2021年3月31日水曜日

2021年3月31日(マルコによる福音書13)

マルコによる福音書13
それらの日には、このような苦難の後
太陽は暗くなり
月は光を放たず
星は天から落ち
天の諸力は揺り動かされる。
その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。

マルコによる福音書第13章は、小黙示録と呼ばれることがあります。弟子たちの中のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、主イエスに1,2節でイエスさまが言及した神殿の崩壊が一体いつ起こるのか教えてくださいと願った。主イエスのそれに対する答えが、この第13章に書かれています。イエスさまは、単に建物としての神殿が壊れるというだけではなく、この世界の終わりの時について話しておられるようです。
大変な苦難がある、と主イエスは言われます。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。」しかしこれまだ産みの苦しみの始まりであって、キリスト者への迫害が始まっていきます。荒廃をもたらす者たちが神殿を破壊し、天地創造の時からこれまで、かつてなかった苦難が来る。そして偽メシアが現れて人々を惑わす。主イエスはそのように言われます。
思えば、イエスさまがそのように言ってからこれまでの2000年間は、そのようなことの繰り返しであったのかもしれません。人間の歴史は常に混乱していました。夜は更け、闇が深まっている。日が近づいているのです。主イエスは言われます。「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」私たちには現在の苦難の意味は分からないことだらけです。苦しいことがあれば、それがもうこの世界のすべてだと思ってしまいます。しかし、夜の闇の深まりは朝の光の近さのしるしです。キリストが私たちのところへ来てくださっているのです。私たちの今このときの時間の意味は、キリストを待ち望む時間だ、ということです。太陽や月のような、何があっても変わらないと思っているものも、やがては消えてなくなります。人間の作った制度も価値も、永遠の者ではありません。しかし「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と言われる方はやがて再び私たちのところへ来て、私たちを救ってくださる。今日は、キリストを待ち望むための一日なのです。

2021年3月30日火曜日

2021年3月30日(マルコによる福音書12:18〜44)

マルコによる福音書12:18~44
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスさまは、私たちの目には映らないものをご覧になっている。そう思います。
神殿での出来事です。皆が献金箱に金を入れていました。神殿の中の一角にそういう場所があって、いくつもの献金箱が並んでいたそうです。お金を入れる箱と言われると神社にある賽銭箱のようなイメージがあるかもしれません。この当時のエルサレムの献金箱は金属製で、ラッパのような形をしていたのだそうです。そうすると、たくさんのお金を入れるジャラジャラととても景気のいい音が響く・・・。お金持ちは周りの目や耳を気にしながら、誇らしい思いで金を入れていたのかもしれません。
しかし、ここにいる一人のやもめはそうではありませんでした。彼女はレプトン銅貨2枚を持って来て、献金箱に入れた。これは1/64デナリオンにあたる金額です。1デナリオンが労働者一日分の賃金ですから、とても少額です。実際、流通していた最小の貨幣でした。彼女は誇らしい気持ちもなかったでしょうし、周囲の人も誰も彼女のこと難敵に留めていなかったと思います。
しかし、ただ一人、主イエス・キリストだけは違いました。主イエスだけは彼女を人間扱いしていました。彼女の存在を認めて、目を注いでいました。そこに込められた彼女の信仰を、ただおひとり、主イエス・キリストだけが知っていたのです。
「この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」この生活費と翻訳されている言葉ですが、もとのギリシア語ではビオスという言葉です。英語のバイオの語源になった言葉で、命という意味です。このやもめは、乏しい中から持っている物をすべて、彼女の命を全部神に献げた。主イエスは彼女のそういう信仰をご覧になって、そのことを喜ばれたのです。
それは、主イエス様ご自身が、ご自分の命をこれから献げようとしておられたからではないでしょうか。主イエスは神殿の片隅で、これからご自分がしようとしておられることに先立ってしている一人の信仰者を見つけて、そのことをお喜びになったのではないかと私は思います。
キリストは、ご自分のすべてを献げてくださいました。私たちに命を与えるために。私たちのすべてになるために。この主に、私は何を献げましょう。

2021年3月29日月曜日

2021年3月29日・受難週月曜日(マルコによる福音書11:20〜12:17)

マルコによる福音書11:20~12:17
イエスは、彼らの偽善を見抜いて言われた。「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚嘆した。(12:15~17)

イエスの言葉尻を捉えて陥れようとした人々が、ファリサイ派やヘロデ派をイエスのところへ遣わして言わせました。「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」注意すべきは、納税の相手が皇帝であることです。この当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。自分たちの祖国ユダヤに納める税金の話をしているのではない。自分たちを支配するにっくきローマ帝国への税金の話です。従って「納めるべきだ」と言えば、ユダヤの愛国主義者たちはイエスを責めたてるでしょうし、民衆の人気も下がるでしょう。しかし「納めるな」と言えば、ローマに対する反逆だと当局に訴えることができる。なかなか周到に練られた作戦です。
主イエスは、彼らの言葉に隠された偽善を見抜きました。彼らは本当は税金のことなどどうでも良い。そのことで悩んでいるわけでもない。ただイエスを陥れたいだけ。そのことを見抜いたのです。それで、彼らの持っている銀貨を見せるように言い、そこに刻まれた肖像と銘を確かめさせます。皇帝の肖像が彫られ、その銘が刻まれている。もしもこれが皇帝のものなら皇帝に返せば良い。そして、神のものは神に返しなさい。主イエスはそう言われます。
私たちが手にしているお金は、誰のものなのでしょう?いや、お金の問題だけではないと思います。私たち自身は、一体誰のものなのでしょうか。私たちに刻まれているのは、誰の肖像であり、誰の銘なのでしょうか?
神さまが最初に人をお造りになったとき、このように言われました。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(創1:26)。私たちには神の像が刻まれています。そして、私たちには神の銘が刻まれています。洗礼を受けたときに、刻み込まれたのです。これはキリストのもの、キリスト者、と。キリストは私たちを神のものとして取り戻すために十字架にかけられました。私たちは主のもの、その民。今日一日の私たちの祈りが、神のものを神にお返しするものでありますように。

2021年3月28日日曜日

2021年03月28日(しゅろの主日・マルコ11:1〜19)

マルコによる福音書11:1~19
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それほどどいて、連れて来なさい。」

今日から受難週になりますので、この一週間は受難週の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
主イエス様は、エルサレムの都に入城するとき、子ろばに乗っていかれました。私はこの話が大好きです。柔和な主イエスのお姿が目の前にそのままにおられるような思いになります。子どもと一緒に動物園に行くことがありますが、ろばを見ると嬉しくなります。「君のご先祖がイエスさまを背に乗せたのだね」と話しかけたりします。そのろばは、なんと幸せなことでしょう。一生の誉れです。
ろばはとても重用されてきた動物ですが、あまり賢いわけではなく、重んじられてきたということでもないと思います。畑の仕事を手伝わせたり、荷物を運ばせたりするための家畜です。馬と似ていますが、やはり違ったのだと思います。軍人や王様が乗る動物ではありませんでした。
旧約聖書のゼカリヤ書9:9には、「あなたの王があなたのところに来る」と言って、すぐに「へりくだって、ろばに乗ってくる」と言っています。わざわざろばに乗ってくると言及するということは、裏を返せば通常は考えられないことだということでしょう。そして、ろばに乗るのはこの王のへりくだりだ、と言っているのです。
私たちの王であるキリストは私たちのところにも来てくださっています。ろばに乗って。小さな子ろばに乗って。へりくだった姿で、優しさを身にまとって、私たちのところへ来てくださっています。私たちも喜んでお迎えしましょう。「ホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように」と言って。「ホサナ」というのは、「救ってください」という意味です。私たちを救うのは、軍馬に乗った王ではありません。聖火リレーのように強力なスポンサーが付いたりやり手の広告企業が付いて効果的な宣伝をしたり、麗しい見た目を演出したショーにも、私たちの魂を救うことはできません。私たちを救うことができるのは、ろばに跨がる王です。柔和で謙遜になってくださった神の子こそ、私たちを救うことのできる方です。
今日、私たちのところに尋ねておられるキリストを、私たち自身もへりくだりをもって、お迎えしましょう。

2021年3月27日土曜日

2021年3月27日(詩編96)

詩編96
もろもろの民の氏族よ、主に帰せよ。
栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。
供え物を携えて主の庭に入り
聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
全地よ、御前におののけ。(7~9節)

スケールの大きな詩編です。もろもろの民の氏族に、主なる神を礼拝しようと呼びかけます。主なる神様はこの天と地そこに満ちるすべてのものを造られた。私たちはそのことを信じています。だから、このようにも言います。

天は喜べ。地は喜び踊れ。
海とそこに満ちるものは、とどろけ。
野とそこにあるものも皆、喜び勇め。
森のすべての木々も、喜び歌え
主の前に。(11~12a節)

この世界のすべてを神がお造りになったから、天も地も海もすべてのものが神の前にひれ伏す。野も森も、造られたすべてのものが神を礼拝している。だから、何人であろうと、どんな民族であろうと、どのような人であっても神を礼拝することが自然なことだと詩編は宣言します。
私たちは神を賛美します。「日ごとに救いの良い知らせを告げよ」と詩編が呼びかけるとおり、私たちはキリストが私たちを救ってくださったことを喜び、神を賛美します。この救いは、私たちが何人であっても、どんな民族であっても、等しく与えられる救いです。天も地も海も野も森も、この世界にあるすべてのもののための救いです。神さまはご自分のスケールの大きさを、何よりも私たち造られたものを救うことにおいて見せてくださるのです。
私たちの目には、このスケールの大きさがなかなか見えてきません。だから、奪い合ったり争いあったりしてしまうのではないでしょうか。神の前にすべてのものがへりくだり、賛美を献げる。その救いの日を目指して、私たちは今日も神を賛美して生きていきます。

2021年3月26日金曜日

2021年3月26日(詩編95)

詩編95
さあ、主に向かって、喜び歌おう。
救いの岩に喜びの声を上げよう。
感謝のうちにその前に進み
賛美と共に喜びの声を上げよう。
まことに主は大いなる神
すべての神々にまさる偉大な王。
地の深みもその手の内にあり
山々の頂きも主のもの。
海も主のもの。主が造られた。
その手は乾いた地を形づくられた。(1~5節)

私たちにとって神を賛美することは、大きな喜びです。礼拝の醍醐味は、地の深みも、山々も、海も、乾いた地もお造りになった方、この世界の王でいらっしゃるかたを賛美することです。私たちの目を天に向け、遙か偉大な方を仰ぎ、私たちは賛美をします。
私たちは小さい。存在としても、できうることも、知恵も、すべてにおいて小さなものです。8節に「メリバの水」や「マサ」という言葉が出てきます。メリバというのは「争い」という意味で、マサというのは「試し」という意味の言葉です。どちらも同じ場所を意味する地名でもある。出エジプト記17:1~7に出てきます。出エジプトをしたヘブライ人たちが荒れ野で飲み水がないと不平を言い、神がモーセによって岩から水を出したという奇跡が起こった場所です。さらに民数記20:1~13にもメリバでの出来事が書かれていますが、ここに書かれている一件のためにモーセは約束の地(カナン)に入ることができなくなってしまった、という大きな出来事です。神さまを試みるというのは、繰り返し私たちに起こる誘惑です。私たちは小さく、そしてそれだけではなく、罪深い者です。
しかし、私たちは自分のそのような卑小さを見つめて絶望するのではなくまことに賛美されるべき方にこの目を向けることが許されています。私たちは自分の惨めさにのめり込まないで済むのです。礼拝は、共に神を賛美する営みです。今は大きな声で讃美歌を歌うことはできません。しかも一節しか歌えない。しかし、私たちの賛美の心にはいささかも変わるところがありません。さあ、主に向かって、喜び歌いましょう。救いの岩に喜びの声を上げましょう!

2021年3月25日木曜日

2021年3月25日(詩編94)

詩編94
民の中の愚かな者よ、気付くがよい。
無知な者よ、いつになったら悟るのか。
耳を植えた方が聞かないとでも言うのか。
目を造られた方が見えないとでも言うのか。
国々の民を懲らしめる方が
人に知識を教える方が
責めたてないことがあろうか。
主は知っておられる、人の思いを
その空しいことを。(8~11節)

神さまの裁きを告げる言葉が語られています。そして「気付くがよい」と呼びかけています。裁きにおいて、神さまが私たちに気付いてほしいと呼びかけておられるのです。
神さまの裁きは、歴史の中で起こるさまざまな出来事や悲しみの中で経験されます。私たち人間が企む悪をそのまま放置しておく、人間の好きにさせておくということ自体がすでに神の裁きであるということだと思います。例えば今回のパンデミック一つを考えてみます。病気自体は人間がつくり出したものではありませんが、その後の混乱の多くは私たち人間自身に起因するところが大きい。人間は慌てふためいています。そうであるならば、私たちはこの出来事の中で一体どのような神さまの語りかけを聞くのでしょうか。
この詩編は私たち人間の傲慢を指摘しています。耳を植えた方があたかも聞こえないかのように振る舞っていないか、目を造った方がまるで見えないかのように好きかってしていないか。一言で言えば、神を嘗めてはいないか。私たちがこれまで当たり前に教授してきた安心安全便利快適な生活は、他の誰かを犠牲にした上で成り立っていたのかもしれません(6節)。これまでのような消費主義的な、あるいは欲望の達成を善として目指すような社会ではもう保たないことが、この一年で十分すぎるほど明らかになりました。私たちは、今、神さまの呼びかけをどのように聞き取り、それに従うのでしょう。
「まことに、主はその民を見放さず
ご自分の民を見捨てられない。」
この神さまの憐れみの中、神さまの御許に立ち帰る道を、へりくだって歩んでいきたいと切に願います。

2021年3月24日水曜日

2021年3月24日(詩編93)

詩編93
主は王となられた。
主は威厳をまとい
力の衣を身に帯びておられる。
世界は固く据えられ
決して揺らぐことはない。
王座はいにしえより固く据えられ
あなたはとこしえよりおられる。(1~2節)

「主は王となられた。」聖書はそう宣言します。しばらく前に、日本でも新しい王の即位式がありました。その日は休日になりました。しめやかな儀式の様子がテレビで放送されていました。彼は祭司として祭儀を行い、自分がその位を引き継ぐことを先祖に報告していました。最後、三権の長が玉座の前に並び立ち、「万歳」と共に祝砲が響きました。
聖書は断乎として宣言します。この地上を支配するまことの王は、主なる神さまであると。私たちのこの目は、まだ人間が地上の王として支配し、君臨している姿しか見たことがありません。神さまがまことの王として支配しているのを、私たちはまだ見ていません。主が力の衣を身に帯びておられること、神の王座がいにしえからとこしえまで固く据えられていることを、私たちは、信仰の目によってしか見ることができないのです。
「主は王となられた。」聖書はそのように宣言します。フィリポ・カイサリアで、主イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だというのか」と尋ね、弟子の一人であるシモンは「あなたは、メシアです」と答えました。メシアというのは、まことの王のことです。この告白は、私のまことの王はローマの皇帝ではなく、ヘロデでもなく、私たちの主であるイエスさま、あなたですという告白です。
事実、主イエスはこの後、王として即位なさいました。それは国民皆が崇め、言祝ぐ即位式ではありません。罵詈雑言と嘲笑に包まれた即位式でした。そこに響いたのは祝砲ではなく、釘を打つ音でした。まことの王の王座は十字架でした。右と左には犯罪者がおり、その前には兵士が立っていました。主は私たちに問うておられます。あなたは私を何者だというのか。あなたのまことの王は誰なのか、と。今こそ信仰の目を開いて、十字架にかけられたキリストがまとっておられる栄光を見ようではありませんか。

2021年3月23日火曜日

2021年3月23日(詩編92)

詩編92
いと高き方よ、なんと喜ばしいことか
主に感謝し
あなたの名をほめ歌うことは。
朝に、あなたの慈しみを
夜ごとに、あなたのまことを告げ知らせるとは。
十弦の琴に合わせ
竪琴に合わせ
琴の調べに乗せて。(2~4節)

「喜び」がこの詩編の一つのキーワードなのかなと思います。冒頭の2節でも「なんと喜ばしいことか」と言っていますし、5節でも「主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。私はあなたの手の業を喜び歌おう」と言っています。私たちは何を喜んでいるのでしょうか。何を楽しみとし、嬉しがっているのでしょうか。
この詩編には思慮なき者とか悪しき者と呼ばれる人たちが登場しています。彼らは悪事を働いている。彼らが「草のように茂り」とか「花を咲かせても」などと言っています。つまり、何らかの意味で繁栄し、成功を収めているのだろうと思います。世間の価値基準で言うと、多くの人に認められたり、うらやましがられたりするような立場にいるのでしょう。言葉を換えれば、彼らも、彼らを評価する世間も、お金持ちになることや褒めそやされることを喜んでいるということであろうと思います。彼らを前にして問われるのは、自分自身のあり方です。他の人が正しいか間違っているかと言うことではなく、この私は、何を喜び、何を求めて生きているのか?
この詩編の祈ります。「あなたは私の角を野牛の角のように上げ、新しい油で私を潤した(11節)」。神さまが私の角を上げてくださること、神さまが私に油を注いでくださることを待ち望み、それを喜びとする、という告白です。角を上げるというのは、栄光を与えるということでしょうか。油を注ぐというのも同じような意味であるのかもしれませんが、新約聖書の時代を生きる私たちは、これを、神がご自分の霊、聖霊をお送りくださると受け止めて差し支えないと思います。神がこの私にご自身の霊を注いでくださる。私がいよいよ神を信じ、神を喜びとして生きる者となるように、神さまの霊によって私を生かしてくださる。
神を求める人を13節では「正しき人」と呼びます。彼は「年老いてもなお実を結ぶ、命豊かに、青々として」(15節)。そのように年を取りたいと切に願います。神さまに向かって生きることこそ、私たちの喜びです。

2021年3月22日月曜日

2021年3月22日(詩編91)

詩編91
まことに主はあなたを救いだしてくださる。
鳥を捕る者の網から
死に至る疫病から。
主は羽であなたを覆う。
あなたはその翼のもとに逃れる。
主はまことの大盾、小盾。
夜、脅かすものも
昼、飛び来る矢も
あなたは恐れることはない。
闇に忍び寄る疫病も
真昼に襲う病魔も。(3から6節)

この詩編は非常にはっきりと、病を見つめています。病によって蝕まれる肉体を抱えながら、しかし神さまを呼び求めています。「わが逃れ場、わが城、わが神、わが頼みとする方」と。そのようにして助けを求める者を神さまは必ず助けてくださるという信仰が告白されている詩編です。
神さまはまことに私たちを救い出してくださる方です。親鳥が雛をその羽で守るように、神さまは私たちをご自分の翼で覆い、すべての災いから私たちを守ってくださいます。しかし私たちも知っているとおり、どんなに神さまを信じていても、病気になります。世界的なパンデミックの中で、キリスト者だけがそれを免れるということはありません。しかし、神さまが私たちのための盾となっていてくださること、どんな疫病も闇も、どのような災いも、恐れるには足りないことを私たちは知っているし、信じています。昼も夜も私たちを祝福するキリストの手が下ろされることはないし、私たちへの神の愛は変わることがないのです。
この詩編に示されている信仰を抱き続けることは、特にこのような時代にあっては勇気のいることです。私たちの目に見える現実がこれに逆らっているからです。しかし、だからこそ「信じる」ということは貴いことであると思います。私たちは信じる。信じればすばらしい御利益があること、信じるというコストに見合ったご褒美やリターンがあることを信じるのではありません。ただ今もキリストの愛に変わりはないことを私たちは信じます。今日も、神が私の前で私のための盾になっていてくださることを、何者も恐れる必要はないことを私たちは信じて、キリストと共に今日という日を生きていきます。

2021年3月21日日曜日

2021年3月21日(詩編90)

詩編90
私たちの日々はあなたの激しい怒りに
  ことごとく過ぎ去り
私たちは吐息のように年月を終える。
私たちのよわいは七十年。
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。(9~10節)

永遠から永遠へ。神さまの果てしない大きさ、偉大さ。それに打ちのめされ、自分のこれまでの人生を振り返ったとき、自分の犯した罪の数々に震える。私は例え長生きをしたとしても七十年、八十年・・・しかし神さまの目には「千年といえど過ぎ去った一日のよう」であって、比べるべくもない。神さまの前に立ち得ない。それだけではなく、自分自身の人生の前にも立てない。神さまの怒り、憤り、それらを過ぎ去らせることなどできず、安心して死ぬことなどできない。
あなたの怒りの力を誰が知りえよう。
あなたを畏れるほどに
  その激しい怒りを知っていようか。(11節)

今日からしばらくの間、日曜日の礼拝ではヨハネが伝えるラザロの復活の出来事に耳を傾けます。とてもいろいろなことを考えさせられる出来事です。キェルケゴールはこの記事に導かれて『死に至る病』を書きました。ドストエフスキーの『罪と罰』のとても大切な位置を、このラザロの復活の出来事が占めています。それだけ問いかけることの多い事件です。思えば、キェルケゴールもドストエフスキーも、このラザロの出来事と対話をしながら罪の問題を問い続けました。『死に至る病』が問題にする絶望も、『罪と罰』のラスコーリニコフに象徴される罪も、ラザロを復活させるキリストの声によらなければ解決しません。私たちのこれまで生きてきた歩みが積み上げてしまった罪の数々は、もう自分ではどうすることもできない。神の怒りの前にただ恐れるしかないのです。

私たちはキリストにあって、こう祈ることができます。
「主よ、帰って来てください。いつまでなのですか。
あなたの僕らを憐れんでください。
朝には、あなたの慈しみに満たされ
すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように」(13~14節)。
キリストは、私の罪がどんなに高く積み上がっていても、すべてを引き受けてくださいます。私たちは小さく、儚く、神の怒りの前に消えてしまう虫けらのようなものです。しかし、キリストがそのような私を愛し、神の憐れみを私に届けてくださったのです。

2021年3月20日土曜日

2021年3月20日(詩編89)

詩編89
主よ、いつまでなのですか。
永遠に隠れておられるのですか。
憤りはいつまで火のように燃え続けるのですか。(47節)

この詩編は前半と後半とでほとんど正反対の印象を受けます。最初は神さまへの高らかな賛美から始まります。「主よ、天はあなたの奇しき業を、聖なる者の集いであなたのまことをたたえます(6節)」。天が神をたたえる。それだけではありません。「あなたは荒れ狂う海を治め高波が起こるとき、これを鎮めます。・・・天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。世界とそこにみちるものはあなたが礎を築いたもの(10,12節)」。天だけではなく海も、大地も、神が治めておられる。
日本は歴史的に海の恵みに支えられた生活をしてきたこともあって「豊穣の海」というイメージがありますが、聖書ではしばしば「海」が混沌の象徴として描かれています。ここでもそうです。11節にはラハブという名前が出てきますが、第87編にも出てきたとおり、神話上の怪物の名前です。この詩編では海がラハブと並ぶ混沌の象徴、つまり人間社会の混乱や悲惨、あるいはそれらを生み出す罪の象徴であるのだと思います。
しかし、20節以降、神さまがダビデを選び出し、彼に示した慈しみを民全体に与えてくださった、ということが書かれている。時に私たちは神の前に過ちを犯し、神に背いてしまうけれども「それでも、私の慈しみを彼から取り去らず、私のまことに背くことはしない。私は契約を汚さず、唇から出た言葉を換えはしない(34~35節)」。
そして、39節以降が後半です。神さまはかつてダビデを通して変わることのない慈しみを示してくださった。しかし今はそれが退けられてしまったかのように私は苦しんでいる。「主よ、いつまでなのですか」と訴えるのです。この祈りは私たちにもよく分かります。かつては私に向けてくださっていた神の慈しみが見えない、神はもう私のことなどどうでもいい、憎んでおられる・・・。
さらに訴えます。「わが主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた、かつての慈しみはどこにあるでしょうか(50節)」。かつての慈しみを、神さま思い出してくださいと訴える。この詩編は私たちにとっては、ダビデの家に生まれた主イエス・キリストを思い起こすものとして読むことがふさわしいと信じます。主イエス・キリストによって示された慈しみを、神さま今私にもう一度見せてください。私たちはそう祈ります。そうであるならば、私たちはどんなに自分が見捨てられたとしか思えない現実の中にあっても、私に変わって神に捨てられ、陰府にまで降られたイエス・キリストが私を見捨てるということはありえないとなお信じることができます。キリストにあって、私は神に捨てられることはないと私たちは信じることができるのです。

2021年3月19日金曜日

2021年3月19日(詩編88)

詩編88
しかし、主よ、私はあなたを叫び求め
朝には、私の祈りはあなたに向かいます。
主よ、なぜあなたは私の魂を拒み
御顔を私に隠すのですか。(14~15節)
あなたは私から愛する者と友を遠ざけ
闇だけが私の親しい者となりました。(19節)

深い絶望の詩編です。この詩編の中には希望が見えません。神を呼び求める。恐らく、夜陰の中での祈りなのでしょう。夜を徹して祈り、そしてやがて「朝には、私の祈りはあなたに向かいます」と言う。ところが、それでも思い知らされることは、他ならぬ神ご自身が私の魂を拒み、神の御顔は私から遠い、ということ。救いが見えないのです。希望がない。愛する者も友も遠ざけられ、私の親しい者は闇だけ。絶望だけが私の周りに残っている、と言います。
絶望の中で、この一人の信仰者は死と隣り合わせになり、そのこともまた一層絶望を深くしています。「死人のように捨てられ、刺し貫かれ、墓に横たわる者のようになりました。もはやあなたはそのような者に心を留められません。御手から切り離されたのです」(6節)。だから、このように言わざるを得ない。「あなたは死者のために奇しき業をなさるでしょうか。死者の霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか」(11節)。
この詩編その者の中には希望がありません。まったくの闇、こんなに深い絶望はないという言葉です。しかし、この詩編を読めば読むほどに、私たちには一人の方のお姿が鮮やかに示されます。この詩編の描く深い絶望のどん底、まさに神から最も遠く切り離され、捨てられた陰府の底に立たれた方がおられるのです。この詩編は、陰府に降られたイエス・キリストのお姿を私たちに見せています。
使徒信条は主イエス・キリストが陰府に降られたと告白します。陰府に降ったとは何を意味しているのか?主は十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだ。キリストが陰府に降ったのはその時です。神に捨てられて死なれたのです。キリストが降った陰府の闇、絶望が、この詩編第88編に伝えられているのです。私たちのためにキリストがなめ尽くした絶望。神に捨てられ、陰府にうち捨てられた。私たちの絶望の時に私たちを救うのは、いちばん低いところに降ったキリスト、陰府の底で死者の中から起き上がって神をほめたたえたキリストだけなのです。

2021年3月18日木曜日

2021年3月18日(詩編87)

詩編87
「私はラハブとバビロンを
  私を知る者として挙げる。
見よ、クシュとと共に、ペリシテとティルスも。
  この者はそこで生まれたと。」
シオンについては
「この者もあの者もそこで生まれた」と言われる。
これを固く据えるのはいと高き方。
主はもろもろの民を数え上げる
「この者はそこで生まれた」と記すときに。(4~6節)

この詩編に登場するラハブというのは、私たちがよく知っているヨシュア記に登場する娼婦ラハブのことではありません。詩編89:11にも出てきますが、神話上の海の怪物のことのようで、ここでは特にエジプトを象徴しているようです。さらにクシュはエチオピアのことだそうです。エジプト、バビロン、クシュ、ペリシテなど、ここに出て来るのはどれもイスラエルの宿敵であり、なおかつ大きくて強い国々の名前です。
それらの国々について「この者はそこで生まれた」と言われています。この言葉は登録上の決まり文句なのだそうです。シオン、つまりエルサレムも同じように「この者もあのものもここで生まれた」と言われている。すなわち、エジプトも、バビロンも、クシュも、ペリシテとティルスも、そしてイスラエルとユダも、神が登録し、神が支配しておられる、ということであろうと思います。神さまがあらゆる民族や部族を覚え、数え上げ、神ご自身がそれらを据えられたのだ、というのです。
私たちが信じる神は全世界の主である方です。あらゆる人々を造り、異国や異教の人々をも数えておられる方。その方が、この私たちを据えてくださったのだ、とこの詩編は告白します。

主が礎を築いた都は聖なる山々の上にある。
主はヤコブのすべての住まいにまさって
シオンの門を愛される。
神の都よ
あなたの栄光が語られる。(1~3節)

とても大きなスケールの詩編です。私たちには想像も付かない神さまの途方もなく大きな手がこの私にも及んでいる。そのことに驚きつつ、神さまを賛美する祈りの言葉がこの詩編です。

2021年3月17日水曜日

2021年3月17日(詩編86)

詩編86
わが主よ、私を憐れんでください。
私は日夜あなたを呼び求めます。
あなたの僕を喜ばせてください。
わが主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見ます。
わが主よ、あなたは恵み深く、赦しを与える方。
あなたを呼ぶすべての者に
  慈しみに富んでおられます。
主よ、私の祈りに耳を傾け
嘆き願う私の声を聞いてください。(3から6節)

嘆きの日、悲しみの夜の祈りの言葉です。神さまを求め、神さまの憐れみと赦しを求めて祈ります。「私は日夜あなたを呼び求めます」という言葉が私はとても好きです。思えば、主イエス様ご自身が日夜祈る方です。朝まだ早い内に一人で祈りをし、夜を徹してゲツセマネの園で祈りをなさいました。弟子たちが湖で風邪に悩まされる夜にも祈りをし、弟子たちはそうやって祈る主イエス様に「祈りを教えてください」と願いました。日夜、主イエスは神さまを呼び求めておられます。
祈りは、神さまを呼び求めることです。しかも、大胆にも「私を喜ばせてください」と祈ることが許されているのです。ありがたいことです。私たちは苦行として祈るのではありません。意味も分からずむやみに呪文を唱えるのでもありません。神さまを親しく呼び求め、喜びを戴きます。それは、私たちの魂が神さまを仰ぎ見る喜びです。神さまの深い恵み、慈しみ、赦しを経験する喜びです。嘆きの中で、私たちは祈ることによって神の恵みを経験することができる。

あなたの慈しみは私を越えて大きく
私の魂を深い陰府から
  救いだしてくださいました(13節)。

私たちがどんなに深いところに沈み込んでいたとしても、神さまは私たちを救い出してくださいます。私たちから神の憐れみが消え失せてしまうことなどありえないのです。

2021年3月16日火曜日

2021年3月16日(詩編85)

詩編85
主なる神が何を語られるかを聞こう。
主は平和を語られる
その民、忠実な人たちに
彼らが愚かさに戻らないように。
確かに、救いは主を畏れる者に近く
栄光は私たちの地に住む。(9~10節)

この詩編は冒頭で「主よ、あなたはご自分の地に恵みを示し・・・民の過ちを取り除き、その罪をすべて覆ってくださった」と言っているとおり、罪の赦しへの感謝の詩編ということであろうと思います。
罪の告白は、私たちの信仰生活にとってとても大切です。カトリック教会の教会堂に行くと、片隅に小さな部屋があります。そこでは「赦しの秘蹟」がなされる。昔の言い方では「告解」と呼ばれていました。その小さな部屋の中で信者が神父に罪の告白を聞いてもらうのです。私たちの教会にはまったく同じかたちでの「赦しの秘蹟」は受け継がれませんでした。しかし、罪の告白をとても大事に考えていることはまったく変わりません。むしろ、大事にするからこそ告解室の外に罪の告白を持ち出したのです。
さがみ野教会の礼拝でも「罪の赦しと照明を求める祈り」というのがあります。私たちは主日礼拝で罪の告白をする。あるいはそれだけではなく、私たちは相手が神父や牧師に限らず、キリスト者同志で罪の告白をし、共に神の赦しを求める祈りをする。そうやって、神さまの赦しの恵みを私たちは体験します。
「主なる神が何を言われるかを聞こう」とこの詩編は言っています。主は罪を告白する私たちに何を語りかけていてくださるのでしょうか。「主は平和を語られる」。私たちが再び愚かさに戻らないように、私たちのために平和をつくり出す恵みの言葉を神さまは語りかけていてくださいます。私たちは共にこの神の言葉に聞き、神の前にへりくだって歩んでいく。使徒信条はこの事実を「聖徒の交わり」と呼びました。私たちは共にキリストの平和、私たちのための和解の福音を聞く罪人の集まりなのです。

2021年3月15日月曜日

2021年3月15日(詩編84)

詩編84
万軍の主よ
あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
私の魂は主の庭に思い焦がれ、絶え入りそうです。
生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。
あなたの祭壇の傍らに小鳥さえも住みかを見つけ
つばめも巣をかけて、雛を育てています。
万軍の主、わが王、わが神よ。
幸いな者、あなたの家に住む人は。
彼らは絶えずあなたを賛美します。(2~5節)

美しい詩編、美しい祈りの言葉です。神のおられるところ、神の住まいとその庭をしたい求める人の祈りの言葉です。この詩編で言っている神の住まいや主の庭というのは、恐らく具体的にはエルサレムの神殿のことでしょう。しかし今私たちがこの詩編の祈りの言葉を自分自身の祈りとするときには、もちろん、エルサレムだけのことを考える必要はないと思います。神さまのお住まい、主の庭、それは、私たちが神を礼拝するところです。神を礼拝する共同体。教会。神さまはそこにご自分のお名前をとどめ、そこで私たちと出会ってくださる。
神を礼拝するための祭壇。そこは小鳥も慕う場所。つばめが安心して子育てをする場所。小鳥もつばめもその雛も、神に造られたものとして、神の御側にいることを喜びます、とこの詩編は祈ります。空の鳥も、野の花も、海の魚、大地の獣、空の星、すべての造られたものが神をしたい求め、神を賛美している。そうやって神を慕い求めて生きるならば、この言葉が実現することでしょう。「嘆きの谷を通る者たちはそこを泉に変えます」(7節)。私たちも神に造られたものとして、神の前に賛美を献げて生きていきます。

あなたの庭で過ごす一日は
私の選んだ千日にもまさる。(11節)

神さまは私たちをご自分の住まい、ご自身の庭に招いてくださっています。私たちが神さまの御前で神を礼拝し、賛美に生きるために、私たちを御許に招いてくださっているのです。

2021年3月14日日曜日

2021年3月14日(詩編83)

詩編83
神よ、沈黙しないでください。
神よ、押し黙らないでください。
静まり返らないでください。
御覧ください。
あなたの敵が騒ぎ立ち
あなたを憎む者は頭をもたげました。
彼らはあなたの民に陰謀を巡らし
あなたにかくまわれている人たちに
  悪だくみを働いています。(2~4節)

この詩編には周辺諸国が共謀してイスラエルを苦しめ、そのことで神に助けを求める祈りの言葉が記録されています。6節に「共謀して」と書かれていますが、聖書協会共同訳の訳注を見ると、直訳すれば「心を一つにして謀り」という意味なのだと書かれています。自分を助けるために善意を持って側に来てくれるのではなく、まったくその逆に自分を苦しめることで心を一つにしている。それは本当に辛くて厳しい体験です。
四面楚歌という言葉があります。四方を敵に囲まれて孤立無援であることを指す言葉です。もともと中国の故事で、楚(そ)の項羽が、紙面を囲む漢の劉邦の軍の中から楚の歌を危機、楚はすでに漢に降ったのかと嘆いたという話から採られた言葉なのだとか。この詩編の状況も、周り中敵だらけ。しかし、7節以下に出て来る名前のすべてがもとから敵だったわけではありませんエドム、モアブ、イシュマエルなどはもとは血を分けた兄弟をルーツに持つ民族の名前です。それが今や敵になり、自分を取り囲んでいる。四面楚歌の状況は単に敵が多いことを嘆いているというだけではなく、絶対的な無力感に襲われる者の恐怖や絶望をも想像させます。この詩編は、まさにそういう状況で献げられた祈りです。
そう、これは祈りです。そこが大事です。状況は四面楚歌だけれど、四方すべてが敵に囲まれたとしても、上はあいています。上に向かって祈るのです。神に心を開く。すると、確信が生まれます。
「こうして彼らは知るようになります。
あなたの名は主
あなただけが
全地の上におられるいと高き方であることを」(19節)。
全地の上に、主なる神様がおられる。祈る者はその事実を知っているのです。今、私たちが置かれた状況がどんなに閉塞感に満ちていたとしても、私たちはいつでも上を見上げることができるのです。

2021年3月13日土曜日

2021年3月13日(詩編82)

詩編82
「あなたがたはいつまで不正に裁き
悪しき者におもねるのか。
弱い人やみなしごのために裁き
苦しむ人や乏しい人を義とせよ。弱い人や貧しい人を救い
悪しき者の手から助けだせ。」
彼らは知らず、悟らず
闇の中をさまよう。
地の基はことごとく揺らいでいる。(2~5節)

最後に出て来る「地の基はことごとく揺らいでいる」という言葉ですが、当然ですが、文字通りに地面が揺らいでいるということではありません。大地の基のように誰もが確かだと思っているもの、絶対安全だと思っているもの、恐らくこの詩編では裁判に代表される社会制度だと思いますが、それすらも揺らいでしまっている、確かではない、という意味であろうと思います。なぜ揺らいでいるのか?不正が横行しているからです。裁判が悪しき者におもねったものとなり、力ある者がますます富み、弱い人や貧しい人の訴えが不当に退けられている。もうこのままでは社会が保たない。臆面もなく罪深いことが行われ、それがまかり通っている社会、弱い人や貧しい人、みなしごや寡婦といった人々が重んじられない社会の地の基が揺らいでいる、というのです。
社会の健全性はその社会のいちばん弱い人がどう扱われているかを見れば分かります。私たちの社会はその点でどうなのでしょうか。私たちがそういうことを知ろうとしないこと、悟ろうとしないこと、それ自体を神さまは問うておられます。
そのような私たちの社会の有り様を、この詩編は「神の集い」と呼びます。これは何か他の宗教の神々の集い、それこそ神無月になると八百万の神が集まって縁結びをするというような話ではない。弱い人や貧しい人を踏みつけにする私たちの社会の姿が神々の集いのようだと指摘している。私たち自身が小さな神になってはいないか、と。
この詩編はこの前の日曜日に読んだ聖書の箇所で、主イエスが引用しておられました。6節の「あなたがたは神々」という言葉を引きながら、主イエスこそ神のもとから来たまことの神の子と言われます。私たちが小さな神になってしまう過ちから解放される道はどこにあるのか。弱い人や乏しい人を重んじない身勝手な罪から私たちを救い新しくするのはこのまことの神の子であるイエス・キリストをおいて他にはいません。

2021年3月12日金曜日

2021年3月12日(詩編81)

詩編81
私は、いまだ耳にしたことがない言葉を聞いた。(6b節)
「わが民よ、聞け、あなたに命じる。
イスラエルよ、私に聞き従うように。
あなたのうちに他の神があってはならない。
異国の神にひれ伏してはならない。
私は主、あなたの神
エジプトの地からあなたを上らせた者。
口を大きく開けよ、私はそれを満たそう。」(9~11節)

詩編81は神さまの言葉を聞く一人の信仰者の祈りです。いまだ耳にしたことがない言葉。新しい言葉。それは、神さまが私たちと関わっていてくださる、ということを告げる言葉です。神は私たちと共におられる、という言葉です。私たちも私たちに関わる神の福音の言葉を聖書を通して聞いています。
9から11節では、「あなたのうちに他の神があってはならない」と告げられています。そして、それと一緒に告げられているのは「私は主、あなたの神、エジプトの地からあなたを上らせた者」という言葉。これは十戒の冒頭の組み合わせと一緒です。
どうして、他の神があってはならないという言葉と「私は主、あなたの神、エジプトの地からあなたを上らせた者」という言葉とがセットで出て来るのでしょうか。一つには、奴隷の地であるエジプト、そしてそこからの脱出という苦難と救済というときにこそ、他の神々に迷い込むという誘惑があるからだと思います。日本にも神々のような顔をしたものがたくさんあります。疫病を鎮める神や商売の神など、願いの数だけ神がいる。言葉を換えれば、人間の苦しみの数だけ神がいる。苦しいときは他の神々になびく誘惑の時でもあります。苦しいときの神頼みよりももっと深刻なのは、苦しいときの神離れです。苦しい時にまことの神から離れて、他の神々になびいてしまう。
だから、神は言われます。「私は主、あなたの神、エジプトの地からあなたを上らせた者」と。この神さまは、私たちに向かって「私は主」と言われます。この「主」というのは、一般的な意味での「あるじ」ではなく、神さまのお名前、固有名詞が書かれています。神さまはエジプトに象徴される苦難の時、私たちに向かって「私は主」といって自己紹介をしながら私たちを救ってくださる方。つまり、私たちと人格的な関係を結び、私たちを愛そうとしてくださる方です。だからこそ、他の神々にひれ伏すということは私たちにはありえないのです。神さまは、今日も、新しく福音の言葉を語りかけています。

2021年3月11日木曜日

2021年3月11日(詩編80)

詩編80
万軍の神よ、帰って来てください。
天から目を凝らして御覧ください。
このぶどうの木を顧みてください。
あなたの右の手が植えた株と
ご自分のために強めた子を。
それは火に焼かれ、切り倒されています。(15~17)

神さまに救いを求めて祈るこの詩編の特徴は「帰って来てください」と祈っているところであると思います。神さま、どうか私たちのところに帰って来てください、私たちを救ってください。そう祈ります。今、自分たちを取り囲んでいる出来事に神さまのお姿が見えないからです。神がどこにおられるのかが分からないこの現実であるからこそ、神が帰って来て、私たちを救い出してくださいと祈ります。
昨日の詩編79と、とてもよく似ている詩編だと思います。神が見えない厳しい現実の中で神に祈っています。
今日で東日本大震災から10年を数えます。あの日のことを思い出すと、今でも恐ろしくなります。まして、東北におられた方たちはどんな思いでこの10年を過ごしてきたのでしょうか。そしてあの日に亡くなった方たちの思いは考えるに余りあります。
神さま、帰って来てください。目を凝らして、地を御覧ください。あなたが植えたぶどうの木を顧みてください。これらはすべて何度も何度も重ねられてきた祈りなのではないでしょうか。

万軍の神、主よ、いつまでなのですか。
民の祈りにもかかわらず、怒りの煙を吐かれるのは。
あなたは彼らに涙のパンを食べさせ
溢れんばかりの涙を飲ませました。(5~6節)

主よ、いつまでですか。いつになったらあなたの民の祈りを聞いてくださるのですか。いつまで私たちは神の怒りのパンを食べ、涙のパンを食べなければならないのでしょうか。私たちも今日この詩編の深い嘆きの言葉を共にし、隣人のために嘆きの祈りを捧げましょう。

2021年3月10日水曜日

2021年3月10日(詩編79)

詩編79
わが主よ
近隣の民があなたをそしったそのそしりを
  彼らの身に七倍にして返してください。
私たちはあなたの民、あなたの牧場に羊です。
とこしえにあなたに感謝し
世々にあなたの誉れを語り伝えます。(12~13節)

この詩編はとても激しい祈りの言葉です。諸国民がエルサレムを瓦礫の山とした、と言っています。紀元前586年にエルサレムはバビロンに滅ぼされ、神殿も失われました。まさに、瓦礫の山にされた。そのときのことを言っているのでしょう。町や建物が失われただけではなく、戦争である以上当然ですが、たくさんの人の命が失われました。その悲惨な様子も書かれています。「彼らはあなたの僕らの屍を、空の鳥の餌食とし、あなたに忠実な者の肉を地の獣に与えました」(2節)。
それで、この詩編は神に問います。「主よ、いつまでなのですか。あなたは永遠にお怒りになるのでしょうか。あなたの妬みは火のように燃え続くのでしょうか」(5節)。そして、訴えます。「憤りを注いでください。あなたを知らない国々の上に、あなたの名を呼び求めない王国の上に」(6節)。もうほとんど神が神であることが分からなくなってしまうような叫びです。神さま、あなたはいつまで助けようとしてくださらないのですか、なぜ私たちを救ってくださらないのですか?いつになったら、私たちがこのように踏みにじられているのをご覧になり、私たちを助け、私たちを虐げる者たちに復讐をしてくださるのですか?
この叫びは、今の香港に生きる人々に通じるものであると思います。民主化運動に関わる者、信教の自由を求める者を中央政府が迫害し、故郷になお生き続けることが許されない状況に追い込まれた仲間もいます。神さま、いつまでなのですか?いつになったら助けてくださるのですか?

私たちはあなたの民、あなたの牧場に羊です。
とこしえにあなたに感謝し
世々にあなたの誉れを語り伝えます。

この詩編の最後の言葉は、ここだけを取り出すととても牧歌的で平和な感じがしますが、この文脈の中に出て来ることを考えると、闘いの言葉であることが分かります。闘いというのは、もう一度武器を手に取って革命を起こすような闘いではありません。もはや、復讐は神のなさることであって、私たちは神に委ねます。私たちの闘いは血肉を相手にするものではなく、神に養われる牧場の羊として生き続けることです。神に感謝を献げ、神の誉れを語り伝えることです。神を信じ、礼拝し続けること自体が、私たちの闘いなのです。

2021年3月9日火曜日

2021年3月9日(詩編78)

詩編78
これは私たちが聞いて知ったこと
先祖が語り伝えたこと。
これを子孫に隠すことなく
主の誉れと力を
主がなされた奇しき業を
後の世代に語り伝えよう。(3~4節)

先祖が語り伝えたこと、自分や自分の世代が受け継いだことを後の世代に語り伝えよう、と言います。記憶を継承する営みです。私たちの社会では、ほとんど失われた営みです。去年の夏に、市が主催した被爆者の体験を子どもたちに語り聞かせる会に息子と一緒に参加しました。座間市にも広島で被爆した方がおられるのです。単発的にそういう取り組みが行われてはいますが、残念ながら社会の中で共有されているわけではありません。この数十年、急激に日本各地で都市化が進み、地域共同体は失われました。象徴的な出来事は10年前の原発事故です。強制的に避難を余儀なくされた人々はふるさとを喪失しました。お金による賠償がいくらか行われましたが、ふるさとの価値はお金に換算することができません。ふるさとは記憶の共同体でもあるからです。
聖書の民は記憶を共有します。しかも「子孫に隠すことなく」と言っているとおり、良いことも悪いことも隠さずに先祖の歴史を語り伝えます。良いときにも悪いときにも、神が私たちを見捨てず、見放さず、救ってくださっている歴史を共有します。そのことによって、彼らは一つになるのです。
ここで語り伝えられるイスラエルの歴史は、ほとんど罪の歴史そのものです。「彼らは神の契約を守らず、その教えに従って歩むことを拒み、神の業と、彼らに示された奇しき業を忘れた」(10~11節)。さらに、「しかし彼らは神に向かって罪を重ね、砂漠でいと高き方に逆らった」(17節)とも言われている。神を頼みとせず、罪を犯し、奇しき神の御業を信じませんでした。ところが神は彼らを捨てなかった。「しかし、神はその民を羊のように導き出し、荒れ野で家畜の群れのように養った」(52節)。神の前に罪を重ね、そのために悲惨な境遇に陥り、しかし神が助け、しばらくするとまた神に背き・・・ということの繰り返しです。それがイスラエルの歴史なのです。
これは、私たちの歴史でもあります。私たちも神の民の一員になり、この歴史の一部になっています。それでも見捨てない神の憐れみに、私たちも同じように生かされている。この詩編の終わりは印象的です。「僕ダビデを選び、羊の囲いから取り」(70節)と、ダビデの話で終わります。イスラエルの人たちはここまでしか知りませんでした。しかし、私たちはその先を知っています。すなわち、このダビデの家からキリストがお生まれになったことを。私たちはキリストによって救われた罪人。罪の歴史の中にキリストが来てくださった。この歴史の一員として、私たちも神の民の一人として歩みを、今日も新しく重ねている。神の御業の記憶共同体。それが私たちです。

2021年3月8日月曜日

2021年3月8日(詩編77)

詩編77
私の声よ、神に届け。
私は叫ぶ。
私の声よ、神に届け。
神は私に耳を傾けてくださる。
苦難の日にわが主を尋ね求め
夜もたゆまず手を差し伸べた。
しかし、私の魂は慰めを拒む。
神を思い起こし、呻き、思い巡らそう。
私の霊が萎え果てるまで。(2~4節)

とても印象深い始まりです。「私の声よ、神に届け。」そう言って神に向かって、苦難の中から呼び求める祈りの言葉。苦難の日も、夜にも。ところが、意外な言葉が出てきます。「しかし、私の魂は慰めを拒む。」神さまを呼び求めながら、慰められることを拒んでしまう。それだけ辛く、また激しい嘆きなのだと思います。心が固まってしまって、慰められることさえ拒んでしまうのです。
そこで、この詩編作者は言います。「神を思い起こし、呻き、思い巡らそう。私の霊が萎え果てるまで」と。慰められることも拒んでしまうほど厳しいところに追い詰められたとき、最後にすることができるのは、神を思い起こし、呻きの中で思い巡らすことだ、と言います。例え思い巡らしの中で思いが乱れてしまったとしても(5節)、神の前での思い巡らしには意味があります。
実際に神さまがしてきてくださったことを思い起こし、思い巡らしているのは、14節以下です。「聖なる道」という言葉があります。「大水」や「深い淵」とあります。さらに「あなたの道は海の中に、あなたの行く手は大水の中にある」と書かれています。これは、出エジプトの時のことを言っていると考えられます。モーセに導かれて、エジプトの国から出てきたヘブライ人たち。追撃してくるエジプト軍から逃れるために、神が海の中に道を拓いてくださいました。そのときのことであろうと思います。
私たちのもうどうにもならないとき、疲れ果ててしまったとき、道をなくしてしまったとき。私たちは一体どうしたら良いのか?思い起こしましょう。神が何をしてくださったのかを。神さまは荒れ野に、さらに海の中にだって道を通す方です。私たちは神がしてくださったことを思い起こし、神の慈しみを思い巡らすことによって、また再び生きる勇気を得ることができるのです。

2021年3月7日日曜日

2021年3月7日(詩編76)

詩編76
神はユダに知られ
その名はイスラエルで偉大である。
その隠れ家はサレムにあり
住まいはシオンにある。
そこで、神は弓の火矢を砕き
盾と剣と戦いを砕かれた。(2~4節)

この詩編は10節に登場する「地の苦しむ人」の祈りを神は聞き、彼らを救ってくださると言って神を賛美する詩編です。ただし、この詩編の祈りが捧げられているその時点では、まだその救いは実現していないのだと思います。まだ闘いのさなかにあって、むしろ敵の脅威は大きいのでしょう。だからこそ、神に救いを求め、そして神がもたらす勝利を信じているのです。
神の隠れ家はサレムにあると言っています。サレムというのはエルサレムの昔の呼び名です。この言葉には「平和」という意味があります。だからこそ、神はサレム(平和)と呼ばれる場所におられると言っているのでしょう。サレムにおられる方は、弓の火矢を砕き、盾と剣と戦いを砕かれる。そのように言います。武器を打ち砕いて平和を生み出す。神はそういうお方だと言っています。
今、ミャンマーでは軍隊が市民に銃口を向け、実際に発砲し、殺される人が何人もいると聞いています。本当に恐ろしいことです。平和を求める私たちの祈りが終わることはありません。なぜ、平和が実現されないのか?
今こそ、私たちが知らなければならないことがあるのだと思います。8節にこのようにあります。

あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。
怒りを発せられるとき
誰がその前に立ちえようか。

このような平和が実現しない私たちの現実をいちばん悲しみ、怒り、耐えがたい思いでいるのは、神様ご自身です。暴力がやまない世界の現実は、他ならない私たちの罪が生み出している現実です。それは神さまにとって受け入れがたいものであるに違いありません。私たちはこの世界の現実についても、神さまの前に真摯に罪を悔い改めたいと願います。神さま、どうか私たちを憐れんでください、と祈ります。

2021年3月6日土曜日

2021年3月6日(詩編75)

詩編75
高ぶる者には「高ぶるな」と
悪しき者には「角を上げるな」と言おう。
「角を高く上げるな。
首を上げて傲慢に語るな。」
人を高く上げるものは
東からも西からも
荒れ野からも来ません。
神こそが裁く方。
ある者を低くし、ある者を高く上げます。(5~8節)

ここに出て来る「高ぶる」という言葉はすぐにその意味が分かりますが、もう一方の「角を上げる」という方は今ひとつ分かりにくい表現です。角は、草食動物がもっているあの角のことです。もちろん人間には角は生えていないわけで、ここでは力の象徴と考えてよいと思います。悪しき者が自分の力を誇示している、その様子がここで指摘されている事柄です。
「角を高く上げるな、首を上げて傲慢に語るな。」自分の力により頼み、それを誇示して、傲慢な物言いでわが物顔で振る舞う。そのような高ぶる人間を、神さまが戒めている。そういう言葉です。
傲慢の罪はとても厄介です。自分が傲慢であるとき、多くの場合そのことに本人は気づきません。しかし、周りの人にはよく分かります。ですから、傲慢は他人の罪としてはよく見えるけれど、自分自身の罪としては気づきにくいという特性があると思います。それなら、どうしたら良いのでしょうか。
「人を高く上げるものは、東からも西からも、荒れ野からも来ません。神こそが裁く方。ある者を低くし、ある者を高く上げます。」神さまが、人を高くすることも、低くすることもなさる。人を高めたり低めたりするのは神さまの専売事項だと言っています。ここに鍵があるのだと思います。傲慢な思いは、周囲は自分をもっと誉めたり認めたりして当然だ、という思い込みから生まれます。自分は頑張っているからとか、成果を上げているからとか、他の人よりも優れているからとか、その理由はさまざまですが、認められて然るべきという心根は共通している。しかし、それをすることができるのは本来は神さまだけだと聖書は言うのです。神の前に自分は何者か?そのことを問う。それが大事なのではないでしょうか。そして、神の前に私たちが何者であるにせよ、神は私のことを知っておられます。それだけでよいのです。

2021年3月5日金曜日

2021年3月5日(詩編74)

詩編74
主よ、心に留めてください
敵があなたを嘲るのを
愚かな民があなたの名を侮るのを。
あなたの山鳩の命を獣に渡さないでください。
あなたの苦しむ者のたちの命を
  永遠に渡さないでください。(18~19節)
虐げられた人が再び辱められることのないように
苦しむ人、貧しい人が
  あなたの名を賛美できるようにしてください。(21節)

本当に深い嘆きの詩編です。読んでいて辛くなるような詩編です。いつ、どのような状況の中で詠まれた言葉なのか。恐らく、ユダ王国が滅亡し、バビロンに捕囚された時期の言葉であろうと思います。しかし、そのような細かな詮索はもしかしたら余計なことなのかもしれません。いつ、どこで、どのような状況で編まれた言葉であったとしても、私たちも自分自身の思いを言葉にするために、この詩編に心を合わせることができます。私たち自身の祈りの言葉として、この詩編の心に共鳴することができます。
この詩編は、今の自分の辛い現実を、神に捨てられたからだと受け止めています。だから、神のもとに立ち返り、そして神ご自身に帰ってきて頂く。そうでなければ、私は救われない。それが基本的な現実の受け止めです。
私は、これはとても大事な態度だと思います。自分の身の回りの現実を神さまとの関係で捉え直しているからです。自分がどんなに悲惨なのか、悲しいのか、辛いのか。そういうことしか目に入らなくなってしまいがちですが、この詩編は、私たちの目を神さまに向けさせます。私たちの声を祈りに向かわせます。
12節以下、海や怪獣が登場します。これは創世記第1章で「混沌」という言葉で表していたのと同じ事柄を指す、象徴的な表現です。かつてはファンタジーのような怪物がいたということではなく、私たちの世界の混乱や悲惨を象徴する言葉として読むべきです。ことに、この世界を人間の罪が支配しているかのような、まさに混沌とした様相を表す言葉です。そのような悪の諸力を、神は支配することができるお方。
だからこそ、目の前の敵のことをも神さまに祈っています。この敵から私を解放してください、救ってください、と。神の御名を賛美できるように、主よ、救ってください。「神よ、立ち帰り、ご自身のために争ってください」とまで訴えます。私たちを救うことによって、ご自分の御名の聖さをこの世界に示してください。そのような大胆な祈りさえもささげる。そのようにして、この詩編は私たちの目をまっすぐに、神へ向けさせるのです。

2021年3月4日木曜日

2021年3月4日(詩編73)

詩編73
神はなんと恵み深いことか
イスラエルに、心の清い者たちに。(1節)

そのように言って始まる詩編ですが、すぐに意外な言葉が出てきます。

それなのに私は、危うく足を滑らせ
今にも歩みを踏み誤るところだった。(2節)

この詩編は罪との闘いの詩編です。足を滑らせ、歩みを踏み誤りそうになりながらも神にすがりつき、立ち帰ろうとする者の祈りの言葉です。なぜ、足を滑らせてしまいそうになったのか。「悪しき者の安泰を見て、驕り高ぶる者を妬んだ(3節)」とある通り、他の人のあり方に誘われたのです。神の恵みのみに生きようとしない、正しく生きようとしない、そういう生き方がうらやましくなってしまったのです。神さまを信じて生きていて、そういう気持ちになったことがないという人はいないのではないでしょうか。なんだか自分は信仰のために損をしているのではないか、神さまのことなんて知らなかった方が自由だったのではないか。彼らが「安穏に財をなしてゆく」のが腹立たしくもあり、うらやましくもあり・・・。そこに罪への誘惑が潜んでいるのです。
しかし、この詩編作者はまっすぐに神を見上げます。

何と空しいことか。
私は心を清く保ち
手を洗って潔白を示した。(13節)

悪しき者、驕り高ぶる者が求めているものは空しい。豊かになること。人から誉めてもらうこと。安心・安全・便利・快適のようなものでしょうか。しかし、彼らを妬む私も、やはり同じものを求めている。空しいものを求めて空しい者になってしまっているのは、他ならぬこの私自身。だから、この詩編は言います。

私の心は痛み
はらわたの裂ける思いがする。
私は愚かで物を知らず
あなたと共にありながら獣のようだった。(22節)

神の前で悔い改めます。獣のような私、足を滑らせて歩みを踏み誤る私を、神さまの前にお詫びしています。他の人が間違っているということよりも、この私が誤っていることを告白します。

この身も心も朽ちるが
神はとこしえにわが心の岩、わが受くべき分。(26節)

そこに希望がある。救いがある。だから、神のもとに立ち返ります。そう告白するのです。

2021年3月3日水曜日

2021年3月3日(詩編72)

詩編72
王が、叫び声を上げる貧しい人を
助ける者もない苦しむ人を救い出しますように。
弱い人、貧しい人を憐れみ
貧しい人の命を救い
虐げと暴力からその命を贖い
王の目にその人たちの血が
  貴いものでありますように。(12~14節)

この詩編の冒頭では「神よ、あなたの公正を王に、あなたの正義を王の子にお授けください」と言っています。王が果たすべき公正と正義は「民の中の苦しむ人を裁き、貧しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように」と言っているとおりであり、そのような王が繁栄しますように、と願っています。
聖書は、王が自分の権力を自分のために使うことを良しとはしません。貧しい人、助ける者もいない苦しむ人、弱い人、虐げられている人を救い、彼ら・彼女らを助けるために自分の力を使うこと、聖書は王にそのことを要求しています。
私たちはダビデやソロモンと同じような立場にいる王ではありません。総理大臣でもないし、会社の社長でもありません。しかし、もしも私たちが他の人よりも少しでも力を持っている部分があったり、健康や時間が多少なりともあったりするならば、私たちにはその力を与えられた者としての責任があります。それは、自分よりも弱い者を顧み、憐れみ、神に与えられた隣人を愛する責任です。私たちの力は、自分よりも弱い他者のために使うために与えられたものです。
この詩編72は、そのような責任に生ききる理想的な王の姿を描き、その王への神の祝福を求めます。自分に与えられた力のすべてを他者のために献げる「王」(私たちを含みます!)は、もしかしたら一人もいないのかもしれません。私たちは大なり小なり利己的で、自分の力は自分のために使ってしまいます。しかし、ただ一人、完全に自分が持っている者をすべて他者に与え尽くした王がおられます。自分のために生きるのではなく、隣人を愛することだけのために生き、そして死んだ方がおられます。私たちはまことの王にましますイエス・キリストを仰ぎ、このお方に少しでも似たものにして頂くことを求めて、今日の日を歩み出していきます。

2021年3月2日火曜日

2021年3月2日(詩編71)

詩編71
わが主よ、あなたこそわが希望。
主よ、私は若いときからあなたに信頼し
母の胎にいるときから
  あなたに支えられてきました。
あなたが母の胎から
  私を取り上げてくださいました。
私は絶えずあなたを賛美します。(5~6節)
私の口はあなたへの賛美に満ち
日夜あなたの誉れをたたえます。
年老いた時、私を見捨てず
私が力衰えても、捨て去らないでください。(8~9節)

この詩編は時間の流れの中で神を賛美する者の詩編であると思います。毎日の生活の中、昼も夜も神を賛美し、神の誉れをほめたたえる。朝起きたときにも、昼仕事をしながらも、そして夜寝るときにも神を賛美し、ほめたたえます。道を歩きながら祈り、家族の世話をしながら賛美をし、一人でいるときにも静かに神をたたえる。
そういう毎日を重ねながら、年月を重ねていきます。若いときにも、そして今も。私は母の胎にいたときから、神さまあなたに支えられてきました。そのように言います。ここには、「私は母の胎にいたときから、神を信じてきました」とは書かれていません。神に支えられてきた。支えてくださったのは神さまです。生まれたとき、幼いとき、若いときには神さまのことなんて知らなかった、主イエスを信じていなかった、という人も多い。しかし、私たちが自覚的に信じたのが何歳であったとしても、母の胎にいたときにすでに神に支えられていたことは皆同じです。神が支えてくださって、母の胎からあなたを取り上げてくださったのです。
その神様の支えは年老いたとき、白髪になったときにも変わることがありません。神さまは私たちの足腰が立たなくなったときにも決して私たちを捨てません。私たちが何も分からない赤ちゃんの時、それどころか生まれる前から、やがて年老いていろいろなことが分からなくなり、自分で何もすることができなくなるときにも、私たちは神に支えられている。その神を私たちは賛美し、ほめたたえることで今日という一日を生きていきます。

2021年3月1日月曜日

2021年3月1日(詩編70)

詩編70
あなたを尋ね求める人すべてが
  あなたによって喜び楽しみ
あなたの救いを愛する人が
「神は大いなるかな」と
  絶えることなく言いますように。
私は苦しむ者、貧しい者です。
神よ、私のために急いでください。
あなたこそわが助け、わが救い。
主よ、ためらわないでください。(5~6節)

「私は苦しむ者、貧しい者です。」そのように祈ります。神よ、私のために急いでください!この信仰者は、大胆にそう祈ります。私たちも同じように祈りましょう。神よ、私のために急いでください!
私たちの祈りは上品すぎるのではないでしょうか。神さまに遠慮しています。遠慮は日本社会では美徳であるかもしれませんが、詩編の祈りは神さまにまったく遠慮しません。祈りにおける遠慮は美徳ではありません。この詩編70は特にそうです。「主よ、ためらなわないでください」と祈ることを躊躇しません。それは、「あなたこそわが助け、わが救い」であると本気で信じているからです。他にも自分を助け、救ってくれるアテがあるとは思っていないからです。神さまに助けて頂かなくては、神さまに救って頂かなくては自分はまったく駄目だから、他にはどこにも頼れるものがないから、だから遠慮なく神さまに祈ります。大胆に祈ります。神よ、私のために急いでください、と。
「あなたを尋ね求める人」とは、この祈り手本人のことです。神によって喜び楽しみたい。そのことを真実に願っている。だから、私の命を狙う者、私の災いを望む者が私の命運を握るのではなく、ただ神様が私の救いの鍵を握っていると信じてる。神を尋ね求め、神の助けによっていき、神によって喜び楽しみたい。そのことだけを、ただ一途に願っています。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...