2020年9月21日月曜日

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3
「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。
私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。」

これまで書記官に口述筆記してもらって手紙を書いてきたパウロが、最後の挨拶を自分の手で記している。これはどの手紙にも記す印だと言います。その印というのは、この言葉。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。」
何と素晴らしい印でしょう!「敬具」よりも、「敬白」よりも、「草々」よりも素敵です。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように!ただ、これがあまり意味の無いただの決まり文句になってしまっては何の意味もありません。敬具や敬白は、大した意味はない定型句に過ぎない。そのような意味を持たない言葉としてこれを書くことは許されません。真心から、心を込めて、祈りを込めて、私たちも自分の手紙の最後の印としてこの言葉を添える。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。」
今日、これを読んでいるお一人おひとりに、主イエス・キリストの恵みと祝福がありますように私も心から祈ります。主なる神様ご自身が私たちの平和となってくださって、あなたの今日一日を神との平和、和やかさの中に歩ませてくださいます。神との間が和やかであるならば、隣人との関係も新しくなるのではないでしょうか。それは、キリストの恵みから始まります。
今日、あなたがどこにいるとしても、何をするにしても、神が共にいてくださいますように。悲しみの時にも喜びの時にも、神があなたを支えていてくださいますように。今日あなたがすること、話す言葉、心に思い浮かべること、それら一つひとつが神の愛の中にありますように。キリストの平和があなたがたの内に宿り、神への賛美があなたの口に宿りますように。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン!

2020年9月20日日曜日

2020年9月20日(テサロニケの信徒への手紙二 1~2)

テサロニケの信徒への手紙二1~2
「実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。」
パウロは主イエスが再び来てくださるという「その時」に焦点を合わせて生きることの大切さを訴えます。私たちの生き方を定める基準は、主イエスが再び来てくださってなさる裁きにある。主の御前に私はいかなる生き方をしているのか?この世では迫害され、苦しみを味わうことが多いでしょう。しかし、主はそれを覚え、必ず報いてくださる。そのようにして今この時を見つめ直してほしいとパウロは言います。
ところで、先ほど「焦点」という言葉を使いました。この言葉には関心や注意の集まるところという意味だけではなく、数学で楕円という図形を作図するときの基準の点の意味もあります。楕円は「二つの定点からの距離の和が一定になる点の軌跡」で、これら二つの定点を「焦点」と呼びます。つまり、楕円を書くためには二つの基準になる点が必要だ、ということになる。私たちの生き方を定めるための点も、二つあると思います。
というのは、パウロが2:2で「主の日がすでに来たかのように言う者がいても、すぐに理性を失って動揺したり、慌てふためいたりしないでほしい」と言っています。主の日というのは、主イエスが再び来てくださる日のことです。その日だけが唯一の基準になると、今ここに生きるということの意味をしっかりと捉えられなくなってしまいます。キリストは再び来てくださる。それは、キリストがそう約束なさった以上確実なことです。ただし、それは「まだ」です。私たちは必ず来てくださるキリストを待ち望みつつ、今日という新しい日を生きています。キリストが来られるのが「まだ」だということもまた神様がお決めになった以上、新しい今日という日を地に足着けて生きる責任が私たちにあるのではないでしょうか。
キリスト者の生の二つの焦点、それは「既に」と「未だ」です。すぐにも来ると約束したキリストは、既に私たちと共にいる。しかし、未だ世の終わりは来ていない。「既に」と「未だ」という二つの時の間に私たちは生きているのです。
そんな私たちの生きるための羅針盤は、ただただキリストご自身の福音が込められた聖書の御言葉に他ならない。私たちはキリストの到来を待ちつつ、また早めつつ、今日という与えられた新しい一日を生きていきます。

2020年9月19日土曜日

2020年9月19日(テサロニケの信徒への手紙一5)

テサロニケの信徒への手紙一5
「主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いに造り上げるようにしなさい。」
パウロは新約聖書に残された手紙をたくさん書きましたが、それぞれ、教会に起こった何らかの課題に対処するために書かれました。例えばそれは割礼を巡る事柄であったり、あるいは教会の分裂や社会における身分制度をどう考えるか、性倫理のことなど、さまざまです。但しどの手紙も一般論を論じるのではなく、実際に教会に起きた出来事に対処するための手紙です。それでは、今読んでいるこの手紙は何のために書かれたのでしょうか。テサロニケの信徒への手紙一を読んで推察されることは、この教会は堕落していたということです。どういう意味で堕落していたかというと、主イエスが再び来られるというリアリティを見失って、信仰者としての節度をもった生活の形成を止めてしまっていた。そういう教会の姿がこの手紙の背景にあると考えられます。
「主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。」この言葉も、教会の背景を念頭に読むと意味が深まります。主が私のために死んでくださった。その事実が私たちの生き方を方向付けます。それは、私たちが主と共に生きているからです。
主と共に生きる者の姿についてはこの手紙で再三にわたって言及されていましたが、手紙を終えるにあたって、パウロは象徴的にこのように言いました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて/神があなたがたに望んでおられることです。」美しい言葉です。しかしこれはただ美しいだけでなく、キリストを待つ者の姿として、神が美しくしてくださった者の姿です。キリストがいつ来られるのか、それは私たちには分かりません。まるで盗人のように突然やってくる。しかし、パウロは言います。「しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなた方を襲うことはありません。」キリストが来られる日は、光の子とされた私たちにとっては喜びの日だからです。だから、私たちはいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝します。キリストを待ち望む者を平和の神ご自身が全く聖なる者として、霊と心と体とを完全に守ってくださることでしょう。私たちは、やがてキリストに相まみえる。その日を待ち望みつつ、今日という一日の営みをなしていきます。

2020年9月18日金曜日

2020年9月18日(テサロニケの信徒への手紙一4)

テサロニケの信徒への手紙一4
「きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々にように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。」
眠りに就いた人たちについて、希望を持ってほしい!使徒パウロは私たちに訴えます。希望がなければ、死はただ悲しむよりほかありません。死で終わってしまうことのない希望、死を超えた希望がなければ、嘆き悲しみしか残らない。しかし、私たちには死で終わってしまうことのない希望があるとパウロは言います。
イエスが死んで復活された。その事実が、私たちの揺らぐことのない希望に他ならない。なぜなら、「神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出して」くださるからです。イエスと共に導き出してくださる。それについて、続けてこのように言います。「合図の号令と、天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。」私はこのラッパの音のイメージが大好きです。ヘンデルのメサイアの中にこの場面の曲があります。ラッパが鳴ります。私もできることなら、いつか礼拝にラッパを取り入れたいと願っています。ラッパの合図が鳴ったときに起こることは、すでに眠りに就いている者も生きている者も、キリストと出会うということです。主が私たちに顔と顔とを合わせて出会ってくださる。私たちはそこで先に眠りに就いた者たちとも会えるのでしょう。ただ再会を喜ぶということだけではなく、何よりの幸いは共にキリストの御前に出るということです。私たちはキリストの前に呼び出される。「こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」
そして、パウロは言います。「ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。」私たちには、必ず共に主の前に導き出される日が来る。私たちの愛する者たちと、主の御前で再会することもできるでしょう。あるいは、私たちが憎んでいたり私たちを憎んでいる人とも、再会することになると思います。しかし、主の御前での再会です。新しい関係をそこで頂くことになるに違いない。大切なのは、主イエスさまに共にまみえるということです。主にあって私たちの関係も新しくして頂ける。そして、主の御前に共に導き出されるという出来事は、私たちはもうすでに主の日の礼拝の度に経験していることでもある。私たちは礼拝の時に、主にある希望を先取りしています。

2020年9月17日木曜日

2020年9月17日(テサロニケの信徒への手紙一3)

テサロニケの信徒への手紙一3
「それで、きょうだいたち、私たちは、あらゆる困難と苦難の中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められました。あなたがたが主にあって堅く結ばれているので、私たちは今、安心しています。私たちは神の前で、あなたがたのことで喜びに溢れています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神に献げることができるでしょうか。」
パウロは、今、困難と苦難の中にあると言っています。3節を見ると「このような苦難の中で、動揺する者が一人もいないようにするため」と言っています。パウロが遭っている苦難を知った教会の人たちが動揺し、つまずいてしまうかも知れないと心配し、配慮をした言葉なのでしょう。2:18では「そこで、あなたがたのところに行きたいと願いました。ことに、私はパウロは何度も行こうとしたのですが、サタンが私たちを妨げました」と言っています。パウロが再びテサロニケに行きたいと願っていたけれども、実現できなかった。パウロはそれはサタンの妨げであったと言います。具体的に何があったのか。パウロの体調が悪化したのか、迫害などのほかの外的な要因のために行動が制限されていたのか。いずれにしても、それはパウロ自身にとっても厳しい現実であったはずです。
しかし、今やパウロは慰めを受けている。それは、他ならぬテサロニケ教会の信仰によって受けた慰めだとパウロは言います。彼らが主にあって堅く結ばれているから。その様子を知って、「私たちは今、安心しています」と言います。この言葉には聖書協会共同訳の訳注が付いていて、直訳すると「生きています」という意味だそうです。テサロニケ教会の兄弟姉妹が主にあって堅く結ばれていることを聞き、その事実を慰めとして今生きている。パウロはそう言います。
その思いは私にもよく分かります。私は、コロナのことで教会堂での礼拝を中断せざるを得なかったとき、同じことを繰り返し考えていました。私たちは心ではつながっていても、時には体が離ればなれにならざるを得ないこともあります。しかしそれでもあの兄弟が、あの姉妹が信仰を持って生きている。その事実は私にとっての計り知れない慰めでした。教会の仲間がいるから、辛い時代を生きることができる。
教会の兄弟姉妹は、私たちにとってかけがえのない宝です。その存在が私たちにとっての慰め、励まし、神様が与えてくださった力です。

2020年9月16日水曜日

2020年9月16日(テサロニケの信徒への手紙一2)

テサロニケの信徒への手紙一2
「きょうだいたち、あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでした。それどころか、知ってのとおり、私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。私たちの宣教は、迷いや不純な動機から出たものでも、策略によるものでもありません。私たちは神に認められて福音を委ねられたので、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。知ってのとおり、私たちは、こびへつらったり、口実を設けて貪ったりはしませんでした。それは、神が証ししてくださいます。」

パウロは、何よりもまず神様との関係の中で物事を判断する人なのだと思います。人からどう思われるか、どう判断されるかということを基準にするのではなく、あるいは自分の達成感や徒労感というところではなく、あくまでも神様が自分をどう御覧になるかという点を大切にしました。
私があなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでしたと言っています。もしかしたら、外面的に見ると無駄に見えるような事情があったのかも知れません。しかしそれが無駄ではないと断言できるのは、テサロニケに教会が生まれ、福音の言葉を聞いた人がいるからであるのだと思います。どういう事情があるにせよ、神様から御覧になって、福音を聞き信じる者がいるという事実に意味があるということへの確信があったのではないでしょうか。
パウロがテサロニケに神様によって遣わされたように、私たちも、今日私たちが生きる場所へ神様によって遣わされています。それぞれの場所で、私たちは今日、神様が私たちに預けてくださった業をします。私たちはそれを迷いや不純な動機からすることもできますが、人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んで頂くためにすることもできます。私たちにとって、外面的に見て有利な状況も不利な状況も起こりえます。しかし、それに惑わされることなく、私をここに遣わしてくださったのは神様だということを信じ、それを基準に、今日という日を過ごしてみましょう。私たちがいるのが神に遣わされた場所であるのならば(そして事実そうなのですが)、そこにはキリストが共にいてくださり、私たちが神に喜んで頂くために献げる業を神様ご自身が御心に留めて喜び、神様からの報いを与えてくださることでしょう。

2020年9月15日火曜日

2020年9月15日(テサロニケの信徒への手紙一1)

テサロニケの信徒への手紙一1
「私たちは、祈りの度に、あなたがたを思い起こし、あなたがた一同について、いつも神に感謝しています。あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っています。」
テサロニケはエーゲ海を臨むマケドニア州の町です。第二次宣教旅行の時、パウロとシラスがこの地を訪れて伝道し、教会が生まれました。パウロはこの教会を覚え、彼らのために祈り続けていました。祈りの度にテサロニケ教会のことを思い起こし、神に感謝したと言います。パウロの祈りは、テサロニケ教会のためだけではなく、この手紙を回覧して読むほかの教会の人々のための祈りでもあったのではないかと思います。そうであるとすれば、この祈りはこの手紙を今読んでいる私たちのための祈りでもあるのではないでしょうか。
「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。」私たちのための祈りです。あまりにも光栄な、もったいないような祈りです。しかし、キリストの教会というのは、こういうところなのだと私は信じています。キリストの愛がここに実っている。それは私たちの心がけや努力の賜物であるというのではなく、ここで神様が生きて働いてくださっているから、私たちはその神のお働きの実りにあずかっていると信じてよいのではないでしょうか。
パウロはこのようにも言います。「神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」私も、この点について確信を持って同じように言いたい。私は、皆さんが神に選ばれていることを知っています。洗礼を受けたというのはそういうことです。あるいは洗礼を受けたいと願うのは、そういうことです。私たちは神に選ばれて、信仰に導かれて、今生きている。だから、私たちはこの神の選びを無下にしてはいけません。それは選んでくださった神様に失礼です。神を礼拝し、神様の御前に身をかがめて、私たちは生きていく。主イエス・キリストが再び来てくださるその日まで。私たちはキリストを待ち望みつつ、今日という一日を選ばれた者として生きていきます。

2020年9月14日月曜日

2020年9月14日(コロサイの信徒への手紙4)

コロサイの信徒への手紙4
「ラオディキアのきょうだいたち、および、ニンファと彼女の家にある教会によろしく。この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるようにしてください。また、あなたがたもラオディキアから回って来る手紙を呼んでください。アルキポには、『主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように』と伝えてください。」
パウロが書いた数々の手紙は、コロサイの教会で読まれ、ラオディキアの教会で読まれ、あるいはエフェソ、ティアティラ、ベルガモン、スミルナ、コリント、・・・など、いろいろな場所にある教会に回され、そこで読まれ、多くの信仰者を生み出してきました。この手紙は座間でも、ルイビルでも、ジョタカでも読まれ、私たちに福音の言葉を響かせています。逆に、すでにラオディキアで読まれている手紙をも、あなたたちにも読んでほしいとパウロは言いました。この手紙は私たちの手もとにまでは残されなかった未知の手紙なのか、あるいは新約聖書の中に収められている別の手紙なのか・・・。それは知るよしもありませんが、しかし、私たちが受け取っているのと同じ福音を証しするものであることは間違いありません。
キリスト教会は、言葉を伝達することによって生きてきました。福音の言葉を伝えることが教会の使命です。だから、パウロは言います。「私が語るべきしかたで語って、この秘儀を明らかにすることができるように祈ってください。」神の秘儀である主イエス・キリストの福音を、私が語るべきしかたで語ることができますように。パウロの祈りはそこに尽きます。私も、牧師の末席を汚すものとして同じ祈りを祈っています。そして、どうか私のためにも、語るべきしかたでこの秘儀を語ることができますように祈ってください。福音の言葉。それが私たちの命です。
この後も、私たちはまだしばらく新約聖書に収められた書簡を読み続けます。私たちがキリストの福音に聞くようにと神が与えてくださったこれらの書簡に耳を傾け、神の秘儀によって命を与えられる喜びに、私たちは生き続けていきます。

2020年9月13日日曜日

2020年9月13日(コロサイの信徒への手紙3)

コロサイの信徒への手紙3
「さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」
第3章はこの言葉から始まっています。「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさいそこでは、キリストが神の右の座についておられます。」キリストが神の右にある上のものを求めて生きる。それは、消極的な言い方をすれば「淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」を殺すということだと言います。そのようなことに心を注いで生きるのではなく、上にあるものを求めて生きる。それが積極的な言葉で表せば愛であり、キリストの平和であり、感謝なのだ、ということではないでしょうか。
自分を満足させて生きるのか、神様に喜んで頂くために生きるのか。ただ、そうは言っても、自分の肉欲が絶対的に正しいとはいわずとも、肉欲を殺すとなると大変なことです。上にあるものを求めて生きるよりも、下にあるもので満足して生きることに傾きがちです。そうなると、愛やキリストの平和、感謝と言ったことが、現実とは違う美辞麗句に堕してしまう・・・。
私たちの口は汚れている。それは紛れもない事実です。しかし、その口に、神様は賛美を授けてくださいました。私たちは神様を求めるよりも、自分の欲望を優先させてしまう。しかし、神様は、そんな私たちが神に礼拝を献げることを許してくださいました。だから、この言葉が私たちを解放する自由への道標です。「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」
これこそ、礼拝で起こっている現実ではないでしょうか。キリストの言葉を語り合い、分かち合い、神に感謝の祈りを捧げ、神を賛美する。詩と賛歌と霊的な歌と言います。それぞれどういうものを指しているのでしょうか。パウロの時代のいろいろな賛美歌のジャンルでしょうか。何にしても、ここに私たちが今日ささげる賛美歌を加えることは許されるでしょう。私たちはキリストに礼拝を献げるとき、紛れもなく上なるお方を求め、心を高く上げて、神に向かって生きているのです。その恵みの時へ、私たちは今招かれています。

2020年9月12日土曜日

2020年9月12日(コロサイの信徒への手紙2)

コロサイの信徒への手紙2
「神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。こうして、神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものになさいました。」
古代の世界では、戦争に勝った国は相手国の国王や大臣などを捕虜として捕まえ、自国への凱旋行進に従えてさらし者にしたのだそうです。戦争に敗れるとそれまでの秩序は崩壊し、すべて新しい支配者の言うがままにならざるを得ません。主権はもはや以前の支配者にはなくなり、新しい支配者に移ってしまう。
それとちょうど同じことが、私たちとキリストとの間に起こったのだ、とパウロは言います。「神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものになさいました。」この「勝利の行進」という言葉に、聖書協会共同訳は訳注をつけて「凱旋式に引き連れて」としています。キリストという新しい国王の支配下に入った私たちはキリストの凱旋式に引き連れられて、新しい支配者の手の中にいます。
この新しい支配者、王は、いかなる王なのか。それを知るためには、かつての私たちの支配者の正体を知る必要がある。かつての私たちの支配者は「数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を」もって私たちを支配します。数々の規則というのは、旧約の律法のことでしょう。ローマの信徒への手紙を読むと、このようにあります。「律法は罪なのか。決してそうではない。だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が『貪るな』と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。」律法によって機会を捉えた罪が、私たちを支配していた。私たちはかつては罪の奴隷だった。しかし、その支配をキリストが打ち負かした。それが、コロサイの信徒への手紙の現実認識です。
私たちを不利に陥れていた証文、罪状書きは、キリストと一緒に十字架につけられました。もうそれは破棄されてしまった。キリストが私たちを輝かしい勝利の下に勝ち取ったからです。私たちは罪に支配された罪の国の国民ではなく、キリストが支配する天の国の国民です。今や、キリストの勝利の凱旋行進に連なっているからです。

2020年9月11日金曜日

2020年9月11日(コロサイの信徒への手紙1)

コロサイの信徒への手紙1
「神は御心のままに/満ちあふれるものを/余すところなく御子の内に宿らせ/その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって/ご自分と和解させてくださったのです。」
コロサイの信徒への手紙は、宇宙的なイメージの広がりを持つ手紙であると思います。スケールが大きく、読む者の目を目の前のいろいろな出来事から一度引き離して、世界をお造りになった神様の広さに向けさせる言葉であると思います。
「万物は御子によって、御子のために造られた」と言います。なぜ、私は命を与えられて存在しているのか、なぜこの世界があるのか。歴史の中で多くの人が問い、それぞれに何らかの答えを紡ぎ出してきた問い。その問いへの答えがここにあります。神が、この世界の万物を御子においてお造りになった。万物を御子のためにお造りになった。だから、この私も、この世界も、御子のために、御子に向かって造られた。それが聖書の答えです。そして、その御子というのは一体どこにいるのかというと、「御子はその体である教会の頭です」と言う。ここに教会が登場しています。この世界が御子によって造られた、御子のために造られた、その御子は教会という体の頭として、私たちの間におられると言う。驚くべき言葉です。
私たちの教会は、小さな群れです。特に今のような状況下ではそのことを痛感させられます。しかし、この町に教会があって神を礼拝し、キリストのお体がここにあるということの意味は決して小さくない。この世界が造られた秘密がここにあるのですから。
この身この内に、神は満ちあふれるばかりのご自分の神性を宿らせ、神様ご自身がこの世界で生きて働いておられることを証しなさいました。これもまたスケールの大きな話です。神の神性が教会というキリストのお体において明らかにされている。何を意味しているのか?教会に、神が和解の福音を託してくださったという事実によってそれが現実化しています。教会は、キリストにある和解を福音として宣べ伝えます。キリストが十字架にかけられ、血を流した。この血が、神が私たちのために流された和解のための血だった。
「分断」を痛感しないわけにいかない世の中になりました。経済格差、世代格差、性別、政治信条、国籍、イデオロギー、社会的立場、好み、・・・ありとあらゆることで私たちは分断され、あるいは他者を自分から切り離して隣人を失っています。和解の福音が私たちには必要です。キリストにあって、神が私たちと和解してくださった。この良き知らせをこの世界に証しするために、私たちはキリストのお体として、この世界に派遣されています。この宇宙をお造りになった方が、今日あなたを和解の使者として派遣しておられます。

2020年9月10日木曜日

2020年9月10日(フィリピの信徒への手紙4)

フィリピの信徒への手紙4
「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」

主は近いのです!
これが私たちの生を規定する、喜びの源泉です。主は近い、主は近くにおられる。だから、私たちはどのようなときにも喜んで生きることができます。あらゆる苦難、悲しみ、困難の中にあっても、主は私たちの遠くにおられるのではない。むしろ、その艱難のかにこそ主はおられる。主がおられる場所を「天国」と言います。私たちは、もうすでに天の国に行き始めています。
主は近い!だから私たちは何事にも思い煩わされず、何者も恐れません。主が、私たちに向かって歩んできてくださっているから、主はすぐにも私のところに来てくださるから。あらゆる悪から、主が私たちを守ってくださいます。どのようなものも、キリストによって示された神の愛から私たちを奪い取ることはできないのです。
主は近い。それは、逆説的に言えば、まだ来ておられないということでもあります。ですので、「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません(3:12)」とも言っていました。だから、今はまだ悲しみがあり、失敗もあります。忍耐が必要です。しかし、主は近いのです。すぐ近くです。私たちはそのことを信じて、神が与えてくださる賞を受けるために、目標を目指してひたすら走ります。
信仰のマラソンランナーにとっての「走る」とは、祈り続けることです。神に感謝を献げ、祈りを捧げる。祈るとき、私たちは、実際的にキリスト者として生きることになります。今日、私たちは祈りをもって走りましょう。そうすれば、あらゆる知識を超えた神の平和によって、私たちは満たされることでしょう。私たちの今日のこの一日というちっぽけなものも、神のみ前にあって覚えられているのです。

2020年9月9日水曜日

2020年9月9日(フィリピの信徒への手紙3)

フィリピの信徒への手紙3
「そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなくて、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」
「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵として歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」

少し長い引用をしましたが、今日の御言葉は、聖書の言葉そのものの味わいが本当に素晴らしいと思います。私たちの生き方を問い返す言葉です。キリストの十字架に敵として歩んでいる者が多い、とパウロは涙ながらに訴えます。私たちにも、キリストの十字架に立ち帰れと叫びます。あるいは、キリストの十字架に敵対するこの世に倣うな、と警告します。むしろ、パウロを私たちの生き方のモデルにしたら良いと言うのです。
パウロはどうやって生きたのか。キリストを知って、キリストのゆえにすべてを失ったと言っています。かつてのパウロはファリサイ派の一員であり、教会の迫害者でした。使徒言行録を読むと、パウロが主イエスと出会って回心してキリストの使徒として生き始めたとき、今度はすぐにパウロ自身がファリサイ派からの迫害を受けるようになりました。かつての仲間から命を狙われました。パウロのは家柄も確かで受けた教育も高度であり、いわゆるエリート街道を生きてきた勝ち組でした。しかし、そういうこの世での評価を受けたあらゆる要因をキリストに出会ったがために失いました。パウロは、それらのものを惜しまなかった。むしろ、キリストを知る素晴らしさに比べれればゴミ屑に過ぎないと言うのです。
キリストの真実だけに頼って生きるパウロ。この私に倣ってほしいと言っているのだと思います。私たちの国籍は天にある。その天から、キリストが来て、私たちを救ってくださる。だから、後ろのもの、つまり人間的に自慢できるような経歴も、あるいは隠しておきたいような負の価値も、すべてを捨てて、キリストを目指して走り抜く。それが天に国籍を持つ天国人の生だとパウロは言うのです。

2020年9月8日火曜日

2020年9月8日(フィリピの信徒への手紙2)

フィリピの信徒への手紙2
「キリストは/神のかたちでありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ/へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ/すべての舌が/『イエス・キリストは主である』と告白して/父なる神が崇められるためです。」
これは、この当時の教会の賛美歌ではないかと言われています。新しい翻訳の聖書協会共同訳では分かち書きになっています。今やメロディは分かりませんが、初代の教会が礼拝で歌っていたであろう賛美歌を知ることができるというのは素敵なことです。私たちの今朝の賛美の心を、この賛美歌の言葉にのせて、神様に献げましょう!
主イエス・キリストのへりくだり。誰よりも高く、神の子であり、神ご自身でいらした方が僕になられました。僕の振りをしたとか、人間であることをこの世での仮の姿としたというのではなく、本当に人間の一人、僕の一人になってくださいました。
主イエス・キリストがまことの神の子でいらっしゃる、その神の子らしさ、神様らしさは、このへりくだりの中に発揮されました。主イエスは、そうしようと思えばいくらでもできたはずですが、石をパンに変えてご自分の空腹を満たそうとはなさいませんでした。私たちと同じように無力な人間の一人になられました。キリストは病を知り、肉体の弱さを知り、人間の精神の脆弱さをその身をもって経験なさいました。そういうへりくだったお姿に、キリストの神の子らしさがはっきりと現されています。神様は、高い天にいて私たちをただ眺める方ではなく、私たちのところへ下りてきてくださる方、私たちと連帯し、私たちと同じ苦しみや屈辱を味わってくださる方です。
その方が、従順のゆえに高められ、あらゆる名にまさる名を与えられました。神の右、神の一番近いところにおられます。そうやって、本当に人間らしいというのはどういうことかを示してくださっている。私たちは、神様に向かい、神様の側に生きるときにこそ、本当に私らしく、人間らしく生きることができる。そのことをキリストが身をもって示してくださいました。
キリストこそ、私たちの救いです。キリストこそ、私たちのための神のへりくだりです。キリストこそ、私たちのために神の右にあげられた、まことの人間です。このお方を賛美し、このお方を見つめながら、私たちは今日という一日を生きていきます。

2020年9月7日月曜日

2020年9月7日(フィリピの信徒への手紙1)

フィリピの信徒への手紙1
「私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。」
パウロの祈りの言葉が書かれています。パウロは実際に祈って、その祈りの言葉がそのまま書き取られたのでしょう。フィリピ教会のための祈りであり、私たちのための祈りであると読んで何ら差し支えないものです。
パウロは、私たちの愛のために祈ります。私たちの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになるように、と。この言葉がすでに驚くべきものです。愛が豊かになるために深い知識と洞察が必要だと言います。愛は気持ちの問題ではないし、燃え上がるような情熱が最後の力を持つというのでもない。知識と洞察です。以前、私の尊敬する牧師からこの聖書の言葉を示されて、言われました。愛には知識と洞察が必要だ。相手が何を喜び、何を悲しむのか。あるいはなぜこのようなことを口にし、あのような行動をしているのか。そういうことをよく見て、相手を知り、言葉にならない言葉に耳を傾け、相手の心を想像する力が必要だ。だから、愛する力は想像する力であり、思いやりのことだ。私にとっては、忘れることのできない言葉です。
私たちの愛の実りは、キリストの日に問われます。キリストの前で、私たちの隣人への愛を問われる。キリストの前に責められるところのない愛。キリストによって与えられる義の実に満たされた愛。
そのように言われると、怯んでしまいます。しかし、大事なことは、このパウロの言葉が祈りであるということではないでしょうか。神が私の内に愛の実りを結んでくださるのです。昨日まで読んでいたガラテヤの信徒への手紙では、第5章で、愛を聖霊が私たちの内に結ぶ実りと呼んでいました。神様ご自身が、この私の内に、愛の実りを結んでくださるのです。だから、私たちは神の結んでくださる愛の実りをもって、ただ神を賛美します。神を崇め、神を礼拝します。そこでこそ、愛が完成するからです。

2020年9月6日日曜日

2020年9月6日(ガラテヤの信徒への手紙6)

ガラテヤの信徒への手紙6
「肉において見栄を張りたい人たちがあなたがたに割礼を強いています。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。実際、割礼のある者自身、律法を守っていないのに、あなたたがたに割礼を望んでいるのは、あなたがたの肉を誇りたいからです。しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。」
パウロは言います。イエス・キリストを通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。この手紙の第2章19節には「私はキリストと共に十字架につけられました」と書かれています。十字架につけられたというのは、そこで死んだという意味でしょう。私はキリストと共に十字架につけられて、世界に対して死んだ。それだけではなく、世界もその時私に対して死んだ。だから、この世界に対して見栄を張るために、私は今や生きてはいないとパウロは言います。
見栄を張りたいというのは、本当に厄介な感情です。自分を大きく見せたい、実際の自分よりも偉大に見せたい。見栄というのはそういうものだと思います。この手紙でずっと問題として指摘されてきた割礼も、結局は見栄にすぎないとパウロは言います。人からよく思われたいだけ。しかも、割礼を望んでいるのはガラテヤ教会の人たち自身ではなく、ユダヤ人サークルの中で誇りたいユダヤ人キリスト者だった。パウロは、そのような見栄から自由になろうと再三にわたってこの手紙で伝えてきたのでした。
割礼そのものは、日本の私たちの信仰生活の上では何の意味も持ちません。私たちにとってはユダヤ人や最初の世代の異邦人教会と同じ重みを持っていない。だから、全く同じ問題で悩んでいる人は、今の日本で生活をしているキリスト者には恐らくいないでしょう。しかし、同じ本質を持った事柄は、常に私たちに問われているのだと思います。今日の箇所では「見栄」と言っていましたが、私たちの「プライド」には、私たちをキリストの福音から引き離してしまうことがあるのではないでしょうか。もちろん何の誇りもないということも不健全です。しかし、私たちにはキリストの十字架のほかには誇りとなるものがないのです。私には、私のために十字架にかかってくださったキリストがすべて。神が私たちをキリストにあって新しく造ってくださいました。神の子として生かされる新しい一日が、今や始まっています。

2020年9月5日土曜日

2020年9月5日(ガラテヤの信徒への手紙5)

ガラテヤの信徒への手紙5
「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』といいう一句において全うされるからです。互いにかみ合ったり、食い合ったりして、互いに滅ぼされないように気をつけなさい。」
今からちょうど500年前の1520年、マルティン・ルターという牧師が『キリスト者の自由について』という一冊の本を書きました。いろいろなところで日本語訳が出ているので、ぜひ読んで頂ければと思います。まさに名著です。この本は二つの命題から始まります。ルターはこのように言います。
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
 キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。
矛盾するこの二つの命題が、キリスト者の自由についての急所を言い表しています。キリスト者は、自由な主人です。何ものにも服さない。誰の奴隷でもない。神の子としての自由に生きます。しかし、いや「だからこそ」というべきでしょう、キリスト者はすべての人の奴隷であって、誰にも仕える。この二つが同時に成り立つところに、聖書が語る自由の秘密があります。
それは、今日私たちに与えられている聖書の御言葉の主題でもあるのだと思います。私たちは自由へと招かれました。キリストが招いてくださいました。キリストが私たちを自由にしてくださったのは、それによって私たちが自分を満足させるためではありません。自分の欲望をかなえたり、自分一人が勝手に豊かになったりするための自由ではありません。私たちは、隣人のために自由にされました。キリストは、私たちに隣人を愛するための自由を与えてくださったのです。
思えば、それはキリストご自身が得ておられた自由です。キリストは神の子として、何でもすることがおできだったでしょう。荒れ野で悪魔に誘惑されたときも、石をパンに変えたり、高いところから飛び降りたり、世界中の栄華をご自分のものにすることだってできたはずです。しかし、キリストはそうなさらなかった。それでは私たちの救いにならないからです。私たちを救うためには、ご自分が十字架にかかるしかなかったから、キリストは私たちを愛するために、私たちに仕えてくださいました。キリストは、そうやってご自分の自由を発揮してくださったのです。
私たちも、神の子の自由に生きるように招かれています。自由な神の子であるキリストの御業は、私たちの内にすでに始まっています。

2020年9月4日金曜日

2020年9月4日(ガラテヤの信徒への手紙4)

ガラテヤの信徒への手紙4
「あなたがたが子であるゆえに、神は『アッバ、父よ』と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。」
私たちはキリストの真実によって救われた。わたしたちは救われた。言葉を換えれば、私たちは神の子にして頂いたということです。キリストによって私たちが救われる喜びは、神を「私の父、私たちの父」とお呼びすることができる喜びです。私たちはキリストの真実によって、神を父と呼ぶ喜びにあずかっています。私たちは祈るときに「父なる神様」と祈ります。たった一言私たちがそう祈るとき、そこでは、キリストの霊が私の内にいて神様を「父よ」とお呼びしているということに他ならない。しかも「アッバ、父よ」とパウロは書いています。「アッバ」は幼児が父を呼ぶときの言葉です。そういう本当に親しい思いを込めて神様をお呼びしている。それが、信じる喜びなのです。
私たちが実際に祈りの中で神様を「父」とお呼びしているという事実は、私たちが神の子であることを証明しています。子であるならば、奴隷ではありません。かつてはそうではありませんでした。かつて、私たちは神ならぬものの奴隷だった。不自由でした。この世で価値ありとされているものには私たちを奴隷にする力があります。この手紙では具体的に割礼の話が出てきていました。割礼は律法に命じられた儀式ですが、同時に、ユダヤ人の民族性の象徴でもあります。ユダヤ人の割礼へのこだわりは、出自へのこだわりでもあります。ユダヤ人であるということが彼らの誇りだった。そして、異邦人社会に福音が宣べ伝えられたとき、その民族性と異邦人伝道とが衝突しました。それがガラテヤ教会で起きたことです。異邦人キリスト者に、ユダヤ人になることを求めたのです。それでは割礼の奴隷、律法の奴隷、民族性や誇りの奴隷です。キリストがご自身の真実によって自由にしてくださった異邦人キリスト者を、また別の神ならぬものの奴隷にしてはならない。それがパウロの主張でした。
私たちは自由です。神を信じて自由にして頂きました。その事実は、私たちが神を父と呼ぶ祈りの言葉にすでに現れている。真理は私たちを自由にします。「父よ」という祈りの言葉は自由のしるしです。自由な神の子として、私たちは今日という新しい一日に出発していきます。

2020年9月3日木曜日

2020年9月3日(ガラテヤの信徒への手紙3)

ガラテヤの信徒への手紙3
「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきり示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。あなたがたにこれだけは聞いておきたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。」
ああ、愚かなガラテヤの人たち!パウロの悲痛な叫び声です。十字架につけられたキリストを見失ってしまったガラテヤ教会の人たちを必死にキリストの恵みの元に連れ戻そうと、涙ながらに訴えます。
キリストの恵みから外れてしまったというのは、他の宗教に宗旨替えしたとか、キリストを憎んでいるということではないと思います。キリストを信じているつもりでありながら、律法の行いに頼っているという事実が、十字架のキリストを見失っていることに他ならないとパウロは言います。私たちはただキリストの真実によって救われた、ただ神の恵みによってのみ救われた。それなのに、どうして自分の行いによって仕上げようとするのか、とパウロは訴えます。
パウロの訴えは、そのまま、私たちへの訴えであると思います。自分なんか偽物のクリスチャンだ、自分の信仰なんてちっぽけで価値がない、自分には聖書が言っているような立派な信仰者にはなれない、自分はあの人のようになれない、頭では分かっていても結局自分はクリスチャンらしい生き方なんてできない・・・それはすべて律法の行いに頼る言葉です。十字架にかけられたキリストを見失っています。
私たちは、私たち自身によいところがあったから救われたのでしょうか。私たちは、立派になれる素質があったから信仰に導かれたのでしょうか。私たちは、ちゃんとできるからキリストと出会い得たのでしょうか。違います。私たちは、ただキリストの恵みによって、キリストの真実によって救って頂きました。キリストが救ってくださいました。だから、自分にこだわるのは間違いです。
キリストは十字架にかけられて殺されました。木の十字架です。旧約聖書には「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあります。キリストは呪われました。呪い殺されました。キリストはご自分が呪いになって、「行い」という呪いから私たちを救ってくださったのです。
主イエス・キリストの真実が、私たちを救ってくださいました。その事実が私たちのすべてです。キリストはあなたを愛し、あなたのためにご自分を献げてくださったのです。

2020年9月2日水曜日

2020年9月2日(ガラテヤの信徒への手紙2)

ガラテヤの信徒への手紙2
「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによってではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義として頂くためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」
この言葉の背後にある一つの出来事は、ケファ(シモン・ペトロのこと)とパウロとを巡る一つの事件です。アンティオキア教会での出来事です。ここは異邦人伝道の拠点になった教会であり、この教会自身、異邦人とユダヤ人とが共に共同体を形成していました。ケファがこの教会を訪ねたとき、最初彼は異邦人と一緒に食事をしていたが、その後ユダヤ人が来ることを知って彼らの目を恐れ、異邦人から身を引いてしまった。それを見たパウロは公然とケファを非難した。そういう事件です。
これは単に失礼だとか、ユダヤ人に対して弱腰だとか、そういうことではすまない問題が潜んでいるとパウロは見抜きました。従来、ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしません。ではユダヤ人か異邦人かの区別をどこでするのか。役所に行って戸籍をつくるとか、ユダヤ人として登記するとか、そういうことではない。ユダヤ人の条件は、割礼を受けていることです。割礼を受けることで律法を満足させる。それがユダヤ人の条件であり、神の民になるただ一つの方法でした。パウロはそこに福音を歪める問題があると見抜いていました。だから、ケファという主イエスの一番弟子であり教会の第一の指導者を相手にしたとしても、公然と非難しないわけにはいかなかったのです。
私たちは、律法の行いによって神の民になるのではありません。それか、割礼という目に見える徴によってユダヤ人という仲間意識を深め、同質性を深めることでサークルに入るのでもない。ただ神の恵みによってだけ、私たちは神の民に加えられる。私たちは、ただイエス・キリストの真実によって救われるのです。
イエス・キリストの真実によって。新共同訳では「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と翻訳していました。聖書協会共同訳ではイエス・キリストの真実によって義としていただく、と訳が変わった。文法上はどちらも可能です。しかし、ここ数十年の研究を踏まえ、イエス・キリストの真実によって、と訳文が変わった。私たちは、自分の信仰によってさえも、自分を救うことはできません。ただキリストの真実だけが私を救ってくださるのです。
だから、私たちもキリストの真実により頼んで、パウロと共に告白します。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」キリストの真実が、私たちの人生に「今日」という新しい一日を加えてくださいました。この一日を生きるのは、私の内に生きていてくださるキリストです。

2020年9月1日火曜日

2020年9月1日(ガラテヤの信徒への手紙1)

ガラテヤの信徒への手紙1
「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、私と共にいるきょうだい一同から、ガラテヤの諸教会へ。」
パウロは、人々に推薦されて使徒になったわけではありません。誰かがパウロの後ろ盾になって、福音宣教者になったのでもない。ただイエス・キリストによって、そして、キリストを死者の中から復活させた父なる神とによって、使徒とされた。それがこのパウロという人です。
ある人がこういうパウロの自己認識は、まるで寒風吹きすさぶ真空の中に宙づりにされているようだと言っていました。真空なのに寒風が吹きすさぶというのはよく考えるとおかしいのですが、イメージとしては伝わるものがあります。何者にも頼らない。どこの権威にも寄りかからない。たった一人で、ただ神によって召されたという事実だけに立つ。それがこのパウロという人です。
この自己認識は強いと思います。パウロをご自分の使徒として召した神様は、私たちのことをも召してくださっています。私たちが今このように在るを得ているのは、ただキリストと、キリストを死者の中から復活させた神だけによるもの。私たちもパウロと同じように信じたいと思います。
このガラテヤの信徒への手紙は戦いの書簡です。何との戦いかと言えば、異なる福音との戦いです。異なる福音と言っても、何か別の福音があるわけではありません。ある者たちが福音と称して宣べ伝えている福音は、キリストの恵みから外れてしまった似て非なるものになりさがっている。具体的に言うと、割礼と福音との関係を問うています。詳しくは読み進めるとよく分かります。
いずれにしても、異なる福音に傾いてしまった人は少なくなかったようです。当時の教会指導者にも、その点での過ちを犯してしまった人はいた。だから、パウロは自分が誰かに推薦されたり、誰かに認められたからと言って使徒になったのではないと断言します。自分はただキリストの無償の恵みによって救われた。そのキリストが私のような者をご自分の使徒としてくださった。彼はその事実だけに集中します。
これからこの手紙を呼んで明らかになっていく異なる福音は、かたちを変えて私たちの回りにもあふれかえっていると思います。だからこそ、私たちは今朝パウロと共に立ちましょう。人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによってこのようにして頂いた私。寒風吹きすさぶ真空に宙づりにされる恵みに、私たちも招かれています。

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3 「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。 私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリ...