2019年7月31日水曜日

2019年7月31日(歴代誌下9〜10)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙6、歴代誌下9~10、箴言26

歴代誌下9~10;
第9章はイスラエル史上最大の、まさに絶頂の時代。第10章は一転して、イスラエルの歴史が転がり落ちていく最初の時の記録です。ソロモンの噂を聞きつけてやってきたシェバの女王、彼女は異邦人です。しかし彼女はソロモンの知恵に触れ、イスラエルのすばらしい繁栄を目撃して、言います。「あなたを王座に着け、あなたの神、主のために王とすることをお望みになった、あなたの神、主はたたえられますように。あなたの神は、イスラエルをとこしえに続くものとするほど愛しておられるので、公正と正義を行うために、あなたを王とされたのです(8~9節)」。ソロモンの知恵はそれに触れた者が神を賛美せざるをえないものでした。神の人々への愛を、異邦の女王までもが感じ、それをほめたたえるほどのものでした。私たちも、そのような神様の恵みの証言者たりたいと心から願います。
第10章に登場するソロモンの息子のレハブアムは、そうではありませんでした。彼は臣民に優しい言葉をかけた方がいいという父の代からの臣下の声を退け、居丈高に振る舞って彼らを制圧せよという若い友達の声に耳を傾けました。レハブアムのものを発送する課程には、神様の影はとても薄かったように思えてなりません。結局、ヤロブアム率いるイスラエルのほとんどど、レハブアムの国とは分裂してしまいました。
私たちの口から出る私たちの言葉は、今日、どのようなものであるのでしょうか。聞く者を造り上げ、神の恵みへとその心を向ける言葉に生きるのか、自分を大きく見せようとする誘惑に負けたところから出てくる言葉に生きるのか。そう問われているように思います。

2019年7月30日火曜日

2019年7月30日(歴代誌下7〜8)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙5、歴代誌下7~8、箴言25

歴代誌下7~8;
「ソロモンが祈り終えたとき、火が天から降って、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちた。祭司たちは神殿に入ることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである(7:1~2)」。
神殿に仕えて働くべき存在である祭司たちでさえ、主の神殿に入ることができませんでした。主の栄光が神殿に満ちたからです。それは、祭司でさえもそこに入ることを躊躇するような、人間としての畏れを呼び起こす出来事であったのだと思います。
礼拝は、聖なる空間を作ります。荘厳な礼拝堂は聖なる空間だ、ということではありません。例えどのような場所であっても、そこで献げられている礼拝という行為が聖なる空間を作るのです。もちろん、礼拝のプログラムに沿った何事をすれば聖なる空間を自分たちで作り出してやれる、ということではもちろんありません。礼拝において神がご自身を顕してくださるならば、神の栄光が礼拝で示されるならば、神が共にいてくださるという事実のゆえに、そこは聖なる空間になるのです。
神様がご自身を顕してくださるとは何を意味しているのか?新約の時代を生きる私たちの信仰からすれば、それは、私たちが主イエス・キリストのことを知り、このお方を愛する、ということであろうと思います。私たちが礼拝で十字架のキリストと出会い、このお方の愛の言葉を聞き、キリストの復活の喜びに触れるならば、それはなんと神の栄光に満ちた出来事なのでしょうか。キリストが私たちと出会っていてくださる礼拝において、神は私たちにご自身を示しておられ、その栄光によって私たちを包み込んでいてくださいます。

2019年7月29日月曜日

2019年7月29日(歴代誌下5〜6)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙4、歴代誌下5~6、箴言24

歴代誌下5~6;
主の神殿の一番大切な場所は、至聖所。そこには主の契約の箱が安置されています。園はこの中には、二枚の石の板だけが入っています。十戒です。ですから、神殿の中心には、神様の言葉が刻まれた板がある、ということになります。鏡や珠、剣などをご神体としてまつるのではない。箱や板を神として拝むのではない。そこに刻まれた神の言葉を聞き、神を礼拝し、その言葉をもって語られる神のご意志に従って生きる。それが、ソロモンの時代から今日まで続く礼拝の姿です。
第6章は、ソロモンによる神殿奉献の祈りです。列王記にも同じ場面でのソロモンの祈りが記録されていましたが、改めて歴代誌で読み直してみて、思いました。この歴代誌は、イスラエルの民がバビロンに戦争で敗れて捕囚となり、それから解放された頃に書かれたものです。つまり、自分たちが散々神に背き、その結果、今こうして祖国は崩壊し、信仰共同体も瓦解してしまった。「あなたに罪を犯したため、あなたの民イスラエルが、敵に打ち負かされたとき、立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天からそれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らとその先祖にお与えになった土地に彼らを帰らせてください(6:24~25)」。この祈りは、歴代誌の最初の読者には本当に強い思いをかき立てられるようなものであったに違いありません。そして、それは私たちも同じはずです。主よ、私たちの祈りを聞き、主イエスの御名のゆえに罪を赦してください。私たちもそう祈るのです。
第6章の最後の祈りが、私の心に残りました。「神である主よ、今、立ち上がってください。あなたご自身も、その力の箱も、あなたの憩いの場にお進みください。神である主よ、あなたの祭司たちが、救いの衣をまとい、あなたの忠実な人々が、恵みの内に喜びますように。神である主よ、あなたが油を注いだ人を拒まず、あなたの僕ダビデに約束した慈しみを、思い起こしてください(41~42節)」。私たちも、同じ約束に加えられた神の民の一員。神への感謝と信仰を持って、今日という日を歩んでいきましょう。

2019年7月28日日曜日

コリントの信徒への手紙一第14章26から40節「すべてはあなたがたを造り上げるために」


 集まって、詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する。ここには、生まれたばかりのキリスト教会の礼拝、コリントの町で献げていた礼拝の様子が記録されています。私たちと違うところもたくさんあるでしょう。しかし、同じ事もたくさんあります。賛美を歌います。聖書の御言葉に聞きます。お祈りをします。あるいは、この章には出てきませんが、第11章によれば、聖餐を祝っていました。そういう礼拝のすべての営みについて、パウロは「すべてはあなたがたを造り上げるためにするべきです」と言っています。あなたたち一人ひとりを高めるためにとか、それぞれの信仰の確信が深められるために、とは言いませんでした。あなたがたを造り上げる。一つのキリストの体、教会として、「あなたがたが」造り上げられるように。礼拝は、教会の中にいる強い人が自分自身の成長や精神的安寧のためにする営みではありません。自分自身のためという面もあります。しかし、それ以上に、隣人のための営みです。今日、隣に座って礼拝を献げている人のために、私たちは今共に礼拝している。あなたがここにいて礼拝していることは、あなた自身のためだけではなく、隣人を立て上げるためになくてはならないのです。
 この手紙では、ずいぶんと「預言」の話が続いていました。ここでは「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」と言っています。先週の所で、語られた聖書の御言葉や説教、あるいは礼拝それ自体が語り出す福音の言葉に「アーメン」と答え、その福音に生きるとき、教会は預言者共同体として語り出している、ということを申しました。教会は共にキリストの福音を預言する群れです。31節ではそのことが「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」と言われています。励まされるという言葉は、「慰め」とも言える言葉です。傍らにいて語りかける、という字です。すぐ側にいて互いに福音を語り合い、励まし、慰める共同体。それが、互いを造り上げるということではないでしょうか。
 自分勝手に誰も解釈できないのに異言したり、お互いの言葉に耳を傾けずに何人も一篇に預言をしたり。そうやって愛を欠いたとき、私たちの言葉は騒がしいどら、やかましいシンバルです。愛をもって語り、愛をもって耳を傾ける、ということが大切なのだと思います。そして、そのような愛の根拠が、「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」という御言葉であるのだと思います。この無秩序という言葉には、暴動という意味もあります。恐らく、コリント教会分派争いを意識しての言葉使いなのでしょう。他でもない、礼拝や信仰で人間同士の争いが深まり、対立が表面化することがあります。自分の正しさや正当性を証明するための祈りや説教や信仰は、病気のような「ファリサイ根性」なのかもしれません。しかし、神は平和の神なのです。平和というのは、独りぼっちでは得ることができません。平和は関係の中でのことです。キリストの平和といったとき、それは、私たちと和解するために十字架にまで進まれたキリストの平和のことです。キリストは私たちとの平和のために、積極的に手を伸ばしてくださいました。隣人である私たちのための存在になってくださいました。それは私たちをも隣人ための平和の言葉の使者にするためなのです。

2019年7月28日(歴代誌下3〜4)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙3、歴代誌下3~4、箴言23

歴代誌下3~4;
「ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた(3:1)」。それはダビデの人口調査の後に祭壇を立てた、オルナンの麦打ち場のあった場所です。「そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である」。
それでは、エルサレムはいかなる場所であったのか。「ダビデとイスラエルのすべての人々はエルサレムに向かった。そこはエブスと呼ばれ、その地にはエブス人が住んでいた。エブスの住民はダビデに『ここには来られまい』と言ったが、ダビデはシオンの要害を攻め落とした。これがダビデの町である(歴代誌上11:4~5)」。エルサレムは、かつてダビデがエブス人から奪った場所でした。だから、イスラエルの人々はこれをダビデの町と呼びます。
そのエルサレムのモリヤ山に、神殿が建てられた。この『モリヤ』も、聖書中では特別な意味を持つ場所です。「神は言われた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい』(創世記22:2)」。そしてアブラハムは主に従い、イサクをまさに生け贄として屠ろうとしたその時、神がその手を止められました。神はアブラハムが神に従うものであるかを試し、彼は従い、アブラハムは神の備えてくださっていたイサクとは別の生け贄を献げることができました。主の備えを、彼は知ったのです。
その山に、今神殿が建てられようとしています。思えば、すべての備えは神がしてくださいました。もちろんダビデが備え、人生をかけて準備者となり、ソロモン自身の知恵を尽くした捧げ物であったと思います。しかし、そのすべてが神ご自身の備えです。礼拝は、神ご自身が私たちのために備えてくださっていることを知る時なのです。

2019年7月27日土曜日

2019年7月26日(歴代誌下1〜2)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙2、歴代誌下1~2、箴言22

歴代誌下1~2;
今、この歴代誌と共に読んでいる箴言は、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言(箴言1:1)」と呼ばれ、ソロモンの名に帰されています。毎日こうして少しずつ読み進めてみると、その知恵の素晴らしさは時代を超えて現代にも生きるものだと思わされます。ソロモンがそのような知恵をどこから得たのか。それは神に与えられたものだ、と聖書は言います。「あなた方願ったのは、私の民を治めるための知恵と知識だった。あなたには知恵と知識が与えられる」(歴代誌下1:11~12)。そして、知恵を求めたソロモンが父から受け継いだ大事業が、神殿建築でした。つまり、ソロモンの知恵と神殿に象徴される礼拝とは、深く結びついている、ということではないでしょうか。
神殿を建てるために、ソロモンは人の助けを借りました。「彼はまた、ティルスの王フラムに人を遣わして言った。『あなたは父ダビデに、彼の住む王宮を建てるためにレバノン杉を送ってくださいましたが、私も、わが神、主の名のために神殿を建てようとしています。・・・私の家臣たちをあなたの家臣たちと共に働かせ、大量の木材を準備したいのです』」(2:2~3a、8)。彼がこうしてフラムの助けを借りようとしたのは、「天も、天の天も、主をお入れすることはできないのに、一体誰が主のために神殿を建てる力を持っているというのでしょうか。主のために神殿を建てるというこの私は、一体何者でしょうか。ただ主の前に香をたくためだけの者です」(5節)と言っているとおり、この大事業の前にどんなに自分が小さくて非力であるのかを、よくわきまえていたのです。だから、他者の助けを素直に借りることができました。
助けてください、手伝ってくださいということは、時に、とても難しいことです。しかし、私たちにはひとりではできないこともたくさんあります。神様に仕えることは、特にそうなのだろうと思います。ひとりで礼拝を完成させることはできないないし、ひとりですばらしい信仰者になることもできません。隣人の存在が、どうしても必要です。『助けて』と言える、それが教会なのです。

2019年7月26日金曜日

2019年7月26日(歴代誌上29)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙1、歴代誌上29、箴言21

歴代誌上29;
ダビデも、長たちも、神殿建築のために捧げ物をしました。「自ら進んで、神殿の奉仕のために金5千キカルと一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄10万キカルを寄贈した。宝石を持つ者は、それをゲルション人のエヒエルの手に託して主の神殿の宝物庫に寄贈した。こうして民は、自分たちが自ら進んで献げた物を喜んだ。彼らは一心に、自ら進んで主に献げたからである」(6~7節)。
先日の礼拝の時、ある方が献金の祈りの時に、「神様から頂いた物を、今お返しします」と祈っておられました。本当にそうだな、と思いました。私たちの捧げ物は、もともと神様から頂いた物です。「私たちの神よ、今こそ私たちはあなたに感謝し、誉れある御名をほめたたえます。取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは見てから受け取って、差し出したに過ぎません」(13~14節)。ですから、献金の祈りにあたったとき、これからは「この献金を清めてください」と祈ることは、もう止めましょう!神様から頂いた物は、もともと清いのです。あるいは、清くない物は献げてはならない。私たちは神様から頂いた物の中の最善の物、初穂を、神様にお返しします。神様から頂いた宝を、神様の手にお返しする。それが、献金ということなのです。
「こうしてダビデが全会衆に、『あなたがたの神、主をたたえよ』と言うと、全会衆は先祖の神、主をたたえ、ひざまずいて主と王を拝した」(30節)。私たちも、私たちを賛美にいざなうこの言葉に応えて、神様の前にひれ伏して、この新しい一日を始めたいと願います。

2019年7月25日木曜日

2019年7月25日(歴代誌上27〜28)

今日の通読箇所:マタイによる福音書25:31~46、歴代誌上27~28、箴言20

歴代誌上27~28;
神殿に仕えるレビ人を任命し、その次に、イスラエル全体の軍の編成をしました。彼らを、一年12ヶ月のそれぞれの月の担当として割り振り、12の組に分けました。各組に2万4千人ずつ配置されています。それはまるで、荒れ野を旅するかつての12部族の組み分けのようだと思います。あのときも、中央の幕屋に仕えるレビ人と、そのほかの12の部族がべつべつに配置され、旅を続けていきました。神殿が与えられてからも、同じように、神を中心に旅をする神の民として、歩んでいくことが求められていたのです。
ただ、このようなことも記録されています。「ダビデは20歳以下の者を数に入れなかったが、それは主がイスラエルを空の星のように数多くすると言われたからである。ツェルヤの子ヨアブが数え始めたが、終わらなかった。この時に神の怒りがイスラエルに臨んだためで、その数が『ダビデ王の年代誌』に載ることはなかった」(27:23~24)。これは、先の人口調査のことを指しているのだろうと思います。ここでは、数えられなかった根拠を、「主がイスラエルを空の星のように数多くすると言われたから」だとしています。
モーセに導かれたヘブライ人たちも、ダビデを王としたイスラエル人たちも、主イエスを救い主と信じる教会も、神様の民です。私たちは、神を中心として、この世界という荒れ野を旅します。神様を礼拝し、神様に仕え、天の故郷を目指して旅しています。私たちは、神様の約束だけを頼りに生きています。「主がイスラエルを空の星のように数多くすると言われた」。神を信じ、キリストを信じ、このお方と出会い、この方と共に生きていく。この祝福に与る者を、多くしてください。私たちはそう祈り、そしてそれは神様の御業、神様の領域のことですから、神様にお任せします。今日も、私たちはキリストと共なるこの世界の旅路を進んでいくのです。

箴言5:1~2「唇に慎みを」


「わが子よ、私の知恵に耳を傾け、私の英知に耳を傾けよ。そうすれば、あなたの唇に慎みを守り、知識を保つことができる。」唇の慎み!なんと難しいことだろう。最も多く罪を犯す体の器官は唇でないかとさえ思う。慎みない言葉をどんなに吐いてきたことであろうか。慎みを守るには、知恵の言葉に耳を傾けよと言っている。自分が弁えているつもりの知恵や世間の常識はしばしば過ちへの入り口になる。主を畏れる知恵に耳を傾けよう。

2019年7月24日水曜日

2019年7月24日(歴代誌上25〜26)

今日の通読箇所:マタイによる福音書25:1~30、歴代誌上25~26、箴言19

歴代誌上25~26;
やがて建築す神殿で仕えるレビ人達の役割として、次に、賛美のための働き手が任命されました。「ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを奉仕者のために選び分けた。彼らは琴、竪琴、シンバルを奏でて預言するものとなった(25:1)」。楽器を奏でて神を賛美する者たち。彼らは、楽器によって預言をする者でもあった、と言います。この「預言」が何を意味するのか、必ずしもよく分かりません。日曜日に読んでいるコリントの信徒への手紙の時代の「預言」とも、少し違うのかもしれません。しかし、やはり神殿での礼拝と結びついていたようですから、礼拝で語られる言葉という意味では、本質的にはあまり変わらないのかもしれない。おもしろいのは、賛美のための働き手たちが、楽器によって預言をした、という報告です。
旧約聖書に収められている詩編は、歴史の信仰者たちの祈り、いわば祈祷集です。日本の昔の和歌集が花鳥風月を歌い上げたものであることに比べると、その特徴ははっきりとしています。神殿で仕えるレビ人たちも、その賛美の時に、今では詩編に収められている賛美の歌、祈りの言葉を、楽器を奏でながら歌ったのではないでしょうか。
そして、そういう祈りの言葉が、「預言」と結びついていた。祈りは、同時に預言でもあった、ということかもしれません。確かに詩編を読むと、質したからの祈りであるだけではなく、同時に神様からのメッセージでもあります。預言とは私たちを神の前にひれ伏させ、礼拝へと導く言葉です。そうすると、詩編は預言そのものだと言って少しも差し支えないのではないでしょうか。
私たちも、神様の前での賛美に召されて、日曜日の礼拝に向かいます。私たちも神を賛美する詠唱者、礼拝に仕える民なのです。

2019年7月23日火曜日

2019年7月23日(歴代誌上23〜24)

今日の通読箇所:マタイによる福音書24:29~51、歴代誌上23~24、箴言18

歴代誌上23~24;
神殿建築者になることが適わなかったダビデは、神殿建築準備者に徹しました。人生の最期の時が近づき、彼は神殿に仕えて働く者たちを整えました。
「以上が親類毎のレビの一族、すなわち一人一人名を挙げて数えられ、登録された親族の頭で、主の神殿の奉仕の仕事をする二十歳以上の者であった(23:24)」と言われているとおり、主の神殿のために仕える者、礼拝のために仕える者たちを一人ひとり数え、その名を登録し、その職責を明確にする、ということを彼はしたのです。
それが例え古代イスラエルであっても現代の教会であっても、信仰共同体の宝は、人です。私たちの教会には、何かの宝物があってそれがご神体になる、というようなことはありません。私たちの宝は、人です。礼拝のために仕える「人」です。キリスト教会の礼拝、とくに私たちプロテスタント教会の礼拝は、礼拝者がいなければ成立しません。牧師がひとりで献げていても、それでは礼拝にならない。教会という信仰者の共同体が必要なのです。教会は祭司の群れです。礼拝を献げるために神に仕える、祭司の共同体なのです。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたが闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです(ペトロの手紙一2:9)」と、聖書に書かれています。私たちは、王の祭司です。王なるキリストの祭司です。このお方を礼拝し、この方の力ある顕現を、私たちが広くこの世界に証しするための。洗礼を受けると、教会員になります。教会員名簿に名前が載る。祭司の名簿です。洗礼は、私たちが神の祭司として登録され、神に仕えるものとなったことを示す、かけがえのないときなのです。

2019年7月22日月曜日

2019年7月22日(歴代誌上21〜22)

今日の通読箇所:マタイによる福音書24:1~28、歴代誌上21~22、箴言17

歴代誌上21~22;
ダビデの晩年に起きた大事件、人口調査。同じことがサムエル記下第24章にも書かれていました。しかし、決定的な違いがあります。サムエル記では、この人口調査の発端を「主はダビデを唆して民に向かわせ、『すぐにイスラエルとユダの人口を調べよ』と言われた」というかなり衝撃的な言葉で始めています。ところが歴代誌では「サタンがイスラエルに対して立ちはだかり、イスラエルの人口を調べるようにダビデを唆した」と言っている。どちらかと言えば、こちらの方が常識的です。しかしその意味は、単に分かりやすいと言うことではなく、この人口調査がサタンに唆されたダビデの罪だったとより明確に説明しているということではないかと思います。
この出来事のために、ダビデはオルナンの麦打ち場を買い取り、そこに祭壇を立てて生け贄を献げました。礼拝をすることで、神の怒りをなだめた。自分の罪に向き合うような機会であったと思います。
そして話は第22章に進み、ダビデは神殿建築の準備を始めます。「ダビデは言った。『これこそ神である主の神殿、これがイスラエルのために、焼き尽くすいけにえを献げる祭壇である』」(22:1)。そういって、その場所に神殿を建てるべく、ダビデは準備を始めたのでした。
ダビデ自身が神殿を建てようとは、もはやしませんでした。彼は戦士であり、その手は血で穢れており、主の神殿を建てるにはふさわしくない。そう神がお考えになったのだ、とダビデは言います(22:8~10)。そこで、彼は神殿建築者になるのではなく、神殿建築準備者になる。それに徹したのです。その原点は、ダビデにとっては、自分の罪であったと思います。人口調査は、神様のものであるこの民を、ダビデがあたかも自分の者であるかのように扱う、という意味での罪だったのだと思います。ダビデはオルナンの麦打ち場に来る度に、その罪を思い起こしたことでしょう。そして、それでもなお赦してくださる神を、何度も仰いだのではないでしょうか。ここに建てられていこうとする神殿、そこで献げられる礼拝の原点は、このことです。神が赦してくださった私の罪を、神の御前に悔い改める。私たちは、そのような礼拝に招かれています。

2019年7月21日日曜日

コリントの信徒への手紙一第14章20から25節「まことに、神はあなたがたの内に」

 「説教黙想アレテイア」という雑誌のために詩編第102編の黙想を書きました。1819節が私の心に残っています。「主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじませんでした。このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに創造される民は主を賛美するでしょう(聖書協会共同訳)」。私たちにも、祈りがあります。家族が病気になったり、理不尽な目に遭うこともあります。祈るより他ないこと、祈る信仰が失われかねないこともあるかもしれません。私たちにとって神様の御心はあまりに大きく、計り知れないので、私たちが知りうるのはごく一部のことです。だからこそ、私たちは祈る。祈ることのできる相手がいるというのは、それ自体が大きな福音です。だから、「新たに創造される民は主を賛美するでしょう」と言うのです。主は、賛美されるべき方だから。神様の恵みの御業と力を、祈りの内に経験するとき、私たちは神様の前に膝をかがめ、神を礼拝します。これこそ私たち人間の、最高のしあわせではないでしょうか。
 さがみ野教会の今年の主題の一つは「礼拝」そして来年は「伝道」です。礼拝と伝道はつながっています。礼拝こそ、最高の伝道の場であると信じています。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」皆が預言しているところに来た人は、ついには神さまを礼拝するようになるはずだと言います。そうなのだとしたら、その「皆が預言している」というのは、どういう事態を指しているのでしょうか。当時のコリント教会では、礼拝のときに何人かが預言をしたようです。しかしそれは無秩序に好き勝手していたのではなく、互いの預言に耳を傾けていた。預言は、そういう相手に届けるための言葉でした。今、私たちの教会では礼拝で語る役割は主に牧師に委ねています。しかしそれは「私は話す人、皆さんは聞く人」ということではありません。現代も変わることなく、教会は皆が預言をする預言者集団です。まず、牧師がする説教は、聖書を読んだ個人的感想ではありません。教会の信仰に基づいて言葉を紡ぎます。個人の言葉ではなく、教会の言葉です。しかしそれだけではない。教会は、語られた言葉に「。」を付けます。句点です。「新たに創造される民は主を賛美するでしょう“。”」大胆に神を信じて、福音を宣言する言葉に結びをもたらす。句点を付けるのです。「しかし、私たちは弱いので賛美できない気分の時もあって…」と言い訳をするために文章を続けることを許さない。「まことに、神はあなたがたの内におられます」、アーメン、“。”です。
 そうやって共に預言をする教会に、信者出ない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言って、神をあがめるようになる。大胆に神を信じる信仰は、他の人が神と出会う助けとなります。共に預言する集団が、神と人との出会いの場として用いられる。神と出会う時、罪の告白が生まれます。それは、そこで出会うお方が、私たちのために十字架にかけられた方だからです。このお方と出会うための預言者として、私たちは召されています。

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を...