2025年1月20日月曜日

2025年1月20日の聖句

あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。(イザヤ60:19)
(イエスの言葉)私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。(ヨハネ12:45~46)

主イエス・キリスト。この方こそ私たちの光。私たちを照らす。キリストはご自分を信じる私たちのための光として、この世に来てくださいました。
ブラジル東北部にある姉妹教会、マッタ・デ・サン・ジョアン教会を訪問したことがあります。ジョタカという農村の奥の方にある教会です。周りには畑しかありません。送電の事情が悪く、よく停電になります。夜停電になると、文字通りに真っ暗になります。そうするとやれることがないので、寝るしかありません。しかし、私のようなよそ者は空を見上げて星を眺めます。日本では見ることのできない南半球の星座が見えます。その星の輝きは本当に美しい。星の光に照らされる。そして、次の日の朝になればちゃんと朝日が昇って大地は光に包まれます。
イエス・キリストはそういう暗闇の中に訪れた光です。星の輝きであり、大地を包む朝日です。私たちはキリストという光に照らされて、今日も生きています。このお方こそ私たちの希望です。このお方こそ私たちの救いです。私たちを闇にとどめることのないように、光の方が私たちのところへ来てくださったのです。
「あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。」キリストという光は、停電になってしまうことがありません。曇っていても輝き続けます。どんな深い闇の中でも、その闇に負けてしまうことがありません。どのようなときにも私たちの希望でいつづけてくださる。この方を私たちはあがめ、今日もこのお方に祈りを献げているのです。

2025年1月19日日曜日

2025年1月19日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

今日の聖句:
起きよ、光を放て。
あなたの光が来て
主の栄光があなたの上に昇ったのだから。(イザヤ60:1)
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79)

一昨日の1月17日に阪神淡路大震災から30年を迎えました。被災された方たちには、言葉に尽くせない日々でいらしたことと思います。今日の御言葉に「暗闇と死の陰に座している者たち」と書いてあります。まさに、この言葉の通りの経験なのではないかと想像します。
しかし、同時に思います。地震があったこと、そのための建物の倒壊や火事のこと。それも本当に大変な暗闇の出来事に違いないですが、さらに過酷なのは、そのような出来事の中での人間の振るまいではないかとも思います。30年を迎えるにあたって放送されていたニュースの中で、当時の避難所で女性への暴行事件があったことが振り返られていました。このような出来事の中で恐ろしい罪が犯されていた。地震は地球の自然環境の中で起こる大変な出来事です。しかし人が人を食い物にするのは、罪が生み出す事柄です。人間の心の中にあるものこそ、本当に暗闇であり、死を生み出す陰ではないでしょうか。
私たちの罪の闇は、神の憐れみによって光が差さなければ救われようがありません。ほかの方法で救われうるほど甘いものではない。もっと深刻で、深く病んでいます。私たちは罪の病気に捉えがたく冒されています。
高い所から訪れてくださる曙の光をただひたすら待ち望みます。それ以外には救いがありません。キリストの憐れみ以外に私たちの望みはありません。

2025年1月18日土曜日

2025年1月18日の聖句

そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。(申命記4:39)
あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:5,7)

神さまは本当に私たちには計り知れない、大きくて、偉大なお方です。「あらゆる人知を超えた神の平和」と使徒パウロは言います。神さまの御心は、私たちの持つ浅知恵など遙かに超えて大きく、広い。「そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。」
ところが、私たちはすぐに神さまを自分の枠に押し込めて、自分の理解しやすいように小さくしてしまいます。自分があらかじめもっている宗教観とか、自分にとって理解しやすいイメージとか、そういう聖書と関係なく自分が持っている理解の中に神さまを押し込めてしまう。「主こそ神であり、ほかに神はいない」という聖書の言葉を真剣に受け止めない。
そうしたときに何が起こるのか。「あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい」と書いてあります。この「寛容」という心が失われる、ということであると思います。このことは意外に感じるかもしれません。「主こそ神であり、ほかに神はいない」などと言っている方が狭くて不寛容だと聞こえがちです。しかし、この世界のすべてを造り、愛をもって支配しておられる神を信じ、この神の手の慈しみを信じてそこにかけることは、真の寛容に開かれた信仰だと私は信じています。この神は、すべての人のためにご自分の独り子をお与えくださったのですから。
「あらゆる人知を超えた神の平和」と聖書は言います。私たちの知恵を超えたお方がくださるのは、平和です。神の平和、キリストの平和によって私たちは生きることが許されている。キリスト・イエスを信じ、このお方に現された神の愛を信じて、寛容に生きたいと願います。

2025年1月17日金曜日

2025年1月17日の聖句

誰の道も主の御前に開かれている。(箴言5:21)
主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。(1コリント4:5)

私たちにとって、人を裁くのは快感です。そもそも人が集まって一番盛り上がるのは人の悪口か噂話です。どちらにしても、私たちの裁きの心を刺激します。その場にいない夫を裁き、妻を裁く。同僚を裁き、部下を裁き、上司を裁く。どのような人間関係であっても、私たちの心の中にはすぐに「裁きの心」がムクムクと頭をもたげてきます。
そういう心をファリサイ根性と言います。ファリサイ派の人々はとても信仰深く、ちゃんと暮らしている人たちで、民衆から尊敬されていました。しかし福音書に記された彼らの言動を見ていくと、そこに隠された裁き心が見え隠れします。ファリサイ主義は私たちのとても近い親戚。私たちの同類です。ファリサイ根性は私たちに深く染みつく罪です。
ところが聖書はそういう私たちの思いに真っ向から挑みかかってきます。「主が来られるときまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。」裁きは主がなさることであって、私たちはそれをしてはならない、と言います。私たちの道は主の前にある。誰の道も。主がそれをご覧になり、裁きを行われる。私たちは主の御前に身を低くし、その裁きを恐れるしかない。
神さまの御前に、ひたすら身を低くする以外に何もないと改めて思わされます。神さまを畏れ、隣人を敬い、誠実に生きる謙遜をお与えください、と祈ります。

2025年1月16日木曜日

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。
その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11)
神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(1コリント1:27~29)

今日の御言葉は、すごく痛い言葉です。心に突き刺さります。でもできれば刺さったままにしたくないので、見なかったことにしてしまいたくなる言葉です。人間の高ぶる目、人の高慢。このように聖書が言う御言葉を耳にし、どうして自分はこんなにも高慢なのかと改めて思わずにおれません。何者でもないのにひとかどの者と思い込み、人が自分を重んじていないと感じれば気を悪くする。そのようにここに書くことも恥ずかしいことです。しかしそれでも、聖書はそんな私の心を見透かしている、と思います。
そのような高慢と戦うために、神は弱い人をお選びになったのだ、と言います。私が弱いと思っている人、いつの間にか見下している人。私たちは神の御前に何者でもない。隣人の前にも、同じです。神は私たちがよいから救ってくださったのではなく、駄目で見所もないから憐れみ、救ってくださいました。神の前に誇るべきことは一つもない。何もない。そのことを繰り返し学ばせてください、とただただ祈るだけです。

2025年1月15日水曜日

2025年1月15日の聖句

姦淫してはならない。(出エジプト記20:14)
夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。(1コリント7:3)

姦淫というと、浮気や不倫という言葉とすぐに結びついて考えられます。しかし単にそれだけではなく、聖書はもっと積極的にこのことを考えているように思います。
今日私たちに与えられている新約聖書の御言葉はこのように言っています。「夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。」蔑ろにしない。ここに引用したのは、日本語版ローズンゲンの編集者がドイツ語の聖書から日本語に翻訳したものです。同じ箇所の聖書協会共同訳を見てみると、この「蔑ろにする」というところは「義務を果たす」と訳されていました。「夫は妻に対して、同様に妻も夫に対してその義務を果たしなさい。」前後の脈略を読むと、明らかに、夫婦の肉体的な関係を正当な理由なく減らしてはならない、という意味です。肉体の交わりを一方が自分勝手に減らしてはならない。そのように言うのです。聖書にそんなことまで書いてあるのか、と思うほどの言葉ではないでしょうか。
姦淫ということを考えたときに、浮気や不倫をしなければいい、つまりほかの人と関係を持たなければ良いということだけを考えているのではない。もっと積極的に、夫は妻に対して、妻は夫に対して、その関係を良いものとするというメッセージなのではないでしょうか。それは、神がこの人との関係を与えてくださったということです。神がこの人との間にいてくださる、ということです。肉体も心もすべてを含めたトータルな存在として夫婦が共に生きる。その関係を尊ぶということと神を信じて生きるということとは別々のことではない。そのように言っているのだと思います。

2025年1月14日火曜日

2025年1月14日の聖句

貧しい人を憐れむ者は、神をあがめる。(箴言14:31)
イエスはその若者に向かって言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(マタイ19:21)

貧しい人への神さまのまなざしは、私たちの想像を遙かに超えて革新的です。「貧しい人を憐れむ者は、神をあがめる。」ここでは、貧しい人を憐れむということと神をあがめることとが一つのこととして語られています。主イエスの言葉は更にすさまじい響きを立てています。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」まず、すべてを貧しい人に与えなさい、それから、私に従いなさい。まず、貧しい人のために。それから、キリストに従う。私たちにとっては、ある意味で意外な言葉ではないでしょうか。
神さまは、ただ単に貧しい人をかわいそうと思いなさいだとか、自分の財布から少しの寄付をしなさいだとか、そういうことはおっしゃいませんでした。貧しい人が貧しくなってしまう根本的な原因を絶ちきれ、とおっしゃっているのだと思います。あなたもそのための痛みを引き受け、貧しい人の仲間になれ、とおっしゃっているのだと思います。
キリストは、高みの見物をさせてはくださいません。自分は自分として守っておく、ということはさせてくださらないのです。しかしこのあまりに厳しい言葉を聞いたとき、それをイエスから聞かされた若者は悩みつつ立ち去りました。正直言って私にも気持ちがよく分かります。金持ちでなくたって、自分の持ち物を捨てろというのはあまりに厳しい要求です。主イエスは、こういう「自分にはできない」と私たちが思うところこそが神さまへの頼りどころだとおっしゃっているのだと思います。私たちの決断ではできないことがある。そこでこそ神に頼ってほしい、とおっしゃっているのではないでしょうか。
神が報いてくださる。そのことを信じて、今日、ほんの少し、自分を捨ててキリストに従ってみましょう。僅かでも自分を十字架にかけて、キリストの後に従ってみませんか。

2025年1月20日の聖句

あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。(イザヤ60:19) (イエスの言葉)私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。(ヨハネ12:45~46) 主イエス・キリ...