2020年9月21日月曜日

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3
「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。
私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。」

これまで書記官に口述筆記してもらって手紙を書いてきたパウロが、最後の挨拶を自分の手で記している。これはどの手紙にも記す印だと言います。その印というのは、この言葉。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。」
何と素晴らしい印でしょう!「敬具」よりも、「敬白」よりも、「草々」よりも素敵です。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように!ただ、これがあまり意味の無いただの決まり文句になってしまっては何の意味もありません。敬具や敬白は、大した意味はない定型句に過ぎない。そのような意味を持たない言葉としてこれを書くことは許されません。真心から、心を込めて、祈りを込めて、私たちも自分の手紙の最後の印としてこの言葉を添える。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。」
今日、これを読んでいるお一人おひとりに、主イエス・キリストの恵みと祝福がありますように私も心から祈ります。主なる神様ご自身が私たちの平和となってくださって、あなたの今日一日を神との平和、和やかさの中に歩ませてくださいます。神との間が和やかであるならば、隣人との関係も新しくなるのではないでしょうか。それは、キリストの恵みから始まります。
今日、あなたがどこにいるとしても、何をするにしても、神が共にいてくださいますように。悲しみの時にも喜びの時にも、神があなたを支えていてくださいますように。今日あなたがすること、話す言葉、心に思い浮かべること、それら一つひとつが神の愛の中にありますように。キリストの平和があなたがたの内に宿り、神への賛美があなたの口に宿りますように。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン!

2020年9月20日日曜日

2020年9月20日(テサロニケの信徒への手紙二 1~2)

テサロニケの信徒への手紙二1~2
「実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。」
パウロは主イエスが再び来てくださるという「その時」に焦点を合わせて生きることの大切さを訴えます。私たちの生き方を定める基準は、主イエスが再び来てくださってなさる裁きにある。主の御前に私はいかなる生き方をしているのか?この世では迫害され、苦しみを味わうことが多いでしょう。しかし、主はそれを覚え、必ず報いてくださる。そのようにして今この時を見つめ直してほしいとパウロは言います。
ところで、先ほど「焦点」という言葉を使いました。この言葉には関心や注意の集まるところという意味だけではなく、数学で楕円という図形を作図するときの基準の点の意味もあります。楕円は「二つの定点からの距離の和が一定になる点の軌跡」で、これら二つの定点を「焦点」と呼びます。つまり、楕円を書くためには二つの基準になる点が必要だ、ということになる。私たちの生き方を定めるための点も、二つあると思います。
というのは、パウロが2:2で「主の日がすでに来たかのように言う者がいても、すぐに理性を失って動揺したり、慌てふためいたりしないでほしい」と言っています。主の日というのは、主イエスが再び来てくださる日のことです。その日だけが唯一の基準になると、今ここに生きるということの意味をしっかりと捉えられなくなってしまいます。キリストは再び来てくださる。それは、キリストがそう約束なさった以上確実なことです。ただし、それは「まだ」です。私たちは必ず来てくださるキリストを待ち望みつつ、今日という新しい日を生きています。キリストが来られるのが「まだ」だということもまた神様がお決めになった以上、新しい今日という日を地に足着けて生きる責任が私たちにあるのではないでしょうか。
キリスト者の生の二つの焦点、それは「既に」と「未だ」です。すぐにも来ると約束したキリストは、既に私たちと共にいる。しかし、未だ世の終わりは来ていない。「既に」と「未だ」という二つの時の間に私たちは生きているのです。
そんな私たちの生きるための羅針盤は、ただただキリストご自身の福音が込められた聖書の御言葉に他ならない。私たちはキリストの到来を待ちつつ、また早めつつ、今日という与えられた新しい一日を生きていきます。

2020年9月19日土曜日

2020年9月19日(テサロニケの信徒への手紙一5)

テサロニケの信徒への手紙一5
「主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いに造り上げるようにしなさい。」
パウロは新約聖書に残された手紙をたくさん書きましたが、それぞれ、教会に起こった何らかの課題に対処するために書かれました。例えばそれは割礼を巡る事柄であったり、あるいは教会の分裂や社会における身分制度をどう考えるか、性倫理のことなど、さまざまです。但しどの手紙も一般論を論じるのではなく、実際に教会に起きた出来事に対処するための手紙です。それでは、今読んでいるこの手紙は何のために書かれたのでしょうか。テサロニケの信徒への手紙一を読んで推察されることは、この教会は堕落していたということです。どういう意味で堕落していたかというと、主イエスが再び来られるというリアリティを見失って、信仰者としての節度をもった生活の形成を止めてしまっていた。そういう教会の姿がこの手紙の背景にあると考えられます。
「主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。」この言葉も、教会の背景を念頭に読むと意味が深まります。主が私のために死んでくださった。その事実が私たちの生き方を方向付けます。それは、私たちが主と共に生きているからです。
主と共に生きる者の姿についてはこの手紙で再三にわたって言及されていましたが、手紙を終えるにあたって、パウロは象徴的にこのように言いました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて/神があなたがたに望んでおられることです。」美しい言葉です。しかしこれはただ美しいだけでなく、キリストを待つ者の姿として、神が美しくしてくださった者の姿です。キリストがいつ来られるのか、それは私たちには分かりません。まるで盗人のように突然やってくる。しかし、パウロは言います。「しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなた方を襲うことはありません。」キリストが来られる日は、光の子とされた私たちにとっては喜びの日だからです。だから、私たちはいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝します。キリストを待ち望む者を平和の神ご自身が全く聖なる者として、霊と心と体とを完全に守ってくださることでしょう。私たちは、やがてキリストに相まみえる。その日を待ち望みつつ、今日という一日の営みをなしていきます。

2020年9月18日金曜日

2020年9月18日(テサロニケの信徒への手紙一4)

テサロニケの信徒への手紙一4
「きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々にように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。」
眠りに就いた人たちについて、希望を持ってほしい!使徒パウロは私たちに訴えます。希望がなければ、死はただ悲しむよりほかありません。死で終わってしまうことのない希望、死を超えた希望がなければ、嘆き悲しみしか残らない。しかし、私たちには死で終わってしまうことのない希望があるとパウロは言います。
イエスが死んで復活された。その事実が、私たちの揺らぐことのない希望に他ならない。なぜなら、「神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出して」くださるからです。イエスと共に導き出してくださる。それについて、続けてこのように言います。「合図の号令と、天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。」私はこのラッパの音のイメージが大好きです。ヘンデルのメサイアの中にこの場面の曲があります。ラッパが鳴ります。私もできることなら、いつか礼拝にラッパを取り入れたいと願っています。ラッパの合図が鳴ったときに起こることは、すでに眠りに就いている者も生きている者も、キリストと出会うということです。主が私たちに顔と顔とを合わせて出会ってくださる。私たちはそこで先に眠りに就いた者たちとも会えるのでしょう。ただ再会を喜ぶということだけではなく、何よりの幸いは共にキリストの御前に出るということです。私たちはキリストの前に呼び出される。「こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」
そして、パウロは言います。「ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。」私たちには、必ず共に主の前に導き出される日が来る。私たちの愛する者たちと、主の御前で再会することもできるでしょう。あるいは、私たちが憎んでいたり私たちを憎んでいる人とも、再会することになると思います。しかし、主の御前での再会です。新しい関係をそこで頂くことになるに違いない。大切なのは、主イエスさまに共にまみえるということです。主にあって私たちの関係も新しくして頂ける。そして、主の御前に共に導き出されるという出来事は、私たちはもうすでに主の日の礼拝の度に経験していることでもある。私たちは礼拝の時に、主にある希望を先取りしています。

2020年9月17日木曜日

2020年9月17日(テサロニケの信徒への手紙一3)

テサロニケの信徒への手紙一3
「それで、きょうだいたち、私たちは、あらゆる困難と苦難の中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められました。あなたがたが主にあって堅く結ばれているので、私たちは今、安心しています。私たちは神の前で、あなたがたのことで喜びに溢れています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神に献げることができるでしょうか。」
パウロは、今、困難と苦難の中にあると言っています。3節を見ると「このような苦難の中で、動揺する者が一人もいないようにするため」と言っています。パウロが遭っている苦難を知った教会の人たちが動揺し、つまずいてしまうかも知れないと心配し、配慮をした言葉なのでしょう。2:18では「そこで、あなたがたのところに行きたいと願いました。ことに、私はパウロは何度も行こうとしたのですが、サタンが私たちを妨げました」と言っています。パウロが再びテサロニケに行きたいと願っていたけれども、実現できなかった。パウロはそれはサタンの妨げであったと言います。具体的に何があったのか。パウロの体調が悪化したのか、迫害などのほかの外的な要因のために行動が制限されていたのか。いずれにしても、それはパウロ自身にとっても厳しい現実であったはずです。
しかし、今やパウロは慰めを受けている。それは、他ならぬテサロニケ教会の信仰によって受けた慰めだとパウロは言います。彼らが主にあって堅く結ばれているから。その様子を知って、「私たちは今、安心しています」と言います。この言葉には聖書協会共同訳の訳注が付いていて、直訳すると「生きています」という意味だそうです。テサロニケ教会の兄弟姉妹が主にあって堅く結ばれていることを聞き、その事実を慰めとして今生きている。パウロはそう言います。
その思いは私にもよく分かります。私は、コロナのことで教会堂での礼拝を中断せざるを得なかったとき、同じことを繰り返し考えていました。私たちは心ではつながっていても、時には体が離ればなれにならざるを得ないこともあります。しかしそれでもあの兄弟が、あの姉妹が信仰を持って生きている。その事実は私にとっての計り知れない慰めでした。教会の仲間がいるから、辛い時代を生きることができる。
教会の兄弟姉妹は、私たちにとってかけがえのない宝です。その存在が私たちにとっての慰め、励まし、神様が与えてくださった力です。

2020年9月16日水曜日

2020年9月16日(テサロニケの信徒への手紙一2)

テサロニケの信徒への手紙一2
「きょうだいたち、あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでした。それどころか、知ってのとおり、私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。私たちの宣教は、迷いや不純な動機から出たものでも、策略によるものでもありません。私たちは神に認められて福音を委ねられたので、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。知ってのとおり、私たちは、こびへつらったり、口実を設けて貪ったりはしませんでした。それは、神が証ししてくださいます。」

パウロは、何よりもまず神様との関係の中で物事を判断する人なのだと思います。人からどう思われるか、どう判断されるかということを基準にするのではなく、あるいは自分の達成感や徒労感というところではなく、あくまでも神様が自分をどう御覧になるかという点を大切にしました。
私があなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでしたと言っています。もしかしたら、外面的に見ると無駄に見えるような事情があったのかも知れません。しかしそれが無駄ではないと断言できるのは、テサロニケに教会が生まれ、福音の言葉を聞いた人がいるからであるのだと思います。どういう事情があるにせよ、神様から御覧になって、福音を聞き信じる者がいるという事実に意味があるということへの確信があったのではないでしょうか。
パウロがテサロニケに神様によって遣わされたように、私たちも、今日私たちが生きる場所へ神様によって遣わされています。それぞれの場所で、私たちは今日、神様が私たちに預けてくださった業をします。私たちはそれを迷いや不純な動機からすることもできますが、人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んで頂くためにすることもできます。私たちにとって、外面的に見て有利な状況も不利な状況も起こりえます。しかし、それに惑わされることなく、私をここに遣わしてくださったのは神様だということを信じ、それを基準に、今日という日を過ごしてみましょう。私たちがいるのが神に遣わされた場所であるのならば(そして事実そうなのですが)、そこにはキリストが共にいてくださり、私たちが神に喜んで頂くために献げる業を神様ご自身が御心に留めて喜び、神様からの報いを与えてくださることでしょう。

2020年9月15日火曜日

2020年9月15日(テサロニケの信徒への手紙一1)

テサロニケの信徒への手紙一1
「私たちは、祈りの度に、あなたがたを思い起こし、あなたがた一同について、いつも神に感謝しています。あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っています。」
テサロニケはエーゲ海を臨むマケドニア州の町です。第二次宣教旅行の時、パウロとシラスがこの地を訪れて伝道し、教会が生まれました。パウロはこの教会を覚え、彼らのために祈り続けていました。祈りの度にテサロニケ教会のことを思い起こし、神に感謝したと言います。パウロの祈りは、テサロニケ教会のためだけではなく、この手紙を回覧して読むほかの教会の人々のための祈りでもあったのではないかと思います。そうであるとすれば、この祈りはこの手紙を今読んでいる私たちのための祈りでもあるのではないでしょうか。
「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。」私たちのための祈りです。あまりにも光栄な、もったいないような祈りです。しかし、キリストの教会というのは、こういうところなのだと私は信じています。キリストの愛がここに実っている。それは私たちの心がけや努力の賜物であるというのではなく、ここで神様が生きて働いてくださっているから、私たちはその神のお働きの実りにあずかっていると信じてよいのではないでしょうか。
パウロはこのようにも言います。「神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」私も、この点について確信を持って同じように言いたい。私は、皆さんが神に選ばれていることを知っています。洗礼を受けたというのはそういうことです。あるいは洗礼を受けたいと願うのは、そういうことです。私たちは神に選ばれて、信仰に導かれて、今生きている。だから、私たちはこの神の選びを無下にしてはいけません。それは選んでくださった神様に失礼です。神を礼拝し、神様の御前に身をかがめて、私たちは生きていく。主イエス・キリストが再び来てくださるその日まで。私たちはキリストを待ち望みつつ、今日という一日を選ばれた者として生きていきます。

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3 「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。 私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリ...