2020年8月31日月曜日

2020年8月31日(コリントの信徒への手紙二13)

コリントの信徒への手紙二13
「終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者たちがあなたがたによろしくと言っています。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」
この最後の言葉は、私たちの礼拝でも祝福の言葉として告げられているものです。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」ここには主イエス・キリスト、神、聖霊からの祝福が宣言されています。後の教会は神様のこのようなあり方を「三位一体」と言い表しました。三位一体がキリスト教会の教理として整理されたのは、聖書が書かれた時代よりもしばらく経ってからです。聖書それ自体に三位一体という言葉はない。しかし、こういう神の祝福を告げ、これを宣言する言葉の中で三位一体なる神の祝福がすでに告げられている。この言葉は、恐らくパウロのオリジナルではなかったのではないかと思います。当時の礼拝でこの言葉が交わされていたに違いない。三位一体というのは、どこかの学者が研究室で編み出した理屈ではなく、礼拝における祝福の体験から告白された言葉です。神が私たちにくださる祝福を共に分かち合う言葉が、このように表現されている。
礼拝は、独りぼっちでなされる業ではありません。私たちは、一人っきりでキリスト者として生きるのではなく、神の平和と祝福を告げる挨拶を互いに交わす教会の兄弟姉妹と共に神を信じています。
そんな私たちキリスト教会にパウロがこの手紙の最後で勧めることは、「初心に帰ること」です。初心というのは、私は、コリントの信徒への手紙一で熱心にパウロが語っていたとおり、キリストの十字架という神の弱さによって救われたという事実であると思います。神がこのような私をも救ってくださった。その事実が、私たちの原点です。キリストに救われた罪人の群れ。それが教会です。この初心にいつも帰り、この原点から新しくはじめる和解の共同体。それが、キリスト教会です。

2020年8月30日日曜日

2020年8月30日(コリントの信徒への手紙二12)

コリントの信徒への手紙二12
「また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの刺が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。ところが主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。それゆえ、私は弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときこそ強いからです。」
パウロはとても神秘的な体験をしたようです。生きたまま、第三の天にまで引き上げられた。第三の天というのがどういうものなのか、私にはよく分かりません。確実なことは、それがパウロにとっては神の素晴らしい恵みを垣間見る幻であったということです。 神のパラダイスをその目で見たということであるのかも知れません。あまりに素晴らしいその体験は、言葉では言い表せないほどのものであった。それで、そのような神秘的な特別な体験をしたパウロが思い上がることのないようにと、彼の肉体に一つの刺が与えられた、と言います。
肉体の刺というのが具体的に何を意味しているのか。学者たちはそれをいろいろな角度から検討しているようです。彼には何らかの持病があったのではないか、簡単ではない障害を抱えていたのではないか。そう推測し、具体的な病名を挙げる人もいます。いずれにしても、その刺はパウロにとっては大変な痛みであったということは確実です。
パウロはその苦しみを過ぎ去らせてくださるように祈りました。それでも去らない。パウロはこの痛みを、神のパラダイスまで垣間見た自分が思い上がらないための刺だと理解しました。この痛みはサタンの使いの仕業だ。しかし、それを「思い上がらないための刺」と言った瞬間に、それは神の手の中にあることに過ぎなくなる。使い魔の仕業とは言っても、すべては神の御手の中にあります。だから、パウロはこの刺のために絶望しない。
それどころか、彼はむしろこの刺を持つ自分の弱さを誇ります。弱さの中でこそ、神の力が発揮されるからです。神の力は、他の人を寄せ付けない神秘的な体験の中で発揮されるのではありません。自分だけの、他の人にはない特別な境地において神の力が現れるのではない。この弱い肉体に刺さった悪魔の刺において、神の素晴らしい恵みに満ちた力が発揮される。だから、パウロは喜びます。神の力を喜びます。弱い私を生かしてくださる神の力を!弱い私を生かし、あなたをも生かす神の力を喜ぼう!パウロは私たちの前で、そのように証言します。

2020年8月29日土曜日

2020年8月29日(コリントの信徒への手紙二11)

コリントの信徒への手紙二11
「誇る必要があるなら、私の弱さを誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。」
この手紙で、パウロはコリント教会の人々に向き合いながら、自分自身とも向き合っています。自分を格好つけずにコリント教会の前にさらけ出していると言っても良いと思います。「格好つけずに」と口で言うのは簡単ですが、実践するとなると難しいことです。つい見栄を張ってしまいたくなるし、相手からはよく思われたい。もっと言えば、なめられたくないのです。
しかも、パウロとコリント教会の関係は良好ではありませんでした。反パウロ派の人がたくさんいました。そういう相手に自分の弱さを見せるというのは、普通はできないことであると思います。しかしパウロは自分の弱さを誇りました。強さを誇ったのではありません。パウロの強さと言えば、イスラエル人であること、割礼を受けていること、すばらしい教育を受けて育ったこと、ローマの市民権を得ていること、その他いくらでもあげられたでしょう。そうやってどこに持っていっても恥ずかしくないような属性を誇ることをしなかったのです。
その代わりに彼があげているのは、死ぬような目に度々遭ってきたこと、鞭打ち、棒で打たれたこと、難船、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難。苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。そのように言って、パウロは、苦労話をして同情を引こうとしているのではないことは明らかです。同情なんてしてくれない人が相手ですから。そうではなく、これらの自分の弱さが、神の永遠の恵みを証ししているから、それを誇っているのです。
パウロの弱さは、コリント教会を含めたキリスト教会を愛するための労苦ですし、まだキリストと出会っていない人に福音を届けるための苦難です。パウロはそれを引き受けた。神を愛し、隣人を愛したからに他ならない。そうなると、もう自分をよくみせるとか、格好つけるなんていうことが入り込む余地はなくなってしまいます。
キリストを愛し、キリストを見つめて生き、隣人にキリストを届けたい。パウロはただそのことだけに専心したのだと思います。私たちの人生のモデルがここにいます。キリストのものとされたとき、私たちは自分自身からも、他人の目からも解放され、キリストと隣人を愛することに自分のすべてを注いで生きることができるのです。

2020年8月28日金曜日

2020年8月28日(コリントの信徒への手紙二10)

コリントの信徒への手紙二10
「目の前の事柄を見なさい。自分はキリストのものだと確信している人がいるなら、その人は、自分と同じく私たちもキリストのものであることを、もう一度よく考えてみなさい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主が私たちに授けてくださった権威について、私がいささか誇り過ぎたとしても、恥にはならないでしょう。」
コリント教会にはパウロに強い敵対心を抱いている者が多くいたということは再三指摘してきましたが、今日の箇所は、そういう事情が前面に出てきています。パウロの人格に対する攻撃にまでエスカレートしています。「あなたたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる、と思われている、この私パウロ」と言っています。手紙は立派だが実際に会ってみるとつまらん。手紙では威勢が良いことを言っても、実態は弱気で頼りにならない。
私は実際に面と向かうと何を言ったらいいのか分からないということがしょっちゅうあります。パウロもそういうところがあったのだとしたら、その気持ちはよく分かる。パウロは何を言って良いのか分からないと言うことではなかったかもしれませんが、いずれにしても訥弁であることでかなりなじられていたようです。あるいはむしろそもそもパウロに敵対していたので、パウロのそういう性格もますます悪く見えたということであったのかも知れません。
しかし、パウロはそう言われても怯むことはありませんでした。なぜなら、パウロの口に預けられていたのがキリストの福音の言葉であるからです。福音を語るように言われている以上、弱気になんてなってはいられない。だから、コリント教会の人々、特に自分に敵対している人に手紙を書き送ったのです。彼は告げます。あなたがキリストのものであるのと同じように、私もキリストのものだということを思い出してもらいたい、と。神様は、パウロの口に権威を与えてくださった。その権威に服従してもらいたい。その権威はあなたたちを押さえつけ、私の言いなりにさせようという権威なんかじゃない。あなたたちを造り上げるための権威。神のものとしてのあなたを確かにする権威。キリストの福音を告げる権威に他ならない。パウロはそのように言います。
パウロは、ただキリストだけを誇ります。自分自身を誇るようなことはしません。ただキリストだけに寄りかかって私たちの前に立つこの人物は、キリストの権威だけに頼り、これに従う幸いを私たちに証ししています。

2020年8月27日木曜日

2020年8月27日(コリントの信徒への手紙二9)

コリントの信徒への手紙二9
「聖なる者たちへの奉仕について書くのは、もうこれで十分でしょう。あなたがたの熱意を知っているからです。その熱意について、私は、アカイアでは昨年からすでに用意ができていると言って、マケドニアの人々にあなたがたのこを誇りました。あなたがたの熱心は多くの人を奮い立たせたのです。」
ここで「聖なる者たち」と言っているのは、エルサレム教会の仲間たちのことです。詳しくは使徒言行録第11章27節以下に載っていますが、ローマ帝国をクラウディウス帝が支配していた時代に世界大の飢饉が起こり、エルサレム教会は大打撃を受けました。教会の仲間たちは食べるにも事欠くようになった。それで、「弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住むきょうだいたちに援助の品を贈ることを決めた」のです。エルサレム教会は異邦の国々で宣教をしていたパウロに、エルサレムの貧しい者たちのことも忘れないでいてほしいと求め、パウロ自身もそれに応えていました。当時の(今でもそうですが)エルサレムは、世界地図の上では辺境の地です。M.ウェーバーという社会学者は、古代ユダヤ民族を指してパーリヤ民族(不可触民)、つまりアウトカーストの身分だと評価したそうです。エルサレム教会は教会としては中心地ですが、社会的には極貧の集団だったのだと思います。対してパウロが伝道をした小アジア、マケドニアやギリシアは文化的にも経済的にも発展していましたので、圧倒的にこちらの方が経済的な余裕があった、という事情があります。そういう背景の中で、パウロは新しく生まれた教会にエルサレム教会のための献金を求めたのです。
教会と教会のつながりは、2000年も前から、献金という具体的な仕方で具現化していました。抽象的な、あるいは理念上のつながりではありませんでした。異邦人の教会はエルサレム教会から福音を聞き、エルサレム教会は異邦人教会のささげ物によって生き延びました。異邦人教会は、神様から与えられた恵みをエルサレム教会に分け合ったのです。「この奉仕の業は、聖なる者たちの欠乏を補うだけでなく、神への多くの感謝で満ちあふれるものになる」のです。

2020年8月26日水曜日

2020年8月26日(コリントの信徒への手紙二8)

コリントの信徒への手紙二8
「それは、他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようというのではなく、平等にするためです。今この時、あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、いずれ彼らの余裕もあなたたたの欠乏を補うことになり、こうして、平等になるのです。『多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった』と書いてあるとおりです。」
何を持って平等とするのかというのは、簡単な問題ではないと思います。社会主義であれば「結果の平等」を求めます。つまり、富がすべての人に等しく分配されることをもって平等とします。民主的な資本主義社会であれば「機会の平等」をもって平等と考えるのだろうと思います。確かに結果をすべて同じにするというのは非現実的です。しかし、実際には機会の平等もありえません。生まれた家の環境、経済状況、地域格差、性別、人種、・・・あらゆる点でスタートラインが全然違います。機会の不平等があまりにも固定的であれば、結果の平等を求める声にも一理あるような気がします。
しかし、聖書には聖書の平等観があります。「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。」これはエジプトを出たヘブライ人たちが食べたマナの話に出てきた言葉です。神様は毎日マナを与えてくださいました。毎日くださるので、そのことを信頼し、一日に一人あたり一オメルだけ集め、余計に集めて貯蓄することを禁じました。その言葉に従ってマナを集めると、多く集めた者も少なく集めた者も、オメル升で計ると皆ぴったりになった。「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」のです。ここに聖書の平等観が端的に表れています。多く必要なものには多く与えられ、少なく必要なものには少なく与えられる。おのおの分に応じて神が必要を与えてくださる。それが聖書の平等観です。
しかし、現実にはそう言われても納得できません。実際、ある者には富が有り余り、他の者は窮乏している。それを神様が必要とお考えになった分が与えられているのだと言われても、それは金持ちの横暴というものです。そこで、パウロは言うのです。多く与えられた者は少ない者のために献げよ、と。聖書の平等は献金の上に成り立ちます。ある者に余裕があるのなら、それは献金するための余裕です。その献金によって窮乏している者が生きることができる。立場が逆になったときには逆のことが起こります。すべては神が預けてくださったと信じて献げる。そういう私たちの献身を促すために、ある者には多く、ある者には少なく与えられています。
今、私たちの隣人である香港の教会は、窮乏の状況におかれています。7月の豪雨被害に遭った教会も同じです。今、私たちに僅かでも余裕があるとしたら、それは献げるための余裕に他ならないのです。そうやって献げるとき、私たちに「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛など、すべての点で満ちあふれている」ことを知ることになるのです。

2020年8月25日火曜日

2020年8月25日(コリントの信徒への手紙二7)

コリントの信徒への手紙二7
「あの手紙によってあなたがを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちから何の害も受けなかったのです。神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。」
パウロは今では「コリントの信徒への手紙一」と呼ばれている手紙と、今日私たちが読んでいるこの文章との間に何通かの手紙のやりとりをしていたようです。ここで「あの手紙によって」と言っているのは、2:3,4で「涙ながらに手紙を書きました」と言っている手紙のことであると考えられます。コリント教会で起きていたいくつもの間違いを指摘し、厳しく戒める内容だったようです。というのも、この手紙を読んで「あなたがたを悲しませた」とパウロ自身が言っているからです。パウロ自身も涙を流しながら手紙をしたためた。しかし、そのことで私は後悔してはいない。なぜなら、あながたがの悲しみはただの後悔ではなく、神の前での悔い改めになったから。パウロはそう言います。
後悔と悔い改めとは違います。後悔は、自分の中にうずくまることです。自分のへそを見つめながら自分の悲しみの虜になっていく。そこでは悲しみの主人公は私であって、神様は必要なくなってしまいます。しかし、悔い改め、つまり神の御心に適う悲しみは、罪の悲しみの中から神様を見上げます。聖書にはそういう意味での悲しみの言葉がたくさんあります。例えば、哀歌です。「聞いてください、私の呻きを。私には慰めてくれる者がいません。敵は皆、私の災いを聞いて、あなたがそうされたことを喜びました。」悲しみの中で紡がれるこの呻きは、神に向かう祈りの言葉です。自分の中に没入し、自分のへそを見て後悔するのではなく、どん底から神を見上げます。
悲しみには時間がかかります。効率の世界では生産性が認められない感情です。しかし、私たちには神様の前でただただ悲しむ時間が必要です。神様に罪を告白し、救いを求めて祈り、神の慰めに身を浸す、一人の時間が。私たちの魂はそのような祈りの時間によって再生するのです。

2020年8月24日月曜日

2020年8月24日(コリントの信徒への手紙二6)

コリントの信徒への手紙二6
「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」
この聖書の御言葉は私にとってはとても思い出深いものです。家族の病気が重かった頃のことです。当時、私は成瀬教会の伝道師でした。ある方が何かの折に私にしおりをくださった。そこに、この御言葉が書かれていました。「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」私たちキリスト者は、苦しみや悲しみの中ででも神の恵み、神の救いを信じます。だからといって、悲しみや苦しみそれ自体がなくなってしまうということは残念ながらあまりないかも知れません。それでも、今こそ、恵みの時、今こそ、救いの人私たちが信じるのは、私たちの苦しみや悲しみのただ中にキリストが共にいてくださるからです。キリストが私たちと共に苦しんでくださるからです。
その事実がパウロを変えました。パウロは自分がこれまで栄誉を受けたときにも侮辱を受けているときにも、不評を買うときも、好評を博するときも、どのようにして生きてきたのかをここで語ります。曰く、「私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。」~のようでいてという部分が、目に見えるパウロの現実であったのだと思います。人を欺いているという中傷を受け、死にかけているようであり、迫害され、無一物で、・・・。しかし、彼はキリストにあって喜んでいる。今や、恵みの時だからです。今こそ、救いの日だからです。キリストが私と共にいてくださる。この苦しみを共に味わっていてくださる。私を、そこから救ってくださる。だから、パウロの心は広くなります。心が縮こまっていないのです。広がりを持っている。四面楚歌であっても、キリストに向かって、上に向かって開いている。だから、悲しんでいるようでいて常に喜んでいる、死にかけているようでいてこのように生きていると言うことができました。
私たちの救いは、ただキリスト。私たち自身に自分を救うことができなかったとしても、キリストはそんな私と共にいてくださいます。私たちが絶望しているときにも、キリストは私たちを見捨てません。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日。それは、キリストに属する事柄です。私たちが恵みの時、救いの日を造り出すのではない。キリストが私を救う恵みの日。キリストが主語であり、その日をキリストが来たらせてくださる。この約束の中に、私たちの今日一日もおかれています。

2020年8月23日日曜日

2020年8月23日(コリントの信徒への手紙二5)

コリントの信徒への手紙二5
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」
キリストは、私たちを新しくしてくださいました。私たちは、キリストにあって、新しい人間になった。どういうふうに新しくなったのか?神と和解した人間になったのだ、とパウロは私たちに訴えます。キリストが私たちにもたらしてくださった福音は、和解の福音です。
現代は、分断の時代だということがいろいろなところで言われています。政治的理念のための分断。世代による分断。社会的立場による分断。国籍や出自による分断。数え上げればきりがありません。いろいろなところに分断線が引かれています。この線よりも向こう側は、私とは関係のない世界です。
しかし、キリストは和解のために私たちのところへ来てくださいました。分断線を引く私たちの習性を、聖書は罪と呼びます。私たちの罪を乗り越えて神が伸ばしてくださった手、それがキリストの釘に打たれた手です。キリストは、私たちを神と和解させるために、私たちの中に入ってこられたのです。分断線を乗り越えて。
私は、自分は性格的にも線を引きがちだと思います。キリストの手は、そういう線を乗り越えてしまいます。ときにそういうキリストの振る舞いは私にとって心地よくはありません。しかし、聖書を読んで気づかされることは、私はもう新しくして頂いたのだ、ということです。キリストにあって、私も新しくして頂いている。キリストは、この私の口にも和解の言葉を託してくださっています。憎しみの言葉や無関心からくる無視ではなく、和解の言葉をこの口においてくださっている。
キリストは罪を知りません。しかし、神は私たちのためにキリストを罪となさいました。私は分断線を簡単に引いてしまいます。その線の下敷きになったキリストが、その線の責任を取ってくださいました。私たちの和解となるために。このお方の前に進み出て、私たちは今日、神を礼拝するのです。

2020年8月22日土曜日

2020年8月22日(コリントの信徒への手紙二4)

コリントの信徒への手紙二4
「私たちは、この宝を土の器に収めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。」
聖書を読んでいて覚える言葉の一つに「土の器」という言葉があります。キリスト者である作家が書いた小説のタイトルになることもあります。どういう意味で私たちは「土の器」という言葉を口にするのでしょうか。「私のような土の器には、そのような責任ある仕事は負いかねます・・・」といったようなかたちで、謙遜の一つの表現になっているところがあるかもしれません。
しかし、ここでパウロは明らかに謙遜の言葉として「土の器」と言っているわけではありません。パウロは自分がこれまで受けてきた迫害のことを考えています。パウロがここで具体的に考えているのは、自分自身の死のことです。「死すべき私」を「土の器」と呼んでいます。この器は、恐らく、素焼きの器なのでしょう。すぐに欠けてしまいます。ちょっとしたことで壊れてしまいます。そういう、もろくて壊れやすい器、死にさらされた器である儚い私。その土の器に、宝が収められています。イエスの命という宝です。器自体は土くれからできたものに過ぎず、簡単に壊れてしまいます。しかしそうであるからこそ、そこにもられた宝の輝きが一層引き立ちます。この宝はイエスの命であり、滅び行く私たちに命を与えるものだからです。
だから、パウロは言うことができました。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」苦難のとき、途方に暮れることはあるのです。それでも、失望はしません。迫害の中で倒されてしまうことはある。それでも、滅びはしない。イエスの命という宝が、この器に盛られているから。今、病に恐れ、苦しみにあえぐ私たち、小さく弱い私たちにこの宝が収められています。私たちは、イエスの命をまとっています。

2020年8月21日金曜日

2020年8月21日(コリントの信徒への手紙二3)

コリントの信徒への手紙二3
「あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心に記されたものであることは、明らかです。」
今私たちが手にしているこの「コリントの信徒への手紙二」は、パウロがコリント教会に宛てて書いた「二通目」の手紙ということではありません。パウロはもっとたくさんの手紙をコリント教会に宛てて書き、コリント教会からもパウロへの手紙が何通も届いたようです。コリントの信徒への手紙一が、もうすでに一通目の手紙ではないことは読めば明らかです。ただ、今日聖書に収められている手紙一と手紙二との共通点は、どいちらもコリント教会とパウロとの関係が悪化していたであろうことが強く読み取れるということです。コリント教会の中には、パウロの使徒としての資格を疑問視する者がいました。
それで、パウロは、誰か権威ある者からの推薦状が必要だろうかという話を始めています。人間的に見れば、よく分かることです。例えばある教会が無牧になって新しい牧師を招聘しようとしたら、その新しい牧師がどういう人なのか、よく調べると思います。外面的なことはすぐに分かります。これまでは何教会にいた、卒業した神学校はどこか、そのような履歴書に書かれることを調べるのは容易でしょう。しかしそれ以上の、インターネットには書かれていないようなことを知ろうとしたら、誰かに聞いてみなくてはなりません。信頼できる別の牧師にあの牧師はどうなのだろうかと聞き、その先生が太鼓判を押して推薦してくれれば、安心して招聘の手続きを進める・・・ということになるのではないかと思います。パウロには、そういう推薦状は一つもありませんでした。
しかし、パウロは言います。「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。」あなたがたは私が書いたキリストからの手紙だとまでパウロは言います。あなたがたがキリストと出会い、キリストを救い主として礼拝しているその事実こそ、私の使徒としての推薦状だとパウロは言います。
この言葉が、パウロとの関係が崩れていたコリント教会に宛てられたものであるという事実は重いと思います。そして、それだけに、ある人がキリストと出会い、キリストを礼拝し、教会の一員として生きるという出来事の素晴らしさも感じさせます。「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊との働きによるのです。」この主の霊が、私たちにも働いている。私たちもまた主の栄光を映すキリストの手紙にされているのです。

2020年8月20日木曜日

2020年8月20日(コリントの信徒への手紙二2)

コリントの信徒への手紙二2
「あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かのことでその人を赦したとすれば、それは、あなたがたのために、キリストの前で赦したのです。私たちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」
サタンがつけ込む、サタンのやり口!サタン、悪魔。私たちに働く悪の力です。改革者ルターも、サタンの働きに敏感な人であったと言います。私たちはこういう現代の科学では見えてこない悪の力に対して、決してなめてかかってはならないと思います。サタンは私たちを罪に誘い込む強烈な力を持っている。だからこそ、パウロも、ルターも、強く警戒したのでしょう。
サタンにはサタンのやり口がある。どこにつけ込むのか?私たちの、隣人の罪を赦せないという心です。自分こそは正義だと信じる私たちの素朴な確信です。自分は正しいと信じるとき、私たちはいつの間にかサタンの虜になっている。パウロはそう言います。
サタンに対抗する私たちの武器は、赦しです。そうであれば、私たちの最大のサタンに対する攻撃は、主の祈りを祈ることではないでしょうか。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」主イエスは繰り返し、私たちが隣人を赦すものであるようにとおっしゃいました。それは、私たち自身が赦してもらわなければ生きることのできない存在だからです。
「救われる人々の中でも滅びる人々の中でも、私たちは神に献げられたキリストのかぐわしい香りだからです。」罪の赦しに生きる私たちは、キリストのかぐわしい香りを放つ者にされている。赦しなどといっても、自分の心持ちや努力で赦そうと思っても、無理な話です。誰かを赦してあげようと思っても、「赦してあげる」という姿勢でいるところに真実な赦しが生まれるということもないでしょう。私たちは、ただひたすらに、キリストに赦して頂いたという事実にだけ立ちます。キリストがいなければ生きられない私であることを恥じることなく、誇りとして、神の憐れみの中に生きていきます。そのような私たちを、キリストの赦しの香りを放つ者に神はしてくださる。この奇跡は、主の祈りから始まります。

2020年8月19日水曜日

2020年8月19日(コリントの信徒への手紙二1)

コリントの信徒への手紙二1
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが私たちに満ちあふれているように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。また、私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであり、この慰めは、私たちの苦しみと同じ苦しみに耐える力となるのです。私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがた苦しみを共にしてくれているように、慰めも共にしていると、私たちは知っているからです。」
私はこの手紙の冒頭にあるこの言葉が大好きです。今、また新しい思いをもって、新しい慰めの言葉としてこの言葉を聞きます。私たちも、今、苦難の中に生きているからです。一ヶ月くらい前にある牧師に聞いたのですが、コロナに関するテレビかインターネットかの番組で山中伸弥教授が他の専門家と対談をしている中で、今の情勢は野球で言えば二回表のコロナの攻撃のようなものだとおっしゃっていたそうです。まだまだ戦いは長い。その間に人間社会が崩れてしまわないか、そのことを心配しているということでした。この戦いの長さについては、私たちも少しずつ気づきつつあります。状況は厳しい。いろいろなところで愛が冷え、社会は本当に崩れつつありあす。苦難のときは短くはありません。私たちの目から見れば。
しかし、神はあらゆる苦難の中で私たちを慰めてくださいます。その慰めの事実は、他の教会の仲間の慰めにもなります。私がキリストに慰めていただいていることが、きょうだいの慰めになるというのです。何と素敵な言葉でしょう!
聖書の「慰める」という字は「パラカレオー」といいます。パラは「隣り」という意味で、カレオーは「呼ぶ」という意味です。隣で呼びかける、側にいて語りかけるという字の作りです。苦難の中で苦しみ、嘆き、倒れている者の隣にいて語りかける言葉。それが慰めの言葉です。私たちの苦しみはキリストの苦しみが溢れてきた苦しみであり、そうであるからこそキリストご自身が私たちを慰めてくださる。私たちはキリストの慰めを共有することで一つとなる、キリストの教会です。この苦難のときにも、キリストは私たちの救い主でいてくださる。その事実が変わることは決してないのです。

2020年8月18日火曜日

2020年8月18日(コリントの信徒への手紙一16)

コリントの信徒への手紙一16
「私パウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、呪われよ。主よ、来たりませ。主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように。」
パウロの手紙はパウロ自身の直筆ではなく、書記による口述筆記でした。紙は羊皮紙なのかパピルスなのか、いずれにしてもとても貴重なものでした。当然速記をしたなどとは考えられません。一言一言、かみしめるようにして語り、それを書き記していたのでしょう。そうやって、今日の箇所を加えれば16章にもなる大変長い手紙がここまで書き進められてきました。この手紙にはかなり論争的であったり、厳しい言葉もいくつも登場していました。そのどれもがパウロのかみしめるような声と共に発せられたものであることを思うと、胸が熱くなります。現代的なインスタントな意見表明とは随分と違います。パウロにとっても、受け取ったコリント教会の人々にしても、一つひとつの言葉の重みはいかばかりだったでしょう。
そのようにして書いてきた手紙の最後に、パウロは自身の手で挨拶の言葉を書き残しました。その最初の言葉は、少しびっくりしてしまいます。「主を愛さない者は、呪われよ。」私たちが手紙を書くとしたら、呪いの言葉などは通常まず書きません。この時代の文章にはしばしば出てくるものではあります。ここまで激しい言葉を口にせねばならぬほどに真剣な思いで主を愛することにひたむきであったということだと思います。さらにパウロの言葉は続きます。「主よ、来たりませ。」主イエス・キリストが再び私たちのところへ来てくださるその日を待ち望み、私たちは生きている。そこに私たちの望みがかかっています。そうであるからこそ、主を愛しても愛さなくてもどちらでもいい、ご勝手にどうぞ、とは言えなかったのでしょう。
「キリストの恵みが、あなたがたと共にありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように。」二つの「共に」という言葉があります。あなたがたと共に、この私自身の愛が、そしてキリストの恵みがありますように。この手紙の言葉に耳を傾け、キリストを紹介する神の言葉を聞くとき、私たちは孤独ではありません。パウロも、歴史の聖徒たちも、そしてキリストご自身が私たちと共にいてくださいます。私たち一人ひとりの今日一日の歩みにも、教会とキリストが、共にいてくださいますように。

2020年8月17日月曜日

2020年8月17日(コリントの信徒への手紙一15:29~58)

コリントの信徒への手紙一15:29~58
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」
疫病にさらされると、私たちの肉体の弱さを痛感させられます。いや、弱いのは肉体だけではありません。私たちの精神もまた弱い存在です。肉体の弱さと共に心もぐらつきます。今、私たちの社会に蔓延している不安感、怒り、投げやりな心、そういうものは私たちの弱さから生まれているのだと思います。私たちの心も体も弱く、やがては朽ちるべきものです。
日本人の伝統的な死生観を研究した人が、日本の死生観を大きく二つに分類して紹介していました。一つは、自然回帰型。死んだ者の魂は山や海といった自然に帰る。そこから生者たちを見守り、あるいはいつか生まれ変わって再びやってくる。もう一つは、共同体回帰型。死んだ者は家族の霊、村落の霊として、生者たちと共にいる、やがて「じいちゃんの生まれ変わり」として赤ちゃんとして生まれ変わる。そういった考え方です。
しかし、聖書はそのどちらにも同意しません。私たちは、死んで滅び行く存在です。私たちの肉体や心と同じように、魂も死んで滅びてしまう。しかし、キリストが私たちの初穂として死者の中から復活したことにより、死ぬべき者、滅びるべき者が復活させられる命への通路が生まれました。私たちは、滅びます。肉体も心も魂も。ところが、私たちは「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、霊の体に復活」するのです。キリストと同じように!
私は、聖書の死生観の急所は、神様との関係であると思っています。先ほどの自然回帰型の考え方は、私たちの命を自然との関係の中で捉えていました。自然の大きな循環の中に私たちの命の位置を見つけ出しています。共同体回帰型は、家族や村人とのつながりに命の位置を見つけ出しています。ところが自然は意志を持たない曖昧模糊としたものですし、共同体は実際には死を前にして無力です。聖書は、私たちの命の位置を神様との関係に見ています。私たちは本当は土くれに過ぎない儚いものです。しかし、神がそんな私の鼻に命の息を入れて生きる者にしてくださり、神様の御顔の前に生かしてくださいました。私たちの生きるすべての日は神の前にあり、死を迎えるときにも、神様は私たちをご自分のものとしていてくださいます。私たちの命は、神様の前にあります。
だから、私たちの死の向こう側についても、神様に安心してお任せしていい。それが、神様から私たちへのメッセージです。私たちは神の大いなる手の中で、生きるときも死ぬときも、慈しみ深い神のものとして歩むことができるのです。

2020年8月16日日曜日

2020年8月16日(コリントの信徒への手紙一15:1~28)

コリントの信徒への手紙一15:1~28
「そうだとすると、キリストにあって眠りに就いた人々も滅んでしまったわけです。この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人の中で最も哀れな者となります。しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来たのです。」
この章がこの手紙のクライマックスです。ここでパウロは最も大切なことをもう一度、コリント教会の人々に思い起こしてもらうために、かつてパウロが彼らに直接言ったことを丁寧になぞります。キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、そして、ケファや12人、そして他の弟子たちに会ってくださったこと。それらはすべて聖書に書かれていることが実現して起きた出来事でした。そして、最後にパウロ自身にも主イエスは出会ってくださいました。そして、その最も大切な事実、キリストの復活が私たちに何をもたらすのか、そのことをパウロは書き記していきます。
死者の中から復活したキリストは、私たち信じる者たちの初穂となられました。キリストが復活したように、私たちもやがて死者の中から復活することになる。キリストの復活はその最初の実り、しるしだとパウロは言います。これが私たちが信じる望みであり、愛の源泉なのです。
しかし死者の復活などと言っても、はっきり言って、聖書に書いてある中でいちばん信じがたい事柄です。他のどんな奇跡よりも、ありえないことです。しかしそのいちばん信じがたいことが最も大切なことであり、もしも「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなたがたの信仰も無駄になります」とまでパウロは言います。信仰は復活という事実の上に成り立っています。
もしも私たちがこれを無視して「この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人の中で最も哀れな者」です。キリストをどんなに立派な道徳家と思っていいたとしても、例え凄い奇跡を起こした偉大な宗教の開祖と考えていたとしても、それだけではなんてことはない。私たちの死を超える望みにはなりえません。そうではなく、この方の十字架での死と三日目の復活は、この私の死と死を超えた望みに直結している。この私の生き死の望みは、キリストにかかっている。それが聖書のメッセージです。

2020年8月15日土曜日

2020年8月15日(コリントの信徒への手紙一14)

コリントの信徒への手紙一14
「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人にではなく、神に向かって語っています。誰も聞いていないのに、霊によって秘儀を語っているからです。しかし、預言する者は、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって語っています。異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます。」
異言という言葉が出てきます。元は「舌」という言葉から生まれた単語ですが、ここでは特別な祈りを指します。通常の祈りとは異なり、異言の祈りは周りの人からは意味が分かりません。特殊な言葉のようです。いやそもそも、言葉と言えるのかどうかもよく分かりません。異言による祈りの音声が伝わっていないからです。そういう祈りをしている教会は今もあります。それはそれで尊重されるべきであると思います。しかし、私たちの教会ではそういう祈りの習慣はありません。異言よりももっと優れた道があるからです。
それが、預言です。預言の異言との違いは、預言は意味が分かる言葉だということです。そしてもう一つは、異言が人ではなく神に向かう言葉、自分自身を造り上げる言葉であるのに対して、預言は人に向かって語られた言葉であり、通じるべき言葉、そして他者を造り上げるための言葉だといいう点です。だから、パウロは預言を追い求めるように、といいます。他者を造り上げ、教会を建て上げる言葉を互いに交わし合いなさい、と。「愛を追い求めなさい」という一句に尽きます。第13章で語られていた愛という賜物の具体的な姿が、自分自身ではなく隣人を造り上げる言葉としての預言の言葉だ、とパウロはいいます。
そう考えると、これは私たちにとってとても身近な問題であることに気づきます。私たちが交わしている言葉は、自分自身だけを造り上げる言葉に過ぎないのか。それとも、隣人を造り上げる言葉、自分ではなく隣人のために語られた言葉なのか。もちろん、人のためと言いながら自分の意見を押しつけるなどという愚かなことではありません。愛の言葉です。愛の言葉は、語るよりもむしろ耳を傾けて聞くというところに特質が生まれてくるのかも知れません。そういうことをトータルに捉えたところでの愛の言葉。そして、それが単に「愛の言葉」というだけではなく「預言」と呼ばれるのは、他でもなくキリストを語り合う言葉であるからでしょう。キリストの愛こそが私たちの絆です。私たちの慰めであり、励ましです。このキリストの福音が私たちに愛の言葉として響く。それが教会が語る預言の言葉です。

2020年8月14日金曜日

2020年8月14日(コリントの信徒への手紙一13)

コリントの信徒への手紙一13
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を企まない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
この聖書の御言葉は、美しい、輝く宝石のようです。しかしそれを眺めているだけでは意味がありません。宝石は金庫にしまい込むよりも、その美しさは身を飾るときに輝くのではないでしょうか。愛は、それをたんに眺めて感心したり、聖書が書いているようにはできないと言って嘆いたりするためのものではありません。この美しく輝く宝石は私たち自身を美しく装い、その美しさはもはやこれを身につけている私たち自身の美しさになるのです。私たち自身が愛の美しさをもって我が身を美しくすることができる。それが、キリストが私たちの起こしてくださる愛の奇跡です。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。本当にその通りであると思います。そして、それが本当に難しい。人に忍耐を強いることは簡単ですが、人のために少しでも忍耐するのは簡単なことではありません。ほんの僅かな忍耐をしただけで、自慢し、高ぶりたくなります。ここを読んでいて驚くのは、「全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない」と言っていることです。全財産を人に分け与えたり、焼かれるためにわが身を引き渡したり、そういうことが愛がなくてもありうるといっています。それは、僅かな行いを自慢したり、高ぶったりしてしまう心根と似ているのかも知れません。
私たち自身の心の中をいくらのぞき込んで探しても、愛は見つからないのだと思います。本当に自分に正直になればなるほど、自分の利益を求めたり、怒ったり、悪を企んでいることが私の現実だと言わざるを得ない。しかし、キリストの愛の奇跡は私たちの内にも必ず起こります。これは私たちではなくキリストに属している事柄です。愛はすべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えます。キリストの御業がこの私の内にも働いていることを、私たちは望みの内に信じます。
キリストの愛の奇跡がこの私にも始まっている。それは、何と美しく、輝かしい、甘美な希望でしょう。キリストを信じる私たちの内に、キリストは愛という宝石を飾ってくださっています。

2020年8月13日木曜日

2020年8月13日(コリントの信徒への手紙一12)

コリントの信徒への手紙一12
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
パウロは教会を一つの体に譬えます。この手紙を受け取ったコリント教会は分派争いをしており、また、社会的に状況の身分にある者が、社会的弱者を蔑ろにするという構図がそのまま教会に持ち込まれていました。しかし、体はいろいろな部分が有機的につながって全体になっているのであって、体の中の弱い部分も強い部分も等しく必要です。一部があれば事足り、他の見劣った部分は必要ないとは決して言うことができない。それと同じように、教会は一つの体だと言います。
そういう意味では、教会は家族にも似ています。働き盛りの世代もいればお年寄りもいるし、生まれたばかりの赤ちゃんや騒がしい子どももいます。どの一人も必要ない人はいない。健康な人も、病気の人も、介護が必要な人も、いろいろです。そしてその誰もが必要です。そのはずです。
しかし現実には、例えば家族の中で、それが一つの体のように互いを尊び愛、弱い部分がかえって必要だという受け止めが、単なる「建前」に過ぎないと言わんばかりの出来事がたくさんあります。教会だって同じことはいくらでも起こりえます。教会はキリストの体だという聖書の言葉は建前に過ぎないのであって、実際はそうなっていないということもありえてしまいます。そして、それが私たちの罪の現実に他ならないと言わねばならないのだと思います。
パウロは、とても積極的に、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と訴えます。「かえって必要」だとまで言います。「神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。」その秘訣が、次の章に登場する「愛」であるということであろうと思います。体の中の弱い部分が存在することによって、共同体全体に愛という霊の賜物が生まれます。この愛という賜物こそ、教会を教会たらしめるしるしです。
私たちの現実は愛にはほど遠いものです。それは、当然のことです。私たちの罪は根深くしぶといのですから。しかし私たちを一つの教会にしてくださる神の愛の賜物はなおのことしぶとく、私たちを新しくします。私たちの目には弱いものを愛するというのは建前に過ぎないと映ってしまうかもしれません。しかし、神様が私たちを新しくしてくださるという事実は、なおのこと本当のことです。

2020年8月12日水曜日

2020年8月12日(コリントの信徒への手紙一11)

コリントの信徒への手紙一11
「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
主イエス・キリストが定めてくださった聖餐の制定語として、私たちの教会でも、聖餐の度に朗読している聖書の御言葉です。「私の記念としてこのように行いなさい」と言われています。「このように」というのは、何を意味しているのでしょうか?
聖餐は、主イエスが十字架にかかる前の晩に過越の食事を弟子たちと共になさったこと、その時に主イエスがパンを取って祝福し、これを裂いて渡されたこと、そして杯を取って感謝の祈りを唱えて弟子たちに渡されたことを記念して祝います。主が十字架の上で裂いたお体としてのパンを、十字架に流した血としての杯を頂きます。そのことを考えると、主イエスがしてくださったようにパンを取って祝福して裂くという所作を指して「このように行いなさい」とおっしゃったのだ、と考えることができます。
ただ、それだけではないのだと思います。主イエスの食卓には、ユダもいました。ペトロもいました。彼らのために肉を裂き血を流すと主はおっしゃいました。「このように」といういのは、そういう食卓のすべてを指しているのだと思います。
だから、コリント教会に対して、パウロはいろいろな人が共に食卓を囲むことを大事にするようにと言いました。コリント教会には、奴隷もいましたし、奴隷の主人もいました。男も女もいました。ユダヤ人もギリシア人もいました。いろいろな人がいて、しかし結局分派争いをしてしまって、誰がいちばん偉いのかと言い争っていました。しかし、「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることになりません」とパウロは言います。皆が心を合わせて一緒に食事をすることを大切にしてほしいとパウロは言います。そういうことの全部を含めて、『このように行いなさい』ということなのではないでしょうか。
主の食卓にはいろいろな人がいます。まことに多様です。しかし、ただ一つ、主が私たちのために肉を裂き、血を流してくださったという事実だけがある。その恵みの事実だけが私たちを一つに結びつけます。私たちは、主イエス・キリストの食卓によって一つに結びつけられる。私たちは、今、この食卓を待望する忍耐の時を歩んでいます。この忍耐の時、私たちはこの時でなければ経験し得ない特別な恵みを頂くに違いありません。

2020年8月11日火曜日

2020年8月11日(コリントの信徒への手紙一10)

コリントの信徒への手紙一10
「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」
イスラエルの祖先はエジプトを脱出して40年間の荒れ野の旅をしたとき、何度も同じ過ちを繰り返しました。すなわち、神ならぬものを神として拝みました。神を礼拝するのではなく、他のものを神としました。それは金の子牛であったり、エジプトでの奴隷の日々への懐かしみであったり、自分たちの腹であったり、いろいろです。この荒れ野の40年間は、私たちの信仰の旅路と全く同じです。私たちもキリストと出会って自由にされ、新しい人生を生きています。しかしそれは極楽浄土のような順風満帆の中を進むのではなく、荒れ野を旅するようなものです。そして、そこには試練があり、誘惑があります。パウロに言わせれば、その誘惑の本質は、偶像礼拝への誘惑です。だから、パウロは私たちに気づかせようとします。神が、私たちのための逃れる道を備えていてくださっている、と。
どこに逃れる道があるというのでしょうか。パウロはそのすぐ後に聖餐の話を始めます。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つです。皆が一つのパンにあずかるからです。」私たちは聖餐にあずかってキリストとの交わりにあずかり、キリストと一つになります。聖餐は、悪霊との交わりではなくキリストの交わりです。聖餐は、荒れ野で神がマナを用意してくださり、飲み水を準備してくださったのと同じように、キリストが私たちのために備えてくださった食卓です。だから、私たちはこの食卓にあずかることでキリストと一つになります。
日曜日の小会で今後の聖餐についての話し合いをしました。今、私たちの生活圏でコロナの感染が拡大している状況下にあり、やはり主日礼拝の中で再開することは困難と結論せざるを得ませんでした。しかし同時に、これまでも少しご案内していましたが、個別に小さな聖餐礼拝をすることといたしました。今後ある日程を定期的にもうけ、聖餐の食卓にあずかる機会を設けていきたいと思います。この食卓は、キリストが私たちのために準備してくださった逃れの道です。私たちのためにキリストが裂いてくださったお体との交わり、私たちのために流してくださった血潮との交わりこそ、私たちの苦難の日の流れ場です。私たちはキリストと一つになることで、苦しみの中でも生きることができます。

2020年8月10日月曜日

2020年8月10日(コリントの信徒への手紙一9)

コリントの信徒への手紙一9
「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法の下にある人には、律法の下にある人のようになりました。律法の下にある人を得るためです。私は神の律法を持たないのではなく、キリストの律法の内にあるのですが、律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱いに人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです。福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです。」

パウロのこの徹底した自由に、私は心からの憧れと尊敬を抱きます。福音のために、私はすべてのことをしています。パウロはそう言い切ります。そうであるからこそ、小アジアに行き、マケドニアに行き、ローマにまでも行くことができたのでしょう。どこに行ってもパウロがしたのは、キリストの福音を伝道することに就きました。なんとかして、何人かでも、キリストの福音に共にあずかるために。パウロはそのことに心を傾け、自分の命も傾けて生きていました。
キリストと出会う前のパウロはそうではありませんでした。自分がユダヤ人であること、ファリサイ派の一員であること、そういうことを誇りにしていました。言葉を換えれば、それにこだわっていました。こだわりは時に自分を不自由にさせます。しかし今やキリストにあって自由になり、ユダヤ人であることにも律法にもこだわりません。だから、ギリシア人にはギリシア人のようになれる。律法を持たない者には律法を持たない者のようになれる。それでいて、ユダヤ人をばかりにしたり、律法を大切にして生きている者を軽んじたりはしません。彼はユダヤ人にはユダヤ人のように、律法の下にある者には律法の下にある者のように接し、なんとかして、彼らの心にキリストを届けたのです。
何という自由であろうかと思います。彼を自由にしたキリストの福音が、あまりにも素晴らしかったのでしょう。その一事に尽きるのです。このキリストは、私たちをも自由にしてくださいます。目の前にいる人、出会った一人の人のために、この人にキリストを紹介するために、私たちも自由にされています。

2020年8月9日日曜日

2020年8月9日(コリントの信徒への手紙一8)

コリントの信徒への手紙一8
「しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。」
私は高校一年生の時に洗礼を受けました。その時にある方からお祝いに聖書を頂きました。表紙を開くと洗礼の記念という旨の書がしたためられていて、そこに冒頭の聖書の御言葉が添えられていました。「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。」もっとも、当時は新共同訳聖書でしたので、冒頭の聖書協会共同訳と少し違う訳文でした。意味するところは全く同じです。そのようなこともあって、私にとってはとても印象深い聖書の言葉です。
このコリントの信徒への手紙の文脈では、知識というのは、偶像に備えられた肉に関する知識です。コリントはギリシアの町で、町中至る所に偶像がありました。そういう神々に備えられた肉が市場に卸されてきて、町の人がそれを買って食べることができたようです。すると、キリスト者になったギリシア人は困ってしまった。一度偶像に備えられた肉を食べても良いのか、と。これからお盆を迎えますが、仏壇に上げられた食べ物を食べて良いのか、というのと同じ問題です。
パウロは、そのようなことは全く問題がないと言います。「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。」そもそも偶像の神々など存在しないのだから、別にどこに備えられたのであろうと気にせず食べて差し支えない。それが偶像についての正しい知識です。
しかし、それで話は終わりません。「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたせいで、偶像に献げた肉として食べ、良心が弱いために汚されるのです。」世の中に偶像の神などいない。そのことへの核心が弱いあまり、偶像に備えられた肉を食べることに良心の呵責を覚え、結局肝心の主イエスへの信仰が揺らいでしまう結果になりかねない人もいる。そうすると、結局問題は偶像それ自体ではなく、それに立ち向かう私たち自身ということになります。そして、パウロは、その点で弱い人を切り捨てるのではなく、自分の知識に基づく自由を、弱い隣人のために制限しようと言います。「それだから、食物が私のきょうだいをつまずかせるなら、きょうだいをつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません。」
私たちの時代、私たちの社会の中では、肉を食べるかどうかは特に問題にもなりません。しかし、自分の正しい知識のために、弱い人をつまずかせてしまう可能性があるという問題はいつでもあるのだと思います。そのようなときに、パウロは言います。「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げます。」私たちは愛に従って生きていきたい。それは、「このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださった」からです。

2020年8月8日土曜日

2020年8月8日(コリントの信徒への手紙一7:25〜40)

コリントの信徒への手紙一7:25~40
「きょうだいたち、私がこう言うのは、時が縮まっているからです。これからは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、ものを買う人は持たない人のように、この世を利用する人は利用しない人のようになりなさい。この世の有り様は過ぎ去るからです。」
時が縮まっている、と聖書は言います。イエス・キリストが再び来る日が近づいている。歴史が完成する日が近づいている。時が縮まっている。それが、聖書の時間観です。
聖書は、時間には始めと終わりがあると見ています。神が始めたこの世界の時間は、やがて終わりの時を迎える。円環的に歴史が繰り返すとは考えません。あるいは、時間を認識する人間がいつか滅びても、いつまでもだらだらと続いていくとも考えていません。神がお始めになったものは、神が完成させる。時間は、やがて来たる完成の時に向かっています。時は縮まっています。
最初の計画では今頃オリンピックをしているはずだったのでしょうが、それは実現しませんでした。出場予定だった、あるいはそれを目指していた選手たちにとっては厳しいことだと思います。結局いつ開催できるのか分かりません。選手にとっては、肉体的にも精神的にもどうやって「その時」を迎えれば良いのか、目標を見失うということだって起こりうると思います。キリスト者としての私たちも、それと似ているところがあるかも知れません。パウロも、当時の教会も、すぐにでも主イエスは来られると信じていました。しかし、なかなかキリストが来られる「その時」が来ない。主を待ち望む信仰に生きるモチベーションを維持するのは厳しいことです。
しかし、「その時」は必ず来ます。オリンピックとは違って、主が再び来られるその時は、予め○年○月○日ですというアナウンスができません。ただ一つ私たちが知っているのは、時が縮まっているという聖書の約束だけです。そして、私たちが、主を礼拝し、聖書の御言葉を聞くとき、現に主イエスと出会っているということは、揺るぎない事実です。その意味で、私たちは日々主をお迎えしています。
だから、私たちは主イエス・キリストをお迎えする者として、今日という日の歩みを整えたいと思います。この世界の出来事や私たちの人生の事柄は、主にあって、新しい祝福の中に置かれています。私たちの人生の事柄を主にお委ねし、この方の祝福の内にあることを信じて、今日私と出会ってくださる主イエス・キリストの前に、誠実に生きていきたいと願います。

2020年8月7日金曜日

2020年8月7日(コリントの信徒への手紙一7:1~24)

コリントの信徒への手紙一7:1~24
「おのおの召されたときの状態に留まっていなさい。召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい。主にあって召された奴隷は、主によって解放された者であり、同様に、召された自由人はキリストの奴隷だからです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。きょうだいたち、おのおの召されたときの状態で、神の前にとどまっていなさい。」
パウロがこのように述べる背景には、主イエスの再び来るときはもう間近に迫っているという切迫した意識があります。ここでは、結婚から始まって離婚、割礼、奴隷などの諸問題について触れながら、「おのおの召されたときの状態に留まっていなさい」と勧めています。これは単に現状維持でいなさい、何も変化を起こさないようにしなさい、という意味ではないでしょう。むしろ、主イエスが再び来られて世界が終わる日が近いというパウロの時代のキリスト者たちの切迫した認識が背後にあり、その上で、今のこの時をどう生きるのかということを問うたところで生まれた言葉であるのだと思います。
そのことを前提にして読むと、結婚するかどうか、配偶者が自分の信仰を理解してくれない場合に離婚しても良いのか、割礼は受けた方が良いのか、あるいは割礼の跡をなくした方が良いのか、奴隷である者はそれを拒むべきか、そういったことは、あくまでも相対的なことに過ぎないと言っているのだろうと思います。一番大切なことは、主イエス・キリストをお迎えするということであって、私たちの人生の中で起こるさまざまな事柄は、それが人生を左右するような大切な事柄であっても、決定的な問題ではないと言っているのだと思います。
私たちにとっては、どういう人と結婚生活を送るのか、あるいはそもそも結婚するのか、この婚姻関係は継続可能なのか、あるいはどういう職業に就き、どうやって働くのか、そういうことが自分の人生にとってのいちばん大切な事柄であるように思います。しかし、もっと大切なことがあると気づいたとき、それらの人生の選択についてもまた違った目で立ち向かうことができるのではないでしょうか。私たちは主にあって解放された者であり、キリストの奴隷です。私たちは主イエス・キリストに仕えています。キリストの奴隷である私が、今日、主が出会わせてくださったこの人に仕え、この人を愛する道を探る。それが私たちの隣人との出会いなのです。

2020年8月6日木曜日

2020年8月6日(コリントの信徒への手紙一6)

コリントの信徒への手紙一6
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖なる霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
私たちの体が、今や神の神殿なのだと言います。驚くべき言葉です。
キリスト教会は、神殿を持ちません。つまり、エルサレムだとかローマだとか、そういう信仰の中心地に神殿があって、そこに参拝するという信仰を持っていません。旧約の時代には神殿がありました。神殿の奥には神の箱が安置されていました。その箱の蓋は贖いの座と呼ばれ、そこから神が語りかけるとされていました。神殿は旧約の民の信仰の中心でした。イスラエルの人たちは年に三度ある大きな礼拝(祭り)の時には神殿を詣で、神を礼拝しました。
しかし、今、キリスト教会は特定の場所に神殿を持ちません。ここに行けば神に会えるという場所を持たない。その代わりに、私たちの体が神の神殿だとパウロは言うのです。驚くべき言葉です。私たちの体の内に神が宿っていてくださると言うのです。神が宿っていてくださる以上、私たちはいつ、どこにいても神と共にいます。私たちを神の神殿とするために、キリストの体という代価によって私たちは神に買い取られました。私たちは今や神のものであり、神様がご自身を現してくださる場所になったのです。
「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と聖書は言います。神様は私たちをご自分のものとして買い取ってくださいました。そうである以上、私たちは自由です。「私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。」私たちは自由です。だからこそ、私たちはこの自由を罪を犯す機会にはしない。それは、私たちの自由がキリストの命という代価によって勝ち取られた自由だからです。私たちのこの体に神の霊が宿っていてくださるからです。だから、私たちは罪に支配されるのではなく、この体で神の栄光を現すために生きていきます。

2020年8月5日水曜日

2020年8月5日(コリントの信徒への手紙一5)

コリントの信徒への手紙一5
「現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。それでも、あなたがたは高ぶっているのですか。むしろ悲しんで、そのような行いをしている者を自分たちの中から排除すべきだったのではありませんか。」
パウロはコリント教会で起こっていた具体的な事件を念頭に置いているようです。この教会の中に性的な不品行があった。父の妻というのは、自分自身の母親ということではなく後妻ということなのだろうと思います。しかしそういう立場の女性と関係を結ぶ男が教会の中にいた。これは、おそらくコリントの性的文化として起こっていたことなのであろうと思います。世間で起こっているのと同じことが教会で起こっているというのはどういうことか、とパウロは問うているのだと思います。
最初の時代に教会が伝道をした世界は、かなり性的にオープンな土壌だったように思います。そういう意味では、現代社会と似ているところもあるのかも知れません。パウロは、そういう世界に生きる信仰者である私たちは、世間とは違う肉体の使いかをするはずだ、と言っているのだと思います。さらに言えば、10節や11節には「淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を礼拝する者」というふうに話が進んで行くとおりに、性を含む私たちの肉体の欲望との付き合い方の話なのだと思います。欲望を追求し、それを達成することが善だと世界は教えます。それは、2000年前でも今でもあまり変わらないのだろうと思います。テレビコマーシャルは私たちが持たないこと、欲望を達成しないことが如何に不幸なのかを教えます。しかし、私たちはキリストの十字架という神の弱さ、愚かさによって救われたのだから、自分の欲望を追求する競争によって人間らしさをはかるのは止めよう、とパウロは呼びかけているのだと思います。
ただ、パウロは、そのように言って世間を閉め出し、付き合いを止め、自分たちだけで閉じこもって勝手に聖なる者になるのもおかしいと言います。あくまでも世界には開かれている。そこにある欲望は、私たち自身の欲望です。しかし、それに追随するのではなく、十字架のキリストに心も体も向けて生きていく。性もまたキリストにあって祝福の内にあります。私たちのこの肉体をつくってくださった神様を、私たちはこの肉体をもって崇め、礼拝する。肉体をもつ私たちの日々の営みもその祝福の中にあります。

2020年8月4日火曜日

2020年8月4日(コリントの信徒への手紙一4)

コリントの信徒への手紙一4
「あなたがたに裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、私は何ら意に介しません。私は、自分で自分を裁くことすらしません。私には少しもやましいことはありませんが、それで義とされているわけではありません。私を裁く方は主です。ですから、主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。」
私たちの教会は「長老教会」と呼ばれる教会の伝統を引き継いでいますが、この教会はスイスの改革者、ジャン・カルヴァンに遡ります。このカルヴァンという人のモットーは、ラテン語でいうと「コーラム・デオ」というものでした。「神の御前で」という意味です。私たちは神の御前で生きている。あるいは、神のみ前に進み出て神を礼拝し、神に祈り、神を賛美する。そこにある畏れと信仰こそ、カルヴァンという一人の信仰者のあり方だったようです。
私は、使徒パウロというこの手紙を書いた人物こそ、コーラム・デオ、神の御前での人生を生きた人だと思います。神のみ前に行き、神を畏れ、敬い、神に向かって生きていく。だから、人から裁かれることを意に介することはありません。これは私にとっては驚くべき言葉です。私が人目に弱いからです。人に裁かれたり、悪い噂が立つようなことに弱いと、結局は神様の御前ではなく「世間の前」で生きることになります。「世間の前」の生の基準は世間の目です。そうなると、心の中はやましいことだらけです。人目が基準ですから、隠れたところでは何でもできる。しかし良心はそれを知っています。あるいは、やましいところはないと強弁するより他ありません。結局、曖昧で移ろいやすい人の目や世間の評価に翻弄されているだけだから。それは、本人にとっても辛い生き方です。
神の御前に生きたパウロは、神に向かって生き、神への誠実に生きました。だから、人にやましいところはない。しかしそれを鼻にかけたり、それを神様の前に持ち出すのではなく、「私を裁くのは主です」と言い切りました。これが神の御前で生きるということなのだと思います。
私たちの今日の日の営みも、神様の御前での一日です。他の誰よりも先に、私たちは神様に対して誠実に生き、神が与えてくださった隣人を愛する。その営みは、神の御前での営みです。主イエス・キリストが、今日も、私たちと共にいてくださいますように。

2020年8月3日月曜日

2020年8月3日(コリントの信徒への手紙一3)

コリントの信徒への手紙一3
「ある人が『私はパウロに付く』と言い、他の人が『私はアポロに』と言っているようでは、あなたがたはただの人ではありませんか。アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。」
アポロというのはパウロがコリント教会を離れた後にやって来た伝道者の仲間です。アポロはコリント教会で人気があったようです。彼は雄弁で、魅力的な人物であったことが推測されているようです。そして、コリント教会ではパウロ派、アポロ派、ペトロ派、イエス派などとそれぞれが勝手に名乗り合い、仲間割れをしていました。しかし、それh根本的に間違っているとパウロは指摘します。
分裂して仲間割れし、党派争いをしているときに見失っているものは一体何なのか。さおれは「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です」とパウロが言うところの、成長させる神のお働きです。私たちを教会として成長させてくださるのも、あるいは個々人を一人のキリスト者として成長させてくださるのも、神様です。神の御業が私たちに働いている。パウロとかアポロとか、人間ばかりを見ているときに、働いていてくださる神が見えなくなってしまうのです。
私たちは、神様の御業に与っています。私たちを一つの教会として建て上げる神の御業に。今の時代は誰にとっても厳しい時代です。キリスト教会にとっても大きな試練の時であることは間違いありません。私たちは、そのようなときであるからこそ、神様の御業が私たちの間に働いていてくださっていることを信じましょう。私たちを一つの教会にしたのも、教会というキリストの体として生かしてくださっているのも、神様です。まさか礼拝自体が危機にさらされるようなことになるなんて、誰も想像していませんでした。しかしこの困難の中にも神の手はあるのであり、なお私たちをキリストの体として整え、建て上げようとしてくださっていることを私は信じます。神様に期待しつつ、今日の一日の歩みを始めます。

2020年8月2日日曜日

2020年8月2日(コリントの信徒への手紙二2)

コリントの信徒への手紙一2
「きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘儀を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。」
パウロの二度目の宣教旅行の時のことです。アテネに行ったパウロは、他の多くの都市でそうであったような目に見える成果を上げることができませんでした。アテネの人たちは珍しい物好きだったので、パウロが話す外国の宗教の話に興味を持ちました。しかし、話が核心にいたりキリストの復活の話に及ぶと、パウロを馬鹿にして立ち去ってしまいました。それで、パウロはアテネを離れてコリントに向かいます。
パウロは「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした」と言っています。それが具体的に何を意味するのかはよく分かりません。もしかしたら、アテネでの手痛い経験が影響していたのかも知れません。いずれにしても、コリントに到着したパウロは堂々とした態度や素晴らしい知恵の言葉によって宣教をすることはできませんでした。却って不安でビクビクし、そこに雄弁な知恵の言葉はなかったのです。
普通、失敗によってスランプになり、ますます自信喪失になる負のスパイラル・・・とでも言うような状況です。しかし、パウロは、そういう状態でコリントに行ったことはあなたたちのためには却ってよかったのだ、と言っています。それは、パウロが立派な知恵や素晴らしい雄弁を披露し、それがすごいと言われてしまうのではなく、神の霊と神の力だけによって、神の愚かさである十字架の言葉だけに集中できたからです。
パウロは強がりでそういうふうにいっているわけではありません。本気で、コリントに行ったとき自分が弱くてよかったと、弱さを誇っています。キリストの力が現されるために、自分は喜んで弱くなるとパウロは考えているのです。
私たちの間にあるのは、十字架の言葉だけです。キリストの十字架だけが私たちの結び目です。神の弱さによって私たちは救われた。その事実に、今日も新しい思いで立ち帰りたいと願います。

2020年8月1日土曜日

2020年8月1日(コリントの信徒への手紙一1)

コリントの信徒への手紙一1
コリントはギリシアの商業都市であり、当時の世界の中では文化レベルの極めて高い場所でした。パウロの宣教旅行の中で、この町に教会が生まれました。パウロは各地で伝道したのでしばらくするとコリントを離れましたが、その後この教会は混乱し、パウロに敵対的な気持ちを抱くようになります。それだけではなく、そもそもキリストの福音から離れてしまったところがある。信じているつもりだが、その信仰が曲がってしまっている。それで、パウロはこの手紙を書きました。彼らをもう一度キリストのもとに呼び戻すために。
そこで、パウロは信仰の急所に立ち帰る言葉を記します。「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
十字架の言葉。それがキリストの福音の急所です。しかしそれは、多くの弟子を集めながら道半ばで自分の弟子に裏切られて捕らえられ、ローマという世界の支配者の手で死刑にされた一人の貧しい男の話です。ギリシアの豊かな都市コリントの人々から見て、それはどんなに愚かな話だったことでしょう。いや、私たちにとって他人事ではありません。私たちが信じている福音は、この世から見たら愚かな話なのです。2000年も前に磔にされた一人の男を救い主と信じ、神の子と信じているのです。それが愚かでなくて何なのか。
しかし、その愚かさが福音の急所だとパウロは言います。福音の愚かさは私たち自身が賢いわけでもなく、この世の力ある者ではないことに通じます。「神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かなものを選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。」私たちが救われたのは、ただただ、神様のおかげです。だから、誰も誇ることができない。私たちの弱さによってそのことが明らかになります。神ご自身が十字架というご自分の弱さと愚かさによって私たちを救ってくださったからです。神の弱さ、愚かさである十字架の言葉こそ救いの急所なのです。

2020年10月22日(ヨハネによる福音書4:1~30)

ヨハネによる福音書4:1~30 「主よ、あなたは汲む物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。」 サマリアの女と主イエスとの対話です。生ける水を与えようというイエスの言葉をいぶかしく思って、彼女は問いただしました。「主よ、あなたは汲む...