2018年5月31日木曜日

詩編第119編33から40節「わたしのまなざしを」

「不当な利益にではなく、あなたの定めに心を傾けるようにしてください。」本当に、そうだと思う。わたしの目はすぐに損得に向いてしまう。不当であろうが何だろうが、少しでも利益があると思われるものに、目が吸い寄せられてしまう。主を畏れ、主の定め、主イエスの御言葉に心を傾けたい。礼拝の時に罪を悔い改め、聖書を聞くための聖霊の照らしを求める祈りをする。そのように祈らなければ、わたしの目が主に向くことはないのだ。

2018年5月27日日曜日

ヨハネによる福音書第2章1から11節「栄光の杯」

今日は「信徒クロス礼拝」という新しい企画をしています。日本中会の中でも特に近隣の教会との新しい出来事が始まっています。私たちはそれぞれ、日曜日は各自の教会で礼拝を献げていますが、カンバーランド長老教会は、全体が一つの教会です。ですので、姉妹教会は、別の場所で礼拝していても一つの教会です。それがこうして具体的にお互いの顔を見ることのできる交わりにあずかることが許されているというのは、素晴らしい出来事です。教会の交わりは、場所を越えるだけではありません。私たちがこうして神さまを礼拝するとき、神さまの御もとへ既に帰って行かれた仲間たちと共に礼拝を献げています。先週は教会員の葬儀がありました。葬儀のときに家族によって彼女の人生が紹介されました。5歳の時に関東大震災に被災し、香港で終戦を迎え、数か月間収容所にいました。引き上げてきてから、故郷の東京に戻り、生きてこられました。たいへんな時代です。夫の方が長い信仰生活を送ってこられた。彼女もやがて洗礼を受け、キリスト者として生きた方です。私たちは、愛する者と、キリストにあって一つになることが許されています。主の食卓を囲むことで、パンと杯にあずかることで、私たちは一つです。主イエスはガリラヤのカナで最初のしるしを行って、その栄光を現された、それはぶどう酒を巡る出来事でした。ここで既に、聖餐の準備が始まっているということもできると思います。旧約聖書にこのような言葉があります。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。主はこの山で、死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ書25:6-8)」主イエスがガリラヤのカナで水をぶどう酒に変える奇跡をなさった、それは「しるし」だと言います。何のしるしか?神さまが、私たちを神の国での祝宴にあずからせる、というしるしです。聖餐卓を囲んで私たちがいま献げている礼拝は、この宴に連なっているから、私たちは時も場所も越えて神さまの前で一つです。でも、正直に言って私はこの話を読んで戸惑いを覚えます。主イエスの言葉に、です。もともと、イエスさまも列席していた結婚式での出来事でした。徒事の婚宴は一週間近くも続いたそうです。途中で、ぶどう酒がなくなってしまった。それで、イエスの母マリアがイエスさまに言います。「ぶどう酒がなくなりました。」それに対して、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えました。ちょっとビックリするような言葉です。あまりにも冷たいんじゃないだろうか…。考えてみると、これは私たちの祈りの経験そのものではないでしょうか。神さまを信じて祈っているのに、神さまは冷酷ではないか。どうして、今、祈りを聞いてくださらないのか。あるいは、その後イエスさまがなさったことも不可解です。大量の水を甕に満たすようにお命じになります。言われた方にしてみれば、意味不明だったにちがいない。時にしても方法にしても、主イエスは、私たちの想定とはぜんぜん違うことをなさることがある。戸惑うし、信じることに疲れてしまうことだってある。マリアは、自分のタイミングとも方法とも違うことを言う主イエスに従いました。イエスさまのなさることに開かれたこの在り方が、祈る者の姿なのだと気づきました。本当に大切なことは、神が今何をしておられるのか、そして私たちはそれに従うのか、と問われています。

2018年5月23日水曜日

詩編第119編25から32節「広い心へ」

「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。」そのようなとき、私たちの心は穴蔵の中に落ち込んでしまう。どうやってそこをでたら良いのだろう。この詩編作者は言うのである。「あなたによって心は広くされ…」と。主が穴蔵に追いやられて閉じこもっていた私の魂を広い所に移してくださる。神の言葉によって、である。「御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください」。御言葉に示された生き方に合わせて自分を変革するとき、心が広くなる。

2018年5月20日日曜日

ヨハネによる福音書第20章19から23節「私たちの原点」

ペンテコステです。もともと、ユダヤには三つの大きな祭りがありました。種入れぬパンの祭り、ペンテコステ(五旬祭)、仮庵の祭り。この五旬祭の日に、キリスト教会に大事件が起きて、教会としての新しい意味を持ったペンテコステの祝いの日が生まれました。教会に起きた事件、それは教会の誕生です。使徒言行録第2章にその経緯が書いてあります。この日はユダヤのお祭りでしたので、世界中からユダヤ人がエルサレムに戻ってきていました。当時、既にユダヤ人はパレスチナだけでなく、小アジアやアフリカなどいろいろな場所に離散していました。文化的にも言語的にも、種々雑多でした。政治的にも、生まれも、生活も、さまざまです。実際に、多様な人々がそこにいて、良好なコミュニケーションをとることは簡単なことではありません。ペンテコステの日に教会が生まれました。神の霊、聖霊が降りました。するとどうなったのか。教会はそこにいた種々雑多な人々の言葉で、相手に通じる言葉でイエス・キリストの福音の言葉を語り始めました。相手に言葉を届けたのです。先日、Eテレを見たら、ある歌手の人が出演していました。あるとき聾者の前で歌うという機会があった。一体どういう意味があるのかと考えた。しかし、実際に歌うとその人に何かが伝わり、彼女にとって大きな喜びの経験になった。それから、聾者に歌を届ける活動をしているそうです。番組の中では聾の当事者と一緒に、歌詞を身体で表現する方法を考えていました。言葉を届けていました。私たちも、言葉が届く喜び、あるいはその逆に届かない悲しみを毎日経験しています。言葉が届かないとき、私たちの目は表面的なところに向きます。性格が違うとか人生経験が違うとか、性別とか年齢とか。2000年前のペンテコステの日、そこにいたのは文化も生活も、言語も政治もぜんぜん違う人たちです。しかし、神さまの霊が降ったとき、彼らに届けるべき言葉が与えられました。私たちの言葉を遮っているのは、神さまの力を持ってしてでなければ超えることのできない壁なのではないでしょうか。つまり、それは私たちの罪の現実です。それは今朝のヨハネ20:19-23に見られる私たちの姿です。この時、弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。恐れと閉じこもりは、私たちを孤立させます。彼らが恐れていたのは、イエスさまが十字架にかけられてまだ三日目のことだったからです。自分たちがイエスを裏切り、捨てて、イエスは十字架につけられた。自分たちも同じ目に遭うかも知れない。私たちは知っているのではないでしょうか。私たちが怒りに身を焦がしているとき、私たちもイエスを捨てているのではないか。私たちは怒ったままでは真剣に祈れません。怒ったまま相手のために祈れない。でもその怒りに執着している。そんなとき、私たちはイエスを捨てているのではないでしょうか。ところがイエスはご自分を捨てた弟子たちのところに来て、「あなた方に平和があるように」と言ってくださいました。これは「私はあなたを赦す」ということです。私たちはキリストに赦していただいた罪人たち。それが私たちの原点です。キリストが私たちに与えてくださった言葉は、罪の赦しの福音の言葉なのです。実は、赦すことよりも難しいのは、赦してもらわないとどうしようもない自分だと認めることです。そうだからこそ、私たちは赦しの福音に生きるしかないのです。

2018年5月16日水曜日

詩編第119編17から24節「宿り人として生きる」

「この地では宿り人にすぎないわたし」と言っている。ハワーワスという米国の神学者がかつて“Resident Aliens(在留外国人)”という本を書いた。神の国に生きるキリスト者はこの世では在留外国人だと言う。私たちはこの世では宿り人であり、異文化の中を生きているようなもの。そんな私たちが生きるべき指針は主の戒め、聖書の言葉なのだ。私たちの目を聖書に注ごう。その言葉に耳を傾けよう。世が示すのではない生きる道を求めて。

2018年5月13日日曜日

ルカによる福音書6:6〜11「とびきりの日曜日のすごしかた」

安息日の話です。私たちで言えば日曜日にあたりますが、主イエス様の時代の安息日には(あるいはユダヤ社会の安息日には、と言った方が良いかもしれません)、今の日曜日と少し感覚が違うところがあるかもしれません。主イエスが安息日の律法に従わないと言って人々が怒り狂っています。なぜ、ここまで起こる必要があるのか、と私たちからすると少しいぶかしく思います。なぜなのでしょう▼安息日の律法は、律法の中心である十戒の真ん中に登場します。神さまが天と地をお造りになり、七日目に休まれたことを覚えて、あるいは神さまが奴隷の家エジプトから救い出してくださったことを記念して、七日目には仕事を休んで、神さまの御業を思い起こす。ついては自分だけではなく、家族も、家の奴隷も、みんな仕事を休んで、神さまが救ってくださったことを思い出して感謝する。安息日はもともとはそのための日です。そういう七日に一度の特別な時間を共有するところで、神さまを信じる民は自分たちのアイデンティティを確かにしていきました。少し感覚的に違うとは言っても、私たち現代の教会も日曜日に礼拝することでキリスト者として生きているのですから、本質的には同じです。ところが、イスラエルの長い歴史の中で、休むというのは具体的に何を休むのかという判例集が生まれていきます。家の中で一日中寝ているわけには行かないので、どのくらいの距離なら歩いていいのか、どの家事ならしても良いのか、一つひとつを具体的に線引きしていくようになります。そうしているうちに、安息日のルールを守ること自体が目的になって、最初の精神が見失われていく…。主イエスの時代はそういう状況だったのかも知れません▼もともと良いものだったのが歪んでしまったときに、知らず知らずのうちに私たちを苦しめるというのは少なくないことです。今、私のメガネが歪んでいます。(小さな子どもを育てながらメガネを歪ませないのは至難の業です。)メガネは目的にかなった正しい形をしていないと、頭を痛くさせてしまいます。今朝の主イエスの周囲で起きている安息日の掟を巡る律法学者たちの反応も、歪んでしまっているのかもしれません。そうすると、元々は良いものだったはずのものが、人間を苦しめることになりかねないのです▼一人の手の萎えた人。律法学者たちにとっては主イエスを試す格好の材料でした。彼らは見失っていました。彼もまた一人の尊厳ある人間だということを。主イエスだけが、そのことをご存知だったのです。主は彼らに問いました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼の萎えた手を治してあげました。主イエスは、この一人の人を、一人の人間として見ていてくださったのです▼安息日は、神さまが私たちを救ってくださったことを思い出すための日です。神さまが私たちに命を与え、永遠の祝福を下さっていることを心に刻む日です。ですから、最もこの日にふさわしいのは、キリストの愛を一心に受けるために心を開くことです。私たちの尊厳を回復するために、イエス・キリストは私たちのところへ来てくださいました。罪と悪から私たちを取り戻してくださいました。私たちは、フトすると自分はそれほど価値がないとか、隣人の価値を見失ってしまうとか、謝ってしまいます。しかしキリストは私たちを「人間」として取り戻すために、安息日にも働いておられます。

2018年5月10日木曜日

詩編第119編9から16節「主の物語を、この口に」

「あなたの口から与えられた裁きを、わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。」この世界には、いろいろな物語がある。良い物語もあれば、悪しき物語もある。敵意や憎しみをあおる物語もたくさんあるし、あるときにはそのようなものに私たちの心は奪われてしまう。どうしたらそのようなものにさらわれないのか。主の口が与えてくださる裁きを物語ることによる。私に代わって裁かれたキリストの物語が、私を神のみもとへ連れ戻す。

2018年5月6日日曜日

ローマの信徒への手紙第6章3から11節「扉は開かれた!」

この前の月曜日に墓参に行きました。妻の祖父母の遺骨が納められています。年をとってから二人揃って洗礼を受け、数年間の信仰生活を送りました。たいへんな時代を生き抜いてきた世代の人です。本人たちが信仰を得るよりも先に、神がその100年近い人生の旅路を生かしてきてくださっていたことを改めて思う一日でした。これまで多くの人たちが言ってきたとおり、人生は一つの旅なのだと思います。何よりも、聖書はキリストの御生涯を既に一つの旅路と捉えているのではないかと思います。キリストは、あのクリスマスの夜に飼い葉桶の中に生まれました。神の子である方が、謙って、僕の姿になってお生まれになりました。この世界は、神の子イエス様にとっては、異郷であったと思います。しかし、十字架の死に至るまで謙ることによって、神様がどんなに愛と憐れみに溢れ、私たちを愛してくださったのかを主イエスは示してくださいました。十字架にかけられ、イースターに復活したキリストは、40日間弟子たちと共におられて、やがて天に帰って行かれました。今年で言えばイースターから40日目は510日ということになります。主の昇天の記念日、それは、クリスマスとは逆に、まことに人でいらしたイエス様が天の故郷へと帰って行かれた日です。人間イエスの帰郷。主イエス様は私たちの人生という旅路がどこから始まってどこに向かっているのかを、身をもって教えてくださいました。私たちは神様の元から来て、神様の元へと帰っていきます。その間、私たちの旅路にはいろいろな出来事が起こります。生まれながらの境遇や時代に翻弄されることもあるし、思い通りにならないことの方が多いのかも知れません。しかし、私たちが気づくよりも先に、そもそも神がこの旅を生きるべき命を与えてくださったし、キリストがその旅で進むべき人間らしく生きる道を示してくださっています。主イエスが失われた息子の譬え話をしてくださいました。父を捨てて遺産だけをもらい、自己実現を夢見て好き勝手に生きた弟息子。放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまいます。彼の旅は、父親のもとを離れれば人間らしく生きられると思ったところに始まりました。自分の思うとおりに生きることが人間らしく自分らしいと思い込んで、実際には神様を捨てて生きました。もう一人の兄息子は父のもとにいましたが、不満のかたまりのような人物でした。やはり、弟と同じでこの父のもとにいては人間らしく生きられないと考えています。彼は弟のように実行に移せないで、代わりに弟や父親を心の中で徹底的に裁きます。キリストは父のもとから異郷のような私たちのところへ来られて、神様への従順を貫きました。私たちの前に謙り、十字架にまでかかりました。復活したキリストは、父のみもとへ帰還なさいました。主イエスは、いなくなった息子たちを自ら走って迎えに行く父なる神様のお姿を見せてくださいます。ここに私たちの帰る場所があるのです。改革者カルヴァンは、キリストの昇天が私たちに与える益について、このように言いました。「キリストは私たちのために地上に下ってこられたのと同じく、私たちの名において天に入りたまいましたので、そこで私たちのために入り口をお開きなりました。こうして、先には罪のゆえに閉ざされていた扉が、今や私たちに開かれたのです。」私たちが入るための天の扉は開かれています。さあ、この方の元へ帰りましょう。

2018年5月3日木曜日

詩編第119編1から8節「いかに幸いなことでしょう」

長大なこの詩編は主が下さった律法への愛を言葉に表す。「いかに幸いなことでしょう」と始まっている。詩編第1編と同じだ。主の律法は、本来は私たちに幸いをもたらす言葉。主の御言葉への愛を最初に確認したい。この詩編は、私が主の言葉に従うなら「あなたのどの戒めに対しても、恥じ入ることがないでしょう」と言う。世間や人と比べて恥じ入らないで済むというのではない。主がどうご覧になるかを自分の生きる基準にしているのだ。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...