2020年7月31日金曜日

2020年7月31日(エフェソの信徒への手紙6)

エフェソの信徒への手紙6
「最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身につけなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。それゆえ、悪しき日にあってよく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。」
私たちの信仰生活は、戦いです。戦いと言っても、教会に敵対する誰かを相手にする戦いではありません。あるいは、この世界は神様を知らないから駄目なのだと言って世間を見下すということでもありません。私たちの戦いは、人間に対するものではない。天にいる悪の諸霊に対するものです。
天にいる悪の諸霊。悪魔とかサタンと言ってもいいでしょう。一体、何者なのでしょうか。当然、尻尾とコウモリのような羽のあるマンガ的な悪魔の話ではありません。私は悪魔ということを考えるときに、「時代の精神」という言葉を思い出します。その時代に支配的な精神性を通して、人間の力を超えた悪の力が働くことはしばしばあります。その時代の誰もが何の疑問も抱かずに戦争を礼賛するとか、学生たちの暴力が世界中で吹き溢れるとか、性的な不品行が人間らしい生き方であるかのようにロマンチックなものに祭り上げられるとか、いくらでも起きていると思います。
今の時代の精神は一体何でしょうか。言いようのない社会に充満する怒り、吹き荒れる裁きの心、生産性で人の価値を計ること、社会の側の責任を自己責任という言葉で弱者に押しつけること、豊かさや便利さのために誰かを犠牲にすること、そういうことのどれもが時代精神の産物であると私は思います。それは一人ひとりの心がけではもうどうしようもないことです。心がけではとても追いつかない。人間の力を超えた悪の力の支配としか言いようがないと思います。
これと対抗するために、この手紙は神の武具を身につけるようにと言います。「立って、真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音を告げる備えを履物としなさい。これらすべてと共に、信仰の盾を手に取りなさい。それによって、悪しき者の放つ燃える矢をすべて消すことができます。また、救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」悪の力には神の武具によらなければ対抗できません。私たちの戦いが、人間を相手にするものではなく、天の諸霊との戦いだからです。信仰の闘いだからです。私たちや真理や正義、平和の福音を告げる準備、信仰、救い、神の言葉によって悪霊に対抗します。そして何よりも、この戦いはキリストがすでに闘った戦いです。そして、キリストがすでに勝利を治めた戦いです。キリストの恵みによって強くなり、私たちは今日もキリスト者として生きていきます。

2020年7月30日木曜日

2020年7月30日(エフェソの信徒への手紙5)

エフェソの信徒への手紙5
「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」
聖書は私たちを思っても見なかった世界に連れ出します。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。」驚くべき言葉です。以前は闇だった。そう言われれば、確かにそれはその通り。しかし、聖書はそこで留まりません。「今は主にあって光となっています。」それが、私たちの新しい「私」なのだと聖書は宣言します。例え私たちが「たしかに私は今は光だ」と思えなかったとしても、事実私たちは今や光です。以前は闇であった私たちを、神が光にしてくださったからです。
今私は必要があって十戒の勉強をしているのですが、十戒のメッセージも同じだと思います。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」かつて、あなたたちはエジプトの地にいて、そこで奴隷であった。しかし、今は違う。今は私があなたたちを自由にした。神様はそのように言われます。そして、奴隷であった者が奴隷ではない者、自由な者として生きるための指針として、十戒を示してくださいました。最初に主なる神様が言われるのは、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」ということです。私たちを奴隷ではなく自由人にし、闇ではなく光にしてくださった神様のもとを離れては、私たちは再び奴隷や闇に、元の木阿弥になるしかありません。だから、私を光にしてくださった主なる神様のもとに生きることこそが、私たちが本当に自由に、そして私らしく生きることのできる場なのです。
エフェソの信徒への手紙は、そのことを「光の子として歩みなさい」と言います。私たちは、今はもう光。だから、光の子として生きていく。この手紙では、光の子としての歩みを愛や平和、和解というイメージで伝えていました。互いに相手をたてあげる言葉を口にしよう、とパウロは呼びかけます。そういう愛の言葉は、十戒が示す神の戒めを全うする言葉であるに違いありません。キリストの和解の御業の中に建てられる教会は、本当に自由であり、光に満ちた、生き生きとした場です。神様は、私たちをキリストのお体にしてくださっています。私たちは自分の良さを喜んだり悪さを憂えたりするのではなく、私たちの内に始めてくださっている神の光の御業を信じ、信頼して、一つの教会として歩んでいきたいと願います。

2020年7月29日水曜日

2020年7月29日(エフェソの信徒への手紙4)

エフェソの信徒への手紙4
「ですから、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。招かれたあなたがたは、その招きにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて霊による一致を保つよう熱心に努めなさい。体は一つ、霊は一つです。」
私はこのエフェソの信徒への手紙を読むと、聖書の真理の偉大さに敬服する思いになります。この手紙が書かれたのは今から2000年も前のことですが、今の人類のずっと先を歩いていると思います。いや、今の人類なんて大きなことを言う必要はないのかもしれません。わたし自身の事として、私などが到底及びもつかないような偉大な真理に満ちていると思います。謙遜と柔和、寛容。そして愛による忍耐と平和の絆。それは、この時代の子として今を生きる私に一番必要なのだと思わされます。
今、本当に怒りがあふれかえっていると思います。それぞれの正義感からくる怒りがたくさんあって、それを誰でも気軽に発信できるようになりました。誰でも発言できるというのはいいことです。しかし、いつの間に価値観の衝突に収拾がつかなくなり、「良いこと」を言っている人同士が罵り合っています。ネット空間では顕著です。しかし恐らく人間というのはあまり変わらないものですから、以前は自分のお茶の間で、せいぜい家族にしか聞こえなかった声が世界中に拡散されているのだと思います。自分の声を出す手段はまちまちであっても、自分の正義感の虜になるという点で、私はまったくもって時代の子であると思います。自分の正義感を満足させること、すっきりすること、それはファリサイ派の人々が求めていたことなのかも知れません。私は自分に染みついたファリサイ根性が恐ろしい。
ところが、このエフェソの信徒への手紙を読むと、ちゃんとそれに対する答えが書かれています。平和の絆と霊による一致。それは、低いところに下ってキリストの愛が満ち満ちたところで始まります。どこまでも、悔い改めをもって神の憐れみを求めるより他ありません。隣人と共に生きることができるとすれば、それは、キリストの憐れみの奇跡です。「愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。キリストによって、体全体は、支えとなるすべての節々でつなぎ合わされ、一つに結び合わされて、それぞれの部分は分に応じて働いて、体を成長させ、愛の内に造り上げられてゆくのです。」このキリストの愛の奇跡を私たちの内に起こしてくださるのは、ただ神様だけです。

2020年7月28日火曜日

2020年7月28日(エフェソの信徒への手紙3)

エフェソの信徒への手紙3
「この秘儀は、前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、すべての聖なる者のうちで最も小さな者である私に与えられました。キリストの計り知れない富を異邦人に告げ知らせ、すべてのものを造られた神の内に永遠の昔から隠されていた神の秘儀がどのようなものであるかを、すべての人の前に明らかにするためです。」
神の隠された秘儀。神秘。ミステリー。それは、ユダヤ人ばかりではなく異邦人も、キリストの福音によって救われる、神の恵みによって救われるということです。異邦人問題というと、私たちもそもそも異邦人ですし、今ではキリスト教会は世界中にありますので、何がそこまで問題なのかピンとこないところがあるかも知れません。しかしこれは普遍的な問題を映した事柄であると思います。つまり、価値のある者と価値のない者を選別する考え方です。価値のない者が価値のある者のカテゴリーに入るためには、一定の条件を満たさなければ成りません。異邦人問題の時には、それは割礼でした。これは歴史の中でいろいろなバリエーションをもって何度も再生産された考え方であると思います。私たち人間は、ある囲いを作って、その内か外かで価値付けをし、外なる存在を排除するということを繰り返してきてしまったのかも知れません。
先日、あるミュージシャンの人が、何人かの「優秀」とされる人の名前を挙げながら、こういうお化け遺伝子を持つ人の配偶者は国家プロジェクトとして専門家が選定するべきではないかという趣旨の発言をし、大きな問題になりました。まさに優生思想そのものの発言です。批判されるべきです。この社会の中で、こういう発言を許してはいけないと思います。
パウロは、神の恵みを「神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、すべての聖なる者のうちで最も小さな者である私に与えられました」と言い表します。最も小さな者というのは、言葉の綾ではありません。神の恵みは、最も小さな私にも与えられた。この恵みが、異邦人もユダヤ人も、そこに何の価値の優劣もつけることなく救ってくださる。それが、キリストの和解の福音の基礎です。優れた遺伝子を残すべきだという優生思想は、必ず、劣った遺伝子を排除すべきだという思想とセットになります。そのことは歴史が証明している。それにパウロ自身、外なる存在を排除して生きてきたのです。神の恵みの前に最も小さな者として立つとき、このような思想がいかに欺瞞に満ち、過っているか、そのことを私たちは自分自身の悔い改めとして知るのではないでしょうか。

2020年7月27日月曜日

2020年7月27日(エフェソの信徒への手紙2)

エフェソの信徒への手紙2
「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則かな成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造りかえて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。」
主イエス・キリストが私たちにもたらしてくださった福音は、和解の福音です。和解というのは、敵対していた者たちが一つになることです。それまでは一つになることのできなかった者たち、憎しみや無関心に隔てられた者たちが一つとなることです。
先日、北九州で伝道をし、ホームレス支援に取り組んでおられる奥田知志牧師がNHKの心の時代という番組に出演していました。コロナを受けての今の思いを語っておられました。その中で、これまでキリスト教会が説いてきた救いは大きく二つに分けられるという話をしていました。一つは、病気のなどの困難が癒やされるというタイプの救い。もう一つは、罪の贖いという救い。奥田牧師は、それらはどちらも問題解決型の救いだと指摘していました。何か困ったことがあるから、それを解決してあげるというところに救いを見る。この方はそれらも大事だと思うが、聖書が最初に提示する救いはインマヌエル、「神我らと共にあり」だと考えていると言っておられました。共にいる。見捨てない。救いって本当はそういうものなのではないか、と。
インマヌエル、それを聖書の別の表現でいえば、「和解」ということであるのだと思います。敵対していた者たちが和解し、共に生きる。そのために、神様は私たちと共にいることの傷を引き受けてくださいました。十字架によって私たちの敵意を滅ぼしてくださいました。そして、人と人とが共に生きることができるように、私たちの間の敵意をも滅ぼしてくださいました。
今はむき出しの敵意の時代です。怒りや憎しみに溢れています。キリストは、私たちと共にいることを選んでくださいました。キリストは私たちに手を伸ばし、私たちと和解するために、御自ら十字架に向かってくださいました。和解の福音。平和の福音。神は、私たちに手を伸ばしてくださっています。

2020年7月26日日曜日

2020年7月26日(エフェソの信徒への手紙1)

エフェソの信徒への手紙1
「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。神は、この力ある業をキリストの内に働かせ、キリストを死者の中から復活させ、天上においてご自分の右の座に着かせ、この世だけではなく来たるべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれました。」
エフェソの信徒への手紙は使徒パウロが書いた手紙です。獄中書簡と呼ばれる手紙の一つです。パウロが牢獄に入っていたときに書いたと言われています。牢獄にいたパウロは、愛するエフェソ教会のために祈ります。神があなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように、と。啓示というのは啓(ひら)き示すと書くとおり、神がご自身の真理を私たちに示してくださるということです。ここでは、私たちがどれほど豊かな栄光に満ちた素晴らしい宝を頂いているかを神が示してくださいますように、と祈ります。
神様が私たちに与えてくださった希望、それと同じ力をもってキリストを復活させ、天に上げ、すべてのものの支配者になさいました。キリストに働いたのと同じ力が、私たちにも与えられているというのです。
パウロの言葉はさらに続きます。「また、すべてのものをキリストの足元に従わせ、すべてのものの上に立つ頭としてキリストを教会に与えられました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。」すべてのものを支配するキリストが、教会の頭です。パウロはそのことを信じていたから、牢獄の中でも耐えられたのではないでしょうか。そして、それは今私たちにとってもかけがえのないメッセージであると信じています。キリストこそすべてのものの主。この方が私たちさがみ野教会の頭でいてくださいます。キリストに満ち満ちている、それが教会という場所。私たちは神に呼び集められ、御前に礼拝をささげることで、「教会」になります。今日、その出来事が起きようとしています。

2020年7月25日土曜日

2020年7月25日(マタイによる福音書25:31〜46)

マタイによる福音書25:31~46
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」
壮大なイメージを持って語られています。主イエスが再び来られるとき、主はすべての国民を羊を右に、山羊を左に分けるようにより分ける、つまり裁きを行うと言われます。キリストの王としての裁きです。
この裁きの時、王であるキリストは右にいる人々に言います。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに尋ねてくれたからだ。」すると右側にいた人々は答えます。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるを見てお宿を貸し、裸でおられるを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」それに対し、キリストはお答えになります。「よく言っておく。この最も小さなものの一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」
キリストは左側にいる人々に対しても、同じように言われます。ただ、全く逆に、あなたたちは私が飢えていたときに食べさせず、喉が渇いていたときに飲ませず、・・・と言われる。それに対し、彼らも同じように答えます。「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よそ者であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか。」すると、王は言われます。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」
重要なことは、両者共に、いつ自分がそれをし、あるいはしなかったのかを自覚していないということです。最も小さなものの一人にした愛の業、あるいはしなかった愛の業を、主は覚えておられます。最も小さなものの一人にしたこと、しなかったことというのは恐らくその対象だけではなく、愛の業自体も小さなものに過ぎないのだと思います。だからこそ、自覚できていない。しかし、そのような小さな愛の業に生きることを主は永遠の意味を持って覚えておられるというのです。私たちは今日、そういう小さな愛の業に召されています。

2020年7月24日金曜日

2020年7月24日(マタイによる福音書25:1〜30)

マタイによる福音書25:1~30
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがはその日、その時を知らないのだから。」
私たちには、主イエスがいつおいでになるのか分かりません。トルストイの「靴屋のマルチン」という有名な童話があります。(原題は「愛あるところに神あり」というそうです。)この童話では、雪かきをしているおじいさん、赤ちゃんをあやしている女の人、リンゴ泥棒の少年として、主イエスがこの靴職人のマルチンのところに来られた、と言います。この話のポイントは、マルチンには主がいつ、どのようにお出でになったのかが分からなかったというところであると思います。私たちには分からないのです。いつ、主イエスが私たちのところへ来られるのか。
この小さな童話が指し示しているような、日常の生活の中に来てくださるキリストと同時に、大いなる終わりの日にキリストをお迎えするということにも私たちは備えます。それがいつなのか、どのような形なのかを私たちは知りません。
10人の乙女たちは、今でいえばブライダルメイドのように新郎新婦に付き添ったのでしょう。当時の結婚式は夜行われていたので、灯を準備して花婿を待ちます。花婿から見ると、真っ暗闇の中を花嫁がいる家に向かっていくと、ぼんやりと明かりに照らされた家がある。それが、おとめたちが灯を準備して待っている家です。このたとえ話のイメージは、そういう、暗闇の中の光のイメージであると思います。
もしも主イエスがお出でになったとき、私たちの手もとに灯があるのなら、何と幸いなことでしょうか。花婿は喜んで花嫁のもとへ行きます。主イエスは、それよりもなおのこと喜び、楽しみにして、私たちのところへ来てくださいます。私たちに灯の準備はあるでしょうか。いつ、主がこられるのかは私たちには分かりません。しかし、いつでもお迎えできるように、灯の準備をしておきたいと思います。
灯とは一体何か。いろいろな言い方で言えると思います。祈りであるのかもしれません。御言葉に傾ける耳とそれに従う足であるのかも知れません。祈りや御言葉に促された始まる愛の生活であるのかも知れません。主イエス・キリストは、私たちのところへ来てくださっています。私たちを喜んで迎えるために。私たちとの結婚を待ち焦がれる花婿のような重いで、主イエスが来てくださる。私たちはそれを待ち望むのです。

2020年7月23日木曜日

2020年7月23日(マタイによる福音書24:29〜51)

マタイによる福音書24:29~51
20年くらい前になんとかの大予言問いかいう、怪しげなサブカルチャーがはやったことがありました。それ自体は愚にもつかないような話ですが、世間の終末的な厭世観は、あの時代の「世紀末」という言葉と共に高まっていました。それは今ここに来て、あの時とは比べものにならないリアリティを持って高まっているような気がします。この世界がこれから一体どうなっていくのかは誰にも分かりません。コロナウイルス自体と人類との関係も分かりませんが、この小さな、目に見えないものをきっかけとして世界中で露呈している社会の崩壊がどこかで留まるのか、それとも世界の形が保てなくなるのか、全く予想がつきません。
新約聖書が書かれた時代も、激動の時代でした。聖書の部隊になったユダヤの国は、まさに崩壊の時期を迎えていました。この時代にこの国家は崩れ、第二次世界大戦後まで、この国の民は離散したままになりました。さらに、この福音書を書いている教会の状況は、崩壊しつつあるユダヤ社会からの迫害は日増しに強くなり、まさに、国にも社会にも頼れない状況にありました。文字通りに終末的な状況にありました。
そんな状況の中で、彼らは主イエスのお言葉を思い起こし、その言葉を今自分たちが聞くべき神の言葉として聞き直したのです。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」その言葉は真実です。生まれたばかりの教会にとっても。そして、私たちにとっても。
ここには終末の事柄が書かれているようです。しかし、どんなに悲惨な状態で世界が滅びるかということが主題ではありません。ここでの主旋律は、主イエス・キリストが再び来られるという約束です。「その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」今、この苦難の時代に生きる私たちは、苦難をただの苦難として苦しんだり、なすすべもなく諦めたりしています。しかし、もっと本質的に時代の意味を捉え直すと、私たちは今、キリストを待っている。キリストを待ち望んでいるという事実こそが、この時代の本当の意味です。
私たちの今日一日の営みも、キリストを待ち望むための営みです。キリストをお迎えするための準備です。準備の一日へ、出発しましょう。

2020年7月22日水曜日

2020年7月22日(マタイによる福音書24:1~28)

マタイによる福音書24:1~28
イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
主イエスがここで言われたことは、繰り返し繰り返し、世界の歴史の中で見られました。戦争があり、不法がはびこって愛が冷え、飢饉や地震といった天変地異に苦しみ、あるいは迫害がありました。どれ一つをとっても恐ろしい言葉ですが、今も、私たちが目にし続けているところでもあります。今だって、コロナに便乗した偽預言者の類いはそこかしこに現れている。主イエスが「愛が冷える」と指摘したとおり、この社会には怒りが充満し、寛容さは失われ、役に立たない者は捨てられています。しかし、それが世の終わりのしるしではありません。
私たちキリスト教会は、そういう苦しみの時代にあって、未来を予告して脅かしたり、人々を怯えさせて宗教商売をしたりはしません。許されないことです。主イエスは、私たちに御国の福音を託されました。御国の福音、それは、心の貧しい者の幸いであり、悲しむ者の幸いです。私たちがどんなに失敗し、捨てられ、役立たずであっても共にいてくださる神の福音です。私たちは、この時代にあって、主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、それだけにすべてをかけます。
明らかに、ここ数年で、これまでの何十年かの世界秩序は変化していました。安心・安全の時代は終わりました。あるいは、不都合な事実を隠蔽した上で成り立たせていた安心・安全だったものが、不都合な事実を隠蔽しきれなくなった、ということであるのかも知れません。コロナがそれを加速させたのかも知れませんが、もともと世界が抱えていた問題が露呈したと言うべきでしょう。今世界で起こっている出来事は、私たちの愛が冷えるという事実であり、それは、私たちが神様を蔑ろにしたことに根を持っています。だから、御国の福音が必要なのです。キリストの愛が必要なのです。共にいてくださる神でなければ、私たちと共に苦しむ神でなければ、私たちは救われないのです。

2020年7月21日火曜日

2020年7月21日(マタイによる福音書23:22〜39)

マタイによる福音書23:22~39
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
主イエスのこの激しい嘆きの言葉は、私たちすべての信仰者に向けられた言葉として読まないわけにはいかないと思います。何度も何度も、繰り返し、主イエスは私たちを集めようとしてくださいました。めんどりが雛を羽の下に集めるように。しかし、私たちはそれに応じようとはせず、却ってその羽を引き裂き、めんどりを退け、さらに殺してきたのだ、と主イエスは私たちに言われます。
めんどりが雛を羽の下に集めるように、主イエスが私たちを集めようとしておられる。何を意味しているのか?もちろん、私たちを神様の御許に帰らせようとしてきた、ということでしょう。それでは、私たちが神様の御許に帰るとは、何を意味しているのでしょうか。キチンと礼拝をすることでしょうか。献金をすることでしょうか。奉仕をすることでしょうか。主イエスは言われます。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実を蔑ろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにしはできないが。」神様は、私たちを新しくしようとしておられます。公正、慈悲、誠実に生きる者として、新しくしようとしておられます。別の言葉で言えば、隣人への愛に生きる者にするということでしょう。神様が、ご自身を信じる私たちに何よりも求めておられるのは、私たちが実際に隣人への公正や慈悲、誠実という愛に生きることだと言われます。
それは、主イエスが私たちにしてくださったことです。そういう基準で公正、慈悲、誠実ということを考えてみると、どんな人をも見捨てずに共に生きること、包摂することなのだと思います。私たちへのキリストの福音は、インマヌエル(神は我らと共におられる)という言葉から始まりました。キリストは、私たちを共に生きる者へと、新しくしてくださるのです。

2020年7月20日月曜日

2020年7月20日(マタイによる福音書23:1~22)

マタイによる福音書23:1~22
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。」
私たちは言葉では簡単に嘘をつくことができますが、行動で嘘をつくことはなかなかできません。主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の言葉に嘘や偽善があることを見抜いておられました。その行動が、本当に心の中に秘められていることを明らかにしてしまっていると主は言われます。何が秘められているのか?褒められたい、人から一目置かれたい、重んじられたい、尊敬されたい。彼らの言葉や見せかけばかりの行いの動機付けはそういうところにある。だから、本当に神を信じ、敬うところで生まれてきた行動ではなくなってしまっている。
こういう言葉に触れると、本当に、心の奥底を見透かされたような気持ちになります。自分の見たくないところ、見せたくないところが、主イエスの前に明らかになってしまっている。主イエスがこのようにして、他ならぬ偽善を指摘しておられるということは、とても厳しい事実です。
具体的に、主イエスはどのように指摘しておられるのか。「神殿にかけて誓っても、それに縛れることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない。」どうしてそういう理屈が通用するのか、外から見るとよく意味が分かりません。しかし、本人たちは大真面目にそう議論して、自分たちの言葉を正当化していたに違いない。私たちには、ごまかすため、自分を正しいと言うためであれば、どんな屁理屈だって生み出すことができてしまいます。
主イエスは、言葉にも行いにも偽りのない方です。社会の中で尊敬されていない人のところへ行って共に食事をし、汚れていると言って排除された者のところに行って手を触れ、罪人と呼ばれる人のところへ行って友になりました。主イエス・キリストの愛は本物です。このお方の愛と真実によって、神様の私たちへの愛と真実が示された。聖書はそう告げます。「私たちが真実でなくても、この方は真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである(テモテ二2:13)」。キリストの真実が、私の不真実を贖って、こんな私をも救ってくださる。私はそう信じています。

2020年7月19日日曜日

2020年7月19日(マタイによる福音書22)

マタイによる福音書22
4世紀から5世紀頃にヨハネス・カッシアヌスというキリスト者がいました。この時代の信仰の指導者たちをしばしば教父と呼びますが、カッシアヌスもその一人として数えられます。マルセイユで男女それぞれの修道院をつくりました。修道院では祈りと労働に集中した生活を送ります。
カッシアヌスが、このような言葉を残しています。「それゆえに、すべてのことはそのために〔心の清さを求めて〕行われ求められなくてはならない。このために、断食、徹夜、労働、自己放棄、読書、そしてすべてその他の徳を追求しなければならないのである。これらによって私たちは私たちの心を準備することが可能となり、これらすべての邪悪な情熱から安全を保ち、そしてその愛の完成へとたどり着く階段にいることになるのである。(中略)このような二次的な事柄、つまり断食や徹夜や世を離れることや聖書の黙想などは、私たちの第一の目的のために、すなわち愛である心の清さを求めて実行されなければならないのである。」
カッシアヌスや彼と共にいた修道士たちは、厳しく己を戒め、断食や自己放棄をしながら祈りに打ち込んでいたのだろうと思います。しかし、彼は言います。そのような業はすべて二次的なことにすぎない。もしも第一のこと、つまり愛するという目的に向かって実行するのでなければ何の意味もない、と。
主イエスは律法の中でどの戒めよりも大切なものを問われ、お答えになりました。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そしてこれと同じように大切なことは「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めであるとおっしゃいました。
私たちの他のどんなに素晴らしい業も、他の人が理想とするような信仰深さも、愛することを失っては何の意味もありません。主イエスが私たちにお求めになる第一のことは愛することであり、第二のことも愛することです。神を愛し、隣人を愛すること。ここに主イエス・キリストの御心があります。私たちは、愛することへと招かれています。

2020年7月18日土曜日

2020年7月18日(ヨハネによる福音書5:19〜47)

ヨハネによる福音書5:19~47
「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」
ヨハネによる福音書の大切な主題は、主イエスが子なる神であること、父なる神様と一つであることです。御子イエスがなさることは父がお命じなったこと、父の御心のままに行動しておられるのだ、と主イエスは言われます。そうであるならば、主イエスがなしておられる父の御心とは一体何か、ということが問題になります。何でしょうか?
主イエスは言われます。「父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」子は人の子だからである、と言います。「人の子」という表現は、福音書で主イエスがご自分を指すときによく口にする言い回しです。珍しい言い方です。子は人の子だから、父は子に裁きの権能を与えた。そう言われても、意味がよく分かりません。どういうことなのでしょうか。
これは旧約聖書のダニエル書に登場する言い回しです。「私は夜の幻を見ていた。見よ、人の子のような者が、天の雲に乗って来て、日の老いたる者のところに着き、その前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては、この方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく、その統治は滅びることがない」(ダニエル7:13~14)。このように、人の子に「日の老いたる者」から統治の権威を与えられます。「日の老いたる者」というのは、明らかに神様を指しています。神が人の子に権威をお与えになる。ここを読むと、先ほどのヨハネによる福音書がダニエル書と同じ事を言っていたのだと気づきます。「父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」
それでは、主イエスはいかなる裁きをなさるのか?「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」イエスの裁きは、ご自分を信じる者に命を与えるための裁きです。そして、その裁きは主イエスが勝手にしていることではなく、神様の御心に従っての裁きです。つまり、神様は私たちが命を受けることを望んでいてくださる、ということに他ならないのです。だから、主イエスは、私たちに命を得させようとする神の御心を信じてほしい、そのために私たちのところへ来たイエスを信じてほしいと訴えておられるのです。私たちの今日というこの日への神の御心は、私たちがキリストを信じ、永遠の命に生きる一日を歩むことです。

2020年7月17日金曜日

2020年7月17日(ヨハネによる福音書5:1〜18)

ヨハネによる福音書5:1~18
「この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」
新約聖書には四つの福音書が収められています。それぞれに視点が異なっています。ちょうど、日経新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の四紙の視点が異なるのと同じです。イエス・キリストを紹介するという目的は同じです。しかし同じニュースの取り上げ方にそれぞれの新聞の特徴が出るのと同じで、福音書それぞれの個性があります。特にヨハネによる福音書が独特の個性を持っていることは一読すれば明らかです。しかし、どんなに個性があろうとも共通していることがあります。例えば、クリスマスの出来事を書いている福音書とそうではない福音書があります。しかし、主イエスの十字架の死、そしてその三日目に復活して墓が空になったことはすべての福音書が伝えています。今日の箇所では、主イエスが安息日に病人を癒やしたことがユダヤ人に憎まれ、迫害される原因になったと伝えています。この安息日を巡る問題は四つの福音書に共通したメッセージです。それだけに、非常に大きなインパクトがある事件であり、また、福音書記者たちがとても重要視した事実だったということであろうと思います。
ヨハネは「イエスが安息日にこのようなことをしておられたから」、迫害が始まってと伝えています。「このようなこと」とは、安息日に、38年間病気で苦しんでいた人を癒やし、その人に「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われた。安息日には、長い距離を歩くことはできません。そして、荷物を運ぶことも許されていない。床を担いで歩くことは律法の定めるタブーでした。そのタブーをこの病人に犯させた者として、イエスは憎まれたのです。
そのような振る舞いをした理由を、主イエスご自身が説明しています。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」この言葉を聞いて、ユダヤ人はますます怒り、イエスを憎みました。「イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである。」この辺りから、ヨハネの独自色が強くなってきます。主イエスが安息日の戒律を(表面的に見たら)破っているのは、実は父なる神ご自身が働いておられるからであり、主イエスは父と等しい方だから、同じように今働くのだ、と言われます。ヨハネによる福音書はこのようにして、父と等しい方としての主イエスを私たちに紹介していくのです。

2020年7月16日木曜日

2020年7月16日(ヨハネによる福音書4:31〜54)

ヨハネによる福音書4:31~54
「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスご自身は、「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」と証言されたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、その時エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」
「預言派は自分の故郷では、敬われないものだ」という主イエスのお言葉は、重い言葉です。ガリラヤへ着いたら、ガリラヤの人たちがイエスを歓迎しました。その歓迎の裏にある不信仰を見抜いておられた、ということなのでしょう。厳しいことです。ガリラヤの人たちが祭りでエルサレムに行ったときに、そこでイエスがなさった数々のしるしを見ていた。それで、イエスを歓迎した。それは少なくとも主ご自身が望んでおられたものではなかった、ということなのでしょう。
このことの手がかりになるのは、この直前の箇所がサマリアでの出来事を報告している、ということです。サマリアの町シカルの人々は、この町の一人の女が主イエスと出会ったことをきっかけに、彼女に促されてイエスと出会うことになります。彼ら自身が主イエスと出会い、最後に彼女に言いました。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからである。」彼らは、主イエスの話を自分で聞いて、この方が世の救い主だと分かった、と言っています。このことが、大切なのだと思います。
ガリラヤの人たちはイエスがエルサレムでなさったしるしを見て信じました。しかしそこにご自分を敬っているのではない、言葉を換えれば不信仰があることを主イエスは見抜いていた。しるしを見て信じる信仰、それは、自分の納得できる答えを探す信仰です。自分のニードを優先させる信仰です。だから、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのでしょう。
それに対し、ガリラヤの町カナで出会った王の役人は、「あなたの息子は生きている」と言った主イエスの言葉を信じたのです。サマリア人たちが見せた信仰と同じなのだと思います。主イエスの言葉を信じる。それは、今私たちが聖書を読んでするのと同じことです。主イエス・キリストの言葉を信じる信仰に、私たちは招かれています。

2020年7月15日水曜日

2020年7月15日(ヨハネによる福音書4:1〜30)

ヨハネによる福音書4:1~30
「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝するときが来る。」

主イエスとサマリアの女との対話です。サマリア人は、かつて旧約の時代にイスラエルが南北に分裂した内の北王国の末裔に当たります。彼らの信仰の中心地であるエルサレムは南王国にありました。南の人たちは北の人たちをエルサレムではないところで礼拝している曲がった信仰の持ち主、と見なしていました。北の人たちにすれば、南の人たちこそ鼻持ちならない宿敵だったに違いありません。エルサレムという場所を巡って、彼らには大きな確執がありました。サマリアの女にしてみれば、神様をエルサレムで礼拝するべきだと言われた途端に、自分とは関係のない話、自分を阻害する話になってしまいます。
キリスト教は西洋の宗教だ、とよく言われます。そこには、もしかしたらサマリアの女と似たような阻害された感覚があるのかも知れません。自分とは関係のない話、外国の話。日本人だから関係がない。そうすると、自分を培ってきたアイデンティティと相容れない宗教の話ということになります。
主イエスは「あなたがたが、この山でもエルサレムでのない所で、父を礼拝するときが来る」と言われます。この山でもエルサレムでもない所です。西洋でも東洋でもない。ヨーロッパでも日本でもない。もちろん、どこでもない架空の場所というわけでもありません。「場所」や「歴史」、「文化」に寄りかかるのではない礼拝が始まる、と言われたのだと思います。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」父なる神様が、ご自分を礼拝する者を求めておられるから、だから、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る、と主は言われます。私たちのアイデンティティや文化、歴史、場所が問題なのではなくて、礼拝する者を求める神様が問題になっています。霊と真理をもってというのは、神様ご自身の促しによって、ということであろうと思います。
ここでは、礼拝の質が全く新しいものになっています。私たちのニードや、これまでの背景が礼拝を造り出すのではなく、神様が礼拝する者を招集するから、礼拝が始まる。それはエルサレムなのかサマリアなのか、西洋なのか日本なのかといいう問題ではありません。神様の招集に、今、あなたにも応じてほしい。主イエス・キリストが私たちに呼びかけておられます。

2020年7月14日火曜日

2020年7月14日(ヨハネによる福音書3)

ヨハネによる福音書3
「さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜イエスのもとに来て言った。『先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。・・・。』」
ニコデモは、主イエスのもとへ夜やって来ました。主イエスと敵対していくファリサイ派の一人であって、ユダヤ人の指導者であったから、人目を避けて夜やって来たとも言えるかも知れません。しかしそれだけではなく、夜が教師に教えを請う時間と考えられていたからだとも言われます。私は、そちらの解釈が好きです。ニコデモは、主イエスという教師に学びたかった。それにいちばんふさわしい時間を、主イエスのところへ行くためにとっておいたのではないかと思います。
現代の生活の夜とはわけが違います。気軽に明かりを灯すこともできないでしょうし、テレビやラジオをつけることもできません。夜は完全なる静寂の時であり、基本的にはさっさと寝てしまうべき時間です。しかしその闇夜の中で教師の言葉に耳を傾け、神様のことを学んだ。静かな心を神に向かって開き、謙遜になって神の言葉に聞く。ニコデモは、そのために主イエスのもとへ行ったのだろうと思います。
この時の対話を読んで分かるのは、主イエスが、ニコデモの期待や想像をはるかに超えたお方だったということです。ニコデモは優れた教師の下で、素晴らしい知恵の言葉を聞き、神の奥義を悟りたいと思ったのかも知れません。しかし、主イエスは独り子なる神ご自身ですから、ニコデモの期待通りだったり、その延長線上にいたりするのではなく、ニコデモの思いを全く凌駕した方でした。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という主イエスの言葉は、そのことを端的に現していると思います。
この「新たに」という字は、聖書協会共同訳の訳注で「別訳『上から』」と書かれています。上から生まれる。まさに、主イエスこそが上から来られた方です。私たちの秩序や期待や常識を超えた、上から来られた方。そのような神ご自身と、ニコデモは出会った。この出会いはニコデモ自身を「上から生まれた者」に変えていきます。それは夜の出会いだったのです。

2020年7月13日月曜日

2020年7月13日(使徒言行録28:16〜31)

使徒言行録28:16~31
ローマに到着したパウロにはある程度の自由が認められました。そこで彼がすぐにしたことは、ローマにいる主立ったユダヤ人と会い、話し合うことです。自分についてのエルサレムのユダヤ人の陰謀が手紙によってローマのユダヤ人に知らされ、同じ妨害に遭うのではないかという懸念もあったのかも知れません。パウロは彼らと出会い、すぐに話し合いました。「パウロは朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得したのである。」時間をかけて語り合い、ユダヤ人の反応は、他の町でもそうであったのと同じように、二つに分かれました。「ある者は話を聞いて納得したが、他の者は信じようとはしなかった。」
パウロは、どこに行っても、誰が相手でも、同じことをし続けたのだなと思います。ひたすら、イエスについて説得し、ここに救いがあることを語りました。その後のこと、相手の反応については相手の領分なのであって、反対するであろう相手にも恐れずに福音を語り続けます。相手の反対もまた神の御手の内にあることを信じていました。
「互いの意見が一致しないまま、彼らが立ち去ろうとしたとき、パウロは一言、次のように言った。『聖霊が預言者イザヤをとおしてあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。「この民のところに行って告げなさい。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じている。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、立ち帰って、私に癒やされることのないためである。」』」逆説的なようですが、神様の手の中にあることを信じていたから、当然反対する者もいることをわきまえていたから、逆に、彼は臆せずに福音を語り続けることができたのだと思います。そして、自分の使命が何であるのかを、彼は知っていました。「この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」異邦人のための使徒として、パウロは福音を語り続けます。
パウロを巡る使徒言行録の言葉は、ここで終わります。その後もパウロはローマで福音を語り続けました。囚人でしたが、実に自由に語り続けました。「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」私たちの自由は、福音を証しするための自由です。キリストのために生きる自由な道が、私たちの前にも開かれています。

2020年7月12日日曜日

2020年7月12日(使徒言行録28:1〜15)

使徒言行録28:1~15
難破したパウロたち一行は流されるままに身を委ね、ついに砂浜のある入り江にたどり着きました。泳いでその島に渡り、囚人たちも殺されることなく全員が上陸することができました。そこはマルタ島でした。イタリア半島の長靴のつま先の沖合にあります。その島の住民は遭難してきた彼らに親切に振る舞い、たき火をしてくれました。そこで小さな事件があった。毒蛇が出てきてパウロの手に絡みついたとき、島の住民は思いました。「この人は人殺しに違いない。海では助かったが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と。しかし、パウロはその毒蛇から害を受けることなく、たき火の中に振り落としてしまった。それを見て、彼らは「この人は神さまだ」と言ったというのです。
さらに、島の長官プブリウスという人の父親が熱病と下痢にかかったとき、パウロはこの人に手を置いて祈り、病が癒やされたということがありました。島の他の病人のためにも、パウロは手を置いて祈りました。それで、島の人たちは一行に敬意を表し、船出の時には必要なものを準備してくれたのでした。
なんとも不思議なエピソードですが、マルコが伝える復活の主イエスのお言葉に、このようにあります。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る。(マルコ16:17~18)」このままのことがパウロに起こりました。パウロは彼らを癒やし、そして、何よりも福音を語ったのでしょう。新しい言葉、キリストを告げる喜びの言葉で。だから、すごいことをする人や支配する人に向かって「この人は神様だ」と言って拝む呪縛から自由にするキリストを知り、解放されたのではないかと思います。マルタの人たちにとって、そのことこそが何よりも大きな喜びだったのではないでしょうか。
こうして、ついにパウロはローマに着きます。ローマからきょうだいたちが出迎えに来てくれました。まだ会ったことのない内からこの教会に手紙を書き送り、共にキリストを信じる交わりに生きてきた人たちです。教会の仲間に迎え入れられながら、パウロはついに地の果てたるローマにまでたどり着いたのです。

2020年7月11日土曜日

2020年7月11日(使徒言行録27:27〜44)

使徒言行録27:27~44
14日も漂流生活が続きます。漂流が始まる前に船が転覆しないように船具を含む積み荷を海に捨てたので、潮と風に任せて漂うしかありません。助かる望みは全く絶たれてしまいました。
それから14日経ったときのことです。「夜が明けかけた頃、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で14日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝を献げてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づて食事をした。船にいた私たちは、全部で276人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」まるで、主イエスがかつて弟子たちの前でしてくださったように、パウロはパンを裂いた。パウロという一人のキリストを信じる人物の存在が、この船の人々に食べる意欲を起こし、生きる望みを与えました。
私はこの時のパウロの姿から、ナチに抵抗して獄中死した牧師のディートリッヒ・ボンヘッファーの「私は何者か」という詩を思い出しました。ナチの牢獄で書いた詩です。長い詩ですが、最後に全文をご紹介します。ぜひ、お読みください。

私は一体何者か。
悠然として、晴れやかに、しっかりした足どりで、
領主が自分のやかたから出て来るように
獄房から私が出て来ると人は言うのだが。

私は一体何者か。
自由に、親しげに、はっきりと、命令をしているのが私の方であるように、
看守たちと私が話をしていると人は言うのだが。

私は一体何者か。
平然とほほえみを浮かべて、誇らしげに、
勝利にいつも慣れているように、不幸の日々を私が耐えていると人は言うのだが。

私は本当に人が言うようなものであろうか。
それとも、ただ私自身が知っている者にすぎないのか。
籠の中の鳥のように、落ち着きを失い、憧れて病み、
のどを締められたときのように、行きをしようと身をもがき、
色彩や花や鳥の声に飢え、やさしい言葉、人間的な優しさに恋いこがれ、
恣意や些細な侮辱にも怒りに身を震わせ、
大事件への期待に追い回され、
はるかかなたの友を思い煩っては気落ちし、
祈り、考え、活動することに茫然とし、意気阻喪しつつ、
あらゆるものに別れを告げる用意をする。

私は一体何者なのか。
前者であろうか、後者であろうか。
今日はある人間で、明日はまた別の人間であろうか。
どちらも同時に私なのであろうか。
人の前では偽善者で、
自分自身の前では軽蔑せずにはおられない泣き言を言う弱虫であろうか。
あるいは、なお私の中にあるものは、
すでに将来の決した戦いから、算を乱して退却する敗残の軍隊と同じなのか。

私は一体何者なのか。
この孤独な問いが私をあざ笑う。
私は何者であるにせよ、
ああ神よ、あなたは私を知り給う。
わたしはあなたのものである。

2020年7月10日金曜日

2020年7月10日(使徒言行録27:1〜26)

使徒言行録27:1~26
パウロは皇帝がいるローマに向かって船で護送されることになりました。しかし、船出してすぐに向かい風のために思うように航海を進めることができなくなってしまいました。季節性の風なのでしょう。港に寄港しながら風が収まるのを待って、航海していこうとしていました。しかし、そうしている内に「かなりの時がたって、すでに断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった」と言います。断食日というのはレビ記16:29を見ると「第七の月の十日」と定められています。私たちの暦の3,4月頃に第一の月が来るので、10月か11月頃ということになる。もう冬は近い季節で、航海は危険を増してきます。それで、パウロは一行に忠告しました。「皆さん、この航海では、積み荷や船体ばかりでなく、私たちの生命にも危害と大きな損失が及ぶと、私は見ています。」しかし、パウロのその言葉は無視され、船はそこに停泊することはなく別の越冬しやすい港に向けて出港しました。結局、出港してすぐにエウラキロンと呼ばれる暴風が吹き、風に逆らって進むことができず、船に乗っていた人々は積み荷を海に捨て始め、何日も太陽も月も見えない状況の中で「ついに助かる望みもまったく絶たれて」しまいました。
パウロが、彼らの前に立って言います。「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はないのです。私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたとおりになります。私たちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
いろいろなことを考えさせられるやりとりです。そもそもパウロは出航に反対していました。もちろん、皇帝のところに行くことが怖かったからではなく、出航の判断が危険で、無謀にも死にに行くようなものだと分かっていたからです。その言葉を無視して結局難破した船の中で、パウロは希望を語りました。パウロは囚人です。最も絶望していてもおかしくないし、脱獄のチャンスだと考えても不思議でない立場です。それでも彼は希望の言葉を語り、人々を元気づけました。立場が入れ替わってしまったかのようです。本当に自由なのは、捕らえている兵士や船を操縦していた人ではなく、この一人の囚人でした。私たちのこの世界でのあり方に、深い示唆を与える姿ではないでしょうか。私たちの口にも、この世界という船の中で語る希望の言葉が、神さまから託されているのです。

2020年7月9日木曜日

2020年7月9日(使徒言行録26)

使徒言行録26
パウロはついにアグリッパ王の前に立って弁明します。
まず、パウロはかつての自分を語ります。「私の若い頃からの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初からどうであったかは、ユダヤ人なら誰でも知っています。」すなわち、パウロはもっとも信仰に厳格に生きるファリサイ派の一員として生きてきたし、その道に従ってナザレのイエスの名に大いに反対してきました。イエスを信じる者を迫害し、またイエスの名を冒瀆して生きてきた。それが、先祖から受け継いできた希望に生きることであると信じていたのです。
神を信じて生きること、神に希望をかけて生きることが誰かを迫害し、苦しめること、憎むことであるというのは、悲しいことです。人の心の中にそういうファリサイ根性、裁きを楽しむ心が簡単に芽生えてくることは、誰でもよく知っていることです。
しかし、そんなパウロが変わりました。イエスと出会ったからです。太陽よりも明るく輝く光の中で、イエスがパウロに出会ってくださいました。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人とするためである。」主イエスにそのように言われ、パウロは新しい使命に生きるように利ます。パウロは新しくなりました。主イエスはパウロを異邦人のもとへと遣わし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えさせます。「それは、彼らの目を開いて、闇から光りに、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるようになるためである」と主イエスは言われます。闇から光りに、サタンの支配から神に、というのは、パウロ自身の体験でもありました。かつては正義感のために憎しみで覆われていた心が、キリストの和解の福音を携えて、自分を囚人としてつなぐ者のところへも向かわせたのです。
このようなパウロ自身の主イエスとの出会いの物語を聞かされて、思わずアグリッパは言いました。「僅かな言葉で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」パウロは答えます。「言葉が少なかろうと多かろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれていることは別ですが。」あるユーモアさえ感じさせる言葉です。自分を遣わした方は、自分をつなぐ鎖を持つものよりも偉大だと信じていたから、このように大胆だったのでしょう。私たちもパウロと同じようにキリストと出会い、太陽よりも明るい光の中に置かれ、サタンの支配ではなく神の手の内に生かされています。私たちを遣わしておられる方は、まことに偉大なお方です。

2020年7月8日水曜日

2020年7月8日(使徒言行録25)

使徒言行録25
この章でもパウロに対する尋問と、パウロの弁論というやりとりが続いています。フェリクスの後任の総督のルキウス・フェストゥスの前で、エルサレムから来たユダヤ人たちは「思い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった」。それで、パウロは「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても、何の罪も犯したことはありません」と弁明します。
フェストゥスはユダヤ人たちに気に入られようとして、パウロをエルサレムで裁判にかけようと考えます。しかし、パウロは答えました。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのように、私はユダヤ人に対しても何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死刑に当たることをしたのであれば、死を免れようとは思いません。しかし、この人たちのうったえが事実無根なら、誰も私を彼らに引き渡すことはできません。私は皇帝に上訴します。」
今回のフェストゥスも、あるいはこれまで登場してきた大隊長やフェリクスも、皆、パウロを訴えるユダヤ人の言い分が自分たちの宗教的な関心であって、ローマ帝国の法に触れるものではないことが分かっていました。フェストゥスはそれでもエルサレムで裁判を行ってしまうことでユダヤ人の手にパウロを引き渡してしまおうとしましたが、パウロは、ローマ帝国の裁判にかけられていることを逆手にとって皇帝に上訴し、ローマに向かうことを望みます。
フェストゥスがユダヤのアグリッパ王にパウロについて訴えた言葉を聞くと、彼の戸惑いがよく分かります。「(ユダヤ人たちが)パウロと言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。私は、これらの議論の取り扱いに困ったので、『エルサレムに行き、そこでこれらの件について裁判を受けたくはないか』と言いました。しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに送り届けるまで、彼をとどめておくように命令しました。」フェストゥスにも、パウロをどう扱ったものなのかよく分からなかったのでしょう。結局フェストゥスはパウロを有罪とするに足る証拠をえることも、彼自身そういう判決を下すべき理由も見つからず、パウロをそのままアグリッパ王のところへ送ることとしました。
自分たちのタブーに触れた者を決して許そうとしない者たち。自分の立場を守るために困り果ててしまう権力者たち。ただパウロだけがキリストへの信仰を確かに、他に何にも寄りかからずに立っています。

2020年7月7日火曜日

2020年7月7日(使徒言行録24)

使徒言行録24
総督フェリクスの前で裁判を受けたパウロ。フェリクスはしばらくパウロを留め置き、ある程度の自由を与えます。「そしてパウロを監禁するように百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、仲間が彼の世話をするのを妨げないようにさせた。」
そして、フェリクスは自身のユダヤ人である妻ドルシラと共に来て、「パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた」のでした。しかし、それでフェリクスが信仰に入る、ということにはならなかった。「パウロが正義や節制や来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。折を見て、また呼び出すことにする』と言った。」フェリクスはもともと「この道についてはかなり詳しく知って」いましたし、パウロという存在にさらに興味を抱き、話を聞きました。しかし、キリストにある信仰の道に実際に入ることはやめてしまった。なぜなら、パウロの話が自分の生き方への変革を要求するものだったからです。傍観者でいられなくなってしまったから、フェリクスはそこに入ることを拒みました。
そうなると、もうフェリクスには下心しか残っていません。「パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。」さらに、「二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」のでした。パウロの命運は、フェリクスの勝手な都合で弄ばれてしまいました。もしかしたら、フェリクス自身が、興味は持ちながらその道に入ることをやめてしまったことへの罪悪感から、パウロにこのような仕打ちをしたのかも知れません。しかしそれよりも本質的なことは、フェリクスが自分の変革を嫌った、ということです。
ナチスの支配に抵抗したドイツの教会が告白したバルメン宣言の中に、このような言葉があります。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、われわれの全盛活にたいする神の力ある要求でもある。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放を与えられる。
われわれが主イエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるとかいう過った教えを、われわれは退ける。」
主イエス・キリストは私たちを新しい生へと招く、神さまの呼びかけです。私たちも、キリストによる新しい生へ、神から招かれています。

2020年7月6日月曜日

2020年7月6日(使徒言行録23)

使徒言行録23
最高法院でのパウロの取り調べが混乱しています。大祭司がパウロを鞭で打つように命じると、パウロは律法に従って反論します。また、パウロがイエスが復活したことを語っていたので、それについてファリサイ派とサドカイ派との間で論争が起こりました。サドカイ派は復活を否定し、ファリサイ派は認めていたからです。ファリサイ派の中にも、パウロに何の罪も見いだせないという人も現れましたが、混乱は続きます。ついに、「(異邦人である)大隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りて行って人々の中からパウロを力ずくで連れ出し、兵営に連れて行くように命じた」のでした。
しかし、パウロ憎しというユダヤ議会の思いは留まりません。40人以上の人々がパウロを必ず殺すという誓いを立て、それを果たすまでは食事をしないと言い出しました。パウロの従兄弟がそれを聞きつけて大隊長に知らせ、大隊長はパウロをその夜のうちに別の場所に護送することにしたのです。
「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下にご挨拶申し上げます。この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されてようとしていたのを、私は兵士たちを率いて救い出しました。ローマ市民であることが分かったからです。そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。ところが、彼が告白されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送します。」
こうして、パウロは総督フェリクスのもとへ行くことになりました。不思議なことに、パウロの命をここで助けたのは、ローマ軍の隊長である男、異邦人の男でした。主が、パウロのそばにいつでもいてくださいました。「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」神がそう命じて、私を立たせてくださった。その事実が、パウロを立たせたのではないでしょうか。
人間の混乱の中で、神の御心が進んでいきます。私たちの知恵は小さく、先を見通すことはできません。しかし、神さまの御心が実現していくのです。

2020年7月5日日曜日

2020年7月5日(使徒言行録22)

使徒言行録22
私は今日伝えられているパウロの言葉を読んで、主イエスのお言葉を思い出しました。「私があなたがを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。人々に用心しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうとかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである(マタイ10:16~20)」。
今日の使徒言行録で、逮捕されたパウロがユダヤ人の取り調べで最初に述べたのは、自分のイエスとの出会いの出来事でした。迫害者である自分と出会い、自分をご自身の証人として遣わしてくださったイエス・キリストの話をしました。情熱的な話です。しかしそれから騒動になったとき、それを鎮めまたパウロへの尋問を直接しようと考えたローマの大隊長に対して、パウロは「ローマ市民を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」と主張します。自分が生まれながらに持っていたローマ市民権を盾に、正当な裁判を要求します。まさに、パウロは鳩のように無垢になってキリストとの出会いを語り、蛇のように賢くローマ市民権を活用します。普通、無垢さと賢さを使い分けるとしたら、自分の身を守るためです。自己保身のためには何でもする。しかし、パウロはそうではありません。パウロはこの後、ローマ市民権を盾に皇帝の前に出頭させるように要求します。ローマ伝道をするために、自分の信仰の経験と社会的な権利を最大限活用するのです。
パウロは、ただひたすらに、キリストに与えられた使命にだけ忠実に生きます。「行け。私があなたを遠く異邦人のもとに遣わすのだ。」キリストにそう命じられた者として、神に与えられた使命に誠実をつくします。そのためには、与えられたすべてのものを使いつくす覚悟を、パウロはしていたのです。そういうパウロの口に言葉を授けたのは、聖霊なる神さまです。神さまは、私たちの口をも通して語ってくださいます。そのために開かれた私でありたい。今日、そのように願います。

2020年7月4日土曜日

2020年7月4日(使徒言行録21:17〜40)

使徒言行録21:17~40
エルサレムで、パウロが逮捕されました。エルサレムの教会の仲間たちはパウロの到着を喜んで迎えてくれました。ところが、パウロに迫っていた危機を案じています。パウロを捕らえようとしていたのはユダヤ人たち。容疑は、モーセの律法を蔑ろにしている、ということです。パウロが「子どもに割礼を施すな。慣習に従うな」と言っていると、ユダヤ人たちはパウロについて怒っていたのでした。
確かに、パウロはそういうことを言っています。パウロ自身が書いた手紙、例えばガラテヤの信徒への手紙などを読むとこの問題を丁寧に論じ、むしろ割礼に頼る信仰のあり方の問題点を指摘します。結局、自分を救うのは自分の正しさだという話になってしまう。そうではないはずだ、私たちを救うのはただキリストの十字架に現された神の恵みだけだ、とパウロは訴えました。
しかし、表面的に律法が要求する業を蔑ろにしているという部分を切り取って見ていた者たちにとっては、パウロは自分たちがひたすら守ってきたタブーを土足で踏みにじる裏切り者としか映りません。そこで、そういうユダヤ人たちの怒りを知っていたエルサレムの教会の仲間たちが、パウロに提案します。ここにいる四人の仲間たちが誓願を立てるために身を清め、頭を剃るための費用を出してほしい、そうやって律法を重んじていることを示してほしい、と。確かにパウロは律法の行いではなく神の恵みによって救われることを説きましたが、律法を無効にしようとしていたわけではありません。それでパウロもその提案に同意し、そのようにした。ところが、パウロは僅かその一週間後にユダヤ人の手で逮捕されてしまったのです。
パウロは神殿で逮捕されました。その時、都中の大混乱が起き、人々はパウロを打ち叩く。その以上を聞きつけたローマの軍人が混乱を収束するために現地に駆けつけます。「大隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は大隊長と兵士を見ると、パウロを打ち叩くのをやめた。大隊長は近寄って来てパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。」こうして、パウロの囚人としての生活が始まったのです。
パウロは逮捕されました。後年、パウロは今回の宣教旅行でも共にいた若き伝道者テモテに手紙を書きます。その中にこのように書きました。「この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」パウロは捕らえられた。しかし、神の言葉はつながれていない!この言葉を証明するかのように、パウロはこれから囚人として伝道の業に仕えるのです。囚人として、伝道者として、パウロはローマに向かう。使徒言行録は、まだまだ続きます。

2020年7月3日金曜日

2020年7月3日(使徒言行録21:1〜16)

使徒言行録21:1~16
パウロは仲間たちと共に海路でエルサレムに向かいます。しかし、エルサレムのユダヤ教の指導者たちがパウロを激しく憎んでいたことは明白だったので、誰の目から見ても、エルサレム行きが危険であることは明白でした。皆がパウロを止めます。
ティルスでのことです。「私たちは弟子たちを探し出して、そこに七日間滞在した。彼らは霊に促され、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし滞在期間が過ぎたとき、私たちはそこをたって旅を続けることにした。」パウロにエルサレム行きを思いとどまらせようとする仲間たちの言葉は、霊に促された言葉、つまり聖霊が語らせた言葉だった、と使徒言行録を書いたルカは伝えています。ここに、このときの出来事の特徴があると思います。
カイサリアでは、アガポというエルサレムから下ってきた預言者と出会います。この人はパウロの帯を手にとって言いました。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す』」と。これを聞くと、ルカたちも「土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ」のでした。ここでもやはり、聖霊なる神様ご自身が、エルサレムに行くと捕らえられると警告していた、と言います。
パウロは聖霊の導きを拒んで、自分勝手な思いでエルサレムに行き、その結果捕らえられたということなのでしょうか?そうだとすると、今の時代精神の言葉で言えば、捕らえられようと何だろうと結局は「自己責任」だということになるのでしょうか。
パウロが見ていたものは、そういう次元ではなかったようです。パウロは言います。「泣いたり、私の心を挫いたり、一体これはどういうことですか。私は、主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか、死ぬことさえも覚悟しているのです。」パウロは、エルサレムに行くことがどんなに危険なのかをよく承知した上で、なおそこへ向かおうと言うのです。これは、十字架へと向かっていく主イエスさまのお姿に重なるのではないかと思います。そのキリストのお名前のために、パウロは同じ道を進みます。
わたしは今朝の使徒パウロの言葉と歩みに触れて、香港の教会の友を思いました。私たちの姉妹教会が香港にあります。教会に行っているからと言う理由ですぐに捕らえられはしないかもしれませんが、そういう日が実際に来てしまう危険性が増しています。今、香港で起こっている出来事について、私たちは今朝特に祈りを献げたいと思います。彼の地のキリスト教会のために。どうか、十字架の主イエスさまが、この地にいる神の民を、今日、そして明日も守っていてくださいますように。

2020年7月2日木曜日

2020年7月2日(使徒言行録20:1〜17)

使徒言行録20:17~38
ミレトスに到着したパウロは、そこにエフェソの教会の長老たちを呼び寄せました。最後の挨拶をするためです。パウロはこれからエルサレムに向かうことにしていました。エルサレムに行ったときにパウロは逮捕されることになります。すでにそのような危険な状況にあることがよく分かっていたのでしょう。パウロはエフェソの長老たちに、別れの挨拶をしました。
パウロは言います。「(パウロは)謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。」パウロが涙を流しながらエフェソでしたことは、主イエス・キリストの福音を証しするという一点につきます。そのことに集中し、心を注ぎだすようにして仕えてきたとパウロは言います。
そして、これからパウロはエルサレムに行く。そこでは「投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださって」いると言います。「しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません」と言い切っています。パウロは、神の恵みの福音を力強く証しするという、そのことに集中してきましたし、これからもそうすると言います。それこそ、力強くそのように証しします。
そこで、別れを告げるエフェソ教会の指導者たる長老に言うのです。「どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。私が去った後、残忍な大神どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとするものが現れます。だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」かならず教会としての苦難の時を迎え、試みに耐えなくてはならないときが来る。だから、パウロがこれまで教えてきた言葉を思い起こし、目を覚ましていなさい、と言います。
こうしてみると、エフェソ教会を導くのは、これまでも、これからも、神さまの御言葉です。さがみ野教会も同じです。神さまの御言葉だけが教会を造り、教会を支え、教会を導きます。だから、パウロは言います。「そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。」神とその恵みの言葉が、教会を守ります。教会の行くべき道を照らします。ただ一つの羅針盤です。私たちは、この御言葉によって、この嵐のような時代を生きていきます。

2020年7月1日水曜日

2020年7月1日(使徒言行録20:1〜16)

使徒言行録20:1~16
トロアスでの出来事です。「週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。」何気なく書いてありますが、「週の初めの日」に、彼らは集まっていました。日曜日のことです。そもそもユダヤ教の会堂では安息日に集会がもたれていました。安息日というのは、土曜日のことです。土曜日に仕事を休んで会堂に行き、週の初めの日からは働いていました。しかし、この時すでに、週の初めの日に集まって、パンを裂く礼拝を献げていたようです。「パンを裂く」というのは聖餐を指します。週の初めの日に集まる。そして、パンを裂き、御言葉に耳を傾ける。私たちも献げている礼拝の原型が、この時すでに整っていたことになります。
ここでの問題は説教中に起きました。パウロの話は夜中まで続きました。「私たちが集まっていた階上の部屋には、たくさんの灯がついていた。エウティコと言う青年が、窓に腰をかけていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。」何と言うことか。あまりに長いパウロの説教で居眠りをした青年が、腰掛けていた窓から転落し、死んでしまったというのです。長い説教で人が死んでしまうとは!
しかし、事は先に進みます。「パウロは降りて行き、彼の上にかがみこみ、抱きかかえて言った。『騒がなくてよい。まだ生きている。』そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた。」パウロは、この青年の上にかがみ込み、彼はまだ生きていると言います。そして、彼は生き返った。この仕草は、主イエスのなさった振る舞いとよく似ています。主イエスはヤイロの娘が死んだときに言いました。「泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ」と。そして、彼女の手を取って起こしてくださいました。パウロも主イエスのなさったことをなぞるようにして、この若者をもう一度立たせます。
安息日(土曜日)に献げられていた礼拝が、なぜ週の初めの日(日曜日)に変更になったのか。それは、主イエス・キリストが週の初めの日に復活したからです。キリストの命を祝うために、キリスト教会は土曜日ではなく日曜日に礼拝を献げるようになりました。ですから、日曜日の礼拝はキリストの命を祝う祝祭です。パンを裂いて、キリストの十字架を思い起こして献げる礼拝は、キリストの命に与る出来事です。この出来事は、私たちに命を与えます。私たちも、あの青年のように、キリストの命に与っています。それが週の初めの日に集まって礼拝を献げるという出来事が指し示す福音の事実です。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...