2018年8月29日水曜日

詩編第119編137から144節「正しさを神にお返しする」

「主よ、あなたは正しく、あなたの裁きはまっすぐです。」この言葉を、忘れないでいたい。正しいのは私、私の裁きはまっすぐと知らぬ間に思い込んでいるからだ。これまでの人間の歴史でどれほど多くの宗教戦争を含む争いが続いてきたことだろう。「正しいのは私」という確信が「主は正しい」というお面をつけている。「わたしは若く、侮られていますが、あなたの命令を決して忘れません」という謙遜を身にまといたい。主に正しさを返したい。

2018年8月23日木曜日

詩編第119編129から136節「御言葉の光、御顔の光」

「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」この光は、どこから射し出でるのか。「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください」と言うとおり、神さまご自身のお顔の光なのだ。御言葉を聞くための光は主ご自身が与えてくださる。だから、私たちは主ご自身の光を求め、照明を求める祈りをもって御言葉に向かう。そうでなければどうして御言葉を聞けよう。そしてその光は私たちになんと甘美な光なのだろうか。

2018年8月19日日曜日

コリントの信徒への手紙一2:6-9「世界が始まる前からの計画」

今日の聖書の御言葉を読んで、何人かの主イエスの弟子たちを思い出しました。まず、シモン・ペトロ。マタイによる福音書第16章に登場するエピソードです。主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた。ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」主イエスはこの答えをとてもお喜びになりました。ところが、そのすぐ後、主イエスは御自分がこれからエルサレムで苦しみを受けて殺され、三日目に復活するという話を始めた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスはお答えになりました。「サタン、引き下がれ。」ペトロは、イエスをメシア、救い主と信じていた。しかし、ペトロが思い描く救い主は、十字架で犯罪者として殺されたり、復活するなんてバカげたことを言ったりしないない救い主でした。9節に書いてあるとおりです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。」ペトロの発想にない仕方で、私たちが思いもしない仕方で、神さまは私たちを救ったのです。私たちが思いつくような救いって、どういうものでしょう?マタイによる福音書第20章には、他の弟子たちが登場します。ヤコブとヨハネという兄弟の弟子の母親が、イエスに願いました。「王座におつきになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」客観的に見れば、醜悪な言葉です。しかし、私たちの心にあるものに正直とも言えます。栄光を受けたい。報いがほしい。偉くなりたい。大きくなりたい。イエスは言われます。「あなたがたは自分が何を願っているのか分かっていない。」その通りです。私は、自分が願っていることが何を意味しているのか分かっていません。自分の姿を知りません。ヤコブとヨハネの母のような身びいきや自分と自分の周りさえよければという身勝手さは、殆ど、今の時代精神になっています。しかし、主は言われます。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか。」明らかに、十字架のことを念頭におっしゃっている。主が向いておられるのは、私たちと正反対です。私たちはじぶんの栄光や大きくなることを求めるけれど、主は十字架へ、下へと向かっておられます。8節「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」主を十字架につけたこの世の支配者。それはピラトとも、ローマ兵とも言えるかも知れない。しかし、主を十字架につけたのは、「主よ、とんでもないことです」、「あなたが王座に着くときに…」と言えてしまう、同じような願いが叶えられないと不満を抱く、私たちです。そういう私が、主を十字架にかけて殺した。私の願いを、私が願うとおりに叶えてくれない神などいらないと言って、神を裁き、捨てて、十字架にかけたのです。しかし、誰も見たことも聞いたことも、心に思ったこともない救いの計画を、神は御自分を愛する者たちのために準備してくださいました。世界が始まる前から。私は主イエスを十字架にかけたけど、そのことでもって神は私を救ってくださった。私の代わりにキリストが裁かれ、神に捨てられて、私は救われた。それが神があなたのために準備してくださっていた十字架の知恵なのです。

2018年8月15日水曜日

詩編第119編121から128節「主よ、あなたの僕を救ってください」

「あなたの僕」と、二度繰り返される。「慈しみ深く、あなたの僕のために計らってください。」「わたしはあなたの僕です。」そう。私たちは、主なる神さまの僕なのだ。マリアも、パウロも、私たちも。主の僕は主の裁きを待ち望む。「主の働かれるとき(126節)」を信じているから。ここにこそ救いがあると信じているから。主は必ず御自分の僕を救ってくださる。「御救いを待って、わたしの目は衰えました。」主に、主だけに、この目を注ごう。

2018年8月12日日曜日

祈りの言葉

本日はルイビル日本語教会の佐藤岩雄牧師が説教をしてくださいました。今回は「今日の説教」ではなく、週報に掲載した祈りの言葉をご紹介します。加藤常昭著『祈り』より、8月12日の祈りの言葉です。


わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(コリントの信徒への手紙二第68から10節)

主イエス・キリストの父なる御神、私たちはあなたに召されました。あなたの栄光を表すために。主イエスの弟子となり、主イエスに倣い、教会に仕えるために。あなたが与えてくださった聖霊の賜物により、福音を宣べ伝え、ひとを愛する戦いに参加しています。しかし、この世におけるわたしの姿は貧しさそのものです。自分で自分に躓きそうです。このままでは、このまま死んでしまうだけかとさえ思います。そのとき、先達パウロの声が聞こえます。ごらん、そこで既に生きている、全くの無一物のようでありながら、豊かであり、その豊かさが人を生かしているではないか、と。そのような主の恵みは、わたしの貧しさ、惨めさの中で豊かに実るのです。わたしは、このように生きている。屈んでいた背を伸ばして、わたしは叫びます。ごらん、いつも喜んでいる。主と共に!アーメン。

2018年8月8日水曜日

詩編第119編113から120節「一条の心を求めて」

「心の分かれている者」とある。日本語には「二心」という言葉がある。辞書を引くと、背く心、疑いの心とある。この詩編でも、同じ意味合いのように思う。神に背くとき、神を疑うとき、私たちの心は分かれてしまう。頭で分かっても心がついていかないという言い方もある。同じことだろう。この詩編作者のように一心に神を求めたいと思う。その秘訣は、私たちが真実でなくとも常に真実でいてくださる方に救っていたくことに尽きる。

2018年8月5日日曜日

コリントの信徒への手紙一第2章1から5節「私が知るただ一つの事」

「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに…」と始まっています。パウロが初めてコリントで伝道したときのことに触れています。その時のことは使徒言行録18:1-17に書かれていますが、更にその前史として、17:16-34にあるアテネでの伝道も重要な出来事だったと思います。最初は珍しい物が好きなアテネの人々はパウロの言葉をおもしろがっていましたが、最後にキリストの復活の話をし出すと、人々はパウロを馬鹿にしてあざ笑い、耳を貸さなくなりました。殆ど成果を得ることができませんでした。それでパウロはアテネを出て同じギリシアにあるコリントに向かいます。コリントではアキラとプリスキラという夫婦と出会い、この夫婦はパウロの善き協力者になりました。パウロは再び伝道を続けます。パウロを伝道旅行に送り出したアンティオキア教会から、シラスとテモテが来て、パウロを助けてくれました。一所懸命に、パウロは伝道する。しかし、パウロがイエスの話をすればするほど、人々の反抗を買い、口汚く罵る者もいました。ある夜、神さまがパウロに幻の中で言われる。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」裏を返せば、恐れていたのです。語り続けられなくなりそうになっていたのです。確かにコリントでは大きな伝道の実りもあったけれど、バカにされ、反抗され、迫害されました。パウロは恐れていた。しかし、それでもパウロは語ります。主に励まされて。どうやって伝道したのか?「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」、ただこのお方のことだけをひたすら語りました。不思議ではないでしょうか。アテネでの失敗やコリントでの迫害を考えれば、別の、もっとみんなが喜んで聞いてくれる「いい話」でもすれば良さそうなものです。しかし、パウロは敢えて十字架のキリストだけを語ります。なぜか?これこそ、神が私たちのために備えてくださった救いだからです。あなたのために死んでくださった方がいる、あなたの身代わりに十字架にかかった方がいる。それは、愚かな言葉です。人間のニーズはもっと他にたくさんあります。そして、その願いの数だけたくさんの神々が生み出され、それだけ多くのパワースポットがこしらえられていきます。しかし、パウロは断乎として十字架のキリスト以外のことは知るまいと決断し、集中した。十字架に現れた神の愛だけを語りづけたのです。3節に「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と書いてあります。新共同訳では不明確ですが、原文を見ると、この「わたしは」は「わたしも」と書いてあります。誰と同じように「わたしも」なのか?恐らく、キリストです。十字架の上のキリスト、弱く、私たちのために愚かにも十字架をも受け入れてくださったキリスト。わたしも、あなたたちのところで衰弱し、恐れ、不安だった。その弱さを、パウロは受け入れました。そして、弱いからこそ現れる神の力を信じました。神の力が、十字架によって私たちの間に現れることを信じていました。だから、パウロも弱くなって、愚かになって、十字架だけを語り続けた。私たちの宣教の言葉はこれに尽きる。善い人のために命を惜しまないものは、いるかもしれません。しかし、神はまだ私たちが罪人であったときに、御子を十字架にかけて私たちを救ってくださったのです。ここに救いがあるのです。

2018年8月2日木曜日

詩編第119編105から112節「光がある、灯がある」

以前、ボーイスカウトをしていた。真っ暗な森で懐中電灯の光を頼りに歩いた。「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。」真っ暗闇に迷ってしまうような日が、私たちにはある。そんなときに私の歩みを照らしてくれるのは、神さまの御言葉。しかしそれは灯だ。一歩先しか照らさない。しかし、それでいい。この光を信頼して進めばいい。罠があっても恐れないでいい。主は御言葉の通り、命を得させてくださるから。

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...