2019年12月12日木曜日

2019年12月12日(アモス書6〜7)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録12、アモス書6~7

アモス書6~7;
ここには預言者アモスが見た幻の内の三つが記録されています。どれも、神の民に対する裁きの幻です。最初と二番目は、アモスの執りなしによって、裁きが思い直されていました。ところが、第三になると、「見よ、私は、わが民イスラエルのただ中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない」(7:8)と告げられています。裁きの時が来た、と宣告されている。
裁きを宣告する言葉、罪を指摘する言葉、そのような言葉は、聞く者にとっては耳障りです。できれば聞きたくない言葉です。ですから、祭司アマツヤは、アモスについて、王ヤロブアム二世に言いました。「イスラエルの家のただ中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません」(10節)、と。そして、アマツヤはアモス地震に対して、この国から出て行けと言います。
アマツヤは正直な人です。厳しい言葉なんて誰も聞きたくはない。彼はそれをはっきりと退けました。これに対してアモスは言います。「主が羊飼いの群れを追っている私を取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と私に言われた。今、主の言葉を聞け。あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを語るな』と言う」(15~16節)。アマツヤはアモスに語るなと命じます。しかし、アモスは語らないわけにはいかない。なぜなら、神が語れと命じられたからです。「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられよう」(3:8)。神が語られるのだから、それがどんなに話しにくいこと、受け入れられないであろうことであったとしても、語らないわけにはいかない。それが自然なことだ、とアモスは言います。
アマツヤは自分の気持ちに正直な人でした。しかし、アモスは神様に対して正直な人でした。人間として自然な生き方をしたのは、アモスではないでしょうか。神に向かって生きることこそ、私たちの本当に自然なあり方ではないでしょうか。

箴言11:23~31「私の実りは?」


「神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。」私は、一体どのような実を結ぶ木なのだろうか。他者を生かし、その舌を喜ばせる実をつけるのだろうか。隣人の魂をとらえ、主なる神の御許へと共に進み出るものなのだろうか。「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う」とも言われている。必要以上に自分のところにためこむのは、与えてくださる神への不信頼に由来する。神信頼がよい実を結ばせる。

2019年12月11日水曜日

2019年12月11日(アモス書3〜5)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録11、アモス書3~5

アモス書3~5;
イスラエルに対して、主は言われます。「地上のすべての氏族の中から私が選んだのはあなたがただけだ。それゆえ、私はそのすべての罪のゆえにあなたがを罰する」(3:2)。主なる神はイスラエルを選び、特別な愛を注いで来られました。イスラエルのために海の中や砂漠の中に道を通しました。彼らのために約束の地を与え、そこで生きるために必要なすべてのものを与えました。そして、彼らに何よりも必要な神様ご自身の言葉を聞かせ、生きるための指針となる戒めを下さいました。イスラエルは、特別に神から愛されてきた。だから、選ばれて、特別な恩寵を受けた者としての責任がある。そう言われます。
「公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てるものよ」(5:7)とイスラエルが呼ばれています。「彼らは町の門で戒める者を憎み、真実を語る者を忌み嫌う。あなたがたは弱い者を踏みつけ、彼らから穀物の貢ぎ物を取り立てている」(10~11節)。「あなたがたの背きの罪がどれほど多く、その罪がどれほど重いか、私は知っている。あなたがたは正しき者を苦しめ、賄賂を取り、町の門で貧しい者を退けた」(12節)。神様は正義と公正を愛される。強い者が弱い者から奪い取ること、貧しい者が虐げられることを憎んでおられる。そうはっきりと言われています。
そのような社会や時代であれば、社会の中での浄化作用が働かないのか?それについてはこう言われています。「それゆえ、悟りのある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ」(13節)。悟りある者が、良心に基づいて社会に忠告しても聞き入れてもらえない。却って退けられる。それで、結局口をつぐんでしまう。そういうことなのではないでしょうか。
「善を求めよ、悪を求めるな。あなたがたが生きるために。そうすれば、あなたがたが言うように、万軍の神である主は、あなたがたと共にいてくだsだるであろう」(14節)。私たちは、簡単に、神様はいつでも側にいてくださる、私の過ちを赦してくださると、当たり前のように言ってのけます。しかしそれは、時に、畏れを知らぬ不遜な言葉にもなり得ます。善を求め、悪を求めるな。生き方を神に向けて方向転換せよ、と神様は私たちに言われます。
「公正を水のように、正義を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(24節)。この社会で正義を行い、神様の義を証しすることを、神はわたしたちの望んでおられるのではないでしょうか。

2019年12月10日火曜日

2019年12月10日(アモス書1〜2)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録10、アモス書1~2

アモス書1~2;
預言者アモスは「テコアの羊飼いの一人」(1:1)と言われています。貧しく、学もない人だったのでしょう。時代はウジヤ王の時代と言いますから、預言者イザヤが活動していたのと同じ頃ということになります。この王自身は正しい人であったようですが、国民の心は偶像に結びついてしまっていたようです。そして、この時代の特筆すべきことは、大きな地震があったということです。中東のことですから、地震自体がほとんどなかったのではないかと思います。しかも、ゼカリヤ14:5によると避難が必要なほどの地震だったようです。そのような天変地異の僅か二年前、この預言者が何を語っていたのか。アモス書はそのことを伝えているのです。
まずダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アンモン、モアブと、ユダやイスラエルに近い異国への預言、裁きの預言が語られています。それに続けて、ユダ、そしてイスラエルへの裁きが預言されています。
ユダは、「彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖の神々が彼らを惑わしたからだ」(2:4)と指摘されています。謂わば、ここで指摘されていることは、十戒の第一戒から第四戒、十戒の第一の板の戒めです。続けて告げられるイスラエルへの裁きの預言は第五戒から第十戒の第二の板の問題であると思います。「彼らが正しき者を金で、貧しい者を履物一足分の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、苦しむ者の道をねじ曲げている」(6~7節)。ユダとイスラエルの罪は、一つです。ただ神だけを信じ、礼拝することと、貧しい者、弱い者を正しく扱うこととは別の事柄ではありません。神様は、このような不正義を裁かれるのです。
「私はあなたがたの子らの中から預言者を、若者の中からナジル人を立てた。イスラエルの子らよ、そうではないかーー主の仰せ。しかし、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者に、『預言するな』と命じた」(2:11)。ナジル人というのは、神のものとされた人のことです。彼はそのしるしとして紙に剃刀を当てず、酒を断ちます。神のものとして仕える人。しかし、そのナジル人に「預言するな」と命じる。それが、この社会の要請だったと神は言われます。お前たちは私の言葉を封じた、と言われるのです。
このような社会がこれ以上保つはずがありません。これらの言葉は、もしかしたら、羊飼いという社会の底辺に生きたアモスだからこそよりよく見えた社会の実態なのかもしれません。私たちの社会の実態は、今、いかなることになっているのでしょうか。

2019年12月9日月曜日

2019年12月9日(ヨエル書2:15〜4:21)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録9、ヨエル書2:15~4:21

ヨエル書2:15~4:21;
シオンで角笛を吹き鳴らし、断食を布告し、聖なる集いを招集せよ。神殿の入り口と祭壇の間で主に仕える祭司たちは泣き、言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください」(2:15,17)。
神の裁きの中、聖なる集会をせよ、と神様はおっしゃいます。天安門事件が起きた時、東ドイツの教会は、ただ涙を流して嘆きの祈りを捧げるために教会堂に集まったと聞きます。嘆くための集会をした。嘆き、主の憐れみを求めて、言葉にならない祈りを献げました。私たちには、私たちの罪が招き寄せているこの世界の悲惨の中、神の前にそれを恥じ、嘆き、神の憐れみをただ待ち望む祈りの集会が、必要なのではないでしょうか。
神はその憐れみのゆえに、このように言ってくださいます。「私があなたがたに送った大群、すなわち、群がるばった、若いばった、食い荒らすばった、そしてかみ食らうばったが食い荒らした歳月を、あなたがたに償おう」(25節)。今朝このヨエル書と共に与えられているヨハネの黙示録9:3以下に登場するばったは、明らかにこのヨエル書の言葉を繁栄しています。ばったが神の裁きの担い手としてやってくる。サバクトビバッタのような、蝗害をもたらす恐ろしいばったがイメージされます。黙示録が告げるところでは、人知を超えるような恐ろしい姿をしています。蝗害は自然災害ですが、そこにも神の裁きの手があると告げます。しかし、それでもなお神はその裁きの手を下ろし、その歳月を償おうと言ってくださる。それは「主はご自分の地を妬むほど思い、その民を憐れまれた」(18節)から。だから、神様の御許に立ち帰りましょう!ここに命に至る道があるからです!
第3章には、裁きの時代を生きる私たちに、それを超える望みの幻を見せます。「その後、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ」(3:1,2)。息子や娘、老人、奴隷、彼らは皆社会的弱者です。裁きの日に、社会の中で切り捨てられる存在です。しかし神は彼らにこそご自身の霊を注いでくださる。幻を見、預言を語る。神の描くヴィジョンに生きる人、神が起こしてくださいます。「主の名を呼び求める者」(5節)を、神が呼び覚ましてくださる。私たちも、同じ神の霊によって命を与えられている。私たちに命を与えるキリストの福音に、今、立ち帰りましょう。

2019年12月8日日曜日

ヨハネによる福音書第1章29から34節「この方こそ神の子!」

 洗礼者ヨハネという人は、私にとってとても気になる存在、無視できない存在です。しかし同時にあまり居心地の良くない気持ちにさせる存在でもあります。彼はヨルダン川の向こうのベタニアにいました。このベタニアというのは聖書の別の箇所にも出てくる有名なベタニアのことはありません。今日、どこだったのかはよく分からない。それはヨルダン川の向こうだと言います。川向こうは、文化圏が違う場所です。当時の橋の状況はよく分かりませんが、今日想像する以上に別世界だったことでしょう。つまり、ヨハネは外なる存在、生活圏の外にいる奇妙な存在です。その余所者が、荒れ野で声をあげていました。荒れ野というのもまた象徴的です。荒れ野は中心ではなく周縁です。川のこっちと向こうは別世界、川のこちら側では誰もが中心に近づこうとし、その競争に明け暮れています。中心は、一番華やかな場所、誰もがうらやむ場所です。桜か何かを見る催しが開かれ、そこに呼ばれればSNSにでもアップするような、特別な栄誉がある場所。そういう中心により近づくために、社会は競争をします。ヨハネはそういう中心から一番遠い「周縁」にいて、何やら声をあげている。耳障りな声です。だから聞こえないふりをする。しかし、同時に私たちは知っています。自分たちがこのままではもうダメなことを。もうこのままではこの社会が保たないことを。こんなデタラメがまかり通ってはならないことを。しかし、川のこっち側、町のシステムで生きる限り、そのデタラメを変えることはできない。だから、外から響く声が私たちには必要なのです。耳障りで聞きたくない言葉が、必要なのです。ヨハネはそのような声を、一人、荒れ野であげています。
 ヨハネはイエスが洗礼をお受けになったときのことを話しています。イエスが洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のようにイエスに降った、この方が聖霊による洗礼を授ける方だ、と。聖霊による洗礼とは一体何のことなのか。ヨハネによる福音書の中で、イエスが聖霊を授けた出来事として描かれているのは、20:1923です。イエスは弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました。ギリシア語では「霊」という字と「息」という字は同じですから、イエスは御自分の聖なる息吹、聖なる霊を与えた、ということになります。これは、今朝の箇所の約3年後、イエスが十字架にかけられて三日目の夕方の出来事です。三日前に彼らはユダヤ人を恐れてイエスを裏切り、見捨てて逃げました。自分のために愛する者を捨てた。そして自分たちにもユダヤ人の手が伸びることを恐れて隠れていました。そこに、復活したイエスがやって来た。イエスは言います。「あなたがたに平和があるように。」これは、「私はあなたの罪を赦す」という意味と言って差し支えないでしょう。イエスは御自分を裏切った者を赦し、聖なる息吹、聖霊によって命を与えたのです。神の霊がどういう人に注がれたのか。立派な信仰者、熱心な求道者、道徳的に立派な人ではなく、イエスを捨てて逃げた人です。イエスよりもわが身が可愛かった人、自分の損得のために他人を見殺しにした人です。
 だから、ヨハネはこのイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んだ。イザヤ書第53章が言うとおり、神は私たちの罪をすべてこの一匹の小羊なるイエスに負わせられました。私は、赦されなければ生きられない罪人。しかしその罪を取り除く小羊がおられる。ヨハネはこの方を指さします。

2019年12月8日(ヨエル書1:1~2:14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録8、ヨエル書1:1~2:14

ヨエル書1:1~2:14
「ああ、その日、主の日は近い。それは全能者からの破壊のように来る」(1:15)。
預言者ヨエルが告げるのは、まことに厳しい裁きの預言です。ヨエルが「主の日」というのは、救いの日ではなく裁きの日です。罪の裁きです。この「主の日」という表現、今私たちは日曜日を指してこのように言いますが、旧約聖書では、ヨエルが言うのと同じ意味でしばしば用いられている。
「泣き叫べ、主の日は近い。それは全能者からの破壊のようにやってくる」(イザヤ13:6)。ここでは主の日という言葉だけではなく、全能者からの破壊のようにという言葉も共通しています。しかしこの裁きの対象はイザヤ13:1にあるとおり、バビロンです。
あるいは「確かに、その日は近い。主の日は近い。それは暗雲の日、諸国民の裁きの時である」(エゼキエル30:3)と言われていますが、これはエジプトに対する裁きを告げる言葉です。
このように「主の日」と預言者が語る時、それは「裁きの日」という意味です。しかも、イザヤもエゼキエルも、異邦の国々への神の裁きとして語っていました。その主の日が、しかし、ヨエルによると他ならぬイスラエルに臨むと宣告されているのです。「シオンで角笛を吹き鳴らせ、わが聖なる山で大声で叫べ。この地に住むすべての者よ、震えおののけ。主の日が来る、それは近い。闇と暗闇の日、雲と密雲の日が」(2:1)。
今回の聖書通読で改めて旧約の預言者たちの言葉に耳を傾け、私は、今私たちが聞くべき言葉はこれなのだという思いを新しくしました。今、私たちに向けられた警告であると私は思います。私たちの国は、もう、神の厳しい裁きによって滅ぼされなければならない、そんな惨状を呈しているのではないでしょうか。神を神としてあがめることも、弱者の権利を重んじることもなく、強い者におもねり、不正がまかり通っている。それは当然のこととして、「教会の外はそういうとんでもない世界だ」などと言うことではなく、この神の裁きを一番先に受けなければならないのは、神様の御言葉に聞いてきたはずの他ならぬ私たちである、ということです。預言者ヨエルの言葉は、本当に、厳しい思いを抱かせます。
「しかし、今からでも、心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって、私に立ち帰れーー主の仰せ。あなたがたの衣でなく心を裂き、あなたがたの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても、思い直される」(2:14)。主なる神様の恵みの奇跡、憐れみの奇跡に、ただただすがりつくだけです。今教会に来て神を礼拝している者だけのためではありません。私たちの心の中のプライベートな平穏のためではない。少なくともそれだけのためではない。この国や多くの同胞、この地に寄留する人たち、すべての隣人のために、私たちは神の御前に立ち帰って、心を注ぎだして悔い改め、ただ神のみを礼拝しましょう。キリストの憐れみの中へ、帰りましょう。

2019年12月12日(アモス書6〜7)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録12、アモス書6~7 アモス書6~7; ここには預言者アモスが見た幻の内の三つが記録されています。どれも、神の民に対する裁きの幻です。最初と二番目は、アモスの執りなしによって、裁きが思い直されていました。ところが、第三になると、「見よ、私は、わが民イ...