2023年9月23日土曜日

2023年9月23日の聖句

恥じるな、あなたが辱められることはない。(イザヤ54:4)
(パウロの手紙)私自身はすでに捕らえられたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けることです。(フィリピ3:13)

今日の旧約聖書の御言葉ですが、「あなたが」と語りかけられていますが、文脈を見てみると具体的な意味を持ったもののようです。つまり「あなた」について、一節には「喜び歌え、子を産まなかった不妊の女よ」という呼びかけがあります。この言葉の舞台となった古代ユダヤの社会は、現代の日本社会とは全然違う価値観や常識で動いていました。子を産むということの意味は、今とは全然違っていたようです。子を産まない女性が屈辱を受ける社会でした。
ところが、神様はおっしゃいます。「恥じるな、あなたが辱められることはない。」なぜなら、主なる神ご自身があなたの夫だからだ、と言われるのです。神ご自身があなたの夫となってあなたを妻として迎えてくださる。だから、あなたが辱められることはない。主はあなたをご自分の妻のように、心痛めるほどに求めている。そのように言うのです。
これは、私たちへの御言葉です。私たちが現代の社会的常識の中で恥ずかしかったり、屈辱的な思いをさせられたりするとき、神様はそれをご覧になって一緒に見下げるようなことはなさいません。私たちの味方でいてくださる。私たちをご自分の妻として迎えてくださる方は、私たちの味方となって私たちを守り抜いてくださいます。
だから、私たちは後ろのものを忘れる。私たちを縛り付けるこの世の価値観や皆が礼賛するすばらしいものを捨て、私を愛し、私をご自分の妻と呼んでくださる主なる神様の御許に戻ります。前のものに全身を向ける!
神様は私たちを祝福するために、私たちを見つけ出してくださいました。ただキリストを一心に見つめ、キリストに向かって、今日の日を生きていきましょう。

2023年9月22日金曜日

2023年9月22日の聖句

見よ、あなたが、知らない国民に声をかけると
あなたを知らない国民があなたのもとに走ってくる。
これは、あなたの神、主のため
あなたに栄光を現した、イスラエルの聖なる方のためである。(イザヤ55:5)
私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。(エフェソ3:14~15)

すべての家族と呼ばれるものの源は、父なる神様だと言っています。考えてみれば壮大なスケールの言葉です。この世界には無数の家族があります。世界中、どのような地域や時代を見たとしても、その形は多様でしょうが、家族は存在するに違いないと思います。社会を構成する最小単位とも言われます。そのようなあらゆる家族の源は、父なる神様に他ならない。なんと力強い言葉であろうかと思います。
今日の旧約聖書では、例え相手が知らない国民であろうと、主なる神のために走ってくると言っています。ここでもやはり神があらゆるものの主であるということが力強く宣言されています。
私たちは、まだこの御言葉を目に見える形では見ていません。神様の御許にあらゆる人が走り寄る様子はまだ見ることができていないし、家族にも神の愛とは無関係の疵がたくさんあることを目の当たりにしています。しかし私たちは、聖書の福音を信じています。神様がすべての人、すべての家族をご自分のものとしてくださり、ご自身の愛の中に育んでくださることを私たちは信じる。この世界にあるあらゆる「愛」と呼ばれる関わりが、神の愛の中で、真実に愛にふさわしい関係となりますように。この世界のあらゆる人が、父なる神様の祝福の内に家族の喜びにあずかることができますように。この世界のすべての人が、主イエス・キリストの恵みによって今日も守られますように。あなたの今日一日のために、祈っています。

2023年9月21日木曜日

2023年9月21日の聖句

あなたは私を畏れ、懲らしめを受け入れる。(ゼファニヤ3:7)
イエスは神殿の境内に入り、商売人たちを追い出し初め、彼らに言われた。「こう書いてある。『私の家は、祈りの家となる』と。」(ルカ19:45~46)

神に祈るべき場所であった神殿を商売の場所としてしまった人々をご覧になって、主イエスは激しく怒りました。商売人たちを追い出した。商売をしている机をひっくり返し、縄で鞭を造って羊や牛も追い払ってしまいました。激しい怒りです。私たちの抱いている主イエスのイメージとはうまく重ならないような気さえしてしまいます。
しかし主イエスご自身がどのような思いでいらしたのかということを、もしかしたら私たちはあまり考えようとしなていないのかも知れません。ルカによる福音書を見てみると、主イエスがエルサレムに入り、最初にあったのがこの出来事でした。主イエスはエルサレムに上る途上、ご自分が十字架にかけられることを深く考えておられた。いよいよエルサレムに入り、最初に神殿がもはや本当に祈りの場ではなくなってしまっている惨状を目の当たりになさった。その思い、いかばかりでしょう。私などには想像もできないことですが、どんなにか悲しい思いでいらしたことかと思います。
確かに、私たちの抱いている主イエスのイメージとは重ならないかもしれない。しかし、そこまで激しくせざるを得ない主イエスのお心にも、私たちはほんの僅かにでも心を向けなければならないのだと思います。
「あなたは私を畏れ、懲らしめを受け入れる」と今日の旧約の御言葉にはあります。自分の過ちを糺し、軌道修正を迫る主の懲らしめを受け入れる準備が、私たちにはあるでしょうか。私たちにとっては苦しいことです。しかし時に、主はそのようにして私たちのあり方を問い、生き方の方向転換をお求めになるのだと思います。主を畏れ、へりくだって、御前に悔い改める私でありたいと願います。

2023年9月20日水曜日

2023年9月20日の聖句

力ある拠り所は主を恐れることにある。(箴言14:26)
誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、餓えか、裸か、危険か、剣か。(ローマ8:35)

北鎌倉駅のすぐ側に東慶寺というお寺があります。かつては男子禁制の縁切り寺だったそうです。夫からひどい暴力を受けるようなことがあってそこに逃げ込むと、決して夫をそこに入れることはせず、その人を守ってくれた。今で言えばシェルターの役割を果たしていました。
この東慶寺の宝物に葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱という小さな円筒型の器があります。これはもともとはカトリック教会のミサでご聖体を入れるための器物でした。ご聖体、私たちの言葉で言えば、聖餐のパンのことです。聖餐の器具がなぜお寺に収蔵されているのか。
かつて鎌倉には被差別部落がありましたが、そこでキリシタン伝道がなされました。その後のキリシタン弾圧の時代に、どうやら現地のキリシタンたちを東慶寺が匿ったようなのです。そのような経緯で、聖餐のための器具が東慶寺に預けられることになり、今に至るそうです。お寺がキリシタンのための逃れ場になった。不思議な奇跡です。
主なる神様は私たちの逃れ場になってくださいます。信仰のゆえに、あるいは性別を理由として受ける迫害や差別。あるいは他の理由で受ける痛みや嫌がらせ。あらゆる助けを必要としている人のための拠り所に、主なる神様ご自身がなってくださる。だから、この神の愛、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もないのだ、と聖書は宣言します。その事実が私たちの慰めであり、励ましです。私たちは神様の御前で生きる。神と共に。例え神の助けの手が見えないときにも、神はおられないのではないかと疑いたくなるときにも、それでも神を信じ、私たちは大胆に生きます。見えない神を信じて。キリストの愛から私たちを引き離すものは何もない。私ではなく、キリストの愛の確かさが私たちの拠り所です。

2023年9月19日火曜日

2023年9月19日の聖句

民よ、どのような時にも神に信頼せよ。
御前に心を注ぎ出せ。
神は我らの逃れ場。(詩編62:9)
その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。(ルカ6:12)

夜を徹して祈る主イエスさまのそのお姿。それは、神に信頼し、御前に心を注ぎ出すお姿です。この祈る姿を私の姿としたい。切にそう願います。
旧約聖書や新約聖書の信仰者たちも、それ以降のこの2000年間の信仰者たちも、神さまを信頼し、祈ることで信仰生活を営んできました。神様が私たちの逃れ場でいてくださるからです。私たちには毎日いろいろなことが起こります。逃げ出したくなることもたくさんあります。心配事で心が埋もれてしまえば、息をするのも苦しくなります。一体どうしたら良いのか分からなくなってしまう。そんなとき、思い出しましょう。神様こそが私たちの逃れ場でいてくださいます。神様の御前に、祈ることに、私たちは逃れて良い。そうしたら神様が風を送り、息をつかせてくださるでしょう。ご自分の霊によって私たちに命をくださるでしょう。私たちの狭くなってしまった視野を広げてくださることでしょう。私たちは神に祈ることによって息をし、命を得ているのです。
主イエスさまのところには日夜たくさんの人が押しかけて、自分たちの窮状を訴え、助けを願っていました。人の痛みや傷を引き受けるというのは大変なことです。主イエスさまもお疲れになったことだと思います。主は、そんなときに祈られました。祈りに打ち込んで、神様の御前に心を注ぎ出しました。そして、聖書を開いてみると、この祈りに続いてなさったことは、12人の弟子を選んで使徒と名付けるということです。ご自分の業を弟子たちに分与なさった。そしてやがてこの使徒を中心として教会が生まれ、私たちにまで至ります。私たちはキリストの祈りによって生み出された群れです。
だから、私たちも祈ります。祈りつつ、隣人の痛みや呻きに向き合います。どうして祈ることなくしてそれが可能なのか。主が私たちの逃れ場です。主の御前に、私たちは共に歩んでいくのです。

2023年9月18日月曜日

2023年9月18日の聖句

見よ、すべての命は私のものである。(エゼキエル18:4)
(パウロの手紙)私はあなたに第一に勧めます。願いと祈りと執りなしと感謝とをすべての人のために献げなさい。(1テモテ2:1)

「私はあなたに第一に勧めます。願いと祈りと執りなしと感謝とをすべての人のために献げなさい。」私たちが今年、教会の主題として与えられている御言葉です。祈ることを私たちの目標として掲げています。私たちが祈るのは、神様が祈るべきお方であるからです。このお方に祈ることにはかけがえのない意味がある。そして、このお方は私たちの祈りを待っていてくださるお方です。
「見よ、すべての命は私のものである」と神様は宣言なさいます。神様は私たちを脅かしたり、痛めつけたりするために私たちの命を治めておられるのではありません。このお方は考えられないほど深い愛に満ちたお方です。私たちを救い、私たちを生かすために、すべての命をご自分のものとしておられる。だから、私たちはほかの誰でもなく、この神様に祈るのです。
私たちの祈りは、その点で間違ってしまうことが間々あります。私たちの祈ることそのものの姿勢が、この神様の完全な憐れみと愛とに信頼しているか、ということがいちばん大切な点であると思います。神様に向かうこと、自分を超える神様のご慈愛に身を傾けること、それが「祈る」ということです。
しかもその祈りを「すべての人のために献げなさい」と言われています。私たちはただ自分のために祈るだけではなく、他者のために祈る恵みに招かれている。私たちは隣人のために祈る喜びに招かれています。この人のためにも、神は慈しみ深い父でいてくださる。その事実を信じ、私たちは今日も祈りをします。「天にまします我らの父よ!」と。

2023年9月17日日曜日

2023年9月17日の聖句

今週の聖句:
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

今日の聖句:
都に住む者はだれも病を訴えることはない。都に住む民は罪を赦される。(イザヤ33:24)
(キリストの言葉)恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。(黙示録1:17~18)

神様がお造りになったこの世界は、今、完成に向けて進んでいます。この世界には初めがあり、終わりがある。終わりがいつのことなのか私たちには分かりません。しかしやがて、すべてが完成する日が来る。私たちはそのことを信じています。
終わりがあるというと、恐ろしげな雰囲気が漂ってきます。しかし聖書の言う終わり、完成は、キリストの救いが完成する日、ということです。おどろおどろしくて恐ろしい終わりが待ち受けているのではなく、イエス・キリストの愛の支配が成就する日。それが聖書の伝える完成の時だと思います。
「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。」主イエス・キリストは死と陰府の鍵を持っておられる、とあります。死は、私たちを支配する圧倒的な力です。死の恐怖が私たちを縛り付けて、この世のあり方も歪めます。主イエスご自身、そういう人間の歪んだ心によって殺されました。ところがその主イエスが今や死と陰府の鍵を持ち、これを支配しておられる。キリストは十字架にかけられ、復活し、私たちのために命の道を拓いてくださいました。今日、日曜日は、このキリストの命を祝う日です。私たちはキリストにあって、死に勝利して喜びの賛美を歌います。
主イエス・キリストにあって、今日、平安の中に生きていきましょう。キリストこそ私の救い主、私たちの救い主。私たちを死と罪の力から解き放ってくださる方。この福音の中に、私たちは今日も生かされています。

2023年9月23日の聖句

恥じるな、あなたが辱められることはない。(イザヤ54:4) (パウロの手紙)私自身はすでに捕らえられたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けることです。(フィリピ3:13) 今日の旧約聖書の御言葉ですが、「あなたが」と語りかけられていま...