2018年10月31日水曜日

詩編第124編「主がわたしたちの味方でなかったなら」


エフェソの信徒への手紙は、私たちの敵は空中に勢力を持つ者、不従順の霊だと言う。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」との祈りがあるように、私たちを罪に引きずり込む悪の力は強い。「主が私たちの味方出なかったら、私たちに逆らう者が立ったとき」私たちは押し流されてしまう。しかし「主は私たちを敵の餌食になさらなかった」。そのことを覚え、主をたたえよう。私たちは悪の所有物ではない。神のものなのだ。

2018年10月28日日曜日

コリントの信徒への手紙一4:6-13「弱さへの招き」

1031日は宗教改革記念日です。今年で501周年。マルティン・ルターが95ヶ条の提題をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼り付けた日を記念しています。その第一の命題は「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」です。私たちプロテスタント教会の原点は悔い改めです。これは500年前の問題提起にとどまらず、今も私たちに問いかけます。私たちは、真実な悔い改めに生きているのでしょうか。今日の御言葉は、悔い改めなしに読むことはできないと思います。6節と7節で、新共同訳では「高ぶる」という言葉が連続しています。原文では別々の単語で、「高慢」と「誇り」といった意味です。「誇り」という単語の原義は「ふくれる」だそうです。大きく自分がふくれて高慢になり、他の人も神さまも見失ってしまう。神を忘れ、自分勝手に満足して、いつの間にか王さまになってしまうのです。
パウロはアポロと自分の話をします。二人とも牧師です。彼らがこの教会から別の場所に伝道に行った後、彼らを旗印に分派をつくるものが現れました。その高慢のために教会が混乱しました。パウロは、あなたたちは私たちを誤解していると訴えます。私たちは、キリストに仕える者(1節)。そんな私たちを見ていれば、「書かれているもの以上に出ない」(6節)ことが分かるはずだ、と言います。恐らく、ここまでパウロがこの手紙に引用してきた旧約聖書に書かれていることのことです。それらが示しているのは、十字架にかけられたキリストこそ神の知恵、ということです。つまり、パウロは、私たちは十字架のキリストに仕えているのだ、と訴えているのです。
この手紙は当時のギリシアの哲学(知恵)との対決の手紙です。その知恵は、結局のところ、誇り、満足、金持ちになること、王様のように振る舞うことを価値あるものとしていたようです。考えてみれば、これらは今私たちの世界を覆っている知恵と同じです。モノを消費することが豊かさであり、自分のことだけを考えられる自由が人間らしさであり、自己実現が最高の価値であったり、弱者やマイノリティは自己責任と切り捨てることが容認されます。でも、神の知恵はそうやって誰かを踏み台にして上に昇ることではありません。1節に「キリストに仕える者」とありますが、これは「船の一番下で漕ぐ人」という字なのだそうです。最下層の奴隷の仕事です。9節からのところでは、自分たちは死刑囚のようだと言います。闘技場で獣に食われる死刑囚、しかもそれを民衆が見物してはやし立てる。屈辱の死を迎える死刑囚。実際、パウロは投獄されたり鞭で打たれたり、最後は実際に死刑に処されました。でも、そうやって弱く、侮辱され、飢え、渇きながら、相手を祝福し、罵る人に慰めを語りました。パウロはその苦しみの中で知ったに違いありません。キリストが私のために弱くなってくださり、屈辱を受け、罵られ、それでも祝福を語り、受けることなく与え尽くして死んでくださったことを。だから、私たちの救いはここにあるのです。キリストの十字架がここに立っているから。私たちはこの方を仰ぎ見るのです。やはり、この言葉は悔い改めによってしか読めません。このような私を、主よ、救ってください。

2018年10月24日水曜日

詩編第123編「目を天に上げて」


祈りは、私たちの目を天に上げさせる。ふさぎ込んでいた顔が天を仰ぎ、息を吐き、吸うことができるようにさせてくれる。そこで私たちが目を注ぐのは、憐れみに満ちた神。僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、私たちは天におられる方の憐れみを待つ。神は、私たちが「天にまします我らの父よ」と祈ることを喜んでくださる。だから、誰に侮られ、嘲笑されても、私たちの目を天に向かって上げ続けよう。

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...