2018年9月19日水曜日

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言葉に生きること、それ自体が喜びだから。私を神に向けさせ、神の御前に私を連れ戻すから。「私の道は御前にあるとおりです」と言うとおりに。

2018年9月16日日曜日

コリントの信徒への手紙一3:1-9「自分の本性に立ち帰れ」

 「兄弟たち」という呼びかけから始まっています。パウロの、愛を込めた呼び声です。愛と情熱を込めて、この手紙を読む者たちに、何とかキリストの福音に帰ってほしいと呼んでいます。ここでパウロが書くのは、とても厳しい言葉です。コリント教会に向かって、あなたたちはまるで乳離れできていない赤ちゃんのようだ、と言います。ひどい侮辱だと思われかねません。しかし、そこまで厳しい言葉であっても言わないわけにはいかない。信仰の命にかかわるからです。兄弟たち、キリストの許に帰ろうと呼びかけているのです。
 乳飲み子は、まだ固い物を食べられません。今、わたしの娘は離乳食を食べています。少しずつ固いものに変わっていきます。やがて乳離れして、自分で必要な栄養を食べるようになっていくのでしょう。子どもの成長、特に肉体の成長は目に見えやすい。しかし、私たちの心の成長、信仰の成長はどうなのでしょう。コリント教会の人々が、ほ乳瓶を加えて礼拝に来ていたというわけではもちろんありません。ねたみや争いがあった、わたしはパウロに、わたしはアポロにと言って党派争いをしていた。そういう生き方に現れてくる信じ方は、成長できていない子どものままだというのです。人間が集まれば、必ず生まれるのがねたみや争いです。学校に行く子ども同士でも、PTAにいる親でも、職場の人間関係でも、隣の家の人が相手でも、人の芝生は青く見えます。私たちは比較の世界で生きています。教会でだって、私たちはねたみや争いを経験する。教会こそ、その問題で傷ついている。その証拠に、日本の人口1%にも満たないキリスト者に対して、一体どれだけたくさんの教派に分裂を繰り返してしまったことでしょう。そのようなこと一つを取ってみたとしても、パウロは私たちの仲間割れを見て、それでは「ただの人として歩んでいる」にすぎないと言うのです。パウロはコリント教会の初代牧師で、福音の真理を教えてくれました。アポロは都会のインテリで、教養に溢れ弁論に優れていました。そういう指導者たちの中からお気に入りを見つけて党派争いをしているときに、教会から一体何が失われているのか?5,6,7節を見ると、主が、神が、神が、と繰り返し神さまのお働きに目を向けさせようとしていることに気づきます。私たちが人の魅力や厭なところに目を奪われたとき、実は私たちの内で働いてくださっている神さまを見失っているのです。
 パウロは父とか固い食物とか言っていました。これらは、何を意味しているのか?言い換えれば、パウロが語り続けてきた福音は、一体何でしょうか?それは、言うまでもなく十字架のキリストです。十字架の言葉です。私たちは、十字架にかけられた方を食べるのでなければ、神を信じ続けることができないのです。私たちの目は、どうしても人間の魅力や自分の好みに合わない人の厭なところにばかり吸い寄せられてしまいます。しかし、パウロは神さまにあって、自分のことや人のことを見ることを知っていました。神の同労者としてのわたし。神の畑、神の家としてのあなたたち。そう。私たちはキリストにあって神の畑なのです。豊かな実を結ぶ神の畑。キリストの和解の実を結ばせ、私たちがそれに生きるために、神は十字架の言葉を聞かせてくださっています。

2018年9月12日水曜日

詩編第119編153から160節「主よ、命を得させてください」

「わたしに代わって争い、わたしを贖い、仰せによって命を得させてください。」私たちがすることは、多くの場合は逆ではないだろうか。神に代わってわたしが争い、神に自分の言うことを聞かせようとする。不遜だが、それが私たちの実際のところではないか。「迫害する者、苦しめる者」を前にしたとき、わがままな自分の正体が暴かれてしまう。「主よ、慈しみ深く、私に命を得させてください」と祈るばかりである。ここにしか救いはない。

2018年9月9日日曜日

マルコによる福音書5:24b〜34「あなたに出会いたい!」

 この人は、この時一体何歳だったのだろう。それは分からない。しかし、実に12年間もの間、病に苦しんできた。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしたが何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」ここまで彼女が重ねてきた期待と失望、絶望、諦め、そのようなものを思わせる一文だ。病は、体も心も攻撃する。疲弊する。彼女も、そして恐らく彼女の家族も、疲れ切っていたのではないだろうか。いや、彼女に家族がいたのかどうかも分からない。彼女を支え、共に痛んでくれる人がいればと願うばかりだが…どうだったのだろう。一つ言えるのは、彼女の病は、当時の社会では「汚れ」と見なされており、タブーとして扱われていたと言うことだ。つまり、社会生活から疎外されていたことが推測されるのである。肉体の苦しみと並ぶ、もしかしたらそれ以上出会ったかも知れない彼女の苦しみが、そこにあったのではないかと思う。どうだろうか。
 彼女は、そんな自分を、主イエスなら救ってくださるに違いないと考えた。いや、「感じた」といったほうがもしかしたらいいのかも知れない。理屈ではなかったのではないだろうか。実は、25から27節は原文ギリシア語のテキストを見ると、一文で言い表されている。「女がいて、医者にかかって、苦しめられ、何の役にも立たず、悪くなるだけで、イエスのことを聞いて、群衆に紛れ込み、イエスの服に触れた。」最後の「触れた」に、すべてが向かっている。彼女の救いへの一縷の望みを託す指先に物語がフォーカスしているのだ。そして、彼女が触れると、すぐに彼女は癒された。彼女は、「救われた」と思ったのではないだろうか。
 しかし、主イエスはそうお考えにはならなかったようだ。イエスは御自分に触れた彼女の指に気づき、立ち止まって、今触れた人を探そうとなさる。しかし、誰もいないところで彼女が一人で後から触れたわけではない。大勢の群衆が後から詰めかけて、たくさんの人がイエスに手を伸ばしていた。弟子たちもあきれたのだろう。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」イエスにそう言ったのだ。なぜなら、このとき一行は急いでいたのだ。会堂長ヤイロの娘が危篤で、早く来て娘を救ってくださいと懇願されてそこに向かう途上での出来事だったのだ。イエスは、なぜ、非常識とも思える振る舞いをしたのか?なぜ、こんなに急いでいるときに立ち止まり、押し迫る群衆の中のたった一人を見つけ出そうとしたのだろうか?
 28節に彼女が、イエスに触れればいやして頂けると思ったとある。実はこの「いやす」は原文ではむしろ「救う」という字である。しかし、29節で「病気がいやされた」の方は文字通り「いやす」を意味する別の動詞だ。彼女にとっては病気の回復が救いだった。しかし、イエスはそうでなかった。病がいやされること以上に、彼女が神と出会うことを救いと考えておられた。だから、彼女がイエスの探索に応えて名乗り出たとき、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。イエスとの出会いが人間を救う。イエスはあなたとも出会いたいと願っておられるのである。

2018年9月5日水曜日

詩編第119編145から152節「主は近くいてくださる」

「悪だくみをもって迫害する者が近づきます。」それは、どんなに恐ろしいことだろう。自分に悪意を持つ者がどんどん近づいてくる。身が固くなる。しかし、この信仰者はもう一つの現実を見ている。「主よ、あなたは近くいてくださいます。」自分を敵と見なす者が近づいても、神はなおのこと近くにいてくださる、もうすでに。その確信があるからこそ、言うのだ。「心を尽くして呼び求めます」と。大胆に祈れるのは、神を信じているからだ。

2018年9月2日日曜日

コリントの信徒への手紙一2:10-16「神の深みを究めて」

 「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。」と今朝の聖書の御言葉は始まっています。「そのこと」と言っているのは、神の知恵、すなわちイエス・キリストが十字架にかかり、私たちを罪と死から救ってくださったことです。そのことを、神がご自身の霊、聖霊によって私たちに明らかに示してくださった。そのように言います。なんと輝かしく、宝のような言葉なのでしょう。その輝きに目がくらみます。なぜなら、私は全くそれに値しない者だからです。自分に幻滅することの繰り返しです。自分の愛のなさや優しくない自分。疲れて、自分勝手な本性が顔を覗かせる。ハイデルベルク信仰問答は、神を愛し、隣人を愛するようにという聖書の教えに背く自分は、悪くさかさまで、惨めだと言います。その通りです。愛をもって生きられない私の惨めさに気づく度に、本当に辛くなります。しかし、そんな私に、神さまご自身が知らせてくださいました。こんな私のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった、と。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と書かれているとおりです。
 それを知らせてくださったのは、神さまご自身の霊の働きだと言います。いくつかののことが言えると思います。まず、私が私のことをどんなに否定し、クリスチャンとして生きるのにはふさわしくないと否定したとしても、神が明らかに示してくださっている以上、私には自己否定の余地がないのです。神さまは私たちが自分で自分にバツをつけることをお喜びにはなりません。
 そして、神さまご自身の霊が示してくださっているのであるなら、それは私たち人間の願望の東映ではない、ということです。神さまなんて言っても、結局は人間の願望の東映にすぎない、人間がつくったものにすぎないと批判されることもあるかもしれません。しかし、聖書はそうではない、と主張します。私たちの願望が神をこしらえたのではなく、神が示してくださったのだ、と。
 どういうことか?12節に世の霊と神からの霊という言葉があります。私たちは、このいずれかによって生きています。世の霊は世にあるものを求めます。最近、いろいろなスポーツ指導者の問題がいくつも話題になりました。心身共なる向上を目指すべきスポーツ界の不祥事に世間の耳目が集まりました。しかし、そこで求められていたものは何でしょうか?立場、お金、権力、…、どう言い表すにしても、この世にあるものです。あの不祥事は私たちの社会の求めの縮図です。しかし神の霊が示すのは、十字架のキリストです。薄汚い罪人のためにへりくだり、磔にされて死んだ人のことです。それは、私たちの願望が造り上げようのない神さまのお姿ではないでしょうか。
 「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と言います。十字架のキリストの思いを頂いて、私たちが出会う人への愛を、聖霊はこの私にさえも与えてくださいます。

2018年8月29日水曜日

詩編第119編137から144節「正しさを神にお返しする」

「主よ、あなたは正しく、あなたの裁きはまっすぐです。」この言葉を、忘れないでいたい。正しいのは私、私の裁きはまっすぐと知らぬ間に思い込んでいるからだ。これまでの人間の歴史でどれほど多くの宗教戦争を含む争いが続いてきたことだろう。「正しいのは私」という確信が「主は正しい」というお面をつけている。「わたしは若く、侮られていますが、あなたの命令を決して忘れません」という謙遜を身にまといたい。主に正しさを返したい。

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言...