2021年5月31日月曜日

2021年5月31日(詩編134)

詩編134
  都に上る歌。
さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。
夜通し、主の家に立つ人たちよ
聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。

主がシオンからあなたを祝福してくださるように
天と地を造られた方が。(1から3節)

第120編から続いてきた「都に上る歌」という表題のついた詩編はこれで終わりです。今朝の詩編が最後の巡礼歌ということになっています。神さまを礼拝するために都に上り、その道々、この祈りの言葉を唱えたのでしょう。そしてエルサレムに着いたときに、仲間たちと一緒にこれを歌ったのでしょう。これは礼拝に向かう私たち自身の讃美歌です。私たちも心を合わせて、声を合わせて、この巡礼歌を歌いながら、礼拝に向かう毎日の旅路を進んで行きます。
「主がシオンからあなたを祝福してくださるように」と言います。シオン、ここではエルサレムを意味している。シオンの山を登りながら、ここから神が私たちを祝福してくださいますように、と歌うのです。私たちは天と地を造られた方の祝福を頂くために、礼拝への道を上っていくのです。
だから、私たちもこの詩編に答えて、こぞって主をたたえましょう。主を賛美し、朝に夕に、神さまを賛美しましょう。眠られない夜にも、主を賛美しましょう。仕事のため、介護のため、育児のため、心配事のため、いろいろなことで眠ることのできない夜があるでしょう。そういう時、私たちの口から出てきがちなのはつぶやきです。文句です。その言葉を賛美に変えましょう。そうしたら、必ず元気が出てきます。上を見上げることができるはずです。
主がおられる聖所に向かって、私たちの手を上げます。旧約聖書の時代には、それはエルサレムの神殿だと考えられていたのかも知れません。しかし、今私たちは知っています。キリストが言われたのです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」キリストと出会った今、私たちはどこででも父を礼拝することができます。霊と真理をもって。キリストを礼拝し、神さまに祈る最高の幸せのために、私たちは礼拝に向かう旅路を、今進んでいるのです。

2021年5月30日日曜日

2021年5月30日(詩編133)

詩編133
兄弟が共に住むことは
何という幸せ、何という麗しさ。

頭の上に注がれたかぐわしい油のようだ。
それは、ひげに滴り落ちる。
衣の襟にまで垂れるアロンのひげに。
ヘルモンの露のようだ。
それはシオンの山々に滴り落ちる。

主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。(1~3節)

「兄弟が共に住む」ことの喜び、麗しさを言い表す詩編です。この住むという動詞は、新共同訳では「座る」と翻訳されていました。聖書のほかの用例を見ると、どちらの訳の場合もあります。新共同訳のように「座る」と理解するなら、この詩編は都に上る歌、巡礼歌ですから、礼拝を共に献げているという意味であるのかも知れません。あるいは聖書協会共同訳のように「住む」と理解するならば、共に生きるということなのでしょう。共に神を信じ、共に生き、共に喜びまた共に悲しむ。そうやって共に生きる生活を喜ぶ詩編と読むこともできます。そして、「座る」も「住む」も、互いを排除しないので、どちらの理解も可能であると思います。
兄弟が共に住む。その幸い、その麗しさを第二連目である2,3節で言い表しています。不思議な表現です。祭司のひげにしたたる香油のように麗しい、と言っています。何を言っているのか。出エジプト記29:7などを見ると、新しい祭司を任職するとき、頭に油を注いで聖別するようにと定められています。恐らくこの詩編では、その油のことを言っているのだと思います。新しく一人の兄弟が祭司として立てられた。そうやって神さまの御業が進んでいる。その麗しさ、その幸いをここで喜んでいるのでしょう。そして、神さまの御業を共に喜ぶ信仰の兄弟姉妹と共に生きる幸いを喜んでいるのでしょう。その喜びは、神が与えてくださる祝福、そしてとこしえの命の喜びです。私たちは神さまの御業に与るのです。
6月6日に、私たちは洗礼式を迎えます。新しい祭司の頭に油が注がれるように、新しい兄弟の頭に水が注がれます。そうやって進む神さまの御業を、私たちは共に喜びます。

2021年5月29日土曜日

2021年5月29日(詩編132)

詩編132
ここに、ダビデのために一つの角を生やす。
私が油を注いだ者のために一つの灯を据える。
彼の敵には恥をまとわせる。
しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。(17~18節)

この詩編は、イスラエルの人々には特別な意味を持った詩編だったのではないかと思います。やがて来たる救い主を預言する詩編として読まれていたに違いないのです。「主よ、ダビデを思い起こしてください」と始まっています。そして、「あなたの僕ダビデのために、あなたが油を注いだ人の願いを拒まないでください」と言います。そして、それに対して神が答えてくださったと言います。「主はダビデに確かな誓いを立てられた。主がそこから引き返されることはない。」
従って、この詩編は「あなたの胎の実りの中からあなたの王座に着く者を定める」と言われている新しい王、メシア、救い主を待望する祈りの言葉と理解することができます。
「ここに、ダビデのために一つの角を生やす」と言われています。この詩編だけではないようですが、この詩編のことも覚えながら語られたに違いない言葉がルカによる福音書に登場します。祭司ザカリアの預言です。「我らのために救いの角を、僕ダビデの家に起こされた」とザカリアは言った。ザカリア夫妻はとても年を取っていましたが、神さまの御業のもとに息子が与えられた。その子の名を、天使に示されたとおりに「ヨハネ」と名付けたときにザカリアの口に上った預言の言葉の一節です。この預言は、救い主がこれから生まれてくることを喜び、ヨハネがそのために道を備える者となると述べ、神の憐れみの心を賛美しています。
主イエス・キリスト。この方こそ、私たちのために神が起こしてくださった救いの角です。角というのは力の象徴なのでしょう。あるいは、祭壇の角の意味かも知れません。祭司がいけにえの雄牛の血を流すと、祭壇の角にその血を塗るのです。(レビ記4:7参照。)キリストの血が流されたことを彷彿とさせます。御自ら血を流す救い主が、ダビデの家に生まれる。この方こそ、私たちのための救いの灯です。「その灯の上には王冠が花開くであろう」と言います。キリストの頭に花開いた王冠は、茨の冠でした。私たちのために血を流し、茨を王冠として戴く方。この方が私たちのただ一人の救い主です。

2021年5月28日金曜日

2021年5月28日(詩編131)

詩編131
主よ、私の心は驕っていません。
私の目は高ぶっていません。
私の及ばない大いなること
奇しき業に関わることはしません。
私は魂をなだめ、静めました
  母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。
私の魂は母親の傍らの乳離れした幼子のようです。(1~2節)

母親の傍らにいる乳離れした幼子。もちろん子どもによってそれぞれ違うと思いますが、私がよく知っている乳離れしたばかりの幼子は、母親にべったりです。もちろん元気に、自由に遊び回ります。自分から離れる分にはいろいろな冒険を試みますが、いつの間にか母親が離れることは決して許しません。自分の基地である母親がそこにいて、自分を見てくれていることで安心して遊んでいるようです。母親のまなざしや温かい手が幼子を守っているし、幼子自身そのことを知っています。
まるでそういう幼子であるかのように、私はあなたの傍らにいます。この詩編は神さまにそのように言います。そして、「私は魂をなだめ、静めました」と言っています。波立ち、不安だったのでしょう。粟立つような思いでいたのかも知れません。しかし、どんなときにも幼子が母の側で安心するように、私はあなたの傍らで平安を得ますと言うのです。
そうやって主なる神様のそば近くにいるとき、心が驕ることはありません。その目が高ぶることはないのです。「奇しき業に関わることはしません」と言っています。「奇しき業」は神さまの領分です。奇しき業、奇跡のようなことによって自分の願いを叶えてほしい、自分に得になるようにしてほしいと私たちは願います。しかし、そこは神さまの領域として、私は私の分をわきまえる。それもまた神さまの御前での幼子としての振る舞いです。私たちは神さまの子どもとして、母の側にいるようにして、神さまの目に、その手に、今日も守られています。

2021年5月27日木曜日

2021年5月27日(詩編130)

詩編130
主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。
わが主よ、私の声を聞いてください。
嘆き祈る声に耳を傾けてください。(1~2節)

私はこの詩編が好きです。この詩編は、深い淵の底からの祈りです。7節を見ると、明るい言葉が語られています。

イスラエルよ、主を待ち望め。
主のもとに慈しみがあり
そのもとに豊かな贖いがある。

主なる神様への確かな信頼と、主の慈しみへの確信に溢れた言葉です。一見するとこの詩編の冒頭の「深い淵の底」にそぐわないように感じます。私は最初、最初は1節が言っているとおりに深い淵の底におり、ある時間が経過して神さまの救いを経験し、淵の底から脱出し、最後に至って「主のもとに慈しみがあり」と言って神を賛美するに至ったのではないか、と思いました。
しかし、今ではそれは違うのではないかと考えています。この詩編は、最初から最後に至るまで、深い淵の底にいる者の祈りなのではないでしょうか。深い淵の底にいるときだって、私たちは神を信頼し、その慈しみを確信して、賛美することができるのです。「イスラエルよ、主を待ち望め」と。この賛美は、「わが主よ、私の声を聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください」という祈りと矛盾しません。
深い淵の底で、私たちは嘆きます。神さまを呼び求めます。そして、主を待ち望みます。

私は主を望みます。
私の魂は望みます。
主お言葉を待ち望みます。
私の魂はわが主を待ち望みます
夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにもまして。(5~6節)

主なる神様、この方こそ私たちを救ってくださる方。だから、私たちは深い淵のそこにいて主を待ち望み、主に向かって祈り、叫び、そして主を賛美します。必ずこの方が救ってくださる。必ずこの方が慈しみを与えてくださる。必ずこの方が私を贖ってくださる。そのことを信じ、私たちは主を待ち望むのです。

2021年5月26日水曜日

2021年5月26日(詩編129)

詩編129
「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。
しかし、私に勝つことができなかった。
悪しき者らは私の背に鋤を当て
長い畝を作った。」
主は正しい。
悪しき者らの縄を断ち切ってくださった。(2~4節)

自分を苦しめる人を前にしたとき、この詩編は大きな慰めになります。「彼らは私を大いに苦しめた。しかし、私に勝つことができなかった。」私が強くなり彼らにも勝てるようになったからとか気にしないでいることができるようになったからとか、そのようなことは言っていません。彼らが畑を耕すように私を痛めつけたとしても、主は彼らが私を縛る縄を断ち切ってくださる。私を自由にしてくださる主の正義が私を守ってくださる。それが、この詩編が表明する信仰です。
私は、ちょっとでも自分が苦しめられたり、意にそぐわないことを言われたり、厭な思いをしたりしたら、倍にして返したくなります。言葉で、態度で、相手にも厭な思いをさせてやりたくなるし、実際にそうしてしまいます。もちろん、そんなことは間違っています。間違っていると分かっているのに、どうしても気が済まない。そんな自分に気付くと惨めな気持ちになります。
私は、この詩編の中心は「主は正しい」というこの一句であると思います。原文でも、たった二つの単語で言い表されています。「主は正しい。」それ以外には私たちの言うべきことは何もありません。私は本当に小さな人間。しかし相手もそうです。小さな者同士、もうどうしようもありません。しかし、主は正しい。それだけは確かです。
この詩編は主の正しさにかけています。ただし、正しい主に怒られないように良い子の振りをする、ということもしません。かなり激しい言葉で相手を罵っています。ただ、相手にぶつけるのではなく、主なる神さまにそれを訴えている。これが信仰者の怒り方。そのことを教えられます。

2021年5月25日火曜日

2021年5月25日(詩編128)

詩編128
幸いな者
主を畏れ、その道を歩む人は皆。
あなたの手が苦労して得た実は
  必ずあなたが食べる。
あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。(1~2節)

とても正直なことを言うと、私は今朝の詩編を読んで戸惑ってしまいました。主を畏れ、その道を歩んだとしても、自分の手が苦労して得た実を食べることができるとは限らない現実がこの世に溢れているからです。3節を見ると妻や子どもたちといった家族の祝福にも言及されています。しかし家庭の中でしあわせを味わうことができるとは限らないし、妻や子どもとうまくいかなくなってしまったとき、それは神さまに逆らったからだと単純に言うことはできません。
神さまに従っても、不条理な目に遭うことはあります。あるいは逆に神に逆らう人のほうが幸せにやっているように見えてしまうことも往々にしてあります。そう考えると、今日の詩編に戸惑ってしまいます。
ただ、この詩編の言葉をわが祈りとして口ずさみつつ都に上っていったたくさんの旧約の民も、そんな不条理はよく知っていたと思います。「神さま、どうしてですか」と、私たちと同じような祈りを重ねながら信仰生活を送っていたに違いないのです。不幸を味わいながら、それでも神を信じ、神に従った。そして、主を畏れ、その道を歩むことこそが私の幸せだと信じて生きたのです。
私たちはどんなに神さまを信じ、真摯に生きたとしても、願っている幸いを得ることはできないかも知れません。却って不条理な目に遭うかも知れません。しかしそれでも、神さまを信じ、主を畏れ、その道を歩むことが私たちの最高の幸せであると私は信じています。なぜなら、それこそがキリストの歩まれた道だからです。キリストは、報いがなくとも神を信じ、誰からも顧みられなくても隣人を愛し抜かれました。キリストと共に生きる者は、この世で報いを受けなくても、来る世で神が必ず報いてくださるに違いありません。
「イスラエルの上に平和があるように」とこの詩編は結ばれています。イスラエル。神の民。新約の民である私たちも、キリストにあってその一員です。私たちの平和はキリストにある。キリストを見上げ、キリストの御足の跡に自分の足を重ねて歩む一日を、祈り求めていきたいと願います。

2021年5月24日月曜日

2021年5月24日(詩編127)

詩編127
もし、主が家を建てるのでなければ
  それを建てる人々は空しく労苦することになる。
もし、主が町を守るのでなければ
  守る人は空しく見張ることになる。
空しことだ
朝早く起き、夜遅く休み
  苦労してパンを食べる人々よ。
主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。(1~2節)

ヘブライ人の時間感覚では、一日の始まりは日没の時なのだそうです。日が落ちると新しい一日が始まる。現代社会では夜でも煌々と明かりがついていますが、それはつい最近のことであって、人類はほとんどの時間日没後は真っ暗な世界に生きていました。灯は庶民にはそうそう気軽にともせるものでなかったと思います。そうすると当然、夜になったら寝るしかありません。従って、一日が始まって最初にするのは睡眠なのです。とっても興味深い時間感覚だと思います。そして、この事実は私たちにとても大切なことを語りかけていると思います。
思えば、私たちも日曜日から一週間が始まります。今は社会が複雑になったので日曜日だからといって休みとは限りません。しかし最初のスタートの精神は、やはり、休むことから一週間が始まるということであったのではないかと思います。
人事を尽くして天命を待つという言葉があります。人としてできるだけのことをして、後は天命を待つ。確かに自分としてできることを精一杯するというのは大切でしょう。しかし、聖書の知恵は、まず休むことから始まる。それは怠けながら棚からぼた餅が落ちてくるのを待つということではありません。神が働いていてくださることへの信頼を表明しています。神ご自身が働いてくださるのでなければ、家を建てる労苦も町を守ることも空しい。神の働きの余地を、私たちは奪ってはいないでしょうか?
寝るための夜の時間は、神が造ってくださったものです。私たちが寝ているときにも神さまは寝ずの番をしてくださっています。神さまが、今日も働いてくださっている。その事実への信頼が、私たちをのびのびとした命に生かすのです。

2021年5月23日日曜日

2021年5月23日(詩編126)

詩編126
涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も
穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰ってくる。(5~6節)

この詩編は、恐らく、捕囚解放後のどこかの時代に生み出されたのではないかと思います。1節に「主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき、私たちは夢を見ている人のようになった」とあります。シオンの繁栄を再びもたらされたといのは、ペルシアの治世にユダヤの人々が捕囚から解放され、少しずつエルサレムに帰還して神殿を再建し始めていた時代を思わせます。神の救いの出来事を目の当たりにして、夢を見ている人のようになった、と言っているのだと思います。それほど途方もない、人間としては想像もつかないようなすばらしい救いが現実のものとなった、と言っているのです。
バビロンに破れ、捕囚となり、遠い異国に強制的に移住させられたこと、そこでの生活が何十年も続き、世代がまるごと入れ替わってしまうほどの時間を外国で過ごさねばならなかったこと、やがて帰還してもすでに別の人が住みついていたこと、苦労して神殿を再建したこと、それらすべてが「涙の出来事」だったのではないかと思います。不条理に悲しみつつ、自分たちをこのような不幸に追い込んだ自身の罪を悲しむ、涙の出来事だったのではないでしょうか。
ところが、涙と共に種を蒔くとき、その種はやがて喜びの実りを結ぶと言います。泣きながら種袋を背負うならば、喜びの刈り入れをすることになる、と言います。
もしかしたら私たちにとっても今は涙の時であるのかも知れません。しかし、種を蒔き続けましょう。福音の種を。キリストにある望みを証しし続けましょう。必ず、涙と共に蒔いた種は喜びの実りを結びます。泣きながら担いだ種袋は、やがて必ず喜びの穂の束に変わるのです。神さまを信じるというのは、自分の目には閉ざされているときにも、喜びを結ぶ神の御業は進んでいると信じることです。今日も、喜びを結ぶために、神さまの御業は進んでいます。だから、私たちは種を蒔き続けます。涙と共に。神を信じ、キリストに期待して、種を蒔き続けます。

2021年5月22日土曜日

2021年5月22日(詩編125)

詩編125
主に信頼する人はシオンの山のように
  揺らぐことなく、とこしえにとどまる。
エルサレムを山々が囲み
主はその民を囲んでおられる。
今より、とこしえに。(1~2節)

私はエルサレムに行ったことがないので想像するしかありませんが・・・エルサレムを山々が囲んでいるように、主はその民を、私たちを囲んでおられる。都に向かう旅をしながら、もしかしたらエルサレムの手前まで来て山を実際に登りながら口ずさんだのかも知れません。この山々がエルサレムを囲んでいるように、主は私たちを囲んでいてくださる!
教会の二階の後ろにある窓から、やはり山が見えます。特に夕方はとてもきれいな夕焼けで彩られます。あの山々がそこから動くことなく、揺らぐこともないように、主を信頼する人も揺らぐことがない!
しかし実際のところ、山々が動くことはあります。それどころか陸地が動いてしまうことだって起こる。それは人間の尺度ではなく、何億年という地球規模の尺度で見てみないと分かりません。私たちの目には山々も大地も、いつだって変わることのない不変なものの象徴のようなところがある。しかし、変わらないと思っていたものもいくらでも変わる。揺るがないと思っていたものも揺らぐことがあるのです。
私がそのことを痛感させられたのは、やはり、10年前の原発事故の時でした。特に何の疑問もなく「安全」だと思い込んでいました。いや、安全かどうか何か問題があるのかないのか、そんなことなんて考えたこともありませんでした。ところが原子力発電から出て来るゴミは人間の手には負えないような、天文学的な期間の保管が必要だと言います。その間、1000年に一度の大災害は何度起こるのでしょうか?
絶対だとか、変わらないとか、そういうことを言いうるのは神さまだけです。礼拝のためにエルサレムの山を登りながら変わることのない主を信頼すると告白した旧約の民の知恵に、謙虚になって学びたいと思います。私たちはへりくだって主を信頼するときに初めて揺らぐことがなくなるのです。「主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に、幸いをもたらしてください。」私は心のまっすぐな人間になりたいと願います。まっすぐに主を信頼し、主の前に己の分を知り、誠実に生きたいと願います。

2021年5月21日金曜日

2021年5月21日(詩編124)

詩編124
「もしも、主が我らの味方でなかったなら」
さあ、イスラエルは言うがよい。
「もしも、主が我らの味方でなかったなら
人が私たちに逆らって立ち上がったとき
彼らの怒りが私たちに燃え上がり
私たちは生きたまま呑み込まれたであろう。」(1~3節)
主をたたえよ。
主は私たちを人々の歯の餌食にされなかった。
私たちの魂を小鳥のように救い出された。
仕掛けた者らの網から。
網は破れ、私たちは救い出された。(6~7節)

この詩編124も、巡礼歌の一つです。礼拝のために旅をしながら、「もしも、主が我らの味方でなかったなら」と歌い、あるいは祈ったのです。私たちが知っているのとは比較にならないほど危険な旅だったに違いありません。毎日の生活もずっと厳しかったのではないかと思います。しかし、主が味方だから、私には恐れがないと断言します。主が私たちの味方でいてくださる。だから例え誰が私たちに敵対し、苦しめたとしても、私たちは大丈夫。主が味方だから。主が共にいてくださるから。礼拝に向かう旅路を進みながら、そのことを互いに確かめ合い、また喜び合っていたのではないでしょうか。
私たちの礼拝から礼拝に向かう旅路はどうでしょうか。私たちも、信仰の大先輩たちのマネをして同じ祈りを口ずさみながら進みたいと思います。主が私たちの味方だから、私自身は不確かであっても、私を苦しめる者がどんなに力強くても、主が味方だから、私は恐れない!
主は、私たちを小鳥のように救いだしてくださると言います。網を仕掛けた者から、主ご自身が私たちを救ってくださる。例え、悪意を向けられていたとしても。誰が私を口汚く罵ったとしても、主が私を救い出してくださる。神さまの助けを、救いを、一心に信じて、今日一日を生きていきましょう。

2021年5月20日木曜日

2021年5月20日(詩編123)

詩編123
あなたに向かって私は目を上げます。
天に座す方よ。
見よ、奴隷の目が主人の手に向かうように
女奴隷の目が女主人の手に向かうように
私たちの目は我らの神、主に向かう
主が私たちを憐れんでくださるまで。(1~2節)

この詩編を読むと、私はマリアのところへ天使がやって来たときのことを思い起こします。「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われたマリアは戸惑いましたが、「神にできないことは何一つない」という天使の言葉を受け入れ、信じて言いました。「私は主の仕え女」です、と。お言葉どおり、この身になりますように。この「仕え女」という言葉は、本来は「女奴隷」という言葉です。女奴隷というとあまりにもイメージが良くないのでこういう翻訳にしたのかも知れません。しかし、女奴隷とはどういう存在かといえば、今朝の詩編では女主人の手をじっと見ている人です。しかも、憐れみを待ち望んで、女主人の手をじっと見つめる。それが聖書の言う女奴隷です。
マリアはまさにそういう信仰に生きた人です。私たちはマリア崇敬の信仰をもっていません。彼女に祈ることはしない。しかし、一人の信仰者として尊敬し、その信仰に学びたいと願います。神の憐れみを求めてじっと天に目を上げる信仰を、私たち自身の信仰にしたいと心から願います。

私たちを憐れんでください。
主よ、憐れんでください。(3節)

この詩編はそのように祈ります。周囲から蔑まれ、嘲られている。だからこそ、主の憐れみを待ち望み、その救いをあえぐようにして求めているのではないでしょうか。私たちの周囲からはいろいろな雑音が入ってきます。私たちの心を挫く声は大きい。だからこそ、奴隷が主人の手を見つめるように、女奴隷が女主人の手を見つめるように、じっと天に目を注いで、憐れみ深い神さまを待ち望みましょう。必ず、救いはそこにあります。

2021年5月19日水曜日

2021年5月19日(詩編122)

詩編122
「主の家に行こう」と人々が言ったとき
私は喜んだ。
エルサレムよ、あなたの城門の中に
私たちの足は立っていた。(1~2節)
私の兄弟、友たちのために、さあ、私は言おう
「あなたたちの内に平和があるように。」
我らの神、主の家のために私は願おう
「あなたに幸いがあるように。」(8~9節)

まさに「都に上る歌」にふさわしい、エルサレムへの愛に満ちた詩編です。そこには「主の家」があり、神を礼拝する。しかも独りぼっちで、個人的にということではなく、人々と共に心を合わせて神に祈り、神を礼拝する。そのことへの喜びと誇りに満ちた詩編であると思います。
この詩編の一つのキーワードは「平和」です。6節、7節、8節で繰り返されています。エルサレムのための平和を祈り求めています。この詩編の1節の表題では「ダビデの詩」とありますが、ダビデの時代から今に至るまで、エルサレムは基本的にはずっとあまり平和な場所ではありませんでした。イスラエルの王の都でしたから、戦争になれば攻め込まれます。エルサレムを包囲され、崩れたこともありました。主イエスの時代の後にも、紀元70年になるとエルサレムはローマに攻め滅ぼされます。その後の長い歴史の中でもエルサレムを巡る争いは何度も繰り返されました。今も、それは続いています。ここ数日のニュースでは、エルサレムではありませんがガザで再びイスラエル軍による攻撃があったと報じられています。争いが絶えない。平和にはほど遠い。
だからこそ、私たちは平和を造り出すために、祈りをし、この世界の罪を悔い改める道を探りたいと願います。私たちは、今や、エルサレムでなくてもどこででも神に祈ることができますし、神を礼拝することができます。キリストの福音に耳を傾け、心を合わせることができます。キリストの福音は、和解の福音です。本当に深く分断され、傷ついている世界、私たちの罪が破壊した世界のために、神に助けを求めて祈る祭司として、私たちは今日の日を歩んでいきたいと願います。

2021年5月18日火曜日

2021年5月18日(詩編121)

詩編121
私は山々に向かって目を上げる。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主のもとから
天と地を造られた方のもとから。(1~2節)

これは、美しい山々やそこにある大自然を愛でながら、これらを造った神様を思い、生まれてきた言葉ではありません。そんな気がしてしまいますが、これはそういう言葉ではない。この詩編全体を見ると、ここでの山々、あるいは6節の太陽や月、これらはすべて脅威です。山々の脅威に打ちのめされ、太陽に灼かれ、月に心を奪われている者、この大自然の前で自分の無力さに打ちのめされている者の祈りです。この山々がどんなに圧倒的に自分にのしかかってきたとしても、私の助けは別のところから来る、と言うのです。
ちょうど、今、私たちも同じ祈りを献げることができるのではないでしょうか。疫病の蔓延をきっかけにして、生活が一変しました。しかし必ず私たちの助けは来ると信じ、望みを得たいと思います。
この助けは「天と地を造られた方のもとから」と言います。ここには、私たちの力では及ばない自然を、さらに創造された方への謙遜があります。疫病の蔓延によって生活が一変した、と書きました。このように書きながら少し複雑な思いも持っています。もとの生活が本当に正しい生活だったのかということについて、私たちは謙遜に振り返らなければならない気もしています。私たちは、本当は人間の力には余るものを、まるで支配できるかのように勘違いしていたのかも知れません。新しい病気との遭遇も、自然環境の破壊も、「天と地を造られた方」の前でのへりくだりを忘れたことへの必然的な結果であるのかも知れません。
主なる神様は、必ず私たちを助けてくださいます。だから、造られたものとして謙虚にそれを待ち望み、また受け取りたい。

主はあらゆる災いからあなたを守り
あなたの魂を守ってくださる。
主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。
今より、とこしえに。

どのような脅威も、災いも、私たちを神の愛から奪い取ることはできません。神さまに祈り、神さまを求めて、今日という日を歩んでいきましょう。

2021年5月17日月曜日

2021年5月17日(詩編120)

詩編120
  都に上る歌。
苦難の時に主に呼びかけると
主は私に答えてくださった。
「主よ、私の魂を助け出してください
偽りの唇から、欺きの舌から。」

この詩編の冒頭に「都に上る歌」という表題が付いています。これからしばらく、同じ題名が付いた詩編が続きます。これらは謂わば「巡礼歌」。エルサレムの都に礼拝に上るときの賛美であり、祈りの言葉です。この讃美歌を口ずさみながら、あるいはこの祈りの言葉を口に上らせながら、エルサレムを目指したのです。神を礼拝するために。私たちには、今では旧約の民と同じような巡礼の信仰はありません。私たちはエルサレムでなくてもバチカンでなくても、どこででも神を礼拝することができます。しかし、私たちの毎週毎週の一週間は、もうすでにそれ自体が巡礼の旅であると思います。礼拝から礼拝へとめざす、神を礼拝するための旅です。私たちも一週間の旅を生きるために、詩編に収められた巡礼歌を口ずさみたいと思います。
苦難の時に主に呼びかけると、とこの詩編は始まっています。礼拝に向かう私たちの道は平坦ではありません。苦難がつきまとう。毎日の生活をしながら礼拝に向かっている以上、当然のことであるのかも知れません。しかしその苦難を単なる苦難とするのではなく、その苦難の中で神に呼びかけ、神を求めることが私たちには許されています。ご自分を呼び求める者に、神さまは答えてくださいます。
この詩編がどういうふうに神を呼び求めているのかといえば「偽りの唇、欺きの舌」から私の魂を助け出してください、と言っています。偽りを騙る唇、欺きを上らせる舌と決別する。平和を愛し、平和の言葉を口にし、神の前に歩んでいく。そのように決断しています。
偽りの唇、欺きの舌を退けて平和に生きる道を選び取るということ自体が、私たちの礼拝に向かう巡礼の旅路なのだと思います。神さまの御前に進み出るにふさわしい者として自分を整える。失敗してしまうこともあります。疲れてしまうこともあります。しかし私たちの罪を赦し、私たちを憩わせてくださるのは、主なる神様です。キリストの恵みと平和が、今日一日も、あなたにありますように。

2021年5月16日日曜日

2021年5月16日(詩編119:169〜176)

詩編119:169~176(タウ)
私は失われた羊のようにさまよっています。
あなたの僕を捜してください。
私はあなたの戒めを忘れません。(176節)

この長い詩編第119編の最後の節は「私は失われた羊のようにさまよっています」という言葉で始まっています。最初の男と女がエデンの園で神さまを裏切ったときから始まって、聖書は私たちが失われた羊のように迷い出て、さまよっている姿を描いています。そして、そんな私たちを捜す神さま。その究極のお姿こそ、イエス・キリストに他なりません。「私は失われた羊のようにさまよっています。」これこそ、私たちの神さまへの告白の言葉なのではないでしょうか。聖書は失われた私たちを捜す神さまのドラマです。私たちが「あなたの僕を捜してください」と祈るよりも先に、神さまが私たちを捜し出すために来てくださっているのです。
「私はあなたの戒めを忘れません」と言っています。神さまの戒めを軽んじたり蔑ろにしたりするということと神さまの前から失われているということとは、無関係ではないと思います。むしろ、同じ事です。私たちは神さまの御言葉を捨てることによって神さまの前から失われていく。ちょうど、最初の男と女が神さまの御言葉を無視し、蛇の言葉を信じてあの木の実を食べたように。ちょうど、あの息子が父を捨てて遠い国へ旅立ち、自ら失われた者となってしまったように。
この詩編第119編がいつ頃の時代に成立したのかはよく分かりません。しかし、言葉の内容から推測すると、恐らく、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに人々が帰還していた頃のものであろうと思われます。暮らしも国も信仰も崩壊し、瓦礫の中からもう一度新しやり直そうとし始めていた時代でした。そんなガラクタの中から再出発しようとしたときに、神さまの御言葉、その律法、神のくださった掟に立ち帰ろうとしたのです。
今、この時代を生きる私たちにも、必要なのはこれなのではないでしょうか。私たちは神さまの前から失われた羊のようです。私たちには神さまの御言葉が必要です。私たちの生活を導く神さまの戒めが。自由をもたらす神の言葉を、私たちは求めて、今日の一日を歩んでいくのです。

2021年5月15日土曜日

2021年5月14日(詩編119:161〜168)

詩編119:161~168(シン)
日に七度あなたを賛美します。
あなたの正しい裁きのゆえに。
あなたの律法を愛する者には豊かな平安があり
この人たちをつまずかせるものはありません。(164~165節)

日に七度、主を賛美する生活。私たちの毎日の生活に取り入れたい習慣です。一日に七度というとかなりの回数です。折あるごとに神さまに心を向け、賛美を献げる。実際には忙しくて、気付くと一日が終わっているかも知れません。ついうっかりということも多いかも知れません。しかし、フトしたときに心の中で静かに神さまを賛美して新しい時間を過ごしていくのは、素敵なことです。
そこで心を向けるのは、神さまの正しさであり、それに従う者の幸いです。私たちには自分の正しさを決める独自の基準があり、お互いにそれが衝突し合います。自分の正しさを手放して、「あなたの律法」すなわち神さまの御言葉に自分の基準を預けるとき、私たちは平安に生きることができる。それがこの詩編の確信です。
166節ではこのようにも言っています。
「主よ、私はあなたの救いを望み
あなたの戒めに従います。」
神さまが救ってくださるのを待ち望む。自分で最後の解決を付けなくて良いのです。神さまに救いを求めて祈っていい。それも、自分の手で握りしめる「正しさ」を手放すということの一つであると思います。
主イエス・キリストは、あのゲツセマネの園で祈りました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」自分の基準を神さまに預ける祈りではないでしょうか。ここにこそ平安があると聖書は言います。そして、このキリストの祈りこそが、究極的な賛美であると思います。神さまへの信頼と愛。神さまご自身の愛こそが何よりもの確かであることを、私たちは信頼し、今日も賛美の内に一日を始めます。

2021年5月14日金曜日

2021年5月14日(詩編119:153〜160)

詩編119:153~160(レシュ)
悪しき者には救いは遠い。
あなたの掟を求めないからです。
主よ、あなたの憐れみは深い。
あなたの裁きにふさわしく私を生かしてください。(155~156節)

「悪しき者に救いは遠い」という言葉は、二通りの理解が可能であると思います。一つには、悪しき者、神さまに逆らう者を神さまは救うはずがない。神の愛を受けるにふさわしくない。そのようなものは救いから遠い・・・。一般的に言って「宗教」というもののイメージは、そういう教えを広めている、と思われているかも知れません。
しかし、それとは別の理解をすることもできます。すなわち、ここでは「悪しき者には救いは遠い。あなたの戒めを求めないからです」と言っていますが、この「あなたの戒めを求める」ということを救いの条件と考えるのではなく、救われた者の応答と捉えるという道です。神が救ってくださっていたことに気付いた、私をも愛してくださっていることが分かった。だからこそ、神の掟を求めていきたい。そう願っている。
この理解を後押しするのは、156節です。「主よ、あなたの憐れみは深い」と言います。神さまの言葉、その掟、裁き、それらはすべて神の憐れみの深さを私たちに教えます。「憐れみ」はご褒美ではありません。もしも条件付きだとしたら、それは憐れみの名に値しない。神さまは、私たちがちゃんと掟を守ったご褒美として救ってくださるのではありません。私たちはただただ、ひたすら、神さまの憐れみにすがるだけです。神さまの裁きにすがり、神さまがご自分の憐れみにふさわしく振る舞ってくださることを求める。そう祈ったときに私たちが知るのは、私たちが神さまを求めるよりも先に、神さまは私たちを愛し、憐れみ、私たちを救ってくださっていた、という驚くべき事実です。

だから、私たちはこう祈ります。
「私がいかにあなたの諭しを愛しているか
  見ていてください。
主よ、あなたの慈しみにふさわしく
  私を生かしてください」(159節)。
今日も、私たちは喜んで主を愛し、主に祈りつつ一日を歩んでいきます。

2021年5月13日木曜日

2021年5月13日(詩編119:145〜152)

詩編119:145~152
夜明け前に起き、助けを求めて叫び
あなたの言葉を待ち望みます。
私は夜回りより前に目覚め
あなたの仰せを思い巡らします。
あなたの慈しみにふさわしく
  私の声を聞いてください。
主よ、あなたの裁きに従って私を生かしてください。(147~149節)

眠られぬ夜、あるいはウトウトしてもすぐに起きてしまい、まんじりともせずに夜を明かすとき、皆さんはどのようにされているでしょうか。眠れないというのは辛いものです。次の日一日を思えば、こんなに眠れなくて一日もつのかと心配になります。心配事があれば、そればっかり考えてしまいます。寝ようと思えば思うほど焦ってしまいます。
そのようなとき、この詩編は他の何よりも「あなたの言葉」、神さまの御言葉、聖書の言葉を待ち望んでいます。神さまの仰せを思い巡らしています。そして、求めるのです。「あなたの慈しみにふさわしく私の声を聞いてください」と。神さまの慈しみにふさわしく、神さまの愛にふさわしく、どうか私の声を聞いてください。私の祈りを聞いてください。「あなたの慈しみにふさわしく」というのは、神さまが神さまらしく振る舞ってください、ということでしょう。神さまの慈しみこそが私の救いです、という愛の告白なのではないでしょうか。
さらに、こう祈ります。「主よ、あなたの裁きに従って私を生かしてください」と。裁きというと、普通はそれによって自分が滅んでしまうようなイメージがあります。しかし、この詩編では神の裁きこそが私の救いだと言います。ほかの誰が私を裁こうとも、それぞれの基準で自分にどんな罪を着せようとも、神さまの御前に生きる私をどうか救ってください。そのように祈ります。
夜陰の中、私たちはただひたすらに神さまとその御言葉を求めます。ここに私の救いがかかっているから。ここに表された神の慈しみが私の救いだから。今や、まだ明けぬ夜に起きるのは、それだけ必死に神の慈しみを待ち望んでいるからです。私たちの起きているときにも眠っているときにも、神さまの慈しみに満ちた御言葉が私たちを生かしているのです。

2021年5月12日水曜日

2021年5月12日(詩編119:137〜144)

詩編119:137~144(ツァデ)
主よ、あなたは正しく
あなたの裁きはまっすぐです。(137節)
私は取るに足りない者で、侮られていますが
あなたの諭しは忘れません。(141節)

日本語訳では分かりにくいですが、この詩編では二回だけ、人称代名詞がはっきりと登場してきます。それが137節と141節。137節では「あなた」と主なる神様をお呼びしています。141節では詩編作者である「私」が登場しています。その他の節でも日本語訳では人称代名詞がたくさん登場していますが、ヘブライ語は主語の人称によって動詞のかたちが変わるので、人称代名詞が省略されても誰が主語なのかがすぐに分かります。逆に、人称代名詞が省略されずにキチンと書かれているというのは、「あなたこそ」とか「私こそ」といったニュアンスで、強調されていると考えることができます。それを踏まえて、この詩編を読むのがよいと思います。 
そうすると、冒頭の137節に導かれる137から140節では、「主よ、あなたこそが正しい方」と言って始まり、主の正しさや義を調教しているのだと思います。私はあなたのその義を熱情をもってしたい求めている。これに対し、141節から144節の後半では、前半で注目した主の義に照らして、それに対してこの私は、取るに足りない者であって人からも侮られている、と続いている。私は苦難と苦悩の中で苦しんでいるけれど、神の戒めを喜びとしています、と言っています。
もう一つのこの詩編の特徴は「義」とその仲間言葉が多い、ということです。137節の「正しく」、138節の「義」、142節の「義」、「正しく」、144節の「正しい」。これらの言葉がすべてその仲間です。神の義、神の正しさに注目しています。この言葉には倫理的な正しさも意味していますが、それ以上の含蓄がある。主なる神様の積極的な介入を意味し、ほとんど「救い」と同じような意味を持つ言葉です。
主なる神様、あなたこそ義しい方、私を救ってくださる方。私は取るに足りない者、人には侮られた者ですが、あなたの義を求めています。心を燃やしています。どうか私を救ってください。この詩編はそういう熱い祈りの詩編なのです。

2021年5月11日火曜日

2021年5月11日(詩編119:129〜136)

詩編119:129~136(ペー)
あなたの言葉が開かれると光が射し
無知な者にも悟りを与えます。
あなたの戒めを慕い求めて
私は口を開け、あえぎました。
私の方を向き、憐れんでください。
御名を愛する者への裁きに従って。(130~131節)

この詩編には、主と主の御言葉への愛が溢れています。「私の方を向き、憐れんでください」と言っていますが、そもそも顔を向けてもらうことが救いになるというのは、相手との愛の関係が成り立っているときだけです。愛し、信頼している相手の顔は自分の喜びですし、救いになります。まさに、神さまに向かってそういう愛の関わりに生きているし、生きたいと願っている祈りの言葉であると思います。
だから、この詩編の最後のところではこのように言っています。
私の目から涙が川のように流れます。
彼らがあなたの律法を守らないからです。(136節)
神さまの律法を守らない人、神さまの御言葉に従おうとしない人を見て、涙を川のように流している、と言っている。ファリサイ派の過ちは、そのような人を見たら憎んだり、見下したりしていたことであるのだろうと思います。いや、それは一部のファリサイ派という特殊な人の曲がった根性ではなくて、誰の心にも巣くっている"ファリサイ根性"のようなものであるのかも知れません。この詩編では、そういう人を裁くのでも罵るのでもなく、悲しんでいます。涙を流して悲しんでいる。それは主の言葉を愛するからこそですし、また、人を愛しているからでもあると思います。愛しているからこそ、主の言葉を蔑ろにして主から遠く離れていくことが悲しくてならないのです。
私たちは、神さまに祈るだけです。あなたの言葉とあなた様ご自身への愛を、増し加えてください。私にも、あの人にも主の憐れみを求めて祈るのみです。「あなたの言葉が開かれると光が射し、無知な者にも悟りを与えます。」主の御言葉が光りとなって私を照らしてくださる。私の隣人をも照らしてくださる。福音の光の中に、私を生かしてくださる。そのことを信じ、御言葉の光を求めて私たちは今日という一日へ出発していきます。

2021年5月10日月曜日

2021年5月10日(詩編119:121〜128)

詩編119:121~128(アイン)
主の働かれる時です。
彼らはあなたの律法を破りました。
それゆえ、金よりも純金よりも
私はあなたの戒めを愛します。
それゆえ、あなたのすべての諭しに従って
  私はまっすぐ歩き
偽りの道をことごとく憎みます。(126~128節)

主の働かれる時です!
この言葉は一般的な真理とか、もっともらしい決まり文句ではありません。祈りの言葉です。神様ご自身に迫る言葉です。主の働かれる時です。主よ、今こそ働いてください。私を救ってください。虐げる者、傲慢な者から私を救ってください。そういう祈りの言葉なのです。
主なる神様は私たちの祈りを待っていてくださいます。今こそ主の働かれる時!今、私を救ってくださいと私たちは大胆に祈って良いのです。神さまがそれを待っていてくださるからです。
主イエスが不思議な譬えを話されたことがあります。あるやもめが、神を畏れず人を人とも思わない裁判官のところに日夜通って、自分のために裁きをし、守ってほしいと願い倒した、という話です。この裁判官は面倒くさくなって、わが身かわいさに彼女を黙らせようと考えて、彼女の願いを聞き入れた。この譬えは、絶えず祈り落胆しないことを教えるための話です。主イエスは言われます。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか」(ルカ18:6)。
主の働かれる時です!私たちも祈ります。今こそ主が働かれるとき。だから、私たちは主の言葉を愛し、主に従い、偽りの道を歩みません。私を虐げる者たちは主の言葉をねじ曲げているけれど、私は主に従います。私たちも祈りましょう。主にしがみつくような心で。そのとき、むしろ私を抱きかかえてくださってきた神さまの手の大きさを、私たちは知ることになるのです。

2021年5月9日日曜日

2021年5月9日(詩編119:113〜120)

詩編119:113~120(サメク)
二心ある者どもを私は憎み
あなたの律法を愛します。
あなたは私の隠れ場、私の盾。
あなたの言葉を待ち望みます。(113~114節)

二心ある者ども、と言っています。この「二心」という言葉は、もとは「別れる」という言葉です。列王記上18:21では「あなたがたは、いつまでどっちつかずで迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従いなさい。もしバアルが神であるならバアルに従いなさい」と預言者エリヤが人々に言います。この「どっちつかず」という言葉です。この列王記の箇所はとてもおもしろく、日本聖書協会共同訳の訳注を見ると、この言葉は「二本の枝を飛び跳ねるのか」が原義だ、と説明されています。二心というのは、二本の木の枝を飛び跳ねながらとっちつかずになり、両方にいい顔をしようとして決めることのできない、分裂した心を指します。聖書ではしばしば神さまと私たちとの関係を夫婦の関係に例えます。そのイメージに従うなら、本来の伴侶と不倫相手との間で決めることのできないような状態ということでしょう。極めてだらしなく、不誠実です。神様からご覧になって二心になっていないか。私はそのような不誠実な心とは決別する、とこの詩編は言い切ります。
ほかの誰でもなく、主こそが私の逃れ場。バアルではない。お金でも他の欲望を満たす手段に頼るのでもない。主にこそ逃れ、主の御許でこそ憩う。一筋の心で主を愛します、という愛の表明です。
だから、私たちはこのように祈って良いのです。
「私を支えてください。
私が救われ
  常にあなたの掟を見つめることができるように」(117節)。
他の誰かや何かを頼りにするのなら、このような祈りをする必要はありません。しかし私を救ってくださるのは主なる神様、イエス・キリストの父なる神様。そう信じる以上、私たちは大胆に祈ります。「神さま、私を支えてください」と。主イエスご自身が「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と祈ることを教えてくださったのです。「救ってください」と祈るまっすぐな心、一筋の信仰を、父なる神様は喜んでくださる。それが私たちの信仰の確信です。

2021年5月8日土曜日

2021年5月8日(詩編119:105〜112)

詩編119:105~112(ヌン)
あなたの言葉は私の足の灯
私の道の光。(105節)
私はひどく苦しんできました。
主よ、あなたの言葉どおりに私を生かしてください。(107節)
私は常に危険にさらされています。
しかし、あなたの律法を忘れませんでした。(109節)

あなたの言葉は私の足の灯。「私の足」が進む道、それは平坦でなだらかな道ではないようです。「私はひどく苦しんできました」と言っています。「私は常に危険にさらされています」と言っています。さらに110節では「悪しき者どもが私に罠を仕掛けました」とも言っています。そういう「私の道」を歩む足元を照らす灯、それが神さまの御言葉だと言っています。
この「灯」は、煌々と照る、真昼のように明るい照明ではないでしょう。小さな灯です。足元しか分からない。自分の一歩を小さく照らす光。ずっと先は分かりません。御言葉の光に照らされて一歩だけ進む。その先の次の一歩は、そこでまた足元を照らして、御言葉に導かれて踏み出します。
今、私たちの足元を照らしている光は、何でしょうか?私たちが確かだと思っている光は、御言葉の光でしょうか?もう一度確かめてみても良いのかも知れません。私たちは何を頼りにし、何に希望を見て生きているのでしょうか。
この詩編では「しかし、あなたの律法を忘れませんでした」とか、「しかし、あなたの諭しから迷い出ませんでした」と言っています。私たちの道は平坦ではなく、私たちは危険にさらされたり悪しき者に苦しめられたりします。だからこそ、私たちがどう生きるかが問われる。神さまの御言葉に従って生きることで、私たちは灯をもって確実な一歩を踏み出すことができます。
主イエスはご自分の言葉を聞いてこれに従う者を、岩の上に家を建てた人と呼びました。それとは逆に聞くだけで従わない人は砂の上に家を建てた人。岩の上の家は雨が降り、川が溢れ、風が吹いて家を襲っても倒れない。土台がしっかりしているからです。私の自分の足を主イエス様の足跡に重ねるようにして主の後に従っていきたい。そのように思わされました。

2021年5月7日金曜日

2021年5月7日(詩編119:97〜104)


詩編119:97~104(メム)
あなたの仰せは口の中でなんと甘いのでしょう。
私の口には蜜にもまさります。
あなたの諭しから私は分別を得ます。
それゆえ、偽りの道はいずれも憎みます。(103~104節)

主の仰せは口の中で甘く、蜜にもまさる!甘美な言葉です。主の仰せ、御言葉を愛し、日夜それを思い巡らす人の祈りの言葉です。この御言葉は「私を敵よりも賢くします」と言っています。神さまの御言葉による知恵です。敵というのは、恐らく神さまを信じていない人のことでしょう。神さまの御言葉に学ぼうとしない人。私は彼らよりも賢い、と言っています。
一歩間違うと傲慢になりかねない言葉です。相手を見下して、自分のほうが優れていると強弁するということになりかねない。しかしこの詩編が本来そのような意味でないことは明らかです。「私は悟りある者となりました」とこの詩編作者が言いうるのは、「あなたの定めを思い巡らしているからです」と言っているとおり、神さまの御言葉を思い巡らし、それを愛しているからです。神さまの御言葉の知恵に学んでいるのです。
ところで、アメージング・グレイスという讃美歌があります。直訳調にするとこのような歌詞です。「驚くべき恵み、なんと甘美な響き。この恵みが私のような惨めな者を救ったのだ。私はかつて失われていた。しかし、今や見出されている。私は盲だった。しかし今は見えている。」惨めな私を救った神の恵み、その響きは甘美だと言います。主の仰せ、それは、この恵みの言葉です。惨めな私を救う神の恵みによって、私は今や見出され、見えるようになった。だから、かつてのように今や生きることはない、という告白であると思います。
私は、神さまの御言葉によって与えられる知恵というのは、これだと思います。神の恵みを告げる御言葉によって与えられる知恵です。神の恵みを見る知恵です。そして、神の恵みによって開かれた目をもって隣人を見る。それこそ神に与えられた知恵なのではないでしょうか。私たちを生かす神の恵みの知恵によって、私たちは今日という一日を生きていきます。

2021年5月6日木曜日

2021年5月6日(詩編119:89〜96)

詩編119:89~96(ラメド)
もしも、あなたの律法が私の喜びでなかったなら
この苦しみの中で私は滅びたことでしょう。
とこしえにあなたの諭しを忘れません。
それによって私を生かしてくださったのですから。(92~93節)

この詩編は90節と96節が見事な対比になっています。90節「あなたのまことは世々に及び、あなたが据えられた地は揺らぐことがありません」、そして96節「どれほど完全なものにも、私には終わりが見えます。あなたの戒めはすべてに及びます」。この詩編の冒頭に近い90節では、「あなたが据えられた地は揺らぐことがありません」と言って、この地が確かであること、完全なものであることへの信頼が歌われています。ところが最後の節である96節では一転して「どれほど完全なものにも、私には終わりが見えます」と言っています。完全なものであるこの大地も、いつか終わるときが来る。ところがそんな大地が揺らぐことがないと言いうるのは、これをお造りになったのが神さまであるからです。本当に揺らぐことがない確かなものは、神さまの御言葉の御業です。急所は、大地そのものへの信頼ではなく神さまへの信頼です。
そのことを知ると、私たちに襲ってくる苦しみが相対化されます。この苦しみは絶対なものではない。絶対的なのは神さまとその御言葉だけです。神さまの御言葉である律法を喜びとするものは、苦しみの中でも滅んでしまうことはありません。私自身は小さくて弱く、儚いものに過ぎませんが、こんなに小さな私を造ってくださったのが何よりも確かな神さまだからです。
「私はあなたのもの、私を救ってください」。私たちはそう祈ります。私が私自身のものではなく、私の真実な救い主、イエス・キリストのもの。そのことが私たちを生きているときにも死んでいくときにも確かな、ただ一つの慰めなのです。

2021年5月5日水曜日

2021年5月5日(詩編119:81〜88)

詩編119:81~88(カフ)
私の魂はあなたの救いに思い焦がれ
  絶え入りそうです。
あなたの言葉を待ち望んでいます。
私の目はあなたの仰せを思い焦がれ
  絶え入りそうです。
いつ私を慰めてくださるのか、と問いかけます。(81~82節)

あなたの救い、あなたの仰せに思い焦がれ、絶え入りそうです。そのように二度言葉を重ねています。「絶え入りそうです。」これは「終わる」という意味のある動詞で表現されています。私の魂が、私の目が、もうここで終わってしまうほどに思いを焦がしながら神の救いを求め、神の仰せを求めている。
ここで「私の目はあなたの仰せを思い焦がれ」と表現していることはとてもおもしろいと思います。普通、仰せを思い焦がれるのなら、耳であるはずです。ところがここでは目が仰せを思い焦がれている、と言っています。もしかしたら、神さまの仰せがこの世界を、歴史を形づくっていく、その出来事の目撃者となることを思い焦がれ、自分の目が終わりを迎えてしまうほどの思いでそれを待ち望んでいる、ということであるのかも知れません。私たちはそこまでの思いを持って神さまの仰せを思い焦がれているでしょうか。
もう一つ心を引かれるのは、83節で「煙の中の革袋のようになったときでも、私は、あなたの掟を忘れませんでした」と言っているところです。煙の中の革袋と言っていますが、どういう意味なのでしょう。私は実際に革を煙でいぶしたことはありませんが、恐らく、ひび割れてボロボロになっていくのではないかと思います。革袋としては使い物になりません。私自身が煙の中の革袋のようになってしまうとき、それでも私はあなたの掟を忘れませんでした、と告白しています。これも、やはり神さまの仰せを思い焦がれ、絶え入るほどにそれを求めているという意味なのでしょう。
それは「傲慢な者」が「偽りをもって私を迫害」したことで受けた苦しみと無関係ではないはずです。人に苦しめられていた。この人も、私たちとまったく同じ人間関係の悩みに苦しんでいました。その苦しみの中で神さまの御言葉、神さまの仰せこそ救いと信じてこれを求め、ここに救いがあると信じ続けた人の祈り。それがこの詩編です。私たちも共有する祈りの言葉です。

2021年5月4日火曜日

2021年5月4日(詩編119:73〜80)

詩編119:73~80(ヨド)
あなたの掟に照らして
  私の心に落ち度がありませんように。
私が恥を受けないために。(80節)

この詩編は最後で「私が恥を受けないために」と書かれています。恥をかくというのはできれば避けたいことです。ですから私たちは社会常識からあまりに外れたことは自重しますし、世間体からして恥ずかしいことはしないように自制します。しかし一度立ち止まって考えてみると、何を恥とするかという基準は、それほど確かなものではないようにも思います。世間の常識って、一体何でしょうか?人目といってもその「人」というのは誰のことなのでしょうか。もしかしたら、本当はそれほど確かな実態があるわけではないものが、いつの間にか力を持って私たちの社会を支配しているのではないかとさえ思ってしまいます。
この詩編では「恥」の基準が極めてはっきりしています。「あなたの掟に照らして、私の心に落ち度がありませんように」。あなたの掟、神が与えてくださった律法を基準にして、そこに対する落ち度があれば私は恥ずかしい思いをしないわけにはいかない。あるべき私の姿から遠く離れてしまっているということになるからです。基準ははっきりしているのであって、世間だったり常識や人目といった実態のよく分からないあやふやなものではない。いやただ単に「あやふや」というだけではなく、常識を造る人目は罪深い私たち人間の目ですから、そもそも「常識」が基準となり得るのかという問題があるのだと思います。ところが神の掟はそうではない。とこしえに変わることのない神の御心に従って生きることこそ、私たちの美しい生き方です。
この詩編では、「あなたを畏れる」とか「傲慢な者らが恥じ入りますように」とか言っています。神を畏れ、神の前にへりくだるというところに、神の掟に従う生き方を見ているのではないでしょうか。そして「あなたの憐れみが私を訪れ、私を生かしてくださいますように」と言っています。神の憐れみにすがり、神に生かして頂く。そういう神の憐れみの事実と神の掟は別々のものではありません。神の憐れみにすがるものは、他の誰かから何を言われることがあろうとも、神に恥じ入ることはないのです。私たちにはそもそも神に誇るべきところは何一つありません。誇るとすればただ一つ、私を憐れんでくださる神がこの私でさえも救ってくださっていることをこそ誇ります。この神の前で、私は恥じ入ることがないのです。キリストの憐れみのゆえに!

2021年5月3日月曜日

2021年5月3日(詩編119:65〜72)

詩編119:65~72(テト)
苦しみに遭ったのは私には良いことでした。
あなたの掟を学ぶためでした。
あなたの口から出る律法は私には良いもの。
幾千の金や銀にまさります。(71~72節)

「苦しみに遭ったのは私には良いことでした」とありますが、なかなか「アーメン、その通りです」とは言えない言葉です。苦しみは苦しみです。それ自体は良いものではありません。私たちには避けがたいことではあります。これも神さまの手の内にあると信じたいけれど、なかなか感情が付いていかないということもあるのではないでしょうか。
どうして、それでもなお「苦しみに遭ったのは私には良いことでした」と言いうるのか。この詩編は言うのです。それは「あなたの掟を学ぶためでした」と。苦しみの中で神の掟、つまり御言葉を学んだ。だから、この苦しみには意味があった、これはわたしにとってよいことだった、と言います。
それがいかなる掟だったのか、どのような言葉だったのかは具体的に書かれていません。しかし、書く必要がなかったのかもしれません。私たちにも、それぞれに、苦しみの時に出会った神様の御言葉があるのではないでしょうか。そして、それは時として、「掟」とここで言っているとおりに私たちを新しい生き方へ招く御言葉であったのではないでしょうか。
使徒パウロは言います。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っている」と。なぜなら、キリストが私のために苦しんでくださったことを知っているから。だから、私は苦難を誇りとする。苦難の中で忍耐が生まれ、その忍耐は私の品性を練り清め、そこで磨かれた品格は希望を生む。キリストの苦しみにあずかる希望を。
あるいはパウロはこのようにも言います。「今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています」(コロサイ1:24)。私のこの苦しみは、キリストの苦しみにつながっている。隣人のための苦しみ、他者の罪を負う苦しみを、私は喜んで引き受ける、と言います。キリストにあって、苦しむことの意味が変革されたのです。キリストが私にしてくださったように隣人のために苦しむ事へと、私たちは招かれている。苦しみの中でキリストと共にある。だから、私には希望がある。パウロはそのように言います。

2021年5月2日日曜日

2021年5月2日(詩編119:57〜64)

詩編119:57~64(ヘト)
主は私の受ける分。
あなたの言葉を守ると約束しました。
心を尽くして願い求めます。
仰せのとおり、私を憐れんでください。(57~58節)

「私の受ける分」という言葉があります。取り分とか分け前という意味がありますが、旧約聖書ではとても大切にされている言葉です。イスラエルの人々がエジプトから脱出して40年の荒れ野の旅をし、ついに約束の地に入る。その時、部族毎、さらに氏族毎、家族毎に土地が割り当てられました。この割り当て地、相続地は神さまに与えられた地です。この割り当てを指す言葉が、この「私の受ける分」というのと同じ字なのです。
この詩編では主ご自身が私のうける分、相続地だ、と言います。土地分配の時に、主ご自身が分け前として分配された人々がいました。レビ人、祭司の一族です。「そのため、レビ人には、兄弟たちのような割り当て地や相続地がない。あなたの神、主が語られたとおり、主ご自身がその相続地だからである」(申命記10:9)。レビ人には土地の割り当てがないので、畑を耕して作物を得ることができません。彼らは社会的には弱者になります。それで、同じ申命記の14:29~30には「あなたは、三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一をすべて取り分け、町の中に置かなければならない。あなたのような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい」と書かれています。主ご自身が割り当てというのは、何の寄る辺もない、他者の善意によって生きる以外の道がない、ということを意味します。
「仰せのとおり、私を憐れんでください」とこの詩編では言っています。主の憐れみにすがって生きるというのは毎日の生活のこと、実際的な事柄です。私たちは、他者の手を通して主の憐れみを経験します。隣人の愛に信頼することなしに、主に頼るということは不可能です。主イエス様ご自身、あのサマリアの井戸で、見知らぬサマリアの女の善意にすがって一杯の水を求めました。自分の弱さをさらけ出し、他人の善意に信頼することは、特に現代のような世界にあっては意味があることなのではないでしょうか。
今日の御言葉は、不思議です。私たちを不思議な神の愛の世界に招きます。私は他者の愛によらなければ生きることのできない存在。私たちは主への愛と信頼を持ってそのことを告白し、神と隣人の愛を信じるという信仰委の冒険に踏み出します。

2021年5月1日土曜日

2021年5月1日(詩編119:49〜56)

詩編119:49~56(ザイン)
この仮の宿では
あなたの掟が私の歌でした。
主よ、夜に御名を思い起こし
あなたの律法を守りました。(54~55節)

私たちは神さまが備えてくださった故郷、天の故郷を目指す旅人です。アブラハムから始まり、聖書は至る所で信仰者の姿を旅人になぞらえています。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。」(ヘブライ11:13)。彼らが憧れ、求めていたのは、天の故郷です。そのためにこの地上では旅人、滞在者、よそ者として生きました。出てきたところよりももっとよい場所を求めていたからです。
この旅のための歌があります。「この仮の宿では、あなたの掟が私の歌でした。」歌があると旅が楽しくなります。神さまのくださった愛の掟が私たちの歌です。「掟」というと、私たちの持っているイメージからすると、あまり喜ばしいものではないように感じてしまいます。しかし神さまの掟は、私たちの旅路を導くマーチのリズムです。周囲にはほかのリズムが響いています。そのリズムは、しばしば「自己責任」だとか「消費主義」だとか、そういった響きを立てています。ところが私たちは神さまが響かせておられるリズムに合わせて旅を続けます。神のリズムは、神と隣人への愛のリズムです。キリストという神の究極の自己犠牲のリズムです。このようなリズムが私たちの旅路を彩ります。
私たちの生きる仮の宿で、今晩眠るときには、神さまの御名を思い起こしましょう。主の御名によって祈りましょう。神のリズムに自分は生きた一日であったのか、思い起こしてみましょう。感謝の祈りを献げ、悔い改めの祈りを献げ、神の愛が奏でるリズムに自分の歩調を合わせる喜びを噛みしめて、一日を終わりたい。そう願いつつ、新しい一日を始めます。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...