2021年2月27日土曜日

2021年2月27日(詩編68)

詩編68
神に向かって歌え。
その名をほめ歌え。
雲を駆って進む方をたたえよ。
主の名によって、その前に喜び踊れ。
みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。(5~6節)

この詩編は、例えば「神の山、バシャンの山、峰を連ねた山、バシャンの山」といった大自然や「エジプトから青銅の品々が到来し、クシュは神に向かって手を伸べる」というふうに外国も出てきます。とてもスケールが大きい詩編だと思います。冒頭に引用したところでも「雲を駆って」と言っています。
しかし、ただスケールが大きいというだけではありません。その大きな神さまは小さな者の声を聞いてくださる方でもあります。「みなしごの父となり、やもめの裁き手となるのは、聖なる住まいにいます神」なのです。そこにいる一人のみなしごややもめの悲しみに寄り添い、それを知って助け、彼女らのために正義に基づく裁きをするのは、神。この世界の王でいらっしゃる方は、私たちには計り知れないほど大きく、途方もない方です。しかし同時に、私たちの社会が気に掛けず、目をくれようともしない小さな者に寄り添い、その痛みに耳を傾けてくださる方です。

神よ、あなたは豊かに雨を降らせ
衰え果てたご自分の民を回復させ
あなたの群れはその地に住む。(10~11a節)

神さまは衰え果てた者のために雨を降らせてくださいます。ご自分の民を回復させるために。神が養い、憐れんでくださって、神の民はこの地に生きることができる。私たちはキリストを仰いで、今、生きています。

2021年2月26日金曜日

2021年2月26日(詩編66〜67)

詩編66~67
神よ、あなたは私たちを試み
火で銀を練るように私たちを練った。
あなたは私たちを網に追い込み
腰に重荷を付け
人が私たちの頭の上を乗り越えることを
  お許しになった。
私たちは火の中、水の中を通ったが
あなたは私たちを広々とした地に導き出された。(67:10~12)

いろいろな出来事やいろいろな人から圧迫されたとき、神さまは一体何をしておられるのか、と問わざるを得ない。この詩編でとても厳しいのは、「あなたは私たちを網に追い込み」と言っていることです。私をこのような苦境に立たせたのは、他ならぬ神様ご自身。厳しい現実です。しかし、神さまには何でもおできになるということを真剣に受け止めるならば、そう言わざるを得ない。これは、神を信じる多くの人が直面する問いであり、悩みなのではないでしょうか。
確かに、すべては神さまの御手の中にあるはずです。苦しい時間は永遠に続くような気がしてしまいます。しかし、神さまはご自分が愛する者を火で練って精錬し、銀の純度を増すようにして私たちを練り清めている。神さまはその先に私たちを導き出そうとしておられるのです。「あなたは私たちを広々とした地に導き出された」と言っているとおりです。
この「広々とした地」というのはよい言葉です。四面楚歌のような現実の中で、神は生きて働き、この圧迫をも神の御手の内に私たちを練り清めるために用いてくださる。その事実が、すでに広々とした地なのではないでしょうか。

神が私たちを憐れみ、祝福し
その顔を私たちに輝かせてくださいますように。
地があなたの道を知り
すべての国があなたの救いを知るために。(67:2~3)

神さまのへの私たちの救いの御業が、神さまの救いの御業を全地が知るための証しとなりますように。主イエス・キリストを私たちに下さり、私たちに憐れみを示してくださった神さまの愛が、私たちという存在を通してこの諸国民の知るところとなりますように。そのために、私たちが今日も用いられますように。

2021年2月25日木曜日

2021年2月25日(詩編65)

詩編65
我らの救いの神よ
あなたは義によって
恐るべき業によって答えます。
遠い海、地の果てに至るまですべてが信頼する方。
強い力によって山々を固く据え
大いなる力を身に帯び
大海のどよめき、波のどよめき
そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。(6~8節)

神さまの御業を覚えると、気が遠くなります。「強い力によって山々を固く据え、大いなる力を身に帯び、大海のどよめき、波のどよめき(中略)を鎮める方」というのは、創造の出来事を想起しているに違いありません。そして、山々を据えた御業、海を鎮めた御業によって、諸国の民の騒ぎをも鎮めたお方です。想像のときの神の力強い御業は、今も生きて働いておられる方の御業に他ならない。そのように言うのです。
10節以降では、今このときもこの世界に生きて働いておられる御業を覚えています。「あなたは地を訪れてこれを潤し、大いに豊かにします。神の水路は水をたたえ、あなたは穀物を備えます。あなたがそのように整えたのです。畝を潤し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、萌え出でたものを祝福してくださいます」(10~11節)。今、雨が降って大地を潤し、大地が土の実りを結ぶのも神の御業に他ならない。そのことに驚き、神さまの御業を覚えて恐れている。それがこの詩編の信仰です。
この詩編の中でもいちばん私の心に残ったのは、2節の言葉です。「あなたには沈黙も賛美。」言葉を失うほどの神さまの御業に圧倒されているのではないでしょうか。神さまがこの世界を造ってから今に至るまで、絶えず働き私たちの命をもつないでくださっている途方もない御業。ただ驚き、沈黙するしかない。しかし、その沈黙さえも賛美に他ならない。神さまの偉大さに触れると、人間は自分の小ささや過ちを自覚しないわけにはいかず、恐れるばかりです。「数々の過ちが私を責めたてます。」しかし、この詩編は確信をもって続けます。「私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます」と。これもまた、驚くべき神さまの御業です。
言葉を失い、ただ沈黙して神にこころを注ぎ出す私たちを、神が今日も御心に留めていてくださいますように。お一人おひとりに神さまの祝福がありますように。

2021年2月24日水曜日

2021年2月24日(詩編64)

詩編64
だが神は彼らに矢を射かけ
不意に彼らは傷を負う。
彼らは自分の舌のゆえにつまずき
見る人は皆、頭を振るでしょう。(8~9節)

この詩編は悪をなす者のために苦しむ人の祈りです。特に、言葉に苦しめられています。
「彼らは舌を剣のように鋭くし
苦い言葉の矢をつがえています。
物陰から罪もない人に射かけようと構え
不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。」
剣のような言葉、矢のように富んでくる苦い言葉に苦しんでいる。「罪もない人に射かけようと構え」と言っているのですから、自分としてはそのような心ない言葉を浴びせられるような心当たりは全くない、ということなのでしょう。
他人の言葉に傷ついたことがない人は一人もいないと思います。心ないことを言う人を前にして怒りがわいたり、本当に傷ついて泣くことさえできなかったり、そういう辛い経験は誰もがします。
ヨハネによる福音書の冒頭には「初めに言があった」とあります。ここでの「言」というのは一般的な意味での言語ということではなく、神と共に最初からあった神の知恵であり神の言を意味する。この世界はそういう言葉の語りかけによって造られました。神が語りかけた言葉がこの世界に秩序を与えた。そうであるからこそ、神がお造りになった世界の美しさを損なうような私たちの汚い言葉を神がお喜びになるとは考えられません。
「彼らは自分の舌のゆえにつまずき
見る人は皆、頭を振るでしょう。」
舌のせいで嘗めさせられた苦みは舌でやり返したくなります。しかし神はそれをよしとはなさらない。神ご自身が彼らに矢を射かけ、神が彼らをお取り扱いになる。舌のために彼らは躓くことになる。この詩編はそのように言います。
舌の失敗は尽きません。神さまに憐れみを求めるよりほかありません。今日一日、私たちの口から出てくる言葉が呪いの言葉ではなく、神を賛美するにふさわしい言葉でありますように。

2021年2月23日火曜日

2021年2月23日(詩編63)

詩編63
命のあるかぎり、あなたをたたえ
その名によって、手を高く上げよう。
極上の食物にあずかるように
私の魂は満ち足り
唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。
私が床であなたを思い起こし
夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら
あなたは必ずわが助けとなってくださる。
あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。(5~8節)

この詩編は生活者の祈りの言葉だなと思います。私たちと同じようにおいしいものを食べれば嬉しいですし、疲れれば床に入って眠りますが、眠っていられない夜もある。そういう毎日の生活の中で神さまを賛美し、神さまを愛して生きる人の祈りの言葉です。
「極上の食物にあずかるように、私の魂は満ち足り、唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。」とっても良い言葉です。そうやって神さまを喜び、賛美し続けていきたいと願います。満ち足りた魂で賛美を歌う。まるで極上の食べ物を頂いたときのような満ち足りた心で!神さまは心からの喜びを献げることを、嬉しく思ってくださる方です。
「私は床であなたを思い起こし、夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら、あなたは必ずわが助けとなってくださる。」夜、床に入ったときに神さまを思う。床に入っていられるときだけではありません。夜、育児や介護のために起きて世話をする。そういうときに下の世話をしながら神さまを呼ぶ。その祈りを神は聞いていてくださって、わが助けとなってくださる。
神さまを信じると生き方が変わる。箸の上げ下げのしかたも変わる。そう言っている人がいました。おいしいものを食べたときのような喜びで神を賛美し、夜寝るときにも夜中に起きるときにも神さまを呼び求める。私たちの生活の隅々までも神さまに献げ、神さまを私たちの生きている場にお迎えする。それが、私たちの祈りです。

2021年2月22日月曜日

2021年2月22日(詩編62)

詩編62
人間の子は息のようなもの。
人の子は欺き。
秤にかければ
共に息よりも軽い。
暴力に頼るな。
略奪に空しい望みを置くな。
富が増えても、心を奪われるな。
一つのことを神は語り
二つのことを私は聞いた。
力は神のもとにある、と。(10~12節)

私も、私を苦しめる者も、共に息よりも軽い。弱く、小さく、儚い存在に過ぎない。そのように言います。自分の力に頼って人を押しのけても、人の物を奪い取っても、空しい。富が増えてそれに心を奪われても、仕方がない。そのように言います。自分自身の心に語りかけているのかもしれません。自分を苦しめる者が生き生きと楽しんでいるように見えたり、ずるく、うまく立ち回っている者が笑っているのを見ながら、自分の心にそう語りかけているのかもしれません。
本当に価値のある生き方や私たちにとっての美しいあり方は一体どういう構えで生きることなのでしょうか。「私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ」と言っています。私たちの心を波立たせたり、神さまの語りかけを聞こえなくする声は内外に響きます。まずは自分自身の魂が静まって、神さまに向かって沈黙する。騒ぎ立つ心を静め、じっと神さまに聞き入ります。私の希望は神から来るからです

一つのことを神は語り
二つのことを私は聞いた。
力は神のもとにある、と。

神さまは、そのように語りかけておられます。「力は神のもとにある」。私たちの心を乱すことは、私たちの内にも外にも溢れています。他の人も振る舞いも、自分自身の心の迷いも、神さまの声を聞こえなくさせます。しかし、力は神のもとにある。力強い神の慈しみに信頼し、この弱く儚い私が神の慈しみによって生かされること。そこに、私たちの美しい生き方が始まるのではないでしょうか。私たちのために麗しい歩みを示してくださった主イエス・キリストが私たちの前におられます。

2021年2月21日日曜日

2021年2月21日(詩編60〜61)

詩編60~61
神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。
神よ、あなたは私たちの軍勢と共に
  出陣しようともなされない。
私たちを敵から助けだしてください。
人の与える救いは空しい。(60:12~13)

この詩編60は、読むのが辛い詩編です。冒頭でもこのように言います。
「神よ、あなたは私たちを拒み
  打ち倒し、怒っておられます。
私たちを回復させてください。」
神の怒りに打ちのめされ、しかし神に助けを求めて祈っている。そういう祈りの言葉です。読むのが辛い詩編。しかし、他方ではよく分かる詩編です。神に拒まれている、神は助けてくださらない。そう言わざるを得ないことは私たちにもあるのではないでしょうか。
この詩編はエドムとの戦争を背景にしているようです。ただ、この詩編の祈りの言葉は、苦しい現実を前にしながら、その問題を自分とエドムとの問題ではなく自分と神との問題として捉えています。私たちを拒んだのは神さまあなたです、と訴えています。私を助けてくださらないのは神さまあなたです。そのように言う。それは、「人の与える救いは空しい」と知っているからです。神に助けて頂かなくては救われようがないのです。

神よ、私の叫びをお聞きください。
私の祈りに心を向けてください。
心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。(61:2~3a)

続く詩編61も、やはり心挫けながら神に叫ぶ者の祈りの言葉です。私たちの感覚だと、心が挫けると祈る元気もわかないような気がしてしまいます。しかし、この詩編はそうは言いません。心が挫けるからこそ、他の何者でもなく神に訴えるのです。
心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。この「地の果てから」という言葉がとてもいいな、と思います。心が挫けて、神さまが遠い。実際に遠いかどうかと言うよりも、「遠い」と言わざるを得ないということなのだと思います。しかし神から隔絶されたような地の果てにいようとも、挫けた心を注ぎ出すようにして神に祈る。神はそのような祈りを必ず聞いてくださいます。私たちの祈りを神は聞いてくださっています。

2021年2月27日(詩編68)

詩編68 神に向かって歌え。 その名をほめ歌え。 雲を駆って進む方をたたえよ。 主の名によって、その前に喜び踊れ。 みなしごの父となり やもめの裁き手となるのは 聖なる住まいにいます神。(5~6節) この詩編は、例えば「神の山、バシャンの山、峰を連ねた山、バシャンの山」といった大...