉桶に灯るほのかなあかりに、私たちは照らされています。

ヨッヘン・クレッパー「クリスマスの歌」

この夜の到来に先だって、主よ、あなたはいかなるお方でおられたのですか。
天使たちの賛美があなたの前に捧げられた。
時の始まりに先だってあなたは神のもとにおられた。
あなたは栄光の輝きであられた。
生けるものはすべて、あなたのうちにあった。
蠢くものはあなたによって造られた。
天地はあなたによって創造された。
この夜の到来に先だって、あなたは神であられた。

この夜の到来に先だって、主よ、わたしは誰だったのですか。
恥と痛みを覚えつつ思い出しましょう。
わたしは肉にして、堕落のきわみにいた、
破滅に陥り、救いを継げない者であった。
わたしは光をすべて見失い、
裁く神の手に落ちていた。
神に救いと恵みを約束されていたわたしは
闇であり、死であり、夜であった。

この夜、主よ、あなたはいかなる方になられたのですか。
天使たちが笑って語りかけた方、
誉れと賛美に浴しておられた方が、
わたしの受けるべき刑を選ばれた。
あなたは貧しい馬屋で生まれ、
罪に落ちた人類のために償われた。
壮麗な天に住まう方、主よ、あなたは
わが夜をともに歩む方となられた。

この夜、主よ、わたしはいかなる者となったのですか。
わが心よ、静かにそっと脈を刻むがよい。
御子によってわたしは神の子とされた。
御子は父の御心をもってわたしに臨まれた。
わたしはまだ知らない、わたしは何者となるのか。
ただ明るい輝きを感じる。
主よ、この聖なる夜にあなたが
飼い葉桶のもとで灯された光の輝きを。

ヨッヘン・クレッパー『キリエ 宗教詩集』富田恵美子・ドロテア、富田裕訳、教文館、2011年、原著第4版1941年

2017年12月17日日曜日

ルカによる福音書1:46~56「歌いつつ迎えよう、クリスマスを」

クリスマスには讃美歌が溢れています。キリスト教会の礼拝には歌が欠かせません。特にルカは賛美を愛した人です。ルカによる福音書にはたくさんの賛美が残されています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、主イエスがお生まれになった夜の天使の歌、シメオンの賛歌。思えば、どれもクリスマスの讃美歌です。歌いつつクリスマスを迎えるのは、事柄にふさわしいのではないでしょうか。讃美歌259番に「いそぎ来たれ、主にある民」という歌があります。以前の讃美歌では「神の御子は今宵しも」という歌い出しでした。第2節は「賤の女をば母として、生まれまししみどりごは、まことの神、君の君、いそぎゆきて拝まずや」という歌詞でした。あるとき、この「賤の女」という歌詞が不快語にあたるということで「おとめマリアを母として」と歌詞が変わったことがあります。確かに、誰かを「賤しい」と言ったら差別になるでしょうし、使うべきではない言葉かも知れません。しかし、私は少し残念な気がしています。神からご覧になったら人間は賤しい存在です。賤しい一人の人間を母に選び、神の子キリストは私たちと同じ人間として生まれてきました。それこそが福音です。賤しい私たちが献げる賛美を、神は喜んでくださいます。それが神の憐れみです。憐れみ深い神は、今、この世界をどのようにご覧になっているのでしょうか。マタイ18:21-35に、王様から1万タラントンという途方もない借金を赦していただいた男の話が出てきます。大体16万年間、休みなく働いたときの賃金に相当します。文字通りに途方もない。しかし王は彼を憐れんで、赦してやった。しかし、彼は自分に100デナリオン借金していた仲間を赦せませんでした。およそ、3ヶ月分の賃金です。自分が途方もなく赦していただいたことを忘れていたからです。王、つまり神の憐れみを、私は骨身に染みて忘れずにいるのだろうか。神は「憐れみを負われすれになりません(54節)」が、私はすぐに忘れてしまいます。恐ろしいことです。何と賤しい罪人なのでしょうか・・・。マリアは歌います。「身分の低いこの主のはしためにも、目を留めてくださった」と。私は、自分がどんなに賤しく、神の憐れみによってでしか生きられない者なのかを覚えていませんでした。恥ずべきことです。そして、神の我身の何と深いことでしょうか・・・。私は賤しいし、憐れみのかけらもない失格者だけど、神は憐れみに満ちておられるのです。自分の賤しさを自分で見つめていたら、苦しくて辛いだけだけれど、神がそのような私にさえも目を留めてくださったことは救いです。だから、私たちも歌いましょう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」神は、私の救い主。賤しく、惨めな私を、神は救ってくださいました。自分の惨めさではなく、神を見上げることができます。息をすることができます。しかし、もしかしたら神は「見上げた」ところにおられるのではないのかもしれません。改革者マルティン・ルターはこのマリアの賛歌を愛し、素晴らしい本を書いています。その中で、このように言っています。「神は低いところだけをご覧になるが、人間の目はただ高いところを見る。すなわち、彼らは見栄えのする輝かしい華美な境遇を見る。」神は、賤しく、貧しく、世に捨てられたようなところへ下って行かれます。神は悲しみの中に降りてこられるのです。ですから、私たちは悲しみの中でさえも神を喜ぶのです。 

2017年12月10日日曜日

マルコによる福音書1:1~8「十字架を見つめるクリスマス」

昨日、近所の子どもたちがここでクリスマスを祝いました。皆、とても嬉しそうに、喜んでいました。さがみ野教会は栗原伝道所として設立された当初から子どもたちへの福音の種蒔きを大切にしてきました。神さまから与えられた教会への使命であると信じています。今朝の御言葉はアドベントによく読まれる箇所です。洗礼者ヨハネが、荒れ野で罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。ヨハネの活動をイザヤ書の言葉で総括しています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」主が来られるから、道を整え、まっすぐにせよと言います。主をお迎えするために。マルコは福音書の冒頭で言っていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」福音です。福音とは、喜びの報せという字です。喜びがここに始まる。そのための道を備えよ。昨日のクリスマス会も、そのための一筋の道であると信じています。伝道は、地道な取り組みです。すぐに成果にはつながりません。しかし、2000年間、教会は地道に御言葉の種を蒔き続けました。悲観的になるのが現実的な物の見方だという風潮がありますが、そうではないのだと思います。主イエスだって、楽に伝道なさったわけではありません。人間のこころの頑固さに嘆き、仲間の弟子たちのふがいなさにがっかりなさりながら、しかし私たちのことを諦めませんでした。どんな時にも、主の道はまっすぐにされなければなりません。主イエスがそれを望んでおられるからです。ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコがこのようなことを言います。「主にかける者を主は失望させません。小さな一歩であってもイエスに向かって歩み出すならば、イエスが両手を広げてその到着を待っていることにきづくでしょう。そのときこそ、イエス・キリストに向かって次のように言うときです。『主よ、わたしは間違っていました。何度もあなたの愛から逃げました。しかし、今もう一度あなたとの約束を更新するためにここにいます。主よ、あなたを必要としています。もう一度あがないの腕にわたしを受け入れ、救い出してください。』」だから、私たちは失望せずに、キリストのもとへ帰りましょう。主が両手を広げて待っていてくださいます。神のもとへ帰ることを、聖書は「悔い改め」と呼びます。思えば、「失望」や「諦め」というのは現代を覆う時代精神の一つだと思います。私たちは自分自身のことも他人のことも、簡単に失望し諦めてしまいます。そこには冷めた愛がある。ヨハネは悔い改めを求めます。聖書が言う悔い改めは、日本語の語感から想像しがちな後悔といった意味ではありません。自分のあそこが悪いここが悪いと悩むことではないのです。そうは言っても私たちには後悔することがあるし、悔やんでも悔やみきれないこと、上手くいかないこともある。トマス・ロング牧師は言います。「私たちが記憶の中の経験を呼び起こし、初めに理解していたよりもさらに多くの神の御業の証拠や、それまで知っていたよりもずっと多くの神の恵みのしるしや、これまで表していたよりももっと」多くの神への感謝をそこに発見して、もっと誠実で従順に明日を生きたいとの願いを持つ、今までとは異なった自分を見いだすとき、私たちは悔い改めているのです。」この私に今も働いておられる神を見上げることこそ悔い改めです。そこでは私のためにかけられた十字架が見えてくる。そこに喜びが始まります。 

2017年12月3日日曜日

マタイによる福音書24:36〜44「ただ神だけはご存知だから」

今日から待降節です。待降節、アドベントはクリスマスを待ち望むとき。私たちはそう考えています。確かにその通りですが、ただ、これは主イエスがまだ生まれていないことにしておいてクリスマスを待つというわけではありません。今、私たちは第二のクリスマスを待っています。キリストが再び来てくださるのを待っているのです。T..ロングという米国の説教者の『何かが起ころうとしている』というアドベント・クリスマスの説教集を最近手に入れて、さっそく読み始めました。表題になった説教は今朝の箇所のマルコによる福音書の並行記事の説教です。「何かが起ころうとしている。」私たちはそれを期待しています。それはちょうどもうすぐ子どもが生まれる夫婦が、子ども部屋のペンキを塗ったりベビーベッドを組み立てたりする気持ちのようです。何かが起ころうとしています。クリスマスツリーを飾り、クリスマスの買い物にショッピングモールに行くのは、クリスマスに何かが起ころうとしているからです。私たちは、主イエスが私たちのところへ来てくださって、私たちを慰め、救ってくださるのを待っています。しかし、他方では、1226日になるとクリスマスは終わり、ツリーも片付けられ、正月になれば誰もクリスマスのことなど覚えていません。特に何も起こらず、いつものようにクリスマスが終わったのです。何かが起ころうとしている・・・。本当なのでしょうか?私たちには神さまに助けていただきたいこと、救っていただきたい現実をたくさん抱えています。食べたり飲んだりしながら営んでいく毎日の営みの片隅には、私たちのため息が淀んでいます。年末を迎えて一年を振り返れば後悔が残っているし、これまでの生き方をふり返れば、昔に戻ってやり直したいことが誰にだっていくつもあります。そんな私を救ってくれるような何かが、本当に起こるのでしょうか?主イエスは、「起こる」と言われます。キリストは来られます。「人の子は思いがけないときに来る」と主は言われます。救い主は再び来るのです。但し、思いがけないときに。私たちには、その時が分からない。誰も知らないのです。8月に仙台市若林区の荒浜小学校を再訪しました。震災の一ヶ月後にボランティアに行った地域です。小学校が震災遺構になっていました。津波で地域全体が倒壊した場所です。小学校の屋上にたくさんの人が避難して、いつ来るか分からない救助を待っていました。私たちを助ける助けは一体いつ来るのでしょうか?食べたり飲んだりして生きる私たちの日常を全部のみ込んでしまうほどの大きくて恐ろしい力に、私たちは日々さらされているのです。ノアの時代の人々は、そんな毎日の生活を送りながら、洪水が来ることを誰も気づきませんでした。しかし、考えてみれば目の前でノアが箱舟を造っていたはずです。目には入っていても、その意味するところが分からなかったのでしょう。実は、私たちの日常生活の目の前には、箱舟があるのです。聖書の原語では「箱舟」はもともと単なる「箱」です。舟の形ではありません。神殿の形です。ノアの箱舟は、洪水の中で礼拝する民がいるという物語です。神を礼拝し、神に祈る。それが主が「目を覚ましていなさい」とおっしゃったことの意味です。目を覚まし、祈りつつ生きていきましょう。私たちにはキリストに来て救っていただかなければどうにもならないことが溢れています。「主よ、来てください」と祈りつつ生きていきましょう。 

2016年12月25日日曜日

ヨハネによる福音書第16章33節 「クリスマス、それは勝利の日!」

今日はクリスマスです。教会にはクリスマス、イースター、ペンテコステと三つの大きな祝いがありますが、クリスマスが一番新しいようです。いつクリスマスを祝うかと言ったときに、一説によると冬至の時期を選んだ、と聞きます。一番夜が長い、闇が深まった時期。そこから日が昇り、少しずつ昼が長くなっていく。それがクリスマスの出来事に重ね合わせられたと言うのです。クリスマスの意味をよく表した逸話だと思います。この一年はどういう年でしたか?闇が深まり、心配や不安の中、苦しみの中を歩んでこられた方も少なくはないと思います。そういうときにはいろいろな趣味で発散することも大切です。私の最近はじめた新しい趣味はスパイスカレーです。いい気分転換になります。しかし、気分転換をしても、根本的な解決にはなりません。では、どうしたらいいのか?「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と主イエスは言われます。私たちが平和(以前の口語訳では「平安」と訳していました。)を得るために、キリストが語りかけていてくださいます。キリストの語りかけこそが、私たちを闇の中から救い出すのです。キリストは平和、即ち平安を与えてくださいます。私たちと神との間に。それは何よりも大いなる安心、平安、救いです。しかし、新共同訳聖書がこの単語を平安ではなく「平和」と訳したのは、個人的な心の中の出来事と受けとめられないように、ということなのだと思います。「あなたがたには世で苦難がある」と主イエスは言われました。その言葉の通り、この世界は今苦難に覆われています。この一年は国際秩序が大きく変わっていく年でもありました。今年出版された本で、そういう一年を象徴するタイトルであったのは『中東から世界が崩れる』という高橋和夫さんの本です。2016年はサウジアラビアとイランの国交断絶から始まりました。シリアの内戦は収まりません。たくさんの難民が産み出され続けています。欧州のいろいろな国の選挙結果で排外的な政策を掲げる政党が勝ったことや、英国のEU離脱を巡る国民投票、米国大統領の選挙などの一つの原因になっているのでしょう。もちろん、他にもたくさん原因はあるのでしょうが。中東から、これまでの世界秩序が崩壊してきています。まことに厳しい現実です。一体、どこに行ったら平和が見つかるのでしょう。「平和」という言葉を聖書の中で探してみて、このような主イエスの言葉と出会いました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。「世が与える平和」と主イエスは言われます。今の世界は良い言葉を求めていると思います。よく多様性とか寛容という言葉を聞きます。違った者を受け入れよう、と。それ自体はすばらしいことです。しかし、反面、多様性や寛容に社会が疲れた結果、それと正反対の主張をする人々が選挙で勝っているのかも知れません。多様性も寛容も良いけれど、結局俺たちの生活をどう保証するんだ、と。キリストが与えてくださる平和とは何なのか?ここで、再び「平安」という言葉の深い意味に気づきます。神との平和、平安なしには人と人との平和は成り立たないのです。私は既に世に勝っているというキリストの勝利は十字架にかけられるという勝利でした。そうして神と私たちとを平和にしてくださいました。クリスマスは途方に暮れるしかない私たちの世界に神ご自身が飛び込んできてくださった日です。目の前にいる一人の人を、真剣に、キリストがこの私にそうしてくださったように愛したい。

2016年12月4日日曜日

ルカによる福音書第1章26から38節「神の『おめでとう』は揺るがない」

クリスマスにはいろいろな讃美歌が溢れています。クリスマスの出来事を歌う讃美歌の中でも特に美しいものの一つは、アヴェ・マリアでしょう。「おめでとう、マリア、恵まれた方。神があなたと共におられます。」そう歌い始めます。今朝の聖書に登場する天使の言葉です。私たちプロテスタント教会ではマリアに祈ったり、果てにはマリアを神格化したりするようなことはしません。しかし、彼女はすばらしい信仰者です。ナザレという田舎に住んでいた、平凡な少女でした。天使が平凡な一人の女のところに来て告げた祝福の挨拶は、時代も場所も越えて、私たちにも向けられた祝福であると信じます。私たちも同じように祝福されています。「神があなたと共におられます」と私たちにも宣言されています。マリアの胎に宿ったキリストが、このクリスマスに、私たちにも出会おうとされているからです。皆さんは、この一週間をどのような思いで過ごしてこられたでしょうか。「おめでとう」という言葉からは遠い現実の中に生きてきた人もきっといることでしょう。わたしは、この一週間、家族のために心を砕く人と会ってきました。ある人は家族の死を迎えるための備えを少しずつ始め、またある人は病気に倒れた家族に付き添って手術室の前にいました。そういう時にも、マリアに向けられた挨拶は、なお意味を持つのでしょうか?天使はマリアに「恵まれた方」と言いましたが、この字は、「もうすでに神の恵みを受けて、今生きている人」というニュアンスの表現になっています。私たちには見えないけれど、私たちには「どうして、そのようなことがありえましょう」としか言いようがなくても、神の恵みはもうあなたに与えられていると天使は言うのです。どうして、そのようなことが言えるのでしょう。神さまは私たちの現実を無視なさっているのでしょうか。「おめでとう」という言葉は、直訳すると「喜べ」という表現です。喜びうるしっかりとした根拠も無く「喜べ」なんて命令されるとしたら、極めて非人間的な仕打ちです。世の中にはそういう命令が溢れているように思います。大して面白くもないバラエティに笑って時間を過ごした後の空しさといったらどうでしょう。でも、そうでもしないと晴らせない憂さに囲まれて私たちは生きています。マリアが生きた時代のユダヤは、喜びの水も涸れ果てたというべきでした。ユダヤはローマ帝国の属国でしたし、貧しかったのです。悲しむ者、苦しむ者に喜びがあるというならば、その根拠をハッキリさせなければなりません。天使はマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」神があなたと共におられる。だから喜んでくれ、と言うのです。クリスマスの讃美歌の中には「マグニフィカート」というものもあります。マリアの讃歌とも呼ばれます。マルティン・ルターがこの名の小さな書物を書いています。私たちは誰でも富や名誉や力や良い生活を求める。誰も貧乏や恥辱や苦難、悲惨なんて求めない。悲惨の中に喘ぐ者を求めるのは、ただ神だけだ。神は私たちに死を負わせ、計り知ることのできない悩みと困窮に添えて、十字架のキリストを下さった。ルターはそう言います。そうです。天使の「おめでとう」は十字架のキリストを指さしているのです。私たちの悲しみや苦しみにも共におられるキリストを。私たちの悲しみを生み出す罪からあなたを救うキリストが共にいて下さる。これがクリスマスの福音です。

2016年11月27日日曜日

フィリピの信徒への手紙第2章6から8節「へりくだりのお方、主イエス」

 1123日の定期中会会議を終え、さがみ野教会に帰ってくると、ぴかぴかと光る光りが目に入ってきました。「あぁ!誰かが飾りつけをしてくれたんだ!」という驚きの思いをもって見ました。一日の会議を終え、すでに暗くなっている中でしたので、なんとも言えないやさしい光が小さな喜びとして私の胸に飛び込んできたのでした。
 主イエスが来られるというのは、そのような驚きと喜びが飛び込んでくるような出来事です。暗い中に突然、パッと光るようにして来られる。主が来られることを待ち望む待降節「アドベント」。期待をして、そして悔い改めの思いをもって待ち望みたいと思います。
 しかし、聖書をよく読んでみますと、主イエスが生まれたときというのは、必ずしも人々が快く受け入れたというようには描かれていません。むしろ、皇帝が世を支配し、住民はそれに振り回されるかのようにして、弱い人同士、自らの権利を主張しあうことが描かれています。自分の泊まる宿を確保するので精一杯。ですから、主イエスは飼い葉おけに生まれるよりほかになかったのでした。
 フィリピの信徒への手紙でパウロはその主イエスお姿を、へりくだられた方として述べ伝えています。多くの喜びがフィリピ書の中にはあります。なぜそんなにパウロの心に喜びがあったのでしょうか。それはキリストのなさったことを、パウロはしっかりと見つめていたからなのでしょう。パウロは自らの腹を神とするのではなく、へりくだられたお方主イエスをしっかりと見つめていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わ」なかった(フィリピ26節)。〈しがみつく〉というニュアンスの言葉が用いられています。キリストは神の身分にしがみつかなかったのだ!自分の宿泊する宿を確保すること、あるいはフィリピの市民は自分がローマ帝国の市民権を有することにしがみついていたのかもしれません。それが自分の生活を保障するものだと思っていた。しかし、主イエスは誰よりも多くの犠牲を払い、誰よりも先に人の隣人となられ、神のもとから異国の地へと歩みを進めるお方でした。パウロもまた、このお方を主として、このお方に従っていることで、主イエスの見た景色を見ながら生きることができたのです。パウロの心に喜びがあったのは、主イエスの喜びを自分の喜びとしたのです。

 今の日本に目を留めると、現代もまた我先にと宿を確保するような時代になってきているのかもしれません。そのような時代に主イエスをお迎えし、このお方に従う道を選ぶということは、へりくだられたお方を主とし、このへりくだりを学ぶということなのでしょう。さがみ野教会の歩みもまた、そのような歩みであることを願いつつ歩んでいきたいと思います。

2026年9月12日の聖句

あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9) マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18) 今日の御言葉を聞いて、自分は一体何を見てい...