2018年11月15日木曜日

詩編第126編「思いもしない偉大な業」


この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超えて大きく、偉大だ。だから「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」ことを信じよう。神が働いてくださるなら、私たちの思いを超えた出来事が起こるのだ。

2018年11月11日日曜日

マタイによる福音書20:1〜16「さあ、パーティがはじまるよ!」


 主イエスが話してくださった譬え話です。まことに主イエスらしい話だと思います。皆さんは、この話、お好きでしょうか?それとも嫌いでしょうか?とても理不尽で不公平な話だという感想も多いのではないかと思います。
 あるぶどう園で働いた労働者たち。夜明けから働いた人、その後も何もせずに広場に立っていて9時から雇われた人、12時からの人、3時からの人、そして5時まで何もせずに広場にいて雇われ、一時間しか働かなかった人。主人は5時からの人から初めて、全員に同じ給料を支払いました。ところが夜明けから働いた人がこれに怒ります。自分たちは夜明けから、熱い中一日中苦労して働いたのに、同じ給料だなんて…と。主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。」主人はもともと一デナリオンの約束をしていた。それを彼らにも支払ってやりたいのだ、と言います。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」そう問うてこの譬えは終わります。
 不公平な話のようにも感じさせます。自分が一日苦労して働いて、ヘロヘロになっているところに、自分よりも全然働いていない者が疲れたような顔をし、そればかりかその人にも神さまからの報いは変わらないなんて聖書は言う。自分の苦労なんて、神さまは見ておられないのかと思ってしまいます。ここに書いてあることは、明らかに私たちの社会の常識とは違います。奇妙な話ではないでしょうか。
 これは天の国の譬えです。神の国はこのようなもの、私たちの尺度でははかれないと主イエスはおっしゃるのです。この主人は、気前のよい人物です。もちろん、神さまのことです。神さまは気前がよい。夜明けから働ける能力のある人も、夕方まで誰にも雇ってもらえなかった人にも、同じように今日生きる命を下さいます。私たちの妬みを引き起こすほど気前がよい。
 この譬え話の前に出てくるのは、子どもたちです。イエスのところに子どもを連れて来た人たちを弟子たちは叱りましたが、主イエスは喜んで祝福なさいました。それに続けて、金持ちの青年が登場します。彼は旧約聖書の律法を子どもの頃から守ってきました。しかし、結局、主イエスのもとを悲しみながら立ち去ることになりました。彼が持っていたお金や彼のこれまでの立派な生き方は、彼を救いませんでした。それでは、一体誰が救われるのか?「それは人間にはできることではないが、神にはできる」と主イエスは言われます。その主イエスは、子どもたちを祝福しながら、「天の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。天の国は、私たちの立派な生き方や努力で獲得するのではなく、何もできない者に、誰にも見向きもされずに5時になってやっと憐れみで雇われたにすぎない者にも、神が恵みとして下さる一方的なプレゼントなのです。
 神さまは、気前のよい方です。周囲に妬みを引き起こすほどに。だから、私でも救われたのです。神さまは、何時から働いたにせよ、今日を生きるための賃金(恵み)を下さいます。労働者はそれをもって家に帰り、晩餐をたのしむのでしょう。私たちも、天の国の宴に招かれています。子どもたちは、そんな神さまの恵み深さを証しする生きた証人なのです。

2018年11月7日水曜日

詩編第125編「山のように、山よりも確かに」


山々のように確かに、神は御自分の民を囲んでくださる。だから、この神に依り頼むなら、その人もまたシオンの山のように揺らぐことがない。自分自身を省みれば、なんと揺らぎやすく、不確かなのだろう。私に確かなことは、神様だけ。それも神に向かう自分の信心が確かだというのではない。神ご自身が確かでいてくださる。それだけが救いだ。主に従おう。この方に幸いを求め、平和を祈ろう。この方こそ私の確かな救いなのだから。

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...