2024年4月27日土曜日

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35)
イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42)

十字架にかけられた一人の罪人が主イエスに言った言葉が、今日私たちに与えられています。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」この人は主イエスの隣で十字架にかけられていました。そして、自分は罪を犯し、そうされるのが当然の人間だと知っていました。隣の十字架の上にいたイエスの、神の子としての憐れみにすがっていったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」これが、今日の私たちの祈りです。
しかし、このとき反対側の隣りにいて十字架にかけられていた別の罪人は、同じようには祈りませんでした。それどころか自分も十字架にかけられているのに、十字架にかけられている主イエスをなじり、軽んじました。自分の罪深さを認めることのなんと難しいことでしょう。私たちが自分の罪を知り、それを悔い改めるのは!
だからこそ、預言者エレミヤを通して神さまはおっしゃいます。「『私には罪がない』とか、『主の怒りは私から去った』とあなたは言う。『私は罪を犯していない』と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。」神さまは、私たちがどんなに強情で、どんなに頑固に、自分の罪を認めようとしないかをよくご存じです。神さまは私たちのことを私たち以上によく知っておられる。
私たちは、十字架にかけられたキリストを仰ぐときにだけ、自分の罪を知ることができるのです。十字架にかけられたお姿のキリストと出会い、キリストの御前にひれ伏すときにだけ、私たちは自分の罪を知ることができる。私たちはキリストの御許に帰ります。キリストの伸ばしてくださった腕の中に立ち返ります。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」そう祈りつつ、キリストの御前に進み出ていきます。

2024年4月26日金曜日

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13)
(イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」(マルコ12:29~31)

「神を畏れ、その戒めを守れ」と言います。その戒めは、神を愛すること、そして隣人を愛すること。この二つだ、と主イエスがおっしゃいました。愛の戒めこそ人間のすべてです。
唯一の主であるお方への愛。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神さまを愛する。主なる神さまの愛を、キリストに示された神の愛を思い起こすとき、一体私たちにどうやって神への愛を現しうるのだろうか、と思います。どんなに愛しても愛し足りないお方です。しかし、自分の愛のなんと乏しいことでしょう。しかしそれでもなお神は私たちの愛を求めてくださいます。私たちが力の限りに神を愛する愛を、それがどんなにちっぽけで、偽りにまみれていたとしても、私たちの献げる心を喜んでくださる、慈しみに満ちたお方です。
隣人への愛。自分を愛するように隣人を愛しなさい、と主はおっしゃいます。自己愛にも、他者への愛にも病んでいる私たちです。愛することはなんと難しいことでしょう。具体的に考えれば考えるほど悲しくなります。しかし、キリストは私たちに先立って愛の道を拓いてくださいました。キリストが私たちのために愛を示してくださいました。私たちも、どんなに愛に乏しくても愛に生きる道が開かれている。そのことを大胆に信じて良いのです。この私のうちにも始まっている神の御業を。
今日一日の、キリストの祝福を祈っています。

2024年4月25日木曜日

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。
あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9)
イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50)

主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて行かれた、と聖書は伝えています。主イエスは祝福の手を上げたままで天におられるのです。
「救いは主のもの。あなたの民の上に祝福を。」今日も、キリストは私たちのための祝福を告げてくださっています。今日も私たちはキリストの祝福の中を生きています。私たちがどこにいようとも、キリストが祝福してくださっています。私たちが何をしているときにも、キリストの祝福がなくなってしまうことはありません。そうであるからこそ、キリストの祝福を無駄にしない一日でありたいと願います。
聖書は「救いは主のもの」と言います。私たちを救ってくださる主の御業は、主ご自身のものです。だからこそ確かであり、力がある。キリストの救いの御業は、いつも、いつまでもその力を振るいます。私たちが眠っているときにも、起きているときにも。休んでいるときにも、働いているときにも。悲しみのときにも、喜びのときにも。いつもキリストの十字架と復活の福音は私たちを救い続ける。キリストに示された神の祝福は永遠に私たちから離れることがない。どのようなときにもキリストの祝福の声が響いています。イエス・キリストの手の下で、私たちの今日一日の歩みが進められていくのです。

2024年4月24日水曜日

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4)
天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6)

「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝、天使は女たちにそのように告げました。「あの方は、ここにはおられない。」そうです。この世界に、主イエスがおられない場所があるのです。「あの方は、ここにはおられない。」主イエスがおられない場所、それは、十字架にかけられて葬られた墓の中です。キリストはもはや墓の中にはおられない。復活なさったからです。
キリストは復活なさった。もはや、主イエス・キリストは死人の中にはおられない。キリストは今生きておられる。死者の中にキリストを捜しても、そこにはおられません。
しかし、私たちはそれと同時に、キリストはどこにでもいてくださると信じています。十字架の上で、キリストは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。キリストは神に棄てられた。陰府に降って行かれた。この世界にキリストのおられない場所、キリストの手の届かない場所はどこにもない。
しかしそのお方はいつまでも陰府の底に沈んでおられるのではない。今や復活し、生きておられる。陰府に降った方は死者の中から神によって引き上げられて、生きておられる。だから、私たちがやがて陰府の底で死者のひとりとして身を横たえるとき、その陰府は復活の命への通路に他ならない。キリストが通してくださった道です。私たちはもはや死に支配されていない。だから、聖書は「恐れるな」と言います。キリストの命の道が、今日私たちの進む道だからです。

2024年4月23日火曜日

2024年4月23日の聖句

神の道は完全。(詩編18:31)
(イエスの言葉)「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」(マルコ4:26~28)

福音書記者マルコは主イエス・キリストの福音の宣教を、このような言葉で端的に伝えています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」キリストは神の国の到来を宣言なさいました。キリストの告げた福音は、神の国の福音です。
これはキリストが宣言してくださった福音。ですから、私たちからしたら神秘です。私たちには神の国を建国することも、造り出してみせることもできません。神にしかそれを建てることはおできにならないし、キリストにしかその到来は宣言することができない。しかし、キリストが宣言してくださったからには、神の国の到来は確実なことです。
「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」
私たちの知らないうちに、神の国は自ずから実を結ばせ、現実のものとなる。いや、既にそれは芽生えている。キリストが「近づいた」とおっしゃっているから。もうそこまで神の国は来ている。私たちがそれを実感することができず、私たちは相変わらず非力だとしても、キリストのもたらす救いはもう実りの季節を迎えています。
「神の道は完全」です。神が告げてくださる救いですから、何よりも確かで、何よりも素晴らしい、喜びに溢れた神の国が、私たちのところまでもう来ています。

2024年4月22日月曜日

2024年4月22日の聖句

神がほめたたえられますように。神は御使いを遣わし、神に信頼する僕たちを救い出された。(ダニエル3:28)
イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。(マルコ1:13)

神は御使いを、天使を遣わしてくださる。神に信頼する者たちを救いだしてくださる。「天使」という言葉は、もともとの意味は「メッセージを伝える者」だそうです。神さまからのメッセージを携えてきて人々を力づけ、それによって神に信頼する者を救い出す。それが天使です。
おとめマリアに現れた天使は、主イエスが彼女のみに宿ったことを知らせました。クリスマスの夜に羊飼いたちに現れた天使は、今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになったと、救いの到来を告げました。天使は神さまからの救いの知らせ、良い知らせを届ける。ご自分を信頼する者を救う神の恵みの言葉を届けます。
天使にとって大切なことは、羽が生えているかどうかとか、頭の上にわっかがあるかどうかとか、そのようなことではありません。(聖書はそういうふうには描写しません。)そうではなくて、神からのメッセージを告げる者を天使と呼ぶ。神に遣わされて、神からの伝令として仕える者。ですから、神の良い知らせ、神の愛を告げる救いのメッセージを携えるとき、皆さんも天使です。皆さんを天使として神はお用いになります。私たちの隣人を助ける言葉、神の愛を告げる福音の言葉を伝える者として、神が私たち一人ひとりを用いてくださるのです。

2024年4月21日日曜日

2024年4月21日の聖句

今週の聖句:
私は良い羊飼いです。羊は私の声を聞き分け、従う。^私は永遠の命を与える。(ヨハネ10:11a,27~28a)

今日の聖句:
神は、私に力を帯びさせる方。(詩編18:33)
神の弱さは人の弱さよりは強い。(1コリント1:25)

神が私たちに力を帯びさせてくださいます。神がご自身の力を私たちに注いでくださっている。「主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」と私たちが賛美するとおりに。神はご自分の力によって私たちを支えてくださいます。
神はご自分の強さではなく、弱さによって私たちを救ってくださいました。主の愛は、キリストが十字架にかかることによって示されました。人間の愚かな口を通して宣べ伝えることによって、キリストの愛は伝えられていきます。神がご自分の弱さによって私たちを救ってくださったのは、私たちが決して傲慢にならず、神の御前にへりくだるためです。
今日も、キリストの恵みがありますように。今日もあなたに神の祝福がありますように。神の御前に祈り、賛美を献げましょう。福音に耳を傾けましょう。共にいてくださる神の守りを、支えを、心から祈っています。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...