2020年10月22日木曜日

2020年10月22日(ヨハネによる福音書4:1~30)

ヨハネによる福音書4:1~30
「主よ、あなたは汲む物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。」
サマリアの女と主イエスとの対話です。生ける水を与えようというイエスの言葉をいぶかしく思って、彼女は問いただしました。「主よ、あなたは汲む物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。」私には、この言葉は、単純に言葉どおりに井戸が深いというだけではなくて、彼女の人生への諦めの言葉であるようにも聞こえます。生ける水、私を本当に生かしてくれる命の水があるのなら、飲めたらどんなに良いことか。しかし、そんなものを手に入れられるはずがない。そもそも、そんなものがあるとは思えない。例えあったとしても、私に関わりがあるはずがない。「主よ、あなたは汲む物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。」この言葉は、そんな諦めや絶望の言葉のような気がします。
主イエスは答えます。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」主イエスの答えはいつでも、私がその生きた命の水を与えようということに尽きるのです。私がそれを与える。主イエスがそう言ってくださるから、私たちは井戸が深いこと、手に入れられそうにないこと、どこを探したら良いのか分からないこと、そういうことで悩んだり、思い煩ったりする必要はない。キリストが、私たちに生きた命の水を飲ませてくださるからです。
キリストがお与えになる生きた水とは何か?いくつかの言い方をすることができると思いますが、一つには、キリストご自身の霊、すなわち聖霊のことだと言うことができると思います。キリストは私たちにご自分の霊を与えてくださる。キリストの霊を頂いて、私たちは生き生きと生きることができるのです。聖霊は、私たちにキリストの言葉を思い起こさせるのだ、とこの福音書を読み進めていくと書かれています。キリストの愛の言葉と共に私たちが生きることができるために、キリストは私たちに生きた水である聖霊を与え、私たちをキリストの命によって生かしてくださる。私たちの今日という新しい命は、キリストの命によって支えられています。

2020年10月21日水曜日

2020年10月21日(ヨハネによる福音書3)

ヨハネによる福音書3
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
私と家族が今住まわせて頂いている教会堂の一階の壁に、以前、海外から来たゲストが描いたカリグラフィーがあります。今朝の聖書の御言葉を記したものです。神の、独り子をお与えになるほどの愛を告げるこの御言葉。これほど慰め深く、私たちに確かな平安を与える言葉は他にはありません。
少し前にこの聖書の御言葉を日曜日にご一緒に聞いたときに少しご紹介しましたが、ドイツに生きた牧師のディートリッヒ・ボンヘッファーが、この聖書の御言葉の「ほどに」という小さな言葉に注目しています。私たちは、この「ほどに」というところで神の愛を知るのであって、他の場所に探してはならないという主旨のことを言っています。どういうことか?私たちが知ることができる神の愛は、「独り子をお与えになったほど」の愛です。他の、主イエスと関係のない場所で神の愛を知るということではない、と言います。
神様が私を愛してくださっているのなら、こうであってほしい、こうであるはずだ、いろいろなかたちでそういった期待が私たちにはある。しかし、そういう自分の期待が満足されるということが神の愛のしるしなのではない。神の愛、それは、独り子を与えてくださるほどの愛。他のどこか関係のない、自分の欲望が満足されるということを神の愛のしるしだと考えてはならないのだと思います。もしも自分の願いが満たされることが神の愛のしるしなのだとしたら、神は私の願いが果たされるのための手段に過ぎなくなってしまうからです。
この神が与えてくださった独り子は、私たちのための光だと聖書は言います。この方を見上げれば、私たちは新しく生まれることができる。この方の光の中で、私たちは神の霊によって生まれたものとして生きることができる。聖書は、そのように私たちに起こる新しい現実を宣言します。
この方は、上から来られた方、地に属するのではなく天に属し、すべてのものの上におられる方。「御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。御子を信じる人は永遠の命を得る。」ここに、神の愛が示されています。神の愛は、私たちをも永遠の命に生かしてくださる愛なのです。
主イエス・キリストによって示された神の愛によって、今日この一日を生きるための平安があなたにありますように!

2020年10月20日火曜日

2020年10月20日(ヨハネによる福音書2)

ヨハネによる福音書2
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

これは、慰めに満ちた言葉です。主イエスの最初のしるしはガリラヤのカナでの結婚式のときに現されました。主イエスの栄光が、小さな結婚の祝いのときに現されたのです。それは、深い慰めに満ちた事実であるとわたしは思います。私たちが誰かと結婚をすることとか、新しい生活を始めること、あるいは日常の小さな営みを重ね、働き、生きていくこと。それは、神様からご覧になったら、どんなに小さなことであろうかと思います。この天と地と、そこにあるすべてのものをお造りになった方からご覧になったら、私という存在なんて、ちっぽけな砂粒のようなものです。しかし、主イエスはそんな小さな小さな営みにおいて、ご自身の最初の栄光を現してくださったのです。それは、なんと慰めに満ちたことでしょう!主イエス・キリストは私たちの小さな日常の営みを御心に留め、私たちの生活を神の御顔の光で照らしてくださるのです。
ここで主イエスがなさったしるしは、宴席で客に振る舞うためのぶどう酒を水から生み出した、というものでした。結婚式の準備は大変です。特に食事の準備は。貧しい新郎新婦の予算の問題だったのか、見込みよりも大勢の客が来たのか、宴会が盛り上がったのか・・・。いずれにしても、この若い夫婦にとっては大変な恥さらしの事件です。それを主イエスは召使い以外の誰にも知らせずに解決してくださいました。最初のしるしは、たった5つのパンと2匹の魚で5000人を養ったとか、湖の上を歩くとか、そういうことではなくて、言うなれば小さな奇跡です。しかし、優しさに満ちた出来事です。そういう方だからこそ、主イエスは悲しむ者に寄り添い、友なき者の友となり、貧しい者に神の国の福音を告げ知らせてくださったのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書は、この奇跡を「しるし」と呼びます。しるしであるからには、この出来事が指し示している事柄があるはずです。それは、子なる神ご自身でいらっしゃる方が、私たちの日常の小さな営みに心を寄せ、私たちの小さな人生を愛し、砂粒よりも小さな私たちが一人も失われることをよしとはなさらないという事実です。今日も、あなたの一日の営みの中に主イエス・キリストが共にいてくださり、神の御顔の光に照らされ、祝福がありますように。

2020年10月19日月曜日

2020年10月19日(ヨハネによる福音書1:29〜51)

ヨハネによる福音書1:29~51
「またヨハネは証しして言った。『私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。』」

洗礼者ヨハネは、主イエスについて「私はこの方を知らなかった」と言っています。私は今日、この言葉がとても心に残りました。今、日曜日の礼拝でもヨハネによる福音書を読んでいます。日曜日はもう第8章まで進んでいますが、話が進んできて、ファリサイ派や祭司長たちの主イエスへの憎しみが激しくなってきました。彼らは、自分たちはメシアがいかなる方であるのか、あるいはいかなる方であるべきなのかをよく知っていると考えています。自分たちはよくわきまえている、よく分かっている。それが基本的な態度であるのだと思います。そして、メシアとはいかなる存在かということだけではなく、イエスのことも、ガリラヤ出身の男だ、だからメシアであるはずがないと言って、見下している。メシアのことも、イエスのことも自分たちはよく知っていると思っています
ところが、洗礼者ヨハネは「私はこの方をよく知らなかった」と言っています。自分が知らないということを、この人は認めている。ファリサイ派や祭司長とは対照的なスタンスであると思うのです。
ヨハネは血縁上は主イエスの親戚ですし、ルカによる福音書を読んでみると、お母さんのお腹の中にいた頃からの付き合いです。主イエスのことを全く知らなかった、そんな人のことは聞いたこともない、という間柄ではありません。しかし、それまでの自分の知識や先入観を捨てて、私はこの方がいかなる方なのかを知らないと言うことができた。それは、ヨハネのへりくだりだったのではないかと思います。
私はこの方を知らない。しかし、神が教えてくださった。神の霊が降り、この方に留まった。そういう方が現れたらその方こそ神の子だと私は神から教えられていた。だから、この方こそ神の子。この方こそ私たちの救い主。ヨハネはすなおにそのことを信じたのです。自分の考えに凝り固まらないこと、素直に神様を信じること、それがどんなに大切なことなのかとこの人を見ていると教えられます。
私たちも、今日、素直な気持ちで聖書を読み、前提なしに福音に耳を傾けましょう。そこには、私たちの思い込みをはるかに超えたすばらし神の愛の言葉が響いています。

2020年10月18日日曜日

2020年10月18日(ヨハネによる福音書1:1〜28)

ヨハネによる福音書1:1~28
「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光や闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」「まことの光があったその光は世に来て、すべての人を照らすのである。」

初めに神と共にあり、神ご自身であった言。その言が肉となって、私たちの間に宿られた。すなわち、主イエス・キリストです。その言は、光であった、しかも命である光であると使徒ヨハネは私たちに証言しています。
私たちはイエス・キリストという命である光に照らされている。闇の中に潜む私たちが今や光に照らされている。そのように言います。
詩篇第23編を見ると、「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない」という言葉に出会います。「たとえ」と言っていますが、この詩編を読んですぐに明らかになることは、この「たとえ」は起こりそうもない仮定の話ではなく、この詩編作者が現に生きている場所が死の陰の谷そのものであるということです。2節の「緑の野」という言葉は、原語のニュアンスでは荒れ野に僅かに草が生えているような場所を指すそうです。ハイジが出て来るような豊かな緑地ではない。水も涸れた荒れ野に僅かに茂る草。すぐに尽きてしまいそうなかすかな水。しかし、神は私の羊飼いとして確かに私を養い、草と水によって生かし、私を死の陰の谷にあっても生かしてくださっている。この死の陰の谷に、主なる神様ご自身の光が差している。私はその光に照らされている。
ヨハネが私たちに証言しているイエス・キリストという光は、煌々とした、まぶしい光ではないと思います。かすかな、しかし確かな光です。この光に照らされるとき、自分が命の祝福にあずかっていることに私たちは気づく。キリストの命の光は、暗闇の中でなお光り続けている。
この光は、すべての人を照らします。この光から除外されている人はいません。神様は私たちすべての人を命の光によって照らしています。だから、恐れず、顔を背けることなく、キリストの光の中を歩んでいきましょう。ここに、私たちの命の祝福があるのです。

2020年10月17日土曜日

2020年10月17日(ペトロの手紙二3)

ペトロの手紙二3
「神の日が来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。」

神の日、つまり主イエスが再び地上に来て救いを完成する日、すべてのものを裁く日。その日を待ち望み、またその日がくるのを早めなさい、とペトロは私たちに告げています。待ちつつ、早めつつ。それが、キリスト者の生き方だと言います。
主イエスが再び来られると聞いて、私たちはどれほどそれを実際的な感覚として覚えて、またその日を願っているでしょうか。聖書にはイエスさまが来ると言ったと書いてあるらしいけど、実際に来るというわけではないのだろうな・・・というような感覚が、私たちにはもしかしたらあるかもしれません。何しろ、主イエスが天に昇ってから、もう2000年も経ったのです。
ペトロは言います。「主のもとでは、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」
私たちは、いつまで経っても主の日なんて来ない、そんな日は永遠に来ないのではないか、と思うかもしれない。しかし、本当に忍耐して待っているのは、主なる神様です。私たちが一人も滅びることなく救われるように、裁きを待っていてくださっている。ペトロはそう言います。
そうであるならば、私たちが生きている一日一日は、神様の愛と忍耐が生み出した一日です。従って、私たちが主の再び来てくださる主の日を待ちつつ、そしてそれを早めるとは、主イエス・キリストによって現された神の愛を私たちが証しすることではないでしょうか。
ペトロは、他の誰よりも深くキリストの愛を知った人物であると思います。それは、彼がどんなに罪深く、イエスを捨ててしまう者であっても、なおキリストがペトロを愛し、忍耐して待ち続けてくださったからです。これは、私たちのためのキリストの愛でもあります。私たちの隣人のためのキリストの愛でもあります。イエス・キリストに、栄光が今もまた永遠にありますように。アーメン。

2020年10月16日金曜日

2020年10月16日(ペトロの手紙二2)

ペトロの手紙二2
「人は、自分を打ち負かした者に隷属するものです。私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って汚れから逃れても、再びにそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。」

ペトロは、主イエスの言葉を思い起こしながらこの言葉を記したのだと思います。主イエスは言われました。「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが見つからない。それで、『出て来た我が家に戻ろう』と言う。帰ってみると、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分より悪い他の七つの霊を連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」ペトロは、私たちは汚れた霊に打ち負かされ、その奴隷になってはいないかと問いかけます。
そこには、やはりペトロ自身がかつて主イエスと出会ったにもかかわらず悪霊に打ち負かされてしまった経験が思い起こされていたのではないでしょうか。主を捨て、イエスを知らないと言ってしまったあの夜。あのとき、確かにペトロは悪霊に打ち負かされ、その奴隷になってしまったのです。その時、自分は主イエスと出会う前よりももっと悪くなってしまった。それは、ペトロ自身の偽らざる実感だったのではないでしょうか。
ペトロは、本当に切実な思いで私たちを連れ戻そうとします。私たちは、どうしようもなく罪を犯してしまうし、その時、汚れた霊に負け、奴隷になってしまう。自分の好きなように生きているつもりであっても、奴隷でしかない。その私たちを再び自由にし、神のものとしてくださるお方のもとへ帰ろうと、ペトロは私たちに訴えます。私たちの救いは、主のもとにある。私たちの自由は、キリストのもとにある。私たちを本当に自分らしく生かしてくださるお方は主イエス・キリストに他ならない。罪から離れ、キリストのもとへ立ち帰ろうと、この一人の使徒は私たちを招いています。

2020年10月15日木曜日

2020年10月15日(ペトロの手紙二1)

ペトロの手紙二1
「主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。この栄光と力ある顕現によって、私たちには尊く大いなる約束が与えられています。」

私たちの命も、敬虔も、主イエス・キリストが与えてくださったもの。使徒ペトロはそのように証言します。どんなにか深いペトロ自身の実感がこもった言葉なのでしょう。まさに、主イエスと出会い、主に新しくして頂き、主ご自身から信仰を頂いた人です。
それならば、主イエスは私たちにどうやって私たちに命と敬虔とを与えてくださったのか?それはキリストの栄光と力ある顕現による、と言います。「顕現」というのははっきりとかたちをとって現れることという意味ですから、この場合は主イエスが神の子としてのご自身を現されたということだと思います。
どういうことなのか?ペトロ自身が、具体的な主イエスの出来事を書いています。「イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。『これは私の愛する子、私の心に適う者。』私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。」主イエスが洗礼を受けたとき、水から上がると「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声を聞いた。ペトロはその話を主イエスから繰り返し聞いたことでしょう。そして、やがて彼自身、天から響く声がイエスにそう語りかけるのを聞いたのです。山の上で。主イエスに同じように語りかける声を彼は聞いた。これが、ペトロ自身が体験したイエスの神の子としての顕現です。そしてこのペトロの体験はペトロ一人にはとどまらずに、他の弟子たちにも共有され、やがて生まれた教会の仲間に共有され、私たちのところにまで届けられました。
そして、このキリストの神の子としての顕現と栄光が、私たちの敬虔の源だとペトロは言います。私たちが祈ったり、神を信じて仰いだり、『父よ』と呼びかけたり。それらはすべて、キリストが神の子としてペトロや私たちの前に現れたことに始まるのです。壮大な話です。しかし、そうであるからこそ、私たちに起源があるのではないということなのだと思います。私たちではなく、キリストから始まった。ペトロは心を躍らせるような思いで、この手紙を書いたのではないでしょうか。私の、そしてあなたの敬虔は、キリストが神の子でいらっしゃることに始まったのだ。だから、この敬虔は確かなもの。ペトロと共に私たちも喜んで、そのように告白します。

2020年10月14日水曜日

2020年10月14日(ペトロの手紙一5)

ペトロの手紙一5
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい。あなたがたのきょうだいたちも、この世で同じ苦しみに遭っているのは、あなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。この言葉をペトロが手紙に書いたとき、自身への主イエスの言葉を思い出していたに違いありません。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。」シモン・ペトロはサタンのふるいによって見事にふるい分けられてしまいました。その夜、ペトロは主イエスを知らないと三度にわたって口にし、最後には呪いの言葉まで飛び出してしまった。ほえたける獅子のようなサタンに食われてしまった。しかし、ペトロにとって悔いても悔やみきれない、悪夢のようなあの出来事は、主イエス・キリストの祈りによって包まれています。「しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」主イエスはそう言ってくださいました。ペトロは、やがて立ち直ることができた。信仰を失わなかった。主イエスが祈ってくださっていたから。
「信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい」というのは、自分の信心や精神力の話ではありません。主イエスを信じて仰ぐ。私たちにできるのは、ただそれだけです。それだけでいいのです。主イエスを仰ぐとき、そこには私のために祈っていてくださるお方がおられます。だから、私たちは大丈夫です。「あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
シモン・ペトロのために祈ると言ってくださった主イエスは、続けて言われました。「だから、あなたが立ち直ったときには、きょうだいたちを力づけてやりなさい。」この言葉に忠実に、ペトロは私たちの目を恵み深いキリストへと向けさせます。私たちがキリストを信じて、仰ぐようにと。悪魔の企みがどんなに苛烈であっても、私たちはキリストにある永遠の光の中で、イエスご自身の祈りによって守られています。

2020年10月13日火曜日

2020年10月13日(ペトロの手紙一4)

ペトロの手紙一4
「万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

生きるというのは、簡単なことではないと思います。いろいろな困難があります。ことに、キリスト者として生きるというのにはさまざまな艱難があります。
「かつてあなたがたは、異邦人の好みに任せて、放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、律法の禁じる偶像礼拝にふけってきましたが、もうそれで十分です。あなたがたがもはやそのような度を超えた乱行に加わらないので、あの者たちは驚き怪しみ、そしるのです。」神を信じるから受ける苦しみには、付き合いが悪いから受けるそしりがあります。キリストに従うために、いわれなき誹謗中傷を蒙ることもあるではないでしょうか。
ペトロはそういう苦難をキリストの歩みの中に位置づけます。「キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」キリストご自身の歩み、そしてキリストがお受けになった苦しみに自分の苦しみの現実を重ね合わせることによって、私たちは今この時を生きることができるのです。
キリストに従って私たちが生きていくときにいちばん大切なこと、すなわちキリストご自身が大切になさっていたこと、それは「互いに心から愛し合いなさい」ということだとペトロは言います。三年間、主イエスと共に寝食を共にし、その言葉をいちばん近くで聞き、主イエスがなさる振る舞いをつぶさに見、ついには裏切り、しかし赦された男の言葉です。誰よりもよくキリストの愛を知り、キリストに愛されて今生きている人間が言います。「互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」私たちは、そうやって愛され、多くの罪を覆って頂いたから今生きている。だからこそ、互いに愛し合おう。ペトロはそう呼びかけます。
今日一日の私たちの歩みを、主イエス・キリストの愛が導いてくださいますように。そして、「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」

2020年10月12日月曜日

2020年10月12日(ペトロの手紙一3)

ペトロの手紙一3
「キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。」

ある牧師がこのような話をしてくれたことがあります。あるとき、教会の青年たちがまだ幼い自分の息子をからかっているのに出くわしてしまった。彼らを咎めたが、心のモヤモヤが晴れなかった。自室に引き上げた後、晴れない気分のままで神学雑誌を開いた。そこに、主イエスを裏切って自殺をしたイスカリオテのユダの話が書かれていた。ユダはイエスを銀貨30枚で売り、すぐに後悔して自殺した。ユダは、そのまま滅びるのか?ユダが死んだほんの数時間後、主イエスは十字架にかけられて殺された。その死を、使徒信条は「陰府に降り」と言い表している。主イエスは陰府へ降って行かれた。それはまるでユダを追いかけているようではないか。主イエスはユダがいるところに行かれたのだ。この話を雑誌で見つけて読んで、牧師は、息子をからかっていた青年たちに向ける目が変えられたのだそうです。
主イエス・キリストは十字架で死に、陰府に降って行かれた。そこで何をしたのか?ペトロは「捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」と言い表します。主イエス・キリストの手は、神に逆らって死んでいった者たちのところにも及ぶのです。キリストは陰府に降られた。だから、キリストがいない場所はどこにもありません。
箱舟は水を通って救われました。ペトロは、この水は洗礼を象徴していると言います。洗礼。それは、私たちの死を意味します。私たたちが水に沈められて死に、キリストにある新しい命に甦る。それが洗礼です。私たちも、洗礼を受けたときにもう降ったのです。キリストが行かれた陰府へと。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に今生きています。
だから、私たちはもう既に死んだ者たちのことはキリストに任せましょう。キリストの手が届かない場所、キリストが行くことのできない場所はどこにもないのですから。ユダにもまたキリストの福音は向けられている。私たちにさえも。
今日一日も、主イエス・キリストの恵みがあなたと共にありますように。心から祈っています。

2020年10月11日日曜日

2020年10月11日(ペトロの手紙一2)

ペトロの手紙一2
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。

あなたは一体何者か?もしも私たちがそう問われたら、私たちは答えることができます。私は、神に選ばれた神の民です、と。そう、あなたは選ばれたのです。神の民として。あなたが神の民であるというのは、王の祭司であり、聖なる国民である、ということです。
祭司の役目は人々のために執りなしをすることです。隣人のために祈り、敵のために祈り、神の前でその人の罪の赦しを求めて祈る。それが、祭司の務めです。
聖なる国民とも言っています。「聖」というのは、他と区別された存在です。聖と俗とを区別する。それは、神のものをまさしく神のものとして区別し、神のものを神にお返しするということです。あなたは聖なる国民、神の民、神の所有物です。
謂わば、祭司として水平軸に開かれ、聖なる国民として垂直軸に伸びる。それが、神に選ばれた神の民のあり方です。私たちはちょうど十字架の横木と縦木の接しているところにいるようなもので、どちらの方向にも向かっているのであり、どちらかだけになってはならないのです。
それは、主イエス・キリストご自身のあり方です。キリストは「罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。」キリストは全く神のものとして聖なる方でありながら、完全に私たちに向かって開かれ、祭司としてご自身をさえ献げて私たちのための執りなしを完成させてくださったのです。それによって、私は今あるを得ている。それは「私たちが罪に死に、義に生きるためです。」

2020年10月10日土曜日

2020年10月10日(ペトロの手紙一1)

ペトロの手紙一1
「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、賞賛と栄光と誉れをもたらすのです。」

あなたがたは、信仰によって守られています!私たちは守られている。私たちをあらゆる攻撃から守る盾、雨から守る屋根、風から守るコートがある。信仰によって、私たちは守られています。「信仰」という字は、とてもうれしい字です。「信じて、仰ぐ」と書きます。信仰は「信心」ではありません。私たちの信じる心が問題なのではない、信じる力が問われているのではありません。信じて、仰ぐ。私たちはキリストを信じ、キリストを仰ぐ。ただ仰ぐだけです。キリストはご自分を信じ、仰ぐ者を守ってくださいます。私たちの信じる力が守るのではなく、キリストが私たちを守ってくださいます。
私たちは、今しばらく間、さまざまな試練に遭うことでしょう。しかしそういう時に、信仰が私たちを守ってくれる。他に、一体何が私たちを守りうると言うのでしょうか?
「あながたがは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」
とてもおもしろい言葉です。あなたがたは、信仰の目標である魂の救いを得ている。目標というのは、普通はまだ得ていないもののことです。もう得ていたら目標にはなり得ない。ところが、魂の救いは信仰の目標でありながら、もう既に得ているのです。私たちは今もう救われているし、そしてその救いを目指して、主イエスを信じて生きています。信仰に守られて。
今もなお困難な日々が続きます。キリストは、私たちを守っていてくださいます。私たちも、私たちの言葉も営みも、すぐに変わったりなくなったりしてしまう儚いものでしかない。しかし、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」のです。これこそ、私たちが聞く福音です。永遠に変わることのない神の言葉は、私たちのための救いを告げるキリストの言葉なのです。

2020年10月9日金曜日

2020年10月9日(ヤコブの手紙5)

ヤコブの手紙5
「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執りなしは、大いに力があり、効果があります。」

ヤコブはこの章の前半では、忍耐の話をしています。「主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。」私たちは忍耐する。主イエス・キリストが来てくださるのを、忍耐して待っています。「主は憐れみに満ち、慈しみ深い方」だから、このお方が来て私たちを救ってくださるのを待ち望んでいます。
忍耐の生活には苦しみが伴います。その苦しみの日には祈りなさいとヤコブは勧めます。祈ること、祈り続けることこそが忍耐することだから。そして私たちの歩みは苦しいときばかりではなく、喜びの日もあります。そういう日はしかめっ面をしないで素直に喜び、何よりも神を賛美しようと勧めています。
もしも病気になったら、教会の人に頼んできてもらい、祈ってもらうが良いと言います。オリーブ油を塗って、と言っています。私たちの教会には、文字通りにオリーブ油を塗るという習慣はありません。当時の社会習慣や医学的な知見が反映しているのでしょう。しかし同時に、ここでのオリーブ油は明らかに祈りの象徴です。しかも、執りなしの祈りのしるしです。その精神においては私たちも何ら変わるところはない。病気のときには独りぼっちでいるのではなく、教会の人を招いて祈りを求める。それが、私たちの忍耐の秘訣です。
今はなかなか自由に病院に行ったり、お見舞いに行ったりすることができない状況が続いています。教会にとっては厳しい状況です。だからこそ、教会を挙げて、それぞれが心を一つにして執りなしの祈りに生きていきたいと願います。教会は執りなしの祈り共同体です。苦しむ隣人のために、私たちは祈る。祈りにおいて、教会は一つです。

2020年10月8日木曜日

2020年10月8日(ヤコブの手紙4)

ヤコブの手紙4
しかし神は、それにまさる恵みを与えてくださいます。そこで聖書はこう語るのです。
 「神は、高ぶる者を退け
 へりくだる者に恵みをお与えになる。」
ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。二心のある者たち、心を清めなさい。嘆き、悲しみ、泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

古代からの教会の祈りに「キリエ」というものがあります。キリエ・エレイソン。「主よ、憐れみたまえ」という意味です。キリエ、それは罪の悔い改めの祈りです。キリエ・エレイソン、キリエ・エレイソン。「主よ、憐れみたまえ」と繰り返して祈る。呼吸に合わせて祈る伝統もあるようです。教会にこの祈りの言葉が伝えられてきたということは、教会の宝です。
神に従い、悪魔に立ち向かう。神に近づく。それは、罪を悔い改め、罪を嘆き、悲しみ、泣くことです。ヤコブの手紙は私たちに行いを伴う信仰に生きることを求めてきました。そこに真剣に生きれば生きるほどに、主の憐れみを求めるより他に道がないことに気づきます。真摯に生きようとすればするほどに、それとはほど遠い自分であるという事実が私たちに迫ってきます。
「あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり闘ったりします」と言います。これは「今」という時代の姿そのものです。私たちの欲望を達成するために安い賃金で働かされ、私たちが安価な品物を手に入れるために不当な目に遭わされている人がいます。今という時代の姿そのものを聖書はあぶり出す。そして、私たちもこの時代の子です。私たちは時代の罪に巻き込まれているというだけではなく、積極的に加担しているのではないでしょうか。
主の憐れみを、私たちは真摯に求めるより他ありません。そして、時代の当たり前にささやかながらも抵抗し、他者のために生きる決意が求められているのだと思います。もしも私たちが、お客様の王様面に疲れ果てた店員さんにやさしく思いやりのある言葉をかけ、労苦をねぎらうなら、それもまた時代への小さな抵抗であると思います。他の人が広めている悪口をいさめたり、自分の胸にしまってせき止めることにも大きな意味があるでしょう。私たちは、この世界に、キリストの愛の使者として送り出されています。

2020年10月7日水曜日

2020年10月7日(ヤコブの手紙3)

ヤコブの手紙3
「舌を治めることができる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。同じく力、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあてはなりません。」
こんなにも鋭く、胸に突き刺さるような言葉が他にあるのでしょうか。舌は、制することのできない悪。これに先立って、舌は馬を御するためのくつわ、船を操作する舵のようなものだと言います。舌が私たちの全身を操作し、私たちを過ちに向かわせてしまう。舌は大きな森を燃やしてしまう小さな火のよう。舌は不義の世界、、焼き尽くす地獄の火。
パウロがこれまで丁寧に語ってきた私たちの行いを伴う信仰も舌の語る言葉によって操作されてしまうほどに舌は強烈な力を持ち、そこから飛び出してくる私たちの言葉は、私たちの悪の姿そのものです。
ヤコブ自身、「あなたがたの多くは教師になるべきではありません」と言っているとおり、言葉を語る者の罪深さに打たれていたのだと思います。ヤコブ自身、自分の罪と向き合わないわけにはいかなかったのだと思います。自分の口から出てきた言葉と向き合うことほど辛いことはないのではないでしょうか。
しかし他方で、私たちの信仰は言葉によって成り立ちます。聖書も言葉、祈りも賛美も言葉。私たちには言葉を拒んだところでの瞑想をするという習慣はありません。聖書という言葉を読み、言葉に導かれて黙想し、言葉で祈ります。そこでは常に自分の罪深さや欺瞞、傲慢、虚偽、そういったものに向き合わないわけにはいかない、ということを意味する。しかし同時に、その罪深い私とキリストが連帯してくださったという憐れみを深く覚えるということでもあります。私たちは自分の言葉を通して罪の醜悪さを知り、言葉を通してキリストの赦しのありがたさをかみしめ、御言葉ご自身でいらっしゃるキリストによって救われるのです。私たちの言葉をも、このお方は清めてくださるに違いありません。

2020年10月6日火曜日

2020年10月6日(ヤコブの手紙2)

ヤコブの手紙2
「私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。ところが、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。」

ヤコブはとても具体的な例を挙げながら、行いのない信仰がそもそも信仰として成り立っていないことを指摘しています。教会に金持ちと貧しい者が来たときに、もしも金持ちを厚遇して貧しい者を冷遇するなら、貧しい者を辱めていることに他ならず、それは神の御心に背くことに他ならない。ヤコブはそう指摘します。私たちにもよく分かることです。私たちの教会に全く同じ信頼か医者が来たときのことを想像するのは簡単です。私たちの対応は相手によって変わってしまうのでしょうか。例えば貧しい人ではなくて、鼻にピアスをした青年だったら?性的マイノリティだったら?生活保護で生活をしているはずなのに、あまり慎ましい暮らしをしているようには見えない人だったら?もしも彼ら彼女らを軽んじる気持ちが生まれてくるのだとしたら、私たちの判断基準は神様の御心ではなく、この世の物差しということになってしまいます。
神様を信じるというのは、現実的な生活の話です。「私のきょうだいたち、『私には信仰がある』と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい』と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。同じように、信仰もまた、行いが伴わなければ、それだけでは死んだものです。」これもまた私たちにもよく分かる話ですし、それだけに痛い話でもあります。恐らく誰もが身に覚えがあるから。そして、痛いのはこの指摘が真実を突いているからではないでしょうか。キリストは、私たちが実際的な愛に生きることを求めておられます。キリストこそ、私たちへの実際的な愛に生きぬいてくださったからです。

2020年10月5日月曜日

2020年10月5日(ヤコブの手紙1)

ヤコブの手紙1
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。御言葉を聞いても行わない者がいれば、その人は、自分の生まれつきの顔を鏡で映して見る人に似ています。自分を映して見ても、そこを立ち去ると、どのようであったかをすぐに忘れてしまうからです。しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いても忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。」
これまで読んできた手紙は、殆どが使徒パウロによるものでした。3月に読んだヘブライ人への手紙は恐らく違う人が書いたものですが、それ以外はパウロの手紙と伝えられています。しかし、今日からは別の執筆者の手紙を読みます。まず、ヤコブの手紙です。この手紙は書いた人の名前だけではなく、その内容も、パウロの手紙とはかなり違う印象を受けます。パウロは私たちが自分の行いに頼ることを拒み、ただ神の恵みによってのみ救われると言うことを強調しました。後の教会はパウロが語ったこのことを「信仰義認」と呼びました。ただ信仰のみによって、私たちは神に義と認められる。マルチン・ルターの改革運動も、教会に信仰義認を取り戻すところに主眼があった。教会の絶ちもし、倒れもする大切な生命線です。
ところが、ヤコブは信仰義認の陰に潜む欺瞞を暴きます。「自分の宗教に熱心であると思っても、舌を制することをせず、自分の心を欺くならば、その人の宗教は空しいものです。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まることなく自分を守ること、これこそ父なる神の前に清く汚れのない宗教です。」心の熱心さではなく、実際に信仰者として生きることの大切さに気づかせます。言うなれば、ヤコブは「信仰義認主義」を戒めた。確かに私たちは自分の良い行いではなく、キリストを信じることだけにで救われる。しかしだからといって、それを主義として掲げて、むなしい宗教に生きることほど不幸なことはないとヤコブは訴えます。
それでは鏡で自分の顔を眺めてうっとりしているのと同じだ、と言うのです。鏡の前から立ち去れば、自分の顔なんて忘れてしまう。聞くだけで行わないなら、それと同じように意味が無い、自己満足だ、と言います。厳しい言葉です。しかし、核心を突いていると認めないわけにいかない。ヤコブは私たちが行うべき神様の御言葉を「自由の律法」と呼びます。信仰は私たちを自由にする。ヤコブの手紙は、自由への招きの手紙なのです。

2020年10月4日日曜日

2020年10月4日(フィレモンへの手紙)

フィレモンへの手紙
「ですから、あなたが私を仲間と見なしてくれるなら、オネシモを私と思って迎え入れてください。また、彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいてください。私パウロが自分の手でこう記します。私が返済します。」
フィレモンへの手紙は新約聖書に収められているパウロの手紙の中でも、特にプライベートな手紙、私信です。パウロが囚人であったとき、フィレモンという「愛する協力者」に送った手紙。要件は、オネシモというフィレモンの奴隷についてです。オネシモについて、パウロは「彼は、かつてはあなたにとって役に立たない者でした」と言っています。あるいは、冒頭に引用しているところで損害とか負債とか言っているのを見ると、オネシモは主人であるフィレモンに何らかの迷惑をかけ、懲らしめを受けることを恐れてパウロのところへ逃れてきたのではないか、と推測できます。
ところが、オネシモがパウロのところへ来たとき、フィレモンが想像していなかったことが起こったようです。「獄中で生んだ私の子オネシモ」とパウロは呼んでいます。獄中で生んだ私の子。恐らく、パウロが自分のところに尋ねてきたオネシモに福音を語り、オネシモは主イエスを信じ、洗礼を受けたのでしょう。パウロを通して主イエスを信じたので、パウロはそのように彼を呼んだのです。
パウロはフィレモンに向かって、今やオネシモがあなたの兄弟であることに気づいてほしい、と訴えます。これは実は、コリント教会で起こっていたのと同じ事柄です。奴隷と奴隷の主人との関係が、同じ神を信じることによって新しくなる。主人の方も、奴隷の方も、なかなか新しい関係になれるのは難しかったと思います。奴隷と主人との身分差は、当時の社会では絶対的であり、また常識、当たり前のことでしたから。当たり前がひっくり返るほど難しいことはありません。キリストを信じたとき、そういう驚天動地が起こりうるのです。
パウロはそのために、オネシモのことをフィレモンに保証します。とは言っても、パウロがオネシモの信用調査をして、大丈夫だと判断し得たからフィレモンに保証したということではないでしょう。キリストにあって、オネシモを信頼した。それだけだったのだと思います。共にキリストを信じるとき、私たちの関係は新しくなる。信じること、任せること、愛すること。それらはすべてキリストが私たちにしてくださったこと。このようにして、私たちの関係は新しくなるのです。

2020年10月3日土曜日

2020年10月3日(テトスへの手紙3)

テトスへの手紙3
「私たち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、さまざまの欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに日々を過ごし、人に嫌われ、互いに憎み合っていました。しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。」
本当に、ありがたい御言葉だと思います。無分別、不従順、道に迷い、さまざまの欲望の奴隷、悪意と妬み、人に嫌われ、互いに憎み合う。どれ一つをとっても自分と無関係とは言えない。というよりも、私そのものです。私のことがここに書いてある。それなのに、聖書は驚くべきことを言います。「私たち自身もかつては」と言うのです。無分別や不従順、それにそれ以下のものは、すべて「かつて」だと言います。今は違います。今や、これらはすべて過去の私になりました。
なぜなら、今や神の愛が現れたからです。私たちの罪は過去のものとなり、神の愛が私たちの現在になった。だから、恵みに満ちた将来を、神が私たちのために準備してくださっているに違いありません。
神様は私たちを私たち自身の正しさや行いの立派さではなく、ご自分の慈しみと愛とによって罪から救ってくださいます。自分の立派な行いがものを言うのなら、絶望しかありません。ところが神は、ご自分の憐れみに偏って私たちのことを見てくださるから、私たちの罪を過去のものとしてくださいます。
「この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。神は、この聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストを通して、私たちに豊かに注いでくださいました。こうして私たちは、イエス・キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」
神様の憐れみは、私たちを洗って清くし、再生させてくださいます。洗うといえば、洗礼を思い起こすことができる。洗礼を受けたとき、私たちは神ご自身の霊によって洗われて、新しく生まれ、永遠の命を受け継ぐ者にして頂いた。私たちの生きている「今」は、神の恵みによって成り立っている「今」であり、神の恵みが現れた「今日」だということを、私たちの心に刻みたいと願います。

2020年10月2日金曜日

2020年10月2日(テトスへの手紙2)

テトスへの手紙2
「実に、救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。」
この御言葉は、クリスマスの時期にしばしば読まれます。私たちの教会でもクリスマスを祝う主日やその翌週などに、招きの言葉として聞くことの多い言葉です。本当に素晴らしい福音の宣言です。実に、救いをもたらす神のの恵みはすべての人に現されました。主イエスがお生まれになったというのは、そういうことです。救いをもたらす神の恵みは、もはや公然と現されました。しかも、すべての人に現された。隠されてはいません。誰でも、キリストにあって、神の恵みを見ることができる。そう、キリストによって現されたのは、神の恵みです。神の怒りや呪いではなく、神の恵みが現れた。私たちは誰でも、キリストというお方を通して、神の愛に触れることができるのです。
「その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教え、また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私達の救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」
主イエス・キリストは、私たちを罪の世から救おうという神の真剣な恵みです。そして、同じ真剣さをもって私たちを健全な敬虔に生かそうとする力ある神の要求でもあります。キリストに出会った者は、かつての不敬虔を離れて慎みを持ち、刹那的な生き方を捨ててキリストにある望みを持って生きることが自然です。人間としての自然な生き方、人間らしい生き方に気づかせていただのが、キリストと出会った者なのではないでしょうか。
キリストは、ご自分を献げてくださいました。「キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖いだし、良い行いに熱心な民を、ご自分のものとして清めるためだったのです。」キリストとの出会いは、私たちを新しい生き方へと導きます。
私たちはあまり自分にそういうことができるのかと言って自分に注目してしまうのではなく、私たちのために現された神の恵みそのものでいてくださるキリストに注目し、キリストの恵みを日ごとに味わい、キリストが私を新しくしてくださることを楽しんで生きていきたい。そう願います。

2020年10月1日木曜日

2020年10月1日(テトスへの手紙1)

テトスへの手紙1
「清い人には、すべてが清いのです。しかし、汚れた不信仰な者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。」

テトスへの手紙は、健全な信仰に生きるよう私たちに勧めます。健全な信仰とは何か。とても具体的に、否定的な表現で書いてあります。「わがままでなく、すぐに怒らず、酒に溺れず、乱暴でなく、恥ずべき利益を貪らず、客を手厚くもてなし、善を愛し、慎みがあり、正しく、清く、自制心があり、教えに適った信頼すべき言葉をしっかり守る人」。そこまで言われると、少し怯んでしまいます。しかし、私がこれまで共に生きてきたたくさんの先輩キリスト者たちのことを考えると、まさにそういう人が何人もいました。若造の私の言葉に怒らずに、忍耐して耳を傾けてくださったこと、ご自身の生活を律して生きておられたこと、祈りに真剣でいらしたこと、そのようなお姿を思い浮かべることができる先輩が何人もいます。
健全な信仰が自分にはないと悩むよりも、実際にそれに生きている人を思い起こし、私も同じ信仰の末席にいると思いをいたすことができるのは、本当に幸いなことです。
この手紙で、パウロは、私たちが神を信じて実際にどう生きるのかということを真剣に問い、私たちに語りかけています。信仰は、実生活に関係の無いむなしい言葉だけの世界のことではなく、生き方に健全さをもたらす私たちの生きる指針です。
清い人には、すべてが清いとパウロは言います。キリストを信じ、敬虔に、誠実に生きるなら、生活のいろいろな場面で自分は合っているのか間違っているのかとビクビクする必要は無くなる。キリスト信仰は私たちの生き方を健全にします。キリストを真似て生きるからです。私たちは言葉では嘘をつけても、行いでは嘘をつけません。私は自分の偽善を見せつけられていると思います。しかし、キリストは私たちの生き方、行いを清めてくださいます。私たちを新しくすることがおできになるのは、この方だけなのです。

2020年10月22日(ヨハネによる福音書4:1~30)

ヨハネによる福音書4:1~30 「主よ、あなたは汲む物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。」 サマリアの女と主イエスとの対話です。生ける水を与えようというイエスの言葉をいぶかしく思って、彼女は問いただしました。「主よ、あなたは汲む...