2017年11月2日木曜日

詩編第93編「主こそ王」

主は確かだ。大地よりも、海よりも。主の御座は固く据えられている。主こそ王。私たちにとって本当に確かだと思っているものは、一体何だろうか?大水の轟きよりも力強く海に砕ける波、それよりも神は力強い。実際に、私たちはそのような生活をしているのだろうか?大水に恐れをなしているのではないか。そう問われる思いになった。「主の定めは確か」と詩人は告白する。つまり、聖書の御言葉に耳を傾けることこそ、この信仰の急所だ。

しゅ

2017年10月29日日曜日

マタイによる福音書4:12-17「新しい時代の幕開け」

カズオ・イシグロさんの小説『遠い山なみの光』を読みました。悦子という今は英国に生きている女性の回想記です。朝鮮戦争の頃、悦子は長崎にいて、前夫の子を妊娠していた。その夏に悦子は万里子という10才くらいの娘を持つ佐知子という女性と知り合った。佐知子にはアメリカ人のボーイフレンドがいて、彼が自分をアメリカに連れて行ってくれることを夢見ており、子育てにも集中できず、現実を直視することができなかった。この小説にはたくさんの世代間ギャップが登場する。佐知子と万里子。悦子の夫とその父親。父親と元教え子。悦子と娘たち。人と人とのぎくしゃくした関係、そして当時の長崎に色濃く残る原爆の記憶。全体として非常に暗い色彩で物語は進んでいく。悦子が佐知子を思い出したのは、現在の自分の親子関係と重ねるところがあったからだ。実はあの頃妊娠していた娘景子は、英国になじめずに自殺をし、そのことでもう一人の娘ニキが家に帰省して母を慰めるために側にいたのだ。時代を隔て、二組のわかり合えない母と子がいる。なぜ、この暗い小説のタイトルは『遠い山なみの光』だったのでしょう?私は、これはほのかな希望を示すタイトルなのではないかと思います。この物語の最後は娘ニキを見送る悦子の笑顔で締めくくられています。最も辛い時に、互いに齟齬がありながらも寄り添ってくれるニキの存在が、悦子の遠い山なみの光だったのではないかと思うのです。私たちには後悔することがあり、悔いても悔やみきれなくて、顔を上げられないこともあります。自分の罪深さに震えるしかないのです。ローマの信徒への手紙7:7-25を私が初めて読んだのは学生の時でした。衝撃的な言葉でした。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。」自分の罪に言葉を失い、その惨めさを本気で悲しんでいます。苦しんでいます。これを書いたパウロという人の真剣さにたじろぎました。そして、よく分かりました。私も、自分の罪深さに呻きました。神さまのみもとへ帰ろうともせず、隣人を愛することもできない自分の身勝手さ。善を行いたいのに、そうすることができない。ルターはこのような聖書の言葉を真剣に読み、聖書の言葉に従って生きていました。聖書が言うとおりに愛と正義をもって生きた。真剣に生きようとすればするほど、苦しみは増した。自分の罪深さがよりはっきりと見えたからです。私たちの光、私たちの希望は一体どこにあるのでしょう?一体だれが私たちのために寄り添ってくれるのでしょうか?イエス・キリストこそが私たちに寄り添い、私たちを救ってくださったと聖書は伝えます。では、私たちは一体どこでその救いを味わうことができるのか?それは、教会です。教会の仲間たちと共に生き、共に祈り、共に御言葉に聞くことで、私たちはキリストと出会うのです。教会は過ちを犯すこともあります。ルターの時代の贖宥状(免罪符)などは代表的なものでしょう。真剣さを欠いた悔い改めです。お金や儀式で済ませようとする。ルターは訴えます。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・・』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」毎日、神さまの御前で真剣に悔い改めようと呼びかけます。私には希望がないけれど、キリストには希望がある。キリストは私たちの光だから。毎日罪を犯してもこの方は毎日赦してくださる。主の御前に私たちの心を献げよう、と。 

2017年10月26日木曜日

詩編第92編「主に感謝を献げるのは、楽しい」


1節を見ると、安息日の賛歌だとある。主の日の礼拝のための讃美歌だ。そう思うとますます心が躍る。私たちも同じ思いを持って神を賛美している。礼拝すること、賛美することは楽しい。私たちが喜んでいるのは神の御手の業。大切なのは12節だ。「悪人が私に逆らって立つのをこの耳で聞いているときにも」礼拝をすることを止めない。神の御手の業を信じ続けている。子どもも白髪の人も、共に主の言葉に聞き、主を賛美している。

2017年10月22日日曜日

ローマの信徒への手紙第3章21から31節「信仰」

改革者ルターが説教をしている姿を描いた絵が残っています。説教壇に立つルターと会衆席との間に、十字架につけられたキリストがおられる。ルターはキリストを指さしています。私の大好きな絵です。説教、それは十字架を指さす行為です。そこにかけられたままのキリストを証言します。ルターはそのことに集中しました。私たちは一体どこで十字架を見るのでしょう。それは、あらゆるところに立っています。例えば、子育てをしている自分の愛の乏しさに気づいた時、一体どうしたら良いのか?日常の小さな事かもしれませんが、本当に情けなくてがっかりします。そこで十字架を仰ぐのです。この方はどうして十字架の上におられるのでしょう。ルターはこのような言葉を遺しています。「キリストの恵みを獲得するのにふさわしい者となるために、人間は自分自身に絶望しなければならないということは、確かである。」この私の罪のために、絶望すべきこの私のためにキリストは十字架にかかりました。私だけのことではない。それはこの時代の罪であり、社会の罪であり、人類の罪です。先日、私が好きでよく聞くラジオ番組でアウシュビッツ強制収容所の取材報告がありました。恐ろしい蛮行に気が遠くなります。一つ指摘されていたのは、あの蛮行は戦前ドイツの社会のイライラや鬱屈した思いがヘイトスピーチになり、ユダヤ人を貶め、他にもロマや障がい者、同性愛者を排除する雰囲気を作っていた。ヒトラーがそれを発明したのではなく、社会がヒトラーを求めていた、ということでした。それは、今日本に生きる私たちと無関係でしょうか?私たちの信仰告白にこのような言葉があります。「歴史において神の裁きは、自由の下に置かれた人々や国々が、戦争や暴動、奴隷、抑圧、天然資源の破壊、政治的・政治的搾取といった悪を選びとってしまうことにおいて経験される。神は、不必要な苦しみや死を引き起こすそれらすべてのものを忌みきらわれる。神の裁きは、この世の生を超えてある。すなわち神の裁きは、神への依存を否定し、悔い改めと信仰と愛なしに生きようとする人間のあらゆる試みに対峙する。イエス・キリストによる神の救いを拒絶する者は、神から遠く離れ、希望無く罪と死に隷属し続ける。それは地獄である。」聖書はそういう私たち人間の現実を誰よりも知った上で言います。「ところが今や」と。ところが今や新しい時代が始まったのだと。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」前田護郞という先生はこのように訳します。「イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずるものすべてのためのものです。」私たちがキリストを信じる私たちの信仰ではない。キリストのまこと、別の訳では「信実」と言っています。キリストの信実によって私たちは救われる。キリストの信実とは何か?ある人は言います。キリストの信実とは、キリストが私たちのいる不信仰のどん底、地獄にまで来てくださる事だ、私たちは地獄でも、いや地獄でこそキリストと出会う。それがキリストの信実だ。私たちは弱い。弱く情けない人間です。いや、ただ弱いだけではなくて、薄汚れた罪人です。だから、私たちにはキリストが必要なのです。ルターはこころ病む者に、そのことを手紙で訴え続けました。「キリストは私たちが毎日罪を犯したとしても、それらの罪を私たちから取り去ってくださいます。」この方の信実に信頼しようではありませんか。   

2017年10月19日木曜日

詩編第91編「神を信頼し、その陰に宿ろう」


この詩編が元になったわけではないようだが、2節を読んで改革者ルターが作詞した讃美歌「神はわが砦」を思い起こした。「主に申し上げよ、『私の避けどころ、砦、私の神、寄り頼む方』と。」主は必ず助け出してくださる。この詩編を読むとさまざまな苦難に囲まれていることが窺われる。しかし、主の守りを疑うことがない。この信頼を私たちの心としたい。今月31日にルターに始まる改革が500周年を迎えることを覚えつつ、そのように願う。

2017年10月15日日曜日

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の11月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼拝で読むために書かれたものです。ヨハネの時代は混沌としていました。迫害の中に生きていました。聖書の最後のヨハネの黙示録も、あるいは最初の創世記も、混沌とした時代を背景にしています。今朝の聖書の御言葉は、混沌とした地に神が御言葉をもって光をお造りになりました。混沌の中で神の言葉を聞き、神を礼拝する。創世記も黙示録も同じです。私たちも同じです。日本も、世界も、混沌としています。遂に日本やその周辺で戦争が始まってしまうのでしょうか?日本は積極的に戦争に参加するのでしょうか?そうでなくとも、私たちの社会は崩壊してしまいやしないのでしょうか?「光あれ」という神の言葉は混沌の中に響きました。そして、混沌に光が射しました。世界は神の言葉を必要としています。私たちは今この礼拝で、その言葉に耳を傾けているのです。ヨハネによる福音書の冒頭にはこのように書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」暗闇と聞かされて、ヨハネの手紙の一節を思い起こしました。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。」これは他ならない私たちの話です。今、私は、実は闇の中にいるのではないか?目の前にいる兄弟を姉妹を愛せていない。簡単に他人を評論する私。あるいは、私たちが生きるこの社会は?隣国との間でも、同胞同士の間でさえも、憎しみに満ちています。それは暗闇だと聖書は言うのです。歌手のアンジェラ・アキさんが「手紙」という歌を作られました。15才の自分と大人になった自分との手紙のやりとりを歌ったものです。15の自分が問います。「負けそうで、泣きそうで、消えてしまいそうな僕は、誰の言葉を信じ歩けばいいの?」すると大人の自分が答える。「ああ、負けないで、泣かないで、消えてしまいそうなときは、自分の声を信じ歩けばいいの」。いい歌です。アイデンティティを形成する青春の危機を描く力が本当に素晴らしいです。確かに、周りの声に惑わされずにしっかりと自分に向き合うことにかけがえのない意味がある時期です。少し文脈が違いますが、改革者ルターがこころを病んでいる人への慰めの手紙にこのように書きました。「まず第一に大切なことは、この方が、自分自身を基礎として立つということのないようにということです。自分について自分が何を感じているかということによって振り回されないことです。そうではなくて、御言葉をしっかりと捉え、神の名によって自分に語られていることをしっかりと大切にしてください。」ルターは自分のアイデンティティを確かめたり自分の内なる声に耳を傾けること以上に、自分の外から語りかける神の声に耳を傾けることが大事だと言います。自分の中で不確かで危うくなっている基盤を、自分の外、神の言葉に置くように説得するのです。私がどんなに暗闇で、例えこの世界が暗闇でいることを正当化していたとしても、キリストは光で、私たちを光で照らし続けてくださる。それが我らの基盤です。 

詩編第93編「主こそ王」

主は確かだ。大地よりも、海よりも。主の御座は固く据えられている。主こそ王。私たちにとって本当に確かだと思っているものは、一体何だろうか?大水の轟きよりも力強く海に砕ける波、それよりも神は力強い。実際に、私たちはそのような生活をしているのだろうか?大水に恐れをなしているのではない...