2025年7月12日土曜日

2025年7月12日の聖句

主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8)
今こそ待望していた時、今こそ救いの日。(2コリント6:2)

今こそ、と今日の新約聖書の御言葉は言います。「今こそ」です。救いの日は、もう私たちのところへ訪れています。今日、この御言葉を聞いたこの日、あなたに救いが訪れました。神の恵みの日、神が私たちを救ってくださる日が今日やってきたのです。
この事実を、あなたは信じているでしょうか?主イエスさまは今日、ここに来ておられて、あなたに向かって手を伸ばしておられます。私たちがイエス様のところへたどり着いたのではありません。私たちの努力の結果、神さまのところへ行くことができたのではないのです。キリストが私たちのところへ来てくださった。だからこそ、今日は待望していた日です。キリストが来てくださったからです。キリストの方から手を伸ばしてくださったから、今日は救いの日です。
まるでイエス様がまだ来られていないかのような自己嫌悪に陥ってはいないでしょうか?まるでキリストの救いがなかったことになってしまったかのような絶望に駆られてはいないでしょうか?キリストがもう既に私を救ってくださいました。だから、大丈夫です。私たちはもはや暗闇ではなく光の中にいます。神さまの手の中に生かされています。安心して、今日の日を生きていきましょう。キリストの限りない恵みが、今日もあなたにありますように。

2025年7月11日金曜日

2025年7月11日の聖句

主よ、あなたの永遠の秩序を想起するとき、私は慰められました。(詩編119:52)
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたのではない天にある永遠の住まいです。(2コリント5:1)

「あなたの永遠の秩序」と書かれています。「秩序」と翻訳されている言葉ですが、聖書協会共同訳では「裁き」と翻訳されています。ミシュパートという単語で、裁き、正義、命令、法、などといった意味があります。私たちには私たちの裁きや正義があります。日本には日本の法があるし、秩序があります。しかし人間のつくり出す秩序は決して永遠ではありません。
キリスト者の作家の三浦綾子さんが『道ありき』という自伝を書いておられます。三浦綾子さんは満17歳になる前に、小学校の教師になりました。熱心に勤めました。軍国教育の時代です。しかしやがて敗戦を迎える。アメリカ軍が進駐し、これまでの教育は誤りであったとされ、子どもたちに教科書を墨で塗らせた。絶望し、自分にはもう教壇に立つ資格はないと考え、教職を辞しました。
どれほどの絶望であり、どんなに深い虚無・虚脱であったのか、想像を絶します。人間の建てた秩序は、その正義がどれほど絶対的に正しいと思われたものであったとしてもやがて崩れてしまいます。正しいと思っていたものも悪とされるし、悪と軽蔑されていたものが実は正しかったとされることもあります。人間の営みは空しいものです。
しかし、神の建てる秩序は人間のものとは違います。神の正義は永遠です。だから私たちは天を見上げます。そこから来られるキリストを待ち望みます。正義も正しい裁きも、神とその御子とにあると私たちは信じています。私たちは移ろうし、不確かだし、相対的な存在に過ぎない。ですから、神の御前にへりくだりましょう。神を畏れて身をかがめましょう。私たちを虚無や虚脱、悪と罪と死の力から救いだしてくださるキリストを待ち望みましょう。

2025年7月10日木曜日

2025年7月10日の聖句

私の戒めを守り行いなさい。私は主である。(レビ22:31)
私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23)

私たちは主イエスさまを愛し、主イエスさまの言葉を愛します。私たちはキリストがお命じになったように生きる。少なくとも、そう志します。
ボンヘッファーが『キリストに従う』という本で、私たちの神の恵みに対する態度によって、神の恵みが二つのものに分かれている、という趣旨のことを言っています。一つは「安価な恵み」です。安価な恵みは「罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない」。つまり、神の恵みを安価に扱う人は、自分の罪の赦しを既に手に入れてしまっている。神に従おうとせず、自分で自分を救う神の恵みをほしいままにし、そうやって神の恵みを安っぽい、大安売りの、価値のないものにしてしまっている。
しかし、そうではない恵みがある。それが「高価な恵み」です。高価な恵みは「服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである」とボンヘッファーは言います。キリストの命によって支払われたからこそ高価であり、私たちのために神の子が犠牲になったからこそ高価です。高価な恵みは、私たちが自分の十字架を背負ってキリストに従うように求める。そして、「私の軛は負いやすく、わたしのには軽い」と言ってくださるから、「恵み」です。
キリストを愛する私たちは、キリストの言葉を守ります。「私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む」とキリストは約束してくださいます。キリストに従い、キリストの示してくださった高価な恵みに生かされる新しい歩みへと出発したい。そのように願います。

2025年7月9日水曜日

2025年7月9日の聖句

かつて、引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張るーー主の仰せ。(エレミヤ31:28)
救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日の旧約聖書ですが、「引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていた」というのは、とても厳しい言葉ですがよく分かります。そもそも「見張る」というのは、そういうことだと思います。何か悪いことがないか、あれば罰を与えたり、報いを受けさせたりする。「見張る」というのは、そういうことだと思います。
ところが、今日の御言葉はかなり不思議なことを言っています。「建て、植えるために彼らを見張る」。建てたり植えたりというのは、つまりは「あなたたちを回復させるため」という意味でしょう。引き抜かれ、壊され、破壊され、滅ぼされ、災いを下された者たち。つまり、神に裁かれた者たち。私はあなたを建て、植えるために見張っているのだ、と主は言われます。「見張る」という言葉がうまくマッチしないように感じてしまいます。
しかし、主なる神さまはまさに私たちを見張っておられる。私たちを救い、私たちに恵みをお与えくださるために、私たちのことをじっと目を凝らしてつぶさにご覧になっている。神が私たちを新しくするために、私たちに目を向けてくださっているのです。「救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。」敬虔な者として、神は私たちを新しく生かしてくださいます。主の恵み深いまなざしの中で、今日の日を生きていきましょう。

2025年7月8日火曜日

2025年7月8日の聖句

神は深遠なこと、隠されていることを明らかにされる。(ダニエル2:22)
(イエスの祈り)正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。(ヨハネ17:25)

「世はあなたを知りません」と主イエスが祈っておられます。そうなのです。主イエスがおっしゃるとおり、私たちは神を知りません。私たち世の知恵は、神を知ることができません。「神」と私たちが思っているものは、そう思い込んでいるだけでまことの神でも何でもない。それは、世の中のいろいろな宗教とか神話とか、そういうものには留まりません。哲学や科学技術に代表されるような人間の知恵の粋もそうです。あるいは、キリスト教という宗教だって例外ではない。私たち人間の営みがまことの神に到達することなんて、絶対にできません。「正しい父よ、世はあなたを知りません」。
しかし、主イエスだけはそうではありません。「私はあなたを知っており」。主イエスはまことの神を知っておられる。なぜなら、このお方はまことの神ご自身に遣わされて、私たちのところへ来てくださったからです。だから、まことの神について、私たちはただイエス・キリストによってだけ知ることができる。このお方の言葉、このお方のなさったこと、このお方の存在そのもの。キリストこそまことの神を私たちに示す、ただ一つの神の言葉です。
私たちはまことの神を知らないし、知ることはできないし、こちらから到達することは絶対にできません。しかし、神さまの側から私たちにご自身を示してくださいます。「神は深遠なこと、隠されていることを明らかにされる。」主イエス・キリストを通して。キリストとキリストを証しする御言葉に耳を傾けましょう。ここに神の御心がある。私たちはそのことを信じ、感謝しつつ、へりくだってキリストに耳を傾けましょう。

2025年7月7日月曜日

2025年7月7日の聖句

私たちが低くされていたとき、抑圧されていたとき、主は私たちのことを思い浮かべてくださった。なぜならその慈しみは永遠だからです。(詩編136:23)
私はこの福音のための使者として鎖につながれていますが、私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘儀を知らせることができるように、私のために祈ってください。(エフェソ6:19~20)

エフェソの信徒への手紙は使徒パウロの手紙ですが、獄中書簡と呼ばれる手紙の一つで、パウロが牢獄に捕らわれているときにしたためられたものです。「私はこの福音のための使者として鎖につながれています」。しかしそのようなときであってもパウロが願っていたのはただ一つのことでした。「私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘儀を知らせることができるように、私のために祈ってください。」例え牢獄にいようとも、他のどこにいようとも、パウロは福音の秘儀を知らせることができるように、主イエス・キリストの福音を証しする者となれるようにという一つのことを願い、そのために生きていました。
キリストの福音。それは「私たちが低くされていたとき、抑圧されていたとき、主は私たちのことを思い浮かべてくださった。なぜならその慈しみは永遠だからです」とあるとおり、私たちがどのような状態にあり、私たちがどのような者であったとしても私たちへの慈しみを示してくださる神の愛のことです。私たちを生かしてくださっている神の愛です。
パウロと同じように、私たちも神の愛によって生かされています。この福音を証しする証し人として、神は私たちをこの世界へ遣わしておられます。私たちがどこにいても、何をしていても、強い日にも弱い日にも、キリストの愛が私たちを生かしてくださっている。その一事に生かされ、またこの喜びを証しする一日でありますように。

2025年7月6日日曜日

2025年7月6日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
悪しき者はその道を捨て、自らの思いを捨てよ。主に立ち帰れ。そうすれば主は寛大に赦してくださる。(イザヤ55:7)
神の和解を受け入れなさい。(2コリント5:20)

NHKの朝ドラで「あんぱん」という作品を放映しています。少し前まで太平洋戦争の時代を描いていました。戦争について、日本で制作する他の多くの作品と少し違う描写がありました。主人公はやなせたかしさんをモデルとした人物ですが、この人が旧日本陸軍の伍長として中国で体験した日々が描かれていました。太平洋戦争が話題になる多くの作品では、空襲や原爆などの日本の被害が中心になります。しかし「あんぱん」では日本の加害について触れていました。兵站が途絶えて飢えた日本兵が中国人から食べ物を略奪していました。
戦争は、本当に複雑なできごとです。どこかに線を引いて加害者と被害者を完全に区別してみせることは非常に難しいです。日本の一般市民にも、被害者である部分と加害者である部分が混在しています。それは恐らく戦争だけではなく、他のいろいろな軋轢でも同じなのだと思います。いろいろな場面で、私たちは加害者でもあり、被害者でもある。ある人に対しては強者であり、別の人に対しては弱者になる。
「神の和解を受け入れなさい」と聖書は言います。聖書が私たちに語りかける福音は、和解の福音です。神は、私たちの敵です。私たちは神を憎んでいます。だから、私たちの世界は壊れ、私たちは憎み合い、分断やヘイトがこんなにあからさまな世界になってしまっている。ところが神ご自身が私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。私たち自身にはもうどうすることもできません。誰が加害者で誰が被害者なのかさえ分からない。「強くて悪い人」と「弱くてかわいそうな人」がいるのではなく、皆が誰かを憎み、他の人を罵っている。この世界では「和解」が絵空事になっています。そんな私たちに、神が和解の手を伸ばしてくださった。神が伸ばしてくださった和解の手、それはイエス・キリストです。
主のもとに立ち返りましょう。自分の道を離れて、主のもとに帰りましょう。必ず主は赦し、受け入れてくださる。私たちは神が伸ばしてくださった和解の手を受け入れるとき、神がどんなに私を深く愛し、大きな赦しの手で包んでくださっているかを知るのです。そして、まさにここで私たちの世界の和解が始まるのです。

2025年7月12日の聖句

主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8) 今こそ待望していた時、今こそ救いの日。(2コリント6:2) 今こそ、と今日の新約聖書の御言葉は言います。「今こそ」です。救いの日は、もう私たちのところへ訪れています。今日、この御言葉を聞い...