2020年12月31日木曜日

2020年12月31日(ヨハネの黙示録22)

ヨハネの黙示録22
「私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。」霊と花嫁が共に言う。「来たりませ。」これを聞く者も言うがよい。「来たりませ。」渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、、価なしに飲むがよい。

イエスは輝く明けの明星!夜明けを告げる、輝く星です。もう、朝が来ている。救いの時が来ている。イエスは私たちに夜明けが来たと言われるのです。「神の国が近づいた」と言われたあのときにも、イエスがお生まれになった夜、天使が「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったときにも、イエスという明けの明星が輝きだしていました。救いの時は、もうここに来たのです。
ヨハネの目の前にも、私たちの目の前にも、真夜中の闇に覆われているような現実が広がっています。悪魔が大手を振るっているような現実。私たちの愛はまったく冷え切ってしまっているかのよう。しかし、イエスという星がもう空に輝いています。この星は明けの明星です。夜明けを告げる星です。
だから、私たちの祈りは「主よ、来たりませ」です。私たちはキリストが再び来てくださる日を待ち望んで、キリストが来てくださる救いの日に向かって生きています。私たちが今この時代を生きるために痛むこと、悲しむこと、いろいろなことがあるでしょう。しかし主イエスが来てくださる救いの日、私たちのために命の水を飲ませ、命の木の実によって私たちを生かしてくださいます。私たちはこの世に報いを求めることなく、キリストの愛に生きるように招かれています。
主よ、来たりませ。私たちはこの祈りをしつつ、この年を終えていきます。私たちは主イエスを待ち望みつつ、新しい年を迎えます。主が再び来て、私たちを救ってくださるその日を目指して、私たちは報いがなくともイエスを愛し、ご褒美を期待せずにキリストに従います。もうすでに主が私たちを愛してくださっているからです。私たちは悲惨な世界のただ中にあって神を礼拝します。そのために、神に造られ、命を与えられたからです。キリストを待ち望むことにこそ、私たちの望みがあるのです。

2020年12月30日水曜日

2020年12月30日(ヨハネによる福音書1:1〜18)

ヨハネによる福音書1:1~18
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」

ヨハネによる福音書の冒頭は、何か哲学的な、抽象的で難しいことを言っているように思えます。確かに一面ではその通りで、今日私たちに与えられている箇所は、そのほかのところよりも一言一言に込められている意味が豊かであると思います。ある意味では詩的な、一つの言葉にたくさんの含意があると思います。しかし他方では決して難しくはなく、私たちにはよく分かる言葉であると思います。
「言」について語り出している。普通の「言葉」という字ではない訳語を当てています。特別な意味が込められているに違いありませんが、ただ要するにこの言は初めに神と共にあり、命をたたえ、人間を照らす光であると言っています。さらに14節では「言は肉となって、私たちの間に宿った」と言っている。したがって、「言」は具体的にはイエス・キリストを指していることは明らかです。ここを読む上で一番大切なのはそのことです。
イエス・キリストによって、この世界の万物は成ったのだ、と言います。キリストは世界が創造されたときから、この世界に働きかけておられた。どうやって働いていたのかと言えば、命を生み出したのだと言います。キリストの内に造られた命こそ、人を照らす光だと言います。この光は闇の中で輝いている。私たちが闇の中にいても、キリストという命の光が照らしているのです。
つまり、ここで言われていることは、この世界は根本的に、キリストの命と光の祝福の中にあるのだ、ということです。私たちがこの世界にどんなに絶望したとしても、それでも世界はキリストという命の光に照らされています。この世界がどんなに腐り、どうしようもなく、滅び行く様相を呈していても、キリストの命の光は混沌の中にうずくまる私たちを照らしているのです。ヨハネによる福音書の冒頭の言葉は、キリストにある根源的な祝福を宣言します。
「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と聖書は言います。私たちへの神の愛、この世界を照らす命の光、それはすべてイエス・キリストによってもたらされました。私たちも、この世界も、キリストの恵みと真理の中にあります。今日も、そして明日も。

2020年12月29日火曜日

2020年12月29日(マタイによる福音書2)

マタイによる福音書2
ラマで声が聞こえた。
激しく泣き、嘆く声が。
ラケルはその子らのゆえに泣き
慰められることを拒んだ。
子らがもういないのだから。

主イエスがお生まれになった。神の救いの出来事が始まった。それなのに、その知らせを聞いたヘロデ王は不安になり、恐れ、怒って、ベツレヘムにいる二歳の以下の男の子を、ひとり残らず殺すという暴挙に出ました。聖書は母親たちの嘆きを、旧約聖書の言葉によって伝えています。激しく泣く声、嘆く声が聞こえる。慰められることさえ拒む。深い悲しみに包まれた。
ヘロデは「東方の博士たち」(日本聖書協会共同訳は再びこの訳語に戻りました!)から新しい王の誕生の知らせを聞きました。ヘロデは不安になった。博士たちはヘロデに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねます。そしてヘロデ王は祭司長や律法学者を呼び寄せて「メシアはどこに生まれることになっているかと問いただした」。博士もヘロデも「どこに」と聞いています。同じことを問うている。しかし、それがベツレヘムであることを知ったときの反応は、全然違うものになりました。ヘロデは博士たちに調べに行かせた。博士たちは実際に自分たちの足で出かけ、星が幼子のいる場所を知らせたときに喜びました。ヘロデは「どこに」と問いながらも結局は全然真剣ではなく、人任せです。博士たちは実際に会いに行ったのです。
結局、ヘロデはイエスとで会うことができませんでした。それは、ヘロデの方が出会いを拒んだからです。ヘロデにもメシアと出会うチャンスはあったのです。自分の不安を優先させてそれを拒み、真剣に尋ねることもせず、結局怒りに任せてたくさんの幼児を虐殺してしまった。人間の罪の姿が端的に表れてしまった事件です。
主イエスは、幼児や母たちの嘆きの中に生まれてきました。私たちの罪がもたらす悲しみや涙にイエスは宿っておられる。私たちの救い主は、この世界の悲惨の中におられるのです。

2020年12月28日月曜日

2020年12月28日(マタイ1)

マタイによる福音書1
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
これは、「神は我々と共におられる」という意味である。

神は我々と共におられる。それは、私たちが思っている以上に確かな事実です。
新約聖書の最初におかれているマタイによる福音書。その始まりは、私たちにとってはなじみやすいとは言いがたいものです。聖書を開くと途端にカタカナの名前の羅列を読まされます。旧約聖書を読んでいれば知っている名前もありますが、聖書を初めて手に取る人にとってはほとんど暗号のようなものです。ただ、最初にこの福音書を読んだであろうユダヤ人にとっては、大きな意味を持っていたようです。以前、イスラエルに旅行をした人から、入国時に書く書類の中に、自分の名前と一緒に父親の名前を書く欄があったと聞いたことがあります。(今でもそうなのでしょうか?)彼らにとって父は誰なのか、自分は誰の子なのかということには独特な意味がある。
しかし、そうであるのならば、この系図はユダヤ人や父権的な文化に生きる人にとってだけ意味があるということなのでしょうか。そうではないと思います。この系図に登場する人たちの名前を見ていくと、これは失敗した人たちの系図であることに気付きます。もっとはっきり言えば、罪人の系図です。例えば、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。他人の妻に自分の子どもを産ませた。このときダビデは王さまでした。その上、ダビデはウリヤの妻のバト・シェバと密通した後、夫ウリヤを戦場でわざと戦死させています。姦淫だけではなく殺人まで犯した。一人ひとりの名前を見ていくと、そのような過ちはダビデだけの問題ではありません。
イエス・キリストはそういう系図に名前を連ねました。救い主はダビデの家から出る、王の系統を引く。イスラエルの人たちはそう信じていましたし、その通りになりました。しかし一見すると華々しく見えるその系図の実態は、罪人の名前が連綿と続く系図です。罪人の系図にイエスがご自分の名前を連ねたのです。
神は我々と共におられる。それは、どうしようもなく罪深く、救いようもない私と共にいてくださる、ということです。こんな私を見捨てず、見放さず、それでも救ってくださる。それが、神は我々と共にいてくださるという事実が意味することなのです。

2020年12月27日日曜日

2020年12月27日(ルカによる福音書2:41〜52)

ルカによる福音書2:41~52
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。

ヨセフとマリアは毎年、過越祭にはエルサレムへ行っていました。ユダヤ人としての信仰者の義務を果たしていた。イエスが12歳になった年の過越祭にも、やはり一家で旅しました。エルサレムについて礼拝をし、皆と一緒に帰路に就いたとき、イエスは一人エルサレムに残っていました。両親は気づかなかった。イスラエル中の人がエルサレムに集まっていましたから、家路もたくさんの人が連れ立って歩いていました。両親はイエスが一行の中のどこかにいると思い込んでいたのです。三日後になってようやくイエスがいないことに気づきました。イエスを捜しながら戻り、ついにエルサレムまで戻って、神殿で教師たちと話しているのを見つけたのです。
「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」マリアは息子にいいました。迷子になったのだから、厳しく叱らないといけない。それなのにイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」と言う。両親がこの言葉の意味が分からなかったのも、当然のように思えます。子育てをしながらこの話を読むと、なんとも身につまされます。ヨセフとマリアがかわいそうな気がしてしまいます。子どもが迷子になれば、両親はどんなに心配することでしょうか!
しかし、きっと本当に迷子だったのはイエスではなく両親の方です。イエスが神の子であるということを見失っていたのです。「私が自分の父の家にいるはずだ」というのは、ただの12歳の息子の言葉として聞けばあまりに生意気ですが、本当に神の子である方の言葉だとすれば、当然のことです。両親は、イエスが神の子だという真実を見失っていたのです。
マリアにすれば自分が産んだ子、ヨセフも父として育ててきた息子です。その相手が神の子だとわきまえるのは大変なことです。私たちは彼らと同じ意味でイエスと接することはないのかもしれませんが、しかし私たちの毎日の営みの中で神さまとの関わりを見出すという意味では、同じ問いを受けているのだと思います。私たちの目の前にいる人も、神さまが愛し、尊んでいる人です。私たちの目の前の人に現れる神の御業を、私たちも目を開いて見つめ直したいと願います。

2020年12月26日土曜日

2020年12月26日(ルカによる福音書2:21〜40)

ルカによる福音書2:21~40
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
私はこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民の前に備えられた救いで
異邦人を照らす啓示の光
あなたの民イスラエルの栄光です。」

ルカによる福音書にはたくさんの賛美歌が収められています。この数日、マリアの参加、ゼカリヤの賛歌を見ました。昨日のところにはクリスマスの夜に天使が歌った賛美歌が記録されていました。今日のところにはシメオンの賛歌があります。これもラテン語から採られた題名がつけられていて、ヌンク・ディミティスと呼ばれています。ヌンク・ディミティスは、一日の中では終課と呼ばれて、一日の終わりの夜寝る前の祈りで用いられてきた伝統があるようです。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」私はこの賛美歌が大好きです。安心して死ねる、とシメオンは言いました。なぜなら、この目で神の救いを見たから。イエスにお目にかかったから、私はいつでも死ねるとシメオンは言います。シメオンは主イエスと出会ったことで、自分の人生の目標は完成したと悟ったのです。
私たちは何のために生きているのでしょう。何をすることができれば、悔いなく死ぬことができるのでしょう。何か人から尊敬されるようなことをしたのか、何らかのかたちで名を残したのか、人の記憶に残るのか、次世代を育て上げたのか、・・・。それらはどれも尊いことです。しかし、私たちが「する」ことはどんなにすばらしくても私たちを救うことはできません。成果は必ず色あせるし、人は変わります。野に生える草のように移ろうものです。昔の人はそのことをよく知っていたので、日本語にも無常という言葉があるのだと思います。
変わらないのは、神さまだけです。私たちは昨日も、今日も、そして永遠に変わることのないイエス・キリストに出会うときに救われます。これはすべての人のための救いです。キリストは私たちの誰であっても救うために来てくださいました。ヌンク・ディミティスは聖餐の賛美歌として歌う習慣もあります。讃美歌21にも入っていて、礼拝で歌ったこともあります。キリストと出会い、キリストのお体を食べて生きる。私たちの信仰生活がそこにあります。

2020年12月25日金曜日

2020年12月25日(ルカによる福音書2:1~20)

ルカによる福音書2:1~20
「ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。」

主イエス・キリストはお生まれになりました!私たちはこの方を見れば分かるのです。神が生きておられることが。神が今も働いておられることが。神がこの世を愛していることが。飼い葉桶に寝かされた神の御子を見れば、私たちにも分かるのです。
マリアが産んだ子を飼い葉桶に寝かせたのは、宿屋に泊まる所がなかったからです。この「宿屋」という単語には「客間」という意味もあります。旅館業を営んでいる宿屋がどこも満室だったということではなかったのかもしれません。旅の人のために自分の客間に一夜の床を提供する人が一人もいなかったということではないかと思います。そうだとすると、宿屋を営んでいる人だけの問題、あるいは当時人口調査のためにやってきて自分の宿屋の一室を譲らなかった人の問題というには留まらなくなります。自分の住まいのほんの僅かなスペースも、お腹の大きなマリアのために提供することがないという、すべての人の冷たさの話になります。主イエスは愛の冷えた世界に来られたのです。
主イエスは一枚の布を産着にして、静かに飼い葉桶に寝ています。この乳飲み子が私たちのためのしるしです。主イエスは愛が冷えた世界に宿った神の愛そのものです。
今年はコロナの年になってしまいました。こういう大変なことがあると、私たちの心の中にあるものがむき出しになります。私たちの愛が冷えていることがあからさまになってしまったように思います。本当は昔からそうだったのですが、こういうときにはあからさまになります。主イエスが宿ったのは、そういう世界なのだと思います。しかし主イエスが飼い葉桶に寝ているからには、この方を見れば神の愛がここにあると私たちにも分かるのです。
私は今いろいろな人の顔を思い浮かべながら聖書を読んでいます。さがみ野教会の仲間たち。私の近所の人。教会に遊びに来る子どもたち。子どもたちの友達とその家族。他の教会の人たち。海外の人もいます。数限りなく、無数の顔を私たちは思い浮かべるのではないでしょうか。今あなたが思い浮かべたたくさんの顔。その誰一人として例外なく、主イエスはすべての民の救い主です。飼い葉桶に宿った神の愛の対象外という人はいません。私たちの世界が愛に冷え切ってしまったとしても、神の愛が冷えることはありえないのです。キリストがお生まれになったこと、飼い葉桶におられること、それが私たちのための神の愛のしるしなのです。

2020年12月24日木曜日

2020年12月24日(ルカによる福音書1:57〜80)

ルカによる福音書1:57~80
幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
 我らの足を平和の道に導く。

洗礼者ヨハネが生まれたときの父ザカリア祈りの言葉です。これも昨日読んだマリアのマニフィカートと同じように、ラテン語訳の冒頭からベネディクトゥス・ドミヌス・デウスと呼ばれています。例えば修道院などでは一日の祈りのための聖務日課というものが決まっていますが、その中でもベネディクトゥス・ドミヌス・デウスは朝の祈りに分類されています。上で引用した最後の部分が朝のイメージで語られているからなのでしょう。「この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」朝にふさわしい、希望に満ちた言葉です。
ベネディクトゥス・ドミヌス・デウス。ラテン語で「主なる神はほめたたえられよ」。なぜ神を賛美するのか。神の救いの御業を賛美しています。ここに生まれた幼子がやがて成長して主イエスのための準備をすることになる。そのために「主の民に罪の赦しによる救いを告げ知らせ」ます。私たちを罪の闇から救うために来てくださるイエス・キリスト。このお方の前に悔い改め、へりくだった心を持って準備をするために、ヨハネは私たちの前に現れました。彼は罪の赦しの福音を宣べ伝えます。これは、神の憐れみの心によって始まりました。私たちがキリストの御許に立ち帰り、神の愛の中を生きることが、神さまの願っていてくださることなのです。
この憐れみによって、高い所から曙の光が私たちを訪れます。暗闇と死の陰に座している私たちを照らします。私はこの聖書の言葉が大好きです。朝の光に私たちは照らされている。主イエスが実際にお生まれになったのが何月何日なのかは、聖書に記録されていないので分かりません。イエスの時代からしばらく経って、教会がそれを祝おうとしたときに、冬至の時期を選びました。暗闇がいちばん深くなるとき、しかし、これから徐々に光に照らされ始めるとき。私たちは曙の光に照らされています。もう朝が来たのです。キリストの光の中に私たちも生かされているのです。

2020年12月23日水曜日

2020年12月23日(ルカによる福音書1:26〜56)

ルカによる福音書1:26~56
私の魂は主を崇め
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
この卑しい仕え女
  目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
  私を幸いな者と言うでしょう。

マリアの賛歌。賛美歌の中ではマニフィカートと呼ばれ、世々のキリスト者たちがマリアのこの言葉に心を合わせ、自身の祈りとして神に献げてきました。マニフィカートというのは、この賛歌のラテン語訳の最初の単語です。日本語では「崇める」と訳されている言葉。直訳すると「大きくする」という意味です。神を崇める、神を賛美するというのは、神さまを大きくするということです。私たちはいつの間にか神さまを小さくし、自分の手のひらに乗る、自分で把握可能な神さまにしてしまいます。しかし、神を賛美する者は、神が大きな方だと知っています。自分が「大きい」と思っているよりもなお大きく、自分の予測を超える方だということを受け入れます。
神さまは、この私にも目を留めてくださる。マリアは自分を「卑しい仕え女」と呼びます。「仕え女」と訳されている言葉は、直訳すれば「女奴隷」です。こういう言葉は、現代ではあまり好まれません。一人の女性に対して「卑しい」だとか「奴隷」だとかいうのはどうなのか、と言うのです。私にはポリティカルコレクトネスのようなものを過剰に気にしすぎているように感じます。マリア自身の言葉なのですから。そしてマリアは神さまの大きさ、偉大さに圧倒されて、自分の小ささを知り、この聖なるお方の前で卑しい私であることを喜んで告白したに違いない。「私は主のはしためです」と言ったマリアの信仰を、私たちの信仰にしたいと願っています。
主が目を留めてくださったのだから私は幸いな者。マリアはそう言いました。これからマリアは実際に出産を迎えるわけで、その時にはもうすでに人口調査のための旅があり、飼い葉桶に乳飲み子を寝かせねばならなかったのであり、あるいは最後には十字架にかけられたイエスを見なければならなかった。マリアは悲しみをたくさん知ることになる。それでも、マリアは幸いな人です。神が目を留めてくださったから。この幸いはマリア一人のものではなく、私たちも同じ幸いに与っていると私は信じています。神はこの私にも目を留めてくださっている。私たちもマリアと共に歌います。「私の魂は主を崇め・・・」と。

2020年12月22日火曜日

2020年12月22日(ルカによる福音書1:1〜25)

ルカによる福音書1:1~25
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアと言う人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言った。二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた。

ルカによる福音書はテオフィロという身分のある人物に主イエスの出来事を伝えるために書かれました。ルカは「順序正しく書いてあなたに献呈する」と言っています。そして、キリストの出来事の始まりとしてルカが最初に報告するのが洗礼者ヨハネの誕生の時のいきさつでした。ここに、福音が始まったのです。
ヨハネの両親の名はザカリアとエリサベト。この二人について、ルカは「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた」と伝えています。私は、今回、この言葉はとても大切なことを伝えているように感じました。二人とも正しい人でした。主の戒めと定めを落ち度なく守っていました。しかし、彼らには子どもがいませんでした。この後の天使とのやりとりを読むと、彼らが子どもが与えられることを望んでいたことが窺われます。しかし彼らはすでに年を取っていましたから、もう何十年も前に諦めたことだったのでしょう。それでも彼らは主の前に正しく生きることをやめませんでした。主なる神様を信じ、神さまが命じた律法を守ることをやめませんでした。ザカリアとエリサベトにとって、神さまを信じることも神さまの戒めを守ることも、自分たちの願いが叶えられることの「代わり」ではなかったのです。
私たちは、自分の祈りが叶えられなかったり厭なことや不幸なことがあったりすると、神さまを信じる価値がないような気がしてしまいます。メリットがないのに神を信じる必要なんてあるのでしょうか?ザカリアとエリサベトにとって、神さまを信じることや従うことは、好いこととのトレードオフではなかったのです。
神さまがザカリアとエリサベトを選びザカリアのところにガブリエルがやって来たのは、彼らがただただ神に従う人であったからなのかもしれません。私たちは神さまがご褒美をくれるから信じるのではなく、報いがあるから従うのでもない。神さまは、もうすでに私たちに贈り物をくださっています。それに私たちが気づいていないだけで。ザカリアとエリサベトに始まる出来事はキリストの出来事の序章です。私たちに神がくださったかけがえのない贈り物、イエス・キリストの福音は、ここに始まっているのです。

2020年12月21日月曜日

2020年12月21日(ヨハネの黙示録21)

ヨハネの黙示録21
私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。

今、どんなに悪の力が強くとも、必ず悪が打ち負かされる時が来る。私たちはそう信じています。神は悪を打ち負かし、やがてすべてを完成させます。「また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。」こうして、神さまが御自ら私たちと共にいてくださいます。私たちの目から涙をことごとく拭い、もはや私たちに悲しみも嘆きも痛みもなくなる日が来る。私たちはこの完成の日を待ち望んでいます。
この新しいエルサレムには、神殿がありません。神殿という特別な場所は必要ないのです。そこに行けば神さまに会える、神さまを礼拝するための場所。それが神殿です。ところが、新しいエルサレムには神殿が必要ない。この都では、いつでも私たちは神さまと共にいるからです。神さまに会うための特別な場所はいらないのです。
それだけではありません。この都には、太陽も月も必要ない。太陽や月に照らされなくても、神の栄光と小羊キリストご自身がこの都を照らす光だからです。私たちはキリストという光に照らされています。クリスマスの夜、羊飼いたちを照らした光は、この新しい都を照らす光の前触れだったのではないでしょうか。博士たちをイエスのもとに導いた星の輝きも、キリストの光の先取りだったのではないかと思います。
クリスマスに先立つ四週間のアドベントでは、毎週日曜日に一本ずつロウソクに火を灯してクリスマスを待ちます。昨日、四本のロウソクに灯がともりました。暗闇の中に、キリストという光が宿ったのです。やがて、すべてが完成されるその日には、太陽も月も必要のないほどの光に包まれることになります。小羊ご自身が、私たちのための光でいてくださるのです。今日、私たちを照らす光も、太陽や月である以上にキリストという光です。今日一日に、キリストの祝福がありますように。

2020年12月20日日曜日

2020年12月20日(ヨハネの黙示録20)

ヨハネの黙示録20
また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。

ここに書かれていることは「千年王国説」という言葉と共に、ある教会では物議を醸しているようです。ここに書いてあることが文字通りに起こると理解し、それがいつ起こるのか(あるいはもう起こったのか)ということが議論になっているようです。私は、この箇所もヨハネの黙示録の他の箇所と同じように、象徴的な事柄を伝えていると理解する方がよいと思います。例えば千年間というのは、一年365日を千回繰り返す期間ということではないでしょう。3年半が文字通りの三年半ではないのと同じです。
ヨハネの黙示録を読むときに大切なことは、ヨハネたちがローマ帝国の竜や獣のような迫害に実際に苦しめられ、殉教する者も大勢いた、という事実です。しかし、そのようなローマの横暴は永遠には続かない。例え自分たちはここで死んだとしてもローマは必ず滅びるし、キリストの教会はキリストが歴史を完成させる日まで神を礼拝し続ける。キリスト者たちはそう信じていました。
「この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。」神は必ず悪を打ち負かしてくださる。千年というのは、ある完全な時間の象徴でしょう。悪魔的な力でこの世を支配している力は、この世界が続いている間に必ず滅びる。世の終わりが来る前に、すでに滅びてしまいます。そして実際ローマにしても他のどんな超大国にしても、どの国も必ず滅んできたことを私たちは知っています。そしてこの千年の間に神に従って殉教した者が復活したと言っていますが、迫害下に一見すると死んだようなキリスト教会が再び神を礼拝し、伝道をするときが来るということではないかと思います。
このように、ヨハネは目に見える「現実」を超えた幻を見ていました。神が始め、実現する幻です。キリストに仕える私たちの営みは、この世界のどんな力でも滅ぼしてしまうことは絶対にできない。私たちも同じ確信を持って、今日も神に仕え、隣人に仕えていくのです。

2020年12月19日土曜日

2020年12月19日(ヨハネの黙示録19)

ヨハネの黙示録19
それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「忠実」および「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。・・・・・・この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれた。・・・・・・この方の衣と腿には、「王の王、主の主」という名が記されていた。

白馬の騎士が登場します。忠実、および真実と呼ばれる方。神の言葉と呼ばれる方。明らかに、主イエス・キリストです。キリストが白馬に乗り、天の軍勢を率いておられる。
この方は「正義をもって裁き」ます。前の章まで、大淫婦が出てきました。あるいは獣や竜も登場していました。悪を象徴する存在です。どれもこれも作り話をしているのではなく、現実の悪を見据えて書かれています。金儲けのために人の命まで商売の道具にしたり、権力を維持するために獣を拝んだり、システムが自己目的化して人間を奴隷にしたりしています。聖書はそこに悪魔的な力を見ています。もはや人間の力を超えた、強力な悪が人間の意思を無視して働き始めて、私たちをその僕にしてしまう。根本は、私たちの罪です。キリストはそういう悪の力と戦います。正義をもって闘い、それに打ち勝ち、悪を裁かれるのです。
私たちの知っている「現実」では、正義はあまり実現しません。そうでなければ、それぞれが自分勝手な正義を持っていて、それを押しつけ合って争いになります。私たちの小さな手に収めることができる正義は、そもそも正義の名に値しなかったのかもしれません。ところが、キリストこそ正義をもって裁く白馬の騎士だと言うのです。
キリストの正義は、どのようにして貫かれるのか。「この方は血染めの衣を身にまとい」と書かれていました。キリストの衣は血に染まっている。誰の血なのか。私は、キリストご自身の血なのだと思います。十字架にかけられた時に流した血に染まっている。そうだとすると、キリストの正義はご自分を犠牲にするところに成立する正義です。キリストがご自身を犠牲にする正義を闘い、私たちのためにこの闘い打ち勝ち、大淫婦も獣も竜も打ち負かしてくださいます。
だから、この方は王の王であり、主の主です。ヘンデルのメサイアの中でもいちばん有名な「ハレルヤ」の歌詞もここから採られました。「王の王、主の主。」これこそ賛美です。私たちは正義を貫徹する王を迎え、この方だけを主とあがめます。そして、そうであるから、私たちもキリストの示してくださった正義に生きることが無駄ではないと知っているのです。

2020年12月18日金曜日

2020年12月18日(ヨハネの黙示録18)

ヨハネの黙示録18
彼女と淫らなことをし、贅沢をほしいままにした地上の王たちは、彼女が焼かれる煙を眺め、胸を打って嘆き悲しみ、彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。
「災いだ、災いだ、大いなる都
強大な都バビロン
お前は一瞬のうちに裁かれた。」
地上の商人たちは、彼女のために嘆き悲しむ。もはや彼らの商品を買う者が誰もいないからである。その商品とは、金、銀、宝石、・・・・・・、奴隷、人の命である。

大淫婦への裁きが告げられます。昨日の箇所にも大淫婦が登場していましたが、大淫婦とは当時の地中海世界を絶対的な力で支配していたローマを指しています。ヨハネがこの黙示録を書いたときにはその力の絶頂です。しかもその覇権はこの後何百年も続きます。方やヨハネは島流しにされてパトモス島におり、各地のキリスト教会も風前の灯です。そんな状況下で、ヨハネは大淫婦の権力は永遠ではない、必ず滅びる日が来ると言いました。大淫婦の傲慢は必ず神に裁かれる。そう言ったのです。
今日の冒頭に掲げたところでは、王と商人が出てきました。王たちは、大淫婦の仲間になって贅沢をほしいままにしてきました。ローマにすり寄って甘い汁を吸ってきた世の権力者たちのことでしょう。自分のポジションを確かにするために、大淫婦という大樹の陰に寄っていました。
商人も出てきます。ローマに集まる大勢の人たちを相手に商売をしてきた。問題は商品です。金や銀あるいはその他のものは「物」ですから、自由にやりとりしても構わないのでしょう。しかしそれだけではなく奴隷や人の命までも金儲けの道具にしてきた。自分のために他人を利用する人間の浅ましさが裁かれています。
この世の権威や権力は、それがどんなに圧倒的で絶対的な力を持っているように見えたとしても、永遠ではありません。私たちが本当に畏れるべき方、敬うべき方は、私たちのために贅沢をするのではなく貧しくなり、他人を利用するのではなく他者のために自分のすべてを献げた方です。私たちにとって本当に価値ある物とは一体何かと、このクリスマスの時、キリストは私たちに問いかけておられるのです。

2020年12月17日木曜日

2020年12月17日(ヨハネの黙示録17)

ヨハネの黙示録17
女は、紫と深紅の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分の淫行の汚れに満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」という名である。私は、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人の血に酔いしれているのを見た。

大淫婦が登場しました。「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」という名前であると言います。バビロンは、かつてユダの国を滅ぼしたバビロンと同じ名前を持っています。あの当時のバビロンは何百年も前に滅びていますから、当然、象徴的な名前です。これは明らかに、ローマを指しています。大淫婦と言われていますが、ローマが性的な意味で堕落しているということを指しているわけではありません。ローマは大都会だったので性的に退廃していたかもしれませんが、ここでの「淫ら」というのは、文字通りの性的な罪という意味ではない。ここで指摘されているのは、偶像礼拝です。まことの神ならぬものを神とし、あるいは「金と宝石と真珠で身を飾り」と言われているとおりに贅沢三昧をして神を軽んじている。そういうはローマを大淫婦だと言っています。
主なる神様の前にある私たちを女に譬えるという例は、聖書の中にしばしば登場します。典型的なのは、エゼキエル書第23章です。オホラとオホリバという姉妹は、姉妹そろって淫行にふけっていた。そのために、この姉妹を裁く、と神さまは言われます。姉のオホラは北王国イスラエルを、妹のオホリバは南王国ユダを指しています。神さまを裏切って、別のものを神に仕立て上げるということは、夫婦の関係に譬えればよその男と淫行を重ねるのに等しいと言うのです。これに対し、特に29から30節で、淫行の罪を明らかにするために「あなたを丸裸にして捨て去る」と言われています。
黙示録に戻ると、16節で、「あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身ぐるみを剥いで裸にし、その肉を食らい、火で焼き尽くすであろう」とあります。身ぐるみを剥いで裸にするというのは、オホリバに対する神の裁きと同じです。ただし、ここでは獣が大淫婦の身ぐるみを剥ぐと言う。獣と大淫婦は両方とも神を憎んでいますが、しかし同時に互いに憎しみ合っている。憎しみが憎しみを呼び込んでいる。自ら、自分たちの身ぐるみを剥ぐようにして奪い合っている、ということなのでしょう。
今日の箇所はかなり壮大で、しかも恐ろしいところです。覚えたいことは、偶像礼拝が姦淫に譬えられているというのは、それだけ神さまは私たちに一途でいてくださり、情熱を持って愛してくださっている、ということです。今は忍耐の時代が続いていますが、一心に神さまを見上げていきたいと願います。

2020年12月16日水曜日

2020年12月16日(ヨハネの黙示録16)

ヨハネの黙示録16
第六の天使が、その鉢の中身を大河ユーフラテスに注ぐと、水が涸れ、日の昇る方角からやって来る王たちの道ができた。また私は、竜の口から、獣の口から、そして偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。全能者である神の大いなる日の闘いに備えて、彼らを集めるためである。ーー見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。ーー汚れた三つの霊は、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に王たちを集めた。

この最後に出てきた「ハルマゲドン」という言葉は、私たちの国ではとても不幸なしかたで有名になってしまいました。この出来事からも、聖書はいくらでも好き勝手に読めてしまうということがよく分かります。それを避けるためには、文脈をよく読むことが大切です。
ハルマゲドンという言葉は、ヘブライ語でメギドの丘という意味で、メギドという地名は旧約聖書にも登場しています。ハルマゲドンは地名です。その地名そのものよりも、そこで起こることが大事です。そこは竜の口、獣の口、偽預言者の口から出てきた汚れた霊どもが、神に闘いを挑むために王たちを集めた場所です。
悪霊に従えられた王たちが神に闘いを挑むなどと聞くと、いかにも非現実的な物語、ファンタジーのように感じるかもしれません。しかし、現に日々起こっていることだと思います。神の前に悔い改めることもなく、神ではないものを拝み続けるなら、現に神に闘いを挑んでいるということではないでしょうか。
私たち人間の世界は、そのような営みをずっと繰り返している。闇が深まっている。しかし、イエスは言われます。「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」夜は更け、日は近づきました。キリストの光の中で恥ずかしくない生き方をしよう、と聖書は私たちに呼びかけます。
この世界にはびこって、私たちを罪に縛り付ける汚れた霊の力は強い。しかし、所詮、あの竜の口、獣の口、偽預言者の口から出てきた霊どもは、蛙のような霊に過ぎません。ただの蛙です。私たちを照らすお方は、日の光でいらっしゃる。どちらに本当の力があるのかは、一目瞭然です。だから、私たちは今日の日を、キリストを待ち望みつつ生きます。夜は更けています。しかし、日は近いのです。キリストの光に照らされる白昼は、近いのです。

2020年12月15日火曜日

2020年12月15日(ヨハネの黙示録15)

ヨハネの黙示録15
「また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである。」
「そして、四つの生き物のうちの一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢を、この七人の天使に与えた。すると、神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった。」

この次の第16章には、恐るべき七つの災いが描かれています。天使がその災いを携えてきました。これらの災いにおいて、神の怒りが頂点に達すると言われています。この災いをもたらす神の力のために、神殿の中に誰も入ることができなかった。私たちも、この神の怒りが下される地上に生きているわけですから、この災いは決して他人事ではない。厳しい言葉です。
関東大震災の時、当時の教会はこの災害を神の裁きだと受け止めたそうです。神の前に私たちは悔い改めなければならない、と。しかし現代の教会はそういうことを殆ど語りません。少なくとも、私が知っている限りでは。これはとても難しく、またデリケートな問いです。人間の力ではどうすることもできないような災いが起きたとき、その意味を誰もが問う。教会も問う。そのようなときに、教会は何を語りうるのか。早計な言葉を決して口にするべきではありません。災害に遭った人に罪があった、病気になった人は特に罪深かったなどと決して言ってはならない。(主イエスご自身がルカ13:4,5で言っておられます。)大正時代の教会がそのような意味で神の裁きを考えていたのではないことは明らかです。真剣に、自分事として、神の前に悔い改めていた。
今回のコロナのことを考えてみると、人間社会の行きすぎた有り様が無関係ではないと思います。自分の欲望の実現を第一の善とし、弱者から収奪する社会を私たちは改めなければならないですし、それが神の前に謙遜であることをやめた私たちの生き方の結果だということは真剣に考えなければならないと思います。
繰り返します。神の怒りがもたらす災いは、「私たち」が生きるこの世界に注がれました。私たちを避けては通らないし、私たち自身の罪がそこで問われています。私たちもこの世界の子、この時代の子として、神の御前に自分たちの罪を見つめないわけにはいきません。主よ、救ってください。主よ、来てください。私たちはただひたすらに、私たちの一万タラントンの罪を帳消しにしてくださったキリストの憐れみにすがる。生き方を変えて神の許に帰る。私たちの、そしてこの世界の救いは、ただキリストにあるのです。

2020年12月14日月曜日

2020年12月14日(ヨハネの黙示録14)

ヨハネの黙示録14
また、私が見ていると、小羊がシオンの山に立ち、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。私は、大水のとどろきのような、また激しい雷鳴のような音が天から響くのを聞いた。私が聞いたその音は、琴を弾く者が奏でる竪琴の響きのようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌っていた。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちの他は、誰も覚えることができなかった。

地上から贖われた十四万四千人の他は誰も覚えることのできない新しい歌。一体、どのような歌なのでしょう。大水の轟きのようであり、雷鳴のような音。琴を弾く者が奏でることの響きのような音。十四万四千人もの人たちの歌声というのですから、本当にスケールが大きい。これがどういう歌なのかは、私たちがやがて天でこの大合唱団に入るまでは知るよしもないと言わねばならないのでしょう。
しかし、同時に、私たちが地上の片隅で献げている賛美歌も、この天の大聖歌隊の一端に加えて頂いていると私は信じています。私たちも、天の聖歌隊が歌っているのと一緒になって、新しい歌を歌っている。
この「新しい歌」という言葉を見ると、私は詩篇第40編を思い出します。「主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ、歩みを確かなものとし、私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。」私の口に新しい歌を授けてくださるのは、主なる神様ご自身だと言います。賛美の歌は私たちの内から湧き上がってくるのではない。神様ご自身が授けてくださるのです。私たちの口に、新しい歌を。この新しい歌を、私たちは神さまに献げる。
この世界は獣に支配されている。少なくとも、殆どの人はそう信じています。「イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐」が必要です。私たちが忍耐することができるのは、「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」と神が約束してくださっているからです。そして、私たちはただじっと耐え忍ぶのではなく、神に向かって賛美の歌を歌いながら、キリストを待ち望みます。神が授けてくださった新しい歌を神に献げ、神を礼拝しつつ、今この日々を喜んで生きていくのです。

2020年12月13日日曜日

2020年12月13日(ヨハネの黙示録13)

ヨハネの黙示録13
「第二の獣は、獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものをいうことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。」

最後に出てきた「その名の数字」というのは、すぐその後に「666」という数字だと書かれています。この数字が、昔、何かの映画の題材に使われたことがありました。そのイメージがある人もいるかもしれませんが、私たちはここをよく注意して読むべきであると思います。この数字は、悪魔の化身のような、何か特別な存在に刻印されている、という話ではありません。「小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」すなわち、殆どありとあらゆる人間に、この数字が刻印されている。刻印というのは、普通は家畜にするものです。古代社会では奴隷にもしたのかもしれません。その奴隷や家畜が主人の所有物であるということを、消えない印をつけて確かにする。獣の名前が人間に刻印されてしまう。存在の深みに刻み込まれ、洗っても消えない。獣の所有物になってしまっている。
この獣は竜によって力を与えられ、尊大に振る舞っています。獣は神を冒瀆し、神を信じる聖なる者たちと闘い、彼らを打ち負かしてしまいます。人々は獣を拝む。この獣は、徹底して神に背く悪の力です。その名の刻印が人々に押されている。しかし人々はそれを拒むのではなく喜んで受け入れます。なぜなら、「この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできない」から。社会生活が、獣礼拝を前提に成立するようになっているというのです。
666という数字は、一説ではローマの皇帝ネロを指すと言われます。そうなのかもしれない。当時の帝国の人々は、神の名を尊大に汚し、キリスト者を迫害する皇帝ネロを礼賛し、その暴力に酔い、ネロの臣民であることによって社会生活を送っていました。この章に書かれていることは、実際にヨハネたちが目撃し、体験していたことなのです。
そんな中で、キリスト者たちは迫害されながら生きていました。ネロの印が体に刻まれることを拒んだから迫害されました。彼らは7:3~4に出てきた神の刻印を帯びています。この世の権力者ではなく、神のものとして生きたのです。私たちは、どうなのでしょうか。私たちは誰のものですか?神の刻印以外の何者かの刻印を喜んではいないでしょうか。私たちが信じる神は主の主、王の王であるから、私たちはこのお方だけを拝み、このお方だけを賛美するのです。

2020年12月12日土曜日

2020年12月12日(ヨハネの黙示録12)

ヨハネの黙示録12
「そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ち、生まれたら、その子を食い尽くそうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた。女は荒れ野へ逃げた。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。」

女と竜が登場しています。「女は太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、海の痛みのと苦しみのために叫んでいた。」そして産まれた子が「鉄の杖であらゆる国の民を治める」というのですから、産まれる子は主イエスでしょう。そうすると、この女はマリアということなると思います。あるいは、この女は神の民を象徴しているという解釈もあるようです。確かに主イエスは神の民の中に生まれ、新しい神の民を形成したのですから、それも成り立つ解釈だと思います。いや、マリアも神の民の中の一員であることを考えると、マリアであり神の民でもあると言ってもいいのかもしれません。
いずれにしても、この女がイエスを生むための苦しみを苦しんでいるとき、竜が彼女の出産を待ち、産まれた子を食べてしまおうとしていました。この竜は「いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者」と呼ばれています。悪魔がイエスを殺そうとする。そして、一度はイエスを殺すことに成功した、という事実も私たちは知っています。聖書に親しんでいると、十字架の出来事を神の御業という面からだけ見ますが、他方からすると神の子を殺すことに成功した悪魔の勝利とも言えます。この女も、やはりひどい苦しみを味わわせられました。私たちの知っている歴史の「現実」は、殆ど悪が勝利を治めているような様相を呈しています。今だって、こんなにも世間に怒りが漂っていること、こんな時に至っても弱者を助けることよりも格差が拡大していくこと、それは私たちの他者への無関心や自分の欲望を拡大することが自己実現だという思い込みに始まっているのではないでしょうか。それは悪であり、罪です。女が苦しむ現実は、こういう私たちの罪の現実です。
しかし、この女のために、1260日養うための場所があります。1260日という期間は、第11章にも登場しました。3年半。悪魔が支配し、女が苦しむ。しかしそれは、三年半です。永遠ではない。必ず終わりが来る。そして、やはり、いくら悪魔が神の子を殺したと言っても、その悪を神は善に変え、神の子の十字架の血によって私たちを罪と悪から救ってくださいました。どんな濁流を持って竜が女を押し流そうとしたとしても、女は守られています。神によって。私たちの歴史の現実は、必ず神の救いの御業によって贖われるのです。

2020年12月11日金曜日

2020年12月11日(ヨハネの黙示録11)

ヨハネの黙示録11
「その時、大きな地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、生き残った人々は恐れを抱いて天の神に栄光を帰した。
第二の災いは過ぎ去った。見よ、第三の災いがすぐにやってくる。」

これは第二の災いだと言います。9:12に「第一の災いが過ぎ去った。見よ、この後、さらに二つの災いがやってくる」と言っていた、第二の災いです。
この第二の災いというのは、最後の地震だけのことではなく、9:13以下、ここに至るまでの一連の災いのことを指しているのだと思います。しかしここではただ単に天変地異などの災いだけを描写してるわけではありません。特に11:3から登場する「二人の証人」が、注目すべき存在です。彼らが具体的に誰のことを指しているのかは私にはよく分かりません。しかし、彼らは証人として預言をする。預言というのは予言ではなく預言と書きますが、未来のことを言い当てるという意味ではなく、神から預かったメッセージを伝える存在です。二人の証人が預言をしているとき、この世界で何が起こっているのか。神の神殿が異邦人によって42ヶ月の間踏み荒らされる、と言っています。神礼拝が蹂躙される。それは42ヶ月である。当然この42ヶ月は文字通りの意味ではなく、象徴的な期間を指している。42ヶ月は、ここに一緒に出てくる1260日と同じ長さです。そして、それは三年半です。この三年半ということに意味があります。すなわち、三年半は七年の半分です。7は黙示録では完全数です。42ヶ月はその半分。完全ではない。神殿が異邦人に破壊され、蹂躙され、神礼拝が揺るがせにされる日が来る。苦難日々が来る。しかし、それは永遠ではない。完全な期間の半分です。必ず終わりが来るのです。しかも、その間、証人たちが神の預言の言葉を語り続けます。この苦しみの時に神の言葉が止んでしまうことはない。どのようなときにも神はその言葉を語り続ける。証人たちを通して。私たちのところへ神からの福音のメッセージを伝えてくださるのです。
証人たちは迫害されます。命を落とすことだってある。しかし、その死を超えて、神が働いてくださっている。私たちはたくさんの証人たちが命を献げて伝えた福音を聞き、それによって救われました。そして、私たちも神の命の言葉によって生かされている。今起きている苦難にだけ目を向けるのではなく、私たちの間で神が進めている出来事を見ようと聖書は私たちを招いているのです。

2020年12月10日木曜日

2020年12月10日(ヨハネの黙示録10)

ヨハネの黙示録10
すると、海と地の上に立っているのを、私が見たあの天使が、右手を天に上げ、世々限りなく生きている方、天とそこにあるもの、地とそこにあるもの、海とそこにあるものを造られた方にかけて誓った。「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹き鳴らすとき、神の秘儀が成就する。それは、神がご自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」

私たちの世界の歴史は、完成に向かって進んでいる。私たちはそう信じています。ただ何となしに、野放図に、だらだらと進んでいるわけではない。ただ偶然そこにあって、いずれはなくなっていくというものでもない。あるいは、歴史がぐるぐる回りながらいずれまた元に戻って繰り返していく(永遠回帰)ということでもない。歴史は神によって始められ、神がいずれ完成させる。何に向かっているのか?神の秘儀が成就することを目指しています。神が良い知らせとして告げた秘儀が実現することに向かって、歴史は進んでいる。
この「良い知らせとして告げた」という言葉は、「福音」という言葉の動詞形で表現されています。福音が宣べ伝えられた。福音として伝えられた知らせ。つまり、主イエス・キリストが完成させる救いのときにむかって、この世界の歴史は進んでいます。
しかしそれは秘儀なので、今はまだ見えません。天使のラッパで呼び起こされている歴史のさまざまな苦しみの中で、キリストの救いの歴史が進んでいることは私たちの目にはよく見えない。しかし、それは確かに進み、完成に向かっているのです。
福音。それは、言葉として私たちに伝えられました。神さまからのメッセージが書かれた巻物を、ここでヨハネは食べています。「私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった。」食べてすぐ、口の中にあるときには甘い。しかし、腹に入ると苦くなる。最初は甘くておいしくても、かみ砕いてのみ込み、消化して自分の血肉にしようとすると、苦い。確かに聖書の言葉にはそういうところがあるのかもしれません。聖書が語ることを血肉にして生きるのは、簡単なことではない。しかし、この苦みは毒である苦みではなく、私たちの体と心を造り上げる苦みです。試練の中、キリストがこの歴史を支配し、救いを成就していることに気づかせる苦みです。私たちは日ごとに聖書の言葉に聞き、その甘さを楽しみながら、そしてその苦みによって丈夫に造り上げられながら、私たちに与えられたこの世界の歴史の一端、その持ち場で、今日も生きているのです。

2020年12月9日水曜日

2020年12月9日(ヨハネの黙示録9)

ヨハネの黙示録9
「これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、金、銅、石、木で造った、、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。また彼らは、自分たちの犯した殺人やまじない、淫行や盗みについても、悔い改めようとしなかった。」

この章にはかなり恐ろしい災いが描かれています。読んでいて怖くなります。さそりのような毒を持ったばったが現れ、刺されるとひどい苦痛を味わう。しかし、「その間、人々は死を求めても与えられず、死を切に望んでも、死の方が逃げていく」というのですから、本当に恐ろしいことです。しかもそのばったの災いはまだ第一の災いであって、さらに第二、第三の災いが続くと言います。
第六のラッパが鳴らされると、四人の天使が解き放たれて人間の三分の一を殺してしまう、と言います。この天使も本当に恐ろしい様相を呈している。「彼らは、火の赤、青玉の青、硫黄の黄色の胸当てをつけており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄を吐いていた。その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。」
この恐ろしい災いから生き残ったものがどう反応したのか。それが、冒頭に掲げた言葉で報告されていました。彼らは、悔い改めようとはしなかった。神ならぬものを神とし、人を殺し、淫行や盗みを行う。そういう自分たちの行いを離れようとはしなかった。そのように言われています。
今を生きる私たちへの問いのような言葉です。私たちは、今、このような状況の中にあって、自分たちの生き方を変えようとしているのでしょうか。私たちの周りには神のような顔をした神ならぬもので溢れています。力を持ち、しかし本当は道具に過ぎないはずのものが自己目的化している、というものがたくさんあります。お金もそうでしょうし、統治機構や経済システムなどもそうであると思います。しかし、それらは人間が造ったものに過ぎず、見ることも聞くことも歩くこともできません。それなのに人間を奴隷にする。そして、貧しかったり弱い立場にある人の存在や犠牲を正当化してしまう。淫行はロマンチックと言われ、盗みは資本主義の帰結と言われます。私たちは、生き方を変えなければならないのではないでしょうか。今、私たちに災いが襲ってきているのだとしたら、それは神さまの前にある一つの問いに他ならないのです。

2020年12月8日火曜日

2020年12月8日(ヨハネの黙示録8)

ヨハネの黙示録8
「また、もう一人の天使が来て、金の香炉を手に持って祭壇のそばに立ち、たくさんの香を受け取った。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇の上に献げるためである。香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に天使の手から神の前に立ち上った。」

ここでも壮大な光景をヨハネは目撃しています。第七の封印が解かれたとき、天はしばらく静寂であり、そして七人の天使が神の御前に立っていました。そこに別の天使がやって来て、その手には金の香炉があり、香炉から煙が立ち上っています。その香の煙は神の御前に届く。しかも、私たちの祈りと一緒に。
私たちが祈るとき、その祈りは神さまに届きます。必ず。しかも、天使が手に持つ香炉から立ち上る煙と一緒に、神さまのところへ立ち上っていくというのです。香は、良い香りを満たすために使います。私たちの祈りは、神さまにとっての良い香りなのでしょうか。
この黙示録に登場する祈り、例えば6:10には殉教者たちの祈りが出てきます。「聖なるまことの主よ、あなたはいつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか」と祈ります。およそ「キリスト者らしい」という内容ではない印象を受けるのではないでしょうか。もちろん、黙示録にはたくさんの賛美の祈りも出てきます。しかし、祈りはそれだけではない。復讐を求める祈りだって祈りですし、詩編を見ればたくさんの嘆きの祈りが記録されています。祈りにおいて気取ってはならないのだと思います。嘆くこともあるし、悲しむこともある。復讐を求める祈りだってある。ただそれを神に祈るということが大切なのではないでしょうか。この祈りは、必ず天の玉座に座しておられる方の前に立ち上り、届く。神さまに向かって心を注ぎ出す祈りこそ、よい香りのする祈りなのではないでしょうか。
七つ目の封印が解かれたときに現れた七人の天使たちの手には、七つのラッパがありました。天使たちは順番にラッパを吹く。すると、さまざまな災いが起こります。恐ろしい光景が広がることになる。そのような苦難のとき、祈りが神の前に届くという事実が私たちの慰めです。私たちは祈ることによって、このときを生きることができるのです。

2020年12月7日月曜日

2020年12月7日(ヨハネの黙示録7)

ヨハネの黙示録7
この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて
昼も夜も神殿で神に仕える。
玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく
太陽もどのよう暑さも
彼らを打つことはない。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり
命の水の泉へと導き
神が彼らの目から涙をことごとく
拭ってくださるからである。

ここに登場する人々は、あらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成る数えきれぬほどの大群衆です。数えきれぬほど。しかし、彼らは恐らく4から8節に登場する14万4千人と同じ人たちなのだと思います。誰にも数えきれぬ14万4千人。矛盾していますが、話の流れからするとそういうことなのでしょう。人間には数えられぬ、しかし神は一人一人を覚え、その額に印をつけている。この14万4千という数字を文字通りに限定14万4千人と考える必要はありません。象徴的な数字です。新しいイスラエル12部族を神さまが招集なさる。しかも、神が呼び出す新しい神の民は、あらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から集められます。それは神さま以外には誰にも数えられないのです。
その人たちは、信仰に生き、信仰のために苦難を受け、神を信じて死んだ。そんな無数の人々が献げる賛美が、天に響いています。何と壮大な光景をヨハネは目撃したのでしょうか!私たちの献げている賛美も、この天で響く賛美に連なっている。私はそう信じています。
そして、私たちが味わう神を信じてるがゆえの苦しみや悲しみは、神様ご自身が覚え、慰めてくださいます。「玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。」この幕屋が、私たちを守ります。私たちは神さまの玉座の下へと向かう旅を、今生きているのです。
私たちには、悲しみの日もあります。涙を流す日もあります。しかし「神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださる」という約束は、確かです。神ご自身が私の目の涙を拭ってくださる。神がこの涙を乾かしてくださる。私たちの牧者としての神の優しさが、苦しみの中を生きる私たちを支え、助けてくださいます。私たちはキリストのもの。だから、必ず神が私たちを守ってくださいます。

2020年12月6日日曜日

2020年12月6日(ヨハネの黙示録6)

ヨハネの黙示録6
小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が「行け」と言うのを聞いた。そして見ていると、黒い馬が現れた。それに乗っている者は、手に秤を持っていた。私は、四つの生き物の間から出る声のようなものを聞いた。「小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油とぶどう酒をそこなってはならない。」

小羊が七つの封印を解き、それによってヨハネが見た幻の内の最初の六つがここに書かれています。冒頭の言葉は第三の封印が解かれたことによって明らかになった事柄です。
黒い馬が秤を持っており、その馬を見たとき、「小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油とぶどう酒をそこなってはならない」という声が響いた、と言っています。聖書の巻末に度量衡が載っていますが、一コイニクスというのは約1.1リットルだそうです。これは、一日分の食料を作るために必要な分量、ということだそうです。そして一デナリオンの方はお金の単位で、労働者一人の一日分の賃金に相当します。そうとすると、労働者が一日働いて、ギリギリ一日分の食料を調達することができる、ということになります。エンゲル係数が100パーセントです。エンゲル係数が高ければ高いほど生活に余裕がないということになりますから、殆ど生活するだけでやっとという状態、そこまで食料が高騰しているということになります。家族が多ければ小麦を買えず、大麦でしのぐしかありません。インフレが起き、極めて貧しくなっている。
第二の封印から出てきた幻は、どうやら戦争を象徴している。第四の封印は死です。疫病のようなものかもしれません。そうするとこの第三の封印によって明らかになったのは、経済的な困窮です。働いても働いても生きていくだけで精一杯。いつだって元気に働けるわけではありません。戦争のようなことが起きたり、疫病で動けなくなったりすれば、たちまち、今日食うものもなくなってしまう。そういう経済的な困窮によって人が死んでいく。ヨハネがここで見た幻は、そういう私たちの社会の現実を映し出しているのだと思います。
そういうことが、ここで戦争や疫病と一緒に現れているといことは、やはり、聖書が経済格差によって人の命が軽んじられている社会の有り様は間違っている、悪だと見ているということに他ならないということではないでしょうか。聖書は、私たちの社会が当たり前だと思っていることに、問いを投げかけてきます。私たちは、どう答えるのでしょうか。

2020年12月5日土曜日

2020年12月5日(ヨハネの黙示録5)

ヨハネの黙示録5
「あなたは、屠られて、その血により、神のために
あらゆる部族と言葉の違う民
あらゆる民族と言葉の違う民
あらゆる民族と国民の中から人々を贖い・・・」
「屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威
誉れ、栄光、そして賛美を
受けるにふさわしい方です。」

ヘンデルのメサイアは第53曲のWorthy is the Lambと、これに続くAmenいうコーラスで終わります。私はこのWorthyが大好きです。53曲もあるメサイアの中でも一、二を争うほどに。この曲の歌詞は今日私たちに与えられているヨハネの黙示録第5章からとられています。その血によって私たちを贖ってくださった、屠られた小羊。この小羊に、力、富、知恵、権威、誉れ、栄光、賛美が永遠にありますように。
屠られた小羊。ヨハネが天上で見た主イエスのお姿は、屠られた小羊のようだった。この方が玉座におられる方の手にある巻物を開くことができる。この世界で起きている苦難の現実には覆いが掛けられていて、秘められており、その深層を見極めることができない。しかし、屠られた小羊のような方がその封印を解くことがおできになる。そうすれば、この歴史の出来事の奥にある、神の御支配を知ることができます。だから、巻物の封印を解くことができる小羊への賛美が、ここで歌われているのです。
ここでの何より魅力は、主イエスが小羊のお姿で現れたことです。しかも屠られた小羊。エジプトから脱出するとき、過越の夜、イスラエルの人々は小羊を屠ってその地を家の戸の鴨居に塗り、その血を目印に災いが過ぎ越すという経験をしました。あるいは、祭司が礼拝において小羊を殺し、その血を流して、人々のための罪の贖いの礼拝を献げました。いずれにしても小羊の血が身代わりになって、私たちは神のものとして贖われる。主イエスの流した血が私たちを贖って、神のものとしてくださった。ヨハネはそういう主イエスのお姿を見たのです。
このお方こそ、永遠に最高の栄誉を受けるべきお方。それが私たちの賛美です。私たちはこのお方の前に膝をかがめ、声をそろえて賛美を献げます。このお方を礼拝するために、私たちは造られたのです。

2020年12月4日金曜日

2020年12月4日(ヨハネの黙示録4)

ヨハネの黙示録4
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、主。
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
「私たちの主、また神よ
あなたこそ栄光を誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたは万物を造られ
万物はあなたの御心によって存在し
 また造られたからです。」

ヨハネの黙示録というと、何かおどろおどろしい世の終わりの様相を暗号めいた言葉で書いているというようなイメージがあるかもしれません。暗号めいたというのは、例えば旧約聖書のダニエル書もよく似ていますが、黙示文学と呼ばれる表現方法、あるいはジャンルの一つの特徴です。イメージ豊かな言葉に象徴的な意味がふんだんに盛り込まれているので、よく注意して読み解く必要があります。もう一つの、おどろおどろしい世の終わりの様相という方ですが、半分は合っている、ということであるかもしれません。確かに第6章以降を読むと、大変な苦難が語られている。しかしそれは、ヨハネたちが現に味わっている苦難という側面が強いと思います。黙示録の言葉におどろおどろしいイメージがついて回るのは、前述の通りに黙示文学のスタイルからくるところが多いと思います。つまり、あまり表面的なイメージに振り回されずに、ヨハネの黙示録の主要なメッセージを聞き取り、そこを中心に読む方がよいと思います。
そして、そのヨハネの黙示録のメッセージの一つの中心が、今日の箇所であると思います。ここにはヨハネが垣間見た天での礼拝のようすが描かれています。天の玉座を囲む24人の長老は自分の冠を脱いで、玉座に座っている方にひれ伏します。また四つの生き物が玉座にいます方を賛美する歌をうたいます。栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方、聖なる方、神。このお方を礼拝し、このお方にひざまずいてあがめ、自分の冠や栄誉を献げる。それがヨハネの黙示録の通奏低音です。これから黙示録を読むときに、この礼拝のようすを忘れてはならないのだと思います。
そして、私たちの毎日の営みでも、まったく同じことが言えます。私たちの毎日の営みは風が強い海の表面のようなもので、高い波が立っているかもしれません。しかし深層の水は、大きな流れをたたえており、実は海面の波が海の動きの決定権を持っているのではない。目には見えないもっと大きく確かな流れがあります。私たちは、天上で今日も献げられている神礼拝という深く、確かな流れの中で、今日の日の営みを重ねているのです。

2020年12月3日木曜日

2020年12月3日(ヨハネの黙示録3)

ヨハネの黙示録3
「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから、地上に住む人々を試すために全世界に迫り来る試練の時に、私もあなたを守ろう。私はすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。」

ヨハネがパトモス島に流刑にされたとき、ある主の日に見た幻です。イエス・キリストが栄光に輝く姿をし、ヨハネに語りかけました。最初に七つの教会へのメッセージが語られています。冒頭に挙げたのはその内の六つ目、フィラデルフィアの教会への言葉です。
ヨハネ自身がこのとき流刑にされていました。ローマ帝国による迫害が厳しさを増している時代です。そういう中で、フィラデルフィアの教会はよく忍耐した、と主イエスが褒めておられます。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った」と。具体的にどの言葉のことなのかは指示されていませんが、例えばマルコによる福音書第13章などを見ると、大きな苦難が来ることを予告しています。大いなる苦しみの時が来る。しかし、必ずキリストが再び来て私たちを救ってくださる。目を覚まして、その時を待つように、と言います。忍耐の教えです。
私は、自分は忍耐することが下手だと思います。忍耐しないですぐに諦めたり楽な方に流れてしまったりするのは、もしかしたら今の時代の精神なのかもしれません。私はその意味でも時代の子なのだと思います。ところが、主イエスは忍耐することを尊んでおられる。忍耐は我慢とは違います。先ほどのマルコによる福音書の言葉でも、キリストが来るという約束によって、初めて忍耐が成りたちます。忍耐は、希望を持って待ち望むことです。キリストは忍耐するものに、「全世界に迫り来る試練の時に、私もあなたを守ろう」と言ってくださるのです。キリストはすぐにでも来て、忍耐する者を守ってくださる。
今は何でもスピード重視ですし、インスタントなものに溢れています。メールの返事がちょっと遅いだけで心が揺れてしまう。キリストを信じる私たちは、もう一度忍耐の価値を見出すべきなのかもしれません。忍耐は、今はそうではないけれども必ず約束が実現されるということを信じることです。今のこの苦しみが来たるべき時に至る試練なのだと信じ、神の支配はここにも及んでいると信じることです。そして忍耐は、相手への信頼です。キリストが私たちを見捨てること、見放すことなどありえない。私たちは、このお方が来てくださることを待ち望んでいます。

2020年12月2日水曜日

2020年12月2日(ヨハネの黙示録2)

ヨハネの黙示録2
「しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。ただ、私が来るときまで、今持っているものを固く守りなさい。」

ティアティラにある教会へのメッセージです。神さまは、この教会に言われます。「私は、あなたの行いと愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、あなたの近頃の行いが以前の行いにまさっていることも知っている。」このように神さまに言って頂けるとは、何と幸せなことでしょうか。神が、ティアティラにあるこの小さな教会の行いも、愛も、信仰も、奉仕も知っていてくださるのです。恐らくこの教会の周りでも、日に日に信仰者として生きることへの厳しさが増していたに違いありません。それでもけなげに生きている者たちの小さな信仰を、神さまは見逃すことなく憶えていてくださいます。
ただ、それだけでは終わらない。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルと言う女をなすがままにさせている。」イゼベルというのは、列王記第16章29節以下に登場するイスラエルの王アハブの妃の名前です。彼女はイスラエルの王家に輿入れするときに、自分が生まれ育ったシドンの神々を持ち込みました。バアルと呼ばれる偶像です。イゼベルは徹底的にイスラエルの信仰を破壊し、王もそれに同調してバアルを拝んでバアルの神殿を建て、バアルの祭壇で礼拝をしました。アハブとイゼベルの時代にイスラエルで預言者として活動したのがエリヤで、預言者エリヤはたった独り残った主の預言者という状況で闘ったのでした。黙示録が語るティアティラ教会へのメッセージに登場するのはこのイゼベルという名前で、もちろん、象徴的な意味を持たせた名前です。実際にイゼベルという女がこの教会にいたということではないでしょう。神ならぬものに人々を向けさせるような者がこの教会にいて、教会がその人に対して正しく「否」ということができなかった、ということをヨハネが指摘しているのです。
しかしそれでも、ティアティラ教会にも、イゼベルのようなその人物の教えに与しなかった者もいる。その人たちは「サタンのいわゆる深みを知らない」と言われています。私はこの言葉を読むと、はっとします。サタンの深みは、知らなくて良いのです。うっかりすると、神のこと、キリストのことだけを知るのではなく、それ以外のことも知らないと冷静な判断ではないような気がしてしまいます。両論併記しないとフェアではない、と。しかしそうではない。サタンの深みなど知る必要はない。一心にキリストに心を向けてよいし、イゼベルと闘ったエリヤも両論併記などせず、まっすぐに神に仕え、従い通したのです。例えば夫婦であれば、この妻と他の女性とどちらが良いのかということは比べられない。相手はたった一人。それと似ています。主なる神様は、一心に私たちに向いていてくださるのです。

2020年12月1日火曜日

2020年12月1日(ヨハネの黙示録1)

ヨハネの黙示録1
見よ、この方が雲に乗って来られる。
すべての人の目が彼を仰ぎ見る。
ことに、彼を突き刺した者たちは。
地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
然り、アーメン。

聖書の最後に収められている、ヨハネの黙示録を読み始めます。1:1には「イエス・キリストの黙示」とあります。黙示とは何かということがすでに大きな問題です。黙示と翻訳されている言葉の原語の意味を辞書で引くと、覆われているものをとって顕わにするといった意味のようです。秘められたことを明らかにする。それが黙示という言葉です。
このヨハネの黙示録は、秘められたことを明らかにするために書かれました。何を明らかにするのか?それは、キリストがこの世界を支配しているという事実です。しかしその事実は今秘められている。なぜなら、この世界の目に見える「現実」が、キリストが支配しているということと矛盾して見えるからです。この黙示録が書かれた時代は、すでにローマ帝国によるキリスト教会への弾圧、迫害が激しくなっていた時代です。さらにこれから時代を負っていくとますます苛烈を極めていくことになる。キリストが支配しているとは、どう考えても言うことができないような時代だったのです。今起きている出来事が布のように覆っていて、キリストの御支配が隠されています。
そこで、ヨハネはこの時代を覆っている時代精神を取り去り、本当に私たちの歴史を支配しているのは誰なのかを明らかにします。歴史の支配者は皇帝という誰か特定の人物なのか、富なのか、政治機構やシステムなのか、あるいは人間の力を超えた悪魔的な支配なのか。表面的に時代を見ればそういうようなものが世界を支配しているように見えるが、実はキリストが支配しているということをヨハネは明らかにします。
ですので、ヨハネの黙示録の主題は未来の予告ではありません。いつか起こる災いを予言しているのではない。そんなのんきな話をしているのではなく、今この時、この世界を支配しているのは誰なのかを問うている。「見よ、この方が雲に乗ってこられる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。」キリストは、今この世界を支配しているさまざまな力を打ち負かし、ご自分の救いの御業を完成させるために、かならずこの世界に再び来てくださいます。私たちは今、この世界で、キリストを待ち望みつつ、信じて生きているのです。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...