2020年8月3日月曜日

2020年8月3日(コリントの信徒への手紙一3)

コリントの信徒への手紙一3
「ある人が『私はパウロに付く』と言い、他の人が『私はアポロに』と言っているようでは、あなたがたはただの人ではありませんか。アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。」
アポロというのはパウロがコリント教会を離れた後にやって来た伝道者の仲間です。アポロはコリント教会で人気があったようです。彼は雄弁で、魅力的な人物であったことが推測されているようです。そして、コリント教会ではパウロ派、アポロ派、ペトロ派、イエス派などとそれぞれが勝手に名乗り合い、仲間割れをしていました。しかし、それh根本的に間違っているとパウロは指摘します。
分裂して仲間割れし、党派争いをしているときに見失っているものは一体何なのか。さおれは「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です」とパウロが言うところの、成長させる神のお働きです。私たちを教会として成長させてくださるのも、あるいは個々人を一人のキリスト者として成長させてくださるのも、神様です。神の御業が私たちに働いている。パウロとかアポロとか、人間ばかりを見ているときに、働いていてくださる神が見えなくなってしまうのです。
私たちは、神様の御業に与っています。私たちを一つの教会として建て上げる神の御業に。今の時代は誰にとっても厳しい時代です。キリスト教会にとっても大きな試練の時であることは間違いありません。私たちは、そのようなときであるからこそ、神様の御業が私たちの間に働いていてくださっていることを信じましょう。私たちを一つの教会にしたのも、教会というキリストの体として生かしてくださっているのも、神様です。まさか礼拝自体が危機にさらされるようなことになるなんて、誰も想像していませんでした。しかしこの困難の中にも神の手はあるのであり、なお私たちをキリストの体として整え、建て上げようとしてくださっていることを私は信じます。神様に期待しつつ、今日の一日の歩みを始めます。

2020年8月2日日曜日

2020年8月2日(コリントの信徒への手紙二2)

コリントの信徒への手紙一2
「きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘儀を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。」
パウロの二度目の宣教旅行の時のことです。アテネに行ったパウロは、他の多くの都市でそうであったような目に見える成果を上げることができませんでした。アテネの人たちは珍しい物好きだったので、パウロが話す外国の宗教の話に興味を持ちました。しかし、話が核心にいたりキリストの復活の話に及ぶと、パウロを馬鹿にして立ち去ってしまいました。それで、パウロはアテネを離れてコリントに向かいます。
パウロは「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした」と言っています。それが具体的に何を意味するのかはよく分かりません。もしかしたら、アテネでの手痛い経験が影響していたのかも知れません。いずれにしても、コリントに到着したパウロは堂々とした態度や素晴らしい知恵の言葉によって宣教をすることはできませんでした。却って不安でビクビクし、そこに雄弁な知恵の言葉はなかったのです。
普通、失敗によってスランプになり、ますます自信喪失になる負のスパイラル・・・とでも言うような状況です。しかし、パウロは、そういう状態でコリントに行ったことはあなたたちのためには却ってよかったのだ、と言っています。それは、パウロが立派な知恵や素晴らしい雄弁を披露し、それがすごいと言われてしまうのではなく、神の霊と神の力だけによって、神の愚かさである十字架の言葉だけに集中できたからです。
パウロは強がりでそういうふうにいっているわけではありません。本気で、コリントに行ったとき自分が弱くてよかったと、弱さを誇っています。キリストの力が現されるために、自分は喜んで弱くなるとパウロは考えているのです。
私たちの間にあるのは、十字架の言葉だけです。キリストの十字架だけが私たちの結び目です。神の弱さによって私たちは救われた。その事実に、今日も新しい思いで立ち帰りたいと願います。

2020年8月1日土曜日

2020年8月1日(コリントの信徒への手紙一1)

コリントの信徒への手紙一1
コリントはギリシアの商業都市であり、当時の世界の中では文化レベルの極めて高い場所でした。パウロの宣教旅行の中で、この町に教会が生まれました。パウロは各地で伝道したのでしばらくするとコリントを離れましたが、その後この教会は混乱し、パウロに敵対的な気持ちを抱くようになります。それだけではなく、そもそもキリストの福音から離れてしまったところがある。信じているつもりだが、その信仰が曲がってしまっている。それで、パウロはこの手紙を書きました。彼らをもう一度キリストのもとに呼び戻すために。
そこで、パウロは信仰の急所に立ち帰る言葉を記します。「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
十字架の言葉。それがキリストの福音の急所です。しかしそれは、多くの弟子を集めながら道半ばで自分の弟子に裏切られて捕らえられ、ローマという世界の支配者の手で死刑にされた一人の貧しい男の話です。ギリシアの豊かな都市コリントの人々から見て、それはどんなに愚かな話だったことでしょう。いや、私たちにとって他人事ではありません。私たちが信じている福音は、この世から見たら愚かな話なのです。2000年も前に磔にされた一人の男を救い主と信じ、神の子と信じているのです。それが愚かでなくて何なのか。
しかし、その愚かさが福音の急所だとパウロは言います。福音の愚かさは私たち自身が賢いわけでもなく、この世の力ある者ではないことに通じます。「神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かなものを選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。」私たちが救われたのは、ただただ、神様のおかげです。だから、誰も誇ることができない。私たちの弱さによってそのことが明らかになります。神ご自身が十字架というご自分の弱さと愚かさによって私たちを救ってくださったからです。神の弱さ、愚かさである十字架の言葉こそ救いの急所なのです。

2020年7月31日金曜日

2020年7月31日(エフェソの信徒への手紙6)

エフェソの信徒への手紙6
「最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身につけなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。それゆえ、悪しき日にあってよく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。」
私たちの信仰生活は、戦いです。戦いと言っても、教会に敵対する誰かを相手にする戦いではありません。あるいは、この世界は神様を知らないから駄目なのだと言って世間を見下すということでもありません。私たちの戦いは、人間に対するものではない。天にいる悪の諸霊に対するものです。
天にいる悪の諸霊。悪魔とかサタンと言ってもいいでしょう。一体、何者なのでしょうか。当然、尻尾とコウモリのような羽のあるマンガ的な悪魔の話ではありません。私は悪魔ということを考えるときに、「時代の精神」という言葉を思い出します。その時代に支配的な精神性を通して、人間の力を超えた悪の力が働くことはしばしばあります。その時代の誰もが何の疑問も抱かずに戦争を礼賛するとか、学生たちの暴力が世界中で吹き溢れるとか、性的な不品行が人間らしい生き方であるかのようにロマンチックなものに祭り上げられるとか、いくらでも起きていると思います。
今の時代の精神は一体何でしょうか。言いようのない社会に充満する怒り、吹き荒れる裁きの心、生産性で人の価値を計ること、社会の側の責任を自己責任という言葉で弱者に押しつけること、豊かさや便利さのために誰かを犠牲にすること、そういうことのどれもが時代精神の産物であると私は思います。それは一人ひとりの心がけではもうどうしようもないことです。心がけではとても追いつかない。人間の力を超えた悪の力の支配としか言いようがないと思います。
これと対抗するために、この手紙は神の武具を身につけるようにと言います。「立って、真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音を告げる備えを履物としなさい。これらすべてと共に、信仰の盾を手に取りなさい。それによって、悪しき者の放つ燃える矢をすべて消すことができます。また、救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」悪の力には神の武具によらなければ対抗できません。私たちの戦いが、人間を相手にするものではなく、天の諸霊との戦いだからです。信仰の闘いだからです。私たちや真理や正義、平和の福音を告げる準備、信仰、救い、神の言葉によって悪霊に対抗します。そして何よりも、この戦いはキリストがすでに闘った戦いです。そして、キリストがすでに勝利を治めた戦いです。キリストの恵みによって強くなり、私たちは今日もキリスト者として生きていきます。

2020年7月30日木曜日

2020年7月30日(エフェソの信徒への手紙5)

エフェソの信徒への手紙5
「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」
聖書は私たちを思っても見なかった世界に連れ出します。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。」驚くべき言葉です。以前は闇だった。そう言われれば、確かにそれはその通り。しかし、聖書はそこで留まりません。「今は主にあって光となっています。」それが、私たちの新しい「私」なのだと聖書は宣言します。例え私たちが「たしかに私は今は光だ」と思えなかったとしても、事実私たちは今や光です。以前は闇であった私たちを、神が光にしてくださったからです。
今私は必要があって十戒の勉強をしているのですが、十戒のメッセージも同じだと思います。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」かつて、あなたたちはエジプトの地にいて、そこで奴隷であった。しかし、今は違う。今は私があなたたちを自由にした。神様はそのように言われます。そして、奴隷であった者が奴隷ではない者、自由な者として生きるための指針として、十戒を示してくださいました。最初に主なる神様が言われるのは、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」ということです。私たちを奴隷ではなく自由人にし、闇ではなく光にしてくださった神様のもとを離れては、私たちは再び奴隷や闇に、元の木阿弥になるしかありません。だから、私を光にしてくださった主なる神様のもとに生きることこそが、私たちが本当に自由に、そして私らしく生きることのできる場なのです。
エフェソの信徒への手紙は、そのことを「光の子として歩みなさい」と言います。私たちは、今はもう光。だから、光の子として生きていく。この手紙では、光の子としての歩みを愛や平和、和解というイメージで伝えていました。互いに相手をたてあげる言葉を口にしよう、とパウロは呼びかけます。そういう愛の言葉は、十戒が示す神の戒めを全うする言葉であるに違いありません。キリストの和解の御業の中に建てられる教会は、本当に自由であり、光に満ちた、生き生きとした場です。神様は、私たちをキリストのお体にしてくださっています。私たちは自分の良さを喜んだり悪さを憂えたりするのではなく、私たちの内に始めてくださっている神の光の御業を信じ、信頼して、一つの教会として歩んでいきたいと願います。

2020年7月29日水曜日

2020年7月29日(エフェソの信徒への手紙4)

エフェソの信徒への手紙4
「ですから、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。招かれたあなたがたは、その招きにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて霊による一致を保つよう熱心に努めなさい。体は一つ、霊は一つです。」
私はこのエフェソの信徒への手紙を読むと、聖書の真理の偉大さに敬服する思いになります。この手紙が書かれたのは今から2000年も前のことですが、今の人類のずっと先を歩いていると思います。いや、今の人類なんて大きなことを言う必要はないのかもしれません。わたし自身の事として、私などが到底及びもつかないような偉大な真理に満ちていると思います。謙遜と柔和、寛容。そして愛による忍耐と平和の絆。それは、この時代の子として今を生きる私に一番必要なのだと思わされます。
今、本当に怒りがあふれかえっていると思います。それぞれの正義感からくる怒りがたくさんあって、それを誰でも気軽に発信できるようになりました。誰でも発言できるというのはいいことです。しかし、いつの間に価値観の衝突に収拾がつかなくなり、「良いこと」を言っている人同士が罵り合っています。ネット空間では顕著です。しかし恐らく人間というのはあまり変わらないものですから、以前は自分のお茶の間で、せいぜい家族にしか聞こえなかった声が世界中に拡散されているのだと思います。自分の声を出す手段はまちまちであっても、自分の正義感の虜になるという点で、私はまったくもって時代の子であると思います。自分の正義感を満足させること、すっきりすること、それはファリサイ派の人々が求めていたことなのかも知れません。私は自分に染みついたファリサイ根性が恐ろしい。
ところが、このエフェソの信徒への手紙を読むと、ちゃんとそれに対する答えが書かれています。平和の絆と霊による一致。それは、低いところに下ってキリストの愛が満ち満ちたところで始まります。どこまでも、悔い改めをもって神の憐れみを求めるより他ありません。隣人と共に生きることができるとすれば、それは、キリストの憐れみの奇跡です。「愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。キリストによって、体全体は、支えとなるすべての節々でつなぎ合わされ、一つに結び合わされて、それぞれの部分は分に応じて働いて、体を成長させ、愛の内に造り上げられてゆくのです。」このキリストの愛の奇跡を私たちの内に起こしてくださるのは、ただ神様だけです。

2020年7月28日火曜日

2020年7月28日(エフェソの信徒への手紙3)

エフェソの信徒への手紙3
「この秘儀は、前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、すべての聖なる者のうちで最も小さな者である私に与えられました。キリストの計り知れない富を異邦人に告げ知らせ、すべてのものを造られた神の内に永遠の昔から隠されていた神の秘儀がどのようなものであるかを、すべての人の前に明らかにするためです。」
神の隠された秘儀。神秘。ミステリー。それは、ユダヤ人ばかりではなく異邦人も、キリストの福音によって救われる、神の恵みによって救われるということです。異邦人問題というと、私たちもそもそも異邦人ですし、今ではキリスト教会は世界中にありますので、何がそこまで問題なのかピンとこないところがあるかも知れません。しかしこれは普遍的な問題を映した事柄であると思います。つまり、価値のある者と価値のない者を選別する考え方です。価値のない者が価値のある者のカテゴリーに入るためには、一定の条件を満たさなければ成りません。異邦人問題の時には、それは割礼でした。これは歴史の中でいろいろなバリエーションをもって何度も再生産された考え方であると思います。私たち人間は、ある囲いを作って、その内か外かで価値付けをし、外なる存在を排除するということを繰り返してきてしまったのかも知れません。
先日、あるミュージシャンの人が、何人かの「優秀」とされる人の名前を挙げながら、こういうお化け遺伝子を持つ人の配偶者は国家プロジェクトとして専門家が選定するべきではないかという趣旨の発言をし、大きな問題になりました。まさに優生思想そのものの発言です。批判されるべきです。この社会の中で、こういう発言を許してはいけないと思います。
パウロは、神の恵みを「神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、すべての聖なる者のうちで最も小さな者である私に与えられました」と言い表します。最も小さな者というのは、言葉の綾ではありません。神の恵みは、最も小さな私にも与えられた。この恵みが、異邦人もユダヤ人も、そこに何の価値の優劣もつけることなく救ってくださる。それが、キリストの和解の福音の基礎です。優れた遺伝子を残すべきだという優生思想は、必ず、劣った遺伝子を排除すべきだという思想とセットになります。そのことは歴史が証明している。それにパウロ自身、外なる存在を排除して生きてきたのです。神の恵みの前に最も小さな者として立つとき、このような思想がいかに欺瞞に満ち、過っているか、そのことを私たちは自分自身の悔い改めとして知るのではないでしょうか。

2020年8月3日(コリントの信徒への手紙一3)

コリントの信徒への手紙一3 「ある人が『私はパウロに付く』と言い、他の人が『私はアポロに』と言っているようでは、あなたがたはただの人ではありませんか。アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です...