2019年4月30日火曜日

2019年4月30日(ヨシュア記18)

今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記18、詩編124~125

ヨシュア記18;
「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つの部族には所有地が割り当てられましたが、まだそれを得ていない七つの部族が残されていました。ヨシュアは彼らに向かって、いつまでためらっているのか、と問います。
もうすでに神が与えてくださった。そう信じて、足の裏でその地を踏みしめるために進んでいくべき地は目の前に広がっている。後は、信じて進んでいくだけです。この期に及んで、もうためらうべきではないのです。
今朝私たちに与えられている詩編は第125編でした。「主に信頼する人はシオンの山のように、揺らぐことなく、とこしえにとどまる。」ここでもやはり主への信頼を主題としています。主に信頼して一歩踏み出すことができる人は、山のように揺らぐことなくとどまることもできます。その急所は、主なる神様への信頼です。
私たちの生きている国は、今、揺れ動いていると思います。代替わりと改元フィーバーとでも言えばいいのでしょうか。世相が慌ただしく揺らいでいる。不安感が満ちていますが、それを覆い隠すようなお祭り騒ぎになっています。天皇を基とする時代区分は、私たちには何の意味も持ちません。それははっきりしています。私たちは明日からも同じ時代を生きます。私たちは「主の年(西暦を意味するA.D.はラテン語で「主の年」という意味)」を生きていきます。私たちは、主イエスが支配する天の国に国籍を持ちます。だから、この世界がどんなに揺れ動いても主を信頼し、揺れ動くことがありません。そして、主を信頼するから、恐れずに新しい一歩を踏み出します。ためらうことなく!

2019年4月29日月曜日

2019年4月29日(ヨシュア記16〜17)

今日の通読箇所:ルカによる福音書7:1~23、ヨシュア記16~17、詩編122~123

ヨシュア記16~17;
ヨセフの一族への土地の分配です。ヨセフ族にはヨセフの二人の息子、エフライムとマナセの名前で相続地が割り当てられました。その中でもマナセ族の一人であるツェロフハドには息子がいませんでした。家名を継ぐお世継ぎがいない。しかし、だからといってツェロフハドの家に相続地が分配されない、ということにはならなかったのです。
ツェロフハドの娘たちの名前が記録されています。「マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァ」。彼女たちはヨシュアら指導者たちのところに来て言います。「私たちも兄弟たちの間に相続地を与えるよう、主はモーセに命じておられます(17:4)」。これを聞いたヨシュアは、モーセの主の命令に従って、彼女たちの相続地を与えました。
私たちが聖書を読んですぐに気づくことは、聖書は、とても強力な父権社会を背景に描かれている、ということです。家名も土地も、家の男子が継ぐものでした。女性の名前が記録されていること自体が異例です。しかし、彼女たちは長いものに巻かれずに相続地を与えてくれるように主張しました。その根拠は「主はモーセに命じておられます」と言っているとおり、聖書の御言葉だったのです。
もしかしたら、表面的にしか聖書を読んでいないと、社会の常識や時代の精神、みんなの意見、雰囲気、そういうものに従ってしまい、主の御言葉に従うということが難しくなってしまうかもしれません。私たちは、どのように主の御言葉に聞き、これに従うのでしょう。私たちが最終的に従い、自分の生き方を決定づけるのは、神様の御言葉なのでしょうか。それとも、他の何ものかが我が物顔で私たちの上に君臨すのを許すのでしょうか?

2019年4月28日日曜日

コリントの信徒への手紙一第12章1から11節「賜物」


 4節に「賜物」という言葉があります。元々の言葉ではカリスマと言います。カリスマはすでに日本語になっています。カリスマ店員、カリスマ美容師と言えば、接客や美容の技術がずば抜けており、多くの人がその魅力を感じるということでしょう。カリスマがある政治家と言えば、人を惹き付ける強烈な個性と政治的実行力の持ち主でしょうか。いずれにしてもその人に備わる才能や魅力といった意味合いだと思います。しかし、本来のカリスマという言葉は、恵みの賜物という意味です。賜物、読んで字のごとく、賜った物。カリスマは英語の聖書ではgiftと訳されていますが、神に与えられたものということです。
 Iさんが亡くなりました。それこそカリスマに溢れた方でした。おからや水ようかんが絶品だったとよく聞きます。友の会では家計の先生だったそうです。Iさんは今から18年前に洗礼をお受けになりました。私は、彼女の存在自体が、この教会に与えられたカリスマそのものであったと思います。教会は神に与えられたカリスマで形づくられています。
 4から6節を見ると、私たちの賜物は多様だが、それを与えるのは同じ霊、同じ主、同じ神、と言葉を重ねています。霊、主、神。そこに、多くの人が三位一体を読み取ります。神は父、子、聖霊なるお方。そのように神を信じる三位一体の教理が言葉としてまとめられるのは、パウロの時代よりももっと後のことです。しかし、ここにはすでに三位一体なる神様のお働きが見えてきている。父なる神様は、この世界をつくり、私たちのために御子イエスを送ってくださいました。イエスは私たちと同じ人として生き、私たちに憎まれ、十字架の死を死なれました。神はこのイエスをそのままになさらず、死者の中から復活させられました。聖霊は、この父と子との愛の絆です。神さまご自身の、私たちとの豊かな出会い方、そのお働きの愛に満ちたすばらしさを、私たち教会が映し出しているとパウロは考えていたのではないかと思います。いろいろな人がいて、それぞれに賜物があり、しかし愛し合って互いを喜び、一つになるとしたら、それは神の恵みの奇跡です。教会自体が賜物です。
 しかし、教会はユートピアではありません。コリント教会が、すでに疵を抱えていました。貧しい人が遅れてくるのを待てずに食事を始めている。子どもでも分かるような過ちを犯していた。社会での貧富の差が持ち込まれ、教会の中でも力を振るっていました。傷つく者がいた。才能、能力、個性、生き方、身分、考え方、ありとあらゆるものが違う者たちが一緒にいきられるのは、なぜなのか?同じ神が下さった賜物だ、ということいがいには理由はありません。神さまが、私たちを一つの教会として結び合わせてくださるのです。
 私たちを一つにするというとき、その神さまの御業には軸があります。それが「イエスは主である」という告白です。私たちは、互いにこの告白に生きるために、一つにされているのです。この世界でキリスト告白に生きることは容易ではありません。近年その困難さが増しています。今社会は新しい時代を迎えると言って浮かれています。そこで同調圧力に踏みつけられている人もいます。私たちの主はだれなのでしょうか。私たちが一つにされているのはキリストを神と崇めるためです。

2019年4月28日(ヨシュア記14〜15)

今日の通読箇所:ペトロの手紙一1、ヨシュア記14~15、詩編120~121

ヨシュア記14~15;
土地の割り当ては、公平にくじによりました。「主がモーセを通して命じられたように、九つの部族とマナセの部族の半数の相続地はくじで割り当てられた(14:2)」。ここではその中でも特にユダ族に割り当てられた土地について記録しています。
その中でも特別な存在が、カレブでした。彼はかつてヨシュアや他の10人(10部族それぞれからの代表者)と一緒に、カナンの地を偵察に行きました。その地は飛べもすばらしい場所で、豊かな作物が実っていた。しかし、そこには自分たちより遙かに強くて大きな民がおり、とても適うとは考えられなかった。それで、偵察隊のうちの10人は、カナンの地に行くのはやめようと言い出した。ところが、カレブとヨシュアだけは、神の約束を信じて断然攻め込むべきだと主張します。人々はカレブとヨシュアの意見は無視し、他の10人の言うことを信じてしまった。そのことが原因で、この事件が起きたときにすでに成人していた者たちは一人も約束の地にはいることなく、荒れ野で死にました。神様は、神様を信じ従い通したカレブを祝福し、言ったのです。「あなたの足が踏んだ地は、とこしえにあなたと、あなたの子孫の相続地になる。あなたはわが神、主に従い通したからである(14:9)」。今、この約束が実行に移され、カレブにはヘブロンという名の土地が特別に与えられたのです。
神様がお喜びになったのは、主の約束をただまっすぐに信じるカレブの信仰です。神の恵みの約束がここに待っていると信じた。それがカレブの信仰です。そこにある神の恵みを信じるとき、その恵みは私たちの前に具体的な姿を取って現れてきます。私たちの常識や人生経験からの類推は、私たちが思っているほどには信ずべき価値があるわけではないのではないでしょうか。

2019年4月27日土曜日

2019年4月27日(ヨシュア記12〜13)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙1、ヨシュア記12~13、詩編119:161~176

ヨシュア記12~13;
第12章には、ヨルダン川の東側と西側、それぞれで占領した土地とそこを治めていた王たちの名前がとても丁寧に記されています。その名前の一つひとつが、イスラエルの人々にとっては、神様の力強い御業を思い起こさせるものだったのでしょう。ヨシュアたちの時代の後、やがてヨシュア記がこのように書かれる時代、今やイスラエルの領土なっている土地の名前やそこをかつて治めていた王たちの名前を記録しながら、自分たちの力だけでは到底なしえなかった事柄について、神様が力を与え、なさしめてくださったことを思い起こしていたのではないでしょうか。
第13章では、冒頭このようにあります。「ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。『あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。残っている土地は次のとおりである。・・・あなたはただ、私が命じたとおり、くじを引いて、それをイスラエルの相続地として分けなさい』」(1,2,6節)。まだ、ヨシュアたちが足の裏で踏むべき場所はたくさん残っています。なお、ヨシュアは民の先頭に立ってそこに出て行って進め、と言われます。それはすでに年を取っていたヨシュアにとって、もしかしたら喜ばしい命令ではなかったかもしれません。しかし、神様はなおヨシュアを用いようとなさいます。
神様の力に頼り、またその導きに従って進むとき、自分自身の予想とは違う仕方で、神様は私たちを用いてくださいます。なお神のご命令は、意味を持ち続けている。私たちの足の裏踏むべき場所はまだ残っている。その神様の御業の幻を追い求めて、私たちは今日も進むことができるのです。

2019年4月26日金曜日

2019年4月26日(ヨシュア記10〜11)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一15:29~58、ヨシュア記10~11、詩編119:145~160

ヨシュア記10~11;
ヨシュア記は戦争の記録であり、土地取得の記録です。土地取得というのは、神が与えると約束なさったカナンの地です。しかし、そこにはすでに住んでいる人たちがいました。ですから、土地取得というのは、戦争でそれを奪い取るということです。今朝の箇所ではそれがより明確であったと思います。
こういう記事を読むと、ある人は聖書は戦争を正当化していると考えるかもしれません。もっと言えば、自分たちがしている戦争を正当化するために、聖書のこういうところを利用するような人も出てくるかもしれないのです。
しかし、いくつか注意すべきことがあると思います。一つには、当然のことですが、聖書は現代の政治的・地政学的・軍事的などいろいろな状況を全く前提としていないということです。私たちの時代のニードを押しつけることは慎まなければならないと思います。もう一つは、これと関係することではありますが、聖書には聖書の伝えようとするメッセージがある、ということです。それを語るための記述だということをわきまえておきたいと思います。
今朝の所では、イスラエルの戦いについて、このように言っています。「主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった(11:15)」。これがここでのメッセージであるのだと思います。ヨシュアは、神がお命じになったことに忠実に行いました。しかも、独自に神秘的な仕方で神の命令を聞き取ったというのではなく、モーセからそれを伝えられていた。信仰の先達の言葉に導きに忠実であったのです。ヨシュアたちはそれを戦争という危機のときにも、あるいは危機のときであるからこそ、神様に忠実に生きました。私たちの人生の導きは、一体何でしょうか。神様は、私たちがご自分に従うことを待っておられます。

2019年4月25日木曜日

2019年4月25日(ヨシュア記8〜9)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一15:1~28、ヨシュア記8~9、詩編119:129~144

ヨシュア記8~9;
なんとも奇妙な話です。ヨシュア記第9章です。ギブオン人らは破竹の勢いで向かってくるイスラエルに恐れをなし、策を講じました。イスラエルの指導者ヨシュアの下に降伏しましたが、その際に嘘の情報をだし、自分たちは遠くに住むものでイスラエルが責めるべき存在ではないと騙したのです。ヨシュアたちはそれを信じ、彼らを受け入れました。「人々は彼らの食料の一部を受け取ったが、主の指示を求めることはしなかった。ヨシュアは彼らと和平を結び、彼らの命を保証する契約を結んだ(14~15節)」。
ところが、すぐにギブオン人らが嘘をついていたことに気づきます。そうとなれば彼らを敵と見なして攻め上るべきなのか?何しろ、申命記ではカナンの地にいる先住民について、「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたが彼らを討つとき、必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない。彼らと契約を結んだり、彼らを憐れんではならない(申命記7:2)」と言われていたのです。正確に言えば滅ぼすべき民のリストにエブス人は入ってはいませんが、それにしても主なる神様の指示を仰ぐこともなく勝手に契約を結んだというのは褒められたものではないでしょう。
それなのに、自分たちがよく確認もせず、主に問うこともなく、騙されたとはいえ軽率に契約を結んだことが判明したとき、彼らは言いました。「私たちのはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちのなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。私たちが彼らに誓った誓いのゆえに、私たちの上に怒りが下ることはないだろう(19~20節)」。そして実際に、特に彼らがこのことで軽率な近いの罰を受けるようなことはなかったのです。なんとも奇妙で、不思議な話ではないでしょうか。
この話は、誓いの重さを伝えているのではないでしょうか。主の御名によって誓うことは、他の何にも優先されるほどに責任あること。軽々しい約束をしてはならないのだと思います。自分の口から出てくる言葉をそのような視点から顧みてみると、恐ろしくなります。私が今日、軽々しい言葉を口にしてしまわないように・・・どうか主よお守りくださいと祈りつつ一日を始めたく思います。

詩編第149編「主が、喜んでくださるから」


「主は御自分の民を喜び、貧しい人を救いの輝きで装われる。主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み、伏していても喜びの声をあげる。」この詩編の何と喜びに満ち、光り輝くような言葉であろうか。しかしそれに先だって、主ご自身がその民を喜んでいてくださる。何という光栄であろう。私たちの喜びは主の喜びの反映なのだ。主がその慈しみに生かしてくださっている。だから、私たちは伏しているときにさえも喜びの声をあげるのだ。

2019年4月24日水曜日

2019年4月24日(ヨシュア記6〜7)

今日の通読箇所:使徒言行録1、ヨシュア記6~7、詩編119:113~128

ヨシュア記6~7;
アカンは、罪を犯してしまいました。エリコとの戦いに、主の不思議な導きによって大勝利を収めたイスラエル。高い城壁は、主の御言葉に従って城壁の周りを七日間かけてぐるぐる回り、最後の日に皆で鬨の声を上げたときに崩れ去ってしまった。本当に不思議な、そして力強い神様の道からを経験したのです。その町との戦いで奪ったぶんどりものは、すべて神様の取り分として、滅ぼし尽くすようにと命じられていました。イスラエルの人たちは皆それに忠実に従いました。「こうして、町とその中にあるすべてのものは火で焼き払われた(6:24)」。
ところが、アカンはその点で不忠実でした。彼の犯したことが発覚し、彼は告白します。「戦利品の中に、美しいシンアルの外套が一着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ棒が一本あるのを見て、私はそれらが欲しくなって取りました(7:21)」。アカンを襲ったこの貪欲の誘惑。このような思いから自由な人が、一体どこかにいるのでしょうか?
エリコは、本当に不思議な神様の御力によって勝利を収めた戦いです。神様の御業を目撃していても、なお貪欲の罪から自由になることができない。そういう私たちの性根が、この一人の人を通して現れているのだと思います。
「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え」。主は、この祈りを私たちに教えてくださいました。私たちにとって、本当に切実に必要な祈りです。主イエス・キリストの御前にふさわしくない私。主よ、救ってください。主よ、憐れんでください。主の御前に、今日も新しい思いで主の祈りを祈りたい。そう願います。

2019年4月23日火曜日

2019年4月23日(ヨシュア記4〜5)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:15~25、ヨシュア記4~5、詩編119:97~112

ヨシュア記4~5;
「彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中で祭司たちが足を止めてたっていた場所から十二の石を取り、それを持って来て、今夜あなたがたが夜を過ごす場所に据えなさい(4:3)」。何のために、そのようなことをするのか。「将来、子どもたちが、『これらの石は何ですか』と尋ねたなら、こう答えなさい。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。これらの石は、とこしえにイスラエルの人々の記念となる』(7節)」。主がしてくださった大いなる御業の記念として、この石を立てておけということのようです。
これは、私たちにも大事な示唆を与えてくれる出来事だと思います。私たちは今何かの建築物を主の御業の記念とはしません。私たちの何よりの記念は、聖餐です。「私の記念としてこのように行いなさい(一コリント11:24)」。聖餐を祝うたびに、私たちはキリストを記念し、その体と地を味わいます。信仰は、ある意味では、記念することです。思い出すことです。何を?神がしてくださったすばらしい御業を。主イエス・キリストの十字架と復活を思い出し、これを記念して心に刻む。そうやって、新しくそれを味わい続ける。それが信仰の営みです。
神の御業を記念しつつ、この足の裏で新しい地を踏みしめるとき、私たちは過去だけではなく将来に待つ神の御業を目撃することになります。ヨシュアがエリコにいたとき、抜き身の剣を手にした人がいるのを見ました。その人は主の軍勢の長であると言います。彼はヨシュアに言いました。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である(5:15)」。これから私が進んでいこうとする場所は、もうすでに神のものであり、神の聖なる場所。今日、私たちが進んでいく所もまた神の聖なる土地です。永遠に記念すべき神の聖なる御業は、今日、私たちが進む先でも行われています。

2019年4月22日月曜日

2019年4月22日(ヨシュア記2〜3)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書21:1~14、ヨシュア記2~3、詩編119:81~96

ヨシュア記2~3;
受難週が挟まりましたが、今日からまた旧約聖書ヨシュア記に戻ります。ヨシュア記の主題は第1章に出てきていました。「私はモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとく与える。あなたはただ、大いに強く、雄々しくありなさい。私の僕モーセがあなたがたに命じた律法をすべて守りなさい。そこから右にも左にもそれてはならない(1:3,7)」。神さまは、ヨシュアたちがその足の裏で踏む所をすべて与えてくださる。だから、それを信じて、聖書を羅針盤として実際に踏み出し、進んでいく。それがヨシュア記のメッセージです。
今日のところでも、そのメッセージは通底しています。カナンの地にあった巨大都市カナンに潜入した二人の斥候らは、遊女ラハブに助けられました。彼女は言います。「主があなたがたにこの土地を与えられたこと(2:9)」を私は知っています、と。ラハブは当然異邦人で主なる神様を信じていたわけではありません。しかし、主の言葉を信じて、斥候に協力しました。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た者たちを穏やかに迎え入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びることはありませんでした(ヘブライ人への手紙11:31)」と言われているとおりです。
さらに、第3章ではヨルダン川を渡ります。橋はありません。春の水量が多い時期でした。約60万人のイスラエルの兵士が一体どうやって渡るのか。主が言われます。「全地の主である主の箱を担いだ妻子たちの足の裏がヨルダン川の水につかるや、上流から流れてくるヨルダン川の水がせき止められ、一つの堰ができるであろう(3:13)」。ここでも、やはり「足の裏」です。神を信じて、ごうごうと水が流れるヨルダン川に踏み込まねばならない。しかし、主を信じて一歩進んだとき、果たして水はせき止められて新しい道ができるのです。
神様は、私たちの神を信じた新しい一歩を待っていてくださいます。私たちの足の裏は、今日、どこを踏むのでしょうか。

2019年4月21日日曜日

コリントの信徒への手紙一12:1-3、マタイによる福音書27:62-28:15「イエスは主!」


 先日、ある牧師の説教集を出版することになり、説教の録音から文字起こしをするお手伝いをしました。その説教は、説教した牧師の奥様が亡くなって二ヶ月の時にしたものですが、説教題が「死に勝利して、我らは生きる!」というものでした。キリスト教会の葬儀では、死の姿を正しく見ることができる、それは神の力に負けてトボトボと立ち去っていく姿だ。ある米国の神学者が、教会は今や死に負けたかのように黒く塗ったかのような暗い場所で葬式をしているがそれは間違いだと指摘していた。古代社会でも葬式は夜の営みだった。死への敗北を確かめるような時だった。しかし、初代の教会は昼日中に白い衣を着て葬式をした。「ハレルヤ、ホサナ」と賛歌を歌いながら。私も妻の葬式に白いネクタイを着けようかとも思ったが、あまり躓きを与えるのもよくないので遠慮した。しかし、その方がよかったのではないかと今も考えている。そのような趣旨の話をしておられました。
 ヘンデルのメサイアの中の「ハレルヤ」という歌は、主イエスの十字架の場面を歌う最後の曲、そして復活の直前に歌われます。イエス・キリストのゆえに、「ハレルヤ」はキリスト者の死と葬式にふさわしい歌になっているのです。ですから、私の葬式の時にはぜひ讃美歌327「すべての民よ、よろこべ」や328「ハレルヤ、ハレルヤ」を歌ってください。
 カルヴァンが書いたカテキズムに、イエスの十字架という死に方は、神の呪いだとはっきり書かれています。私たち罪人が受けるべき神の呪いです。しかし主はその力によって呪いを絶滅し、祝福に代えてくださった。私たちを祝福するために。私たちの死は、罪のゆえに呪いです。しかし、イエスは呪いに打ち勝たれた。私たちはそれでもなお死ぬのですから、聖書が言う救いなど絵空事のように見えてしまうかもしれない。しかし、神を信じる者の死は、よりよき命へ導くための通路なのです。私たちはやがて死に、眠りにつきます。しかし、やがて必ずキリストが私たちの手を取って起こしてくださいます。その時私たちはキリストのみ姿を拝し、目覚める朝を迎えるのです。
 マタイによる福音書を見ると、イエスの復活のしらせはもう一つ別の知らせにかき消されそうになっています。復活などと言う者は単なる噂にすぎない、嘘っぱちだ、という知らせです。この話の出所は祭司長であり、番兵です。多額の金も動いています。対するイエス復活のしらせは、数名の名もなき婦人だけです。当時の社会では女性には証言能力が認められていませんでした。いかにも心許ない。しかし、イエス復活のしらせを、この世は押しとどめることができませんでした。「石は墓の入り口から転ばし除けられた。言葉は流れ出る。イエスは生きていたもう(カール・バルト)。」そして、私たちのところにまで、この知らせは届けられたのです。
 コリントの信徒への手紙を見ると、「イエスは神から見捨てられよ」という言葉があります。パウロはかつての自分の言葉と思いながらこう記したのでしょう。彼はイエスを呪い、イエスもイエスを信じる者も神から捨てられるようにと全力で迫害しました。それが今や「イエスは主である」と信じ告白しているのはなぜか?復活したイエスが彼のところにも来てくださったからです。そして、彼は生きた。命を得させるために、キリストはあなたにも出会おうとしておられます。死に勝利して、我らは生きるのです。

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を...