2015年12月20日日曜日

ルカによる福音書第2章1から20節「今日は救いの日、平和をもたらす日」

最初のクリスマスの夜に天使が羊飼いに告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」あるいは、天の大軍が神を讃美して言います。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」これこそ、クリスマスに告げられた福音の言葉です▼福音を聞いたら、人間は一体どうなるのでしょうか?私は3年弱、日本中会女性会のアドバイザーを務めました。この数年を先日執行部の方たちとふり返る機会がありました。私は牧師として女性会に出席しましたので、自分のするべきことをしました。即ち、毎回会議のはじめに聖書の御言葉の説教をしました。福音が語られると、人間は新しくなります。女性会も例外ではありませんでした。とてもよい三年間でした。神の言葉が語られたのですから、起こるべくして起こったこと、と言えるのかもしれません。或いは、以前、保育園のクリスマス会に呼んで頂いたこともあります。その時子どもたちに話しました。皆さんは、今日から天使になる。神さまの愛を伝える天使になる。おうちの人やお友だちに、天使として、神さまの愛を届けてください、と。福音を聞くと人は新しくなります。天使になれるのです。自分自身、福音を語る者になれるのです▼「地には平和」という天の大軍の讃美もあります。今年は平和について何度も何度も考える年になりました。私も何冊かの本を読んで勉強しました。あの天使たちの讃美は天や地が登場する、スケールの大きな言葉です。聞く者の耳を自分のへその周り1メートルから、広いところへ引き上げます。平和とは、一体何なのでしょう。今年、私はブラジルに行きました。大変治安が悪い場所です。それに、貧しい場所です。田舎の貧しい地区の子どもの家に行きました。厳しい生活です。決して理想化できません。しかし、礼拝後にのびのびとサッカーをしている姿もまた麗しいものでした。日本の子どもについて、悲観的な言葉がよく聞かれます。ゲームばかりで無気力、などと。しかし、そのようなことはありません。この地域の何十人という子どもと会ってきましたが、断言します。但し、子どもを取り巻く環境はよくありません。それは大人のせいです。この世界に行きつつ、問わざるを得ません。平和って、一体なんでしょうか?一つ言えることは、「いと高きところには栄光、神にあれ」を抜きにした「地には平和」はあり得ない、ということです▼この世界には聖書の福音は妄想だと言いうる証拠がたくさんあるように見えます。それは主イエスの時代も今も変わりません。世界は夜の闇に包まれている。しかし、この世界は既にキリストがお生まれになった世界です。権力者が何をしても、その事実は変わりません。希望がある。それがクリスマスです。

2015年12月13日日曜日

フィリピの信徒への手紙第2章6から11節「従順と高慢」

金曜日にことりの会の0歳からのクリスマス会をいたしました。初めて教会の集会に来られた親子が参加してくださり、とても嬉しかったです。クリスマスにお生まれになった主イエスは、子どもを愛されたお方です。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とまでおっしゃったのです。先週、友人が赤ちゃんを出産しました。初めての男の子が与えられ、特別な思いでクリスマスを迎えているとだと思います。生まれたばかりの小さな赤ちゃんは何と小さく、弱々しいことでしょうか。自分では何もできません。肉体が老い、或いは病のために、以前はできたことができなくなり、日常の生活が思うように運ばなくなることは、厳しいことです。主イエス・キリストは、何もできない赤ちゃんになられました。「子どものようにならなければ」と言われた方が本当に子どもになられたのです。この方ご自身は神と等しい身分であるのに!ご自分がへりくだって、子どもにならなければ、私たちが救われないからです。主イエスのへりくだりは、赤ちゃんになったことには留まりません。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」礼拝で告白している使徒信条に「十字架につけられ、陰府に降り」という言葉があります。「陰府」という言葉が聖書の中でどう使われているか、最近学びました。旧約聖書の古い時代には、まだ死者の復活という信仰はなく、陰府とは神にも手出しできない死の世界、神への賛美が断たれた世界と考えられていたそうです。しかし、時代が進むにつれて陰府という言葉の理解に変化が起こります。神は天におられるだけではなく、陰府にもまたおられる。神はご自分に従う者を陰府に捨て置くことなく、そこから救ってくださると信じるようになりました。そして、イエス・キリストが十字架の死に、陰府に降られた。ですから、もう神があずかり知らぬ場所はどこにもないのです。イエスが陰府に赴くまでに従順であり、へりくだってくださったから。主イエスがへりくだり神の身分に固執せずに奴隷の身分になられたからこそ、例え死の世界であっても、神はそこにいてくださるのです。病気や困難で弱くなると、心が凍ります。同じ経験をしていない人に何が分かるのかと思い込んでしまいます。しかし、イエスはそのどん底にもおられるのです。ですから、十字架で死なれたイエスの弱さは、私たちにとっての福音です。私たちを救うことができるのは、十字架の無力な神だけです。だから、父なる神はこのキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。私たちは奴隷となって十字架にかけられた神を天に仰ぐのです。私たちの最底辺に立って、私たちの病を担い、私たちの痛みを負ったのは、この方なのです。

2015年12月6日日曜日

ルカによる福音書第1章26から56節「新しい世界を拓く出来事」

あと一ヶ月ほどで2015年が終わります。皆さんにとっては今年はどのような一年だったでしょうか。私は、悲しみを覚えた一年でした。その一つは、私たちの国の行く末を思っての悲しみです。幸いにして神は私たちの礼拝に幼子を預けてくださっています。この子たちが大人になる10年後、20年後の社会は一体どうなっているのでしょう。ここのところ、権力者の嘘が日常の出来事になってしまいました。これもまた失望を生みます。権力が宿命的に持つ腐敗、というものがあるのではないかとさえ思います。そんな思いでこのクリスマスを迎え、おとめマリアのところへ来た天使の言葉が心にとまりました。マリアの胎に宿った子について、このように言うのです。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアの胎に宿った子、イエス・キリストは私たちの王となられる。この一年の悲しみを覚え、主イエスの御支配に生きられるのであれば、それほどの幸いはないと私は思うのです▼フランスでテロがあり、シリアでは連日の空爆が続きます。イエスの御支配など一体どこに見られるのでしょう。イエスの時代から1000年ほど前の時代が舞台の旧約聖書サムエル記上第8章で、イスラエルの民は隣国ペリシテの脅威から自分たちの国を守ろうと、他の国のように王を求めます。つまり、自衛のために普通の国になろうとしたのです。しかし、それは実は神が王であられるのを退けることを意味しました。見えない神が王だなどというのは、彼らにとっては非現実的な理想主義に過ぎなかったのでしょう。王は民を搾取するものだという警告を聞いても民の気持ちは変わらず、やはり王を求めます。その後の歴史の経緯を見ても、結局は自衛力を高めようと王を求め、神の御支配を退けたことがイスラエル破滅の急所でした。そのために権力者は庶民から収奪し、富の寡占、貧富の格差の固定化、汚職、腐敗へと突き進むのです。しかし、神は民が王を求めたときに言われました。「今は彼らの声に従いなさい。」こうして、王が立てられた。それは、多分我々人間には、無理強いしても分からなかったからでしょう。神が王でいらっしゃると言うことが何を意味しているのかが。では、「今は」とはいつまでなのでしょう。それは「神の時が満ち」るまでです(讃美歌262)。その時が来て、おとめに宿ったとき、やはりマリアにも神がなさることは理解できませんでした。「どうして、そのようなことがありえましょう」と神の計画を聞いた彼女は言ったのです▼イエスが就かれた王座とは、金や銀でできた王座ではなく、十字架のことです。イエスの支配は、十字架にかかって我らを罪から救う御支配です。徹底して謙られた王キリストこそ、痛み、傷つく私たちの世界を救ってくださる。私はそう信じています。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...