2020年1月26日日曜日

2020年1月26日(マタイによる福音書21:1~22)

マタイによる福音書21:1~22;
エルサレムに入城した主イエスに、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫び、喜んでお迎えしました。、まず、群衆です。「大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。』」ホサナというのは、「救ってください」という意味の言葉です。ダビデの子と呼びかけていますが、救い主メシアはダビデの家から生まれると預言されていましたので、イエスを神が遣わしてくださった救い主と信じ、「救ってください」と言っていることになります。
しかも、この時主イエスは子ろばに乗っておられた。マタイは、そのお姿は預言者の言葉が実現するためであったと言って、旧約聖書の言葉を引用しています。「見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り、・・・」。主イエスのエルサレム入城はへりくだった王としての入城です。このへりくだるろばに乗った王を救い主として迎え、救ってくださいと叫んだのです。
そして、もう一つの声が「ダビデの子にホサナ」と叫びました。それは子どもたちです。神殿の境内にいた子どもたちも、主イエスに向かって「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。その姿を見て祭司長や律法学者が腹を立てるほどに。
私は、主イエス様に向かって「救ってください」と叫ぶ声が、ただ大人たちだけではなく子どもの口にも上ったことに大きな魅力を感じます。主イエスは私たちを神の子として迎えるために来てくださった。すなわち、神の子にしてくださったということが、主が与えた私たちのための救いなのではないでしょうか。
息子が動物が大好きなので、ときどき動物を見に行きます。なかでもろばを見ると、ほかの動物とは違う感情が動きます。主イエス様をその背に乗せたろばは、何と幸せなことでしょうか。私たちを救ってくださる方、私たちを神の子としてくださるお方、主イエス・キリストをお乗せしたろば。さいわいな動物です。私たちも、私たちの上着を主の前に敷いて、主を礼拝したい。神の子どもたちとして!そのために、この主の日を献げて、御前に進み出たい。そう願います。

2020年1月25日土曜日

2020年1月25日(マタイによる福音書20)

マタイによる福音書20;
「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
主イエスがこのようにご自分の十字架と復活について弟子たちに予告したのは、もうこれで三度目です。それぞれの前後関係を振り返ってみると、三度とも同じモチーフが登場していることに気づきます。
今回の三度目では、主イエスが十字架と復活の話をしたすぐ後に、ヤコブとヨハネの母が息子たちを引き連れてイエスのもとにやって来て言います。「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください」と。主イエスはこの願いについて、最後に「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり・・・」と指摘しています。偉くなりたい、という弟子たちの欲望の話です。主はこうも問いました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」主イエスは十字架の話をしていますが、ヤコブとヨハネと母にはそのことが分かりませんでした。主イエスにとってご自分の右と左に座るとは、イエスと共に十字架につけられるということに他ならないのです。
二度目の十字架と復活の話の後には、弟子たちは「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねています。ここでもやはり偉さの論争が起こっている。それに対して主イエスは「自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」と答えます。そして、初めての十字架と復活の予告の時、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。主イエスはペトロに「あなたは私の邪魔をする者だ」言い、さらに弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われました。
こうして見ると、イエスの十字架と復活の予告には、それを打ち消す弟子たちの醜態がセットになっています。偉くなりたい弟子たちの願望と、イエスの十字架は、水と油のような関係です。そして、イエスの十字架を否定すると共に、自分が十字架を負うことも「とんでもないことです」とならざるを得ないのです。それが私たちの実態です。
そんな私たちは、ちょうど、道端に座っていた二人の盲人です。信仰の目が見えていません。しかし、主イエスは「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と訴える者たちを深く憐れみ、その目に触れて見えるようにしてくださいました。この「主よ、私たちを憐れんでください」は、古来悔い改めの祈りの言葉として教会で大切にされてきました。主の十字架を「とんでもない」と言い、自分の十字架を負って主に従おうとしない私たちを憐れみ、罪を赦し、この目が見えるようにしてくださるのは、ただキリストだけなのです。

2020年1月24日金曜日

2020年1月24日(マタイによる福音書19)

マタイによる福音書19;
主イエスを試そうとするファリサイ派の人からの問い、「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは許されているのでしょうか」に対し、主イエスは聖書に立ち戻って答えておられます。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と言って、「こういうわけで、人は父母と離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。・・・。」と創世記第2章の言葉を引用なさいます。しかし、ファリサイ派の人はイエスを試そうとして言いがかりをつけているだけなので、今度は彼らも聖書を引き合いに出して、「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離婚するように命じたのですか」と言いました。これは、そのことで悩んでいたとか傷ついていたとかそういう問いではなく、試すための問いであり、質問のための質問であったことは明らかです。彼らは聖書を読んで聖書から導いた言葉を語っているかのように装っていますが、客観的に見れば、その心が聖書から離れていたことは明白ではないでしょうか。
こういう聖書の読み方は、誰もがついついしてしまうことなのではないか、と思います。自分を正当化するため、他人を否定するため、安心材料にするため。そういうことのために、聖書を材料にしてしまう。そこにあるのは、ただただ「自分」だけであって、神様も隣人も消し去られているのではないかと思います。先の問いで考えれば、夫婦生活に実際に苦しんでいる隣人や、男や女に代表される異なる他者と共に生きるように私たちを作られた神様の御思いなどは、自分の言いたいことの材料にするための聖書には、消えてしまっているのではないでしょうか。
続く子どもへの主イエスの祝福と金持ちの人の出来事は、そのことを私たちに伝えているように思います。主イエスはご自分のもとに連れてこられた子どもたちを御覧になって「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。それに続けて、すぐに、金持ちの人が登場します。彼は小さな頃から旧約の律法をキチンと守って生きてきました。完璧な生き方をしてきた。彼に対し、主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」と言われます。その人はそれを聞いて立ち去り、弟子たちは戸惑います。「それでは、誰が救われることができるだろう」と。主イエスはそれを聞いて言われます。「それは人にはできないが、神には何でもできる。」
子どもたちは無力です。今でもそうですが、この時代はさらにそうでしょう。人間の一人としてカウントされていませんでした。しかし、天の国はその無力な子どもたちのものです。金持ちのあの人は、財産というこの世での「祝福」を受け、律法もしっかり守って生きてきました。自分の力に頼ろうと思えば、いくらでも頼れました。だから、完璧になりたかった。主イエスは、自分の力ではなくて神の力に頼り切ってごらんと言われます。
自分の力が大きくなると(そういう自覚が強くなるほどに)、私たちの世界からは他人が消えます。自分のための隣人愛になってしまいます。しかし主イエスはそうではありませんでした。全財産どころかご自分の命まで私たちに下さいました。このお方に、私たちの言い分や願望の代弁者ではなく、神様の御言葉である聖書のメッセージがあますところなく現れているのです。

2020年1月23日木曜日

箴言14:26〜35「造り主を尊び、隣人と共に生きる」

「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。」隣人、しかも弱く、乏しい隣人との関わり方が造り主なる神様との関わりに直結している。信仰は抽象的な世界の話ではない。神が造ったこの世界で、わたし自身も造られた者として、共に造られた隣人との共同生活において信じる、ということだ。造り主の働きをそこに見るというのは、すべては良きことだという信頼でもある。与えられたものを分け合う恵みである。

2020年1月23日(マタイによる福音書18)

マタイによる福音書18;
弟子たちから「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と問うてきた弟子たちに対して、主イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われます。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
弟子たちが主イエスに問うた「偉い」というのは「大きい」ということです。「偉い」と理解すれば人から褒められたい、尊敬されたい、一目置かれたいということでしょうし、「大きい」と理解すれば力がある、好きなように振る舞える、支配できる、ということになると思います。どちらも表裏一体ですから、切り分ける必要はないのかもしれませんが。いずれにしても、弟子たちは天の国でそのような存在になりたくて、主イエスに尋ねました。「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか。」
主イエスの答えは意外です。一人の子どもを立たせて、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。天の国でいちばん偉い人、大きい人は誰かときいたのに、この子どものようにならなければそもそも天の国には入れないと言われます。さらに、この子どものように、自分を低くするものが、天の国ではいちばん偉いと言うのです。弟子たちは自分を低くしたいのではなくて、偉くなりたかった。主イエスの答えは、私たちに価値の転換を迫ります。
そのさらに具体的な現れが、続く言葉です。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである。」このような子どもの一人とは、何を意味しているのか。この第18章を続けて読むと、明らかです。6節には「これらの小さな者の一人」とあり、10節にも「これらの小さな者」と言って、迷い出た一匹の羊の話をします。さらに、15節以下では、あなたに対して罪を犯したきょうだい。そして21節以下でも、同じく、自分に100デナリオン借りていて返してくれない仲間です。ここに出て来る子どもや小さな者、迷い出た羊、罪人、借財人は、同じことを指しているのでしょう。すなわち、自分に不義を働く受け入れがたい存在です。主イエスの名のためにそのような一人の人を受け入れる。それが、天の国で求められるへりくだりだと主イエスは言われます。
このへりくだりは、最後のたとえ話で言われているとおり、自分が一万タラントンという莫大な借りを神から赦して頂いたという事実からしか始まりません。私たちは、赦された罪人です。赦されたということが私たちのすべてです。だから、天の国での大きさは、神と隣人の前でのへりくだりによって測られます。

2020年1月22日水曜日

2020年1月22日(マタイによる福音書17)

マタイによる福音書17;
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」
六日の後と始まっています。いつから六日後なのかというと、主イエスが始めて十字架と復活の予告をしてから六日目です。それを聞いたシモン・ペトロは、主を脇に連れ出して「主よ、とんでもないことです」と言って主イエスをいさめ始めた。そして主イエスに「サタン、引き下がれ」と大変厳しく叱られました。それから六日目の出来事です。
その日、主イエスは高い山に登られた。山の上というのは、マタイによる福音書では神との出会いの場所です。第5章では、主イエスが山の上で御言葉を語られました。キリストの弟子として生きる指針を示されました。復活の後、第28章では弟子たちが主イエスに指示された山に登り、そこでイエスに会って「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という使命を与えられました。どちらも山の上の出来事です。今日の出来事も、山の上で起きたことでした。
主イエスのお姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。復活の時の栄光のお姿を思わせる描写です。そして栄光のお姿の主イエスは、モーセとエリヤと語り合っていた、といいます。モーセは律法の代表者です。エリヤは預言者の代表者です。この当時、「律法と預言者」と言えば、聖書のことを意味していました。聖書の語りかけが指し示すのは、キリストの復活のお姿です。このキリストを指し、雲の中から父なる神様のみ声が聞こえます。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。私たちは、神様を知るために、復活のキリストのお言葉に耳を傾ければいい、そういうことではないでしょうか。
14節以下では弟子たちが悪霊に取りつかれた子どもを癒やせなかったという話になります。どうして癒やせなかったのでしょうかと問う弟子たちに、主イエスは「信仰が薄いからだ」と言われました。もしもからし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かせるはずだった、と。そして、それに続く22,23節は、主イエスが二度目の十字架と復活の予告をし、弟子たちが心を痛めたという話です。この流れで見てみると、ここで弟子たちに決定的に欠けていた信仰というのは、十字架と復活への信仰であることが分かります。キリストの十字架、そして復活によって救われたことを信じていれば、弟子たちにもあの子を助けることができたということでしょう。私たちキリスト教会が、この時代で語るべき言葉は、やはりキリストの復活のしらせに他ならないということを教えられます。復活のキリストを指して、神は「これに聞け」と言われました。このお方こそ、私たちの救いだからです。

2020年1月21日火曜日

2020年1月21日(マタイによる福音書16)

マタイによる福音書16;
「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
フィリポ・カイサリアで、主イエスは弟子たちにそう尋ねられました。フィリポ・カイサリアは、「カイサリア」と呼ばれているとおり、ローマ皇帝の支配が色濃い町です。そこにはカエサルの像が据えられていたと言います。カエサルは、自らを神と称して臣民に拝ませていました。神である皇帝は「主」と、あるいは「救い主」呼ばれていました。そのような皇帝の支配の色濃い町で、主イエスは問いかけてきます。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」私たちは、何と答えるのでしょうか。
それに対し、シモン・ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」私の神は皇帝ではなく、あるいはヘロデ王でも天皇でもありません。私の主、救い主は、この世の権力を持つ何者でもありません。イエスさま、あなたこそ私の主、私の救い主、あなたこそ生ける神の子です。ペトロと共に、私たちもそう答えます。
そこで大切なことは、私たちの救い主は無力にも十字架にかかり、そして三日目に復活する方である、ということです。ペトロはその一点で躓きました。十字架と復活こそ、私たちの躓きの石なのです。それは、十字架と復活が、この世が救いとして提示する魅力的なものとあまりにもかけ離れているからなのではないでしょうか。皇帝の救い、この世の力が見せる救い、富のもたらす救い、それらは皆私たちの願いが実現した先にある救いです。しかし主イエスが神の子として私たちに与えてくださる救いは、自ら無力になり、無残に殺され、私たちの罪を背負わされて罰を受けることによってもたらしてくださる救いです。ペトロでなくとも、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言わないわけにはいかない。
しかし、今朝の第16章は、その始まりからすでに、主イエスが私たちに見せてくださるしるしは復活のしるしだけと言っていました。「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」三日間魚の腹の中にいたヨナのしるし、それは三日目の復活を意味します。主イエスは、十字架と復活によってだけ、ご自分の救い主たることを私たちに示してくださる。
ですから、主イエスが私たちにくださるのは私たちの願望を超えた救いである、ということであるのだと思います。そして、そうであるからこそ、本当に救いなのではないでしょうか。十字架の上で神に見捨てられた死なれた方、その神に墓から引き上げられた方。このお方こそ、私たちのただひとりの救い主、神の子メシアに他なりません。

2020年1月26日(マタイによる福音書21:1~22)

マタイによる福音書21:1~22; エルサレムに入城した主イエスに、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫び、喜んでお迎えしました。、まず、群衆です。「大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホ...