2022年1月31日月曜日

2022年1月31日の聖句

立ち帰れ、背信の子らよ。私はあなたがたの背信を癒やそう。
我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の神、主だからです。(エレミヤ3:22)
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。(1ペトロ2:25)

主イエスさまを信じる私たちの信仰の、一番最初にあるのものは一体何か?私はずっと、私が神さまの前に歪んでいること、聖書の言葉で言えば罪人であること、それが一番最初にあることだと思っていました。今日の二つの御言葉を読むと、そういう気がします。「立ち帰れ、背信の子らよ」「あなたがたは羊のようにさまよっていました」。神さまの前からさまよい出てしまっていて、立ち帰らなければならない。
確かに私は歪んでしまっています。神さまの前からさまよい出てしまっている。迷子の羊のように。失われた息子のように。しかし、聖書は、私が歪んでいるとか迷い出ているとか、そういうことよりももっと前にある事実を見せている、と最近考えを改めるようになりました。
「私はあなたがたの背信を癒やそう」「魂の牧者であり監督者である方」と、今日の御言葉は言っています。神さまは、私が背く前から今に至るまで、変わることなく私たちの神、主でいてくださり、私の魂の牧者でいてくださいます。この事実こそが何よりも先にあるのではないでしょうか。聖書は私がどういう人間かということよりも、もっと力強く、そして確かに、神さまがどういう方なのかを語り出しています。そして、神さまは私たちの牧者でいてくださって、迷い出たものを探し、ご自分のもとから飛び出したものが立ち帰れば駆け寄って抱き寄せてくださる方なのです。
主イエスさまを信じる私たちの信仰の一番最初にあるのは、主イエス・キリストによって示された神の愛です。この圧倒的な恵みの光に照らされて、初めて自分が何者なのかを私たちは知ることができます。私は、私の魂の牧者でいてくださる方の御許に帰る羊なのだ、と私たちはキリストの光の中で知るのです。神の愛は私たちの罪より大きく、圧倒的です。この羊飼いなる方の愛の呼び声の中で、今日私たちは御もとに帰るのです。

2022年1月30日日曜日

2022年1月30日の聖句

我々はもはや、自らの手の業にすぎないものに対して、「あなたは私たちの神です」とは言いません。(ホセア14:4)
人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。(マルコ8:36)

我々はもはや、と言っています。もはや、自分の手の業にすぎないものを神とはしない。もはや、と言っているということは、これまでは自分の手の業にすぎないものを神としていた、ということになります。これは、○○神の像というような話では済まないと思います。人間が造ったものに過ぎないのに、いつの間にか人間を従えて神のようになってしまうものはたくさんあります。私たちは、今、何を神としているでしょうか。
「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。」これは、主イエスさまのお言葉です。ここでの「全世界」は、人間が造り出した全世界ということでしょう。富も統治も栄誉も、全部含まれているはずです。そのすべてを手に入れたとしても、そのために自分の命を損なってしまうなら、一体何の得があるだろうか。しかし、しばしばそうなってしまいます。全世界どころかほんの僅かなものを手に入れるために、自分の命を損なってしまう。
旧約聖書ホセア書の、今日掲げられている御言葉の直後にはこのように書かれています。「ただあなたによってこそ、みなしごは憐れみを受けるのです。」みなしごは、自分を守ってくれる人を持ちません。寄る辺ない。そのみなしごを、神が憐れみ、守ってくださる。そのような憐れみ深い神さま、あなたの御許にかえります、という告白の言葉です。
カンバーランド長老教会の「礼拝指針」という文書があります。その前文にこのような言葉が出てきます。「私たちは自分自身では満ち足りることができないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって、完成と充足を経験するのである。礼拝するとは、人間が人間になることである。」私たちは自分で自分にまったき充足を与えることはできないし、人間が造ったものをかき集めることでも充たされないし、神さまがお造りになったものを強欲に独り占めしても完成されることはない。神の前に膝をかがめ、神を礼拝することで、初めて「自分」として全きものになることができる。みなしごである私を憐れんでくださるのは、ただ主なる神様なのです。

2022年1月29日土曜日

2022年1月29日の聖句

私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となる。(エゼキエル37:23)
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。(1コリント3:16)

あなたがたは神の神殿だ、と言われています。神の神殿。旧約聖書の出エジプト記では、荒れ野を旅する神の民の中心にある幕屋の話がでてきます。あるいは列王記にはソロモン王が神殿を建築したときのことが記録されています。どちらも同じ目的を持っている。神を礼拝し、ささげ物を献げ、神に祈るための場所です。聖書は私たちに言います。「あなたがたは神の神殿」。私たち自身が神さまの神殿だと言います。私たちは神に祈るために、礼拝を献げるために、エルサレムまで行かなくてよいのです。神さまは、私たちを神殿としてくださいました。私たちはどこででも祈ることができるし、それどころか神さまは私たちの内に住んでいてくださるのです。「神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。」
ここに、石で造られた神殿が例えどんなに立派で荘厳なものであったとしても、どれほどの技術の粋を寄せ集めて造られたものであったとしても、それにまさるものがあります。ソロモンは七年もの年月をかけた神殿を建築しましたが、その完成の時にこのように祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。(列上8:27)」ところが、何と、神様ご自身の霊が私たちの内に住んでくださっているのです。
その事実を知ったとき、私たちの生き方は変わります。圧倒的な恵みの事実を前にすると、変わらざるを得ません。神さまが私の内にも住んでいてくださる。この恵みを無駄にすることはできないからです。「私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となる。」神さまが、私たちを救ってくださいます。神さまが、私たちを清めてくださいます。ご自分の住まいとして。だから私たちは、この後は神のものとして生きていきます。
そこには罪との戦いが起こります。いつ負けてしまうか、不安になります。しかし心に留めたいのは、罪とは掟に背くことではなくて、神さまの恵みを無駄にすることだということです。私たちはキリストに教えていただいたとおりに祈って、今日の日を生きていきます。我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。神様ご自身が私と共にいてくださって、どうか私を守っていてください。私が与えられた恵みを無駄にせず、キリストのものとして歩むことができるように。

2022年1月28日金曜日

2022年1月28日の聖句

私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。この方は私の希望だから。(詩編62:6)
耳のある者は聞きなさい。(マタイ11:15)

聖書を読み、祈るとき。一体何をし、どのようにその時間を過ごしたら良いのでしょうか。今日の御言葉はそのヒントを与えます。
「私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。この方は私の希望だから。」
ただ神に向かって沈黙せよ。これがその答です。沈黙。御言葉を前にして自分がしゃべることを一度止め、沈黙して御言葉の中に自分の身を浸す。そういう時間が最も貴い。なぜなら、神様ご自身が私たちの希望だからです。私たちの考えや常識や思い込みを一度脇に置いて、ただ神様の御言葉に沈潜する。神さまとの関わりにだけ集中する。そこにあるのは、御言葉への受動的な関わりです。御言葉が語り出すのを待つ。必ず、神さまは聖書の御言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。
「耳のある者は聞きなさい。」主イエス・キリストが言われました。聖書を読むと、私たちの方でもいろいろなことを考えます。疑問がわいたり、納得できなかったり、聖書の言葉から連想しだして全然関係のないことを考え始めたり、あるいは何も感じなかったりもします。まずは、ただひたすら聞くことに徹してみます。そうすると、不思議と、しかし必ず神さまは語りかけてくださいます。一度自分がしゃべることを止めて、私たちは耳を開いて聞く側になる番です。
神さまの御言葉に耳を傾けて聞いたとき、そこから聞こえてくるのは希望の言葉だ、と聖書は言います。あるいは、神さま御自身が私の希望でいてくださる、と言うのです。御言葉の光に照らされている自分を発見したとき、私たちには希望があることに気づきます。主イエス・キリストを信じることは、希望に満ちたことです。私たちを取り巻く環境には希望が見えなくても、キリストは今も生きて働いておられます。キリストをお迎えするために、私たちは今日も準備の一日を生きていきます。だから、私たちには望みがある。神に向かって私たちは沈黙し、語りかけてくる御言葉と共に、今日の一日を私たちは生きていきます。

2022年1月27日木曜日

2022年1月27日の聖句

主の慈しみは、いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上にあり、その義は子らの子に、その契約を守る者に及ぶ。(詩編103:17~18)
イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

これこそ福音の言葉です。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」ここで「イエス・キリストは」と言っていることに注目したいと思います。私たちは、変わります。すぐに変わってしまいます。私たちを頼みとしていたら、いつまで経っても不安なままです。私たちは不確かです。自分自身も、他の人も環境も。だから自分の価値観も人の目も、他人の姿も、私たちの絶対的な基準にはなり得ません。しかし、イエス・キリストは変わらない。キリストは、昨日も今日も、永遠に、確かな方です。
しかも、ここで「イエス・キリストは」と言って、「神は」と言っていないことにも特別な意味があるのではないでしょうか。イエス・キリストによって示された神の恵み、神の愛は、昨日も今日も、永遠に変わることがないのです。イエス・キリストは変わらないというのは、キリストに現された神の恵みを、神が永遠の御心としてくださっているという宣言です。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」昨日も、キリストは慈悲と愛に富んだお方でした。十字架にかけられてもなお罪人への憐れみをお忘れにはなりませんでした。だから、私も罪赦されて、生かされています。そのキリストは今日も愛に満ちた方です。今日、キリストは新しく私たちと出会ってくださいます。今日、私たちに御言葉を語りかけ、ご自分の慈しみの中に歩ませてくださいます。このお方の慈悲は、永遠に変わることがありません。私がどんなに移ろっても、キリストの愛は永遠に変わることがないのです。

2022年1月26日水曜日

2022年1月26日の聖句

みわざを、あなたのしもべらに、ご威光を彼らの子らの上に現してください。(詩編90:16)
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

「言は肉となって、私たちの間に宿った。」神さまは、天地を創造する初めの時から、言によって世界に働きかけておられました。「光あれ」と神さまが言われるとき、光が呼び出されました。天も地も、空も海も陸も、そこに生える木々や実を付ける植物、海の魚も空の鳥も、地の獣も、すべて神さまがその御言葉によって呼び出しました。そして私たちも、神さまが御言葉をおかけになったから、今ここにいるのです。「宮井岳彦あれ」と神さまが言をおかけになったから、私は今ここにいます。私たちの存在の根源は神さまの言に呼び出されたという事実です。
その言は、単に発せられてすぐに消えてしまうものではありません。光を、空を、陸を生み出す、出来事の言葉です。そして、その言葉は単に神さまのところから発せられて私たちに届くコミュニケーションの手段にはとどまらず、この言は神様ご自身なのです。「言は肉となって、私たちの間に宿った。」言が肉となった。神さまの御言葉は現実を生み出す出来事であり、神様ご自身であって、単なる音声や情報伝達や意味を超えた、神さまの存在そのものなのです。
心を込めたラブレターを破り捨てられたら、傷つきます。その言葉には存在がかかっているからです。私たちは言葉で嘘をつくこともできます。その場合は、自分の存在と言葉が分離してしまっています。神さまにとってご自分の言は、御自身の存在そのものです。言が肉となって、独り子の栄光、恵みと真理に満ちて私たちのところへ来られた。神さまの存在そのものを私たちに預けてしまわれたのです。ラブレターは、信頼している相手にしか出せないでしょう。もしもその人が他の人に晒したり、笑いものにするような人だったら、ラブレターなんて怖くて出せません。神さまがご自分の存在を明け渡して独り子を与えてくださいました。私たちにどんなに裏切られても、言を向け続けてくださいました。神の言は私たちへの愛と信頼のしるしです。
今日も、私たちは神さまの御言葉を聞いて、祈りつつ一日を始めました。神様ご自身の存在を頂いて、私たちは新しい一日を始めました。驚くべき出来事です。

2022年1月25日火曜日

2022年1月25日の聖句

主よ、私を懲らしめてください。しかし、あなたの怒りによらず、ただ、公正によって。さもなければ、私は無に帰してしまうでしょう。(エレミヤ10:24)
神は、私たちを怒りに遭わせるようにされたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るようにされました。(1テサロニケ5:9)

ダビデ王はイスラエル史上最高の名君でした。大胆に神を信じ、大胆に罪も犯しました。そして罪を犯していたことに気づいたときには大胆に悔い改めました。
ダビデが晩年に差しかかろうかという時のことです。彼の活躍で国内は平穏になっていき、安定した政治を行っていました。そんな時、彼は人口調査をすることにしました。その結果、剣を取りうる民がイスラエルには80万人、ユダには50万人ということが分かった。ところが「民を数えたことはダビデの心に呵責となった」(サム下24:10)のです。なぜなのか、聖書は詳しく説明していません。恐らく、人口を数えたいという思いの中に、本当は神ご自身のものであるはずの王国をダビデがあたかも自分の所有物のように考えていた、ということが隠れていたのだと思います。これはダビデ一人の良心の呵責にとどまらず、神さまの御目にも罪と罪と映りました。
ダビデは悔い改めの祈りを献げます。ダビデのところに預言者ガドが来て、神さまのメッセージを伝えました。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三ヶ月間敵に追われて逃げることか、三日間あなたの国に疫病が起こることか」如何なる罰にするかを選ぶように、と言ったのです。ダビデはこれに対して「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」と言って、疫病を選んだのでした。
ダビデは罪を犯したとき、神さまの手にかけられることを望みました。神さまの御手から受けるのであれば、罰の中にもまた慈悲があるに違いないと信じたのです。「主よ、私を懲らしめてください。しかし、あなたの怒りによらず、ただ、公正によって。さもなければ、私は無に帰してしまうでしょう。」私たちは過ちを犯してしまうし、神の恵みを無駄にしてしまいます。悔い改めの祈りを献げるとき、私たちは神の慈悲にすがるしかありません。そうでなければ、私たちは無に帰してしまうしかありません。
「神は、私たちを怒りに遭わせるようにされたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るようにされました。」主イエス・キリストにあって、神さまは私たちを怒りに定めることがありません。ダビデのように過ちを犯してしまっても、新約の時代に生きる私たちはそれに相当する罰をもって報いることはなさらない。神の慈悲は更にはっきりと私たちに示されました。私たちはキリストに現された神の慈悲によって生かされているのです。

2022年1月24日月曜日

2022年1月24日の聖句

たとえ私が「闇よ、私を覆え。光ではなく、夜よ、私を囲め」と言っても、あなたにとっては、闇は暗くなく、夜は昼のように明るいのです。(詩編139:11~12)
日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。(ルカ4:40)

「闇よ、私を覆え。光ではなく、夜よ、私を囲め」。深い絶望の言葉です。もう光を求めることもできないほど、深く絶望している。むしろ光が苦痛、昼の光がつらい。そういう絶望の中から出てきた呻きのような言葉です。
詩編には、そういう絶望の言葉がいくつもあります。絶望の詩編。私は、とても大切な詩編だと思っています。絶望の時に絶望の言葉を私に代わって言葉にしてくれている。聖書にある絶望の言葉を口にすることでしか癒やされない傷が、私たちにはあるのです。絶望したときにその絶望を言葉にするのは、癒やしの第一歩だと思います。
しかも、この詩編は、絶望の暗闇のどん底で神様と出会っています。「たとえ私が『闇よ、私を覆え。光ではなく、夜よ、私を囲め』と言っても、あなたにとっては、闇は暗くなく、夜は昼のように明るいのです。」この信仰者が出会った神は、光り輝くお姿ではありません。夜の闇よりももっと暗いのです。どんなな漆黒も、暗い闇も、神さまに比べれば暗いとは言えない。夜の闇すらも神さまの前では光を放っている。なぜなら、夜も、闇も、神さまがお造りになったからです。私たちがどんなに深く沈み込んでいるときにも、どんなに深い深淵に身を横たえても、そこにも神はおられる。深い淵もまた神がお造りになったものだからです。神さまに行けない場所はありません。キリストは陰府にまで降って行かれたのです。
「日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。」キリストは、夜の闇の中で私たちと出会われます。絶望して身を起こせないその枕辺に、キリストは来てくださいます。キリストという光は私たちがどんなに怯えていても私たちを倒してしまうのではなく、私たちを癒やし、私たちに新しい望みを与えます。キリストは傷ついた葦を折ることはなく、暗くなってゆく灯心を消すこともなさいません。私たちのためにいちばん暗いところに沈み込んでくださったキリストという光が、あなたを優しく包み込んでいます。

2022年1月23日日曜日

2022年1月23日の聖句

私はいのちの限り、主に向かって歌い、生きるかぎり、私の神をたたえます。(詩編104:33)
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば祈りなさい。気分が高揚している人があれば詩編を歌いなさい。(ヤコブ5:13)

今日の新約聖書の御言葉を読んで、私は少しびっくりしてしまいました。私が覚えていた言葉遣いと、ずいぶんと違う翻訳をしていたからです。(今使っている『日々の聖句』は、最近では主に新共同訳を参照しながらも自由に独自の翻訳を取り入れているようです。『日々の聖句』の原文のドイツ語版の聖書翻訳の響きを大切にしたいそうです。)新共同訳では、今朝の箇所はこのように訳しています。
「あなたがたの中の苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」
「喜んでいる人は」というのと「気分が高揚している人」というのではずいぶん印象が違うような気がします。しかし喜べば気分が高揚しているということですから、結局は同じことだとも言えそうです。しかしいずれにしても、良い訳だと思いました。聖書は、私たちの感情の動きを大切にしているのだと思います。気分が高揚したり、沈み込んだり、私たちの心はいろいろな動きをします。もしも苦しんでいるなら祈ったらいい、と聖書は言います。逆に喜んでいて気分が高揚しているなら、その心を神さまに向けて詩編によって神を賛美すると良い、と言うのです。
私はこの御言葉を読んで、よく外国から来たスポーツ選手が野球でホームランを打ったり、サッカーでゴールを決めたりしたときに祈っている姿を思い出しました。喜びを爆発させるとき、ただ嬉しいというだけではなくて神に祈る。すばらしいことです。私たちも感情が動いたその時に神を賛美したり、苦しいときに神さま助けてと祈ったり、自分の心の動きを神さまに委ねることが大切なのではないでしょうか。
「私はいのちの限り、主に向かって歌い、生きるかぎり、私の神をたたえます。」この詩編を歌った旧約の信仰者は、とても喜んでいたはずです。悲しい顔をしながら口にしたとは思えません。私たちが日々味わっているような苦しみや悩みも経験していたはずです。涙を流すこともあったはずです。そんなどこにでもいる普通の心を持った人間が、心を高揚させながら神を賛美し、神に祈り、喜びも悲しみも神さまに打ち明けて生きていく。その姿を神さまは必ずお喜びになると私は信じています。

2022年1月22日土曜日

2022年1月22日の聖句

とどろきと共に飛び回ったどの靴も、血にまみれたどの外套も、焼かれて火の餌食となる。(イザヤ9:4)
我らの神の憐れみを通して、高い所から光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79)

一体どうしたら、私たちが生きるこの世界は平和になるのでしょうか。「とどろきと共に飛び回ったどの靴も、血にまみれたどの外套も、焼かれて火の餌食となる。」軍靴や兵士のマントが必要なくなる世界は、一体どうしたら作り出せるのでしょうか。それらが焼かれて火の餌食になる世界のヴィジョンを預言者イザヤは見ているのですが、どうしたらそれは現実になるのでしょうか。
私たちは主イエスの「平和を造る人々は、幸いである」というお言葉を知っています。本当にその通りだと思います。しかし、一体どうしたら平和を造ることができるのか?周りの人との平和だって簡単ではない。ましてや軍靴や兵士のマントがいらない世界を一体どうしたら実現できるのでしょう。事実、日本にも軍靴を履き、マントを纏う兵士たちがいます。彼らを排除するという話ではなくて、武力が本当に必要ではない世界は、どうしたら作り出せるのでしょう。
新約聖書の御言葉は、このように言います。「我らの神の憐れみを通して、高い所から光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」これは洗礼者ヨハネが生まれるに際して彼の父が語った言葉です。ヨハネは主イエスの来られるための準備をする人です。主イエスは暗闇と死の陰に座す私たちのための高い所からの光、朝の輝きです。この方が、私たちの足を平和の道に導くのだ、と言います。
先ほどの旧約聖書イザヤ書の御言葉ですが、今日の4節に続く5節以下では、このように書かれています。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。」終わりのない平和は、力ある神のみ名で呼ばれるみどりごが確立する、と言うのです。キリストこそ、暗闇と死の陰に座す私たちのための平和の光です。
私たちは、主イエス・キリストの平和を求めて生きていきます。この世界はまだ神の国ではないので、痛みがあるし軍靴の音に溢れています。そのために涙を流す人もたくさんいます。だから、私たちは祈ります。「御国を来たらせたまえ」と。そしてキリストの平和に仕えましょう。私たちの足を平和の道に導いてくださったキリストをまねて、目の前の人のための平和の道造りをさせていただきましょう。

2022年1月21日金曜日

2022年1月21日の聖句

主よ、あなたは私たちの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。(イザヤ64:7)
あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。そして、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと任命したのだ。(ヨハネ15:16)

それまでは当たり前のように太陽が地球の周りを回っていると思っていたところに、実は地球が太陽の周りを回っていると唱えたコペルニクス。そこからとって「コペルニクス的転回」という言葉があります。物事の前提からすべてがひっくり返ってしまうような大転回を指す言葉です。今日の御言葉は、まさにそれです。「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。」神さまが私たちを造ったのであって、私たちが神さまを造ったのではないという告白です。
特に現代は、この点を厳しく問うているのではないかと思います。神さまと言ったって、結局は人間が造り出したものでしょう、と多くの人が思っているのではないでしょうか。そして、その批判は耳を傾けるべき批判だと思います。私たちが自分に都合の好い神さまをすぐに造り出してしまうからです。何もそれは神社仏閣とか新興宗教の話ではありません。私たちキリスト者こそが、自分の好む顔を持つ神々を無自覚に生み出し続けているのではないでしょうか。律法学者は自分の正しさを認めてくれる神を作り上げました。祭司たちは自分の作る神の顔と異なるので、イエスを十字架にかけました。私たちは、自分の願いを叶えてくれる神の顔を求め、それを作り上げることの達人です。
しかし、本当は、神さまが私たちをお造りになりました。私たちは土くれに過ぎない。その私たちにかたちをあたえ、生きる命を与え、ご自分の前に立たせてくださったのは、神さまです。私たちがこの神を選んだのではない。私たちがこの神を都合よく生み出したのではない。主イエス・キリストの父であるかたが私たちを造り、選び、ご自分のものにしてくださいました。私が主であるのではなく、神さまが主でいらっしゃるのです。
この事実は、私たちの生き方を変えます。神さまがお造りになったのなら、私たちは神さまの作品として尊いはずです。そして、神さまがお造りになったのなら、私たちには目的があるはずです。与えられた尊さを映す目的が。神さまが私に望んでおられることは何か。神を愛し、仕え、礼拝し、隣人を愛する一日を生きたいと願います。

2022年1月20日木曜日

2022年1月20日の聖句

天は神の栄光を語り告げる。(詩編19:2)
天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。(詩編14:7)

讃美歌550番に「大地よ、星々よ」という讃美歌があります。このように歌います。「大地よ、星々よ、主に向かって歌え。雨風、吹雪さえ、歌え、新しい歌。神のすばらしいわざ。歌え、声合わせて。」天も地も、神さまをほめたたえている。山も、丘も、木々も、そこに生きる動物も植物も、神をほめたたえている。詩編作者の、そして詩編に導かれてこの讃美歌を作った人の麗しい感性が、物言わぬ天や地の声に耳を傾け、そこに神を賛美する調べを聞き取っているのです。
この讃美歌のとても興味深いところは、第2節です。「機械やハンマーの音、主に向かって歌え。働く人たちも、歌え、新しい歌。」人々が働く音、職人の立てる音も、機械の営みも、神を賛美していると言います。神さまに造られた人間の知恵や技術、労働の営み、それも神さまを賛美する音を奏でている。
「天と地、海と水の源を創造した方を賛美せよ。」ここで、「海と水の源」と書いてあります。海とか水の源というのは、日本で生活して持っているイメージと、イスラエルの人たちの持っているイメージとでは、恐らくかなり違うものがあるのではないかと思います。日本では海は豊穣の証しであり、基本的には恵みの海です。しかし旧約聖書に多く登場する海に象徴されるイメージは、混沌とか、悪とか、そういうイメージであることも度々あります。しかし、その海も水の源も、天と地をお造りになった方が創造されたのだ、と言うのです。それどころか、かつては混沌や悪を象徴すると思われていた海が、神を賛美している。神を礼拝している。神に造られたすべての者が神の前にひれ伏し、神を賛美し、神を礼拝している。その姿を、ここで見ている。そういう信仰の目を開かれているのです。
私たちの毎日の営みが立てる音も、神さまを賛美します。目覚まし時計の音、台所の水仕事の音、包丁の音、風呂を掃除する音、パソコンのキーボードを叩く音、車のエンジンの音、電車の音、歩く足音も走る足音も、全部が神を賛美している!私たちの営みの全部が神を賛美し、神を礼拝している。私たちの生活に溢れる賛美の音に耳を傾け、心を合わせる私たちの一日の営みでありますように。

2022年1月19日水曜日

2022年1月19日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5)
憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。(マタイ5:7)

今回のコロナのことで痛感させられたことの一つは、苦しむ人と私との差は何もない、ということです。いつ、どこで、だれが病になるか分かりません。本当はコロナにまったく限らない。どのような病気でも、病気以外のいろいろなつらい出来事であっても、そうです。今苦しんでいる人、つらい思いをしている人、悲しんでいる人と自分との差はありません。本当だったら私が病気になったかも知れないし、重症になってしまったかも知れません。今日、そうなるかも知れません。隣人を愛するというのは、何か崇高な美徳というよりも、我が事です。憐れみに生きることは、自分を愛することと区別することはできないのだと思います。私たちは隣人を愛することなく自分を愛することができないのではないでしょうか。
「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。」憐れみ、と主イエスは言われます。この言葉は、ヘブライ人への手紙2:17でも使われています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」ここでは、主イエスさま御自身のお心を表すために、この「憐れみ」という言葉を使っています。主イエスさまの憐れみは、私たちのために、私たちと同じものになる憐れみです。私たちと同じ痛みを、私たちと同じ病を、私たちと同じ悲しみを嘗めるために、キリストは私たちと同じ者になられました。キリストは、ご自分の隣人として、私たちを愛してくださいました。キリストは私たちの痛みを我が事としてくださいました。だから、私たちにも愛すること、憐れみ深く生きてほしいと、主イエスは言われるのです。
「貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。」人の災難を喜ぶというのは倫理的によくないとか、人としてみっともないとか、そういう言い方もできるかも知れませんが、それ以上に、主イエス・キリストが私たちにしてくださったことに矛盾します。キリストは貧しい者のために貧しくなってくださいました。災難に苦しむ者のために災難の中に身を置いてくださいました。キリストは、完全に私の痛みを負い、私の貧しさを苦しんでくださいました。このキリストの御名が褒め称えられますように、とひたすら祈ります。

2022年1月18日火曜日

2022年1月18日の聖句

あなたの杖で、ご自分の民を牧してください。(ミカ7:14)
羊は牧者の声を知っているので、付いていく。(ヨハネ10:4)

聖書には、羊と羊飼いのイメージがいろいろなところに出てきます。詩編第23編や、「私は良い羊飼いである」という主イエスさまのお言葉が、最も代表的な羊飼いの譬えではないでしょうか。私たちの愛するイメージです。
ただ、もしかしたら、私たちが羊飼いと聞いてイメージする内容と、聖書の民のイメージとは少し違うところもあるのではないかと思います。聖書では、「羊飼い」が王の譬えとして語られることがあるのです。例えばエゼキエル書第34章です。ここでは悪政を行う王たちを、羊を虐げる羊飼いに譬えています。羊飼いはイスラエルの人々にとって身近な存在でしたから、羊を守り、羊を導く羊飼いの姿から国のリーダーの姿を思い浮かべるというのは自然なことであったのではないかと思います。
「あなたの杖で、ご自分の民を牧してください。」預言者ミカのこの言葉の背後には、このイメージがあるのだと思います。恐らく、ミカは先ほどのエゼキエルが直面したのと似たような現実を見ていたのではないでしょうか。政治家が私利私欲に走り、神を敬うこともなく、民を虐げている。人間の政治にもはや期待することができない。民は苦しみ、あるいは民自体も腐敗し、神を信じ、神の前に誠実に生きようとしない。隣人との関係も壊れてしまっている。「あなたの杖で、ご自分の民を牧してください。」この祈りは、私たちをどうか救ってくださいという切なる願いではないでしょうか。
主イエスは言われます。「羊は牧者の声を知っているので、付いていく。」私たちは、羊である私たちの牧者の声を知っているでしょうか。他の悪い羊飼いに付いていって、自分自身も悪くなってはいないでしょうか。真の羊飼いでいらっしゃる主イエスさまは、私たちの名前を呼んでいてくださいます。この羊飼いは私たちを愛し、羊である私たちのために命を捨ててくださいました。主イエスさまの声をしっかりと聞き分け、このお方に付いていきましょう。
主イエスの声を聞くとは、聖書の御言葉に触れ続けるということです。牧者キリストに付いていくとは、このお方に祈ることです。世の巷には、自分本位な羊飼いたちの声が高らかに響いています。魅力的で、おいしそうに見える草を見せるかも知れません。しかし、羊のために命を捨てる羊飼いが、他にいるでしょうか?私たちの名前を呼び続け、私たちを目の瞳のように愛してくれる羊飼いが、他の一体どこにいるのでしょうか?私たちの真の羊飼い、主イエス・キリストの声に耳を傾けましょう。

2022年1月17日月曜日

2022年1月17日の聖句

主をほめたたえよ。我らの神をほめ歌うのはなんとすばらしいことなのだから。(詩編147:1)
詩と賛美と霊の歌をもって互いに励まし合い、主に向かって心から歌い、奏でなさい。(エフェソ5:19)

今日の新約聖書の御言葉は、エフェソの信徒への手紙の一節です。私はこの手紙が好きです。パウロが書いた手紙の中でも「獄中書簡」と呼ばれるものの一つで、パウロが牢獄につながれている時に書かれました。オランダの画家レンブラントが、獄中のパウロの絵を描いています。この絵も私は大好きなのですが、暗い牢獄につながれたパウロを、小さな明かり取り窓から指す陽の光が照らしています。パウロの手もとには分厚い紙の束があって、ペンを手に持って、何かを書いている。パウロの脇には剣があります。牢獄の中に剣があるなどということはあり得ないので、これは象徴でしょう。このエフェソの信徒への手紙の中に「霊の剣、すなわち神の言葉」という下りが出て来るので、そのことを意味していると思われます。そう考えると、この絵に描かれたパウロが書いているのは、恐らくエフェソの信徒への手紙なのではないかと思います。
パウロに指す光は、獄中にあってもパウロが抱く望みの源泉、すなわちキリストの光の象徴でしょう。パウロはこの手紙の中で、このようにも言っています。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」キリストの光に照らされて、パウロは、牢獄につながれているときにも神を信じ、愛し、礼拝し、賛美しています。「詩と賛美と霊の歌をもって互いに励まし合い、主に向かって心から歌い、奏でなさい。」この言葉の通り、パウロ自身が神をほめたたえ、喜んでいきていたのでしょう。キリストの光に照らされて!
神を賛美することは、私たちの喜びです。このお方の光にてされて、私たち自身までも光の子として頂いたからです。獄につながれても消えることのないこの光は、私たちをどんなときにも照らし続けます。私たちにどのようなときにも望みを与え、私たちの暗闇に属す心に光を灯し、私たちをキリストのものとして、神の言葉の剣によって強くします。このように私たちを光で照らし、力を与え、賛美の言葉を口に授けてくださる方に、栄光と誉れが世々限りなくありますように。アーメン。

2022年1月16日日曜日

2022年1月16日の聖句

主とその力を求めよ。常にその顔を求めよ。(詩編105:4)
求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(ルカ11:10)

私は今日の御言葉を思い巡らして、主イエスさまのお姿を想いました。病人を癒やしてくださった主イエスさま。数々の奇跡を行われた主イエスさま。しかし、ゲツセマネの園で血の滴りのような汗を流しながら、主イエスさまはこう祈ります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」もう数時間後には逮捕されて、十字架にかけられてしまいます。この杯を、私から取りのけてくださいと神さまに祈る主イエスさま。あなたは何でもおできになりますと誰よりも深く知っておられる方が、神さまの前で祈っておられるのです。
主とその力を求めよ、と今日私たちに与えられている詩編は言っています。私たちの周りには、神さまが力をふるって解決してくださることを待ち望む課題がたくさんあります。神さまはどうして助けてくださらないのか、と考えざるをえないこともたくさんあります。私たちには途方に暮れたり、どうにもならない出来事の中で絶望することだって、少なからずあるのではないでしょうか。
今日の詩編の御言葉は、このように言っています。「主とその力を求めよ。常にその顔を求めよ。」ここで、主の力を求める祈りは、主ご自身を求めること、そして主の御顔を求めることと、一つのこととされています。主ご自身、主の御顔とは関係のない主の力というのは、存在しないのです。
主イエスは、ゲツセマネでこのように言っておられます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」ここには、絶対的な神さまへの信頼があります。主イエスさまの、神さまに向かう信頼は揺るがないのです。神さまは、その全能の力を、私たちを救うことに注ぎ込んでくださいました。何でもできる方が、罪人たちが主イエスを十字架にかけることをおゆるしになったのです。神さまの御力は、神様ご自身、そして神さまの御顔と別のものではありません。主なる神様の独り子をお与えになるほどの私たちへの愛に、神さまの全能の力が注ぎ込まれています。だから、今私たちには理解できないことがたくさんありますが、神さまの力を信頼しましょう。私たちを罪から救うことにすべての力を注ぎ込んでくださった方を信頼して、主を求めて生きていきましょう。

2022年1月15日土曜日

2022年1月15日の聖句

彼は私たちの背きのために傷つけられ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。(イザヤ53:5)
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の前に通用する義となるためです。(2コリント5:21)

改革者マルティン・ルターが『キリスト者の自由』という本を書きました。この中に、私の大好きな言葉があります。
「信仰は、魂が神のことばと等しくなり、すべての恩恵で充たされ、自由で救われるようにするばかりでなく、新婦が新郎とひとつにされるように、魂をキリストとひとつにする。この結合から、聖パウロも言っているとおり〔エフェソ5:30〕、キリストと魂とはひとつのからだとなり、両者の所有、すなわち、幸も不幸もあらゆるものも共有となり、キリストが所有なさるものは信仰ある魂のものとなり、魂が所有するものはキリストのものとなる、という結果が生じる。ところでキリストは一切の宝と祝福とを持っておられるが、これらは魂のものとなり、魂は一切の不徳と罪とを負っているが、これらはキリストのものとなる。ここに今や喜ばしい交換と取り合いとが始まる。キリストは神であって人であり、まだ一度も罪を犯したことがなく、その義は打ち破られることなく、永遠で全能であるので、信仰をもつ魂の罪を、その結婚指輪、すなわち信仰によってご自分のものとされ、あたかもご自分がその罪を犯したかのようになさるのである。すると罪はキリストの中に呑み込まれ、溺れさせられてしまう。なぜなら、キリストの打ち破られることのない義はすべての罪に対してあまりにも強いからである。こうして魂は、ただその結納品、すなわち信仰のゆえに、自分のすべての罪から免れ、自由となり、新郎キリストの永遠の義を与えられる。富んだ、高貴で義である新郎キリストが、貧しく、いやしく、悪い娼婦をめとって、すべての悪から解放し、すべての財貨をもって飾ってくださるとしたら、それは喜ばしい結婚ではないか。」
少し長い引用でしたが、ぜひ何度か繰り返し読んでください。私はここに出て来る「結婚指輪」というところが好きです。キリストの花嫁にして頂いた私たちは、自分がもっていた借金、罪がすべてキリストのものとなりました。代わって、キリストの持っていたあらゆる良いものが花嫁である私たちのものとなりました。私たちはキリストの高貴さにあずかって義とされ、キリストは私たちの罪を引き受けて罪人として十字架にかけられたのです。私たちの背きのために傷つけられ、私たちの過ちのために打ち砕かれたキリストによって、私たちは生きることがゆるされています。

2022年1月14日金曜日

2022年1月14日の聖句

主は私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。(詩編126:3)
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストを通して、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エフェソ1:3)

主なる神様は、今日も、私たちに大いなる祝福をくださっています。私たちは神が祝福してくださっているという事実の中を生きています。これが私たちの喜びの源泉、私たちの存在の確乎たる土台です。
「神はキリストを通して、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくだしあました」と言っています。ここにある「あらゆる霊の祝福」というのは、何のことなのでしょうか?「霊の祝福」の反対は、恐らく「肉の祝福」ということになるのだと思います。そうなると、きっと極めて現世的で、あるいは御利益的な祝福を意味することになると思います。
私たちには、商売繁盛や家内安全を求めて祈ることも許されています。仕事ができなければ食べていかれませんし、家族の幸せを願うのは、神が与えてくださった存在を愛おしむ尊い願いです。しかし必要以上に金持ちになることや、自分たち家族以外はどうでも良いという祈りは、神さまはお喜びにはならないでしょう。それに、当座は不幸としか考えられない出来事の中からも神さまは私たちに語りかけておられます。その小さな声を聞き取る耳を持つことは、とても大切です。苦難の中で出会う聖書の御言葉は、何にも替えがたい宝です。それは、キリスト御自身が私たちのために苦しんでくださった方だからです。神さまは苦しむ者と共にいてくださいます。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストを通して、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」神は、私たちをキリストを通して祝福してくださいました。霊の祝福を下さいました。霊の祝福は、もしかしたら私たちの目にはっきり見えないこともあるかも知れません。しかし、神さまはあらゆる祝福をキリストにあって私たちに下さっています。キリストの命という祝福です。十字架にかけられたキリストがそのしるしです。「主は私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。」主なる神様が私たちのためにしてくださった大きな業、すなわちキリストを私たちに下さった御業、そこに現れた神の大いなる霊の祝福をたたえて、私たちは喜んで今日の一日を歩んでいきます。

2022年1月13日木曜日

2022年1月13日の聖句

あなたの救いを愛する人が「神は大いなるかな」と、絶えることなく言いますように。(詩編70:5)
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、神をあがめさせてくださいますように。(ローマ15:5~6)

どのような集団であっても、心を一つにするというのは、言葉以上に難しいことであると思います。家族でも、何かの組織でも、国家でも、あるいは教会でも。皆の心が一つになる、一致して同じ方向を向くというのは簡単なことではありません。誰かに我慢を強いたり、誰かの声を押し潰したりするということが多くの人の気づかないところで起きがちになってしまうことが多いのではないでしょうか。
例えば昨今のコロナの受け止め方一つを取ってみても、本当に人それぞれ違っていて、誰かの感覚を基準にして「大丈夫だ」と言ったり、「不安だ」と言ったりしても、皆が同じ感想を持っているわけではないので、結局は誰を基準にしても無理が出てしまいます。コロナに限らずいろいろな場面で、自分の感覚を当たり前と思わない慎重な見方が必要なのだと自戒します。
しかし、だからと言って私たちがただ単にバラバラなだけなのだとしたら、それは悲しいことです。しきりに社会の分断ということが叫ばれ、指摘されています。確かに私たちはいろいろな意味で分断されてしまっているのかも知れない。しかし教会は、他のどこがバラバラになってしまったとしてもなくなってしまうことのない一致点を持っているのではないでしょうか。今日の二つの御言葉はそのことを伝えます。
「あなたの救いを愛する人が『神は大いなるかな』と、絶えることなく言いますように。」「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、神をあがめさせてくださいますように。」私たちは主イエス・キリストの愛を頂き、この方に救って頂いたという確固たる一致点があります。だから、私たちは神をあがめ、神の偉大さをほめたたえ、心を合わせ、声をそろえて、祈り、賛美することができるのです。私たちはその点で確乎として一致しています。キリスト御自身が私たちの結び目なのです。
聖霊が同じ神への愛を私たちに抱かせてくださるから、私たちは一つです。この傷ついた世界の中にあって、共に一つの心で神を賛美する教会という家族は星のように輝き、この世界の慰めのしるしとなると私は信じています。

2022年1月12日水曜日

2022年1月12日の聖句

主はまことの神、生ける神、とこしえの王。(エレミヤ10:10)
イエスは言った:あなたをほめたたえます。父、天と地の主よ。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。(マタイ11:25)

「啓示」という言葉があります。「啓き示す」と書きますが、神さまが私たち人間に真理を啓き示してくださる、という意味です。それでは神さまが啓示した真理とは一体何か?聖書は、それを、イエス・キリストというお方だと言います。ナザレのイエス、墓から甦ったキリスト、このお方こそ神が私たちに啓示した神の真理だと言うのです。つまり、聖書が示す神さまの真理は、私たち人間の深い思索が明らかにしたり、悟りの境地に至ることによって明らかになるものではありません。神さまが私たちのところへイエス・キリストを送ってくださり、この方が30年間地上を歩み、十字架にかけられ、三日目に復活し、天に帰られた。このキリストの出来事によって神が私たちに語りかけ、私たちはキリストというお方を通して語りかける神さまの御言葉に聞き、福音と出会い、神の愛を知ったのです。
「あなたをほめたたえます。父、天と地の主よ。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」この真理は、知恵ある者や賢い者には隠された真理だと主イエスは言われます。知恵者や賢者の探求の末に見つけたものではないのです。神さまの方から明らかにしてくださったのです。だから、私たちはただ幼子のようになってそれを受け取るだけです。幼子には先入観がないので、予断なく物事を受け取ります。親としては、少し怖くなります。子どもに対する自分の言葉の影響力に気づくと、下手なことを言ってしまってはまずいなと怖くなります。私たちの真の親でいらっしゃる神さまは、私たちに語りかける言葉を間違えてしまうことがありません。何しろ、キリストこそ神の言葉なのですから。キリストの存在、その歩み、言葉に示された神の愛は、すべて神さまの本音です。神さまの御心から溢れ出る熱い思いが、キリストの熱い愛として私たちの前に現れたのです。
「主はまことの神、生ける神、とこしえの王。」この神さまこそがまことの神、ただおひとりの神でいらっしゃるという事実は、何と恵みに満ちた事実でしょう。私たちを造り、命を与え、今日も保っていてくださる方が、キリストに現れた愛をご自分の御心として下さっているとは、何と幸いで、もったいないことなのでしょう。私たちは、神の愛の啓示の下に、今日の一日を生きているのです。

2022年1月11日火曜日

2022年1月11日の聖句

夢が増え、むなしさも増え、言葉数が増えるときに、神を畏れよ。(コヘレト5:6)
自分を卑下したり、天使を礼拝したり、幻でみたことを頼りとする者が、あなたがたの救いを否定すべきではありません。このような者たちはキリストに付く代わりに、肉の思いをもとに、いたずらに誇っているだけです。(コロサイ2:18)

今日の新約聖書にある「自分を卑下したり」という言葉は、新共同訳聖書では「偽りの謙遜」と翻訳されていました。謙遜というととてもすばらしい美徳のようですが、あたかも謙遜に見える「偽りの謙遜」もある、というのです。偽りの謙遜、それは自己卑下です。自分を卑下することは美徳ではない。なぜなら、「このような者たちはキリストに付く代わりに、肉の思いをもとに、いたずらに誇っているだけ」だと言っています。自己卑下、偽りの謙遜は、キリストに付いている者の思いではない。肉の思い、いたずらな誇りだと言う。自己卑下と誇りなんて対極にあるような印象を受けますが、実はその根は一つ。自分へのこだわりであり、そこではキリストが必要なくなってしまう。自分にこだわっていてはキリストに目を上げることができない。自分のへそばかり見るのを止めて、その目をキリストに向けるとき、私たちのための救い主のお姿を見ることができるのです。
天使を礼拝したり、幻で見たことを頼りとする者、とも書かれています。どちらも、自分の信仰や経験の絶対化から生まれるものです。これらも自分へのこだわりです。信仰はキリストに目を向けることですから、自分へのこだわりに拘泥していては、「あなたがたの救いを否定」するということになってしまうのではないでしょうか。
私たちには、プラスの方向であってもマイナスの方向であっても、自分という世界から抜けられなくなってしまうことがある。プラスの方向というのは傲慢として現れ、マイナスの方向というのは自己卑下として現れるのではないでしょうか。どちらにしても、そこではキリストが追い出されてしまう。だからこそ、「夢が増え、むなしさも増え、言葉数が増えるときに、神を畏れよ」というこの御言葉を心に留めたいと思います。神を畏れ、神の御前で、神に向かって生きるとき、私たちはキリストの救いというすばらしい宝を見ることができるのです。今日の私たちの祈りの歩みが、キリストにこの目を注ぐ祝福の時となりますように。

2022年1月10日月曜日

2022年1月10日の聖句

知らずに犯した過ち、隠れた罪から
  どうか私を清めてください。(詩編19:13)
主は、闇に隠れたことも明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。(1コリント4:5)

シモン・ペトロは、ガリラヤ湖の漁師でした。ある日のこと。一晩中漁をしても一匹の魚も捕れなかった朝。主イエスが押し寄せる群衆に神の国の福音を語るために、そこにいたシモンに頼んで、舟に乗って少し漕ぎ出し、そこから説教をなさいました。群衆が解散した後に主イエスはペトロに言います。「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい。」シモンは一晩中網を下ろしても一匹の魚も捕れなかったのだけれどもといいながら言われたとおりにしたところ、網が破れそうなほどのたくさんの魚が網にかかりました。シモンはイエスの足元にひれ伏して、言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」シモンは何の脈略もなく、突然、「私は罪深い者なのです」と言いました。一見すると不思議なようにも見えますが、しかし、これが神さまの前に出るということに他ならないのです。普段は気にしなかったり、忘れていたり、誰にも見られていないから秘密にしていたり、あるいは自分でも気づかなかったりする罪。それは、神の子キリストの前で暴かれてしまう。「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。」だから、私たちはこの方を恐れるのです。
「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうか私を清めてください。」私たちには、人目や神さまから隠しておきたい罪、見られたら自分はもう終わりだと自覚している罪もたくさんあると思います。しかし、そんな小さな自覚では追いつかないような、自分でも気づけない過ちがどんなにたくさんあるのでしょうか。怖くて考えられない。自分の存在その者が歪んでいて、さかさまになってしまっているから、悪いかなと思ったところを微調整してもどうにもならないのです。歪んだ私たちを救うことができるのは、神さまだけです。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうか私を清めてください。」
イエスの足元にひれ伏すしかなかったシモン・ペトロに、主イエスは「恐れることはない」と言ってくださいました。キリストは私たちに言ってくださいます。「恐れることはない。」この方が、私たちを、罪から救ってくださるからです。存在が歪んでしまった私たちを新しくしてくださるからです。私たちは神が下さる誉れを心から喜んで、今日という新しい一日に出かけて行きます。

2022年1月9日日曜日

2022年1月9日の聖句

災いあれ、馬を頼みとし、数多くの戦車に頼る者は。イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めようともしないからだ。(イザヤ31:1)
だから、私たちは押し流されないように、聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。(ヘブライ2:1)

今日の御言葉は、、神さまに目を向け、主を求めることのすばらしさ、かけがえのなさを強調します。神さまを仰ぎ、主に祈りつつ生きることは他の何にも変えることのできない幸いです。
讃美歌522番に「キリストにはかえられません」という曲があります。「キリストにはかえられません、世の宝もまた富も、このおかたがわたしに代わって死んだゆえです。」世の宝や富は、私たちの目を惹きます。魅力的です。馬や戦車は頼りになります。しかも今日の旧約の御言葉は今の私たちとは比べものにならないほど戦争が多く、地政学的に厳しい環境に生きていた人々に語られた言葉です。馬や戦車に頼らなければ生きていかれないはずです。しかし、それらが却って神様に頼り、神さまに目を注ぐことを阻害してしまうなら災いだと言うのです。
キリストにはかえられない。なぜか?この讃美歌は3節でこのように歌います。「キリストにはかえられません、いかに美しいものも。このお方でこころの満たされている今は。」キリストの愛が私の心を満たしている。だから、他のものが入り込む余地はないと言い切るのです。
ただお金がなくては生きていかれないし、生きていくために必要なものはいろいろあります。それは当然のこと。しかし、私たちが生きるために本当に頼るべきは、お金や力や美しいものなのでしょうか。それとも、神さまなのでしょうか。
「だから、私たちは押し流されないように、聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。」注意を払わなければ、押し流されてしまうと言います。どういうふうに注意を払えば良いのか。「聞いたことにいっそう注意を払わなければ」と言います。聞いたこと。私たちが耳にした福音の言葉に注意を払おうと訴えている。この方で心を満たされていることに注意を払おう、と言うのです。
神さまは、私たちが生きるために必要なものが何かをよくご存じです。生きていれば自然にすいてしまうお腹を作ったのは、神さまです。私たちの体は衣服をまとわなければ凍えてしまうことも、神さまはご存じです。神さまは喜んで必要なものを下さいます。だから、神の国と神の義を、まず求めましょう。それこそ、何にもかえられないすばらしい宝です。

2022年1月8日土曜日

2022年1月8日の聖句

見よ、今も天に私の証人がおり、私の弁護者が高い所にいる。(ヨブ16:19)
信仰とは、望んでいる事柄へのしっかりとした確信であって、見えない事物に対して疑いがないことです。(ヘブライ11:1)

今日の旧約聖書の御言葉は、ヨブ記の一節です。ヨブは無垢で正しい人でした。神様ご自身がそのことを認め、サタンに対してヨブを誇ってさえおられます。ところがヨブは何の理由もなく財産も、子どもたちも、そして自分の健康も損なわれてしまいました。彼を慰めるために三人の友人がやって来ました。最初、彼らは言葉を失いました。ヨブがあまりにも悲惨だったから。遂に開かれたヨブの口からは、自分が生まれた日を呪い、自殺願望と言える絶望がついて出てきました。それを聞いて、三人の友人は代わる代わるヨブをいさめます。正論で、神を信じていなさいとか、神に訴えれば良いとか、あなたが罪を犯したから神の裁きを受けているのだとか、そういうことを言ったのです。ヨブはますます追い詰められ、そして反論しました。その壮大なやりとりが、ヨブ記の内容です。
ヨブは、信じていました。友人たちはヨブの訴えを聞いてくれないし、このような災いに見舞われるからにはヨブにも悪いところがあったに違いないという先入観から自分を裁くし、自分の声に耳を貸そうとはしてくれない。しかし、神さまだけは、私の訴えを聞いてくれるはずだ、と。
「見よ、今も天に私の証人がおり、私の弁護者が高い所にいる。」
天に、私の証人がいる。高いところに、私の弁護者がいる。私の訴えを神に届けてくれる証人、弁護者が必ずいる。本当に不思議な言葉です。ヨブは旧約聖書に登場する人でありながら、まるで新約聖書を読んでいたかのようです。主イエスは言われます。「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16~17)。主イエス・キリストの霊、聖霊が、私たちのための弁護者になってくださる。私たちに祈りの言葉を与え、私たちが神を求める叫びを神に届けてくださいます。ヨブは、もう既にそのことを信じていたのです。
「信仰とは、望んでいる事柄へのしっかりとした確信であって、見えない事物に対して疑いがないことです。」私たちの目に見えるところは、理不尽な現実ばかりかも知れません。私たちの周りに、神がこの祈りを聞いてくださっているという目に見える証拠はないでしょう。しかし、証拠がなく目に見えないからこそ、「信じる」ということになる。私たちの訴えを神に届ける弁護者、私たちのことを神に訴える証人が、おられるのです。神は、決してあなたを見捨てることがありません。

2022年1月7日金曜日

2022年1月7日の聖句

あなたは今日、主である神が天の上に、そして地の下にもおられ、ほかに神はいないことを知って、心に留めるべきです。(申命記4:39)
神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、地にあるものも天にあるものも、御子によって万物と和解させることを、良しとしてくださった。(コロサイ1:19~20)

今年は関東以外の多くの地域で雪が降っていましたが、昨日は神奈川にも雪が降りました。現代の気象科学の発展はめざましく、天気予報は本当に高確率で的中します。雨の予測でも、単に降るか降らないかだけではなく何分後に降るかということまで言い当てます。以前では考えられなかったような進歩を見せています。科学は、天気を自然現象として、どういうメカニズムで起こるかを観察し、予測します。秋までやっていた朝ドラを観て、天気予報の世界も面白そうだと思いました。ただ、天気には科学とは別の側面もあります。俳人であればあわれを感じるかも知れませんし、作家であれば物語をつむぐかも知れません。しかし私たちは、自然に働く神の御支配を知っています。天気にも、あるいは天地万物にあるあらゆるものにも、信仰者はそこにある神の支配を知っているのです。空も、海も、陸も、すべてのものは神に造られ、神によって保たれ、事実として、神の御手の中にあります。
「あなたは今日、主である神が天の上に、そして地の下にもおられ、ほかに神はいないことを知って、心に留めるべきです。」
この世界のあらゆるところに働く神さまの手の力を知り、私たちは今日、身を低くしましょう。私たちにはあまりにも大きすぎて、見えないことや理解できないこともたくさんあります。あるいは、私たちのそれこそ科学技術によって培って力を欲望の赴くままに使ったために、神さまがお造りになった世界を損ない、自然世界に生まれたひずみのために災いを招いてしまっていることも少なくないと思います。しかし、神さまは、そのようなところであえぐ私たちを放ってはおかれません。「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、地にあるものも天にあるものも、御子によって万物と和解させることを、良しとしてくださった。」神さまは私たちと、そして私たちが世界と、和解するために、その偉大な力をふるわれる、というのです。
神さまの造った世界は、祝福と愛に満ちています。私たちがこの世界に満ち溢れる神の祝福と愛を受け取るために、神さまが御自ら和解の道を拓いてくださった。キリスト・イエスによっって。和解の福音。私たちはこの福音から、神さまが造ったこの世界と出会い直すことが許されているのです。

2022年1月6日木曜日

2022年1月6日の聖句

私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、彼らを赦す。(エレミヤ33:8)
イエス・キリストは、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2)

今日の御言葉は、旧約聖書も新約聖書も、罪を問うています。罪とは何か。それを知る一つの道は、律法です。律法の中の律法とも言うべきは十戒です。「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」「あなたは刻んだ像を造り、それにひれ伏してはならない」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め、これを聖別せよ」「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」。これら一つひとつを物差しにして、自分を省みるとき、自分が曲がってしまっていることに気づかないわけにはいかなくなる。更には、主イエスは律法を二つの言葉に要約なさいました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」。主イエスは、律法の急所を愛だとおっしゃいます。つまり罪とは、愛にもとる私たちの現実のことです。
12月に映画"MINAMATA"、水俣病に揺れる1971年の水俣に入ったユージン・スミスという実在の写真家をモデルにした映画を観ました。正直に言って、私は水俣病のことをほとんど知りませんでした。学校の社会科で習った程度です。私にとってはかなり衝撃的な映画でした。水俣の海に有機水銀を垂れ流していたチッソは、しかし、長い年月にわたって責任を認めようとはしませんでした。ユージンが行ったフォト・ジャーナリストとしての取材をもみ消そうと様々な工作をしました。チッソは戦前から戦後に渡って長いこと日本経済を牽引するような地位にあったので、国もこの公害を見て見ぬ振りをしてきました。金儲けのためにつくられた企業や国のシステムは極めて非人間的で、水銀中毒で苦しめられる市井の人の痛みなど意にかえさない姿は、醜悪でした。決定的に愛が欠落していました。愛の欠落、つまり罪は、人を醜悪にします。それは一企業や国だけの問題ではなく、私たち自身への問いです。私たちも、このような公害を生み出してきた経済発展に支えられてきたし、それを享受してきたのです。
「私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、彼らを赦す。」「イエス・キリストは、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」これら二つの御言葉は、どちらも、私たちを罪から救おうとする神さまの強い決意を語ります。本当に、私たちは、神さまに罪から救って頂かなくては、再生不可能です。骨身にしみてそのことを知り、本気で救いを求め、今日の日を祈りの日としたい。そのように願います。

2022年1月5日水曜日

2022年1月5日の聖句

主は言われる。「私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。(出33:19)
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。(2コリント8:9)

主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、言葉を換えると、神の身分でありながらご自分を無にして、僕の身分になられた、ということです。主イエス・キリスト、神の子である方が貧しくなられた。神が人になられた。神の御許で栄光に輝いておられるはずの方が、飼い葉桶にお生まれになった。それは、主が御自ら貧しくなられることによって、私たちを豊かにするためだというのです。
この御言葉は、私たちはキリストに豊かにして頂いているという事実に気づかせます。この手紙を書いたパウロは、キリストの福音を宣べ伝えるためにいろいろなところを旅しました。その多くの場所で迫害されました。この手紙の宛先のコリント教会を初めとして、少なからず、仲間であるはずの教会の人々から非難されるということも味わいました。福音伝道をしたために当局にマークされ、投獄されたことや鞭打ちにされたこともありました。最後は殉教しました。そのパウロが、言うのです。私たちは豊かだ、キリストの貧しさが私たちを豊かにしてくださったのだ、と。
私たちは、自分の豊かさを知っているでしょうか。それを神さまに感謝しているでしょうか。神がくださったもの、備えてくださったものが私を生かしていると実感しているでしょうか。そして、キリストの貧しさ、つまり飼い葉桶に生まれ、十字架の死に至ったキリストの貧しさが、私を究極の命に生かしていること、神の前で豊かな者にしてくださっていることを知っているでしょうか。
今日、神の恵みを数えましょう。恐れや不満ではなく、私たちを生かす神の恵みを数えましょう。そして、神の前で生かされていることを喜び、神を賛美して今日一日を生きていきましょう。

2022年1月4日火曜日

2022年1月4日の聖句

私に恵み深くあってください。神よ、恵み深く。私の魂はあなたを信頼しているからです。(詩編57:2)
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

今日の新約聖書の御言葉はヨハネによる福音書に登場する一節です。「ヨハネ」の名前が冠されています。ヨハネという名前には「主は恵み深い」という意味があります。日本のキリスト者でも、自分の子どもに「恵」の字を名付けることがあります。ヨハネと名付けるのも、恵の字を名付けるのも、親の願いは同じです。主の恵みの中に生かされる人生を生きてほしい。そしてそれは神さまの私たちへの願いでもあります。「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。」
神さまは私たちを恵み深く扱ってくださいます。しかも、「この方の満ち溢れる豊かさの中から」と言っています。「恵みの上にさらに恵みを与えられた」と言います。主の恵みは深く、豊かで、恵みに恵みが重なる。神さまはケチではない。有り余る恵みを私たちに注いでくださるお方です。
この神の恵みは、イエス・キリストという具体的なかたちをとって私たちのところにやって来ました。神はキリストを私たちに下さるほどに私たちを恵んで止まない。神はご自分の独り子を下さるほどに、私たちを愛して止まないのです。
だから、私たちは神の愛を信頼して、神さまに大胆に願いましょう。「私に恵み深くあってください。神よ、恵み深く。私の魂はあなたを信頼しているからです。」恵み深く、私のためにあってくださいと言います。大胆な祈りです。遠慮しません。遠慮のない、大胆な祈りは、神への信頼に裏打ちされています。神の恵みを信頼しているから、大胆に、深く恵みを与えてくださいと祈るのです。
主は恵み深い。この事実が、今日一日の私たちの歩みを支えます。今日もあなたにキリストの祝福がありますように!

2022年1月3日月曜日

2022年1月3日の聖句

あなたは私たちの中におられます。主よ、そして、私たちは御名によって呼ばれています。私たちを見捨てないでください。(エレミヤ14:9)
神が心の目を開いてくださるように。同時に、神の招きによってどのような希望が与えられるかを悟らせてくださるように。(エフェソ1:18)

今日の旧約聖書の御言葉は、直前のところから読むと、その訴えの強さがよく分かります。
「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める旅人のようになっておられるのか。なぜあなたは、とまどい、人を救いえない勇士のようになっておられるのか。」そして、冒頭の言葉に続きます。「あなたは私たちの中におられます。主よ、そして、私たちは御名によって呼ばれています。私たちを見捨てないでください。」
神さまはどうして私たちを助けてくださらないのか。何もしてくださらないのか。どうじて、力なく、私たちを救うこともできないかのように振る舞っておられるのか。神さま、あなたは私たちの中におられるではありませんか。私たちはあなたの御名で呼ばれる民ではありませんか。主よ、救ってください!……これは、そういう祈り、あるいは叫びです。
この旧約の御言葉と共に、今朝私たちに与えられている新約の御言葉はこれです。「神が心の目を開いてくださるように。同時に、神の招きによってどのような希望が与えられるかを悟らせてくださるように。」心の目を神が開いてくださいますように。希望があることに私たちが気づくことができますように。神が私たちに与えてくださった希望は、目が開かれていないと悟ることができないのです。神が信仰の目を開いてくださらなければ、私たちが希望を抱くことはできないのです。
それは、私たちの希望、私たちの救いが、十字架にかけられた方にかかっているという事実が基になっていることからも分かります。どうして十字架に磔にされた男が希望の源だと、信仰の目が開かれることなしに納得できるでしょうか。キリストは地に這いつくばることで私たちを救ってくださいました。天の軍勢を率いて敵を制圧し、成功や名声を得ることはなさいませんでした。権力者に踏みにじられ、差別される者の友となって迫害されることによって私たちを救ってくださいました。キリストは私たちを救う力のない勇士のようになって、寄る辺のない旅人のようになって、私たちを救ってくださったのです。このキリストの救いを見せるために、主よ、わたしの目を開いてください。あなたが準備してくださった希望をこの目で仰がせてください。そう祈り、今日の一日を始めていきましょう。

2022年1月2日日曜日

2022年1月2日の聖句

見よ、私はただひとりであり、私のほかに神はいない。私は殺し、また生かすことができ、打ち、また癒やすこともできる。私の手からもぎとることのできる者は、誰もいない。(申命記32:39)
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)

「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」
これはハイデルベルク信仰問答の第一の問いです。これに対してこのように答えます。
「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、してくださるのであります。」
この問答の言葉が今日の御言葉のための最高の解説なのではないかと思います。神さまは私たちを殺すことも、生かすこともおできになります。打つことも、癒やすことも、神さまには自由にすることができる。だからこそ「私の手からもぎ取ることのできる者は、誰もいない」と神さまは言うのです。私たちを神の手から奪い去ることなど誰にもできない。私の命は神さまの御手の内にあるのだから。髪の毛一本すらも神さまの赦しがなければ落ちないのです!
そのような完全な支配の力を持って、神さまは、私たちを罪と死から完全に取り戻してくださり、悪魔から救い出し、私たちが神のものとして生きることができるように、キリストの命をもって買い取ってくださいました。だから、私たちは生きるにしても死ぬにしても、キリストのものとして、キリストのために生き、また死にます。どのようなときであっても、私たちをキリストによって示された神の愛から奪う取ることのできる者などいないからです。

2022年1月1日土曜日

2022年1月1日の聖句

2022年の聖句:
イエス・キリストは言う:私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

1月1日の聖句:
あなたの兄弟やあなたの母の息子、あるいはあなたの息子か娘、あるいはあなたの腕の中の妻、あるいは、あなたの人生と同じくらい大切な友人が「他の神々に仕えようではないか」とひそかに言っても、あなたはその者に同調してはならない。(申命記13:7,9)
イエスは言う:神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。(マルコ3:35)

新しい年を迎えました。今年も「日々の聖句」という小冊子が指定する聖書の御言葉に毎日耳を傾けます。ドイツのヘルンフート兄弟団という教会の人々が300年近く前から毎年編纂しています。ドイツ語の原題は「ローズンゲン」と言って、これは「ローズング」という単語の複数形です。ローズングは籤とか合い言葉という意味があります。約300年前、ヘルンフート兄弟団の危機の時代に、聖書の御言葉を合い言葉に、心を一つに結束してこの聞きに立ち向かおうといって始まったのだそうです。
主イエスさまは言われます。「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」私たちもキリストに招かれ、決してキリストは私たちを追い出すことがありません。どのようなときにも、キリストは私たちの手を掴んで、放さないでくださいます。キリストは、ご自分のもとにいる者、ご自分のもとで神の御心をに生きる者を「私の兄弟、姉妹、また母」と呼びます。私たちもキリストの兄弟であり、姉妹であり、また母なのです!私たちはキリストの家族です。
ドイツでは正月をどのように過ごしているのか私は知りませんが、日本では、特別な時と受け止めて大事にしている人が多いのではないかと思います。家族の行事が多い時期です。そのことで嬉しい思いをすることも多いでしょうが、哀しみを覚える人もいます。私たちはどのような家族の関係の中に生きていても、キリストの家族です。こういう季節であるからこそ、そのことを深く覚えましょう。私をご自分の兄弟と、私をご自分の姉妹と、私をご自分の母とまで呼んでくださるお方がおられる!驚くべき事実です。私たちはキリストの愛する家族としてこの新しい年を迎えました。
他の神々に仕え、礼拝し、これを愛することはもはや出来ません。この世にはたくさんの神々の顔があります。魅力的な言説や楽しませてくれるいろいろな快楽があります。しかし私たちを自分の家族として愛してくれる神など、他にはいません。家族として、この私のために命までも献げてくださる神など、他にはいないのです。この新しいとし、私たちはキリストの圧倒的な愛によって生かされています。その事実はどのようなときにも揺らぐことがないのです。
この新しい年、聖書の御言葉を私たちの合言葉としてこの時を歩んで参りましょう。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...