2019年5月31日金曜日

2019年5月31日(サムエル記上26〜27)

今日の通読箇所:ルカによる福音書24、サムエル記上26~27、ヨブ記11

サムエル記上26~27;
サムエルが死に、サウルの歯止めが無くなったと見たのでしょう、ダビデはサウルのもとを離れます。以前、ダビデはサウルを暗殺する決定的なチャンスを手にしましたが、主に油注がれた人を手にかけることをしませんでした。そして、ダビデが考えたとおり、サウルはまたも3000人もの精鋭を率いて、ダビデを追跡しだしたのです。
ダビデの目の前まで来たサウルたち。ダビデは偵察隊の働きでそれを知り、闇夜に紛れてサウルの陣営に潜り込みました。彼はアビシャイという部下と二人で忍び込み、何とサウルが寝ているテントに侵入することに成功します。「サウルは陣営の中で横になって眠っており、彼の槍はその枕元の地面に突き刺してあった(26:7)」。この槍を手に取ってひと思いに突けば、ついにこの追跡撃破終わり、ダビデの身の安全は確保されます。何と言っても、サウルはかつて同じような場面で命を助けたときに、もうダビデの命を狙わないと誓っておきながら裏切ってきたのですから。もうこれ以上信頼するには価しないのです。アビシャイはダビデに進言します。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。どうか、私に槍の一撃で刺し殺させてください。一度でしとめます(8節)」。しかし、ダビデは彼にいいました。「殺してはならない。主が油を注がれた者に手を下すなら、罰を免れることはない(9節)」。何とダビデは、今回も、主がこの人に油を注がれたからというだけの理由で、サウルを殺して自分が助かる絶好の機会を見逃したのです。しかしダビデの判断基準は、自分を守ろうとか、絶好の機会に見えるだとか、そういうことではなく主なる神様が何をしておられるか、という一点だったのです。人間的な判断基準からすれば、アビシャイが言うとおり神が与えてくださったチャンスに見えます。しかしダビデは主が油を注いだという、主のお働きを基準にしていたので、サウルを主ご自身の手に委ねたのです。
しかしやはり彼の身が危険であることには変わりありません。サウルはまたすぐに約束を破るでしょう。ダビデはペリシテ人の地に渡り、そこに寄留しました。祖国イスラエルの人々と戦っていると彼らの王に偽りながら、ペリシテの王に自分は味方だと思わせた。こうしてみると、サウルに寛大に接するダビデはただ単におめでたいだけだとか、お人好しだとか、そういうことではなかったことが分かります。したたかに知恵を用いた。必要とあらば人を欺くこともあった。しかしその知恵に溺れることがなかったのは「主は今何をしておられるのか」という明確な基準があったからなのです。それがダビデの知恵の要です。

2019年5月30日木曜日

2019年5月30日(サムエル記上24〜25)

今日の通読箇所:ルカによる福音書23:26~56、サムエル記上24~25、ヨブ記10

サムエル記上24~25;
ダビデがサウルの追跡から逃れてある洞穴に隠れていたとき、なんとそこにサウルが一人で入ってきました。用を足すために。彼はズボンを脱いでそこにしゃがんでいた。それを洞穴の中からダビデとその部下が見ていたわけです。部下たちはダビデに進言します。「主があなたに、『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは思いのままにするがよい』と言われたのは、このときのことではありませんか(24:5)」と。確かに、千載一遇のチャンスでした。
しかし、ダビデはサウルを手にかけませんでした。ただそっと近寄って、サウルの着物端を少しだけ切り取りました。しかし、そのことにも後悔した。なぜか?「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ(7節)」。ダビデは、自分の振るまいが主なる神様の御前でどういう意味を持つのかをいつも考えていたのです。彼は自分の復讐心や自己保身を優先させませんでした。それ以上に大事にすべきことがある。それは、サウルが曲がりなりにも主に油を注がれて王とされた者、主のものであることです。主がサウルに油を注がれた。ただそれだけの理由で、彼はサウルを手にかけなかったのです。ダビデが目に見えない神を畏れていたからです。
第25章では、ナバルという男とその妻アビガイルという人が登場します。ナバルは不遜な男でした。裕福な男でした。ダビデはかつてナバルの家の者たちに誠意を示しており、この旅の援助を求めた。しかし、ナバルはダビデを侮辱しました。それでダビデはナバルとその家の者を滅ぼそうとした。それを知ったアビガイルがダビデの元を訪れ、彼を説得します。その言葉に耳を傾け、彼女の知恵と愛に富んだ言葉に心を打たれたダビデは、ナバルを自分の手にかけて復讐するのではなく、神の手に任せてしまうことにしました。
このエピソードも、ダビデが自分の心の燃えるままに振る舞うのではなく、目に見えない神の御業を待ち望み、神の御心に適う道を選び取ろうとするものであったことを伝えています。見えない神は、私たちにも、同じように臨んで(望んで)おられます。

2019年5月29日水曜日

箴言2:1~22「正義と裁きと公平こそ、幸いへの道」


「また、あなたは悟るだろう、正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。」知恵の言葉はこのように正義と裁きと公平を説く。しかし、現代社会でこれらは必ずしも重んじられていない。むしろ自分の損得をよく考え、自分の立場を安定させることを志向する。必然的な結果として知恵は軽んじられる。ところが箴言は正義と裁きと公平を語る。これらがあなたを幸いに導く、と。私たちは自分の損得に従って生きるのか、正義に自らを従わせるのか?

2019年5月29日(サムエル記上22〜23)

今日の通読箇所:ルカによる福音書23:1~25、サムエル記上22~23、ヨブ記9

サムエル記上22~23;
サウルのダビデへの憎しみがますます激しく燃え上がります。自分の周りにいる同族ベニヤミンの者たちには、ダビデはいずれお前たちを冷遇するに違いないと言ってその心を取り込もうとします。あるいは、かつてダビデを助けてくれた祭司アヒメレクは、サウルがダビデを憎み、ダビデが逃亡中であったことを知らなかったのにもかかわらず、ダビデの逃亡幇助のかどで殺してしまいました。
アヒメレクを殺したことは、サウルのしたことの中でも、特別な意味を持っていると思います。アヒメレクは祭司でした。祭司は、主に油を注がれて就く特別なつとめです。出エジプトから、荒れ野での生活、そこで律法が与えられて祭司のつとめが定められ、主の幕屋のために仕える祭司のありかたを見てきた私たちには、その働きの大切さがよく分かります。主に仕える人、しかも油注がれて神のもとされた人。そんな人物を、サウルは、自分の憎しみのために殺してしまったのです。
これに対し、ダビデはサウルと戦わずにひたすら逃げました。あるときには、イスラエルにとっては宿敵とも言えるモアブに逃れます。あるいは、逃亡中にユダの町ケイラがペリシテの手に落ちそうだと知れば、ケイラを救いに行きました。自分の命の危険は顧みなかった。しかしサウルはそれを知り、そこに攻め寄せます。サウルは言います。「神はダビデを見放して、私の手に渡された(23:7)」。しかし、真実はそうではありません。「サウルは絶え間なくダビデを狙ったが、神はダビデを彼の手に渡さなかった(14節)」のです。ダビデは常に神に道を尋ねながら生きていました。しかしサウルは自分の憎しみに駆られて生き、むしろ神様のお名前を好き勝手に騙ってみせていました。この二人の生き方は、好対照です。サウルはマオンの荒れ野というところで、ダビデをあと一歩のところまで追い詰めます。しかし、まさにこれからダビデを攻め滅ぼそうとしたときに、ペリシテが領地に攻め込んできたと知って、急いでそちらに行かざるをえなかった。神が、ダビデを守り通しておられるのです。
目に見える寄る辺は、圧倒的にサウルが優位です。立場も上、財力も兵力も政治力も、ありとあらゆる面でサウルが上です。ダビデは目に見える確かさを一つも持ちませんでしたが、ただ神のみを畏れ、神に従ったのです。

2019年5月28日火曜日

2019年5月28日(サムエル記上20〜21)

今日の通読箇所:ルカによる福音書22:47~71、サムエル記上20~21、ヨブ記8

サムエル記上20~21;
サウルのダビデに対する憎しみはついに決定的になり、ダビデは自分の命の危険を案じなければならない状況に陥りました。しかし、サウルの家にもダビデの頼みが一人だけいました。サウルの息子、ヨナタンです。彼ら二人の間には、すばらしい友情があったのです。「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した(18:1)」。
そこで、ダビデはヨナタンにサウルのことで相談をしました。「私が何をし、私にどのような過ちがあるのでしょう。あなたの父上に対し、私がどのような罪を犯したというのでしょう。あの方は私の命を狙っています(20:1)」。「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません(20:3)」。それで、二人は作戦を立てました。サウルの殺意は本当に決定的なものなのかを確か、もしもそうであるならば、ダビデがその手から落ち延びるための。
果たして、サウルのダビデへの殺意は決定的なものだったのです。ヨナタンはそれを二人にだけ分かる秘密の方法で彼に伝えました。彼らは共に泣きました。そして、ダビデはサウルのもとから立ち去りました。
ダビデにとって、ヨナタンという存在はどんなに大きな助けであったことかと思います。神様は、危険の中でヨナタンという人をちゃんと準備していてくださいました。あるいは、ダビデは第21章では祭司アヒメレクとガトの王アキシュという人のところに身を寄せます。アキシュなどは必ずしも全幅の信頼を置いて頼れるわけではありませんでした。しかし、それでも神様はその時その時に必要な助けを備えてくださっていたのです。ダビデは、根本的にはそのことを信じて生きていた。詩編第56編はガトにいたダビデの祈りの言葉と言われています。「神よ、私を憐れんでください」と言って始まるこの祈りの言葉には、目に見えない神を信じ、神に頼って生きていたダビデの信仰が現されているのです。

2019年5月27日月曜日

2019年5月27日(サムエル記上18〜19)

今日の通読箇所:ルカによる福音書22:24~46、サムエル記上18~19、ヨブ記7

サムエル記上18~19;
ゴリアトを倒したダビデはサウルの家臣になります。王は彼を戦士の長に任命しました。彼は歴戦の勇士となり、人々はダビデの戦果を喜びます。「そのことはすべての民にも、またサウルの家臣にも喜ばれた(18:5)」。ところが、ダビデの戦果は王が考えていたよりも遙かにめざましく、人々はダビデをたたえるようになります。ついに、王はこの家臣を妬むようになりました。戦地からかサウルとダビデと共に凱旋したとき、女たちがタンバリンを打って喜び歌います。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った(7節)」。これを聞いてサウルは激怒しました。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あとは王位を与えるだけか(18:8)」。
このときからサウルはダビデを激しく妬み、憎むようになりました。あるいは、このようなこともありました。サウルの娘ミカルは、ダビデの妻になりました。ミカルのダビデへの愛を見て、サウルはまた彼を恐れ、妬みに駆られました。「サウルはますますダビデを恐れた。そして生涯ダビデの敵となった(29節)」。
これらの出来事は、偶然の出来事ではありませんでした。サウルもそのことは知っていました。「主はダビデと共におられ、サウルから離れてしまったので、サウルはダビデの存在を恐れ・・・(18:12)」、「サウルは主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされた(18:28)」、あるいは、19:19以下ではダビデを殺すことを神様ご自身に邪魔されてしまいます。サウルは認めたくなかったのです。王としての自分の召しが終わってしまったことを。それがダビデに移り、神は彼を新しい王としてお立てになったことを。サウルの気持ちは、人間としてはよく分かります。私たちの心の中に妬みほど厄介な気持ちはありません。このどうにもしがたい激しい思いは、私たちの心を焦がし、身を滅ぼす忌々しいほどの強さを持っています。そう思うと、サウルが気の毒になってしまう。しかし、それでも、彼にも主の今の召しに応えて、身を引く道も残されていたはずだとも思います。それを選ぶことはとても困難です。しかし王としては失格してしまっても、一信仰者として生きることは、許されていたはずだったのではないでしょうか・・・。
サウルに起きたこの出来事に耳を傾けながら、私たちが祈るのは、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」という祈りです。

2019年5月26日日曜日

コリントの信徒への手紙一第12章31節bから第13章13節「愛がなければ、無に等しい」


 昨日、たまたま車の運転中に付けていたテレビで、高校生の合唱コンクール(Nコン)を聞きました。課題曲の練習風景を放送していました。なかなか意欲的な曲で、ラップのパートや手拍子も入っていました。私はあまり合唱に詳しくないので、そういうものもあるのかと半ばびっくりしながら聞いていました。合唱しているときの手拍子は、きっと、皆で心を合わせてすることができればうつしいう他声を支える力を持つのだろうと思います。そうでないと、却って悪目立ちしてしまうことでしょう。今朝の御言葉の中には「わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」という言葉が出てきます。どらやシンバルのような打楽器は、合奏団の中での調和がとれていれば、ほんとうに美しい楽器です。しかし、その響きをかき消してしまうような演奏になっては、音楽全体が台無しです。「たとえ、人びとの異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら…」。異言というのは、他の人には理解できない特別な祈りです。神に向かって語られる言葉です。パウロは、異言はその人自身を造り上げるのに役立つと認めています。しかし、他人に向かう言葉ではない。それが愛を欠くとき、独りよがりになってしまいます。独りよがりの祈り、独りよがりの熱心、独りよがりの言葉、独りよがりの正義。それは、全体のハーモニーを台無しにしてしまいます。
 2節に登場する「預言」は、今の教会の言葉で言えば説教のことです。これは異言とは違い、人に向かって話しています。通じるべき言葉です。しかも、ここでパウロが言っているのはあらゆる神秘とあらゆる知識に通じるような預言です。それが愛を欠くことがある。説教が下手くそだから分からないというのではありません。愛がなければ、無に等しい、意味のない言葉になってしまう。
 山を動かすほどの信仰、というのも出てきます。これは主イエスご自身の言葉が思い起こされています。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。(マタイ17:20)」最初に「信仰が薄いからだ」と言っているのは、弟子たちが病気の子どもをいやせなかったのはなぜでしょうかと問うたことへの答えです。あなたたちの信仰が薄いから、隣人をいやすことができなかった。これとは逆に、私が疲れ果てて精も根も尽き果てるようなとき、他の人の信仰によっていやされることがあります。もう一度立てるようにして頂ける。そういう信仰の出会いがある。しかし、そんな隣人をもいやす完全な信仰に、愛を欠くことも起こりうると言います。驚くべき言葉です。それどころか、3節を見れば、全財産を貧しい人のために使い尽くしたり、自分の命さえも死に引き渡してしまう、そんな愛の局地と言えるような献身にさえも、愛を欠くことがあると言うのです。愛がなければ、何の益もない。どんなに優れた言葉も信仰も献身も、愛がなければ無に等しい。パウロはそう言うのです。
 そのことを思うと、私たちの罪というのは、何か悪いことをしたということ以上に、愛にまったく不能なこの現実のことなのです。キリストは、ご自身には何の益もなく、何の得もないのに、このような私を愛し、私のために十字架にまでかけられた。この愛無しでは、生きられないのです。

2019年5月26日(サムエル記上17)

今日の通読箇所:ルカによる福音書22:1~23、サムエル記上17、ヨブ記6

サムエル記上17;
イスラエルとペリシテとの戦。両軍は陣を敷き、相対していました。するとペリシテから身長三メートルにも達しようという巨大な男ゴリアトが現れ、イスラエル軍を挑発します。「おまえたちの中から誰か一人を選んで、私の方へ下りて来させよ。もしその者が私と戦って、打ち負かすことができたなら、我々はお前たちの奴隷となろう。しかし、もし私がその者を打ち負かしたなら、お前たちは奴隷となって、我々に仕えるのだ(8~9節)」。イスラエルの人々はこの言葉を聞いておののき、恐れました。
兄のためのお弁当を届けに来た少年ダビデも、ゴリアトの挑発を耳にします。そして、イスラエルの人々が彼を恐れて誰も戦おうとしないのを見て、憤慨します。彼はサウル王の前に出て言います。「ライオンの手、熊の手から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を救い出してくださいます(37節)」。こうして、イスラエルの代表としてダビデがゴリアトの前に立ちました。
ゴリアトは、ダビデを見て侮ります。ダビデを見た目で判断したのです。しかしダビデは羊飼いの石投げとたった一つの石でゴリアトを打ち負かし、その首を取ったのです。
ダビデは終始一貫して、目に見えない神様を見ていました。ゴリアトに彼は言います。「お前は剣や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑発したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に渡される(45節)」。ダビデは目に見えるところで判断するのではなく、目に見えない神の力を信じ、信頼し、依り頼んでいたのです。だから、彼は勇敢でした。
ダビデに対する周囲の評価は、極めて低いものでした。兄たちは、ダビデのよこしまな野心だと言います。サウルは少年に過ぎないと言います。ゴリアトは羊飼いの格好をした少年を見て、自分は犬かと行って彼を嘲ります。42節を見ると、「彼が容姿端麗で、血色の良い少年だったので侮った」とあります。サウルが見出されたときは、その美男子ぶりは高評価につながりましたが、ダビデは逆に侮りの材料になるだけでした。しかし、ダビデ自身は、目に見えるところで物事を判断する人ではなかったのです。神を信じ、神に従い、神を畏れていた。だから、他の何者をも恐れなかった。私たちも、同じ信仰が与えられているのです。

2019年5月25日土曜日

2019年5月25日(サムエル記上15〜16)

今日の通読箇所:ルカによる福音書21、サムエル記上15~16、ヨブ記5

サムエル記上15~16;
主はサムエルに命じ、サウルを遣わしてアマレク人からイスラエルを救おうとされました。その際、サウルに「さあ、行って、アマレクを討ち、アマレクに属するものはすべて滅ぼし尽くしなさい。容赦してはならない(15:3)」とお命じになったのです。ところが、サウルはこの点で不忠実でした。「彼はアマレクの王アガグを生け捕りにし、その兵をことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。しかし、サウルと兵はアガグと、初子でない羊と牛の最もよいもの、それに小羊など、良いものはすべて惜しくなり、滅ぼさないで、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした(8~9節)」。
その時、主なる神様はサムエルにおっしゃいます。「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった(11節)」。このため、サムエルも心を痛めました。サムエルはサウルに指摘します。「主が喜ばれるのは、焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる。・・・あなたが主の言葉を退けたので、主はあなたを王位から退けられた(22~23節)」。
サウルは、なぜ、主の言葉に従わなかったのでしょうか。戦利品を自分のものにしたかったのでしょうか。それもあったかもしれませんが、それ以上に、人目を気にしたのです。「私は主の命令とあなたの言葉を軽んじて罪を犯しました。兵を恐れるあまり、彼らの声に聞き従ってしまいました(24節)」。人の評価を基準としたとき、私たちも全く同じなのではないでしょうか。
主なる神様はサムエルに命じ、サウルに代わる新しい王をお立てになります。そのためにエッサイの家に遣わされました。始めにエッサイの長男を見た。彼もまた美男子だったようです。しかし、主は言われます。「容姿や背丈に捕らわれてはならない。私は彼を退ける。私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る(16:7)」。こうして、エッサイの7人の息子たちが退けられ、最後に残った末息子のダビデが主に選ばれ、イスラエルの新しい王になっていくことになります。
主がご覧になる私たちの心とは、一体なんでしょう。ただ神を畏れ、その言葉にだけ従うことではないでしょうか。人の目や評価、自分の目に映るところではなく、神とその御言葉に従って生きることを、主は望んでおられるのではないでしょうか。ダビデは、そのような信仰者だったのです。-

2019年5月24日金曜日

2019年5月24日(サムエル記上14)

今日の通読箇所:ルカによる福音書20:19~47、サムエル記上14、ヨブ記4

サムエル記上14;
サウル王、そして息子のヨナタンの特性がよく表れている章だと思います。
ヨナタンは勇敢な若者でした。600人のペリシテ人を前にしても恐れることなく、「さあ、あの無割礼の者たちの本体のところへ渡って行こう。恐らく主は我々に味方してくださるであろう。主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない(6節)」と言い切り、その通りに実行します。ヨナタンは目に見えるところによって判断するのではなく、主が見方でいてくださるという事実によって判断しました。サウルが兵に命じて「私が敵に報復する夕方まで、食べ物を口にする者は呪われる」という無理な誓いを立ててしまったとき、ヨナタンは王の権威を恐れるよりもこの無理に怒りを抱きました。彼は勇敢であり、まっすぐに主を見上げる青年であったのだと思います。
それに対する父サウルは、目に見えるところばかりに気を取られています。サウルも知らないうちにヨナタンが敵陣に侵入して果たした作戦が成功しているのを遠くから見たサウルは、その目に見えた結果で自陣を捜索し、ヨナタンがいないことに初めて気づきます。また、ペリシテ憎しのあまりに兵全体に食べ物を口にしない誓いに参加させます。ヨナタンはその誓いのことを知らないで蜂蜜を口にし、誓いを破ってしまいました。そのためなのか、「この日、主は彼にお答えにならなかった(37節)」。それでサウルはくじを引いて、ヨナタンが誓いを破ったのだと知ります。サウルは誓いを破った者はたとえ息子ヨナタンであろうとも死ななければならないと、また軽く口にしてしまった。果たしてくじはヨナタンに当たり、彼が蜂蜜を口にしたことを知ります。ヨナタンは、父の誓いを尊重して、自分は死ぬべきだと言います。サウルもそれを認めます。ところが、ヨナタンは人望が厚く、兵はヨナタンの処刑に反対します。それで、ヨナタンは死刑を免れました。
自分で勝手に兵全体を巻き込む誓いを立てたことも褒められたものではありませんし、ヨナタンが破ったことを知ったとき、その誓いを果たさなかったのは兵の目を恐れたからです。どこをどう切り取っても、サウルの基準は人の目でした。自分がどう見られているのか(彼は元々美男子だったのです!)、自分の目に状況はどう映っているか、それが彼の基準でした。サウルのこの姿勢は、悲劇的な不信仰でした。私たちの基準は、どこにあるのでしょうか?

2019年5月23日木曜日

2019年5月23日(サムエル記上11〜13)

今日の通読箇所:ルカによる福音書20:1~18、サムエル記上11~13、ヨブ記3

サムエル記上11~13;
サウルが王となった頃、イスラエルは周辺諸国の中で小さなものであったようです。強い外国に圧倒されて、屈辱をなめていました。しかしサウルの戦果はすばらしく、外国の脅威を追い払い、国内の治世も安定しました。これこそ、人々が求めていたことでした。人々は喜んだ。
それに対し、サムエルは、もう一度人々に思い起こさせます。「今こそしっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。今日は小麦の刈り入れのときではないか。私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。それを見て、自分たちのために王を求めたことが主の目にどんなに大きな悪であったかを知るがよい(12:17)」。王を求めるというのは、この世界を造り、保っていてくださり、雨を降らせ太陽を昇らせる神が王であるということを否定することです。サムエルの目にはそう映っていました。人々は、その罪を認めます。「我々はあらゆる罪の上に、王を求めるという罪を加えてしまいました(19節)」。
事柄の本質は、どういう政治形態を執り、どのように国を作り上げるか、という方法論の話ではないと思います。神が私たちを支配しておられるという目に見えない事実を受け入れ、それを前提とした生活をしていくのか、それとも目に見えて安全そうであり、安心をえられそうなものを選ぶのか、ということです。
第13章では、サウル王の治世にペリシテと再び戦争になりました。戦況は悪い。サムエルも来ない。このとき、サウルはサムエルを待ってするべきであった礼拝、犠牲の奉献を自分の手でしてしまいました。それは間違った判断でした。サウルの言い分は、分かります。「兵が私から離れ去っていくのを目の当たりにしていても、あなたは定められたときに来られず、しかもペリシテ人はミクマスに集結しています。私は・・・やむをえず焼き尽くすいけにえを献げました(13:11~12)」。しかしそれは主の御前では間違った判断でした。彼は主を畏れることなく、目に見える敵の脅威や兵が離れる「現実」しか見ていなかったのです。
サウルは見目麗しく、人々は彼に熱狂した。しかし彼は目に見えるものしか見ず、人々も同じでした。サムエルは、一貫して目に見えない神を信じ、畏れ、仕えています。サムエルの振る舞いこそ、神を王として生きるということです。そしてサウルや人々の振る舞いは、目に見えるものを王とし、常識を王とし、目に見える安心を王とするということに他ならない。私たちは今朝再び問われているのです。あなたの王は誰ですか、と。

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を...