2021年6月30日水曜日

2021年6月30日(箴言11)

箴言11
死に際して、悪しき者の希望は滅び
繁栄への望みも滅びる。
正しき者は苦難から助け出され
悪しき者が代わってそこに落ちていく。(7~8節)

死に際しても意味のある希望とは一体何か。今日の箴言はそのことを問うています。繁栄への望みは、死に際して、最期の時には意味を持ちません。
主イエスご自身がそのことはおっしゃっています。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」これはルカによる福音書12:13~21に書かれているたとえ話の導入の言葉です。愚かな金持ちが登場します。畑が豊作だったので大きな倉を建ててしまい込み、安心して飲み食いして楽しめと自分の魂に言い聞かせた。ところが、その晩神さまがその金持ちに言うのです。「愚か者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」そしてこの話の最後に主イエスがおっしゃいます。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」
神のために豊かになる。そのことを、箴言では「正しき者」と呼びます。正しき者が苦難に遭っても、神がその人を助けてくださる。私たちを救うのはお金や豊かな財産やたくさんの物ではなく、神さまだけです。
今朝の箴言の言葉を読んで、私は、ハイデルベルク信仰問答の第一の問答を思い出しました。これをご紹介して、今日は終わりにします。

問 生きている時も、死ぬ時も、あなたのだた一つの慰めは、何ですか。
答 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、してくださるのであります。

2021年6月29日火曜日

2021年6月29日(箴言10)

箴言10
偽りの唇は憎しみを隠し持ち
愚かな者は悪口を吐き出す。
言葉数が多いときには背きを避けられず
唇を制すれば悟りを得る。
正しき者の舌は精錬された銀
悪しき者の心は無に等しい。
正しき者の唇は多くの人を養うが
無知な者は浅はかなため死を招く。
主の祝福こそが人を豊かにし
人の労苦はそこに何も加えることができない。(18から22節)

ここにはかなり連続して、いくつもの言葉を巡る知恵の言葉が登場してきます。よく似た内容の言葉であると思います。それは、私たちの多くが言葉で失敗した経験を持っているからこそなのだろうと思います。例えば「言葉数が多いときには背きを避けられず、唇を制すれば悟りを得る」などは、本当に心に痛みを覚えさせる言葉ではないでしょうか。舌は小さな器官ですが、強い毒を持つものです。
「正しき者の舌は精錬された銀、悪しき者の心は無に等しい」という言葉も、心に刺さります。「正しき者の唇は多くの人を養うが、無知な者は浅はかさのために死を招く」というのも、自分の口が語っている言葉が本当に怖くなります。舌を制することは、本当に困難なことです。そう考えると本当に絶望的なことです。これまで一体何度舌禍を重ねてきたことかと、恐ろしくなります。
そんな私たちにとっての救いは「主の祝福こそが人を豊かにし」という言葉です。本当に心が貧しく、舌には悪が満ちている私。そのためにどれだけたくさんの人を傷つけてしまったか・・・。主の祝福によって、それらの人々を守ってくださいと祈るよりほかありません。さらに「人の労苦はそこに何も加えることができない」というのは本当に深い憐れみの言葉です。私たちの心がけを越えて、神様ご自身の祝福が絶対的な力を振るってくださるのです。私たちはひたすら、主の憐れみを求めます。主なる神様の圧倒的な祝福と憐れみ深い赦しによって、私と、私の隣人との間を、どうか守ってくださいと祈ります。

2021年6月28日月曜日

2021年6月28日(箴言9)

箴言9
嘲る者を諭す者は屈辱を受け
悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。
嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。
知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。
正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。(7~9節)

今日の箴言の言葉は、私には少し意外に感じました。「嘲る者を諭す者は屈辱を受け、悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。」ここまでは、なるほどと思います。その通りであろうと思う。私が意外に感じたのはその先です。「嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。」ここを読んで、とても意外な感じがしました。
というのは、聖書であれば、それでも嘲る者を諭してあげなさいと言いそうだなという先入観があったからです。相手がどんな反応を見せたとしても諦めずに、知恵の言葉で諭しなさい。そう言いそうではないでしょうか?私はそう思いましたが、違っていました。

嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。
知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。

「嘲る者」をどうにかしようというのは、もしかしたら、とても傲慢な考え方なのかも知れません。結局、自分の賢さによって相手を変えてやろう、良くしてやろう、ということです。それは奢った考え方なのかも知れません。私たちには他人を変えてみせることはできないのです。
知恵ある人を叱れ、と言っています。知恵とは何か、10節で箴言冒頭の言葉を繰り返しています。「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることが分別。」主を畏れ、聖なるお方の前にひれ伏す。そこに知恵があり、分別がある。知恵ある人を叱れというのは、共に神さまの前にひれ伏すということを意味するのだと思います。共に、何ものでもない者として神さまにひれ伏し、神さまを畏れ、へりくだって知恵を求める。箴言はそういう分別を私たちに得させる言葉です。
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2021年6月27日日曜日

2021年6月27日(箴言8:22~36)

箴言8:22~36
主はその道の初めに私を造った
いにしえの御業の始まりとして。
とこしえより、私は立てられていた
太初より、地の始まりから。
まだ深淵もないとき
私は生み出されていた。
大いなる原初の水の源もまだないときに。(22~24節)

とても不思議な箇所です。ここでの「私」というのは、明らかに知恵のことです。知恵が一人称になって、自分がどのように生まれてきたのかということを説いています。知恵は大昔に賢い人間が生み出した、というのではない。世界ができあがってきたいつかの時点で、必要に迫られて造り出された、というのでもない。知恵はこの世界が造り出されるのに先立っている、と言うのです。
私が特に興味を覚えるのは、24節の「まだ深淵もないとき、私は生み出されていた」という言葉です。創世記1:2には「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。神さまが天地をお造りになったとき、地は混沌であり、闇が底なしの淵を覆っていた。その深淵さえもまだないとき、すでに知恵が生み出されていた、というのです。この世界にも、それどころか造られる最初の混沌よりも先に、知恵が生み出されていた。
ここで私たちはヨハネによる福音書の冒頭を思い起こすことができます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。」初めに言が神と共にあり、他の世界の万物はこの言によって造られた、と言うのです。そうすると、箴言が紹介する知恵とヨハネ福音書が伝える言とは、同じ事柄を指しているのではないかと考えられます。「神が天を確かなものとしたとき、私はそこにいた」(箴8:27)。
この聖書の証言は、世界に対する私たちの目を明るくします。この世界は神の知恵、神の言によって造られた。無秩序とか混沌が支配する世界ではなく、神の言が、神の知恵が支配する世界なのです。私たちはこの事実が証言する根源的な祝福の中に、今日も生かされているのです。

2021年6月26日土曜日

2021年6月26日(箴言8:1~21)

箴言8:1~21
知恵は呼びかけていないか。
英知は声を上げていないか。
知恵は道沿いの高き所の頂きに
また会堂の四つ辻に立ち
町の玄関である門のそばで
入り口の扉で、喜び歌う。(1~3節)
私は知恵。熟慮と共にあり
知識と慎みを備えている。
主を畏れることは悪を憎むこと。
高ぶり、高慢、悪の道
そして偽りを語る口を、
私は憎む。(12~13節)

知恵の呼び声がここに具体的に記されています。熟慮し、知識を持って慎みを備える。主を畏れ、悪を憎み、高ぶり、高慢、悪の道、偽りを憎む。それが箴言の語る知恵です。ただ物知りだとか頭が切れるとか回転が速いとか、そういうことも含まれるかも知れませんが、少なくともそれですべてではない。悪を憎み、謙遜を学び、正義を求めて生きること。それらを説く「知恵」が街角で私たちに呼びかけている、と言うのです。
道沿いの高き所、会堂の四つ辻、町の門、入り口の扉で知恵が声を上げている。町の門というのは、古代ユダヤの社会では町議会や裁判所のような機能を果たしていたそうです。そういう場所で知恵が呼ばわっているというのは、いわゆる教会や会堂のような信仰の論理で動くべきと誰もが思っている場所以外の社会全体も、箴言が語る意味での知恵によって歩んでいくべきだ、という主張なのではないかと思います。確かに、箴言の時代とは二千何百年の時と場所も文化も違う私たちの社会だって、彼らと同じように、正義と公正によって社会は歩むべきです。悪を憎み、悪の道、偽りの道を退ける知恵を身につけることが必要です。知恵の声に、この社会は耳を傾けなければならない。それは銀よりも、金よりも価値があることです。「銀ではなく、私の諭しを受け取れ。知識は金よりも望ましい」(10節)。
聖書に謙遜と平和を学び、知恵の言葉を街道の巷に呼びかける声に、私たちもして頂きたいと願います。聖書の福音を証しする声に私もならせてください、と祈り願います。

2021年6月25日金曜日

2021年6月25日(箴言7)

箴言7
子よ、私の言葉を守り
私の戒めをあなたの心に納めよ。
私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。
それをあなたの指に結び
心の板に記しておけ。
知恵に「わが姉妹」と言い
分別に「わが親族」と呼びかけよ。
それはあなたをよその女から
滑らかに話す異国の女から守る。(1~5節)

この章は、最後に「それはあなたをよその女から、滑らかに話す異国の女から守る」とあるとおりに、姦通の罪への強い警告が語られています。ここまで箴言を読んできた中でも、この内容はすでに何回か出てきていました。それだけ、この罪を強く警戒していたと言うことなのでしょう。古今東西関係なく、姦通によって身を持ち崩すというのは誰にでも起こりえます。
箴言は知恵に「わが姉妹」と言い、分別に「わが親族」と呼びかけて、知恵や分別をもって生きることがこの誘惑から自由になる道だと言っています。知恵の戒めに耳を傾け、これをまるで自分の目の瞳のように大事にし、指に結びつけるようにして心に留め、心の板にしっかりと書き記す。そうやって知恵ある者として生きるなら、そのような過ちに溺れることはないはずだ、と言います。
改めて考えると、聖書が語る知恵の言葉は、このようなところにも関係があるということに驚きを覚えます。私たちの肉体的な情欲、心や感情、あるときには如何ともし難くなるそういうものをもっている私がどう生きるのか?聖書の知恵はそういう部分に関わっています。
使徒パウロは言います。「あなたがたの体は、神からいただいた精霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Ⅱコリント6:19~20)。聖書は、私たち自身以上に、私たちの肉体の価値やその尊さを知っている。ここに聖書の知恵があります。

2021年6月24日木曜日

2021年6月24日(箴言6)

箴言6
主の憎むものが六つ
心からいとうものが七つある。
高ぶる目
偽りを語る舌
無実の人の血を流す手
悪だくみを耕す心
急いで悪に走る足
虚偽を語る偽りの証人
兄弟の間に争いを引き起こす者。(16~19節)

この章はとても具体的な知恵の言葉がたくさんあって、とてもおもしろいところだと思います。1節以下は、友の保証人になって責任を負わねばならず、大変な目に遭ったらどうしたら良いのか、という話です。現代でもそっくり同じ事が起こりえます。3節に具体的なアドバイスがあります。「子よ、その時にはこうして自らを救い出せ。あなたは友の手中に落ちたのだから、気弱にならず、友にうるさく求めよ。」借金取りではなく保証してやって友にその責任を求めよ、と言います。
あるいは6節以下では怠惰についての戒めがあります。蟻を見て蟻から学べ、という話です。「その道を見て、知恵を得よ。」蟻に対するイメージは、やはり古代イスラエルでも「勤勉」だったのかと思うと、何とも親近感がわくのではないでしょうか。9節からのところでも怠惰を戒めています。いつまでも寝たりボーッとしたりしているだけだと「貧しさは盗人のように、乏しさは盾を持つ者のようにやって来る」というのです。
マックス・ウェーバーという社会学者は、勤勉なプロテスタント教会の信徒の働き方、浪費せずに貯蓄するあり方が資本主義経済のゆりかごになったと言います。さらに言えば、もともとの資本主義経済は信仰に裏打ちされた勤勉さから生まれてきたのに、いつの間にか信仰という背骨が失われ、システムだけが残ってしまう。そのシステムは鉄の檻になって私たちを苦しめることになるだろう、と予言しています。見事に彼の分析どおりになってしまいました。閑話休題、そのような勤勉さを生み出す一つの根拠が、今日の箴言の言葉であったのかも知れません。もちろん箴言ですから、信仰、神を畏れる知恵が前提にあります。神を信じることと働くことは別々のことではありません。
今日一日、高ぶったり偽りを利用したりせず、神さまの御前で誠実に、隣人への愛をもって歩んでいきたい。そのように願います。

2021年6月23日水曜日

2021年6月23日(箴言5)

箴言5
子よ、私の知恵に思いを向け
私の英知に耳を傾けよ
それは慎みを守り
あなたの唇に知識を保つため。(1~2節)

人の道は主の目の正面にある。
主はその道のりのすべてに気を配っておられる。
悪しき者は自らの誤りの罠にかかり
その罪の綱につながれる。
諭しがないために死に至るが
底知れぬ愚かさに酔いしれている。(21~23節)

上に書かれているのは箴言第5章の冒頭と最後の部分です。この間には、姦通の罪への強い警告が書かれています。時代背景が現代とはまったく違うので、男性に対して、他人の妻との関係を戒める内容になっています。現代に移すならば男女関わりなく戒める内容になるに違いないと思います。男女いずれにしても、自分の婚姻関係を清く保つこと、そして他人の婚姻関係をも尊び、汚さないこと。そのことについて長い言葉を継いで、そしてかなり厳しい言葉で戒めています。それは時代が変わっても、背景にある文化や状況が違っても、人間として変わるところのない、共通した弱さであり、罪に誘われてしまいやすい事柄であるからであろうと思います。
ずいぶん以前のことですが、確か読売新聞にあった、何かのコーナーで紹介されていた短歌がありました。強烈な印象を私に残して、今でも良く覚えています。こういうものです。
「今日十たび姦淫をせり沈鬱に 町を歩けばマタイ伝五章」
マタイ伝五章というのはマタイによる福音書5:27~30、特に「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯しているのである」という主イエスの言葉のことでしょう。私にとっては刺のように刺さり、心に痛みを覚えさせる言葉でした。
ところがあるとき、この聖書の言葉について生島陸伸牧師に、これは人間の存在の根源に罪を見ている言葉だ、と言われました。この罪のためにもキリストはご自分を献げてくださったと分かり、解放されました。先ほどの箴言でも、この知恵の言葉は慎みを与えるものだと言っています。私たちの根源に巣くっている罪。しかしキリストは私たちを根源的に救い、自由で慎みあるものにしてくださいます。この肉体をもつ私が救われ、神が「良くできた」と喜んでくださっている私であることに気付きます。

2021年6月22日火曜日

2021年6月22日(箴言4)

箴言4
子よ、私の言葉に思いを向けよ。
私の語りかけに耳を傾けよ。
目から話すことなく
心の内に守れ。
捜し出す者にとって、それは命。
心身を健やかにする。
守るべきものすべてにも増して
  あなたの心を保て。
命はそこから来る。(20~23節)

知恵の言葉に耳を傾け、それに従えと諭しています。知恵の言葉があなたの命だ、と言っています。知恵の言葉の対極にあるのが、14節で言っている「悪しき者の道筋」「邪悪な者の道」です。悪しき者、邪悪な者は「誰かをよろめかさずには眠らない」し、彼らは「悪しき者のパンを食べ、暴虐の酒を飲む」と言っています。つまり、知恵の言葉というのは、単に頭が良いか悪いかという事柄ではなく、愛や正義につながる価値観の問題を含んでいる、ということであるのだと思います。
悪しき者は誰かをよろめかさずには眠らないと箴言は言っています。私はこういう言葉を読むと、正直に言って、自分にも心当たりがあると言わねばならなくなってしまいます。誰かの悪口を言ったりやり込めたりするのは快感です。そういうときは自分の心に正義感が燃え立ちます。自分は絶対に正しいと確信しています。しかしそこには愛がありません。それにそもそも、自分が正しいと思っていることも本当に正しいのかどうか、本当に正義の名にもとらないものであるのかどうかは、よく考えてみれば怪しいものです。感情が燃え上がっていると、よく分からなくなってしまいます・・・。
知恵の言葉こそあなたの命。聖書は私たちにそう語りかけます。この知恵とは、やはり、主を畏れることに始まる知恵に他ならないでしょう。主の前にへりくだることにこそ私の命があり、私の心身は主の前で健やかになる。それは、主なる神様こそが無限の愛であり、まことの正しさだからです。神さまの愛は、正義は、十字架の上のキリストによって示されたのです。このお方の御許に立ち帰ることこそ、私の命。そう信じて、今日の一日を歩み出したいと願います。

2021年6月21日月曜日

2021年6月21日(箴言3:21~35)

箴言3:21~35
子よ、よき考えと慎みを保ち
見失うことのないようにせよ。
それらはあなたの魂の命となり
首を飾る恵みとなる。
そうして、あなたは安らかに道を歩み
足がつまずくこともない。
身を横たえるときも、おびえることなく
横たわれば、その眠りは快い。(21~24節)

よき考えと慎みを保つ私でありたい。そう願っています。しかし、私の実際の生き方、現実は・・・そう考えると、苦しくなってしまいます。
今、私たちの教会の礼拝では「罪の告白と聖霊の照らしを求める祈り」という祈りがあります。神さまに罪を告白し、赦しをこいねがう祈りと、聖書の言葉、福音の言葉に聞くために私たちを聖霊が照らしてくださいという祈りとは切っても切り離すことはできません。例え礼拝の式次第の中で別々の祈りになっていたとしても、無関係だというわけではない。私の罪を赦す神さまの御言葉、福音の言葉を、どうかお聞かせくださいと私たちは祈りつつ、礼拝を献げます。
箴言も含めて、聖書の御言葉は私たちのためのキリストの命の言葉です。福音、良い知らせです。私たちの魂の地であり、首を飾る恵みの言葉です。私たち自身は、もしかしたらよき考えや慎みに遠い現実を抱えているかも知れません。しかし神さまはそんな私たちを新しくしてくださいます。神さまの御言葉によって私たちを平安に生かし、起きているときにも眠りにつくときにも神さまのものとして生かしてくださいます。
この私の内にも神さまの御業は始まっている。私たちは大胆にそのことを信じて、今日の日を始めていきましょう。友のための愛に私たちを生かし、キリストに従う信仰を与えてくださるのは、神さまの聖霊です。神さまが私たちの内で始めてくださっている新しい御業に、私たち自身を献げていきましょう。

2021年6月20日日曜日

2021年6月20日(箴言3:1~20)

箴言3:1~20
心を尽くして主に信頼し
自分の分別には頼るな。
どのような道を歩むときにも主を知れ。
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
自分は知恵ある者などと思わず
主を畏れ、悪から離れよ。
それはあなたの体の癒やしとなり
あなたの骨の潤いとなる。(5~8節)

心を尽くして主に信頼しよう、と箴言は私たちに呼びかけます。どのような道にいるときにも主を知り、信頼し、愛し、主に従う。これこそ私たちの生きるべき知恵です。この知恵こそが「あなたの体の癒やしとなり、あなたの骨の潤いとなる」と言います。素敵な言葉です。今日一日をこれから歩んでいき、夜になって一日の最後の時を迎えたときには、疲れがあり、体に積み重なった重荷がのしかかっていることでしょう。肉体の疲れは心にも食い込みます。そんな私たちの肉体の癒やし、骨の潤いがある、というのです。主に信頼し、主を知ることこそが私たちの癒やしだと言います。自分の分別に頼って自分の好きなようにすることが癒やしであるような気がしてしまいますが、それよりももっとすばらしい最上の道がここにあります。

知恵の道は友愛の道
その旅路はいずれも平安。
知恵は、それをつかむ人にとって命の木。
知恵を保つ人は幸いである。(17~18節)

主に信頼し、自分の分別に頼るなと5節に書いてありました。主を信頼し、主から頂く知恵に生きることについて、17節では「友愛の道」だと言っています。忘れがたいのは「知恵は、それをつかむ人にとって命の木」という言葉です。エデンの園では善悪の知識の実を食べ、これでは命の木の実を食べる恐れがあるからということで園から追い出されました。しかしここでは知恵に生きることが命の木を掴むことだと言っている。エデンで起きたことは、その後の責任転嫁を見ても分かるとおり、極めて利己的でした。しかし箴言で勧められている知恵は「友愛の道」と言うとおり、他者を生かす道です。だからこそ命の道です。これが自分の分別ではなく神の知恵に頼る者の生きる道なのです。

2021年6月19日土曜日

2021年6月19日(箴言2)

箴言2
主は正しい人には良い考えを
完全な道を歩む人には盾を供える。
裁きの道筋に従い
忠実な人の道を守るために。
その時、あなたは見極められるようになる
正義と公正と公平が
  幸いに至る唯一の道のりであることを。
まさしく、知恵があなたの心に来て
知識が魂の喜びとなる。(7~10節)

正義と公正と公平が幸いに至る唯一の道、と箴言は私たちに言います。どれかがかけてしまってはいけないのだと思います。正義のないところに公正と公平は成り立ちません。公正のない正義と公平もありえないし、公平ではない正義と公正は独り善がりです。さらに、いつの時代にも正義と公正と公平は本音のところで軽んじられているというのが現実ではないでしょうか。建前では正義を重んじ、公正を旨とし、公平な社会を目指すとされていても、実際には儲けや縁故がより幅をきかせているような気がします。私たちが営んでいる社会(そこにはキリスト者もそうでない人もいます)は、主を畏れることに始まる知恵が欠かせないのではないでしょうか。この知恵から、この社会で誰もが自由に、そしてフェアに生活することのできる正義や公正が生まれるのではないでしょうか。
知恵は、私たちに呼びかけています。
「子よ、もし私の言葉を受け入れ
私の戒めをあなたの内に納め
知恵に耳を傾け
英知に心を向けるなら・・・」(1~2節)。
私たちが知恵の言葉に耳を傾け、神を畏れ、隣人を尊ぶ社会を形成することを、神さまは私たちに願っておられます。そして、神の知恵が私たちに示す社会の姿こそ、正義と公正と公平に他ならない。そこでは孤児ややもめ、寄留者、貧しい人々が軽んじられることがない。私たちはそうやって神の愛が実現する社会を形づくるために、この世界へと派遣されているのです。

2021年6月18日(箴言1:20~33)

箴言1:20~33
知恵は巷で喜び歌い
広場で声を上げる。
城壁の頂で呼びかけ
城門の入り口で語りかけて言う。
「いつまで思慮なき者は思慮のないことに執着し
嘲る者は嘲り続け
愚か者は知識を憎むのか。」(20~22節)

箴言には掛け軸にかけそうな格言がたくさん出てきますし、上掲の引用箇所の最後にあるような言葉がたくさんあって、あるときにはちょっと叱られるような印象がどこかにあることもあります。しかし、今日のところはとっても興味深いと思います。「知恵は巷で喜び歌い」と言っています。知恵が喜び歌っている。新共同訳聖書では「知恵は巷に呼ばわり」と翻訳していました。新しい翻訳では、巷で喜び歌いとなっています。おもしろい翻訳だと思います。知恵が巷で声を上げている。これ自体に興味がわきます。なぜ巷なのか。巷というのは、町の中とか世間とかのことでしょう。町のどこででも知恵が呼びかけている。その声を聞け、と言う。しかもその呼び声は歌声、喜ぶ歌声だ、と言うのです。知恵の怒鳴り声、起こって注意している声ではありません。知恵が喜んで歌う歌声に耳を傾けよう、と言います。素敵なイメージだと思います。
その知恵の最初の呼び声は、ここでは思慮のないこと、嘲ること、知識を憎むことに拘泥するのではなく、知恵の懲らしめを受け入れ、その言葉に聞け、というものです。確かに私たちは変化を好みません。自分を変えなくてはならないというのはしんどいことです。考え方、生き方を変えるのは大変です。あまり物事を考えずにパッとしてしまうこと、厭なことがあったら文句を言って自制したりへりくだったりしないこと、それは楽な道です。しかし知恵ある者の生き方ではない、と箴言は言います。

思慮なき者の背きは自らを殺し
愚か者の安らぎは自らを滅ぼす。
私に聞き従う人は安らかに暮らし
災いを恐れず、安心して過ごす。(32~33節)

私の目に知恵ありと移ることよりも価値があるのは、神さまの知恵に生きることです。神さまの知恵は人間には愚かに映る、十字架のイエスに表されました。へりくだり、自らを空しくする知恵です。神に背くことではなくへりくだることこそが、私たちを生かす知恵です。

2021年6月17日木曜日

2021年6月17日(箴言1:1〜19)

箴言1:1~19
これは知恵と諭しを知り
分別ある言葉を見極めるため。
見識ある諭しと
正義と公正と公平を受け入れるため。
思慮なき者に熟慮を
若者に知識と慎みを与えるため。
知恵ある人は聞いて判断力を増し
分別ある人は導きを得る。
箴言と風刺を
知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。
主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵も諭しも侮る。(2~7節)

箴言、知恵の言葉です。知恵の言葉は、私たちに分別ある言葉を見極めさせます。正義と公正と公平を受け入れ、判断力をもって生きることができるようにさせます。私たちの時代にも、たくさんの言葉が溢れています。知恵あるように装っている言葉もたくさんありますし、自らそのように僭称している人も少なくありません。私たちは玉石混淆とした言葉の洪水の中で、一体どうやって言葉を見分け、知恵を持って生きることができるのでしょうか。
この箴言は、そのために私たちに伝えられています。「箴言と風刺を、知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。」一体どの言葉が知恵の言葉であり、どの言葉は単なる風刺、惑わす言葉に過ぎないのか。箴言は明確な基準をもっています。「主を畏れることは知恵の初め」と言っています。主を畏れることを知る知恵なのか、神さまなしでも生きられると嘯く言葉なのか。それが、知恵の言葉なのか惑わす言葉なのかの分かれ道です。
主を畏れる知恵は、例えば10節からのところでは「子よ、罪人が誘いをかけてきても、応じてはならない」と教えます。損得を計算して誰の言葉を信じるのかを決めるのなら、罪人の誘いに応じる方が得だということも時には起こりえます。ところが主を畏れ、主の前に生きる者としてその道を選ぶなら、違う判断が生まれるはずです。私たちは誰の前に行き、誰を恐れて生きるのか。箴言は私たちにそのことを問いかけてきます。

2021年6月16日水曜日

2021年6月16日(詩編150)

詩編150
ハレルヤ。
主の聖所で  神を賛美せよ。
主の力の溢れる大空で 神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに  神を賛美せよ。
そのすぐれた偉大さにふさわしく  神を賛美せよ。
角笛を吹いて  神を賛美せよ。
竪琴と琴を奏でて  神を賛美せよ。

タンバリンに合わせて踊りながら  神を賛美せよ。
弦をかき鳴らし、笛を吹いて  神を賛美せよ。
シンバルを鳴らして  神を賛美せよ。
シンバルを高らかに響かせて  神を賛美せよ。

息あるものはこぞって  主を賛美せよ。
ハレルヤ。(1~6節)

150編もある詩編の最後が、このような高らかな賛美の大合唱であることにとても心惹かれます。聖書の詩編は花鳥風月の美しさを愛でるのではなく、祈りです。神に向かう言葉です。私たちの祈りには、願いや感謝や執りなしなど、いろいろな言葉があります。私たちは何を祈ってもいい。本当に、びっくりするほど激しい祈りの言葉も書かれていました。しかし最後には、賛美です。神を賛美する言葉が最後に記録されているのです。しかも、この詩編は明らかに一人の、個人的な賛美の言葉ではない。合唱の歌声によって献げられるのがふさわしい言葉です。心を一つに合わせて神を賛美する営みに、私たちも加わっています。
主の聖所。それは、私たちが神さまを賛美する場所のことです。私たちが神さまの御前にへりくだって礼拝する場所です。私たちは思いを一つにして神の前に賛美を献げ、神さまの素晴らしさをほめたたえる幸いにあずかるのです。
角笛、竪琴と琴、タンバリン、弦、シンバルといろいろな楽器の名前が出てきました。あらゆるかぎりの力を尽くして神をほめたたえ、神さまの前に賛美をささげ物としてささげる。
「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。ハレルヤ。」これが、詩編の最後の言葉です。私たちの一日の終わり、あるいは人生の終わりの言葉も、このようなことばでありたいと心から願います。今日一日に神さまの祝福がありますように。

2021年6月15日火曜日

2021年6月15日(詩編149)

詩編149
ハレルヤ。
主に新しい歌を歌え。
忠実な人々の集いで賛美の歌を。(1節)
主はご自分の民を喜びとし
苦しむ人を救いによって輝かせる。
忠実は人々は栄光の内に大いに喜び
床に伏していても喜び歌う。(4~5節)

私たちが新しい歌を歌って賛美する神さまは、私たちの賛美に先立って私たちをご自分の民として喜んでくださっています。私たちの賛美は、神さまの喜びにこだまして始まります。しかも、その喜びは私たちのための喜び、私たちをご自分の民として喜んでくださっている喜びなのです。
神さまの愛が親の愛に例えられることがあります。親は子どもをどんなときにも、そこにいるだけで愛し、喜ぶ。そのような観点から語られることが多い。しかし私自身人の親になってみてつくづく思い知らされたのは、親の愛なんて、小さなものに過ぎないという現実です。自分の気持ちに簡単に左右されるし、子どもの心を受け取り損ねることなんてしょっちゅうです。子どもを自分の思い通りにしようとしてしまう過ちを、いつでもどの親でも起こす可能性があります。
しかし、神さまの愛はそうではありません。「主はご自分の民を喜びとし」というこの喜び、喜びを生み出す神の愛は、期待はずれな者、駄目な者への愛です。価値に反する者への愛です。愛に値しない者が、そこに生きている。神さまはそのことを喜んでくださいます。しかも、救ってくださるのです。私たちをご自分のものとして買い戻してくださいます。
だから、私たちは神さまの愛を喜び、尊び、神さまの栄光をほめたたえます。私たちが健康なときも、病の床にいるときにも。私たちの生きているときにも、死にゆくときにも。私たちをどのようなときにもご自分のものとして愛してくださる方の前に、私たちは今日も賛美をささげて生きていきます。

2021年6月14日月曜日

2021年6月14日(詩編148)

詩編148
地上から  主を賛美せよ。
海の竜たちよ、すべての深淵よ
火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる激しい風よ
山々よ、すべての丘よ
実を結ぶ木よ、すべての杉の木よ
生き物よ、すべての獣よ
地を這うものよ、翼のある鳥よ
地上の王たちよ、すべての民よ
高官たちよ、地上のすべての支配者よ
若者もおとめも
老人も子どもも共に。
主の名を賛美せよ。(7~13節)

讃美歌550番に「大地よ、星々よ」という歌があります。とっても楽しい歌で、この詩編第148編から生まれた讃美歌です。最初はこの詩編の言葉をほとんどそのままになぞるようなかたちで「大地よ、星々よ、主に向かって歌え」と始まります。神さまのすばらしい御業を崇め、賛美の声を献げようと言います。興味深いのは2節からのところです。
機械やハンマーの音、主に向かって歌え
働く人たちも 歌え、新しい歌
と歌うのです。もちろん機械なんて聖書の時代にはなかったわけですが、現代の人間が働く営みもまた神を賛美している。神さまに造られた山々や木々、動植物や雹や雪や霧と共に、神を賛美している。すてきな讃美歌だと思います。
私たちの今日の営みも、神さまを賛美するものでありますように。私たちの握る包丁の音、鍋で煮炊きする音、ペンを走らせる紙の音、キーボードを叩くパソコンの音、土を耕す音、すべての営みから響く音が神を賛美するものでありますように。

2021年6月13日日曜日

2021年6月13日(詩編147)

詩編147
馬の勇ましさを喜ばず
人の健脚も望まない。
主はご自分を畏れる人々を
その慈しみを待つ人々を望む。(10~11節)

神さまの基準は、私たちの常識とはかけ離れていると思います。馬の勇ましさも人の健脚も、軍事的な強さを保証します。軍事的な強さは、そのまま、地政学的な安全に直結します。21世紀でも似たようなものでしょうが、この時代はなおのこと軍馬や兵士の力が命に直結する大問題であったはずです。それなのに、言うのです。「馬の勇ましさを喜ばず、人の健脚も望まれない。」言うまでもなく、誰が喜ばないのか、誰が望まないのかといえば、神さまです。神さまは、勇ましい軍馬の力強さ、健脚な人の体力、そのようなものを望まないのだ、と言うのです。常識外れです。私たちの神さまは、規格外の方です。
この問題は、新約聖書の時代になると、割礼の問題というかたちになりました。割礼は旧約聖書の最初の頃には神さまの契約のしるしとして重要な意味を持ちました。ところがやがてユダヤの民族性の象徴となり、新約聖書の時代には、他の人を退ける閉鎖性のしるしになりました。そして、割礼を受けている自分というふさわしさが一番大事になってしまい、神さまの入る余地がなくなってしまった。と、このように説明をすると、割礼は問題だと多くの人が感じると思います。ところが当時のユダヤ人からしたら、自分たちのアイデンティティそのものです。神さまを信じてきた自分たちの信心の証しです。当然のこととして、大切なもの。それが常識でした。ところが、救いは割礼によらないと聖書は言うのです。ただ神の恵みによってのみ。ただ信仰によってそれを頂くのみ。軍馬も兵士も割礼も、人間の力が人間を救うということが共通しています。しかし神さまはそれを退けられます。神さまは規格外、私たちの常識の外におられるのです。
ですから、今朝の詩編は言います。「我らの主は大いなる方。力に富み、その英知には限りない。」神さまの英知が私たちの英知と異なり、もっとすばらしく偉大であるのは、考えてみれば当然のことです。しかし私たちはついつい自分の常識を神さまに押しつけようとします。馬の勇ましさも人の健脚も、神さまも認めてしかるべきだと思ってしまう。しかし、神さまは私たちを人が見るようにはご覧になりません。「主はご自分を畏れる人々を、その慈しみを待つ人々を望む。」神を畏れ、神の慈しみをこいねがう者を、神さまは決して軽んじられないし、そういう者を喜んでくださる。私たちは神の慈しみに信頼し、このお方を待ち望みます。

2021年6月12日土曜日

2021年6月12日(詩編146)

詩編146
幸いな者、ヤコブの神を助けとし
  望みをその神、主に置く人。
天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り
  とこしえにまことを守る方。
虐げられている人のために裁きを行い
  飢えた人にパンを与える方。
主は捕らわれ人を解き放ち
主は見えない人の目を開き
主はうずくまる人を立ち上がらせ
主は正しき人を愛し
主は寄留の者を守る。
みなしごややもめは支えるが
悪しき者の道は滅びに至らせる。(5~9節)

主なる神様は、この世の虐げられている人を、この世と一緒になって虐げるようなことを決してなさらない。天と地と海と、そこにあるすべてのものをお造りになった方は、虐げられた人、飢えた人を心に留め、連帯する方です。捕らわれ人、見えない人、うずくまる人、正しき人、寄留の者、みなしごややもめ。彼ら彼女らは人間の歴史の中で、ずっと軽んじられてきました。特に現代のような生産性やスピード、成果で人間の価値がはかられる時代にはなおのことです。
3節に「諸侯を頼みとするな」とあります。今の私たちの生活に即して言えば、社会の中で身分の高いお金持ちや社会的地位のある人、有名な人、実績を上げている人、皆に注目されている人、といったところでしょうか。誰もが無意識に重んじ、近づきたいと思う人々。聖書の基準からすると、彼らを愛したところで何のよいことにもならないのだと思います。彼らは愛しやすいからです。愛への報いを期待できるからです。それに対して虐げられている人々はお返しをすることができないのです。
神さまの愛は、お返しができない人への愛です。だから、神の愛を「恵み」と言います。恵み深い神は軽んじられている人共にいます。この恵み深い愛によって、私も生かされている。それが真実なことです。

2021年6月11日金曜日

2021年6月11日(詩編145)

詩編145
主は恵みに満ち、憐れみ深く
怒るに遅く、慈しみに富む方。
主はすべてのものに恵み深く
その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。(8~9節)

高らかな賛美、主なる神様をほめたたえる賛美の声が上げられています。

わが神、王よ、あなたを崇め
代々とこしえに御名をたたえます。
日ごとにあなたをたたえ
代々とこしえに御名を賛美します。(1~2節)

代々とこしえに、と言っています。かつての神の民が賛美を献げ、今私たちも神を礼拝している。そしてとこしえに、私たちの後の世代も神を崇める。しかも「日ごとに」です。日ごとに神を賛美する喜びにあずかる。昨日もそうであり、そして今日も。神を賛美することで力を受けて生きていきます、という神さまへの信仰の告白です。
それは、主の恵みと憐れみによって始まります。私たちの信仰の出発点は、いつでも神さまの恵みと憐れみです。私たちの信心深さや宗教的な求めが出発点にあるのではありません。私たちの真剣な問いや人生への疑問が私たちを神さまへと導いたというのでもありません。私たちの内にも何らかの求めはあるでしょう。しかしその求めを呼び起こしたのは神さまの御声であり、神の憐れみによって私たちは神さまに向かっているのです。
この憐れみによって、私たちは生きていきます。神の憐れみは、神さまが「怒るに遅」いことに表されています。神さまが短気な方でいらしたら、私はもう生きてはいないでしょう。主は忍耐して、私をまだ生かしてくださっている。神の憐れみが私に命を与えてくださっています。
このお方を賛美し、崇め、神の御前に今日の日を生きる。それが私たちの願いです。「願わくば、御名を崇めさせたまえ」こそ、私たちの祈りです。

2021年6月10日木曜日

2021年6月10日(詩編144)

詩編144
主よ、人とは何者なのか
  あなたがこれを知るとは。
人の子とは何者なのか
  あなたがこれを思いやるとは。
人間は息に似ている。
その日々はさながら過ぎゆく影。(3~4節)

人とは何者なのか、と驚きの声を上げています。主が知ってくださり、思いやってくださっているという事実に驚いています。人間は本来は息のように消えていく存在。小さな、本当に儚い、弱い存在です。
5節からのところを見ると、神さまがお造りになった自然世界が描写されています。山々、稲妻、大水。それらは本当に大きくて圧倒的です。ましてこのような世界を造り、支配しておられる神さまについては想像することさえできないほどの方です。そんな神さまが人を知り、人の子を思いやってくださる・・・。人間は小さく弱い、儚い存在に過ぎません。しかしその弱くて儚い人間は、神がこれを覚え、思いやってくださる存在でもあります。その恵みの事実に圧倒され、言葉を失っている。それがこの詩編なのではないでしょうか。
ですから言うのです。「神よ、私はあなたに新しい歌を歌おう」と。神さまをほめたたえ、賛美の歌を献げます。神さまがこの私のことをも心に止めてくださり、思いやってくださる恵みの事実に圧倒され、この口にはもはや賛美しか上ってこないのです。

幸いな者、このような民は。
幸いな者、主を神とする民は。(15節)

主を信じる者の幸い、それは神の恵みに圧倒されることです。圧倒的な恵みによって私たちを愛してくださる方に栄光と誉れがありますように!

2021年6月9日水曜日

2021年6月9日(詩編143)

詩編143
私は過ぎ去った日々を思い起こし
あなたの行ったことを一つ一つ思い返し
御手の業に思いを巡らします。
あなたに向かって両手を広げます。
私の魂は荒れ果てた大地のように
  あなたを慕います。(5~6節)

朝に、あなたの慈しみを聞かせてください。
私はあなたに信頼しています。
歩むべき道を知らせてください。
私はあなたに向かって魂を高く上げます。(8節)

この詩編は敵が追い迫り、自分の命が地に踏みにじられ、霊は萎え果て、心がおののく人の祈りの言葉です。苦しみ、嘆きながら、神さまを呼び求めています。神さまに救いを求めて叫んでいます。
「私は過ぎ去った日々を思い起こし」ます、と言います。ただ昔を懐かしむというのではありません。神さまの御業を思い起こすのです。何のために思い出すのか。昔はよかったけど今は違うと言って絶望するのではありません。そこに現れた神の慈しみを確認し、神さまをなおのこと慕い求めるのです。神さまに救いを求めて、祈るのです。そういう切実な祈りの言葉が、この詩編です。
「朝に、あなたの慈しみを聞かせてください」という言葉が私は好きです。きっと、この詩編は夜の祈りなのでしょう。眠ることのできない思いで一日を振り返り、顔を思い出したくもない相手のことで頭がいっぱいになってしまう。そんな心を神さまの恵みと慈しみに向けるのです。そして床に就き、朝を迎えたときにはあなたの慈しみを聞かせてください、と祈ります。祈りながら寝ます。「私はあなたに信頼しています。」なぜなら、神さまの慈しみはどんなときにも絶対だからです。私が悲しんでいるとき、神さまのことを忘れてしまっているときでさえ、神さまの慈しみに変わるところは一切ない。そのことを信頼し、床に就くのです。
今日、私たちを夜を迎えたとき、同じように祈って床に就きましょう。主が、今日もあなたと共にいてくださいますように。

2021年6月8日火曜日

2021年6月8日(詩編142)

詩編142
声を張り上げ、主に向かって叫び
声をかぎりに、主に向かって恵みを求めよう。
御前に嘆きを注ぎ出し
御前に苦しみを告げよう。(2~3節)

1節を見ると、この詩編は「ダビデが洞穴にいたとき」の祈りだ、と書かれています。ダビデが洞穴にいたときというのは、サムエル記上第24章に書かれている出来事です。当時のサウル王は若くて人望のあるダビデを恐れ、遂には迫害し、命を狙いました。王の追っ手から逃れたダビデは洞穴に隠れた。その時のことです。
自分を付け狙う者から逃げて、ダビデは祈ります。「声を張り上げ、主に向かって叫び、声をかぎりに、主に向かって恵みを求めよう」と。神さまの御前に嘆きも苦しみも注ぎだして、神さまに自分の素直な気持ちを祈ります、と言うのです。ダビデは自分をしつこく狙って危害を加えようとするサウル王に心を向けるのではなく、神さまに祈ることに自分のすべてを傾けました。「私の霊が萎え果てるときも、あなたは私の小道を知っておられる」。この道に敵が罠を仕掛けようとも、神さまがどうか私を救ってください・・・。
洞窟で祈るダビデに絶好の機会が訪れます。ダビデが奥にいるその洞窟になんと当のサウルが入ってきて、用便を始めたのです。サウルを討つなら絶好の機会、文字通りに千載一遇です。ところがダビデは主なる神様ご自身が王として立てたサウルを殺すことを良しとせず、サウルが洞窟から出たところで後ろから声を掛け、結果的にこのときはサウルと和解することになりました。
主に向かって叫び、自分の苦難を訴え、助けを求めた者の姿がここにあります。祈りを通して、ダビデの敵との向き合い方が新たにされたのです。私たちが主に向かって救いを求めるとき、私たちは変わることになります。神さまの聖なるお取り扱いを受け、私たちは新しくして頂くのです。これが私たちも招かれている聖なる体験です。

2021年6月7日月曜日

2021年6月7日(詩編141)

詩編141
私の祈りがあなたの前に
  香として供えられますように。
高く上げた両手が夕べの供え物となりますように。
主よ、私の口に見張りを置き
私の唇の戸を守ってください。(2~3節)

ヨハネの黙示録に、この詩編と響き合うような描写が見られます。「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」(ヨハネの黙示録5:8)。神さまの前に、私たちの祈りはかぐわしい香が立ち上るようにして届き、神さまがそれを聞いてくださっている。ヨハネは天に届く祈りを幻の内に目撃したのです。
「私の祈りがあなたの前に、香として供えられますように。」私たちもそのことを願いながら祈りを献げます。朝に夕に私たちは祈ります。この詩編では特に夕べの祈りのことを言っています。夕方、日が落ちるとき、私たちは神さまに祈りを献げる。夕べの供え物として私の祈りを受け入れてください、と願いつつ。
ボーレンというスイス人の牧師が、朝と夕べの祈りを教えてくださいました。使徒信条を唱える、というのです。朝には、今日会う人のことを思い、その人のために神がこのことをしてくださったと使徒信条を唱える。夕べには今日会った人を思い起こし、この人のために神がしてくださった御業を覚えて使徒信条を唱える。そういう祈りを教えてくださいました。
この詩編ではこのように言っています。「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。」この言葉の後に「私の心を悪事に向けないでください」と続いていることから、私の唇から悪い言葉が出ることがないように、神さま私の唇の戸を守ってくださいと言っているのだと思います。噂話や悪口、無責任な批判。そういった言葉から私の唇を守ってください。そのために欠かせないのが、ボーレン先生が教えてくださった祈りではないかと思います。私の目の前にいるこの人のために、キリストが何をしてくださったのか。この人を神がどんなに愛しておられるのか。そのことに気付いたとき、私たちの唇は救われるのではないでしょうか。
私たちの唇に上る言葉が人を貶めるものではなく、神さまによい香りとして献げられる祈りの言葉でありますように。主よ、私たちを試みに遭わせず、悪より救いだしてください。

2021年6月6日(詩編140)

詩編140
私は主に言いました。
「あなたはわが神」と。
主よ、嘆き祈る私の声に耳を傾けてください。
主よ、わが主よ、わが救いの力よ
戦いの日にあなたは私の頭を覆ってくださった。(7~8節)

この詩編は「邪悪な人間から私を助け出し、暴虐の者から私を守ってください」と言っているとおり、自分を苦しめる者からの解放を祈り求める詩編です。誰にでも、この詩編が解放を求めているのと同じ悩みを抱えることは起こりえます。人の悪意や敵意にさらされたり、妬みのために理不尽な怒りを向けられたりすることは、誰にでもあることでしょう。そういうときにも、私たちは神さまに助けを求めて祈るのです。「主よ、悪しき者の手から私を保護し、暴虐の者から私を守ってください」と。
人から憎しみを向けられたとき、一見するとその相手に問題があり、自分はそんな不当な要求に応じて自分を変える必要はない、と思ってしまいます。ところが神さまの前で事柄を捉え直してみたときに、むしろ本当は、自分と神さまとの問題だということに気付くことが起こる。自分を苦しめる者が変わってくれるのを待つのではなく、神さまの前で、自分は一体何者なのかと新しく問い直すのです。
「あなたはわが主」と主に言った、と最初に引用した7節で言っています。主なる神様を呼び求めることができれば、もしかしたら、問題のいちばん大きな部分は解決されてしまっているのかも知れません。神さまは必ず私たちの嘆きの声、祈りの言葉を聞いてくださいます。
13節にはこのようにあります。
「私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。」
主は、苦しむ人や貧しい人に耳を傾けてくださいます。自分ではどうする力も持たない人、ただ嘆くことしかできない弱い人を、神さまは放っておかれることはないのです。

2021年6月5日土曜日

2021年6月5日(詩編139)

詩編139
神よ、私を調べ、私の心を知ってください。
私を試し、悩みを知ってください。
御覧ください
  私の内に偶像礼拝の道があるかどうかを。
とこしえの道に私を導いてください。(23~24節)

この詩編は、主なる神様が私のすべてを知っておられることへの絶対的な信頼と、それゆえの圧倒的な安心感を歌いきったものです。私のすべてを知っておられる神さま。この方は、母の胎にいる私を知っておられた。それどころか、母の胎内に私をくみ上げたのは、このお方に他ならない。今では医療技術が飛躍的に発展しましたから、まだ母の胎にいる子どもの映像を見ることができます。技術の発展はいろいろなことを可能にしました。しかし、人間に命を造ることができると考えるとしたら、それは傲慢です。ですから「子どもを作る」という言葉は間違っています。それは神さまの領域であって、人間が自分の力でどうこうできるという考えそのものが間違っている。
命が生まれる先の話だけではありません。命の終わりについても、人間は無知ですし、無力です。ところが神さまは、私たちの命の終わりについてもすべてを知っておられます。「陰府に身を横たえようともあなたはそこにおられます」。私たちは生きているときにも死ぬときにも、神さまの手の中にいるし、私たちは神さまのものです。
12節の言葉がとても印象的です。
闇もあなたには闇とならず
夜も昼のように光り輝く。
闇も光も変わるところがない。(12節)
私たちが闇だと思っているところ、夜も死も、あるいは他の絶望も、いかなるものも神さまに比べれば闇とは言えない。どんなに深い闇であっても、神さまがお造りになったものです。闇を造った方は闇よりももっと濃い闇でもある。しかしその方が光をお造りになった。神さまの前では、夜も昼のように光を放っている。光も闇も神さまの手の中にあるからです。
私たちの心は揺れ動きます。ときに偶像礼拝の道に傾いてしまいます。偶像礼拝とは、目に見えるものや自分の考えを神さまに押しつけ、神さまが自分の期待する振る舞いをしてくれるはずだと決めつけることです。不安や悩みはしばしば偶像礼拝を生み出す。しかし、悩みの日に思い起こしましょう。神さまは私のすべてを知っておられ、昼も夜もお造りになった方だ、と。私のすべてを知っておられる方が、私の生きているときも死ぬときにも、慈しみに道が手を私から話すことは決してなさらない。そのことを信じて、神さまの御前に、今日も歩んでいきましょう。

2021年6月4日金曜日

2021年6月4日(詩編138)

詩編138
たとえ私が苦難の中を歩んでいても
あなたは私を生かし
手を伸ばして敵の怒りを防ぎ
右の手で私を救ってくださる。
主は私のためにすべてを成し遂げてくださる。
主よ、あなたの慈しみはとこしえに。
御手の業を止めないでください。(7~8節)

この詩編は、2節のところではこのように言っています。
あなたの慈しみとまことのゆえに
  御名に感謝を献げる。
神さまの慈しみとまことを覚え、神さまの御名に感謝をささげ、神さまをほめ歌う。神さまへの感謝、そして賛美。それに生きる信仰者の祈りがこの詩編です。神さまへの賛美は、神様ご自身の慈しみによって、私たちの口に生まれます。神さまの慈しみとまことに生かされていることに気付いたとき、私たちは神さまを賛美しないわけにはいかなくなります。喜びに突き動かされるからです。
神さまの慈しみに、いかにして気付くのか?「たとえ私が苦難の中を歩んでいても、あなたは私を生かし・・・」と言います。苦難から解放されたから気付くのではない。抱えていた問題が解決したから神さまの慈しみを信じるのではない。苦難の中を歩んでいても、それでも神が私を生かしてくださっているという事実を知ったとき、そこにある神の慈しみに気付くのです。神が私を敵から守っていてくださること、神の右の手が私を救ってくださっていること。苦難の中で、神の慈しみが私を覆っていてくださっていることを、知るのです。
「主は高くおられ、低くされた者を顧みる」という言葉もあります。とても印象深い言葉です。主はどんなに高くおられても、低く地面にはいつくばっている者を見逃されることがありません。必ず、神さまは低い者を憶えていてくださる。だから、私たちは身も心も低くして、神さまの栄光をほめたたえましょう。身をかがめて神を賛美するとき、神さまが私たちを引き上げてくださいます。

2021年6月3日木曜日

2021年6月3日(詩編137)

詩編137
バビロンの川のほとり
  そこに座り、私たちは泣いた
シオンを思い出しながら。
そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。
私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め
私たちを苦しめる者らが慰みに
「我らのシオンの歌を一つ歌え」と命じたから。
どうして歌うことができようか
異国の地で主のための歌を。(1~4節)

ユダ国はバビロンという国に滅ぼされました。バビロンは強大な国で、当時の中近東の覇者でした。かつてバビロンがあったのは、現在のイラクの辺りです。ユダ国の主立った者たちは遠くバビロンの地まで強制移住させられました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。この詩編はそういう捕囚民の祈りの言葉です。
バビロンに流れる川のほとりで、涙を流した。シオンを思い出して。かつて神殿で神を礼拝した日々を、皆で声を合わせて神を賛美した日々を思い出して。しかし今や、この遠い異国バビロンの地では、主を賛美する歌が、支配者の慰みにされています。宴会の芸として披露することを強要されています。何という屈辱・・・何という理不尽。かつての礼拝の日々を思い起こし、何人かの信仰者たちが川のほとりで泣いているのです。
私たちも、日本というキリスト者が超マイノリティの社会に生きていて、どこかで似たような思いをしたことがあるのではないでしょうか。信仰のために恥ずかしい思いを強いられるようなこと、神を信じる真心を馬鹿にされたこと、キリストへの愛を気味悪がられたこと、数えていけばきりがないのではないでしょうか。
バビロンの川のほとりで流された涙を、神は必ず憶えていてくださるに違いありません。私たちも、どんなときにも神を覚え、神の前に生きていきましょう。必ず、神さまは私たちを救ってくださることを信じて。キリストがこの屈辱を共に苦しんでいてくださることを確信して。
今日も、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。

2021年6月2日水曜日

2021年6月2日(詩編136)

詩編136
主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。 慈しみはとこしえに。
神々の中の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
主の中の主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
ただ一人大いなる奇しき業を行う方に。 慈しみはとこしえに。(1~4節)

私たちが低くされていたとき
  私たちを思い出し 慈しみはとこしえに。
敵から私たちを助け出した方に。 慈しみはとこしえに。
すべての肉なるものに糧を与える方に。 慈しみはとこしえに。
天の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。(23~26節)

この詩編は合唱用の讃美歌に違いないと思います。「主に感謝せよ。まことに主は恵み深い」といった上のパートを歌う者。ソリストなのか複数なのか。あるいは神を礼拝するために上ってきた礼拝者たちかも知れません。その賛美に合わせてコーラス部隊が歌うのです、「慈しみはとこしえに」と。あるいはその逆でしょうか。神殿で仕えるコーラス隊が上のパートを歌い、礼拝者たちはその声に合わせて「慈しみはとこしえに」と声を合わせて歌ったのかも知れません。いずれにしても、そのような礼拝の姿を想像するのは楽しいことです。私たちも同じ神さまを礼拝している。同じ神の慈しみをほめたたえ、同じ神の前に膝をかがめているのです。なんとすばらしいことでしょう。
この詩編では、5節から22節までで、神さまが天と地とすべてのものをお造りになり、エジプトから救い出し、荒れ野の旅路を導いて約束の地を与えてくださるまでのことが歌い上げられています。聖書の歴史をそのまま讃美歌にしています。こういう聖書の歴史のことを、「救済史」と呼びます。神さまが私たちを救ってくださる、救いの歴史のことです。救済史を想起し、神を賛美する。
私たちはこの歴史の続きを知っています。やがて彼らは罪に罪を重ねて破滅し、バビロンに連れて行かれ、しかしそこから解放されました。約束の地に帰って神殿を再建し、神を礼拝します。そして、預言者たちが告げた救い主を待ちました。やがて、一人のおとめが身ごもり、生まれた男の子。この方が救い主メシアであって、罪を犯したことがないのに罪人の手にかかって十字架にかけられ、三日目に復活し、天に上り、聖霊をおくって教会を生み出しました。この方は世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。私たちも、救済史の一部を生きているのです。私たちもこの歴史を想起し、神を賛美します。
それは、神が私たちの弱いときに私たちを救ってくださったからです。私たちが強く、見込みがあり、いい人だから救ってくださったのではありません。何の値打ちもない私たちのために独り子イエスを与え、値なく私たちをご自分のものとしてくださいました。この神の慈しみが、とこしえにあなたにありますように。昨日そうであったように今日も、そして明日も。

2021年6月1日火曜日

2021年6月1日(詩編135)

詩編135
ハレルヤ。
賛美せよ、主の名を。
賛美せよ、主の僕たちよ
主の家に
我らの神の家の庭に立つ人たちよ。(1〜2節)

主の家、神の家の庭に立つ人たちに向かって言います。「賛美せよ、主の名を」と。私たちも神を礼拝するとき、神の御前に祈りを献げるとき、主の家にいます。神の家の庭に立っています。私たちも神を賛美し、主の名を心を合わせてほめたたえます。まことに恵み深い主をほめたたえ、その名の麗しさを喜び、私たちがこの方の宝とされたことを誇ります。私たちは主のもの、その民です。主に養われる羊の群れです。だから、私たちは主を賛美し、神をほめたたえるのです。
この方にまさるものは何もありません。この世にどんなにたくさんの神々と言われるものがあったとしても、主に並び立つものなどありはしない。天と地と海と、そこに満ちるすべてのものをお造りになった方、今もそれらを支配しておられる方。この方を賛美するとき、私たちは世界とつながるのです。

国々の偶像は銀と金
人の手が造ったもの。
口があっても語れず
目があっても見えない。
耳があっても聞こえず
口には息もない。
それを造り、頼る者は皆
偶像と同じようになる。(15~18)

天と地と海をお造りになった神に対し、偶像は人間が作ったものに過ぎない。語ることも見ることも聞くことも息をすることさえもできない。いちばんの問題は「それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる」ということです。偶像に頼れば偶像のようになる。言葉を失い、見ることも、聞くこともできない。息もできなくなる。言葉から言葉としての意味を失われ、見たいものしか見ず、聞きたい言葉しか聞こうとしない。最後には息も詰まってしまう。そういう現代社会の姿をここに見ないわけにはいかないと思います。今こそ神に立ち帰り、神の前にへりくだり、神を礼拝する。それこそ、私たちが人間らしく生きる道なのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...