2020年5月31日日曜日

2020年5月31日(ルカによる福音書24)

ルカによる福音書24
エマオ村に向かう二人の弟子たち。これは、主イエスが復活した日の午後から夕方にかけての出来事です。暗い顔をして歩いていた二人に、復活のイエスが近づいてきます。二人の顔が暗くなったのは、イエスが十字架につけられたからではありません。もちろんそれもあるでしょうが、それ以上に、「イエスは生きておられる」という天使の知らせを仲間の女たちが墓から持ち帰ったことに戸惑い、顔が暗くなったのです。
「イエスは生きておられる。」この知らせは、私たちを戸惑わせ、私たちの顔を暗くするニュースだ、と聖書は言います。いいニュースのはずが、聞くものを戸惑わせ、顔を暗くさせるニュースになってしまう。それは、「イエスは生きておられる」という知らせが、信仰の性質を変えてしまうからなのだと思います。
私たちにとって、エマオに向かうあの二人にとって、信仰の主体は信じる私です。別の言い方をすれば、自分の人生の主語は「私」です。私はこうしたい、私はこう生きていきたい、私は悲しい、悔しい、うれしい、楽しい。私の人生の主語は「私」以外ではありえない。当然です。しかし、「イエスは生きておられる」という知らせは、私の人生の主語を「私」から「キリスト」に変えてしまいます。今生きておられるキリストと共に歩む人生が始まるからです。あの二人が、エマオに向かってイエスと歩き始めたように。
ここでイエスは、暗い顔をした二人を説得するために「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」。あるいは、この後エルサレムにいる弟子たちのところに現れたときにも、「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する」と言います。主イエスは、聖書からご自分について語っている言葉を私たちに聞かせます。
「イエスは生きておら得る」。この福音を私たちにもたらすのは、聖書の御言葉です。私たちはこの「イエスは生きておられる」という知らせを聞く日として神が定めてくださった主の日、日曜日を迎えました。主の御前に進み出ましょう。エマオへと一緒に歩いて旅をしてくださったキリスト、弟子たちのところに現れて、不信仰に実を埋める彼らを説得するために魚まで召し上がったキリストが、私たちと共にいてくださいます。「イエスは生きておられる」という、この復員船源に私たちが聞き、私たちがこの福音に生きる者となるために。

2020年5月30日土曜日

2020年5月30日(ルカによる福音書23:26~55)

ルカによる福音書23:26~55
そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。

イエスが十字架にかけられたとき、右と左にも十字架が立てられ、それぞれに犯罪人が磔になっていました。イエスさまは犯罪人の一人に数えられて、死刑にされました。そのうちの一人が、イエスに言ったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と。主イエスはそれに答えて、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」というのは、私もあなたも今日中に死ぬから、そうしたら極楽にいけるよ、という意味ではありません。ルカによる福音書では「今日」という言葉は独特な響きを持っています。
野宿をしながら羊の群れの版をしていた羊飼いたちに、天使は言いました。「今日ダビデの町に、あなたがたのための救い主がお生まれになった。」ここでの「今日」には確かに今晩という意味もあるでしょうが、それだけではありません。「今まさに」とか、「神さまの機が今こそ満ちて」といった意味があることは明らかです。
主イエスはある安息日に会堂に入り、聖書を朗読しました。「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして、主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告知しました。主が福音を宣言する「今日」というのは、私たちが聖書を読む「今日」のことです。今日、主の恵みの年が告げられ、現実のものとなりました。
徴税人ザアカイの家でも、主は「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
このように、ルカが「今日」と言うとき、それはイエスの告げる福音が現実のものとなった「今日」、私たちの救いが実現した「今日」のことです。
主イエスは犯罪人に言います。「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」主イエスがおられるところ、そこが楽園です。だから、イエスと共に私たちがおり、そこで福音の宣言を聞くならば、そこが楽園です。苦しみの中にあっても、私たちはキリストを信じて楽園に生きることができる。そのような「今日」が、私たちにも到来しています。

2020年5月29日金曜日

2020年5月29日(ルカによる福音書23:1~25)

ルカによる福音書23:1~25
「私はあなたがたの前で取り調べたが、訴えられているような罪はこの男には見つからなかった。」・・・しかs、人々は一斉に、「その男は連れて行け。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった。」

礼拝になると、使徒信条を唱えます。「(イエス・キリストは)ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」と私たちは告白しています。主イエス・キリストはポンテオ・ピラトというローマから派遣された総督の権威の下で十字架刑を執行され、殺されました。しかし、そのピラト自身が言うのです。「一体、どんな悪事を働いたのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった」と。
ピラトがどうしようもなく偏った裁判をしたとか、殆ど裁判らしい裁判がなかったというのではありません。イエスを訴える者たちの言い分を聞き、イエスご自身にそれを質しても、ピラトにはイエスを十字架にかけるだけの理由を見つけることができませんでした。その代わり、まったく何の理由も言うことができずに、ただ狂ったように人々が「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。謂わば、ピラトはその世論に与したのです。イエスの十字架はポピュリズムの成果です。
主イエス・キリストは何の罪も犯していませんでした。それなのに、十字架での磔といういちばんの重罪人のための極刑に処せられました。何の理由がなくともイエスを十字架につけようと大衆が望んだからです。ピラトの取り調べの時に、ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか」と問いました。更に正しくは神の国の王と言うべきでしょう。イエスは、真の王です。しかし、私たち大衆は真の王である方ではなく、暴動と殺人のかどで死刑になるはずだったバラバを生かすことを願いました。神さまが私たちの王であることを拒んで、バラバを選んだのです。
キリストは十字架へと向かっていきます。私たちのために。私たちに代わって。そして、私たちに追い詰められて。十字架にかけられた王キリストを、今日も、私たちは仰ぎます。

2020年5月28日木曜日

2020年5月28日(ルカによる福音書22:47〜71)

ルカによる福音書22:47~71
十二人の一人のユダは、接吻によってイエスを裏切りました。イエスを捕らえようと画策している者たちを連れてきて自分が接吻する者がイエスだと打ち合わせてあったのです。もちろん私たちの文化が持つ接吻の意味と彼らのそれとは全然違います。私たちで言えば、握手して挨拶するということでしょうか。明らかに普通の挨拶よりも、もっと親しい挨拶です。仲間と交わす挨拶です。その最大級の親愛の情をもってすることによって、ユダはイエスを裏切りました。
シモン・ペトロは、捕らえられたイエスの後についていって、イエスが連行された大祭司の家の中庭に入りました。しかしそこで召使いの女から「この人も一緒にいました」と言われ、「あんな人など知らない」と言います。同じようなやりとりを三度も重ねました。そして、三度目にイエスを否んだとき、鶏が鳴き、向こうの方でイエスが振り向いて彼を見つめるのと目があいました。そして、ペトロは主イエスから「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われていたことを思い出し、外に出て、激しく泣きました。
ペトロは自分を守るためにイエスを捨てました。もしかしたら、それは私たちにはありふれたことであるのかも知れません。自分のために仲間を捨てる。大なり小なり、私たちにも身に覚えがある。自分の損得のために、仲間を裏切る。自分が、誰かのために損得を完全に超えた仲間になれるかと言われると、正直に言って怯んでしまいます。
最大級の親愛の挨拶をもってイエスを裏切ったユダ。自分のために仲間であったはずのイエスを切ったペトロ。それは、私自身の姿です。
しかし、主イエス・キリストは、こんな私を捨てないでいてくださいます。マタイが伝えてるところによると、ユダはこの後自殺してしまいました。主イエスが十字架にかけられたのは、その直後のことです。まるでユダを追うようにして陰府に降って行かれます。ペトロに対しては、主イエスはあらかじめ祈っていてくださいました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたがたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:31~32)」。
私たちが主イエスを捨てても、主イエスは私たちを捨てないでいてくださいます。これが、キリストが私たちに告げてくださった福音です。キリストの赦しの中で、私たちは立ち直り、再び隣人・仲間として生きることができるのです。

2020年5月27日水曜日

2020年5月27日(ルカによる福音書22:24〜46)

ルカによる福音書22:24~46
「イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」
十字架を目前にした主イエスのオリーブ山(マタイやルカは「ゲツセマネの祈り」と呼びます。)での祈り。主イエス・キリストは祈ります、「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスは苦しみもだえて祈ります。汗が血の滴るように地面に落ちました。ご自分がかけられることになる十字架の苦しみをまだ他の誰も知らないところで悟り、すでにその苦しみが始まったかのようにして祈っておられます。
しかし、主イエスが戻って御覧になると、弟子たちは「心痛のあまり眠り込んでいた」のでした。うっかりすると弟子たちは疲れて寝ていたかのような気がしてしまいますが、聖書をよく読むと「心痛のあまり」と言っています。悲しいから寝ていたというのです。そして、主イエスが祈りはじめる前に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言っておられたことを考えると、ここで主イエスが指摘している「誘惑」というのは、悲しみによって信仰が寝てしまうという誘惑なのではないでしょうか。悲しむこと自体は悪いことではないはずです。しかし、時に悲しみは私たちの心を固くします。主イエスを見えなくさせてしまうことがあるです。
このオリーブ山の祈りの時に寝てしまった弟子たちは、私自身の姿です。そんな私の慰めであり救いであるのは、主イエスがこう言ってくださったことです。「あなたがたは、私が試練に遭ったときも、私と一緒に踏みとどまってくれた人たちである(28節)」。新約聖書が書かれたギリシア語では、「試練」と「誘惑」という言葉は同じ単語です。文脈によって誘惑あるいは試練と訳し分けます。そうとすると、一体いつ、私たちは主イエスが試練や誘惑にあわれたときに一緒に踏みとどまることができたのでしょうか。むしろ、試練や誘惑の中で悲しみに心をかたくなにし、主を見失ってしまう私です。まして主ご自身が誘惑に遭われるようなとき、一体どうして私が主と共に踏みとどまることができたのでしょうか。
この言葉は、主イエスが十字架にかかってご自分の血を流して、その血によって私を赦してくださったという、その赦しの中でしか聞くことのできない言葉なのではないかと思います。主は「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われます。主の赦しに心を向け続けるために、私たちは祈りに向かっていきます。

2020年5月26日火曜日

2020年5月26日(ルカによる福音書22:1〜23)

ルカによる福音書22:1~23
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれた。使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。』」
主イエスは、苦しみを受ける前、すなわち十字架を前にして使徒たちと共に食事をすることを望んでおられました。一緒に食事をすることの尊さ、かけがえなさは私たちにもよく分かります。特に、このようなときには。しかし、主イエスが弟子たちと囲みたかったのは、ただの会食のテーブルではありませんでした。「この過越の食事をしたい」と主は言われます。他の何でもなく、過越の食事です。
旧約の時代、エジプトで奴隷であったヘブライ人。追い使う者のために苦しみ、呻いていた彼らを救うために、神さまはモーセをお遣わしになりました。モーセはヘブライ人たちを解放するようにファラオと交渉しますが、ファラオはあくまで頑なになって、首を縦に振ることを拒みました。そこで、神さまは10の災いをエジプトの中に引き起こします。ところが、それが重なれば重なるほどにファラオの心はますます頑なになっていきました。その最後が過越の災いでした。エジプトの地にいるありとあらゆる人や家畜の初子を神が討ったのです。ヘブライ人に対しては、羊の初子を殺してその地を家の玄関の鴨居と柱に塗れ、と言います。小羊の血の目印を見て、初子を殺すために使わされた天使はその家を過ぎ越すであろう、と。ヘブライ人たちはこの夜の過越の出来事を記念して、毎年春になると過越の祭りを祝います。主イエスは、その食事を、十字架を前にして弟子たちと共にとりたいと願ったのでした。
過越の出来事は、本当は死ぬべき私のために、小羊の血が身代わりになって命を救うためのしるしになりました。十字架で流されたイエスの血は、同じように、死ぬべき私たちの身代わりになって流された、私たちのための血のしるしです。
主イエス・キリストは、この食卓で、ここで裂かれるパンは私たちのために裂かれるご自分の体であること、ここで飲まれる杯は私たちのために流されるご自分の地であることを明言なさいました。私たちのために、キリストが犠牲になってくださいました。
聖餐の食卓を、みんなで一緒に囲める日を、私たちは心から待ち焦がれています。私たちはこの食卓に思いをはせる度に、私たちのためにご自身を犠牲にしてくださったキリストを思い起こします。キリストが、私たちのために、小羊のように血を流してくださったからです。

2020年5月25日月曜日

2020年5月25日(ルカによる福音書21)

ルカによる福音書21
「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
ハンス・ヨアヒム・イーヴァントという牧師がいます。彼は第二次世界大戦下のドイツでナチの支配に抵抗する教会の牧師でした。ナチの弾圧が激しくなる中、彼らは自分たちで牧師の要請を行うべく、牧師補研修所をつくります。イーヴァントは東プロイセンの牧師補研修所の所長でした。1937年頃に彼がそこでした講義の記録が、日本語に翻訳された出版されています。
この本の中で、イーヴァントは、教会が没落してしまうというようなことはありえないと考えるのは、決して褒められたことではないと言います。教会は没落してしまうかも知れない。この世界から消えてしまうかも知れない。イーヴァントは、本当に厳しい肌感覚として、真剣にその危機を感じ取っていたのです。
今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、厳しい危機を語ります。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や天から大きなしるしが現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の他のために王や総督の前に引っ張っていく。」しかし、主イエスは、そうだからと言ってこの世界の終わりが来たということではないと言います。「戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。こうしたことは、まず起こるに違いないが、それですぐに終わりが来るわけではない。」むしろ、私たちが苦難の日々に迫害されるとしたら、「それは、あなたがたにとって証しをする機会となる」と言います。
イーヴァントは厳しい現実を見ながら言います。教会が没落するということがありえる。だからこそ、私たちは神に与えられた使命に生きねばならない。神に与えられた使命、それは、私たちが福音の言葉を語ること、証しすること。私たちは例えすべての秩序が崩れたとしても、神の命令に従って福音を語り続けるのだ、と。
主イエスが今日語っておられることの急所は、私たちは、戦争や疫病のようなことでこの世界の終わりを測るのではなく、私たちがキリストを待っていること、キリストが来て私たちを救ってくださる日を待っていることです。「あなたがたの救いが近づいている」と主イエスは言われます。
私たちキリスト教会のメッセージは、世紀末的なこの世界の破滅を予見するようなものではありません。キリストが私たちのところに来て、私たちを救ってくださる。そういう希望のメッセージです。この福音を証しする使命を、神は私たちに託してくださいました。望みの言葉、命の言葉は、今この時代に生きる人々にとってもかけがえのない価値を持っているのではないでしょうか。

2020年5月24日日曜日

2020年5月24日(ルカによる福音書20:20〜47)

ルカによる福音書20:20~47
「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」
もう20年くらい前になると思いますが、アメリカの教会でWWJDと書いてあるアクセサリーがはやりました。What Would Jesus Do?という言葉の頭文字です。イエスさまはどうなさったのか、イエス様ならどうするのか、といった意味でしょうか。最初にそういう話を聞いたとき、私はああなるほど、それは大切な考え方だなと思いました。迷ったときに、イエスさまだったらどうなさったのかということを自分の行動の指針にできたら良いなと思いました。
しかし、しばらくして私と同じ教会の仲間、彼はアメリカの大学で学んでいて一時帰国をしていたときでしたが、その友達がそのアクセサリーに反論をしていました。イエスさまだったらどうしたのかというのは、まるでイエスさまが過去の世界の住人であるかのようだ。むしろ、あのWWJDという合い言葉は、Walk With Jesus Daily(イエスさまと一緒に日々歩んでいこう)の頭文字だと考えている。そんなことを言っていました。私は、今は彼の言ったことの方が正しいと思っています。主イエス・キリストは2000年前にいた偉人で、この方の模範を意識して、それを再現する。それがイエスを信じて生きるということではありません。今生きておられるキリストと、私たちは共に歩んでいきます。キリストは、今日も生きて働いておられます。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」主イエス・キリストは、そのように言われます。私たちは神によって生きているから、神は死んだ者ではなく生きている者の神!私たちは、今日というこの日を今生きておられる神と共に歩んでいきます。
45節以下に、人から重んじられたい、立派な人だと思われたい、それなのに実のところ弱者を食い物にしている人への厳しい裁きの言葉が語られています。神がここにおられる、今日も私と共にいてくださるということを、本当にリアリティを持って信じていたらできない振る舞いです。しかし、実際にここに指摘されている罪は自分の姿そのものとしか言いようがないと私は自分について思います。だからこそ、今生きて働いておられるキリストの憐れみにすがり、主の御前に進み出て、このお方を礼拝したいと願います。罪の赦しを、今日新しく頂くために。

2020年5月23日土曜日

2020年5月23日(ルカによる福音書20:1〜19)

ルカによる福音書20:1~19
「民衆はこれを聞いて、『そのようなことがあってはなりません』と言った。」
これは、主イエスがなさった譬え話への民衆の反応です。ぶどう園と農夫の譬え。ある人がぶどう園を造った。農夫たちに任せて、長い旅に出ます。収穫の時になったので僕を送りましたが、農夫たちはこの僕を袋叩きにした。別の僕を送っても三人目の僕を送っても、同じ目に遭わされます。主人は最後に自分の息子を送りました。「どうしようか。私の愛する息子を送ろう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」ところが、農夫たちは却ってこの跡取り息子を殺せばぶどう園は自分たちの者になるに違いないと言って、この息子を殺しました。農夫たちは、主人に殺されました。
「そのようなことがあってはなりません」と民衆は言います。もちろん、農夫を裁く主人の仕打ちに対して言ったのではなく、主人の一人息子を殺した農夫たちの残虐な振る舞いのことです。私たちも同じように思うのではないでしょうか。そして、私たちはこの譬えを読んだときに、明らかにこの譬えの主人は神であり、僕は預言者たち、農夫は私たち、主人の息子が主イエスであると分かります。私たちが神さまと主イエスさまに何をしてしまったのかが語られている。そのことは、この譬えを読めばすぐに分かります。
私も、思います。「そのようなことがあってはなりません」と。民衆がそうであったように、まるで人ごとに。この譬えを読むと、私は、自分が神さまの一人息子を殺すほどの極悪な農夫であることを、自分は身にしみてわきまえていないのだと考えないわけにはいかないのです。
主イエス・キリスト。神さまの子です。独り子です。この方が殺されることなんて、本当はあってはならないことです。私も頭ではそう思っています。しかし、実際には、どれだけ自分の骨身に染みて「あってはならない」とわきまえているのかというと・・・言葉がでてきません。神さまの怒りや悲しみにたいする自分の思いの貧しさに、愕然とするより他ない。
だから、私も本当は、あの農夫たちと同じように裁かれるべきです。殺されるべきです。それなのに、神さまは私たちが殺した独り子の血によって私たちを救ってくださいました。あってはならないことを、私たちのための救いの出来事に変えてくださいました。あまりの途方もない神さまの御業に、言葉がでてきません。私は、ただただこのお方の途方もない御業の前に、頭を垂れるだけです。

2020年5月22日金曜日

2020年5月22日(ルカによる福音書19:28〜47)

ルカによる福音書19:28~47
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる王に、祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。」fすると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう。」

エルサレムに入城する主イエス、まだ誰も乗ったことのない子ろばにのっておられます。ルカが伝えるエルサレム入城の話は、主イエスのために喜び、賛美の声を上げるのは、弟子の群れです。12人や、それだけではなくもっと大勢の弟子なのでしょう。一緒にここまでやって来た主イエスの弟子たちがこぞって喜び、賛美の声を上げました。
それを聞いたファリサイ派の人たちは、不適切だからやめるようにとイエスに言います。弟子たちを叱ってくれ、と。これではまるでイエスが神の遣わした救い主のようではないか、とファリサイ派の人々は眉をひそめたのです。
しかし、イエスは答えて言います。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう。」いつの時代でも、主イエスのこの言葉は真実です。今、まだ、私たちは礼拝堂には集まれていません。しかし、主イエス・キリストの救いを賛美する賛美の歌声は、やんでしまったわけではありません。私たちは、今も、それぞれの場所で神を賛美しています。キリストを賛美し、喜んでいます。私たちが黙れば、石が叫び出すことでしょう。キリストを賛美する賛美の歌声がこの地上から止んでしまうことなどありえないのです。
その賛美はこのように言います。「主の名によってこられる王に、祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。」この言葉を聞けば思い出すのは、主イエスがお生まれになった夜、野宿をする羊飼いたちが聞いた天の大群の賛美です。「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」あの賛美の声は、この晩だけでやんでしまったのではありません。このエルサレム入城の日にも響き続けています。今も響いています。主をお迎えするとき、いつでも私たちは同じように神を賛美します。私たちの今日一日が、主イエス・キリストを喜び、賛美する歩みでありますように。

2020年5月21日木曜日

2020年5月21日(ルカによる福音書19:1〜27)

ルカによる福音書19:1~27
11節以下のムナの譬えは、私たちにはマタイによる福音書が伝えているよく似た譬え話であるタラントンの譬えの方が聞きなじみがあるのではないかと思います。読み比べてみると、よく似ているのに、随分と違う所も目立ちます。
まず、ムナとタラントンというお金の単位が違います。聖書の最後に付いている「度量衡および通過」という表を見てみると、一ムナは100ドラクメに相当する。1ドラクメは一日の賃金に相当します。これに対して、1タラントンは6000ドラクメの価値があります。タラントンはムナに対して60倍の価値がある。更に、マタイが伝えるタラントンの話では5タラントン、2タラントン、1タラントンと預けた額に差がありますが、ルカの伝えるムナの譬えでは「10人の僕を呼んで10ムナの金を渡し」とあり、一人一ムナずつ預けています。
また、ムナの譬えには、預けた主人を巡る世間の評判が書かれています。「その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。」そして物語の最後、マタイでは預けられた一タラントンを活用しなかった人はそのタラントンを取り上げられ、追い出されました。ところが、ムナの譬えでは、この人はムナを取り上げられますが、裁かれるのはこの主人が王になることを望まなかった世間の人たちえです。
そして、ルカはこの譬えを徴税人ザアカイの話の直後に伝えていfます。ザアカイは金にがめつい男でしたが、イエスと出会い「私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します」と言いました。
私はムナの譬えのポイントは、冒頭の「ご自身がエルサレムに近づいてこられたのに、人々は神の国がすぐにも現れると思っていたからである」という言葉だと思います。エルサレムに近づくというのは、主イエスからしたら十字架に近づくということです。人々の神の国待望が、十字架の抜きのそれになっていた。これに対してザアカイは、イエスとの出会いによって生き方が変わった人物です。お金の使い方は生き方そのものです。ムナの譬えも、イエスの十字架を前にしたとき、私たちの生き方が変わるはずだという話ではないかと思います。
私たちの目には持っている物に差があるように感じますが、ここで主イエスは、同じ一ムナを預けたと言われる。差があるかどうかということよりも、むしろイエスを王として受け入れようとしない世界で、預かった物をどう活用するかに関心を持っておられる。イエスを快く思わない世界でイエスに預けられたものによって生きるのは、簡単ではありません。しかしイエスと出会い、イエスを信じて生きる人生に向き合い、その課題に取り組むとき、主イエスは私たちを喜んでくださいます。ザアカイをお喜びになったのと、同じように。

2020年5月20日水曜日

2020年5月20日(ルカによる福音書18:18〜43)

ルカによる福音書18:18~43
「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人を連れてくるように命じられた。

誰に叱られても、どんなに黙れと言われても、この盲人はイエスに向かって叫び続けました。「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」彼のこの叫び、「私を憐れんでください」という叫びは、その後キリスト教会が大切にしてきた祈りの言葉になりました。昨日の箇所にも「憐れんでください」とありました。特に、「主よ、憐れんでください」という祈りは、原文ギリシア語の音をそのままに「キリエ・エレイソン」という祈りの言葉として広く祈られてきた。主の憐れみを求める一筋の心の祈りです。
特に、呼吸に合わせてこの祈りをささげる伝統もあります。吸う息に合わせて「主よ」と唱え、吐く息に合わせて「憐れみたまえ」と心の中で繰り返します。あの盲人の心に合わせて、私たちも祈りましょう。誰に止められても、誰が叱っても、何者も私たちの祈りをやめさせることはできません。そして何より、主はこの祈りに耳を傾けて、立ち止まってくださいます。「イエスは立ち止まって、盲人を連れてくるように命じられた。」
ルカは31から34節の、三度目になるイエスの十字架予告の直後にこの盲人のことを報告しています。それには意味があるのだと思います。主イエスは、もう三度目になる十字架の師の予告を弟子たちになさいました。しかし、「十二人は、これらのことが何一つ分からなかった」と言います。主イエスが繰り返しおっしゃってきたことでしたが、彼らには理解することができませんでした。
しかし、イエスをその目で見ることができなかった一人の盲人が、イエスに憐れみを求めて叫びます。彼の信仰の目は開いていました。一途に憐れみを求めて叫ぶこの声に、主イエスは信仰を見出してくださいます。私たちには、分からないことがたくさんあります。今起きている出来事の意味のすべてを私たちが知ることは、許されていません。神さまがなさることの始めから終わりまでを見極めることは。しかし、私たちには見えなくても、主イエスさまの憐れみを求めて叫ぶことはできます。見えない私を、主よ、憐れんでください、と。主イエス・キリストは必ず足を止めて、私たちに向き合ってくださいます。

2020年5月19日火曜日

2020年5月19日(ルカによる福音書18:1〜17)

ルカによる福音書18:1~17
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』」
ファリサイ派の人の祈りは、このように読むといかにも傲慢でうぬぼれた祈りのように見えます。しかし、そう思った途端に私たちもこのように祈ってしまうかも知れません。「神様、私がこのファリサイ派の人のようでないことを感謝します」、と・・・。
主イエスはこの譬え話を「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して話されました。自分の正しさへのうぬぼれと、他人を見下すということとは、切っても切れない裏表の関係です。あのファリサイ派の人の祈りは「私は他の人たちのように・・・ではなく」、「また、この徴税人のような者でないことを・・・」と言っている。他の人よりも素晴らしい私であることをありがとうございますと言います。祈りながら、結局自分のことしか見ようとしていない。
もう一人の徴税人は、ただ「神様、罪人の私を憐れんでください」とだけ言っています。自分のことを見ようとしていません。自分が惨めだからです。実際に、徴税人としての権威を笠に着て酷いことをしてきたのでしょう。今、聖書を読む私たちの徴税人のイメージと当時のそれとは相当違ったはずです。反社会的な存在だと見なされていたに違いない。しかし、彼は自分の惨めさに埋没するのでもなく、ただ神様だけを求めます。「神様、罪人の私を憐れんでください」と。
祈りというのは、自分の外を見ることです。自分の立派さや信仰深さ、あるいは惨めさや至らなさについても、そのようなことに目を向けません。他の人と比べてよい自分や悪い自分を見ようとしない。ただ、神様だけを見上げます。いや、見上げることもできず、うずくまったままにただ神様を呼び求める。それが、祈りです。
今朝、私たちも同じように祈りましょう。今朝の祈りはたった一言で良いのです。「神様、罪人の私を憐れんでください。」ただこの一言だけを今朝の私たちの祈りといたしましょう。

2020年5月18日月曜日

2020年5月18日(ルカによる福音書17)

ルカによる福音書17
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。『神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。』」
ファリサイ派の人々が『神の国はいつ来るのか』と尋ねたというのは、神がローマの支配を打ち破って私たちを救ってくださる日はいつ来るのか、この世界の終わりの時、神の裁きの日はいつ来るのか、という意味であると思います。私たちも、同じように聞きたいことではないでしょうか。神様はいつ私たちを救ってくださるのか、いつまで待てばいいのか。私たち自身の問いなのではないでしょうか。
主イエスは言われます。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。」私たちが創造するようなものとは違う、と主イエスは言われます。ローマが倒されたとか、病気がなくなったとか、そういうような客観的に観察できるしかたで神の国が来るというのではない。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」人の子、神の国を実現する救い主は、私たちには思いがけないしかたでやってくる。稲妻の輝きのように。私たちにはそれを支配することはできない。では、どうやって救い主が来て、神の国を実現するのか?
「しかし、人の子はまず多くの苦しみを受け、今の時代から排斥されなければならない。」驚くべき言葉です。ファリサイ派の人が期待していた答え、そして私たちが期待するのは、悪を打ち破り、すべての苦難を解決する力強い救いではないでしょうか。奇跡的にコロナが解決したり、神様を信じていれば病気にならなかったり、そういう救いの証拠を期待してしまいます。ところが、神の国を実現する救い主の到来は、今の時代から排斥され、苦しみを受けるというしかたで起きるのだ、と主イエスは言われます。救い主は、苦しみの中におられるのです。
苦しむ救い主によってもたらされる神の国は、ここにあるとかあそこにあると言えるものではない。「実に、神の国はあなたがたの中にある」と主は言われます。神の国は、私たちの間にある。救い主の苦しみによって救われた私たちの間に、神の国が来ている。それが、教会です。
私たちは今離れています。共同体にいられないことは、孤独なことだと実感します。だからこそ、私たちの救い主が苦しまれた方であるということは本当に福音です。主イエス・キリストは、今私たちの目には見えません。しかし、私たちの間にいてくださり、私たちの間に神の国を実現している。目には見えないキリストの教会につながっていることを信じて、キリストを信じる共同体の一員として、今日の日を歩んでいきましょう。

2020年5月17日日曜日

2020年5月17日(ルカによる福音書16)

ルカによる福音書16
「そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
主イエスの言葉の中でも一,二を争うほどに衝撃的というか、戸惑ってしまう言葉です。もともとは譬え話です。ある金持ちに仕えていた管理人が主人の財産を勝手に無駄づかいしていた。それがバレてしまって、クビを告げられます。そこで彼は主人に借金をしていた者たちを呼びつけ、これまた勝手にその借り入れを棒引きしてやりました。そうすれば、自分が失業したときに助けてくれるだろうと算段したのです。主人は、彼の抜け目ないやり方を知って彼を褒めた、という話です。
この物語を読むポイントは「主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ」という言葉であると思います。光の子らというのは、神を信じている者たちのことであろうと思います。この世の子ら、つまり神を信じていない者たちの方が、この世で賢く生きている。それに学んで賢く生きたらいい、ということになります。
キリスト者は、この世で生きています。神様を信じたら経済活動をしない、お金のような汚れたものを遠ざける、などということはありえません。この世で仕事をし、この世のお金を持たなければ生きて行かれない。山奥での自給自足の暮らしなどは非現実的ですし、キリストに与えられた使命に生きることも却って難しくなります。私たちは、この世で生きるキリスト者、光の子です。この世の富は、確かに不正にまみれているかも知れません。しかしその富に忠実であるべきだと主は言われます。それを賢く用いるように、と主は言われる。賢く用いて何をするのか?友を作るのです。自分が困ったときに助けてくれるような友を作る。お金はそのために使ったらいいと主は言われます。
それは、結局、自分の損得 を超えたお金の使い方です。自分が不利になったときに自分を助けてくれるような友を作るには、自分のその場での損得勘定を超えた使い方をしなければなりません。そのことが分かるのが19節以下のもう一つの譬えです。ある金持ちと、彼の家の前で死んだラザロという貧しい男の話です。死んだ後、ラザロは天の食卓に着き、金持ちは裁かれました。金持ちは、ラザロのためにはお金を使わなかったのです。その意味で、彼はあの不正な管理人とは違いました。託された金を自分のためだけに使った。その結果、彼はラザロという友を獲得することができませんでした。
今日のこの御言葉は、私たちにお金の使い方を伝えています。お金の使い方には私たちの価値観がもろに現れます。誰のために、何のためにお金を使うのか?他者のために、自分の目先の損得を超えて、私たちは与えられたものを活用しているのでしょうか?

2020年5月16日土曜日

2020年5月16日(ルカによる福音書15)

ルカによる福音書15
このメールで引用している聖書の言葉は、新しい翻訳の「日本聖書協会共同訳」です。訳注が所々に付いています。今日のところでもいくつもありますが、特筆すべきは4節の「その一匹を見失ったとすれば」、8節の「その一枚を無くしたとすれば」、24節の「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」です。これらの見失った、無くした、いなくなっていたにそれぞれ注が付き、4節と8節には「直訳『失った』、24節には「直訳『失われていた』」とされています。つまり、羊も、銀貨も、息子も、すべて同じように失われた存在だったと主イエスは言われます。
ぜひ今日から取り入れていただきたいと思うのは、特に三つ目のたとえ話がよく「放蕩息子の譬え」と呼ばれていますが、それは今日からやめて、聖書に合わせて「失われた息子の譬え」と呼んでくださるとよいと思います。この息子も、羊や銀貨と同じように、失われていたのです。「放蕩」という倫理道徳の問題ではありません。父のもとから失われていた、つまりこの父親の姿に託して語られている神のもとから失われていたということが急所です。
そして、もう一人の息子の兄息子も、父の目から見たら失われた存在だったのでしょう。彼はこの話の最後まで、弟が帰ってきたことを共に喜ぼうと呼びかける父の言葉を拒んでいます。兄の目には、弟の倫理的な過ちばかりが目に付いています。たぶん、ずっと我慢していたのだと思います。自分は我慢して父親の元にいて真面目にやって来たのに、好き勝手に生きる弟はずるい、更に、失敗しておめおめ帰って来たのに受け入れられるなんてますますずるい。そういう正義感に根ざした怒りに燃えていたのだろうと思います。
今私がこの物語を読むと、自分の心がいかに兄息子の心に根ざしているかを思わされます。彼の怒りが、私の心にもあると言わないわけにはいきません。今の社会には怒りが満ちあふれています。非日常が続き、非日常が日常になろうとしています。しかしそれになかなか順応できない。イライラが募ります。自分の小さな正義が絶対であるように思い込んでしまう。弟を糾弾し、自分の正義を貫いた兄息子。弟に自分の勝手な評価を押しつけ、父も一緒に怒るべきだと主張する兄息子。怒りに震える彼の姿は、私の姿です。ただ一つの救いは、それでも父が兄に呼びかけ続けていてくださることです。この声に立ち帰る道が備えられていることを謙遜に受け止め、主の御許に帰って行きたいと、今、願います。

2020年5月15日金曜日

2020年5月15日(ルカによる福音書14:25〜35)

ルカによる福音書14:25~35
「大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。『誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。』」
あまりに厳しい言葉に、怯んでしまいます。できれば聞かなかったことにして済ませてしまいたい。正直に言って、そう思ってしまう言葉です。一体、この言葉をどう理解し、受け止めればいいのでしょうか。
しかし他方では、このようにも思います。今、私は、家族を大切にし家族と幸せに過ごすことが何よりの幸せだと思っているのではないだろうか。それ以上の幸せがあると言われる主イエスの言葉を、自分の基本的な価値観では受け入れられないと言って最初から拒否してしまっているのではないか。それでいいのだろうか。
そのように考えると、二つの間で板挟みになってしまったような苦しさを覚えます。
この話の後半を読むと、塔を建てるときには立て上げるのに十分な費用があるのを確認するのが当然だ、戦争に出るなら相手の兵力を迎え撃てる力がこちらにあるかを考えるのが当然だ、という話です。それと同じように、「自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない」と続きます。よく考えればそれが当然の振る舞いではないか、と主は言われます。しかしそれを「当然だ」と思えていないからこの言葉を無視したいわけなので、そこに自分と主イエスとのギャップがあるということになります。
私がこの話を聞く上で忘れてはならないと思うのは、これに続く第15章の後半にはあの喪われた息子の譬え話があると言うことです。主ご自身、子どもを失った父の姿に託して、神様の憐れみを私たちに話してくださいました。そこから考えても、家族の愛などどうでもいい、それはまやかしだといったことを主イエスが言われたのではない、と私は思います。
失われた者をどこまでも捜し求めてくださる父としての神の愛。私たちの愛する者のことを、この神の愛にまかせていい、ということなのではないでしょうか。「あなたは私に従いなさい」と主は言われているのだと思います。主に従うというのは、表面的に他の人がそう評価してくれるような行動をするということとは違うかも知れません。ときには家族に仕えることで主に従うということだってあり得るでしょう。家族を主に任せ、私は主に従い、そのような者として新しく家族と出会う。主イエスは私たちにそのような道を示しておられるのではないでしょうか。

2020年5月14日木曜日

2020年5月14日(ルカによる福音書14:1~24)

ルカによる福音書14:1~24
今日の箇所は、昨日のところから続いている一連の話なのだろうと思います。主イエスは、第13章の最後のところで、エルサレムのために激しい嘆きを訴えました。そして、14:1以下ではファリサイ派の議員の家での安息日の出来事です。そこに水腫を患っている人がいて、主イエスはそこにいた律法の専門家やファリサイ派の人に対して「安息日に病気を治すことは許されているか、いないか」と問います。彼らは答えられませんでした。安息日を巡る議論は律法学者やファリサイ派にとっては相当に重要なことで、これはイエスへの殺意の大きな要因になったと考えられます。逆に言えば、このことを通して彼らのイエスに対する頑なさがあらわになった、と言ってもよいと思います。
その後、宴席の譬えが二つ続いています。宴席に招くのは、招かれたお返しのできない「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」であるべきだとイエスは言われます。更に、神が招いてくださっていた宴席に招かれていた人々は来なかったので、結局その席に呼ばれたのは「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」であり、それでも足りない分は街道や農地にいる人を無理に呼び込む、と言っています。
これら二つの宴席の譬えには、どちらにも貧しい人、殻の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人が登場しています。その人たちはパーティに招かれてもお返しができない人であり、あるいはもともとは招かれてもいなかった人たちでした。しかし、結局神の国の宴席に着くのは彼らだ、と主は言われます。ここには、13:30の「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」が響いているのだろうと思います。
ここで主イエスがいちばん問題にしているのは、私たちの頑なさではないかと思います。宴会で上座に座りたいという、人から重んじられたい、偉くなりたいという気持ち。人に何かをしてあげたらお返しをしてほしいという、見返りを求める下心。神様に招かれても自分の都合を手放せない身勝手さ。それらは、わたしたちが自分に固執して放せないものばかりです。自分のプライドだったり、考えだったり、見栄だったり、お金だったり。この章の最初に指摘されていた安息日の律法は、そういう私たちのこだわりが、ここに登場する水腫の人という現に苦しんでいる人の命や尊厳よりも大事になってしまっている、ということだったのではないかと思います。「あなたがたの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と主は言われます。そんな当たり前のことを見失ってしまう私の罪が、主イエスの招きを拒む頑なさになっているのだと思います。今日、私はこの聖書の御言葉を読んで、そのように感じました。

2020年5月13日水曜日

2020年5月13日(ルカによる福音書13:22〜35)

ルカによる福音書13:22~35
「狭い戸口から入るように努めなさい。」
「狭き門」というと、普通は東京大学だとか、司法試験だとか、そういうなかなか突破できない難関大学や試験を指します。主イエスもそういう意味でおっしゃったのでしょうか。なかなか突破できない試験に合格するようにして、信仰の試験に合格するように努力しなさい、とおっしゃったのでしょうか。普通では受験することさえできないような難関大学に入学できれば、誇らしいことでしょう。そういう試験に見事合格するようにして救いを獲得するようにと主イエスはおっしゃったのでしょうか。
主イエスはここでおっしゃっています。「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」そこではと言われていますが、「そこ」というのは神の国のことです。神の国では、後の人が先になること、先の人が後になることがある。私たちの価値観とは違うことが起こる。そうすると、私たちが考える狭き門と、主イエスが言われる狭い戸口というのは、どうやら違っているということになると思います。
続く31節以下では、ヘロデやエルサレムに対する厳しい批判が語られています。ヘロデが主イエスを殺そうとしている。それに対し、「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追いだし、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ。ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んでいかねばならない」と答えます。更に彼に代表されるエルサレムに対しては「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。実よ、お前たちの家は見捨てられる」と言っています。
どちらも、イエスの招きに応じようとしない頑なさの問題を指摘しているのだと思います。そうすると、恐らく主イエスが言う狭い戸から入るというのは、イエスの招きに応じて、イエスのもとに立ち返ることなのではないでしょうか。難関の狭き門の突破は、本人の努力や育った環境、あるいは幸運がもたらします。そこには誇りが生まれます。しかし、主イエスが開く狭い戸は、へりくだりの道です。それは狭いので、身をかがめなければ入ることができません。あらゆる誇りや自負心を捨て、私たちを招くイエスのもとへ帰ること、それが狭い戸から入るということなのではないでしょうか。
私たちが死の床に就いたとき、世間が褒めそやす狭き門に入り得たという誇りが何の役に立つのでしょう。しかし、キリストが開く狭い戸から入るならば、そこに私たちの命以上の価値があることに気づきます。私たちは神の国の宴席に招かれているのです。

2020年5月12日火曜日

2020年5月12日(ルカによる福音書13:1〜21)

ルカによる福音書13:1~21
「園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」
ぶどう園に植えられたいちじくの木の話です。もう三年もそこに植えられていたのに、一向に実を結ぼうとしない。もうこんな木は切り倒してしまえ。園の主人は園丁にそのように言います。
なぜ、ぶどう園にいちじくの木なんて植えてあるのでしょうか。このたとえ話のいちじくの木は、明らかに私たちのことです。主イエスは私たちを、ぶどう園に植えられたいちじくの木だと言われます。いちじくの木が植えられている理由は、主人がいちじくを収穫したいからです。神様は、私たちから他では換えの効かない実りを収穫したいと願っておられる、ということでしょう。
このたとえ話で言われているいちじくの実、私たちから収穫したいと願っている実りというのは一体何のことなのか。1から5節では、悔い改めの話をしています。ピラトによって流されたガリラヤ人の血。彼らが特別に悪い人たちだからこのような災難に遭ったのか。そうではない、と主は言われます。むしろ「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。主イエスは、私たちが他人事ではなく自分事として、自分の罪を悔い改めることを望んでおられます。私たちといういちじくの木に神が期待しておられるのは、悔い改めの実りなのではないでしょうか。
それは、いつでも気の向いたときで構わないという話ではないのだと思います。「もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください」と園丁である主イエスは言われます。その来年の実りのために、園丁は今日からすぐに肥やしを入れてくださるのです。
「主を尋ね求めよ、見出すことができるうちに。主に呼びかけよ、近くにおられるうちに。」今こそ、その時です。今こそ主は私たちに肥やしを与え、実りを結ぶことができるように世話してくださっている。主イエスさまは、私たちに神の言葉という肥やしを与え、ご自身の恵みと慈しみによって私たちを世話してくださいます。

2020年5月11日月曜日

2020年5月11日(ルカによる福音書12:35〜59)

ルカによる福音書12:35~59
「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。」
コロナのことで毎日騒がされていますので、それに対する万全の備え、これ以上の不測の事態が起きたときのためのしっかりと下準備をしなければならないという強迫観念に駆られます。確かにそういう準備も大切ですが、それ以上に、私たちは何の準備をし、誰を待っているのかを知ることが大切であると思います。
主イエス・キリストは、私たちが本当に待つべきは、私たちのところへ帰ってこられる主人だ、と言われます。主人というのは主イエス・キリストご自身のことでしょう。私たちは再び来られるキリストを待っています。私たちの人生の照準は、コロナの感染症の恐れや、その他の命の厳しさに合わせるのではなく、再び来られるキリストに合わせる。それがキリストを信じて生きる、ということです。
私たちは家の僕。主人の帰りを待つ僕です。僕の本分は主人に仕えることです。主人が帰ってきたときに食事をしていただき、快適にくつろいでいただくために、留守の間も家を管理します。もしも僕としてのその本分を忘れてしまったら、家をわが物顔で荒らし、ほかの僕に横柄に振る舞い、主人の帰りを待ちわびるのではなく留守を喜ぶ悪い僕になってしまいます。主人の帰りを待って準備をし、目を覚まして主人を待ちわびる僕のために、帰って来た主人は自ら彼のための給仕をして食事を与えてくれるだろうと、イエスは言われるのです。破格の待遇です。主人が私たちのための僕になってくださると言うのですから。
疲れる毎日で、いつまでこの状況が続くのかと厭になってしまいます。残念ながら、短くはなさそうです。しかし私たちが本当に待ちわびているのは、「いつもどおりの日常」や「安心できる毎日」以上のもの、キリストの帰還です。主人の帰りという大いなる目標に向かっている。私たちの毎日の小さな営みも、キリストの帰りを待つ僕のわざとして、祝福の中に置かれています。

2020年5月10日日曜日

2020年5月10日(ルカによる福音書12:1〜34)

ルカによる福音書12:1~34
「だから、何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。」
私たちの毎日は、殆どが何を食べようか、何を着ようかということに尽きます。そのための苦労に殆どの時間を費やしています。仕事だって、何よりも先ず食っていくためにするものです。そんな私たちにとって、この主イエスのお言葉は、いかなる意味を持つのでしょう。
主イエスと同じような時代、私たちよりもずっと近い場所に、ギリシアという国がありました。そこでは哲学が発展した。ギリシア哲学は基本的には食うための労苦から解放された人々が培っていました。ギリシアには身分制度があり、自由人と奴隷に別れていました。食うための苦労はすべて奴隷が行い、自由人は文化的な営みを行っていた。哲学は労働から解放された自由人のすることでした。ところが、主イエスの言葉を聞いていた者たちは、ギリシアの哲人たちとは違います。貧しい者たちです。病人たちです。寡婦や孤児、罪人と言って差別され、排除された者たちに向かって、主イエスは御言葉を語られました。この世の苦しんでいるものを前にして、主イエスは彼らに連帯しながら言われるのです。「あなたがたの父はこれらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と。神がすべてを備えてくださる、だから、神の国を求めよと主イエスは言われます。
主イエスご自身、極楽から蜘蛛の糸か何かを垂らしながら、このように言われたのではありません。この方は神の子でありながら一人の人間となり、私たちの肉体の弱さも煩わしさも引き受けて、空腹を味わいながら、神の国を求めて生きたのです。
今私たちが味わっている状況は、肉体の煩わしさがもたらす苦しみです。まさに、主イエスが私たちと一緒に味わっていてくださるのは、この痛みです。イエスは病を知っていてくださる。そうであるからこそ、この弱い肉体を持つ者が神の国を求めて生きる幸いを誰よりもよくご存じなのも、主イエスご自身です。私たちは神の国を求めて生きるとき、私たちの存在を超えた価値を知ります。空を飛ぶ烏を養い、野に咲く一輪の花を咲かせてくださる神の慈しみに気づきます。私たちの肉体は弱い。食べなければ死んでしまいます。しかし、弱い私を愛して、必要なものを今日も与えて下くださっている方がおられる。私たちはこの方の慈しみのゆえに、今日も生かされています。

2020年5月9日土曜日

2020年5月9日(ルカによる福音書11:29〜54)

ルカによる福音書11:29~54
「あなた方ファリサイ派の人々に災いあれ。」「あなたがた律法の専門家にも災いあれ。」主イエスがこのようにおっしゃったとき、どういう気持ちだったのでしょうか。怒っておられたのでしょうか。そうなのだろうと思います。嘆いておられたのでしょうか。そうなのだろうと思います。読むと、胸が苦しくなる箇所です。
主イエスは、本当に激しい言葉で偽善を告発します。「杯や大皿の外側は清めるが、自分の内側は強欲と悪意で満ちている。」外側というのは、人の目に見える部分ということでしょう。そういうところの見栄えばかり気にして、肝心の食べ物がのる内側を清めようとしないと言われます。「あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一のささげ物もなおざりにはできないが。」そして、尊敬されること、重んじられることを好んでいるあなたたちに災いあれと断罪します。
律法の専門家に対しては、「あなたがたは、人には背負いきれない重荷を背負わせながら、自分ではその重荷に指一本も触れようとしない」と指摘します。そして、旧約の預言者たちを殺したのは、お前たちの偽善だと告発しています。
この言葉を聞いて、「律法学者たちやファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、イエスの言われたことをあれこれ口に出しては、何か言葉尻を捕らえようと思っていた」のでした。私は同じ立場だったら、まったく同じようにしたはずです。
主イエスがここまで激しい言葉で、厳しく断罪しておられるのを聞くと、本当に辛い気持ちになります。どうしたらいいのか分からなくなります。29から32節を読むと、主イエスは、やはりここで悔い改めを求めておられるのだと思わされます。主の言葉に聞き、悔い改めて神のもとに帰ることを、主は求めておられるのだと思います。私の偽善を主は嘆いている。この私に向かって、偽善を捨てて神のもとへ帰れと呼んでいてくださる。私は自分の意地も怒りも脇に置いて、主イエスの招きに応えたい。そう願いながら、罪にしがみついている現実がある。だから、主も、ここまで激しく感情をむき出しにしておっしゃっているだと思います。自分に固執して神のもとに帰ろうとしない災いに、私が気づいていないから。主の招きに、主の憐れみが込められている。そのことを信じて、進み出たいと願います。

2020年5月8日金曜日

2020年5月8日(ルカによる福音書11:1〜28)

ルカによる福音書11:1~28
今朝の日課に従って聖書を読んで気づいたことは、主の祈りを教えてくださった主イエスのお言葉と、14節以下の悪霊との戦いが語られた箇所とが隣り合わせになっている、ということです。主の祈りの段落の最後に、主イエスは言われます。「まして天の父は、求める者には聖霊を与えてくださる。」主の祈りは、究極的には聖霊を求める祈りなのだ、ということであろうと思います。
そして、続く14節は「イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口を利けなくする悪霊であった」と書かれています。それを見た群衆の中には、イエスが悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだと言う者もいて、主がそれに反論するというふうに話が続きます。主イエスが神の指で悪霊を追い出していることが、私たちのところへ神の国が来ていることのしるしだ、と言われる。更に、24節以下で、一度追い出された汚れた霊が、そのうち元のところへ戻って来て、そうすると一艘酷いことになる、という話が続きます。
主の祈りは、このような悪霊との闘いの祈りだということではないでしょうか。私たちは家のようなものです。家にとって肝心なことは、その家がどんなに立派なのかということよりも、誰が住むのか、ということです。立派な家も家主がどうしようもなければ、長くはもちません。一見ぼろ家であっても、家の主が愛情を込めて住み、メンテナンスをすれば、家は長もちします。私たちは家であって、肝心なのは誰が住むのか、ということ。私たちには悪霊が住んでいるのか、聖霊が住んでいるのか?ひとたび悪霊に居着かれてしまい、しかし主がそれを追いだしてくださっても、新しい家主に住んでいただかなくてはその空き家にまた悪霊が戻って来てしまいます。そうではなく聖霊に住んでいただくということは、すなわち、主の祈りを祈りつつ生きるということに他ならないのです。「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」からです。
主の祈りは、主イエスさまが教えてくださいました。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った。」そうであるならば、ある所での主イエスのたった一人の祈りの秘密を、ここで教えてくださったに違いないと思います。主の祈りは、主が教えてくださったというだけでなく、主ご自身の祈りではないでしょうか。私たちはこの祈りを口にする度に、主ご自身と口をそろえて祈ります。この祈りこそ、私たちが悪霊と闘う術です。

2020年5月7日木曜日

2020年5月7日(ルカによる福音書10:25〜42)

ルカによる福音書10:25~42
主イエスは、マルタとマリアの家に入り、話をしておられました。一体、どういう話をなさったのでしょう。25から37節には、憐れみ深いサマリア人の譬え話が登場します。主イエスはたとえ話の名人とよく言われますが、私はこの話は主イエスの本領がまさに発揮されていると思います。マルタとマリアの家でも、もう一度この話をなさったのでしょうか。ルカがここに至るまで記録してきた主イエスのいろいろな話を、この家でも改めてなさったのか。その話の内容は私たちには分かりませんが、それは、なんとも素晴らしい時間であったに違いありません。
ところが、この家のマルタはイエスのため、あるいはその一行のため、もしかしたらイエスの話を聞きに来た村の人々のもてなしのために忙しく立ち働き、イエスさまの話を喜久井と間もなかったようです。のんきにイエスの足元に座って話に聞き入っているマリアが気に入らず、イエスさまに訴えました。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
マルタの言い分は、私たちにも気持ちとしてはよく分かります。加えて、当時の文化的な背景もあると思います。当時は、イエスさまのような先生の話を聞くのは男だけで、女が足元でその話を聞くというのは考えられないことでした。そうすると、社会的にもマリアの振る舞いは非常識ということになります。
しかし、主イエスはマルタに言います。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」主は、マリアが選んだものが必要なただ一つのこと、良いものだ、と言います。もちろん、そこにはマルタにもそちらを選んでほしいという招きも含まれていることでしょう。この言葉は、私たちへの問いです。
あまりむやみな外出をするな、と言われています。そうであれば家にいる時間を活用してゆっくり聖書を読み、祈りを長くできればよいのでしょうが、却って難しいというのが実感です。マリアの選んだ方は、案外簡単なことではない。はっきり言って難しいと思います。これに対し、マルタの選んだ方が、不満が残るにしても安心できるのではないでしょうか。自分で成し遂げいている実感を得やすいからです。主は、私たちの手の成果を一度中断して、主の御前に御言葉に一心に耳を傾けるようにと言われます。そのときにこそ主の御言葉の前で初めて私たちの目にも隣人の姿が映り、憐れみの心が突き動かされる奇跡が始まるのかも知れません。

2020年5月6日水曜日

2020年5月6日(ルカによる福音書10:1〜24)

ルカによる福音書10:1~24
「すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに、子が誰であるかを知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父が誰であるかを知る者はいません。」これは、主イエス・キリストの祈りの言葉です。主イエスさまは、神の子として、神様をご自分の父と呼んで私たちに紹介してくださいました。
更に、主イエスは弟子たちに向かって(つまり私たちに向かって)こう言われます。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」弟子たちが見ているもの、多くの預言者や王が見たかったが見られなかったもの、それはやはり主イエスご自身のことでしょう。弟子たちも、この世界も、主を見ながら本当にはこの方が神の子だということは悟りませんでした。だから主を十字架にかけ、あるいはその時になったら裏切ってイエスを捨ててしまった。「父のほかに、子が誰であるかを知る者はない」のです。しかし、なお、弟子たちは主イエスを見ることが許されていました。その声を聞かせていただきました。それは、私たちも同じです。使徒パウロがガラテヤの教会に書いた手紙に、「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示された」と書いています。キリストを語る説教の言葉を聞いたとき、あなたたちは十字架につけられたキリストを目の前に見ていたはずだ、と言います。
私たちは十字架のキリストを仰ぎ、それによって、父なる神様を仰ぎます。十字架にかけられたキリストが、私たちに父なる神様を紹介し、知らせてくださっているのです。
今日の聖書の御言葉は、今読んだ21節の前まで、キリストを宣べ伝える弟子たちの姿と、それに遣わす主イエスのお言葉を伝えていました。今、私たちにもキリストは同じ使命を託しておられます。今私たちは町中に出ずともその使命に生きることはできます。私たちが今いる場所は、もうすでに神に遣わされている場所です。この場所で、私たちは十字架につけられたキリストと、父なる神の愛を証しします。福音を、キリストは私たちに託してくださったのです。

2020年5月5日火曜日

2020年5月5日(ルカによる福音書9:37〜62)

ルカによる福音書9:37~62
弟子の一人のヨハネが言います。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を負いだしている者を見ましたが、私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました。」それに対し、主イエスは「やめさせてはならない」と言われます。「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と主は言われます。
また、主イエスはサマリア人の町で歓迎されませんでした。それで弟子のヤコブとヨハネは言いました。「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」と。主は彼ら二人をお叱りになりました。
これら二つの話はとてもよく似ていると思います。どちらにも使徒ヨハネが登場している点もそうでありますが、それだけでなく、話の性質が似ています。自分の思い通りにならない者を見て、神の権威を笠に着て懲らしめてやろうという話です。とても傲慢です。しかし、私は、いかにも自分がすぐに考えることだと思います。
最初の話は、他の人も自分と同じようでなければならないというヨハネの気持ちが透けて見えます。他の人の、自分とは違う信仰のあり方を認めることができない。自分の型にはまっていないことが許せない。二つ目の話は、自分の怒りを神の怒りとすり替え、神の名を騙って自分を正当化するということになると思います。どちらも、私もよく知っている気持ちです。
どちらも、主イエスのお心に、弟子たちは気づいていませんでした。最初の話は、十字架へと向かうという主の二回目のお言葉のすぐ後に出てきた、弟子たちの「自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論」に続く出来事です。自分や自分の所属集団が絶対だと感じてしまうとき、他のあり方を許容できなくなってしまいます。二つ目の話は、この段落の冒頭の言葉が大切なのだと思います。「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。」そして、イエスがサマリアで歓迎されなかったのは、「イエスがエルサレムに向かって進んでおられたから」です。つまり、これら二つの出来事の本当の共通点は、十字架へと向かうイエスに逆らう、という点です。そこが本当の急所です。
主イエス・キリストの十字架の前で、私たちの罪が明らかになります。見えてきてしまいます。このキリストの十字架にこそ私たちの救いがある。そのことを謙遜に受け止め、受け入れたいと願います。

2020年5月4日月曜日

2020年5月4日(ルカによる福音書9:1〜36)

ルカによる福音書9:1~36
「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」
私は、今日、ここに書かれている「日々」という小さな言葉が目にとまりました。主イエスさまに付いていくこと、従うことは「日々」のことです。一度そうしたらそれで終わりというのではなくて、毎日新しく従っていくということなのだと思います。
ルターが書き、教会の改革運動の発端となった95箇条の提題の最初の命題はこのようにあります。「我らの主であり師であるキリストが『悔い改めよ』と言われたとき、それは、私たちの全生涯が日ごとの悔い改めであることを欲せられたのである。」私は「日ごとの」というこの小さな言葉が好きです。私たちの全生涯は、日ごとの悔い改め。毎日毎日、神様の前に新しい思いをもって悔い改めることから始まる。
主イエスさまに従いと願っています。しかし、失敗ばかりです。私のあり方は、全然ダメだと思います。そうとしか考えられない。何度主に従いたいと願ったことか。そして、何度それに挫折したことか。ところが、主イエスは、日ごとに悔い改めて新しく始める道をつくってくださいました。私たちが主の御前に悔い改めることから始めることを、主は喜んでくださいます。慰め深いことです。
主イエス・キリストは、十字架へ向かっていかれます。そのことをここではっきりとおっしゃいました。山で現れたモーセとエリヤが話していたことも、主イエスの最後についての話だったといいます。モーセとエリヤと言えば、律法と預言者の代表。旧約聖書が語ってきたことは、イエスの十字架のことだったのだ、ということではないでしょうか。この十字架のキリストが、私たちに言われます。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」主が、私のための十字架を負ってくださいました。私の罪を負ってくださいました。私も、その主の跡についていくことを、主は望んでいてくださいます。全然ダメな私です。それでも主は招いてくださっている。ただその手にすがって、日々主イエス・キリストについていきたい。今日、改めてそのように願います。

2020年5月3日日曜日

2020年5月3日(ルカによる福音書8:40〜56)

ルカによる福音書8:40~56
「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた。『泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ。』人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスを嘲笑った。イエスは娘の手を取って、『子よ、起きなさい』と呼びかけられた。すると、霊が戻って、娘はすぐに起き上がった。」
主イエスには、私たちには見えない現実が見えているのでしょう。人々は、イエスの言葉を聞いて嘲笑いました。イエスが、娘は死んだのではなく眠っているのだと言ったからです。私たちとは違う古代人だから、死人が生き返るなんてことを信じられたわけではありません。彼らにとって、死は、私たちよりもずっと身近にあります。私たちよりもずっとよく死の厳しさを知っていた。だから、彼らはイエスの言葉を嘲笑いました。死んだ人間は、決して生き返らないからです。
しかし、主イエスは娘の手を取り、言います。「子よ、起きなさい」と。すると、娘の霊が戻り、娘は起き上がりました。主は、娘に霊と命を与えてくださいました。主イエスはこの奇跡に先立って、娘の父であるヤイロに言っています。「畏れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」大切なことは、信じること。主イエスの言葉を信じることです。ヤイロに向けられたこの言葉は、私たちへの言葉でもあります。
世の中には、信じないと分からない真理があるのだと思います。少し厭な言い方かも知れません。真理は真理であって、本当に真理の名に値するなら、信じようと信じなかろうと客観的に真理であるはずだ、とも思います。信じないとそれが真理であるかどうかが分からないなどと言うのは、逃げではないのか?
ここにはもう一人の女が登場します。12年間、出血が止まらなかった。彼女はこれまでどんな医者にも治してもらえませんでした。ところが、主イエスの衣の裾に触れると、癒やされました。これも不思議な出来事ですが、彼女が自分の肉体で経験した奇跡といいう意味では、客観的な証拠のある『真理』と言ってよいでしょう。しかし、話はそれで終わりませんでした。主は誰が自分に触れたのかと探し始め、ついに彼女は恐ろしくなって名乗り出て、ありのままを話すことになります。つまり、客観的な真理、この体をもって証明された真理だけで話は済まなかった。彼女はイエスの前に出て、問われたのです。私に触れたお前は、何者なのか、と。
真理は客観的であるはずだと言いました。しかし、主はそう言ってのける私に問われます。お前は何者なのか。私に触れようとするお前は誰なのか。真理は、ただそこにあって輝いているのではなく、私たちに迫ってきます。私たちに迫り、信じることを求めます。だから、イエスは彼女に言います。「あなたの信仰があなたを救った」と。私たちは、今朝、私たちに問うてくる真理、イエス・キリストという真理の前に立たされています。

2020年5月2日土曜日

2020年5月2日(ルカによる福音書8:22〜39)

ルカによる福音書8:22~39
「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸へ渡ろう』と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、弟子たちは水をかぶり、危なくなった。それで、近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、このままでは死んでしまいます』と言った。」
これは、私たちの体験することそのままです。私たち教会という小さな舟は、主イエスに促されて湖の向こう岸を目指して船出しました。そこに突然襲ってくる激しい風。フナの中は水をかぶり、乗っていた弟子たちは死の恐怖におびえる。ところが、主イエスは寝ておられる。肝心の主イエスが頼りにならない。そこで、弟子たちはイエスに訴えます。「先生、先生、このままでは溺れて死んでしまいます」、と・・・。
私たちも突風に悩まされ、水をかぶって危ないとき、主イエスに祈ります。ところがその祈りがなかなか聞かれない。状況が改善せず、恐怖ばかりが増していく。イエスさまは、どうして寝ておられるのでしょうか?私たちのことなどどうでもいいのでしょうか?
弟子たちは、主イエスは、あの舟は一体どうなったのか。「イエスは起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。」主イエスは、弟子たちに応えて起きてくださいました。風と荒波を鎮めてくださいました。
弟子たちや私たちから見ると、イエスさまは嵐の中で寝ていて、ちっとも応えてくださいません。私たちのことはどうでもいいのか、と思ってしまう。しかし、聖書を読んで気づくことは、主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問うておられることです。本当に寝ていたのは、主イエスではなく私たちの信仰の方なのかも知れません。
私はこの一週間、雑誌に原稿を書く仕事をしていて、使徒信条を扱った本を何冊も読みました。それを読んでしみじみ感じたのは、信じるということの素晴らしさです。信じ、望みを持つことは尊いことです。嵐の中の小舟に乗っていれば、今しか見えなくて当然です。しかし、イエスを信じれば、確かにここにイエスがおられるという事実に気づきます。イエスは寝ているようにしか見えません。何しろ、私たちにとっても主イエスはこの目で見ることはできず、祈りが聞かれている実感もわかない状況はいくらでもあります。しかし、主が確かにここにいてくださることに気づくとき、私たちは信じることの素晴らしさを知ります。この方は、水も波も風も従い、悪霊にも権威を持つ神の子です。私たちはイースターをすでに迎えました。復活したイエス・キリスト、神の子でいらっしゃるこのお方は、どのような嵐をも鎮める権威を持っておられます。そのことを信頼するとき、私たちに望みの世界が拓けます。

2020年5月1日金曜日

2020年5月1日(ルカによる福音書8:1〜21)

ルカによる福音書8:1~21
「その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒やしてもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一向に仕えていた。」
これこそ、教会です。主イエスがおられ、主を信じる者たちが男も女も主に同行しています。主と共に歩む旅、教会はその一行です。主イエスの旅は、神の国を宣べ伝える旅です。福音を告げ知らせるための旅です。私たちはこの旅に同行し、主と共に、主のなさることに仕えています。
私たちの旅は独りぼっちの旅ではありません。あるいは、主と二人きりの旅でもありません。主は十二人を連れ、そしてここに名前が書かれている三人とほかの大勢の女たちを連れて行かれます。私たちも、主と共に歩く無数の弟子たちと共に、主の旅を歩んでいます。神の国を目指す旅を進んでいるのです。
今、私たちは集まることができません。しかし、目に見えなくても、主は共にいてくださいます。目に見えなくても、私たちの周りには教会の仲間たちがいます。賛美歌を口ずさみ、心を合わせながらこの道を進み、そして何よりも主ご自身が語り聞かせてくださる福音の言葉を聞きながら、私たちは旅路を進みます。
4節以下の今日の箇所では、御言葉を聞くということを巡る話が続いています。「だから、どう聞くかに注意しなさい」と主は言われます。主イエス・キリストの御言葉を私たちはどう聞くのか。主は、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言ってくださいます。主の言葉に聞き、主に従う者を、主イエスはご自分の母、きょうだいと呼んでくださるのです。
この一行の旅路の必要は、「自分の持ち物を出し合って、一向に仕え」た仲間たちによって支えられました。教会のあり方は、主イエスの時から変わっていません。教会の支えはただ主イエスだけであり、キリストにある兄弟姉妹相互の愛だけです。教会、それは、キリストの愛の奇跡と、キリストの福音によって救われた者たちの旅の一行。私たちはキリストの教会。キリストの弟たち、妹たち一行です。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...