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2020年9月14日月曜日

2020年9月14日(コロサイの信徒への手紙4)

コロサイの信徒への手紙4
「ラオディキアのきょうだいたち、および、ニンファと彼女の家にある教会によろしく。この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるようにしてください。また、あなたがたもラオディキアから回って来る手紙を呼んでください。アルキポには、『主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように』と伝えてください。」
パウロが書いた数々の手紙は、コロサイの教会で読まれ、ラオディキアの教会で読まれ、あるいはエフェソ、ティアティラ、ベルガモン、スミルナ、コリント、・・・など、いろいろな場所にある教会に回され、そこで読まれ、多くの信仰者を生み出してきました。この手紙は座間でも、ルイビルでも、ジョタカでも読まれ、私たちに福音の言葉を響かせています。逆に、すでにラオディキアで読まれている手紙をも、あなたたちにも読んでほしいとパウロは言いました。この手紙は私たちの手もとにまでは残されなかった未知の手紙なのか、あるいは新約聖書の中に収められている別の手紙なのか・・・。それは知るよしもありませんが、しかし、私たちが受け取っているのと同じ福音を証しするものであることは間違いありません。
キリスト教会は、言葉を伝達することによって生きてきました。福音の言葉を伝えることが教会の使命です。だから、パウロは言います。「私が語るべきしかたで語って、この秘儀を明らかにすることができるように祈ってください。」神の秘儀である主イエス・キリストの福音を、私が語るべきしかたで語ることができますように。パウロの祈りはそこに尽きます。私も、牧師の末席を汚すものとして同じ祈りを祈っています。そして、どうか私のためにも、語るべきしかたでこの秘儀を語ることができますように祈ってください。福音の言葉。それが私たちの命です。
この後も、私たちはまだしばらく新約聖書に収められた書簡を読み続けます。私たちがキリストの福音に聞くようにと神が与えてくださったこれらの書簡に耳を傾け、神の秘儀によって命を与えられる喜びに、私たちは生き続けていきます。

2020年9月13日日曜日

2020年9月13日(コロサイの信徒への手紙3)

コロサイの信徒への手紙3
「さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」
第3章はこの言葉から始まっています。「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさいそこでは、キリストが神の右の座についておられます。」キリストが神の右にある上のものを求めて生きる。それは、消極的な言い方をすれば「淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」を殺すということだと言います。そのようなことに心を注いで生きるのではなく、上にあるものを求めて生きる。それが積極的な言葉で表せば愛であり、キリストの平和であり、感謝なのだ、ということではないでしょうか。
自分を満足させて生きるのか、神様に喜んで頂くために生きるのか。ただ、そうは言っても、自分の肉欲が絶対的に正しいとはいわずとも、肉欲を殺すとなると大変なことです。上にあるものを求めて生きるよりも、下にあるもので満足して生きることに傾きがちです。そうなると、愛やキリストの平和、感謝と言ったことが、現実とは違う美辞麗句に堕してしまう・・・。
私たちの口は汚れている。それは紛れもない事実です。しかし、その口に、神様は賛美を授けてくださいました。私たちは神様を求めるよりも、自分の欲望を優先させてしまう。しかし、神様は、そんな私たちが神に礼拝を献げることを許してくださいました。だから、この言葉が私たちを解放する自由への道標です。「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」
これこそ、礼拝で起こっている現実ではないでしょうか。キリストの言葉を語り合い、分かち合い、神に感謝の祈りを捧げ、神を賛美する。詩と賛歌と霊的な歌と言います。それぞれどういうものを指しているのでしょうか。パウロの時代のいろいろな賛美歌のジャンルでしょうか。何にしても、ここに私たちが今日ささげる賛美歌を加えることは許されるでしょう。私たちはキリストに礼拝を献げるとき、紛れもなく上なるお方を求め、心を高く上げて、神に向かって生きているのです。その恵みの時へ、私たちは今招かれています。

2020年9月12日土曜日

2020年9月12日(コロサイの信徒への手紙2)

コロサイの信徒への手紙2
「神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。こうして、神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものになさいました。」
古代の世界では、戦争に勝った国は相手国の国王や大臣などを捕虜として捕まえ、自国への凱旋行進に従えてさらし者にしたのだそうです。戦争に敗れるとそれまでの秩序は崩壊し、すべて新しい支配者の言うがままにならざるを得ません。主権はもはや以前の支配者にはなくなり、新しい支配者に移ってしまう。
それとちょうど同じことが、私たちとキリストとの間に起こったのだ、とパウロは言います。「神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものになさいました。」この「勝利の行進」という言葉に、聖書協会共同訳は訳注をつけて「凱旋式に引き連れて」としています。キリストという新しい国王の支配下に入った私たちはキリストの凱旋式に引き連れられて、新しい支配者の手の中にいます。
この新しい支配者、王は、いかなる王なのか。それを知るためには、かつての私たちの支配者の正体を知る必要がある。かつての私たちの支配者は「数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を」もって私たちを支配します。数々の規則というのは、旧約の律法のことでしょう。ローマの信徒への手紙を読むと、このようにあります。「律法は罪なのか。決してそうではない。だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が『貪るな』と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。」律法によって機会を捉えた罪が、私たちを支配していた。私たちはかつては罪の奴隷だった。しかし、その支配をキリストが打ち負かした。それが、コロサイの信徒への手紙の現実認識です。
私たちを不利に陥れていた証文、罪状書きは、キリストと一緒に十字架につけられました。もうそれは破棄されてしまった。キリストが私たちを輝かしい勝利の下に勝ち取ったからです。私たちは罪に支配された罪の国の国民ではなく、キリストが支配する天の国の国民です。今や、キリストの勝利の凱旋行進に連なっているからです。

2020年9月11日金曜日

2020年9月11日(コロサイの信徒への手紙1)

コロサイの信徒への手紙1
「神は御心のままに/満ちあふれるものを/余すところなく御子の内に宿らせ/その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって/ご自分と和解させてくださったのです。」
コロサイの信徒への手紙は、宇宙的なイメージの広がりを持つ手紙であると思います。スケールが大きく、読む者の目を目の前のいろいろな出来事から一度引き離して、世界をお造りになった神様の広さに向けさせる言葉であると思います。
「万物は御子によって、御子のために造られた」と言います。なぜ、私は命を与えられて存在しているのか、なぜこの世界があるのか。歴史の中で多くの人が問い、それぞれに何らかの答えを紡ぎ出してきた問い。その問いへの答えがここにあります。神が、この世界の万物を御子においてお造りになった。万物を御子のためにお造りになった。だから、この私も、この世界も、御子のために、御子に向かって造られた。それが聖書の答えです。そして、その御子というのは一体どこにいるのかというと、「御子はその体である教会の頭です」と言う。ここに教会が登場しています。この世界が御子によって造られた、御子のために造られた、その御子は教会という体の頭として、私たちの間におられると言う。驚くべき言葉です。
私たちの教会は、小さな群れです。特に今のような状況下ではそのことを痛感させられます。しかし、この町に教会があって神を礼拝し、キリストのお体がここにあるということの意味は決して小さくない。この世界が造られた秘密がここにあるのですから。
この身この内に、神は満ちあふれるばかりのご自分の神性を宿らせ、神様ご自身がこの世界で生きて働いておられることを証しなさいました。これもまたスケールの大きな話です。神の神性が教会というキリストのお体において明らかにされている。何を意味しているのか?教会に、神が和解の福音を託してくださったという事実によってそれが現実化しています。教会は、キリストにある和解を福音として宣べ伝えます。キリストが十字架にかけられ、血を流した。この血が、神が私たちのために流された和解のための血だった。
「分断」を痛感しないわけにいかない世の中になりました。経済格差、世代格差、性別、政治信条、国籍、イデオロギー、社会的立場、好み、・・・ありとあらゆることで私たちは分断され、あるいは他者を自分から切り離して隣人を失っています。和解の福音が私たちには必要です。キリストにあって、神が私たちと和解してくださった。この良き知らせをこの世界に証しするために、私たちはキリストのお体として、この世界に派遣されています。この宇宙をお造りになった方が、今日あなたを和解の使者として派遣しておられます。

2026年9月12日の聖句

あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9) マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18) 今日の御言葉を聞いて、自分は一体何を見てい...