2018年9月30日日曜日

コリントの信徒への手紙一3:10-17「神さまと会える場所」

 「あなたがたは、自分が神の神殿あり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」神の神殿、それは祈りの場であり、神と出会う場所です。神ご自身の霊が住んでくださる、神の家です。この「神殿」というのは、建物のことではありません。私たちのことです。神を信じ、祈り、神を礼拝する者たち。何よりも、神に呼び集められた私たち。私たちは神の神殿なのです。教会という神の神殿、神の家の土台は、イエス・キリスト、それ以外にはない。
 私たちさがみ野教会の教会堂の設計をしてくださったのは、姉妹教会高座教会のCさんです。どんなに大きな地震が来てもこの建物は大丈夫だと言っておられました。四本の重量鉄骨の柱が建物を支えています。しかし、どんなに太い柱でも、土台がしっかりしていなければ意味がありません。建物の生命線は土台です。パウロは教会を建物に譬えています。私たちの教会は、何を土台としているのでしょうか?それは、イエス・キリスト以外にはない、しかも十字架につけられたキリスト以外にはない。それがパウロの答えです。
 彼は言います。「わたしは熟練した建築家のように土台を据えました。」この「熟練した」という言葉は、直訳すると「賢い」という意味です。この手紙では独特の意味を持つ。1:18-25に登場します。世の知恵は賢さを求める。その賢さは、世の中で価値ありと認められたり、皆が素朴にうらやましがるような知恵でしょう。見栄えがするのでしょう。神さまは、そんな世界に生きる私たちを、愚かにも御子イエスの十字架によって救おうとなさいました。十字架の福音、それが神の知恵です。神の前で賢い建築家は、見栄えがする手段ではなく、イエス・キリストだけに集中して、愚かになって、イエス・キリスト以外の土台を据えようとはしないのです。例えそれが見栄えがしたり、効率的であったりするように見えたとしても。
 私たちの教会の土台は、イエス・キリストです。もう、この土台は据えられている。今、私たちの教会の危機の時期に教会を建て上げていくため、今年からの三年間を「望みを抱く信仰」という一つの主題を掲げて、毎年のステップワードを踏みながら活動しています。今年は、教会の交わりを主題としました。私たちは神の神殿。それは「交わり」で知る真実です。16節で「あなたがたは、神の神殿であり…」と言うとき、「あなたがた」は複数形ですが、「神殿」は単数形になっています。つまり、互いに独立した個人的な神の神殿がいくつもできるのではなく、私たちがみんなで一つの神の神殿を形成します。それは交わりにおける出来事です。その土台は、イエス・キリスト。私たちはこの方と聖書で出会います。この方の十字架の言葉を聞くのは、聖書からです。ですので、来年2019年は、聖書に親しむことを一つの主題とし、教会皆で聖書通読に取り組む計画を立てました。聖書が、私たちの交わりをただの気持ちいい人間関係がつくるのではなく、教会として、神の神殿として整えます。私たちは、聖書を読んで、十字架のキリストの前に立ち帰るのです。
 キリストの十字架という土台は、私たちが罪赦されなければ生きられない罪人なのだと確認をさせます。それは大きな祝福です。神は私たちとの和解を望む救いの神でいてくださるからです。

2018年9月26日水曜日

詩編第119編169から176節「自由をもたらす律法」

長い詩編第119編も、ここで終わる。一貫してそうであったし、この連でも再び思うのは、詩編作者の御言葉への愛だ。御言葉、それはこの詩編では特に律法を指す。「わたしの唇から賛美が溢れるでしょう。あなたが掟を教えてくださいますから。」ここには律法が不自由をもたらすという発想はない。むしろ、神の掟は私を自由にすると信じる。私が小羊のように失われたとき、私が生きるべき命の道を示すのは、他ならぬ神の戒めなのだ。

2018年9月23日日曜日

マルコによる福音書5:21-43「この出会いは、死で終わらない」

 先々週、ファミリーサンデーの礼拝では24bから34節の12年間病気だった女の話を読みました。今朝はそれをサンドイッチのように挟み込んでいるヤイロの娘の話と合わせて、再び開いています。二人の女性が登場します。共通点がいくつかあります。何よりもまず、二人とも女性です。当時の社会では、殆ど物の数にも入らないような扱いを受けていました。先々週、わたしが子どもたちに話したのは、イエス様は12年間病気だったあの人と出会いたかったのだ、ということでした。ちゃんと向き合って、イエス様と出会い、神さまと出会う、それが彼女にとっての本当の救いだからです。それは、ヤイロの娘も同じでしょう。主イエスは、社会の中で軽んじられ、数に入れられていなかった二人の女性たちと出会いたいと望んでいてくださる方です。だから、わたしとも出会いたいと望んでいてくださる、と信じることができるのです。
 もう一つは、12年間という年月です。病気の女性は、12年間苦しんできました。ヤイロの娘は12才で、最期の時を迎えようとしていました。12年間の病はあまりに長いですし、12年の生涯はあまりに短いです。彼女の父や色も、あの女性も、必死になりふり構わずに主イエスを求めました。救いを求めました。この祈りは、私たち自身の祈りではないでしょうか。23節にヤイロが娘のために「しきりに願った」と書いてあります。たくさんのことばを話したという字が使われています。私たちも愛する者のためであれば言葉を尽くして祈るし、自分自身のためにあの女のように必死に手を伸ばして主イエスを求めるのです。
 歌舞伎町の裏にある教会の牧師、関野和寛先生の『すべての壁をぶっ壊せ!』という本を最近読みましたが、そこでノルウェー人のヨハンという牧師の話が紹介されていました。彼にはメアリーという美しい妻がいたが、病で先立たれてしまった。とても気落ちし、周りの牧師たちも悲しみ、神さまは本当におられるのかと語り合っていた。ところが、その後、ヨハンはエバという女性と再婚しました。気落ちしたヨハンを気にかけていたエバが家に見舞ったとき、雪崩に巻き込まれ、二人で家に閉じ込められてしまった。その時、彼らは互いが必要だと気づいた。友人たちは、絶望の中に神はいる、人は変われると語り合ったそうです。
 教会は、ここに来れば病気が治るとか、死人が蘇生するとか言って伝道しません。私たちの願いが、必死に祈ってもその通りにならないこともあるし、その方が多いかも知れません。しかし、私たちは絶望の中でキリストと出会う。それこそが救いなのです。35節で娘の死の知らせを聞いたラザロはどんなに失望し、絶望したことでしょう。しかし、イエスは言われます。「恐れることはない。ただ、信じなさい。」私たちが無と信じ込んでしまう絶望の中に、神が働いておられることをイエスは見ておられたのです。皆が泣いているヤイロの家に着いた一行。イエスは三人の弟子と、ヤイロとその妻を連れて子どものところへ行きます。少女の手を取って、「少女、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言われた。これは、私たちの愛する者たちへのことばです。キリストは、彼らの手をも取って、同じように起こしてくださいます。その復活の朝を、私たちは待っています。

2018年9月19日水曜日

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言葉に生きること、それ自体が喜びだから。私を神に向けさせ、神の御前に私を連れ戻すから。「私の道は御前にあるとおりです」と言うとおりに。

2018年9月16日日曜日

コリントの信徒への手紙一3:1-9「自分の本性に立ち帰れ」

 「兄弟たち」という呼びかけから始まっています。パウロの、愛を込めた呼び声です。愛と情熱を込めて、この手紙を読む者たちに、何とかキリストの福音に帰ってほしいと呼んでいます。ここでパウロが書くのは、とても厳しい言葉です。コリント教会に向かって、あなたたちはまるで乳離れできていない赤ちゃんのようだ、と言います。ひどい侮辱だと思われかねません。しかし、そこまで厳しい言葉であっても言わないわけにはいかない。信仰の命にかかわるからです。兄弟たち、キリストの許に帰ろうと呼びかけているのです。
 乳飲み子は、まだ固い物を食べられません。今、わたしの娘は離乳食を食べています。少しずつ固いものに変わっていきます。やがて乳離れして、自分で必要な栄養を食べるようになっていくのでしょう。子どもの成長、特に肉体の成長は目に見えやすい。しかし、私たちの心の成長、信仰の成長はどうなのでしょう。コリント教会の人々が、ほ乳瓶を加えて礼拝に来ていたというわけではもちろんありません。ねたみや争いがあった、わたしはパウロに、わたしはアポロにと言って党派争いをしていた。そういう生き方に現れてくる信じ方は、成長できていない子どものままだというのです。人間が集まれば、必ず生まれるのがねたみや争いです。学校に行く子ども同士でも、PTAにいる親でも、職場の人間関係でも、隣の家の人が相手でも、人の芝生は青く見えます。私たちは比較の世界で生きています。教会でだって、私たちはねたみや争いを経験する。教会こそ、その問題で傷ついている。その証拠に、日本の人口1%にも満たないキリスト者に対して、一体どれだけたくさんの教派に分裂を繰り返してしまったことでしょう。そのようなこと一つを取ってみたとしても、パウロは私たちの仲間割れを見て、それでは「ただの人として歩んでいる」にすぎないと言うのです。パウロはコリント教会の初代牧師で、福音の真理を教えてくれました。アポロは都会のインテリで、教養に溢れ弁論に優れていました。そういう指導者たちの中からお気に入りを見つけて党派争いをしているときに、教会から一体何が失われているのか?5,6,7節を見ると、主が、神が、神が、と繰り返し神さまのお働きに目を向けさせようとしていることに気づきます。私たちが人の魅力や厭なところに目を奪われたとき、実は私たちの内で働いてくださっている神さまを見失っているのです。
 パウロは父とか固い食物とか言っていました。これらは、何を意味しているのか?言い換えれば、パウロが語り続けてきた福音は、一体何でしょうか?それは、言うまでもなく十字架のキリストです。十字架の言葉です。私たちは、十字架にかけられた方を食べるのでなければ、神を信じ続けることができないのです。私たちの目は、どうしても人間の魅力や自分の好みに合わない人の厭なところにばかり吸い寄せられてしまいます。しかし、パウロは神さまにあって、自分のことや人のことを見ることを知っていました。神の同労者としてのわたし。神の畑、神の家としてのあなたたち。そう。私たちはキリストにあって神の畑なのです。豊かな実を結ぶ神の畑。キリストの和解の実を結ばせ、私たちがそれに生きるために、神は十字架の言葉を聞かせてくださっています。

2018年9月12日水曜日

詩編第119編153から160節「主よ、命を得させてください」

「わたしに代わって争い、わたしを贖い、仰せによって命を得させてください。」私たちがすることは、多くの場合は逆ではないだろうか。神に代わってわたしが争い、神に自分の言うことを聞かせようとする。不遜だが、それが私たちの実際のところではないか。「迫害する者、苦しめる者」を前にしたとき、わがままな自分の正体が暴かれてしまう。「主よ、慈しみ深く、私に命を得させてください」と祈るばかりである。ここにしか救いはない。

2018年9月9日日曜日

マルコによる福音書5:24b〜34「あなたに出会いたい!」

 この人は、この時一体何歳だったのだろう。それは分からない。しかし、実に12年間もの間、病に苦しんできた。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしたが何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」ここまで彼女が重ねてきた期待と失望、絶望、諦め、そのようなものを思わせる一文だ。病は、体も心も攻撃する。疲弊する。彼女も、そして恐らく彼女の家族も、疲れ切っていたのではないだろうか。いや、彼女に家族がいたのかどうかも分からない。彼女を支え、共に痛んでくれる人がいればと願うばかりだが…どうだったのだろう。一つ言えるのは、彼女の病は、当時の社会では「汚れ」と見なされており、タブーとして扱われていたと言うことだ。つまり、社会生活から疎外されていたことが推測されるのである。肉体の苦しみと並ぶ、もしかしたらそれ以上出会ったかも知れない彼女の苦しみが、そこにあったのではないかと思う。どうだろうか。
 彼女は、そんな自分を、主イエスなら救ってくださるに違いないと考えた。いや、「感じた」といったほうがもしかしたらいいのかも知れない。理屈ではなかったのではないだろうか。実は、25から27節は原文ギリシア語のテキストを見ると、一文で言い表されている。「女がいて、医者にかかって、苦しめられ、何の役にも立たず、悪くなるだけで、イエスのことを聞いて、群衆に紛れ込み、イエスの服に触れた。」最後の「触れた」に、すべてが向かっている。彼女の救いへの一縷の望みを託す指先に物語がフォーカスしているのだ。そして、彼女が触れると、すぐに彼女は癒された。彼女は、「救われた」と思ったのではないだろうか。
 しかし、主イエスはそうお考えにはならなかったようだ。イエスは御自分に触れた彼女の指に気づき、立ち止まって、今触れた人を探そうとなさる。しかし、誰もいないところで彼女が一人で後から触れたわけではない。大勢の群衆が後から詰めかけて、たくさんの人がイエスに手を伸ばしていた。弟子たちもあきれたのだろう。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」イエスにそう言ったのだ。なぜなら、このとき一行は急いでいたのだ。会堂長ヤイロの娘が危篤で、早く来て娘を救ってくださいと懇願されてそこに向かう途上での出来事だったのだ。イエスは、なぜ、非常識とも思える振る舞いをしたのか?なぜ、こんなに急いでいるときに立ち止まり、押し迫る群衆の中のたった一人を見つけ出そうとしたのだろうか?
 28節に彼女が、イエスに触れればいやして頂けると思ったとある。実はこの「いやす」は原文ではむしろ「救う」という字である。しかし、29節で「病気がいやされた」の方は文字通り「いやす」を意味する別の動詞だ。彼女にとっては病気の回復が救いだった。しかし、イエスはそうでなかった。病がいやされること以上に、彼女が神と出会うことを救いと考えておられた。だから、彼女がイエスの探索に応えて名乗り出たとき、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。イエスとの出会いが人間を救う。イエスはあなたとも出会いたいと願っておられるのである。

2018年9月5日水曜日

詩編第119編145から152節「主は近くいてくださる」

「悪だくみをもって迫害する者が近づきます。」それは、どんなに恐ろしいことだろう。自分に悪意を持つ者がどんどん近づいてくる。身が固くなる。しかし、この信仰者はもう一つの現実を見ている。「主よ、あなたは近くいてくださいます。」自分を敵と見なす者が近づいても、神はなおのこと近くにいてくださる、もうすでに。その確信があるからこそ、言うのだ。「心を尽くして呼び求めます」と。大胆に祈れるのは、神を信じているからだ。

2018年9月2日日曜日

コリントの信徒への手紙一2:10-16「神の深みを究めて」

 「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。」と今朝の聖書の御言葉は始まっています。「そのこと」と言っているのは、神の知恵、すなわちイエス・キリストが十字架にかかり、私たちを罪と死から救ってくださったことです。そのことを、神がご自身の霊、聖霊によって私たちに明らかに示してくださった。そのように言います。なんと輝かしく、宝のような言葉なのでしょう。その輝きに目がくらみます。なぜなら、私は全くそれに値しない者だからです。自分に幻滅することの繰り返しです。自分の愛のなさや優しくない自分。疲れて、自分勝手な本性が顔を覗かせる。ハイデルベルク信仰問答は、神を愛し、隣人を愛するようにという聖書の教えに背く自分は、悪くさかさまで、惨めだと言います。その通りです。愛をもって生きられない私の惨めさに気づく度に、本当に辛くなります。しかし、そんな私に、神さまご自身が知らせてくださいました。こんな私のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった、と。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と書かれているとおりです。
 それを知らせてくださったのは、神さまご自身の霊の働きだと言います。いくつかののことが言えると思います。まず、私が私のことをどんなに否定し、クリスチャンとして生きるのにはふさわしくないと否定したとしても、神が明らかに示してくださっている以上、私には自己否定の余地がないのです。神さまは私たちが自分で自分にバツをつけることをお喜びにはなりません。
 そして、神さまご自身の霊が示してくださっているのであるなら、それは私たち人間の願望の東映ではない、ということです。神さまなんて言っても、結局は人間の願望の東映にすぎない、人間がつくったものにすぎないと批判されることもあるかもしれません。しかし、聖書はそうではない、と主張します。私たちの願望が神をこしらえたのではなく、神が示してくださったのだ、と。
 どういうことか?12節に世の霊と神からの霊という言葉があります。私たちは、このいずれかによって生きています。世の霊は世にあるものを求めます。最近、いろいろなスポーツ指導者の問題がいくつも話題になりました。心身共なる向上を目指すべきスポーツ界の不祥事に世間の耳目が集まりました。しかし、そこで求められていたものは何でしょうか?立場、お金、権力、…、どう言い表すにしても、この世にあるものです。あの不祥事は私たちの社会の求めの縮図です。しかし神の霊が示すのは、十字架のキリストです。薄汚い罪人のためにへりくだり、磔にされて死んだ人のことです。それは、私たちの願望が造り上げようのない神さまのお姿ではないでしょうか。
 「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と言います。十字架のキリストの思いを頂いて、私たちが出会う人への愛を、聖霊はこの私にさえも与えてくださいます。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...